11月15日、金曜日の晩、Curzon BloomsburyのDoc-Houseで見ました。
今年のベルリンでプレミアされ、Panorama Audience Award for Best Documentary Filmを受賞している。
その際にパレスチナのBasel AdraとイスラエルのYuval Abraham、共同監督のふたり(あともう2人クレジットされている)が同じテーブルで会見できないことが話題になったりしたのを憶えている。
監督のBaselが、子供の頃からずっと住んでいたWest BankのMasafer Yattaの家を軍の戦車によって潰され、家族親戚揃って問答無用で追い出される様子が描かれる。Baselはその様子をカメラで撮る。何度撮るのをやめろ、軍の訓練用に使うことになった土地だから、と執拗に陰険にやってきて彼らを追い払い、抵抗する住民に銃を向け - なんの躊躇もなく撃ったりするイスラエル軍の様子を、Baselは何度でも、カメラを取り上げられそうになっても逃げて、撮り続ける。
「ここからどけ、他に行け」というイスラエル軍に対して「他なんてない」 - “No Other Land”だ、というやり取りが延々繰り返されていく、それだけの映画である。
人は生きている限り住む場所を必要とする。どこそこに行け・移れ、と言うのではなく、その場所から出ていけ、というのは、お前なんて消えてなくなれ、と言っているのに等しくて、イスラエルのやっていることはそういうこと、彼らにこの地上から消えてほしい、と明確に告げていて、これは彼らがガザでやっている虐殺とも整合することなので驚きはない。
最後の方で軍の訓練で使う土地だから、とイスラエル側の理由づけも彼らのウソだったことがわかり、そんなウソをついてまで他者に向かって消えてくれ、と言う - なんでそんなことを言えるのか、は本当にわからないし、わかりたくもない。過去に同様のことをされて土地を追われた - そんなことが理由になってよいわけがない。
少しだけ救いなのはどれだけ追われても暴力をふるわれても、岩だらけの土地に住処を拵えて水や電気を引いてこれまでと変わらない暮らしを続けていく彼らの強さと、どこからどうしてやってきたのか彼らと寝食を共にして撮影に参加してくるイスラエルの若者Yuvalと、そんな彼がそこにいることを許すBaselたち、だろうか(日本人だったらみんなで袋叩きにするのではないか - 既に起こっているようだが)。
自分がこれまで見てきた映画の多くは、「ここではないどこか」へ移ること、移れることを自明の理として、その前提に立って展開されるものだった(拘束されたり閉じこめられたりの不条理・非現実も含めて)。この映画で描かれるリアルは本当に、実際にそういうことが起こるとどうなるかを淡々と示す。ポスターには岩場に寝転がっているBaselの姿があるが、本当にそれしかできないのだ、ということ。そうなった時に映像には何ができるのか、それでも何をすべきなのか、を問う。
いまの世の中は、どれだけ酷いことになっても誰も助けてくれない状態 - 司法は機能しないし正義や倫理が成り立たない状態 - が十分にありうる、ことを嫌と言うほど見せてくれる。自分の周囲で本当にこういうやばい状態になった時への備えも含めて、まずは異議を唱え続けるしかないのか…
11.30.2024
[film] No Other Land (2024)
11.29.2024
[film] Bird (2024)
11月17日、日曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
監督はドキュメンタリー”Cow” (2021) がよかった英国のAndrea Arnold - 他には”Wuthering Heights” (2011) とか - で、これはフィクション。
Barry KeoghanとFranz Rogowskiという、英独を代表する肉の痛みとうねり剥き出し系男優が一緒に出ているので、ものすごく肉体として痛そうな描写とかあったらやだな、だったのだがそれはなかった。 そんなことより、小さい作品だったけどすごく沁みてよかった。予告を見たときは、またこういうの(とは?)かー、って思ってしまったことを反省。
12歳の女の子のBailey (Nykiya Adams)が主人公で、郊外の廃屋のような集合住宅に父親のBug (Barry Keoghan)と暮らしていて、彼のタトゥーだらけの上半身はいつも裸で、近所をスクーターですっとばしていてご機嫌に変なダンスを踊ったり歌ったり、とっても機嫌がよいのでなぜ?と聞いたら、ここんとこ一緒にいるKayleyと結婚するんだおまえも式にでろ、衣装も買ってきたからほれ、って。頭にきた彼女が家に戻らず、異母兄で自警団をやっているというHunterと会ったりしていると、草っ原の真ん中で浮浪者みたいに怪しげなBird (Franz Rogowski)と名乗る男と出会う。彼はかつて住んでいた家とそこにいた母親を探している、というのだがそれらしいアパートに行ってみてもいなくて…
Birdの持っていた住所が自分の生母のいるところと同じアパートだったので、彼女なら何か知っているかも、と訪ねてみると幼子たちを連れた彼女はしょうもないDV男と暮らしていて、どいつもこいつもー になる。「家族」が嫌で、そこから弾かれたひとりの少女が日々表情を明るくしたり暗くしたりしながら家を、家族を探して彷徨うお話しなのだが、どこに行っても解決できそうな状態なんてなくて、みんな家畜や鳥や虫と同じようにそこらを移ろいながらどうにかしていくしかない。でもよく見てみれば鳥だって虫だってふつうに強いし。
どうやって生計を立てているのか謎のBugもちんぴら稼業のHunterも、まあ雑な、政治とかどうでもよいし金が入って日々楽しく過ごせればの、今の典型的なうざくて厄介で関わりたくない男性像そのもので、誰もBaileyのことをわかってくれない状態だったところにきょとんとした鳥顔で現れたBirdは、そのぽつんとビルの屋上に立つ姿も含めてBaileyに鳥の目の高さと自由を示してくれるようで、でもBirdは最後まで鳥の気高さを失わずになんかかっこよいの。
カメラはずっとひとりぼっちのBaileyに寄り添い、ゴミ箱に捨てたくなるどーでもよいゴミ男たちをてきとーに流して、Birdの、彼の家族に対する思いとBaileyのそれを並べてみせる。どれだけ酷く扱われて棄てられても、「彼ら」と自分らがいることは動かしようがなくて、そこから飛ぶことも渡ることも還ることもできる。
Barry Keoghanは相変わらず余裕ですばらし - この人の幅の広さって独特 - いのだが、やはりFranz Rogowskiのすごさ。Michael Keatonの”Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)” (2014)を軽く超えて鳥にしか見えなくなる。
音楽は監督がPVを撮ったりしているFontaines D.C.の鳴りっぷりがパンクでかっこよくて、こいつらよいかも、って今更…
というわけで、おうちに飛んで帰ります。
ばたばたすぎてぜんぶだめだった…
11.28.2024
[dance] Exit Above - after the Tempest
11月12日、火曜日の晩、Sadler’s Wellsで見ました。
