1.31.2025

[film] Presence (2024)

1月28日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。

Steven Soderberghの新作、脚本をDavid Koeppが書いていて、昨年のSundanceでプレミアされた。
びゅうびゅう吹いてくるだけの予告がなかなか怖そうで、幽霊ホラーぽかったが、実際にはそんなに、ぜんぜん怖くなかったかも。85分。

冒頭、どこか(NJらしい)の古い、木造の大きめの家のなかの描写 – がらんとしていて引っ越された後なのか引っ越してくる前なのか、やがてそこに不動産屋と思われる女性が入ってきて、その後に物件を見に来たと思われる家族がやってきて、部屋や備え付けの家具 – 大きな楕円の鏡がある – を見て、夫と妻はローンのことなどで少し議論するが、次のシーンでその家族はそこに越してきて暮らしている。

カメラは家のなかをスムーズに動きまわり、窓辺に立って外を眺めたりするものの、家の外に出ることはない。その動き – 立ち止まるところ、その高さ、視点 - 目がとまるところ - などが一貫していることから、これはこの家にずっといる何か、誰かひとり、何かひとつの目線なのだな、というのがわかって、更にはタイトルとか既に知っている情報から、ふつうにずっとこの家にいる幽霊のそれだ、というのは簡単に導きだせる。

家族は力強いRebecca (Lucy Liu)と優しく受けとめるChris (Chris Sullivan)の夫婦と、水泳をやっていて学校の人気者らしいTyler (Eddy Maday)とちょっと不安定にみえるChloe (Callina Liang)の子供たちの4人で、RebeccaはTylerを溺愛していて、ChrisはChloeのことを気にかけている。 特に異様なところがある、そういうのが出たり取り憑いたりする - とは思えないごくふつーの人たちのようで、やがてカメラ(それ)は自分の部屋にいるChloeのことをよく見ていることがわかってくる。

そのうちChloeの部屋で、ベッドの上に置いておいたものがシャワーから出たら片付けられていたり、ものが突然ぜんぶ落ちたり、といったことが頻発して、Chrisの伝手で幽霊が見えるらしい女性に来てもらったりするのだが、彼女は家に入るなり... で、家族もこの家にはなんかがいてやばいかも、ということを意識するようになる。

でもTylerの同級生で下心ぷんぷんの不良のRyan (West Mulholland)が家に来た時、Chloeの飲み物に薬を入れたのを「それ」が妨害するシーンがあって、住人に悪さをする幽霊のようではなく、どちらかというと見守り系、そこにいるだけの奴なのかも、とか。

やがて週末に泊まりで父母が出て行ってしまうと、兄妹のところに好き勝手やったれ、って悪いRyanが泊まりにやってきて…

そこによくわからない何かが写っている、とか、なにかがいる/いた気配がある、ってそれだけで十分怖いものにすることができると思うのだが、あんまり怖いかんじがしないのは何故なのだろうか? あまり怖がらない、っていうのもあるけど、無理に怖がらせようとしていない、悪意殺意があるわけでもないし、ただそこにいる - Presenceだけ、その透明なありようを示して、それだけ。それでよいのかもね… ってなったところであの終わりが来たので少しびっくりしたり。

ただいるだけ系の幽霊話だとDavid Loweryの“A Ghost Story” (2017)を思いだしたけど、あの、変に切なく迫ってくるものもないし。

これ、Lucy Liuを真ん中にした方がおもしろいものになったのではないか? とか。

これ、おなじ予算(2百万ドル)を黒沢清に渡して同じ設定でなんかやらせたら、簡単にこれの百倍怖いのができると思うけどなー(ってみんな思う)。


R.I.P. Marianne Faithfull..  “Faithfull: An Autobiography” (1994)が出た時、まだ57thにあったRizzoli Bookstoreでサイン会があって、サインしてもらった。すごく柔らかくて素敵な人だった。ありがとうございました。

1.30.2025

[film] Cloud クラウド (2024)

1月26日、日曜日の、羽田からロンドンに戻る便の機内で見ました。

これ、日本に向かう便でも当然やっていたのだが、日本に向かう時にこんなのを見てしまうとあまりに不穏で不吉なことが起こりそうな気がして怖くて、なので戻りの便にした。戻りの方にすると、あの雲から抜けてよかったわ - さよならにっぽんー、っていうかんじになる。

監督&脚本は黒沢清。 もう、これだよね、しかないかんじ、懐かしいのとも少し違って、この爛れて錆びて腐れていく強い酸のような揺るぎなさ、どうにもたまらない。

冒頭、吉井(菅田将暉)が町工場に入っていってなにかの機具を安値で束で買い叩いて家に帰るとそれを撮影してネットにあげて、PC上のそれら商品がぜんぶ売り切れになっていくのを眺める。彼は「ラーテル」のハンドルネームで転売屋をしていて、この商売がおもしろくなってきたので数年間勤めていた工場を辞めてこれ一本でやっていこうとする。彼の上司で彼の昇格を考えていた滝本(荒川良々)は引き留めるが、吉井の意志は固い、というかそっちの仕事には興味を持てない。

郊外の一軒家に恋人の秋子(古川琴音)と移り住んで、バイトとして雇った佐野(奥平大兼)も加えて専業の転売屋を始めるのだが、思っていたように売れなかったり、不審者ぽい影や荒らしが出てきたりよくない空気になってきて…  ここまででよいか。

あまりカタギの商売とは思えない転売屋だが、日常にはふつうにあるし、誰もすごく悪い何かとは思っていないし、そういう土壌の上で、昔だと「一線を越える」のような表現で言われていた向こう側に行ってしまう行為や様相が、雲 – クラウドに覆われるようにじわじわと、気がつけばあらら、の状態として描かれていく。線から面への変容。

後半は転売屋「ラーテル」をやっちまえ、の声のもとに集まってきたどう見ても怪しい、けどふつうのようにも見える連中がわらわらと、これも雲のように湧いてきて、廃れた工場のような場所(絶妙)でがしゃがしゃした殺し合いが始まってしまう。各自が最初は殺っちゃった(どうしよ…)だったのがなんの躊躇いもなくぶっぱなすようになっていく過程が雪だったり雨だったり安定しない不気味な光のなかで描かれる。ノワールのがまだわかりやすい、だんだらのくすんだ模様と空気のなかでの、殺されないために殺す、自分の命を転売する、決断の重さとは反対側のぶっきらぼうで投げやりな軽さもあって、これもまたクラウドの?

登場人物たちの顔も全員一様につるっとプレーンで、なにかに憑りつかれたような声や威力を、その黒さ悪さを誇示強調する画面の動きや発声はない。やっていることはやくざ映画やギャング映画のそれと大して変わらないのだが。

これらはどれも、黒沢清の映画に特徴的な、(綿密に計算したうえでの)画面に写りこんでしまった何か、のような輝度と濃度、そのはみ出した影たちと共に語られていくので、ああこれだわ、と思いつつも凝視せざるを得なくて、凝視していると祟られたり後ろからばっさりされたり。

そしてこれはまたものすごく的確な、今のにっぽんの、富裕層ではない側の人々の働きながらおかしくなっていく姿を描いた映画にもなっていると思った。富裕層が腐って禄でもないのは当然として。


Space Cadet (2024)


↑と同じ機内で、にっぽんの暗い映画を見てしまったので、反対にアメリカの明るいのでも見てみようか、と。

フロリダで日々明るくパーティ暮らしをしているRex (Emma Roberts)は、幼い頃は優秀でいろんな発明したり、Georgia Techにも合格していたのだが母の病気~死で進学は諦めて、そこからは日々てきとーに遊び暮らしていたのだが、NASAの訓練生募集の広告をみた友達が、宇宙飛行士、夢だったじゃん! て偽の経歴で応募したらパスしちゃって、持ち前の度胸と軽さで他の候補生を蹴落としていくのだが、やっぱりあと少しのとこでバレて追いだされ、でも宇宙に行ったかつてのライバルのいる宇宙ステーションが何かの衝突で機能不全になって、このままでは全員窒息死という危機にRexは…

実話ベース… のわけがない、相当にめちゃくちゃで、いいかげんにしなはれ、の展開なのだが、その適当さ加減はとても21世紀の映画とは思えないのだった(半分ほめてる)。

[log] Tokyo Jan.13-26

今回の滞在は約2週間だったのだが、真ん中の土日が病院だったので美術館も映画館もあったりまえに行けず、その他の日々、病院に行っていない時はふつうに会社で仕事をしていたし、ロンドンのオフィスが開く日本の夕方18時頃はあっち側とリモートでの打合せがあったりしたので動けなくて、夕方のだるくてとっとと帰りたくてたまらない頃にロンドン側は朝なのでみんな元気いっぱいで、そのやり取りの後で映画に向かう気にもなれず、体調に対する意識(たんに気持ちの問題)もあったのだと思うが、ほぼなんとなくもういいやー この次で、になってしまうのだった。 以下、見たもの感じたことなどの備忘。

『現れる場 消滅する像』 @ ICC

音のインスタレーションの方は割と普通だったけど、予約して入った無響室がおもしろかった。音が聞こえる、というのは反射してくるその響きを聞くことであって、間に響きの媒介がなくなると音は直接おのれの頭蓋骨を叩きにくるのだな、と。頭の上というか裏というか、その辺でぽかぽこ鳴ってくるのですごく変なかんじで、確かにひとによっては気持ち悪い、ってなるかも。
ここでふつうのロック - NINとか聴いたらどんなかんじになるのかしら? とか。


鳥展 @ 国立科学博物館

24日、金曜日の昼、検査と検査の間に3時間の空きができて、映画でも.. と思ったもののうまくはまるのがなさそうで、東京現代美術館の坂本龍一のは、次に来たときもやっているようだったのでパスして、上野に行けばきっとなにか、と思った.. 程度で。

途中で西洋美術館のモネの行列を見てげーっとなってこっちにした。鳥は見るのも遊ぶのも食べるのも好き。ちょうどこないだまでロンドンの自然史博物館でも鳥展やってて - “Birds: Brilliant and Bizarre” - でももう終わってしまった。サブタイトルにゲノム解析云々、とあったものの、飛べない状態で大量に並べられたり転がったりしている剥製たちを見ると、ゲノムだの系統だの、そんなのなんになるのだろう、くらいにはなる、くらいに鳥が群れて並んでいるのはざわざわくる。飛ばしてあげたい。


オーガスタス・ジョンとその時代—松方コレクションから見た近代イギリス美術 @ 国立西洋美術館 

モネ展はどうでもよかったのだが、常設展示のなかの小企画でやっていたこれは見たかった。こっち(常設展)のチケットなら4秒で買える。
SargentやSickertといった有名どころからChristopher Richard Wynne Nevinsonの「波」とか、おもしろい。

一点、Laura Knightの油彩があって、海岸の海辺で立っている女性の絵、Tate Britainの企画展 - ”Now You See Us: Women Artists in Britain 1520-1920”にあったのやつの連作だろうか、とか。 近代イギリス美術って、いろんな流派とかSchoolがあって、ほんとおもしろいのよ。

どうでもよいけど、わかんないけど、モネを好きな人って、アートに政治を持ちこみたくない系の人たちが多い気がする。


須田悦弘 @ 渋谷区立松濤美術館

帰国前日の25日土曜日の昼に見た。ちっちゃくてどれも素敵だったが、展示はここよりも駒場の日本民藝館とかのがよかったかも。
そんなふうに展示会場を選んでしまう作品たちだったかも。

