11.06.2024

[music] Laura Marling

10月29日、火曜日の晩、Hackney Churchで見ました。

ここでの4Days(間1日あく)の初日。チケットはずっと売り切れで、3日くらい前にキャンセル待ち(スタンディング)のが取れた。

開場の19:00くらいに会場の教会に着いたら、すごい列が前の公園をぐるうーっと囲んでいて、こんなに入るのかしら? だったのだが入った。
教会だけどふつうにバーがあるし物販もやっている。新譜リリースにあわせたプリントもあったのだが、”Goodbye England”の – この曲好きなので - 手刷りサイン入りプリントを買った。

前座なしで20時過ぎに始まる。ひとりでギターを抱えて出てきて”Take the Night Off”から。彼女のライブを見るのは2011年のNYのWebster Hall以来だと思う – ロックダウン期間中に配信ライブはあったか - が、変わらずギターのストロークが力強い。かき鳴らすなんてレベルではなくブロックのようにどかどか落ちてくるかんじで、そこにあの澄みすぎてどこで鳴っているのか見えなくなる声が重なる。今回の新譜 – まだ聴いてない – は母になったことや育児の経験が反映されていると言われているが、多少滑らかになったくらいで、コアのがしゃがしゃ重層で揺らしてくるライブのギターの音色はハードコアとしか言いようがない。ライブで聴いてみてほしい。

”Goodbye England”まで演ったところで新譜のコーナーになって、左手に弦楽隊とベースの人、右手にはコーラス隊(名前はDeep Throat Choir…)が加わる。音は少しだけドリーミーな、滑らかな布団に包まるようなかんじでなだらかに高揚していくのだが、根本に横たわる違和、のトーンは頑固に変わらない。研ぎ澄まされればされるほど、のかんじはCocteau Twinsにあったものに近いかも。本人はそもそもフォークミュージックとはこういうものなのだ、と言うのだろうが。

一応言っておくけどアンコールはやらないのでー(昔からそう)、とあっさり告げてさらりと去っていった。


Iron & Wine


10月30日、水曜日の晩、London Palladiumで見ました。
イギリスのフォークの翌日には、アメリカのフォークを。数日前にチケット売れているのかしら? と見てみると前から4列目とかが出ていたので取ってしまった。

彼らを最初に見たのはCalexicoとの共同制作EP - ”In the Reins” (2005)のツアーの時で、これがすーばらしくよくて、Iron & Wine単独でのRadio City Music Hallでのライブも見て、アメリカで人気があるのはわかるのだがイギリスではどうなのか? フォーク的なものの質感からして結構違う気がする。イギリスのフォークって、アメリカだとブルースの方に近いのでは、とか。

バンドはSam Beamを中心に弦が2人、Key, Bass, DrumsでKey以外はすべて女性。Drumsとかすばらしく、豆を散らすようなよい音。

ステージの左手には、テーブルの上のOHP2台を操作する男女二人組 - シカゴのManual Cinemaがいて、切り絵とか影絵とかススキとかを駆使して月とかウサギとか落ち葉とかうっとりの幻燈世界を映しだす。ライブに合わせて手元でヴィジュアルを作って投影していくのって、むかしTown HallのBright Eyesで見たのが最後だったかも。

彼らのレコードは随分長いこと聴いていなかったのだが、Samの歌い方が少しアグレッシブに、力強くなったかも。昔は仙人みたいに静かで祈るように歌うかんじだったのだがとても気持ちよさそうに。だからどう、という話ではなくてこのバンドのどこで何をやっても - 自作だろうがカバーだろうが、均質に素敵に流れていくありようがよく出ている、と思った。


昨晩はTVつけないでスマホも見ないようにして寝て、起きたらほぼ決まっているようだった。
まっ暗。絶望。第2期ブッシュ政権の時よりも、ヒラリーが負けた時よりも(どちらの時もアメリカにいた)重くて暗いかも。だって犯罪者なんだよ。
たくさんのパレスチナの人たち、ウクライナの人たち、非白人の子供たち、なにも知らない動物たちが排除され、追われ、殺されていくだろう、森も氷河も無くなっていくだろう、これらすべてが「彼ら」白人の目先の利益追求のために正当化され、そのためのデマや隠蔽が茶飯事となっていくだろう。ぜんぶ正義の反対側の悪いことで、そうなるであろうことを十分にわかっていながら止められなかった。国の違いとか関係ない。悪いものは悪い。放置してはいけない。と言いたいけど今は力がでない…

イギリスにStop Trumpっていうトランプ阻止団体?があって、2017年頃、彼が渡英してくる時にデモとかやっていたのだが、昼過ぎに再起動したぞ、ってメールが来た。 あの風船人形とかまだ取ってあるのかな?