8月にEssenのMuseum Folkwangでのインスタレーション”Y”を見て以来となるAnne Teresa De Keersmaeker / Rosas作品。Folkwangのは絵画の展示スペースで演者も見る方もランダムに動きまわっていく通常のとは違うやつだったが、これはステージ上で客席と会い対するやつ。初演は2023年の5月。どこかしら”Bagavond”ふう - マンガじゃなくて映画のほう - の衣装はAouatifBoulaich。休憩なしで80分くらい。
がらんとした舞台の隅にはギターが数本立ててある、だけ。最初に男性のダンサーによるストリートダンスぽいソロの後、ギターを弾く坊主頭のCarlos Garbin、それに合わせて歌を歌う小柄なMeskerem Mees、彼らもダンスには加わって計13名がこちら側に向かって直線的な集合離散を繰り返していく。
自分が知っているRosasのダンスはダンサーの束がひたすら流れを作ってその流れに乗って乗られてという滑らかな流線の縁に沿って進んでいくものだったが、この作品のテーマはRobert Johnsonのブルースを起点とした歩くこと、彷徨うことにあるという。ギターの人が琵琶法師のようにじりじりとアーシーなギターを鳴らし、そこに小さな女性がよく届く澄んだ歌声を乗せ、それにのっかるダンスはてんでばらばらのようで垂直方向(Exit Above)への突破というか抜け道を探しているような動きを見せる。 “after the Tempest” – すべてがなぎ倒されてしまった嵐の後に人が向かうのは、動くのはあんな角度の、あんな速度の群れ - になるのだろうか。やはりどこかしらコロナの後、という印象が強く、まとまった全体・総体を見せる、というよりはこれからこっちの方、という予兆のようなもの見せているような舞台だった。
上演後、Anne Teresa De Keersmaekerを交えたQ&Aがあり、彼女が喋る姿をはじめて見たかも。
これまで約45年間で65作品を作ってきて、コロナもグループ内の虐め問題も経て、落ち着いて今とこれからを見据えている、そんな印象を受けた。
MaddAddam
11月14日、木曜日の晩、Royal Opera Houseで見ました。
翌週の出張の日程を考えると、この日を逃したら見れなくなることがわかったので、当日にチケットを取って見にいった。
原作はMargaret Atwood - 本舞台のコンサルタントとしても参加している - のMaddAddamトリロジー (2003-2009-2013) - 未読、振付はWayne McGregor、音楽はMax Richter(のオリジナル)、ナレーションで声をあてるのはTilda Swinton。初演は2020年のカナダで、これがヨーロッパでの初演となる。
スクリーンがあり、プロジェクションがあり、ライティングは滑らかに制御されていて、人の倍くらいの大きさの被り物クリーチャーが出てきて、衣装(by Gareth Pugh)はやや近未来風で、まずは↑のと比べると(比べるな)ものすごいお金がかかっていることはすぐにわかる。 パンデミック後の荒廃したディストピアで、でっかい組織のコントロールとそこからの遺棄や逃走~再生、生物・非生物をめぐる壮大な愛と絶望(と希望?)の物語 – らしきものが展開されていることはわかるのだが、自分がダンスに求めているのはその種のでっかい物語的な何かではないので、ちょっとううーむ、になった。Oryx役のFumi Kaneko、Crake役のWilliam Bracewell、Jimmy役のJoseph Sissensなど、個々のダンサーもダンスもアンサンブルも申し分ないレベルなので、ややもったいなかったかも。この原作が表そうとしていたのかも知れぬ権力やコントロール、ひとに対する制御のありようと、コンテンポラリーダンスの(おそらく自分が求める)向かうところがなんか噛みあっていないような。
Wayne McGregor & Max Richterだと、”Woolf Works”がすばらしくよかったので、ここで示された過剰さ、てんこ盛りのかんじってなんなのだろうか、って少しだけ。
11.25.2024
[theatre] OEDIPUS
11月11日、月曜日の晩、Wyndham's Theatreで見ました。
古代ギリシャ悲劇をRobert Ickeが翻案し、演出もしていて、2018年にオランダで初演され、2019年にエジンバラの演劇祭でも再演されたもの。休憩なしで約2時間。
冒頭、幕が下りた状態で選挙キャンペーン中のOedipus (Mark Strong)のプロモーション映像が流れる。結構長めに有権者の発言から彼自身の揺るぎのない言葉と自信に満ちた立ち姿、そんな彼を支える妻Jocasta (Lesley Manville)まで、出生証明書? 勿論ちゃんと出しますよとか、どこの代理店が作ったのか政治家として申し分なさそうな好い印象を与えて、幕が開くと選挙戦が終わって後は開票結果を待つばかりの彼の事務所になる。
舞台の右手には開票結果が出る迄の時間だろうか、デジタルの文字盤が舞台上で経過する時間とシンクロしてカウントダウンしていって、頭の切れる実践者としてのOedipusと現実を見て漏れなくカバーしていく庇護者としてのJocastaのコンビは勿論、彼の子供達にずっと一緒のスタッフたちからキャンペーンを仕切っていた義兄のCreon (Michael Gould)まで、人々が慌しくざわざわ行ったり来たり、事務所を片付けたり宴をしたりしつつも最後まで感触が悪くなかったせいか皆一様に明るく騒がしく既に緩やかなお祝いムードで、それでもこれまでとこれからについてCreonとの間でちょっとした波風が出ては消え、ひとりぽつんとやってきたOedipusの母Merope (June Watson)がどうしてもあなたに言っておきたいことが、と何度か出てきて、いまちょっとバタバタだからごめん、と脇にどいてもらっていた彼女が最後に…
開票直前のこんなタイミングになんでどうしてそんなことを?というドラマとしての強引さのようなものはあるものの、これがいろんなレベルで「政治」の根幹を揺るがすスキャンダル - どころではない大ごとであることは確かなので客席のほうは「ひぃ」って固まって悲劇が転がっていくのを見ていることしかできない。
全くだれることなく張り詰めた状態のままに(選挙)戦の熱狂からどん底の最後までじりじり持続させていく構成は見事だし、ギリシャ悲劇のテーマをこんなふうに現代の選挙戦に織りこんで見せるのっておもしろいと思いつつも、これを現代の選挙/政治のありように接続して語るのであれば、あのエンディングの後を見たいし、見せるべきではないのか、とか。せっかくあれだけの俳優を揃えたのだからさー
Lesley Manville は、2018年にJeremy Ironsと共演したRichard Eyre演出の”Long Day's Journey into Night”の舞台を見て、ただそこに立っているだけ、その背中だけでも.. のすさまじい存在感に圧倒されたし、Mark StrongはNTLの”A View from the Bridge” (Arthur Miller)でやはりすばらしい輪郭線だったし、そんなふたりの激突なのでなにが起きたって大抵のことは、でだから猶のこと、あと少し… これが演劇だ、みたいな瞬間はいっぱいあるけど。