Has Anybody Seen My Gal (1952) @ シネマヴェーラ

もし日本にずっといたのだったら、この特集と京橋のメキシコ映画特集はずっと入り浸りだったはず。新作だったら”Dicks: The Musical”と『オークション..』のと清原惟監督特集は見たかったのだがぜんぜん時間が。

せめてシネマヴェーラのあの空気に触れたくて、空いた時間に1本だけ。『僕の彼女はどこ?』
Douglas Sirkはこんな軽いコメディも作っていたのねえ、だった。
Rock Hudsonとかも出てくるけど、メインは富豪役のCharles Coburnで、どたばたおとぎ話みたいなやつだったがところどころでなんなのこのカメラの変な動き? みたいのが。


今回、レコード屋は行かなくて、新宿の紀伊国屋書店に2回くらい行っただけだった。

ロメールの鈍器本と、ジョン・バージャーの美術史2冊と、あと『図書館を建てる、図書館で暮らす―本のための家づくり―』。
日本で本を買ってもそのまま置いて(積んで)くるだけなのだが、これだけはこっちに持ってきて少しづつ読んでいる。

本はふつうに溜まる、でも片付けたり「処分」することなんてありえない、それらは等しく手に取れるところで並んでいてほしい(それが本というもの)、というベース、基本中の基本、に立ったときに、どんな現実解・選択肢がありうるのか、を正攻法で詰めてひとつひとつ実現していく過程は、いいなーしかない。

うちはレコードもあるしな、なによりそんなに先がないしなー、とか。

1.27.2025

[film] The Wild Robot (2024)

1月12日、日曜日の夕方、羽田に向かって発ったJALの機内で見たのを2本。

それにしても機内映画って、昔と比べると本当につまんなくなった、というか見るものがなくなってしまった。
昔は日本でリリースされていない映画を見る割とよい機会だったのに、もう殆ど見てしまったやつか、どうでもよさそうなC級のばかりで、見ても時間のムダっぽいけど他に見るものもないし... って悩むことになる。いまは機内で仕事をする人も増えたし、自分のPCやタブレットに入れている人もいるし、TVのドラマシリーズとかバラエティとか視聴の選択肢も増えたし、ということなのだろう。 これは日系の航空会社に限ったことでもなくて、BAなどに乗っても同様だし。


Jackpot! (2024)

監督がPaul Feigなので見た、けどAmazon Prime Videoで配信リリースのみっぽい。

2030年、財政逼迫で首が回らなくなったカリフォルニア州は、宝くじ収入頼りになって、より多くのお金を集めるために、賞金当選者を当選者発表日の日没までに殺したら、それをやった人がその賞金を丸ごと手に入れることができる、ただし銃の使用は不可 - という追加ルールを設定。これにより当選者は逃げ回り、一般市民が当選者を追い回し、という図が冒頭、逃げ回るSeann William Scott – 最後におばちゃんにやられる - を使って描かれる。

ショービジネス界での成功を夢見てカリフォルニアにやってきた元子役のKatie (Awkwafina)が自分では望んでいないのに36億ドルのJackpotに当たってしまい、見ず知らずの大量の市民から追い回されることになってあわあわしていると、Noel (John Cena)が現れて、日没まで彼女のボディガードをやるので生き延びることができたら成功報酬として賞金の10%を、ていうのをオファーしてきて、しょうがないので彼と契約して一緒に逃げることにする。

警察まで殺しにやってくるし、Noelがかつて所属していたエージェント会社のトップ(Simu Liu)とかいろいろ絡んでくるし、KatieとNoelは生き延びることができるのか、と。

昔(70~80年代)の荒唐無稽なお笑いB級アクションを思い起こさせるし、たぶんその辺を狙ったのだろうけど、もうちょっとちゃんと作ればー になった。アクションとかあまりに雑で適当で、笑えるところもないし、やる気がなさすぎるように見えた。


The Wild Robot (2024)

日本でももうじき『野生の島のロズ』のタイトルで公開される?”How to Train Your Dragon” (2010)のChris Sandersによるアニメーション。

この作品、LFFでも少し話題になっていたのだが、あんま見る気になれなかった。だってこういうでっかいロボットものって、最後はぜったい飼い主のために自分を犠牲にして決着つけようとしない? 見るからにそういう顔をしたロボットだし。

嵐でどこかの島に打ちあげられて動かなくなっていたロボットのRozzum Unit 7134 – Roz (Lupita Nyong'o) が立ちあがって、自分に割り当てられたタスクを実行すべく周囲にご用件を聞いてまわるのだが、そこにいるのは野生動物ばかりで、でもタスク実行ロボットで、タスクを実行して相手に満足してもらうことが至上命題である彼女(でいいの? 女性キャラなのがちょっと嫌なんだけど)にとって森の動物たちはタスクを与えてくれるお客様なので、ひとつひとつ彼らの問題や悩みを解決して共生していくうちによい関係ができてくるのだが、ものすごいストームがやってきて…

互いに解りえない、敵対関係だったりもする言葉の通じない相手とどうしたら解りあっていくことができるのか、というのは”How to Train Your Dragon”でもテーマだったと思うのだが、この映画のRozにとっては理解=タスクの実行→完了だし、でも言葉の異なる種の間で競合しうるタスクの落とし前(そこを「愛」でごまかすな)とか、機械学習などでどうにかできそうな域を越えていたりしない? 漫画だからよいの?とかいろいろ思った。

このお話しの教訓て、なんになるのだろう? どんな依頼でもとにかく引き受けてマルチタスク管理ができるようになりなさい、ではないだろうし、ロボットはうまく接してきちんと使ってあげることが肝心、も違うし、ビーバーみたいに人からバカにされても愚直にひとつのことをやり続けるのです、かなあ?

これからの(今の)ロボットって壊れない、壊れても自動修復されるしIDもデータも復元できるし、常に復旧・代替可能で「万能」であることが前提、となったときに、そこからどんなドラマを作ることができるのかしら? って。ストーリーのなかに置いてもかえってつまんなくなる気がした。 あと、ロボットにとって野生とは、ノラであることの意味とは? とか。

など、考えるネタあれこれを提供してくれるのだったが、お話としてはきれいに纏まり過ぎてかえってすっきりしないかんじが。


関係ないけど、機材のA-350のビジネスってぜんぶキューブ型の個室で仕切られてて、遠くからみると「畜舎」ってかんじがとってもするの。

1.26.2025

[film] Babygirl (2024)

1月12日、日曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。

日本に発った日で、夕方の出発まで少し時間があったので。
冒頭から喘ぐNicole Kidmanで、終わりもそうで、設定も含めて全体としてはNicoleさまフロントのゴージャスな調教ポルノ、みたいなかんじ。

監督・脚本は女優でもあり小説も書いているオランダのHalina Reijn。

Romy Mathis (Nicole Kidman)は革新的なロボティクス倉庫会社のCEO & Founderで、マンハッタンにかっこいいアパート(1245 Broadwayって出る。もうちょっとよい場所にしても.. )と郊外にプール付きの別荘を持ち、舞台演出家の夫Jacob (Antonio Banderas)と2人の娘に囲まれて幸せそうに見えるのだが、冒頭のセックスで喘いだ(相手はJacob)すぐ後に別部屋でノートPCを開いて自慰をしていて、要は満足していないらしい。

ある日Romyが会社に向かう途中、路上で暴れてあわや、になった犬を一瞬でおとなしくさせてしまった青年にでくわし、その彼 - Samuel (Harris Dickinson)は彼女の会社にインターンとしてやってきて、彼女が彼のことを意識しているのをわかっているかのようにメンターに指名して、強引に彼女とふたりきりになる時間を作ろうとする。 でも彼女は忙しいし一番偉いんだから、ってつーんとすればするほど、敵の穴にはまって and/or 自ら落ちてやめられなくなっていくのだった。

それと並行してJacobとの関係とか家族との関わりは薄く、というかこれまでと違うものになってきたことが家族の側から指摘され、でもSamuelに”Babygirl”- よいこよいこ - って調教されて別世界へと連れていかれてしまったRomyには戻ってくることが難しく…

こういうドラマの場合、嵌った穴から抜けようとするRomy、自分の穴に引き摺りこもうとするSamuelの間でなんらかのアクションが取られて、それが失敗して惨事を引き起こすか、うまくいってリセットされるか、場合によっては全てがちゃらになってしまうか、だと思うのだが、この辺が、え? こんなもん? ていうくらい弱いかも。ストレスからドラッグに嵌ったけどなんとか更生しました、程度でよいのか?

これは女性ドラマでもあるので、女性の目からすればこれはこれでとても重い決断がなされたのだ、と言えるのかもしれないけど、やっぱりストーリーとして、そこなの? それでよいの? はあるような。Jacobの演出している舞台『ヘッダ・ガブラー』や娘の名前 - Nora (人形の家)から読み解け、はちょっと難しいかも。

あとは最後の方でおろおろ泣きだしてしまうAntonio Banderas。俺だって昔は狂犬のよう… って呼ばれた季節もあったんだ、ってSamuelを縛りあげてその口に機関銃を… にはならなかったねえ。昔は泣く子も黙るだったのに、いまはPaddingtonにすら勝てない(そういえばNicoleもあの熊には負けてたな…)。

せっかく彼女はロボット倉庫会社のトップにいるのだから、Samuelを始末してアクセス不可のブロックに隠して鍵かけちゃえばよかったのに、とか。

でもとにかく、いろんな点で - 特に自ら誘って堕ちるような役をやらせた時には - Nicole改めて最強、であることを知らしめた映画、ではあるかも。

あと、「川崎」は「東京」じゃないからね。


戻ってきましたー。さむいー

1.25.2025

[log] January 26 2025

今回の日本滞在は何度も書いたり叫んだりしたようにぜんぜん楽しくないものになったのだが、生まれて初めて入院(一泊だけど)したり、全身麻酔をしたり(されたり、か)、いろいろあったので備忘として書いておきたい。不愉快に感じられる方もいると思うので、申し訳ありませんがそうなったら読まないで。

これが「手術」と呼ばれるようなものなのか、「検査入院」と言われたのでただの「検査」なのかも知れず、もし「手術」なのだとしたらそれも生まれて初めて、になる。 そんなのそれがどうした、ではあるが。

土曜日の午前に病院に行って手続きをして、連帯保証人について確認されたのでそんな人おりません、と言ったら替わりにごっそり保証金を取られる - 後で引かれて返ってきたけど。

入院する部屋に連れていかれてしばらく放置され、部屋にひとりにされるのは喜ばしいことのはずなのに、病室にこうして放っておかれると、みんな忙しいんだろうな、とか、手続きに誤りがあったのでは、と不安でそわそわしてくる不思議。 刑務所でもこんなかんじになるのかしら?