[film] The Train (1964)

LFFが終わったあとのBFIでは、12月までのでっかい特集として”Art of Action: Celebrating the Real Action Stars of Cinema”というアクション映画特集をやっていて(あと、”Echoes in Time: Korean Films of the Golden Age and New Cinema” - 韓国映画史を俯瞰する特集も)、サイレントの頃からキートンから『七人の侍』からジャッキー・チェンからターミネーターまで、なんでもありなのだが、特集の目玉は4KリストアされたKathryn Bigelowの”Point Break” (1991) - これまで権利関係で公開できなかったものが漸く、だそうで予告を見ると確かにおもしろそうかも。

そこから見た何本かを纏めて。見た順で。

The Long Kiss Goodnight (1996)

10月23日、水曜日の晩に見ました。監督はRennyHarlin、邦題は『ロング・キス・グッドナイト』。

小学校の先生をしているGeena Davisは小さな町で娘とBFと幸せに暮らしているのだが、8年前に妊娠した状態で浜辺で倒れているのを発見され、でもそれより前の記憶がないのが不安で、でもクリスマスパーティの後の自動車事故のショックで自分のなかの何かが目覚め、同時にTVで彼女を発見した悪そうな連中がわらわら追ってくるようになり、探偵のSamuel L. Jacksonと一緒に逃げたり戦ったり - 身体が反射して動く - しながら自分を取り戻していくうち、自分がCIAの凄腕スナイパーだったことを知り…

90年代、絶好調だったRenny Harlinと同様にドル箱脚本家だったShane Blackのコンビなので、なんの捻りもないどかどかと大味のアクション(これでもくらえ → どかーん)が繰り広げられていくばかりなのだが、どこか懐かしいし、これくらいで丁度よい(なにが?)のかも。ぼろぼろに引きずられた挙句、”Oh Shit..”って呻きながら彼方に吹っ飛ばされる定番Samuel L. Jacksonを見れるだけでもすばらしい。Geena Davisもかっこよいのだが、なんか、どこか無理しているかんじ – 眠らせていた女を目覚めさせたら怖いぞ、っていう強引なイメージ作りに貢献しているようなところとか、ね。

そして結婚していたRenny HarlinとGeena Davisはこの後離婚しました、と。


Captain Blood (1935)

10月27日、日曜日の昼に見ました。監督はMichael Curtiz、邦題は『海賊ブラッド』。35mmプリントでの上映。

まだそんなに有名じゃなかったErrol FlynnとOlivia de Havillandを主演に据える賭けに出て大成功した作品。
17世紀のイギリスで、外科医をしていたBlood (Errol Flynn)が逮捕されて死刑寸前のところを西インド諸島に流されて、そこのお嬢さんArabella (Olivia de Havilland)に買われてどうにか生き延びて脱走計画をたてるが、ばれていよいよやばい、ってなったところで横からスペインの襲撃にあって、そのどさくさで海賊になって名をあげて… という波乱万丈の巻きこまれ成りあがり海賊ロマンで、さくさく流れて2時間あっという間。終わってみんな大拍手で。

Bloodの何も考えていないふうでとにかく目の前の危機を乗り越えてなんとか生きていく能天気さと、同様に一切の湿っぽさを見せないArabellaの都合よい軽さ適当さが大恐慌の時代には必要だったのだろうかー。海賊のモンスターみたいに陰惨な、あるいは残酷で貪欲なイメージとは真逆のその場限り無責任男一代で、これなら自分も海賊になれる、って思った人は多かったに違いない。

当時のイギリス、スペイン、フランスとの関係もてきとーにわかって勉強になるけど、みんな英語で会話できたの? とかいつもの…


The Train (1964)