悲惨な結末であることは確かで、でも他方でこれがなんで現代の悲劇として成立しうるのか、については人によっていろんなことを言えたり考えたりする余白、のようなものを与えてくれたりもする、という点では、よい意味で開かれている気もして、いろんな人に見られてほしいな、って。
11.23.2024
[film] Red One (2024)
11月10日、日曜日の午後、Leicester Squareのシネコンで見ました。
クリスマス映画で、ポスターの真ん中にあんなようなでっかい白熊がいて、Dwayne JohnsonとChris EvansとLucy Liuが並んでいたら、これぜったい見なきゃ、ってふつうなるよね。
“Red One”と呼ばれる超人のようなハイパフォーマーであるサンタクロース(J. K. Simmons)がいて、Dwayne Johnsonは彼のガードを含む警備隊長をずっとやってきたのだがもう引退することを考えていて、でもクリスマスイブを控えたある日、Chris Evansのチンピラハッカーが厳重に管理されていたサンタの場所を漏らしてしまったので、悪の組織がサンタクロースを誘拐・監禁して、世界中のクリスマスを混乱させて真っ暗にしようとして、Dwayne JohnsonとChris Evansがどつきあいながら救出作戦に乗りだすの。サンタはプレゼントをイブの晩に配達することができるのか? って。 設定もストーリーもぜんぜん悪くなさそうなのに、ぜんぜんしまらない展開になってしまったのは、白熊がフロントに出てこないのと、巨大トナカイ戦隊を自在に働かせなかったのと、Lucy Liuにちょっとしかアクションさせなかったからではないか。 どうせならFast & Furiousのシリーズみたいに、だいじなのは家族と筋肉と車、みたいに吹っ切ってぶっ飛んだどんぱちにすればよかったのに。
というか、サンタがあんなマッチョな超人で、あれだけ厳重装備と組織で守られているのに、なんでプレゼント配りしかしないの? 子供たちの願いをかなえてあげるのが、仕事なんじゃないの? って、“Elf” (2003)に出てきたサンタのすばらしさを改めて思った。
『ダイ・ハード』の約10倍の予算を使った作品だそうで、あーなんてもったいない、そのお金で子供たちになんかしてあげた方がどんなにか、っていうアンチ・クリスマスの方に行ってしまう危惧すら。
Christmas Eve in Miller's Point (2024)
11月17日、日曜日の昼、ICAで見ました。
これもクリスマス・イブを描いたコメディで、↑のの100倍くらいよかったかも。
作(は共同)・監督・プロデュースはTyler Thomas Taormina、今年のカンヌでプレミアされている。
出演もしているMichael Ceraはプロデューサーとしても参加している。
クリスマス・イブの晩、Balsano familyの夫婦や子供たちが代々から続く一軒家にどこからか集まってきて、Michael Ceraは車の中でスピード違反とかを監視している警官(この後も何度か出てくるがほぼむっつり何もしない)で、家では料理作るのが大好きなおじさん(よくいる)が大量の料理を作っては盛大に並べていて、仲良い親戚 - よくない親戚 - 知らない親戚たちはとにかく朗らかにキスしてハグして子供たちは床とか隅とかにわらわら散っては固まり、とにかく意外な光景は何ひとつない。お正月、盆暮れで見慣れた動物たちの群れを見事な編集で繋いでいくなか、誰が誰なのか、どういう関係や過去があったりするのか、などがぼんやりと浮かびあがってくる。飽きずにいくらでも見ていられる絶妙な滑らかさ。
いつの間にか宴が始まってからも老人、夫たち、妻たち、子供たちのサークルは群れては解れを繰り返し、小さな波風は立つものの見知らぬ誰かのとんでもない狼藉が何かをぶち壊すことはなく、寧ろその輪郭を強く温かく固めていって、そのうちみんなで恒例らしいイブの晩の消防車のパレードを見に行って、そのうち女子ふたり - Matilda Fleming & Francesca Scorseseがそこを抜け出して車で夜遊びにでて行ったり、大人たちはおばあちゃんが亡くなった後のこの家をどうするかについて議論していたり、それでも… (以下延々)
みんなの定番”Love Actually” (2003)や、こないだの”That Christmas” (2024)のように無理しなくても、誰かが誰かを抱きしめたいと思ったり願ったりする、それさえあれば、その兆しが見えるのであれば、クリスマス映画なんてこんな金太郎飴でよいのだ、というのを確信させられてしまう。そしてそこに魔法も筋肉もいらない。
そして、ラストにThe Ronettesの”Baby, I Love You”が大音量で流れるので、それだけでもう何も。
11.22.2024
[art] Paris -
今回は(前回も、か)主要美術館など、いくつかを走り抜け。
Figures du Fou - From the Middle Ages to the Romantics
Musée du Louvreでの「愚者の形象」展。中世の写本から始まって、愚者や道化や狂気はどんなふうに表象されてきたのか、彫刻から絵画からいろんなシンボルまでExpo的に並べてある。日本のお化けや妖怪に近い - 日常の言葉やコードが通用しないなにか、非日常への畏れと誘い、と落としていくと民俗学的な展示になりがちなところをうまく絵を繋いで見せていったような。
映画”Joker: Folie à Deux” (2024)とコラボしたと聞いて、えーあれとはぜんぜん違うんじゃねえの? とか。
ボッシュがあって、ブリューゲル(父子)はもちろん、ロマン派~ゴヤまで。彼らが描いていた当時、こんなふうなバカ博覧会でネタ化されて並べられるなんて思いもしなかっただろうなー。そして出口のところにぽつりとあったクールベのなんとも言えない不気味な孤独さ - この辺が転換点だったのか。
Revoir Watteau - An actor with no lines Pierrot, know as Gilles
同じくルーブルで、↑のと関連しているのかもだが、ヴァトーの『ピエロ (ジル)』(1718-1719) がその修復を完了して、その記念で古今のピエロや道化を描いた作品を特集展示している。ピカソとかフラゴナールのピエロとか、写真だとピエロに扮したガルボやサラ・ベルナールの肖像なども。
それにしてもヴァトーのピエロ、見れば見るほど不思議で哀しそうで引き込まれる。 あのロバさんとか。
これだけじゃなくてピエロのイメージって、↑の愚者のとは別に、エモに訴えてくる不思議なところがあるよね。
Apichatpong Weerasethakul - Particules de nuit
Centre Pompidouに移動してこれ。Apichatpongのインスタレーションは恵比寿や清澄白河で他の作家の作品と混ざった状態で見たことはあったのだが彼の作品のみ、しかも隔離された別館で開催されていて、ほぼお化け屋敷状態ではないか、と。
小部屋が7〜8つくらい? 座って見れるのも歩いて変化を見るのも、こちらが見る・見ていくというより向こう側がこちらを捕捉してくるような妖怪の不穏な動きでやってくるイメージとか光の粒たち。そこに人が写っていたとしてもそれはもう人ではない何かになっている。それがTilda Swintonさんであっても。