そのうち手術の準備をします - 「手術」って言った! 手術なんだわ…. と着替えさせられ、点滴(これは何度かやったことある)の管に繋ぐべく、結構長めの針をぶっ刺そうと右左の腕をとんとん始めるのだが、よい場所が見つからないらしく看護の方がもうひとり来て、左の手首の近くに刺してみたもののなんかはずれた、とかで引っこぬかれて改めてその近くに刺し直される。割と泣きたくなる痛さだったがこんな入り口の手前で泣いてはいけない。

予定していた時間から1時間くらい早まりましたので行きましょう、と言われ、こころのじゅんびが.. なんて恥ずかしくて言えない状態でベッドごとがらがら運びだされ、いろんな計器類で沸きたっている部屋に入れられて、ああきっとこのままなんか改造されちゃうんだわ、って10分後に計器ケーブルをずたずたに破壊しつくす絵とか… 浮かぶわけない。

さて、実はこれまで失神というのも経験したことがなくて、他からの力によって意識を落とされる、というのがどんなものなのかを知る、よい機会だとは思っていて、でも口に軽めのカップみたいのを被せられ、はい始めまーす、と言われ頭のなかで、1. 2. 3. 4. 5.. くらいまでカウントしたあたりで、視覚でいうと右左上くらいから立ちのぼって下りてくる何かを感じる、と思ったら落ちた。落ちた、ということすら思い起こせず。

次に気づいたのは「終わりましたよー 起きてくださーい」という声で、目覚めのぼけぼけとは明らかに違うケミカルな靄が目の前に広がっていて、この状態で病室まで運ばれたのだが、去り際の手術室の揺れとか流れていく天井のうねりとか、ああこれが医療ドラマとかでよく見るあの映像なんだわ、って。

部屋に戻り、魚市場の魚としてひと通りのチェックを施されて、問題なさそうですがどうでしょう? と問われたので痛いです、と本当に痛かったので訴えると、じゃあ痛み止めしておきましょうかね、ってホコリを払うみたいに坐薬をぽんっ!て突っ込むとさーっといなくなられて、こっちも眠りに落ちた。

そうやって起きたら晩ご飯の時間で、なんだか普通にハッシュドビーフなどを食べることができてしまい、夜中はいろいろあったものの、朝ご飯も - 普段は食べれないのに - フルの洋食ブレックファーストなどを食べることができて、血圧だのなんだのも正常で、午前中にあっさり退院できて、そんなの病院からすれば当たり前なのかもしれないが、組織をちょきちょき切り取られて血も結構でてしんどかったのにこんなふつうに歩いて活動できるものなのか、って残念に(思うな)。

そんなしょうもない感想よか、そもそも総合病院というのはそういうものなのだろうが、ものすごい数のスタッフや機械が24時間ずっとフルで稼働してて、それらのリソースをすべての人が生き延びられるように、って使って、使えるように配備していて、その歴史と世界規模の蓄積でここまでのものができあがったのだ、というスケールを少しでも実感してしまうと、ガザでの病院への爆撃がどれだけ酷いことであったか、とか、高齢者は自らお引取りをなんて、そんな考えがどうしてありうるのだろうか、とか。

少なくとも、病院と学校は効率化を追求してどうにかなる領域ではないよねえ、とか少し考える。全方位からのケアって、指標などで定量化して比較評価できる部分なんてほんの一部なのだ、って改めて実感した。健康であるに越したことはないのだろうが、こういう議論ができる土壌 - 哲学と想像力、広義の人文学を養える場が、恣意的・政治的にであろうが - 奪われている。それは本当に恐ろしいこと。

検査の結果は見込みどおりのバツで、3月にまた戻ってくること - こんどは正真正銘の手術だよ - になってしまったのだった。 あーあー。

1.24.2025

[film] Se7en (1995)

1月11日、土曜日の晩、BFI IMAXで見ました。"Seven"

公開30周年を記念しての1回きりの上映で、売り切れてはいなかったが席は前から2列目で、見あげるかたちになってしまったが思っていたほど悪くなかったかも。

監督はDavid Fincher、少し後の“Fight Club” (1999)と並んで、90年代の暗く荒んだ、擦り切れた空気感を代表する「名画」「古典」、のように紹介されることも、現在活躍するいろんな「クリエイター」が影響を受けた映画としてあげることも多いみたいだが、自分はなんとこれまで見たことがなかった。

だって、95年頃なんて、音楽のが断然ものすごくおもしろかったので、映画行くならライブ行くわ、だったから。
上映前、客席に向かってこれまで見たことない人~?って手をあげさせたら半分くらいから手があがったので、見てない若い子も増えているんだろうな、って。

オープニングのタイトルバックが、90年代の雑誌 – Ray Gunとか - のエディトリアルのルックス(というか、こっちが影響与えたほう?)でなんだかとっても懐かしいったら。

ストーリーはいいよね。ずっと雨が降っててくすんでて滅入るNY - のように見えるが明示はされないどこかの都市 - で、Seven Deadly Sin - 七つの大罪をテーマにしていると思われる死体ぐさぐさ、肉塊陳列系の惨殺事件が月曜日から順番に起こっていく。担当するのはもう定年を前にしたSomerset (Morgan Freeman)と若くて漲っているMills (Brad Pitt)のお互い気にくわないし合わないし合わせようとしないふたりで、これは七つの大罪起因だ、って推理して絞り込んでいくのは読書家っぽいSomersetで、その反対側で当然姿を見せようとしない犯人John Doeも相当に暗くて闇が深そうだねえ、って。

ただの犯罪推理サスペンスで終わるのではなく、どちらかというとどれだけ日を重ねても働いても働いても先が見えない雨ばっかりに降られる刑事たちのどんよりと重い日々、殺されていく人々の死体になる前からそうと推測されるなんとも.. としか言いようのない様相と、そんな中でのああいう殺人(のやり口)を晒して狙って挑戦・挑発してくる犯人と、部屋にも扉にも、すべてに横たわってこびりついて離れない閉塞感、疲弊感、怨念のようなの、ってなんなのだろう?から、なんかどうもそういうもんかも… に変わっていって、その状態であの結末がくる。最後まで終着点としての罪がべったりと横たわって床にこびりついて、ヒトの善なんてありえない、勝てる余地のない世界が大きく広がって、最後にヘミングウェイの引用があったりするけど、それにしても..

そしてこれははっきりと当時の時代の空気のようなものとして、あった気がして、それを現場の塵やノイズ込みで映像に落とした。地獄はすぐそこ、ではなく、いまの、ここの、これが、あなたが、地獄なのだという目覚めとかお手あげとか。

Trent Reznor絡みで引き合いにだすわけではないが、David Lynch (RIP) のほうが、悲惨を彼岸のほうにあえて置いてみようとするかんじがあった。というか彼岸には狂って箍の外れたすべてを用意できるので地獄だって天国になるし紙一重だよ - あとは渡るか留まるか - という描き方をするのがLynchで、Fincherはどこまでもこの現世に留まって、その痛み鈍痛ひと揃えを解剖台の上に並べてみせる。

どっちがどう、って比べられるものではないが、80年代に出てきたLynch、90年代に出てきたFincher、って置いてみるとなんか分かりやすいかも。


結局時差ボケが半端に解消しない状態のまま、滞在24時間を切ろうとしている。映画ぜんぜん見れなかったよう。

1.21.2025

[theatre] Natasha, Pierre and the Great Comet of 1812

1月11日、土曜日のマチネ、Donmar Warehouseで見ました。
ここのいつものように売り切れていて、開始の3時間前くらいにどうにか当日の1枚が取れた。

トルストイの『戦争と平和』をモチーフにしたDave Malloyによるミュージカルで、すべてノンストップの音楽で綴られていく - Act Iで13曲、Act IIで14曲。 初演は2012年、NYのOff-Broadway、2016年のBroadway公演を経て、Londonにやってきた(日本でも2019年に上演されている) 。London公演の演出はTimothy Sheader。

Donmar Warehouseは広い会場ではないので客席が三方を囲む形、基本はパーティ会場仕様で、バンドが上段と、登場人物たちと同じ高さの壁際にも数名いる。上部にプラスティックなミラーで輝くイタリック大文字の”M-SCOW”があり、”O”は? というとでっかい電飾がついた可動式の楕円が円盤のように上から吊り下がって昇ったり降りたりする – ひょっとしてこいつがCometだったりもする? 登場人物たちは四方 - 客席の裏とかからばたばた登場したり去ったり、その出入りの振動がもたらす臨場感はちょっと戦争ぽくてよかったかも。

トルストイの『戦争と平和』を読んだのなんて大昔すぎてもう憶えてないわ - でもプログラムには人物相関図が描いてあるし、最初の1曲で歌いながら全員が全員の人物紹介をしてくれる - ここが楽しくてすばらしいのだが、楽しすぎてあまり残らなかったり。タイトルにある1812年だと原作本の第三巻から四巻めまでの、ナポレオンがロシアに侵攻してロシアがモスクワを放棄した後、ナポレオン軍もモスクワからの退却を決めて敗走して、そんな波にもまれて廃墟まみれの荒れたモスクワと、そこで散り散りになった恋人たちが引き裂かれたり諦めたり絶望したり、それら1812年のハレー彗星が予告した世界の終わりに人々の愛と思いはどんなふうに瞬き、流され、そこに留まろうとしたのか、等。

未見だけどモスフィルムが制作した映画版(1965-67)-全四部からなる大作と描かれた時代と人物は割と重なっているようなのだが、参考にしていたり関連していたりするのだろうか?

タイトルには二人の登場人物の名前があるが、全体としてはアンサンブルで、中心にいるのはぱりっとしたNatasha (Chumisa Dornford-May)と仲良しのSonya (Maimuna Memon)など女性たち - ファッションも含めてとてもかっこよい彼女たちの力強さと比べると男たち - Andrey (Eugene McCoy), Anatole (Jamie Muscato), Pierre (Declan Bennett)等 - はどいつもこいつも戦争で疲弊してぼろぼろで、大仰に嘆いては倒れたり死んだり、みんな暗い顔でだいじょうぶかよ? - だいじょうぶじゃない - くらいなのだが、こんな男たちの勝手な思いだの欲望だのに引きまわされて世界の果てだか終わりだかに向き合わされてしまう彼女たちがなんだか不憫なのと、それでも断固として続いていってしまう狭いんだか広いんだかの廃れた世界のありようはかつてどこかで見たような知っているような。

このお話、このエモ具合なら、どちらかというと『アンナ・カレーニナ』のほうが相応しいのではないか、って少し思ったりもしたが、やはり「戦争」を描きたかった、ということなのかしら。いまもすぐそこにある戦争の悲惨に繋げることも含めて。

音楽はエモ+スラブ民謡ぽいつんのめった旋律+(なんとなく)90年代ダンステリア風の躁状態を行ったり来たりしつつ、とにかくだれることなく、物語を運んでいってくれて楽しくて、ミュージカルだなあ、って思った。筋や人物を追わなくても楽しめたかも。


日本に来て時差ボケがようやく消えてきたと思った頃に検査入院がきて、寝たり寝させられたりで元に戻ってしまったような。常にどこでもひたすら眠い…

1.19.2025

[film] Il gattopardo (1963)

1月10日、金曜日の晩、BFI SouthbankのLuchino Visconti特集で見ました。

英語題は”The Leopard”、邦題は『山猫』。原作はGiuseppe Tomasi di Lampedusaによる同名小説(1958)。上映前にAdrian Wootton - Chief Executive, Film London and British Film Commission - 大御所っぽい - からプレゼンテーション込みのイントロがあった。