10月27日、日曜日の夕方に見ました。監督はJohn Frankenheimer。邦題は『大列車作戦』。こんなおもしろいのあったのかー、だった。

実話ベースの話ではないが、実際に絵画が運び出されそうになったことも、その手前で発見されたこともあるし、これをアメリカ軍の側から描いたGeorge Clooneyの”The Monuments Men” (2014)もあったよね。

第二次大戦末期のフランスで、ドイツ国防軍が国宝のような美術品 - ゴッホ、セザンヌ、ルノアール、ピカソ、ドガ、等々を次々梱包して列車でドイツ側に運び出そうとしていて、それを断固阻止すべくレジスタンスのBurt Lancasterたちと鉄道員たちが一緒になって飄々と妨害工作を繰りひろげていくの。でもそう簡単には行かずに作戦実行の度に沢山の人が消されていって、たかが絵画のために? って問いが繰り返されるのだが、Burt Lancasterのずっと噛んでいる苦虫と最後のくそったれ、がすばらしい。

最初の方に出てくる機関士のMichel Simonとか駅前食堂/ホテルのJeanne Moreauのそこらにいそうな疲れたかんじもかっこいいし、実際に列車を走らせて、止めて、脱線させてを実際にやっている、そのアクションの重さでっかさには感嘆しかない。走っている狂暴な列車を無理に停めたり壊したりすること、それを再び走らせること、そのために何をするのか、何が必要なのか、等が小さな人々の走りまわるシルエットに重ねられていって、その上に突然飛行機がやってきたり、というめくるめくな展開。

鉄道員たちひとりひとり、そんなに言い合ったりすることもなく、静かに沸騰している佇まいがたまんなくよくてー。


とってもどうでもよい話。BFIではフィルム上映前に、いつも予告数本とLloyds BankのCMが掛かって、このLloydsのCM(子供積み立てみたいなやつ)がすごくださくて不評で(日本の映画泥棒のよりはまし)、元気な客がいるときは”Rubbish~!”って罵声(→拍手)になるのが恒例だったのだが、1年くらい続いていたこのCMがLFFの後についに変わって、スポンサーは変わらずLloydsなのだがちょっとほっこり系のになった。少しはおとなしくなるかな.. と思ったら、先日やはり”Rubbish!!” “Still!!”って...

11.04.2024

[theatre] Macbeth

10月26日、土曜日の午後のマチネーを、Harold Pinter Theatreで見ました。

これの前日、金曜日の午後にトークイベントがあった。

David Tennant Meets Greg Doran: My Shakespeare

昨年出たGreg Doranの著書”My Shakespeare”について、彼とDavid Tennantがおしゃべりする(+サイン本つき)、というもので、金曜日の午後2時からこんなのやるなよ、ってぶつぶつ言いつつ、おもしろそうだったので行ってみる。こちらに来て少し演劇を見るようになって、演るほうも語るほうも見るほうも、如何にシェイクスピアがいろんなベースとして根を張って豊潤な層としてあるか、その深さと厚みにおそろしくなり始めている時期でもあったので、こういう機会はつかまえて行くようにしている。 休憩1回挟んで2時間強、自身のシェイクスピアとの出会いに始まりシェイクスピアを演出する/演じる深さおもしろさをどこまでも掘って語っていけるふたりだと思うし、司会や客席から投げられたどんな球も軽々と打ち返していたのでそうだと思うが、もっと勉強しな(お芝居見な)きゃ→自分、になった。がんばる。

それにしても、文化階層とか教育とか、いろいろあるにせよ、基層のようなところでのシェイクスピアのこの根のはり方ってなんなのだろうか、っていつも思う。アメリカとか日本にこれ相当のってあるのだろうか? それが文化というものなのだ、って言われたら黙るしかないのか。

で、ちょうどDavid Tennant主演のMacbethをやっていたのでその翌日に見る – ずっとSold Out状態でたまたまキャンセルが出ていたのを買えた(演劇のチケットはだいたい当日とるの)。 演出はMax Webster。休憩なしの約1時間50分。