光が消滅していく夕暮れや消滅した状態の夜にカメラを持ち込んで、そこに写りこんでくるものを定置網みたいに好きに放っておくとあんなふうになる、の? そこから光とか闇とか陰って、一体なんなのか、何でできているのか、と。
Surrealism
Centre Pompidouでのでっかい展示。本拠地はここパリだから忘れんな、というめちゃくちゃ気合いの入った展示だった(えらく混んでいたが)。
シュールレアリズムというと、小学生の時に坂崎乙郎の新書の説明を - 教科書の他に家にあったのはあれくらいだったの - 何度も読んだものだったが、あれに掲載されていた作品の殆どが並んでいたのではないか、というくらいのてんこ盛り。Leonor Fini、Remedios Varo、Leonora Carringtonなど、女性作家も沢山。物量で歪んで圧倒されていく現実など。
カタログ、これは買ってよいかもと思って手にとったのだがガラス棚にあった重いやつの方を欲しくなり、そっちにしたらその後も重すぎてしんだ。
Chantal Akerman: Travelling
今回はJeu de Paumeでのこれを見に来たの。セクションごとに代表的な作品とその関連資料を並べてあるのだが、昨年のシネマテークでのアニエスの展示と比べるとそんなでもない気がしてしまったのは、Chantalは作品にぜんぶ出てて、出してあって、それで最初に街をぶっ飛ばしてしまっているので補足の説明とか経緯とかそんなにいらないのかも。他方で、アニエスは猫なので、猫の足跡はぜんぶ追いたくなる、というか。
カタログもJoanna HoggらによるRetrospective Handbookも既にロンドンで買ってあったので、ポストカードとトートを買った。
Harriet Backer (1845-1932) The music of colors
オルセー、カイユボット展は予約いっぱいで入れずー でもこれがよさそうだったので入る。
ノルウェーを代表する女性画家で、ピアニストだった妹がいたりピアノを弾いていたりする室内の情景を多く描いていて、それは同じく部屋にいる女性を描いたデンマークのVilhelm Hammershøi (1864-1916)ともフィンランドのHelene Schjerfbeck (1862−1946)とも微妙にあたりまえに違っていて、展示スペースにピアノ曲が流れていたように、音楽が聞こえてきて部屋の空気がうっすらと膨らんでいるように見えなくもない。
あと、最後に本がいっぱいになった本棚の絵があって、それだけですばらしいではないか(積んであったらもっとよいな)、とか。
Céline Laguarde (1873-1961) Photographer
20世紀初フランスの女性写真家の特集展示 - ”Étude”とだけ題された女性の肖像写真たちがただただ美しく、ピクトリアリズムとはこういうものかー、と。
Paris Photo
Grand Palaisでの展覧会 - ではなく、写真に関する見本市の初日。これまでLondon Photoには行ったことあったが、パリのは初めて。こんなにでっかい規模のものだとは思わなかった。みんな豪勢に商談などをしている異世界で、せいぜい上のフロアで出版社や書店の展示を見ていく程度。Spector BooksのブースでJonas MekasのNew York Diariesなどを買った(← 写真とあんま関係ない)。 あとTwin Palms Publishersで、”Fifty Books: 1981–2024”ていう記念冊子をただでもらった(彼らのサイトで$45で売ってる..)。
ここまでで十分よれよれになり、それでもLa Grande Épicerie de Parisで食材などを見たり買ったりしないと気が済まないので、カートを押してヨーグルトとかバゲットサンドとかハムとかを買いこんで、地下鉄で北駅に向かって、22時過ぎにおうちに戻ったの。
というわけで日本にきて、ようやく週末なのだがあれこれ苦手すぎてぜんぶしんどい。
11.17.2024
[film] Mediha (2023)
11月9日、土曜日の夕方、Curzon Sohoで見ました。
正式公開を前にしたドキュメンタリーのPreviewで、上映後に監督Hasan Oswald(とあと一名)とのQ&Aつき。Executive Producer はEmma Thompson。
昨年のDOC NYCでGrand Jury Prizeを獲っている。DOC NYCって、たまたまNYにいた時に第二回があって参加したけど、よい映画祭になってきたねえ。
2014年、ISISの侵攻〜虐殺によりYazidiの村が襲われ、父母、弟たちと平和に暮らしていたMedihaの一家は連れ去られ、家族は散り散りとなり、彼女は10歳で見知らぬ男に妻として買われ、そこから転売されて数年間、5年前に救出されて避難キャンプで別のところから戻ってきた双子の弟たち(末の弟は不明)と一緒に暮らし始めたところ。
監督がMedihaにカメラを渡し、カメラを手にした彼女は自分や弟たちにカメラを向けて自分たちが今いる場所について〜自分たち家族に起こったことを語り始める。なので、映画には監督がMedihaたちやISISの拠点から人々を救出するスタッフの姿を撮った映像、Medihaが弟たちやキャンプの生活を撮った映像、更には姉に教えられた弟たちが撮った映像の3種類があって、でもそれぞれに大きな段差はない。なんでこんなことになっているのか? の重い問いかけは3者に共通している。
話としてはとにかく酷くて陰惨で、父も祖父も行方不明のまま、母は後の方の調査で生きているらしいことはわかったが他の男の妻となり、その男の子供もいて名前も変わっているので救出/帰還の話を持ちかけても戻ってくるかどうか微妙、と言われるし、末の弟はトルコの方で別の家族に売られていて、買い戻した(!)あとにキャンプにやってくるのだが、ママがいないと寝れないなんで引き離した、って延々夜泣きがひどいし。
比較できるものではないが、やはり最もひどいのは現地で売られたMediha本人が語る自分の身の起こったことだろうか(注:具体的なところまでは語られない)。本人にそれを語らせるのって酷くない? と思ったが、上映後の監督の発言によるとMedihaの方からきちんと語りたいと言ってきたのだそう…
宗教とか原理主義とか見ている世界が違うとか第三者がいくらでも慮って言うことはできるだろう。けど普通に幸せに暮らしていた家族や一族や民族の生活をある日突然勝手に壊して潰してよいわけがない。許されてはならない。
ここだけじゃない、今の(いや、ずっとそうなのかも知れない)世界はこんなのばっかりで辛すぎて考えるのを止めたくなるけど、彼らが生きて晒されているのは考えたらどうなる、という世界ですらない。どうしたらよいのだろう…
終映後のQ&Aでも今のメディアはパレスチナとウクライナばかりで、現在の危機として重要であることは確かだけど、この問題もシリアのも、ずっと継続していて、なんの罪もない市民が理不尽に殺され続けている。報道の流行り廃りのようなことも問題、と。その通りではあるけど…
少しだけほっとした(でよいのか?)のは、Medihaは今はNYで暮らしていて、シティガールとして街にも馴染んで、人権問題の法律家になるべく勉強をしているのだそう。(アメリカの上映会には顔を出しているって)
地方選の結果を聞いて、ますます子供の頃に聞いた発展途上国の選挙みたいになってきたなーやだやだ、って思っているところに、少しだけ出張で帰国します。映画も音楽会もこっちで見たいのが山ほどあるのにー。