アメリカのFoxが刈り込んで公開した最悪版を含めていろんなバージョンのが存在するが、今回のは2010年にカンヌでお披露目された4Kリストア版 - 186分 - 分のデジタル上映。自分が初めて見たのは2003年くらいのNY- Film Forumだったような。

BFIでの上映は2005年のViscontiレトロスペクティヴ以来だそうで、イントロではその際にトークでやってきたClaudia Cardinaleのお話しするシーンなども投影された。 ぜんぶ本物に、本物であることに拘って湯水のように時間とお金をかけて構築した世界があり、それはViscontiが本物の貴族だったからできたことだった、云々。

19世紀半ばのシチリアの貴族、Don Fabrizio Corbera (Burt Lancaster)のお屋敷の様子から始まる。邸内の厳かな雰囲気に対して、外からは喧しくいろんな音が聞こえてきて不穏で、全体としては貴族のお屋敷環境とは言えないようなきな臭さたっぷりで、やがてイタリア統一戦争になり、Fabrizioの甥で軽そうなTancredi (Alain Delon)は赤服のガリバルディの軍に参戦して調子よくやり合い、ついでに新興勢力の俗物Sedara (Paolo Stoppa)の娘Angelica (Claudia Cardinale)の美貌にやられて、叔父に彼女との結婚を認めてほしいと。

もう貴族の時代ではなくなった - 騒がしく浅ましく野蛮なものばかりがもてはやされ、それだけではなく自分たちの領土に軽々しく侵入してきて恥を知らない - どいつもこいつも! というFabrizioからすればすべてが忌々しい、新旧がせめぎ合い、一方が他方に侵食されて腐っていく事態・状態の連続を少し離れて俯瞰する目で捉えていく。ほぼそれだけなのに画面から目を離すことができないのは、あらゆるエピソードや人物や家具調度まで、あらゆる描写が極めて具体的かつ優れて正確だったから - Viscontiと彼のチームがやったから - としか言いようがない。

これが戦争だったら、もっと白黒つけやすいのだろうか - 邸内に響き渡る騒音とか教会前の通りの雑踏とかそれらを抜けていく人々の表情ややり取りの重ね合わせで編みこんでいく構成の見事さと、原作者も含めた貴族の最後の意地のようなものが漲っていて見入ってしまう。単線の、軸となる出来事や事件を巡って展開していくのではなく、この時点の社会まるごとを絵巻として広げてみせる。時間は掛かるけど、とにかく止まらない。

それが極まるのが延々と続くクライマックスの舞踏会で、Angelicaの社交界デビューとかAngelicaとTancrediの婚約披露とかいろいろあるのに蒸し暑くて騒がしくて何をどう眺めてもやれやれ、のなかでのAngelicaとFabrizioのダンスのとてつもない緊張感と滲み出てくる愛憎が描く油のような軌跡、その重奏感。映画というよりでっかいタペストリーを眺めていくかんじ。

Angelica というと、どうしてもManoel de Oliveiraの”O Estranho Caso de Angélica” (2010) - 『アンジェリカの微笑み』を思いだしてしまう。死んでいるのに手を引いてくる彼女。そして自身の死を見つめつつステップを踏みだすFabrizio。

Claudia Cardinaleはあのコルセットで腰回りが血まみれになったって.. あの細さはありえないわ。

[theatre] The Invention of Love

1月9日、木曜日の晩、Hampstead theatreで見ました。

原作はTom Stoppardの1997年の戯曲、演出はBlanche McIntyre。休憩入れてほぼ3時間。

舞台は一番下の客席と同じレベルの底にあって多くは同じ目の高さか見下ろす形、ぺったんこに黒の渦巻きが描いてあってなにもなくて、背後の壁が突然開いたり、ゆるやかな川になったりひとつ上のレベルの通路を人が通っていったりディスプレイになって投影されたり。

冒頭、舞台が明るくなると真ん中にクラシックな背広を着た丸っこいSimon Russell Bealeが立っていて、そこに(三途の川を渡る?)ボートと黒づくめの使者がやってきて、これに乗って死の世界に向かうことはわかっていて、彼は余裕でそれに乗り込んでゆっくり移動しつつ過去を振り返っていく。

英国の古典学者で詩人のA. E. Housman (1859-1936)の生涯や世界観、人々との出会いと成長について、老いて亡くなろうとしている彼をSimon Russell Bealeが、Oxfordに入学して間もない、まだぴちぴちの彼をMatthew Tennysonが演じて、19世紀の終わり頃の英国で、出会った人々との対話、大学での進路をめぐるあれこれ、成長と挫折、Moses Jackson (Ben Lloyd-Hughes)との儚い恋、などと共に追っていく。

実在の人物も沢山でてきて - 知っているのはJohn RuskinとかWalter PaterとかOscar Wildeとかくらい - 彼らが自身の知見や学説を当時の社会・政治情勢も含めて語るところもあったりするので英文学やラテン語や古典をある程度知っていないときついのかー、という気もするのだが、劇中で登場人物が語ったり議論したりする内容はそんなに厳密なものではないらしいので(←いや、わかんないけど)、ややひねくれて難しめの学園青春ドラマ、のように見ることもできるのか、な?

Housmanが学友たちと遊んだり議論したりする時は脚にコロコロの付いた木枠の乗りものに乗った彼らひとりひとりが軽快に滑り出てきて、3人くらいでそれらを金具で合体させると一艘のボートのようになって(楽しそう)、それに乗って議論したりする … Oxfordだからか。

そうやって学業の道に進むべく研鑽を積んでいくのだが、常に厳格さ厳密さ、真摯な探究を求められるアカデミアの世界の他に、彼は精神の自由や柔らかさが求められる詩作も愛して、書き綴ったものを冊子に纏めていて、このどちらも続けたいし止められない、ある意味真逆の方向性を持った世界をどうやって渡って、もしくはどちらかを選んだりしていけばよいのか? - で、ひょっとして、こういう分裂した魂のありようをどうにかするのって、それこそが愛、なのでは.. そんなInvention of Love?

そして、そんな統合を成し遂げて生き延びているスターのような人物として最後の方に現れるOscar Wilde (Dickie Beau)の貫禄、というかオーラ - ちょっと少女漫画ふうに美化しすぎでは、と少しだけ思った。

構成がやや平板で長く感じられて、もうちょっと波とうねりとか、啓示のようなものがあっても、と少しだけ思ったが、Simon Russell Bealeの立ち姿、ホビットのようななんとも言えない丸さと落ち着き、貫禄がすばらしく、それを見れただけでもよいか、って。

できれば、字幕つきので倍の時間をかけてもう一回見たい。

1.16.2025

[film] Nightbeat (1948)

1月8日、水曜日の晩、BFI Southbankで見ました。

“Projecting the Archive”っていう上映される機会のあまりなかった映画をアーカイブから拾いあげてフィルム上映で紹介していく試み。 特集上映でも映画祭でも取りあげられる機会のない映画って、実はものすごく沢山あると思うので、こういうのは嬉しいし、実際毎回売切れたりしているし。

タイトル、なんかフィッシュマンズの曲みたいかも、と思ったのだが『ナイトクルージング』と『バックビートにのっかって』を勝手に混ぜていたことに後で気づく。

“Brit Noir”と呼ばれる、戦中~戦後の混沌期 – 街は瓦礫の山、復員兵で溢れてぐじゃぐじゃのなんでも起こりうる -にあった英国の都市部で人々の闇(&社会)や犯罪、その背後にある狂気をあぶりだす米国ノワールの亜種のようなジャンルがあって - 前回このシリーズで見た”The Brighton Strangler” (1945)もそうだったかも - そこでキャリアは短かったものの英国産Vampとして強烈な印象を残した女優Christine Nordenの生誕100周年を記念して、彼女のフィルムデビュー作を上映する、と。

監督はHarold Huth、制作はAlexander KordaのLondon Films – だけど、Kordaは本作のリリースに結構難色を示していたらしい(なんかわかる)。あと、やはり日本では公開されていないみたい。

戦争を終えてロンドンに還ってきた復員兵で親友同士のAndy (Ronald Howard)とDon (Hector Ross)は喧嘩っ早くて威勢がよくて、警察官になるべく揃って警察学校に入って、DonはAndyの姉でかつて恋人だったJulie (Anne Crawford)と再会するのだが、彼女はSohoのナイトクラブを仕切るギャングのFelix (Maxwell Reed)に囲われていてうそー、ってなってFelixを睨んでぎりぎりしつつ近づいて対立を深めていくのと、Andyはやがて登場するFelixのナイトクラブで歌うブロンドのJackie (Christine Norden)に惚れてしまい、そしたら彼女もまたFelixに囲われていて、そのうちFelixとJulieが結婚することになると…

親友ふたりのどちら側にとっても、Felixの奴はうざいな、邪魔だな、になっていくのでふたりで団結して片づけてしまえばー、になるのだがやっぱりJulieを悲しませることになるし、Jackieの圧もすごいし、そうしているうちに思いもよらない方向に転がって、Andyが殺人の容疑で追われることになったりする。 この辺の展開は結構強引なのだが、登場人物の重ね方やひとりひとりの線の太さで、これってあってもおかしくないかも、になるとあれよあれよ、で気づいてみれば結末はノワールのなすすべもなし – 目が覚めて、あれはなんだったんだろう.. になっていたりする。

ノワールで言われるところの闇とか非情さが、アメリカのそれほど、狂って箍の外れたアナーキーななにかによってドライブされていない、よりかっちりしたマナーとか登場人物たちの境遇の枠で説明できてみんなが納得できる地点にもっていこうとするところがあるような、そういう点では日本のやくざ映画のそれに近いかも、と思った。あ、けど、やっぱり「仁義」とかそういうのはないから、違うか.. でも、FelixみたいのもJackieみたいのもああいうクラブも、夜のロンドンにいたりあったりしたかんじはすごくわかる。今のロンドンでもたまにそれらしいのを見かける。街からパブがなくならないように、ああいうのもなくなるとは思えないしー。

やはり強烈なのは(主役でもないのに一番像として残る)Jackieを演じたChristine Nordenで、IMDbには”Britain first notorious post-war sex siren in films”とあって、なるほどー、なのだが今だとこういう枠で括られるひとっていたりする?とか。 実際の彼女はBFIにもよく足を運んでくれるとても素敵な女性だったそうな。

1.15.2025

[film] Le notti bianche (1957)

1月7日、火曜日の晩、BFI SouthbankのLuchino Visconti特集で見ました。

4Kリストア版のUKプレミアだそう。 前回にこの作品を見たのもBFIだったかも。同じドストエフスキー原作 (1848)で、もうじき4Kリストア版が日本でもリバイバルされるブレッソンのも(ぜんぜん別物だけど)よいが、こちらも大好きで、これまでに見た(大して見てないけど)Visconti作品のなかで一番好きかも。英語題は”White Nights”、邦題は『白夜』、イタリア=フランス合作で、ヴェネツィアで銀獅子を受賞している。音楽は Nino Rota。

原作の19世紀ペテルブルク、ではなくイタリアの港町リヴォルノ(場所はほとんど動かず、全編スタジオ撮影だそう)の、寒そうな冬の夜、町に来たばかりらしいMario (Marcello Mastroianni)が、人(含.犬)恋しそうに誰かを探していると、橋の袂でしくしく泣いているNatalia (Maria Schell)を見つけて、声をかけようとしたら彼女は逃げだし、しばらくはその追いかけっこ - なんで彼はそんなに彼女に執着するのか、なんで彼女はあんな懸命に逃げようとするのか、こんなに凍える晩に - がひたすらおもしろかったり謎だったり。

バイクに乗って彼女をひっかけようとしたちんぴら二人組をMarioが追い払ってから、Nataliaは少し打ち解けて、Marioに自分はなんでそんなことをしているのかを話し始める。下宿屋をしている自分ちの戸口に突然現れた運命の男 - Jean Maraisに彼女は一瞬でやられて運命の人だ! って恋におちて、彼が同じ屋根の下にいる間はすべてが夢のようで、でもやがて彼はここを出ていかなければならない、1年待ってほしい、1年したら戻ってくるから、と告げていなくなり、彼女は約束した橋のところで毎晩彼が帰ってくるのを待っているのだと。

Jean Maraisの忠犬ハチ公のようになってしまった彼女をかわいそうに、って笑ってあげることは簡単だが、Marioにはそれができないの。なぜなら彼もまたNataliaと同様に、彼女にやられてしまって、彼女の泣き笑いする一挙一動から目を離せなくなってしまったから。こればっかりはもうどうしようもないし、Marioにできることと言ったら聞きたくもないNataliaの信仰にも近い止まらない愛の吐露を傍で聞いてあげることで、でもそうやっているうちに彼女が少しづつMarioの方を見てくれるようになってきて..