客席の各椅子にはヘッドセットが置いてあって、それを掛けてみるとテスト用の音声が流れて、聴力テストみたいに右側、左側でそれぞれ音が正しく出ていることを確認させられる。これ難聴の人とかどうするんだろうと思ったが、外してもふつうに舞台の音は聞こえたので、効果を高めるためのものだということがわかった。実際、音質は3Dですばらしくよくて、姿を現さない3人の魔女が耳元で(レフト・センター・ライトで)呻くように呟いたり囁いたりしてくるし、剣の金属のきーんていう音とか、Macbethの声は独り言のような小さいものでも拾われるし、喋りながら自分の髭をなでるじょり、っていう音、息遣いまで生々しく伝わってくる。主人公がいろんな内面の声に縛られ操られたりしながら自壊していくドラマの背景として的確かつすごく効果的ではないか、と思った。

Lady Macbeth (Cush Jumbo)の確信(悪意)に満ちた声とぶつぶつも含めて悩み苦しんでいくMacbeth (David Tennant)の声の – どちらかが打ち負かされ潰れていくドラマはこのサウンドスケープのなかでじわじわと進行していくし、Lady Macduff (Rona Morison)と子供たちが殺される場面も暗闇のなかの音のドラマとして細部まで生々しい。音や声のもつリアリティやニュアンスを舞台用に拡大再生したりしなくても伝えることができる、って結構すごいことではないだろうか。

舞台は奥の半分がガラス箱のように仕切られていて、そこにケルトっぽいどんどこ民謡を演奏したり歌ったりする人たちとか、奥まったところで議論する人たちが詰められていて、前のほうはシンプルな段々がある程度。ガラスの向こう側で決められたり動いたり守られたりしていく何か、フロントでもがいたりのたうち回ったり殺されたりしていく人々、という対比があり、全体のビジュアルは表現主義映画っぽいシャープな光と影のなかで映しだされる。浮かびあがる音像も含めて、ちょっと映画っぽすぎる、というのはあるかも知れない。

他方で、前のめりにのめり込ませるライブの緊張感はやはり演劇のものとしか言いようがなく、David Tennantすごいな、になるしかなかった。

[film] The Room Next Door (2024)

10月27日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
こんなふうに映画祭の1週間後には殆どの新作が見れるようになるのだから、がんばって映画祭のチケット取る必要はない。 でもその皺寄せなのか11/1公開の新作が多すぎてやってらんない。この週末なんて5本見ても追いつかなかった。

ヴェネツィアでプレミアされて金獅子を獲ったPedro Almodóvarの新作 - これが彼にとって初めての英語劇なのだそう。原作はアメリカのSigrid Nunezによる小説 - “What Are You Going Through” (2020) 。

冒頭、NYのRizzoli(本屋)でサイン会をしている作家のIngrid (Julianne Moore) が並んでいた友人からしばらく会っていない友人のMartha (Tilda Swinton)が末期癌の治療をしていて状態がそんなによくないらしい、と聞いて病院 - あの橋、Queensboro Bridgeのようだがあんな角度のとこに病院あった? - に駆けつける。

ふたりは80年代、Paper Magazine - 当時の先端タウン誌 - の仕事で出会って、MarthaはNY Timesの戦場カメラマンだった。ふたりの会話とIngridのMarthaへの寄り添いぶりから彼女たちの絆の深さが見えてくるのだが、最後の望みをかけていた最新の治療法が失敗したことを知ると、Marthaはずっと考えてきたらしい自分の最期までをどう過ごすか、の計画を実行に移すべくIngridについてきてほしい - つまり自分の死を看取ってほしい、と。

考えや思いを共有してきたふたりなので、戦場で死と隣り合わせだったMarthaが考えたこと - 彼女がその決意を変えるとは思えないし、自分が断っても彼女は実行するのだろうし、とIngridは同意してレンタルしたNYのアッパーステイト - ウッドストックの方にあるモダンな山荘 - の設定だけど家のなかのコンセントの形状が違うのであれアメリカじゃなくて、ヨーロッパだよね? - に車で向かう。

隣りのベッドで看護するのではなく、ふたりの部屋は別々にする、だいじょうぶな時は部屋のドアを開けておく、Marthaが自分でもうだめだ、となった時には薬を飲んでドアを閉めておくから、という合図を(Marthaが)決めて、何が起こるのか予測できない共同生活が始まって…