というわけで更新は少し止まる、か。
[film] Point Break (1991)
11月8日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
BFIのアクション映画特集の目玉 - ‘“Art of Action: Celebrating the Real Action Stars of Cinema”となるリストア版によるリバイバルで、その公開初日。それを記念してなのか土曜日の晩のIMAXでは”John Wick”ぜんぶをオールナイトでやるって(すごく疲れそう&ぜんぶ同じじゃないか)。IMAXで『七人の侍』が一度だけ掛かった際も、まだ完成はしていないが、という断りつきでこの予告編が流され、予告なのに拍手が起こったのだった。
監督はKathryn Bigelow、音楽はMark Isham、邦題は『ハートブルー』 …
“Bram Stoker's Dracula” (1992)よりも、”My Own Private Idaho” (1991) よりも前のKeanuがいて、これだけで一見の価値かも。
冒頭はJohnny Utah (Keanu Reeves)がLA警察に入る前のトレーニング風景で、射撃訓練とか完璧! って言われたり恥ずかしくなるくらいキラキラで、そんな彼がどことなくBoris Johnsonみたいな上司のPappas (Gary Busey) と組んで、神出鬼没の銀行強盗グループを追うことになる。 そいつらはレーガンとかニクソンの覆面をしていて、きっかり30分で済ませて逃げてしまうので足がついていなくて、でもこれまでの調査であるビーチにたむろするサーファーのグループである可能性が高い、と。
そこでJohnnyはサーフィンを習いたい、とその浜の売店でバイトをしていたTyler (Lori Petty) に声を掛け、経歴を偽って彼女と仲良くなりつつ、グループのリーダーのBodhi (Patrick Swayze)に近づいて、最初怪しまれていたグループの連中からも(運動神経はよいし根が素直なので)認められていって…
よくある潜入捜査で抜けられなくなっていってヤバいモノ、ではあるのだが、ありがちな仲間たちとの絆、というよりはJohnnyとBodhiの間のブロマンス、そして銀行強盗と同列に並べられるサーフィンやスカイダイビング、といった”100% Pure”アドレナリン放出系の死と隣り合わせのスポーツの快楽があり、それらを彼らと一緒に経験していくJohnnyは警察の顔を露わにして – 簡単に見抜かれる - 裏切るなんてことができなくなる。
そしてこの映画のBodhiは、わかりやすく邪悪なヴィランではなくそのような生をど真ん中に据えて堂々と生きる魅力的なアニキとして描かれていて、Johnnyが彼のと比べたら自分の仕事なんて… になることはわかっているし、BodhiもJohnnyの正体をわかってしまうし、彼が自分に惹かれていることも十分わかった上で、Johnnyを試すかのように最後の銀行強盗にうってでる。
どこかに『狼たちの午後』 (1975)と『ビッグ・ウェンズデー』 (1978)の変てこミックス、と書いてあって、確かにそんなふうなのだが、ここに70年代風の強いわかりやすさはなく、イノセンスが転がされ白とも黒とも言い切れない狭間で誰かが誰かを – 愛するのか殺すのか、という刹那。 例えば漫画の『バナナフィッシュ』にもこの感覚はある。 そういうのがあるのでアクション映画としては、大波ざぶーんで終わり、でやや大味、というか、アクションのもとにあるのは憎しみとか怒りとか、犯罪の動機になりそうなエモではなくただのアドレナリンではないか(動物か..)、という辺りにKathryn Bigelowの冷めた目があって、変な映画ではあるかも。
あと、きらきらのKeanuよりもPatrick Swayzeがすごくよいのでびっくりした。”Dirty Dancing”(1987) よかぜんぜんよいじゃん。
11.16.2024
[film] Heretic (2024)
11月6日、水曜日の晩、Curzon Aldgateで見ました。
A24制作、Hugh Grant主演によるホラー。作・監督はScott Beck、Bryan Woodsの共同。撮影はPark Chan-wookと一緒にやってきたChung Chung-hoon – とてもよくわかる。
怖そうなので見るか見ないか少し悩んだのだが、見ることにしたのは、Hugh Grantだから…? なぜ彼なら怖くないかも、と思わせてしまうのか。こないだの”Blink Twice” (2024)もそんなだったかも - Channing Tatumならいいか、とか。
熱心なモルモン教徒のふたり - Sister Barnes (Sophie Thatcher)とSister Paxton (Chloe East)が伝道のために一緒に戸別訪問をしている。Sister Barnesは力強く確信と使命感に満ちていて、Sister Paxtonはやや気弱で自信がなさそうで、そんなふたりが雨も降ってきたし、とっとと片付けましょう、とある家の入口に自転車を停めてロックして、ブザーを鳴らすとMr. Reed (Hugh Grant)が出てきて、英国人ぽいユーモアたっぷりのどうでもよい世間話をしつつ、妻がブルーベリーパイを焼いているから、とかなんとか、数回に渡って彼らを置いていなくなったりして、やがてSister Barnesがブルーベリーパイの匂いが蝋燭の贋物であることに気付いて、なんかこいつおかしいから出ようよ、ってなったところで鍵がかかっていて外に出られない状態になっていることを知る。
基本的にはHugh Grantの独壇場で、彼のすごいところは、なんで、なんのためにそんなこと – べらべら喋りまくるとか – をやっているのかぜんぜんわからない – 悟らせたり突っこませたりする隙を与えずに、その場を強圧的じゃないかたちでどんよりべったり支配してしまうことで、どう返したり対抗したりすべきか、と思い始めた頃にはもう遅い。
あとは、囚われたふたりとも宣教師なので力でねじ伏せるようなことは考えていない – それをやったら終わり、というのを自分も相手もわかっているので、でもそうやっているうちに気付いた時には泣いても騒いでもどうしようもなく無防備な状態にされていた、と。
しかもそういう状態にしてしまってからMr. Reedは宗教の話をふっかけてくる。すべての宗教の類似性とか根っこは.. とかなんとか、よくあるやつ。真面目な宗教者であればあるほど – ここではSister Barnesが食らいついて、でも落ち着いて蹴とばされて心証を悪くしたのはMr. Reedのほうだったようで、彼はますますこの娘にお仕置きしてやらねば、強く思ってしまったらしい。
時間までにどうにかしないと、とか、謎解きをしないと、とか、人質が.. とかではない、シンプルに、でもがっちりと幽閉されてあまり気持ちよくないものをいろいろ見せられて、先に何が待っているのか、なにをされるのかわからない、そういう種類の落ち着かない恐怖で、気の持ちようみたいなところで悲観も楽観もできて、その幅が結構広いので見ているほうはややしんどい(111分ある)。Hugh Grantが七変化したり、女性になって出てきたりすればまた別だろうが(ジャージャービンクスの真似はしてくれる)。