そうやって凍える夜の追いかけっこも含めてなにをやっているんだろ?の愛のどうしようもなさと面倒さが極まったところで突然降ってくる雪の奇跡 – ほらね、でも、そらみろ、でもないただふわふわと降り注いでくる白い光の渦に歓喜する彼女の姿を見ると、もう結末がどうであろうが、彼女があんなふうに笑ってくれただけで十分ではないか、になるの。 主人公たちそれぞれの境遇と来るべき運命をこねくりまわすViscontiぽいドラマのありようから離れて、すべてをもうお手あげ! きれいすぎる! にしてしまう白い夜の白い雪。

登場人物の序列でいうと明らかに神のように威圧的に(最後にすべてかっさらっていく)天辺にいるJean Maraisがいて、彼に振り回されるMaria Schellがいて、おろおろ落ち着きのない青年Marcello Mastroianniが底辺にいて、でもこの映画のまん中にいて、この世界を作って持ちこたえさせているのはどう見てもMaria Schellで、それだけで”It’s a Wonderful Life”になってしまうのだった。

あとね、事情もなにも告げないで1年間どこかに消えてしまうような男はやくざに決まっているのでついていかないほうが、って誰か彼女に言ってあげて。


東京に来ているのですが、なにもかもつまんなくてしんでる。

[theatre] Julia Masli: ha ha ha ha ha ha ha

1月6日、月曜日の晩、Soho Theatreで見ました。
“HA”が7つ。 今年最初のシアターもの。

上演が21時からだったので、その前に映画”Nickel Boys”を突っ込んだらこれが(よい意味で)重くて、演劇だかパフォーマンスだか、そんなの見る気力体力ないわ、になったのだが、チケットを取ってしまっていたので、とりあえず行ってみる。

Julia Masli というのが人の名前なのか、なにかの組織なのかなんなのかまったく知らないで、後になってこの女性はエストニアから来たCrownである、と知る。

なんで見ようと思ったかというと、2023年のエジンバラのフリンジ - 演芸フェス - で評判になった、とあったから、程度。 前の方の座席に座ると彼女にいじられる可能性があります、と注意書きがあったのでそうではない上の方の席にしたのだが、割とすぐ横に来たよ。

ステージは暗め、マネキンの脚が転がっていたりややゴスっぽい、怪しげな占い師や祈祷師の部屋のイメージで、片手にマネキンの脚を装着して自分の顔を青でライティングして、ゆっくりと動きながら客の顔を見て、ひとりひとりに”HA HA HA HA…”って声をかけていく。最初は何をやろうとしているのかわからないのだが、ひとりがそれに応えて”HA HA”とかやると、それそれ、というかんじで個々の対面のやり取りが始まる。

ただの”HA HA HA.. ?”でも人によって返し方は本当にそれぞれでおもしろいのだが、その返しがなんか彼女のお気に召さなかった客は突っ込まれたり、彼女に椅子を取り上げられ、さらにそれをステージ上で粉々に叩き壊されたりしている。これだけ延々やっていても十分おもしろいのだが、これは挨拶で、続けて同様に「プローブレーム?」ってひとりひとりに聞き始める。そのイントネーションがちょっと東欧風にとぼけていてまたおかしいの。

返しはなんでもよくて「将来が暗い」とか言うと、仕事はなにをしてるの? って続いて、これがテンション高めだったりマツコみたいに突っ込むやつだったりすると微妙な空気になってしまうのかも知れないが、Juliaのやりとりは絶妙に客を真ん中に持っていく。

身体の調子があまり.. というと客席にお医者さんはいませんか? って声をかけるし(医者いた)、Exelが.. とか言うと会計士の人はいませんか? って手を挙げた男性をステージにあげてアドバイスをさせるし、眠れない、っていう人もステージにあげて簡易ベッドに寝かせてアイマスクにヘッドホンつけてリラクゼーションの音楽を流したり。 さっき椅子を壊されたひとは「椅子がない」ということだったので、彼もステージにあげて椅子の破片と工具一式を与えて自分で直しなさい、って - 結局彼は最後までずっと壊された椅子をとんかんしていた。プロブレームが解決するとよかったね、って2階席にいるスタッフがラッパを吹いて祝福してくれる。

たぶん事前の仕込みみたいのを少しはしているのかも知れないが、それにしても、あれだけの多様で雑多なプロブレームにあんなふうに咄嗟かつ絶妙に応答できるのとか、すごいなー、だったのと、あと、ひょっとしたらほとんどのプロブレームって”HA HA HA?”と同じくらいの重み/軽みでどうにかできてしまう - できた気になってしまう - ものなのかもね、ってそんな気づきのおもしろさと、悩みなんてさー、って。

約60分、ちょうどよい長さで年初のうざいあれこれをきれいに祓ってくれて、少しだけ気持ち楽になったかも。

1.11.2025

[film] Nickel Boys (2024)

1月6日、月曜日の夕方、Curzon Aldgateで見ました。
LFFでかかった時に見たくてずっと粘ったのだが見れなかった1本。クリスマスの様子が描かれたりもするのでもう少し早く公開してくれてもよかったのに。

原作はColson Whiteheadの2019年の同名小説、監督はドキュメンタリーともフィクションともつかない”Hale County This Morning, This Evening” (2018)が印象的だったRaMell Ross - 見終えてからこれを撮った人だったか! って(気づくの遅い)。

あの映画がそうだったように最初のうちは何がどうして映っているのかよくわからなかったりする。ぼんやりノイズが入ったような、過去の記憶を引き出そうとするときの断片やそれらが繋がっていかないもどかしさが、地面とか木になったオレンジとか、その色とかに現れてくる。

やがてそれはElwood (Ethan Herisse)という少年の視線 - 一人称のものであることがわかってきて - だから初めの方で彼の顔はわからない - Martin Luther Kingや公民権運動に関心があって、彼の視界に入り込んでくる彼の優しそうなグランマ(Aunjanue Ellis-Taylor)の様子から彼がよいこであることが見えてきたところで、好意で乗せてもらった車が盗難車だったことからNickel Academyという矯正施設 - フロリダに別の名前で実在したに入れられて、そこでTurner (Brandon Wilson)と知りあって友人になる経緯が綴られる。

そこからカメラ、というか目線はTurnerのそれに変わっていったり、現代でPCを前に頭を抱えている男性の後ろ姿になったりして、それらを繋いでいくと複数の視線でNickel Academyで起こったことを静かに追っていることが見えてくる。

施設に入れられている白人の子と黒人の子の間には明確な待遇の違い - 差別があり、黒人の子は別の場所に呼びだされ連れ出されて性的なのを含む虐待と暴力が茶飯事で、ボクシングの試合で八百長に応じなかった子は目配せひとつでどこかにやられ、現代では施設の跡地から大量の子供たちの骨が発掘されている、というニュース映像が流れている。

虐めにまみれ辛かった日々を懸命に生きた(涙)、というドラマではなく、なんで? という不条理に慣れないながらもElwoodとTurner、その他の子供たちもとにかく生きていた - それしかできなかった - その果てが掘り出された無名の骨たちで、彼らは”Nickel Boys”としか呼ばれなくて、それってどういうことかわかる? というお話し。

あの視線、というか人称が転移・転生していくようなカメラの動きはそういうことだったのか、というのと、それを語る主体、そういうリレーをさせている想いは、とかいろんなことを思う。何万といたであろうElwoodとTurnerたち。ごめんね。自分は君らの側に立つから。誰になんと言われようとも。

人種差別の歴史ははっきりとあったし今だに続いているし、これらをどう語って繋いでいくのか、まだこんなふうに語ることができる、そしてどれだけ語っても彼らの痛みや無念には届くことがないのだ、というのに気づかせてくれる作品だった。監督は、それをさせたのはElwoodとTurner - Nickel Boysだ、というのだろうが。

日本も遊廓からヨットスクールから精神病棟から、昔から同じように親の勝手な恥都合で犠牲にされてしまった少年少女は山ほどいたはずなのに、いまだに社会としてなにひとつの謝罪も反省もしようとしない、いまだに闇の中にあるのでそれらがどれくらい酷いことなのか見えないのね。

そのうち書くかも知れませんが、新年からなんだかんだ慌しくて、明日の夕方から約2週間日本に戻ります。ぜんぜんうれしくないわ。

[film] No Way Out (1950)

1月1日、元旦の18:40からの上映で、前の“Ossessione”(1943)の後に見ました。

BFIももうちょっとお正月ぽい明るめの映画とかやればいいのに。
前の映画が終わってから次までの約4時間、がらんとしたBFIのロビーの椅子にだらしなく座って、スマホで2024年のベストなどを打っていた。そんな素敵なお正月。BFIのロビーに炬燵とか置いてくれたらよいのにな。

これも今月から始まる特集 – “Sidney Poitier: His Own Person”の最初の1本。なぜSidney Poitierなのか、は昨年末にここであったJames Baldwin特集から繋がってくるものなのか、公開された”Nickel Boys”で彼への言及があるからか。

監督はJoseph L. Mankiewicz、邦題は『復讐鬼』 - でも主人公は復讐鬼に狙われる側なのでこの邦題はよくないと思う。 Sidney Poitierの長編映画デビュー作。オスカーのBest Story and Screenplayにノミネートされたが『サンセット大通り』に敗れた、って(こっちの方が断然すごいと思うけど)。

Dr. Luther Brooks (Sidney Poitier)は郡の大きめの病院で研修医から常勤の医師になったばかりで、上司のDr. Dan Wharton (Stephen McNally)も彼の実力には太鼓判を押しているのだが、本人はまだ十分な自信を持てないでいる。