戦地のボスニアに溢れていた死やベトナム戦争でPTSDを患って自殺のように火に飛びこんで亡くなってしまった夫を見てきたMarthaにとって、死はドアの向こうにあるアクセス可能ななにか、でしかない、ということがふたりの部屋の上下斜めになったレイアウトとか、朗読されるJames Joyceの”The Dead”などから明らかになって、あとはそこにVirginia Woolfの”A Room of One's Own”とかIngridの語るDora CarringtonとLytton Stracheyのこととか繋がってくるいろんな予兆など。

いつものPedro Almodóvar映画にある、見えないなにか(よくなかったり汚れていたり)を表に暴きだす際の亀裂とか断層のような要素や展開はそんなになくて、死という未知の領域に向きあうふたりの女性をまっすぐに描いているので、え?これだけ? にはなるかも。でもその分、ふたりを囲む文化周りの記号、その配置がいろいろで、冒頭のRizzoliも、ふたりが会話をするAlice Tully Hallのロビーも、壁に掛けられたPaper Magazineの表紙も、レンタルした家にあったEdward Hopperの”People in the Sun”も、あのレンタルした家の本棚の本も、ぜんぶ気になりすぎてあまり集中できなかったかも。 インテリアも、NYのMarthaのアパートからの眺めとか、作りものってわかっているのに見入ってしまう。

最後におまけのように足されてくるMarthaの娘の件も、これはこれで相当深く掘れたのかも知れないが、そちらは”The Souvenir” (2019)でやってしまったから?とか。

あと、Julianne MooreとTilda Swintonがドラマをするとしたらこの設定しかないのではないか、というくらいにこのふたりのありようって、最初から見えていて、そこから掘っていった、と言われても信じてしまうかも。それくらいー。ただ、もう少しぐさぐさやり合う修羅場のようになるのかも、とか思ったけど、静かだった。


ちょうど、古書でNoel Carrington(Doraの弟)による”Carrington” (1978)を見つけてめくり始めたところだったので少し驚いたり。

11.02.2024

[film] Teaches of Peaches (2024)

10月24日、木曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。
毎年やってくるDoc'n Roll Film Festivalのオープニングで、ロビーは人で溢れかえっていた。上映後にPeaches(Merrill Nisker)とのQ&Aつき。

“The Teaches of Peaches” (2000)のリリース20周年を記念したツアーの記録を中心に、これまで彼女がどんなことをやってきたのかを振り返る - キャリアを総括するようなものではないから間違えないように、と上映後に本人が釘をさしていた。

00年代の音 - Roland MC-505のエレクトロを中心にぶいぶい鳴らしてアゲて、ざっけんじゃねーよ! って蹴散らしていくバンドがいっぱい出てきて、おとなしくて暗めの人たちはDFA - LCD Soundsystemとかの方にいってフロアの床を地味に蹴って、よりパンクな方はLe TigreとかM.I.A.とかPeachesとかに行って踊ったり拳をあげたり噴きあがっていた。 自分はどちらかというと前者の方だったけど、すぐ隣だったり近くだったりしたので、ライブも何回かいった。 あの頃、PeachesやLe Tigreの存在に救われた子とか多かったのではないかしら。

現在住んでいるベルリンのスタジオで、ツアーに向けたリハーサルの合間に、昔の映像が流れてPeachesの前にやっていたThe Shitのバンド仲間だったChilly Gonzalesからのコメントとか、90年代ぼろアパートに一緒に暮らしていたFeist - ローラースケートをはいて謎のキラキラでバックボーカルしている姿が笑える – からのコメントとか。当時からずっとああだったのかー、などと思っていると、子供たちを前にアコギを抱えて歌のおねえさんをしていた時代の映像が微笑ましい。

20周年のだから、と特別に気合いを入れたり思いや抱負を語ったりすることなく、メンバーと一緒に淡々と変てこ衣装やメイクを仕込んでリハで確認してライブでぶちかまして次にいく、その後ろ姿がかっこいいったら。

Peachesの教え - "Fuck the Pain Away"は、20年経っても色あせていないし、たぶんPainは消えることなくまだあって、でも"Fuck xxxx Away"だ! って泡をぶちまける。 彼女のヴォーカルって、どんなに激しく荒れたやかましいライブになっても、言葉としてきちんと届く・届かせるものになっているのだということが映像を見ているとわかる。

彼女とのQ&A、想像していた通りの素敵なひとで、ベルリンに住んでいると今は言論統制とかいろいろあると思いますが.. と問われて、即座に、Free Palestineだ、そんなのあったりめーだ、って強く (大拍手)。