“Drive-Away Dolls” (2024)や“Love Lies Bleeding” (2024)にあったような邪悪な男(たち)に女子ふたりが立ち向かってぼろぼろにする・退治する、という最近の傾向を期待したのだが、そっちの方には向かわずトラディショナルで陰湿な監禁虐めサバイバルものになっていて、これが神学とかタイトルの「異教徒」の方に行ってくれたらもう少しおもしろくなったのではないか。
それにしても、クマを虐めて、今回は宣教師を虐めて、Hugh Grantはいつまでこんな小物感たっぷりの小悪党をやっていくつもりなのだろう… っておうちに着いてBBCをつけたら”Four Weddings and a Funeral” (1994) をやってて、なんだこれは… って思って気がついたらソファで落ちてた。
11.15.2024
[film] Emilia Pérez (2024)
11月3日、日曜日の晩、”Juror #2”を見たあと、Curzon Sohoで見ました。
LFFで見れなかったやつを順番に見ていくシリーズ。
監督はJacques Audiardなので、痛そうだし辛くなるかも、だったのだが、今年のカンヌでJury PrizeとBest Actress(女性のアンサンブルに対して)を受賞しているというので、見るしかないかー、と。原作はBoris Razonによる2018年の小説” Écoute”をもとにJacques Audiardがオペラ用の台本として書いたものだそう。
事前に情報を入れてなくて、なぜか中世ヨーロッパの女性ドラマだと思いこんでいて(なんで? どこで?)、現代メキシコのお話しだったのでびっくりして、更にミュージカルだったのでそれが更に倍にー。
冒頭、弁護士のRita (Zoe Saldaña)の上司もクライアントもなにもかもしょうもない女性(ではない男性)問題の訴訟とかいいかげんにして、の姿が歌と踊りで示され、そんな彼女が目隠しされてどこかに連れていかれ、悪名高い麻薬カルテルの大ボスManitas Del Monteと面談することになる。どうみてもラティーノのマチズモの大波をサバイブしてきて実際にそういうもの凄い風体と臭気を放つ彼は、ずっと間違った身体に生まれてきたことを苦しみ、その人生を後悔してきた(そういうタイプの人が犯罪組織の大ボスになれるかどうか、は少し考える) のだと。ついては、誰にも知られないように性別適合手術を受けたいので、しっかりした腕の外科医を探しだし、自分をどこかに隔離・失踪したことにして、家族(妻と2人の子供たち)も心配だからどこかに移す、この大作戦を企画・実行してほしい、報酬はたんまりいくらでも。
お話しとしてあまりに荒唐無稽で、それが突然Ritaのところに来たのも解せないのだが、あんな化け物みたいだった「男」が性別を変えたらどうなるのか? - ここにミュージカルの要素 - 歌とダンスを強引に突っこむことで、こんな世界ならこんなこともあるかー、くらいに思わせてしまおう、と。最近だと”Annette” (2021)がそんなふうだったのと同じように。
手術はうまくいったようで、Ritaも報酬を貰って解放されて、そこから4年後、再び呼びだされた彼女はどうみてもふつうの中年女性であるEmilia Pérez (Karla Sofía Gascón)と出会う。 それがかつてのManitasで、彼女は過去を隠した状態で自分の家族をこの家に呼んで一緒に暮らしたい、そして家族が失踪して悲しむ女性たちのためにできることをしたい、と言い出す。こうして再び動き出したRitaはEmiliaと一緒に失踪により生の時間が停止してしまった女性たちをケアし支援する団体を立ちあげて社会的なうねりを作っていくのだが、他方で夫Manitasが失踪した状態の妻Jessi (Selena Gomez)は悲しむどころかかつて付き合っていた男とよりを戻して、駆け落ちしようとしていて…
後半は悲劇の元を大量に作りだしていた過去の自分を、その性を反転させて、その結果のような形で多くの女性に救いと希望をもたらすのだが、自分の足下にいたex.妻だけは知るかそんなの、って突っ走り、その暴走が彼/彼女自身を... という極めてオペラティックな転換と階段おちがあって、構造としておもしろいなー、ではあった。けど、メキシコの悲惨な現実とも性適合手術のリアルともきちんとリンクしていないシュールなファンタジーとして見るなら、で、当事者からすればふざけるな、になるのではないかしら。メキシコでの反応はどうだったのだろう?
昨晩、Cursiveのライブに行く途中、道路を渡ったところで躓いて転んで膝と手数箇所を打って流血して、ライブはすごくよかったのだが、一晩寝たらすごく痛くなってきていやだ。なんでライブに行くと階段から落ちたり転んだりするのか?
11.13.2024
[film] Juror #2 (2024)
11月3日、日曜日の午後、Leicester SquareのCineworldで見ました。
94歳になるClint Eastwoodの新作。
どういう事情によるのか、なんか事情があるのかどうかすらもわからないのだが、Clint Eastwoodの新作って、駅やバスにそこそこの広告は出ているのに自分が普段行っている映画館のチェーンではかからなくて、カジノに併設された変なシネコンなどで細々とやっていたりするので、よほど意識していないと見逃してしまう – なので前作の”Cry Macho”(2021)も前々作の“Richard Jewell” (2019)も見ていない(←言い訳)。 英国での彼の扱いって、そんなものなの。理由はしらんけど。
原作はJonathan Abrams、撮影はYves Bélanger、音楽はMark Mancina。
ジャーナリストでアル中歴のあるJustin (Nicholas Hoult)には身重で出産間近の妻 Ally (Zoey Deutch)がいるのだが、ある事件の裁判の陪審員として召集される。
それはバーでカップルが喧嘩して、男性James Sythe(Gabriel Basso)の方が女性Kendall Carter (Francesca Eastwood)を殴って、女性は怒ってその場を去るのだが、男性はそれを車で追って、その晩、橋の下の河原でCarterは死体となって発見された、という殺人事件で、日頃から暴力をふるう傾向のあった男性が彼に反抗的な態度をとった女性を殺した、という一見、わかりやすいものに見えた。
出産前でいつそれが来るのかわからない妻がいるJustinにとって拘束時間の長い裁判に付きあうのは懸念もあったのだが、毎日18時には終わります、という説明を受けて陪審員をやることにする。 こうして彼は陪審員#2となる。
裁判は誰が見ても圧倒的に被告不利で進んでいくのだが、当時の状況を聞いていくうちに、Justinは自分が豪雨だったあの晩、現場の橋を車で通る時に何かにぶつかり、車を降りて確認したことを思いだす。なにも見えなかったので鹿かなにかかと思い、そのまま帰って車を修理に出したのだが、ひょっとして… という小さな疑念が審理が進むにつれて膨らんでいって止まらなくなり、ひと通りの聴取や尋問が終わり、陪審員同士の協議に入って、ほぼ全員が被告有罪で進んでいくなか、思い当ることがあるJustinはどうしても有罪、と言い切ることができず… 他の陪審員たちの「なにこの人?」を振り切って..