そんなある晩、併設されている刑務所病棟に、抗争で足を撃たれた兄弟 – Johnny (Dick Paxton)とRay (Richard Widmark)の二人が搬送されてきて、Rayは口だけは達者でLutherに差別的な言葉を浴びせて、こんな奴にかかりたくない、とか騒ぐのだが、それに動じず隣に横たわるJonnyの様子がおかしいことに気付いたLutherが脊椎を調べようとしたところでJonnyは亡くなってしまう(ここのシーンは映らない)。足を撃たれただけなのに突然死んでしまったのは診ていたLutherが殺したからだ、とRayは騒いで、Lutherの上司のDanはLutherの初期の治療対応は間違っていなかった、と言うものの実際には検視をするしかない、となって、でもRayはそれで証拠を潰すつもりだ許さないというし、病院側も騒ぎを広げたくないので静観、になってしまう。

どうしようもなくなったLutherとDanはJohnnyの別れた元妻のEdie (Linda Darnell)に会いにいってRayを説得してもらうようにするのだが、これが逆効果で、彼らの育った白人の貧民街に根をおろしているヘイト感情を思いっきり煽ることになって、黒人居住区を襲撃してやれ、にまで膨れあがる。

この経緯と並行して、疲れて帰ったLutherの実家で、苦労と努力で医者にまでなったLutherをどんな家族が囲んでいたのかが描かれて、でもそんな彼らも白人たちの襲撃計画を知ると先制攻撃を仕掛けてやる、って揃って出て行って大騒ぎになって怪我人が沢山…

そんなごたごたを通して、いろんなことに疲れ切ってしまったEdieをDanのところの黒人メイドがやさしく介抱してくれて、よいかんじになるのだが、突然Lutherは自首してしまう - 自首すれば証拠を確認するために検視をせざるを得なくなるから、と…

最初は平等でなければならない医療の現場に差別の問題が絡んでくる、程度のお話しかと思ったら、差別と貧困に苦しむコミュニティの実情と根深い対立構造にまで踏み込み、更には暴動まで巻き起こし、そこから更に、それでも静まろうとしない憎悪の塊りをえぐってあぶりだす。最後にLutherがRayに言うことの重み。 デビュー当時のSpike Leeがやっていたことを既に軽々と。

ほぼ狂犬のようになってヘイトをまき散らすRichard Widmarkがすごいのは簡単に想像できると思うのだが、それを(内臓を沸騰させつつも)静かに受けとめて持ちこたえて、最後にあんなことを言えるSidney Poitierの佇まいがすばらしい。このかんじ、正しく今のDenzel Washingtonではないか、とか。

終わって、半分くらいは埋まっていた客席から強い拍手がわいた。年の初めによいものを見たわ、って。

1.10.2025

[film] Ossessione (1943)

1月1日、水曜日 - 元旦の正午、BFI Southbankで見ました。
今月の特集 - ”Luchino Visconti: Decadence & Decay”からの最初の1本で、今年最初の1本。なんでいまVisconti? はわかんないわ。

Viscontiのデビュー作で、原作はJames M. Cainの1934年の小説 – “The Postman Always Rings Twice”、なので邦題も『郵便配達は二度ベルを鳴らす』なのだが、映画は郵便配達とは関係ない話になっている – ので欧米でのタイトルも”Obsession” - 「妄執」で。

イタリアン・ネオレアリズモの最初の1本とされることもあるようだが、そこはよくわからず。
ファシスト政権下の検閲が入ってやりたいことができない状況のなか、30年代のフランスでJean Renoirから貰った原作小説の仏語版が彼を救ったと。ローカル・ネタのようでイタリア-フランス-アメリカの連合が背後にあったりするというか。 ファシズムから逃れた先 – この世の涯で男女の欲望を軸に空回りして壊れる三角形。お話しはぜんぜん違うけどルノワールの『浜辺の女』 (1943)を思いだしたりもする。

車の荷台に乗って埃っぽい道を抜けて、どこからかやってきたGino (Massimo Girotti)がポー川沿いの食堂/ドライブインに立ち寄って、そこにはやや疲れた/でもどこかが漲っているGiovanna (Clara Calamai)と動物のようなその亭主のGiuseppe (Juan de Landa)がいて、食事の後に追い払われたGinoをGiovannaは強引に呼び戻して、Giuseppeが車の部品を買いに行っている隙に近づいて関係をもって、そこからGinoはうまくGiuseppeに気に入られ、そのままそこで手伝いなどをしながら暮らしていくことになる。

いまの生活と亭主が嫌で嫌ですべて蹴っ飛ばしたいけど、家の外に踏みだすことまではできないGiovannaと、元が根無し草なのでどこにでもいける – なのでずっと縛られるのはごめんのGinoと、酒と歌が大好きでお人好しのGiuseppeの3G - 今でもどこの世界にでもいそうなこの三人が行き場のない、逃げ勝ちなんてありえないごたごたに首を突っこんだり突っ込まれたり。

Ginoはあのまま、途中で出会う大道芸人のように宿無しの旅を続けていけばよかったのに、Giovannaはあと少し我慢していれば夫は勝手に膨れて潰れて自由になれたかもしれないのに、どこかで何かがおかしくなった – それが”Ossessione”、というものなのか。一度憑りついてしまうと自動で動きだして止められない、取返しのつかないことを引き起こす、それが”Ossessione”。誰が誰に向かってそれを引き起こしたか、というよりその根源にある愛と欲望と自由をめぐる”Ossessione”についての犯罪スリラー。

ただ3人のなかで、もっとも先の自由を奪われて押し潰されて、しかも子供まで… でかわいそうすぎるのがGiovannaであることは確かで、そんな彼女の表情の移り変わりとありようを描いて、そこを基点として、まずGiuseppeがああなって、続けて彼女とGinoがあのような運命を辿る、ということについては、主人公たちの思惑を超えて明確な意図というか構図があって、それが当時のファシスト政権を苛立たせたのはよくわかる。単なる個々の「妄執」がなにかをしでかした、という話ではないの。

Giovanna役が当初想定されていたAnna Magnaniだったらどんなふうになっていただろうか? とか。

こういう一本から始まってしまう一年がどんなものになるのか - どっちにしたって碌なものにはならないだろうから、いいんだー。


1.09.2025

[film] We Live in Time (2024)

1月2日、木曜日の午後、Picturehouse Centralで見ました。

これまでの慣習で、新年最初の1本は昔の映画を見ることにしていて、だから1月1日はBFI Southbankで過ごしたのだが、2日は新作を見ようと思って、でも新作の一本目が”Nosferatu”(2024)なのはなんか嫌かも、だったので、その前にこれを無理やり突っこんだ。なのでこれが今年最初に見た新作映画となる。

監督は”Brooklyn” (2015), “The Goldfinch” (2019)のJohn Crowley、脚本はNick Payne。音楽はBryce Dessner、Executive ProducerにはBenedict Cumberbatchの名前がある。

主演のふたりが結構仲良く楽しそうにプロモーションしていたので、明るいrom-comかと思ったら難病ものだった.. けどそんなに暗くないし辛くならないのでだいじょうぶ(かな?)。

Weetabix - シリアルの会社を経営するTobias (Andrew Garfield)とレストランを経営するシェフのAlmut (Florence Pugh)が出会って - 夜の道路上でバスロープ一枚で道路を歩いていたTobiasをAlmutが車で轢いてしまう - 少しづつ仲良くなって、彼女の病気がわかって、化学療法で髪を切って、赤ん坊ができて、出産して、娘Ella (Grace Delaney)が大きくなって、など、どうってことなさそうな細切れが、過去現在の脈絡なし順序の行ったり来たりでえんえん重ねられていく。最初はこの調子で最後まで行ってだいじょうぶかなあ? なのだが、すぐ涙目になって柔らかく受けとめてばかりのTobiasとなにかと突っかかって負けないのが基本のAlmutの(誰もが想像できるであろう)ケミストリーがすばらしくよいので、あまり気にならない。 いつのどの断面で切ってもふたりはふたりで連なっていて互いに目を離すことができなくて、そのうち大きめのイベント - 料理のコンペティションに英国代表として出るんだって踏んばっていくところ、そして、ガススタンドの身障者用トイレで娘を出産してしまうところ – めちゃくちゃおもしろい - など、ずっと一緒の時間のなかにいたふたり。

思えば、Andrew Garfieldの“The Amazing Spider-Man”シリーズの最大の失敗は“2”でEmma StoneのGwen Stacyを亡くしてしまったことだった(私見)。彼があの後に悲しみでぐだぐだの用なしになってしまうことは十分に見えていて、実際にそうなった。 今回も同じなのかもしれない。そんなにAndrew Garfieldの嘆き悲しむ姿はよいのか?(悪くはない。あんなふうに泣けるひとはあまりいない)とか。

Tobiasがどこまでも彼女を受けとめてベソをかきながら見守ってついていくのに対して、Almutは周囲を吹っ切ってでも前を向いて進行方向を変えない。元からなのか、かつてフィギュアスケートの選手になるのを諦めてしまった過去があるからなのか、どちらにしても絶対に振り返らず、後悔もしようとしない – この組み合わせは特に新しくはないと思うし奇跡も起こらないけど、この2人だから、という途方もない根拠もない確信と強さに貫かれているのでなんかよいなー、になって、でもほんとそれだけなの。

Almutの病は間違いなく幸せな家族を引き裂いて残された者をどん底に叩き落とすだろう、その決定的な別れとか最期の時からどこまでも離れて目を逸らそうとする - それがTobiasの取った態度で、映画はそれに倣うように中心にある病と死から離れようとして、この映画はそれでよいのだな、って思った。

1.07.2025

[film] Nosferatu (2024)

1月2日、木曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
2日だとお正月でもなんでもなく、みんな普通に動いている。

Robert EggersによるF.W. Murnauの1922年のサイレント –“Nosferatu: A Symphony of Horror”のリメイク。音響は確かにものすごいのでIMAXで見るのはよいかも。

12月31日の夕方にBFI IMAXでこれは見ていて(2024年の最後の上映)、サイレントだけど何度見てもどう見ても怖い。「恐怖のシンフォニー」、であるので遠隔の呪いはあるわ拘束の恐怖はあるわ祟りに感染の危険は溢れてくるわ全てが逃れようなくこれでもか、の中心にいるのがMax Schreckの - 水木しげるの漫画に出てきそうなシンプルな線顔(でもなかなかいないよ)のノスフェラトゥで、個人的にはWerner Herzogによる“Nosferatu, Phantom der Nacht”(1972)のKlaus KinskiとIsabelle Adjaniの濃厚さに敵うやつはいない、のだが今回のはどうか?