Devo (2024)

10月25日、金曜日の晩、同じくBarbican CinemaのDoc'nRoll Film Festivalで見ました。

開始が18:15で、この日はそのまま↓のにハシゴしたくて、会場間の移動時間を30分とすると結構ぎりぎりなのだがなかなか始まってくれなくて、イントロもゆっくりで、このフェスのそういうずるずる運営がいやだ。

これまでありそうでなかった(あったのかな?)Devoの歴史ドキュメンタリー。

Kent State UniversityでGerald CasaleとBob LewisとMark Mothersbaughが出会って楽器も何もないところから始まるのだが、オハイオの州兵に学生たちが撃たれたあの事件 – Neil Youngの歌ったあれ - が起こった当時の学生だった、というのに驚く、のと彼らが作った冊子とか落書き、ばかばかしい写真に映像、証言とかも全部取ってあってどれも当時から一貫していたのがおもしろすぎる。 NYに出てからBowieに惚れられてEnoを紹介されて、というその過程もDe-voとしか言いようのない野心を欠いた(ように見える)転がりよう - ところてんが押しだされるみたいに種も仕掛けもないかんじなのがすごい。

日本では(たしか)江口寿史の漫画でギャグのように紹介されていたのだが、実際にStiffから出た”Jocko Homo"を聴いたら痛快に尖がっていて、びっくりしたのを思い出す。Talking Headsより断然パンクじゃん、と当時思ったし、いまも少し。

低迷期を抜けて再び盛りあがろうとしていた90年代辺り – 残り10分くらい - で次のがあるので泣きながら抜ける。 バンドの立ちあがり~黎明期の一番クリスピーで膝を何度も打ってしまうところを確認できたのでよしとした。 資料が十分に網羅されていてわかりやすく、音楽ドキュメンタリーの見本のようにとてもよくできていた。 いつか再見したい。

結成から約50年が経って、人類は着実にDevoしてきたと思われるのだが、バンドはその逆になっているのではないか? という辺りについて最後にコメントを聞けたのではないか、とか。


S/he is Still Her/e: The Official Genesis P-OrridgeDocumentary (2024)

10月25日、金曜日の晩、↑のに続けて BFI Southbankで見ました。BarbicanからSouthbankに向かうバスが来なかったので仕方なくタクシーを使った。今年赴任してからタクシーを使ったの2回め。

ロンドンプレミアで、客席にはPeachesもいたらしい。 Genesis P-Orridge (1950-2020) のドキュメンタリーは2022年にMOMAの配信で”Other, Like Me: The Oral History of COUM Transmissions and Throbbing Gristle” (2020) を見ているし、その前にも”The Ballad of Genesis and Lady Jaye”(2011) というのがあったし、少しだけまーたかよ、にもなるのだが、これは”Official”ドキュメンタリー、だという。たしかに、アーティストの - 人としてもだけど - 生きざまとしておもしろすぎ、というのはあるかも。人生そのものがアートでした、というよく使われる文句がこの人ほどイメージとして鮮明に表出して、その変貌も含めてアート的に痛快に転がっていった例を知らない。そして本人はそれらを特に狙ってやっていったわけでもない、いろんな人たちとの出会いのなかで巻きこまれるように紡いでいった(本当かどうかはわかんないけど)ように見えるぐんにゃり柔らかい動物のような不思議さと不穏さと。

生まれ育った頃からCOUM~TG~Phychic TV辺りまでのことは、ヌードの肖像画を描いてもらっている晩年の彼/彼女の様子と並行して語られ、内容としてはほぼ知っていることばかりだったのだが、90年代、QueensのRidgewoodに移り住んでLady Jayeと出会った辺りからがおもしろくなる。 Love and RocketsのKevin Haskinsが語るRick Rubinのスタジオの火事で焼けだされた時のこととか(他にもいっぱい)。

上映後に監督のQ&Aがあったのだが、夢にGenesisが出てきてドキュメンタリーを作ってほしい、と言われたので本人に会いにいった、とか、聞き手のひとも自分のことばかり喋っててちょっとつまんなかったかも。そういう磁力みたいのがあった人、であることはよくわかった/しってた。

一瞬、“Pretty Hate Machine”のジャケットが映ったりもする。