自分から見て無罪の可能性がある被告をどうしても有罪とすることはできず、その反対側で自分が有罪となることはなんとしても避けたい、という両極に引き裂かれたJustinの周りで起訴した地方検事補(ばりばり)のToni Colletteや、やる気がなさそうで証拠提示のミスをする公選弁護人のChris Messinaや、引退した警官で、Justinの妙な拘りをみて何かあるのでは、と勝手に調べ始めるJ. K. Simmonsなどが(彼から見て)禍々しく動きだし、結論が出ないので陪審員全員が現場に行って再検証するなど、平坦だった法廷ドラマが汗びっしょりのサイコスリラーに変わっていくところは見応えたっぷり。
陪審員の間では被告有罪が多数なんだし、子供も生まれて忙しくなるから早く切りあげたい、それなら目を瞑って有罪に入れてしまえば誰もなにも言わないのに、反対側でそちらに踏みきれない何かがあり、でもそれは善なるなにか、というものでもない。でもほんとうに鹿だったのかも知れないし… いや、彼は知っていたのだ、という方に淡々と追い詰めていくカメラの怖さ。そしてこれらが公正な裁きをすることを求められる陪審員の頭の中で起こっていること。例えば、と。
Clint Eastwoodがなんであんなにシネフィルやフランスで騒がれて讃えられるのか、ずっとあまりよくわからなくて、これを見てもそこは変わらないのだが、ものすごくおもしろくていろいろ考えさせることは確かかも。
Toni ColletteとNicholas Houltは“About a Boy”(2002)で母子をやっていたふたりで、そう思うとラストシーンがすごくじわじわくる。犯人(にさせられてしまう)役がHugh Grantだったら最高だったのになー。というおふざけを断固許さない気がするEastwood映画。
11.12.2024
[film] Paddington in Peru (2024)
11月9日、土曜日の午前10:00、BFI IMAXで見ました。
こんなの公開日に見ないでどうする、なのだが、8日の金曜日晩のBFI IMAXは”Point Break” (1991)のリストア版の公開日だったので、そっちに行った。
クリスマスシーズンが始まって、街の電飾も華やかになって、あちこちにPaddingtonが描かれたり置かれたりしている。
夕方は5時には暗くなって、誰もが早くおうちに帰りたくなるこの時期に、このクマ(なの?)はペルーに行くのだと。カリブでもマヨルカでもなく、ペルー?
冒頭、Paddington(Ben Whishaw)がLucyおばさん(Imelda Staunton)に助けられて育てられる経緯が語られ、大きくなったPaddingtonはロンドンに来て、Brown家の一員になるのが前2作。今回、Mrs BrownはSally HawkinsからEmily Mortimerに替わっていて、娘も息子もそれぞれ成長しているが、全体としてあの一家に大きな変更はない。監督は前2作を手掛けたPaul KingからDougal Wilson – John Lewis(こっちの百貨店)のCMなどを作っていた人 - に替わっている。 あと、Paddingtonは最初の方で英国のパスポートを手に入れている。前科のあるクマなのに。
Paddingtonはペルーの”Home for Retired Bears”で暮らすLucyおばさんから来てほしい、と誘われて、保険会社に勤めるMr Brown (Hugh Bonneville)はあんな危険なところにはとても.. って渋るのだが、新たにやってきたアメリカ人上司(Hayley Atwell)から“embrace risk!”って焚き付けられたこともあり、リスクマニュアルを携えて一家で行ってみることにする。
でも着いてみたら、歌って踊る尼で、”Home for Retired Bears”の所長のマザー(Olivia Colman)がLucyおばさんは少し前に行方不明になってしまった、というので、それなら探しに行かなきゃ、とブレスレットとか少ない手掛かりを元にジャングルの奥地に向かうことにして、観光船のキャプテンHunter (Antonio Banderas)とその娘を雇って連れて行ってもらうことにするのだが、このHunterはエルドラドの秘宝を探しておかしくなった先祖 – たぶんWerner Herzogの『アギーレ/神の怒り』(1972)に出ていると思われる - などに祟られていて、時々狂ったようになる。彼の周りを彷徨う他の先祖たちも他の呪われた先祖たちもぜんぶAntonio Banderasが演じている。こうして棄てられた船は壊れてみんなは投げ出されて、それを救出すべくMrs. Bird (Julie Walters)とマザーたちが飛行機で救出に向かう、などなど。
Indiana Jonesぽいアドベンチャーがてんこ盛りで、見ていて飽きないのだが、この河や大地を転がっていくアクションと、従来のPaddingtonが得意とする屋内でのピタゴラスイッチ的な玉突きアクションがうまく連動していかないので、やや中途半端で残念だったかも。 あと、これは狙ったのかどうか不明だが、ラピュタ(財宝~桃源郷探し)とトトロ(大切なおばさん探し)のミックス、というのもある。あのトトロみたいな咆哮、Ben Whishawがやっているのかしら? 英国のクマたち(含. Pooh)とジブリ系のは別種のモノとしておきたいんだけど…
相変わらず楽しいし、マーマレード・サンドイッチは食べたくなるし、家族で楽しめる映画になっていると思うけど、やっぱりPaddingtonはあの恰好でロンドンにいてほしいかも、というのを改めて確認する、ということなのか。 最後のところは移民の人々のありようについてのひとつのコメントになっていると思った – なんで彼の名はPaddingtonなのか、等も含めて。
あと、生物多様性の宝庫であるアマゾンのジャングルまで来て、なぜクマだけがあんな社会を形成してヒトと共存できているのか、ちょっとは言及あるかと思ったのに。“Puss in Boots”くらい出てくるかと思ったのに。出していいのに。
あと、Hugh Grantも最後にちょっとだけ獄中から顔を出す。 でも“Heretic”を見たばかりだったので、こいつほんと極悪でしょうもないな、しか浮かんでこないのだった。
[theatre] The Fear of 13
11月2日、土曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。
チケットはずっと売り切れでぜんぜん取れなかったのだが、当日の昼、ぽこりと空いた晩のが取れた。
アメリカのペンシルベニアで21歳の時に誘拐とレイプと殺人の容疑で捕まり、22年間死刑囚監房で過ごさなければならなかった冤罪事件 – その被害者であるNick Yarrisを取材した英国のドキュメンタリー映画 - “The Fear of 13” (2015) - 未見 - を元にLindsey Ferrentinoが舞台化したもので、Adrien Brodyはこれがロンドンの舞台デビューとなる。演出は”Prima Facie”を手がけたJustin Martin。休憩なしの約1時間50分。緊張で終わると少しぐったりするけど、だれることはない。
もともと狭いシアターで(StallはD列が最後尾)、折りたたみ椅子のA列はかぶりつき、というよりほぼ目の前にあり – そこの椅子の背に貼られた番号はそのまま独房の番号にもなっている。A列とB列の間には狭い通路が敷かれていて、そこも人が走ったり抜けたりしていく。