19世紀の前半、冒頭でEllen Hutter (Lily-Rose Depp)に何かが取り憑いて、そこから数年後、彼女と結婚したThomas Hutter (Nicholas Hoult)が出世のため(=彼女のため)に危険な遠くへの商談出張のオファーを受けて、彼女が行かないでと頼んでいるのに勝手に親友のHarding夫妻(Aaron Taylor-Johnson & Emma Corrin)のところに預けて野山を越えてたどり着いたのがCount Orlok (Bill Skarsgård)の館で、パンナイフで指を切って血を見せてしまったものだから、起きて気がついてみると何かの噛み痕が。

Count Orlok - 最初からどう見ても得体の知れない化け物 - はEllenのいる街に向かって棺桶に入った形で旅に出て、容態がおかしくなっていく彼女を診るProf. Albin(Willem Dafoe)と医師(Ralph Ineson)がやってきて、船内にペストを撒き散らしたCountがペストごと上陸して。全体としては何かの扉が開かれて山から下りてきた災厄としか言いようのないやばいのが飛び散って収拾がつかなくなっていくモンスターパニック映画のようで、美術にお金をいっぱいかけていることはわかるのだが、このお話しにそこまでのものは期待していない、というか、宗教民俗ホラーとしてみんな狂っていって、CountとEllen、Countと僕(Simon McBurney)、CountとProf. Albinの関係がきちんと描かれていればよかったのだが、なんか薄まって(or 不要に濃くなって?)しまったような。

音も含めて全体のおどろおどろしく嫌で気持ち悪い雰囲気は十分に満ち満ちていて、ストーリーを知らなくてもどうなっちゃうかはだいたいわかって、でもRobert Eggers って”Lighthouse” (2019)の時にも思ったのだが、最後になんであんなにどろどろぐちゃぐちゃの鍋にしてしまうのだろうか、あそこまでやらないと気が済まないのかしら… とか。

あと、Count Orlokがあまりにモンスターの魔人みたいで、出会いがしらにあんなのが出てきたらその場でふざけんな、ってやっつけてしまうべきだったし、最期にこんな化け物とやりあって(揃って言うこと聞かない間抜けな男たちの)犠牲になってしまうEllenがかわいそうすぎる。 原作なんて無視してやっちゃえばよかったのに。

敵があまりに化け物化け物していて無敵っぽいので、こっちにはX-MenのBeastだって、こないだのKravenだって、こないだのCassandra Novaだって、Green Goblinだっているんだからな、くらいのことを思ってしまうのだが、本当はそんなこと思わせてはいけないよね。

Nicholas Houltはこないだの”Juror #2” (2024)もだったが、生真面目さ故にはまって後戻りできなくなり、やばいどうしよ… にじりじりなっていく弱い男を演じさせたらうまいねえ。

これなら音楽はごりごりのゴスメタルみたいのを流しちゃって台詞が聞こえないくらいにしてもよかったのではないか(結果サイレント)。そういう上映会をやってみても。

あとの見どころはネズミだろうか - あれCG?
猫もいたので対決シーンが見られるかと思ったのになー。

1.06.2025

[theatre] The Tempest

12月30日、月曜日の晩、Theatre Royal Drury Lane で見ました。

2024年最後に見た演劇で、ここんとこ自分の中で続いているシェイクスピア劇を見ていこう、のシリーズ、でもある。

Sigourney WeaverのWest Endデビューで演出はJamie Lloyd。 男性役のProsperoを女優が演じる、という点では、偶然だけど2日前に見た「ベニスの商人」のShylockをTracy-Ann Obermanが演じたのに続く。こういうジェンダー逆転シェイクスピアって昔からふつうにあったものなのだろうか?

上演前から宇宙っぽいダークでスペーシーな音が渦を巻くように埋めていて、幕が開くとどこかの星の上のような黒い崖のような岩が寒々しくでっかく横たわっていて、それらを覆ったり吹き飛ばしたりするようにでっかいシルク布が渦を巻いたり嵐を巻き起こしたり、ライティングはところどころで雷のように瞬いて強い残像を残す。シアターが大きいのでしょうがないのかもだが、ヘッドマイクを通した俳優の声はすべて均質に仰々しく響き渡ってしまうので、先の舞台セットも含めて「大規模プロダクション/アトラクション」の仕様がずっとあって、この辺の違和感は最後まで。(こういうセットでやってもよいスケールの劇である、というのはわかるけど)

Prospero (Sigourney Weaver)は最後の方を除いて大きな動きはせず見せず、裃(かみしも)のような衣装を纏って最後の場面でそれを変えるまでずっと舞台上にいて、ひとり呟いたり、登場人物たちとの個々のやりとりは十分に力強く真ん中にいるのだが、大枠では静かに全体を眺めつつ統御しているかんじ。

怪物Caliban (Forbes Masson)は傷だらけのお相撲さんかプロレスラーとしか思えない格好で舞台下の水中から顔をだしてやくざな酔っ払いとして暴れ、妖精Ariel (Mason Alexander Park)はマリリン・マンソンのメイクで空から降りてきて - この人が一番かっこよくて素敵だったかも 、Calibanと結託するTrinculo (Mathew Horne)とStephano (Jason Barnett)は漫才ピエロで、Prosperoの娘Miranda (Mara Huf)とナポリ王子Ferdinand (James Phoon)の恋は、立ち居振る舞いも含めてディズニー映画のようにきらきらしていて、要は各キャラクターが好きなように暴れたりそこらをうろつくばかり(ただし境界は守りつつ)で、宇宙の真ん中でこれか… みたいな纏まりのなさすぎる感があって、本来であれば、大嵐 - Tempestの荒ぶるなにかが力技でごたごたを収めたりどうにかしてくれるのだと思うが、ここでの女性Prosperoはなにかを静かに待っているようになにもしないふうで座っているのがほとんど。それを母性的な大らかさで包みこもうとするなにか、と見るのがよいのか、彼女の当たり役であるRipleyのように最後にとてつもないパワーを発揮するものとして置いておくべきなのか、おそらく後者なのかも。

魔界と人間界の間に立つ、って映画“Alien”のテーマにも通じるなにかのようにも思えて、せっかくSFぽい舞台セットにしたのだから、転移や寄生に近いところで、あるいは呪いや魔法を解くというところでなんかでるかも(でてきて)、と思ったのだが、割とストレートでふつうだったのはやや残念だったか。(Sigourney Weaverのふたつの顔がぼんやりと結ばれているポスターはそれっぽかったのに)

でもやっぱりSigourney Weaverはものすごく素敵な人ではないか、と思ったり。

1.05.2025

[log] Vienna Dec 26-27

12月26日から27日にかけて(のはずだったが戻ってこれたのは28日)、ウィーンに行ってきた。以下、簡単な備忘。
 
Rembrandt – Hoogstraten: Colour and Illusion

 
着いて、ホテルに荷物を置いてからKunsthistorischesMuseum Vienna(美術史美術館)に向かって、まずこれを見ることは決めていた。
Rembrandt van Rijn (1606-1669)と弟子のSamuel van Hoogstraten (1627-1678)のふたりの画家(当然、Rembrandt多め)が何を目指そうとしていたか、等についての美術史観点での考察。

2019年、アムステルダムのThe RijksmuseumでRembrandtの全版画展があった時に見に行った辺りかその前から展示の中にRembrandtの名前があればとりあえず、なんとなく見ようか、になっている。
 
サブタイトルに”Colour and Illusion”とあるように、色が微細できれいで写実性の高い – 騙し絵のように見えるくらい精巧な作品たちを世界中から集めてきていて(見たことあるのも結構あった)、それがRembrandt個人の才能による、というよりは工房のなかでもきちんと受け継がれる手法のような何かとして確立され伝授されていたのだ、というのがHoogstratenの作品から窺うことができる。描かれた人が絵画のフレームに手をかけている、絵のなかの木枠が実際の額縁に引き延ばされていて、絵画に描かれたものとこちらの見ている、見ようとする世界と連なっているようなイメージの見せ方。

あと、Rembrandtの宗教画に現れる聖性、とシンプルに呼びたくなる光の美しさ、あれはいったい何なのか。あの光の籠ったような眩さって彼独特のものだと思う。
 
美術史美術館は常設もほんとにすばらしくておもしろくて、ギリシャ彫刻のとこも含めて久々にぐるぐるだらだら回って見てまわる。
 

Medardo Rosso: Inventing Modern Sculpture @ museum moderner kunst stiftung ludwig wien (mumok)
 
美術史美術館の前の通りの向こう側にポスターがあって、おもしろそうだったので入ってみたら当たった。
イタリア系フランス人の彫刻家 - Medardo Rosso(1858-1928)のレトロスペクティブ。
同時代のロダンの滑っていく滑らかさとは別の、崩れて溶けていく、或いは固化していくような近代の身体や顔相を更に溶かそうとしたのか固めようとしたのか。

彼の作品と共に、ドガやブランクーシ、ジャコメッティ、モランディ、ベーコンなどなどの二次元作品も並べて、なんだか知らないうちに身体や顔が瓦解融解して、手の施しようがなくなっていくさまをいろんな角度から写真も含めて並べていって、彫刻における美とは何で、いかにしてありうるのか、を強く、何度でも問う。

今年、圧巻だったルーブルの展覧会 - ”Torlonia Collection”の、あの漲るかんじからここまで来る、来れてしまうものなのかー - 同じ固体でも塊りでも - って。

カタログ、分厚かったので諦めてしまったのだが、買っておけばよかった…

 
Alfred Kubin @ Albertina modern

27日の朝一に美術館の前に行って、見た。
今回は、Rembrandt展とこれがあったのでウィーンに来ることにしたの。高校くらいのとき、Slapp HappyのPeter BlegvadがAlfred Kubin (1877-1959)からの影響を切々と語っているのをどこかで読んで、画集があれば手に入れたりしてきたのだが、大きめの規模の展示でようやくじっくり見ることができた。いろんな頭のなかの、捩れた肉の奥の、実際の地獄、チャコールの、砂の地続き、で決してその動きを停めることも完結することもない呪いや懺悔の歌とか像とか。

絵の合間に彼自身の言葉などが貼ってある。

- Maybe this is what life is: a dream and a fear.

彼のだけじゃなくて次のようなムンクの言葉も。

- My path has led along an abyss, a bottomless depth. I have been forced to jump from stone to stone. The fear of life has accompanied me for as long as I can remember

Edvard Munch (1863-1944) はやはり近いのかも。

カタログは売り切れていて悲しかったのだが、翌々日、ブリュッセルの書店Tropismesに行ったらあった。


Listening to Love with Schönberg


Kubinを見たらSchönbergも、ということで近くにあったArnold Schönberg Centre も行ってみる。年末だからかもう誰もいない暗いオフィスビルのようなとこの2階で、人も殆どいない状態だったが、かれの描いた絵画作品や、ブーレーズやラトルが彼の曲を指揮するビデオを見たりしてちょっと休む。


Modernではない方のAlbertinaでは、Robert Longo, Jim Dine, Chagall、あとは常設も。Chagallは、前にCentre Pompidouで見たときより、ちょっと感動したかも。動物たちがより迫ってきた。

他には”Before Sunrise” (1995) にでてきた Kleines Caféでお茶をしてお菓子を食べる。 すんごくよい雰囲気の茶店。

最後にはやはり食材屋に、ということでJulius Meinl am Grabenに向かって少しだけ食べものを買い、Demelでどうしようか、ってやっているところにロンドン行きの飛行機キャンセル、の報がきてBAと徒労まみれのぐだぐだ交渉にー。


1.03.2025

[theatre] The Merchant of Venice 1936

12月28日、土曜日の晩、Trafalgar Theatreで見ました。

英国各地をツアーしてきた舞台の、ロンドン公演(再演?)の初日。この日、本当は朝から日帰りでベルギーに行っているはずだったのだが、ウィーンからの戻りの便がテクニカルなんたらで突然キャンセルになり、交渉して直行便がなかったので深夜にマドリードに向かい、そこから28日の朝にロンドンに戻ってきて、ベルギー行きはどうにか翌日に移すことができたものの、なんかつまんないので当日にチケットを取った。

原作はシェイクスピア、演出はBrigid Larmour。タイトルにもある通り、1936年、舞台は英国・ロンドン、その東側に暮らすユダヤ人の金貸しShylockを女性のTracy-Ann Obermanが演じており(これに合わせてLauncelot も女性に置き換えられている)、いくつかのエピソードは彼女のGreat grandmother(曽祖母)のものだという。(Obermanは舞台のAssociate Directorでもある)

第二次大戦に向かうなか、英国でもイギリス・ファシスト連合を率いるOswald Mosleyを中心にユダヤ人排斥の動きが出てきて、貿易商のAntonio (Raymond Coulthard)も、黒服短髪のそれに倣ったいかにもの挙動と傲慢さで金貸しのShylockのところにお金を借りにきて、彼にとっては屈辱ぽい取引条件 - 返せなかったらお前の肉を1ポンド - をのんで出ていく。

キャストがざわざわと舞台に出入りしていくのは客席の右左からで、昔の他人事として静観することを許さない。いろんな取り引き/駆け引きの浮ついて根拠のないこと、でもそこに嵌って縛られてしまうこと、など。

そんなAntonioとPortia (Hannah Morrish)を中心とした上の階層の人々(ロンドンの西側)の恋の駆け引き、というより、その裏側で裕福だった家や居場所を奪われ投石され、Shylockに至っては裁判を経てキリスト教に改宗させられ、それでも誇りを失わずに踏みとどまって戦ったユダヤ人、が前面にでていて、最後には1936年のBattle of Cable Street - “They shall not pass!”まで描かれる。 (Cable Streetの戦いは昨年サザークの劇場でミュージカルになっていたが、いまだにヴィヴィッドなテーマらしい) こういう終わり方と繋げ方でよいのか、はあると思うが、シェイクスピアの風呂敷はここまで広げてしまうことだってできるのだな、と。

ちょっとだけ言うと、Shylock 役のTracy-Ann Oberman以外のキャラクターがやや浅くて中身があまりなさそうに見えてしまうのがなー、くらい。

あの有名な台詞 - “If you prick us, do we not bleed? If you tickle us, do we not laugh? If you poison us, do we not die?” は当然でてくるのだが、思い出したのはルビッチのコメディ - “To Be or Not to Be” (1942)でシェイクスピア劇団の役者Greenberg (Felix Bressart)がこの台詞で切々と訴える忘れがたいシーンで、そういえばこの映画もポーランドに侵攻してきたナチスのファシズムと戦う(というか、おちょくってやる)やつだったなー、って。

Shylockのような人々がこうやって生き延びてきた、はわかるのだが、Antonioのような極右の連中もしぶとくいまだにヘイトを撒き散らし続けて100年くらい、そこらじゅうの世界で平気な顔をしているわけで、そっちの方が根深くて興味深いかも。社会史学方面など、いろいろ言えるのはわかるけど、ごくふつうになんなの? って。

1.01.2025

[log] Best before 2024

新年あけましておめでとうございます。
昨年の今頃は1月3日の英国出発に向けたパッキングでお正月も含めてそれどころじゃなかったのと比べるとだいぶ穏やかな気がする。

元旦の朝、起きたら珍しく10時を過ぎていて(ふだんは寝れなくて8時前に起きる)、前の滞在時のお正月がそうだったようにBBCのウィーンの新年コンサート(いつか行きたい)を聴きながら日本で買ってきたチーかま等を頬張って、冷たい小雨の降るなかBFI Southbankに向かい、今日から始まるLuchino Visconti特集の最初の一本 - “Ossessione” (1943)と、同じく今日からのSidney Poitier特集から”No Way Out” (1950)を見た、だけ。いつもの週末と1ミリも変わらないの。

今年もよい旅をしてよい作品を見ることができれば、なのだが治療とかありそうで今年ほど好き勝手できないかも。

以下、順位はなくてすべて見た順。10本とか絞れないので、適当に。

[film]

2024年は中短編含めて411本見ていた。なんと配信は1本も見ていない。うちBFI Southbankで219本…

映画は、Sight and Sound誌のベスト50のうち36本を、Guardian紙のUKベスト50のうち40本を見ていた。この本数、日本にいると本当に減ってしまうのよね...
 
[新しいの]

▪️ The End We Start From (2023)
▪️ All of Us Strangers (2023)
▪️ Anyone But You (2023)
▪️ Love Lies Bleeding (2024)
▪️ Baltimore (2023)
▪️ Cerrar los ojos (2023) - Close Your Eyes
▪️ The Sweet East (2023)
▪️ Hoard (2023)
▪️ La chimera (2023)
▪️ Here (2023)
▪️ Crossing (2024)
▪️ Kuru Otlar Üstüne (2023)  - About Dry Grasses
▪️ Janet Planet (2023)
▪️ Kneecap (2024)
▪️ His Three Daughters (2023)
▪️ Megalopolis (2024)
▪️ Grand Tour (2024)
▪️ The Room Next Door (2024)
▪️ Blitz (2024)
▪️ Christmas Eve in Miller's Point (2024)
▪️ Bird (2024)
▪️ ナミビアの砂漠 (2024)
▪️ The Brutalist (2024)
▪️ All We Imagine as Light (2024)

[ドキュメンタリー]
 
▪️ The Disappearance of Shere Hite (2023)
▪️ Your Fat Friend (2023)
▪️ Occupied City (2023)
▪️ Copa 71 (2023)
▪️ Merchant Ivory (2024)
▪️ Sex is Comedy: la révolution des coordinatrices d'intimité (2024)
▪️ Strike: An Uncivil War (2024)
▪️ Bye Bye Tibériade (2023)
▪️ Dahomey (2024)
▪️ A Sudden Glimpse to Deeper Things (2024)
▪️ No Other Land (2024)

[ふるいの]

▪️ “A League of Her Own: The Cinema of Dorothy Arzner” - でかかったの全て
▪️ Kaos (1984)
▪️ La notte di San Lorenzo (1982)  - The Night of the Shooting Stars
▪️ Leave Her to Heaven (1945)
▪️ The Sugarland Express (1974)
▪️ “Martin Scorsese Selects Hidden Gems of British Cinema” - でかかったの全て
▪️ The Talk of the Town (1942)
▪️ Silent Sherlock (1921-1923)
▪️ The Train (1964)
▪️ Point Break (1991)
▪️ The Bishop's Wife (1947)


[art]

やけくそのようにいっぱい見た。何を見ても楽しい。
セザンヌのアトリエやアッシジのサン・フランチェスコ大聖堂とか、ずっと行きたかったところにも行けた。

▪️ Impressionists on Paper : Degas to Toulouse-Lautrec  @ Royal Academy of Arts
▪️ Nicolas de Staël  @ Musée d'Art Moderne de Paris
▪️ Viva Varda ! @ La Cinémathèque française
▪️ Sargent and Fashion @ Tate Britain
▪️ Women in Revolt !  Art and Activism in the UK 1970-1990 @ Tate Britain
▪️ Yoko Ono: Music of the Mind  @ Tate Modern
▪️ Isabel Quintanilla's intimate realism @ Thyssen-Bornemisza Museo Nacional
▪️ Frank Auerbach. The Charcoal Heads @ The Courtauld Gallery
▪️ Klimt Landscapes @Neue Galerie NY
▪️ Francesca Woodman and Julia Margaret Cameron: Portraits to Dream In @ National Portrait Gallery
▪️ Expressionists: Kandinsky, Münter and The Blue Rider @ Tate Modern
▪️ Now You See Us : Women Artists in Britain 1520–1920. @ Tate Britain
▪️ Preraffaelliti - Rinascimento Moderno @Musei di San Domenico
▪️ Paris 1874. Inventing Impressionism @ musée d'Orsay
▪️ Chefs-d'œuvre de la collection Torlonia @ Musée du Louvre
▪️ Francis Bacon: Human Presence @ National Portrait Gallery
▪️ Deborah Turbeville: Photocollage @ The Photographers' Gallery
▪️ Medieval Women: In Their Own Words @ British Library
▪️ Surrealism @ Centre Pompidou
▪️ Chantal Akerman: Traveling @ Jeu de Paume
▪️ 志村ふくみ 100 歳記念 ―《秋霞》から《野の果て》まで― @ 大倉集古館
▪️ Olga de Amaral @ Fondation Cartier pour l'art contemporain
▪️ Pierre Bonnard - Bonnard au Cannet @ Musée d'Art Moderne de Paris
▪️ Ribera - Shadows and Light @ Petit Palais
▪️ Mon ours en peluche @ Musée des Arts Décoratifs
▪️ Vanessa Bell - A World of Form and Colour @ MK Gallery
▪️ Rembrandt – Hoogstraten : Colour and Illusion @ Kunsthistorisches Museum
▪️ Medardo Rosso: Inventing Modern Sculpture @ museum moderner kunst stiftung ludwig wien
▪️ Alfred Kubin @ Albertina modern
▪️ Ghent Altarpiece @ St Bavo's Cathedral, Ghent


[theatre]

44本見ていた。今年は演劇のおもしろさに目覚めてしまった年かも知れない。音楽のライブに近い位置づけなのかも。

▪️ Dear Octopus (24. Feb) @ National Theatre
▪️ The Motive and The Cue (21. Mar) @ Noël Coward Theatre
▪️ London Tide (24. April) @ National Theatre
▪️ The Cherry Orchard (18.May) @ Donmar Warehouse
▪️ Skelton Crew (16. July) @ Donmar Warehouse
▪️ Illinoise (31.July) @ St. James Theatre
▪️ Slave Play (13. Aug) @ Noël Coward Theatre
▪️ The Other Place (12.Oct) @ National Theare
▪️ Macbeth (26. Oct) @ Harold Pinter Theatre
▪️ The Fear of 13 (02.Nov) @ Donmar Warehouse
▪️ All’s Well That Ends Well (05.Dec) @ Sam Wanamaker Playhouse
▪️ The Importance of Being Earnest (14. Dec) @ National Theatre


[music]

CDもレコードも買わなくなり(その分が本に流れ)、ライブは体力的に無理なく、チケットが取れる範囲で、になった。見たのは43本。 でも音楽はずっと変わらず、とても大切。

▪️ Caetano Veloso (4. April) @ Brooklyn Academy of Music
▪️ The Magnetic Fields: 69 Love Songs 25th Anniversary (5-6. April) @Town Hall
▪️ Cat Power Sings Dylan: The 1966 Royal Albert Hall Concert (1. May) @ London Palladium
▪️ Primavera Sound Barcelona 2024 (30.May - 1.June)
▪️ Anohni and the Johnsons (2.July) @ Barbican Centre
▪️ I Want Absolute Beauty (24.Aug) @ Jahrhunderthalle
▪️ Elvis Costello & Steve Nieve + the Brodsky Quartet (22.Sep) @ London Palladium
▪️ The The (01. Oct) @ O2 Academy Brixton
▪️ Laura Marling (29. Oct) @ Hackney Church
▪️ 50th Anniversary of Radio City (31. Oct) @ Hackney Church
▪️ Víkingur Ólafsson & Yuja Wang: Two Pianos (01.Nov) @ Royal Festival Hall


そして帰宅したら冷蔵庫が動かなくなっている…
今年もよい作品に出会うことがらできますようにー。