奥はガラス窓がはめ込まれた壁に重そうな扉があり、壁の向こうはしばしば監房の向こう側(の社会、連れだされて拷問されたりの部屋)だったり、その上のテラスのようになったところは、監獄映画にもよく出てくるような監視塔だったり。ごちゃごちゃしているようで、場面ごとにうまく工夫された見せ方をしていて、これが重苦しい牢獄の閉塞感をうまく救っている。
Yarrisの手記をベースにAdrian Brodyがナレーションで読みあげていく形で、若い頃にしでかした悪いこととか、どうやってあの晩のあの事故が起こって、それにどんなふうに巻きこまれて不本意に拘束されて – そこからの捜査ミスに誤認に手続きミスと偏見が重なり戻りのきかない雪だるまになって、全てがなんの根拠もない状態から歪んだ恐怖(The Fear of 13)に溢れた状態 - 牢獄に入って抜けられないようなことになったのか。牢獄での日々は、暴力的な看守や警官や囚人らが束になってのしかかってきて - 囚人役のひとが看守役も兼ねていたり – 変わり身が速い - その団子になったお先真っ暗の酷さに抵抗しようがないので自棄になるなか、調査にきた学生のJackie (Nana Mensah)と会話を重ねていくうちに仲良くなって獄中結婚して、でもやはり無理がきて別れることになったり、途中でDNAによる科学的捜査が可能となり、これが決定的に覆してくれる、とやってみたらここでもミス - 配送時にサンプルが破損する - が起こったり、ついていない、なんて言うのが憚られるくらい、全体として酷いしさいてーすぎて言葉を失う。
すっとそんなふうに、あらゆる出口と希望を塞がれ続けていくので、Adrian Brodyの、あの途方に暮れた表情や絶望で打ちひしがれている様子は重ね絵で当然のように見ることができるものの、あんまりの極限状態だらけなので、彼以外の俳優がやってもそんなに違いが出なかったのではないか、とか少しだけ。彼特有の軽み – なにやってるんだろう、ってふと洩れてしまう溜息のような巧いところ、見たいところをじっくり見ることはできなかったかも。 劇全体としてじゅうぶんに見応えあるのでよいのだが。
最後のカーテンコールの後に、Nick Yarris本人のメッセージが映像付きで流れて、日本でもついこないだひどいのがあったばかりだし、英国でも富士通の件が今だに話題になるし、なので、そうだよねえ二度と起こしてはいけない、しかないのだが、こんな劇を警察や検事たちが見るとは思えないし、こうして取り上げられるケースの方が稀なんだろうなあ… になる。こういう間違いや誤りはいつでもどこでも起こる可能性がある、という前提でどこかにチェックしたり救済できる仕組みがあるかどうか、なのだが、そんなの誰も作ろうとしないだろうし… ってぐるぐる。
11.11.2024
[film] Blitz (2024)
11月3日、日曜日の昼、Picturehouse Centralで見ました。
今年のLondon Film Festival のオープニングを飾ったSteve McQueen (作・監督)の新作。
“Blitz”とは第二次大戦中のドイツ空軍による英国本土への空襲 - 1940〜41年にかけて約8ヶ月間続いた - のことだそう。
冒頭、淡い日の射す部屋で生猫を横に置いてピアノを弾くPaul Wellerがいて、それだけでなんか.. "Shout to the Top!" (1984)のシングルの裏ジャケットで(たしか)髪をオールバックにしていた彼の40年間/後がなんのごまかしもなくそのままそこにあって、彼は”Grampa”と呼ばれていて.. ここだけでも見て。
主人公は彼の娘のRita (Saoirse Ronan)と孫のGeorge (Elliott Heffernan)で、Georgeだけ髪の毛と肌の色が違うのだが、その辺の事情はまだ明かされない。やがて空襲警報が鳴って、3人+猫は近くの地下鉄の駅 - Stepney Greenに向かうのだが、入り口にはシャッターが下ろされていて - これは今でもOxford Circusの駅とかでやってるよね - 中に入ることができず、市民がふざけんな、って殺到してどうにか開けさせて逃れる(当初、駅を避難場所にするな、と命じていたのは政府だって…)。 でもずっとこんな状態の繰り返しなので、RitaはGeorgeを疎開させることにして駅まで見送っていくのだが、彼はむくれて手を振るママに口をきかなくなり、列車がでてしばらく経ってからひとり飛び降りて、そこから反対方面に向かう列車に飛び乗って、ロンドンを - 母と祖父のいる家を目指す。
ストーリーはシンプルで、戦争〜空襲の混乱で引き離されてしまった母子がなんとか再会すべくいろんな人たちと出会ったり身の凍るような恐ろしい思いをしたりしながらサバイブしていく、というもので、どちらかというとGeorgeの目線で描かれていくことからも結末がどうなるかは見えているのだが、再会できてよかったねえ、というだけの話ではなくて、混血の少年の目から見た戦争 - 空襲にあう、というのがどういうことなのか、が極めて具体的に描かれている。最終的に戦争には勝利したが、その過程でGeorgeが経験したあれこれは現在の英国の意識無意識に根を張ったまま残っているのではないか。
“Occupied City” (2023)で戦争を挟んだオランダの町の変わりようをドキュメンタリーとして描き、”Small Axe” (2020)のミニシリーズで時代の変わり目にあった英国の移民や有色人種の苦難や絆をドラマとして描いたSteve McQueenにとって、これもどうしても描きたかったテーマだったのだと思う。70年代の子供だった頃に、彼が周囲の大人たちから聞いた戦時中の話。 戦争のありようがどう人や町を変えたのか、だけでなく、(それは人が引き起こすものだ、という認識に立って)戦争を通して人 - 例えば市民として変わったもの、変わらなかったものはなんなのか? を掘りさげる。この映画で英国の勝利は最後まで描かれることはない。 日本人の美徳を語りたがる人達が敗戦に触れようとしないのと同じように - 方向は真逆だけど。
ロンドンを彷徨うGeorgeは迷子として警察の世話になったり、壊された商店や遺体から金目のものを盗んでまわる盗賊団に使われたり、Ritaは女性を中心とした弾薬工場で仲間たちと働きつつ、行方のわかっていないGeorgeの父と出会った頃のことを振り返ったり。そして最後に描かれるシェルターだった地下鉄の駅が爆撃により浸水する事故は1940年、実際に起こったことだそう - ものすごく怖い。
印象に残ったのは、Georgeがよい警官 Ife (Benjamin Clémentine) - 彼も移民 - に連れられて沢山の人々が避難しているシェルターに入ったとき、隣のインド人家族との間にシーツで壁を作ろうとする家族に対し、Ifeが、そんなことをしたら我々はヒトラーと同じになってしまう、そうじゃないやり方で一緒にやっていけることを示さないといけないんじゃないか? って。その通りだよ、って泣きたくなった。
一瞬、街角でお説教をしているひょろっとした人が映り、ひょっとしてあの方は… と思ったらLinton Kwesi Johnsonだった。
この戦争が終わり、50年代になるとジャマイカ等から移民がやってきてダブやパンクの基層となるコミュニティやマナーが作られていく。全て連なり繋がっている一連のことなのだ、と。80年代初のUKの音楽に触れて、これは正しいなにかだ、と直感した人々は見てほしい。
ラスト、The Style Councilの”Walls Come Tumbling Down”(1985)でも流れないかしら、と思ったが、ちょっとしゃれにならないのだった…
[film] Small Things Like These (2024)
11月2日、土曜日の昼、”Anora”の前にCurzon Bloomsburyで見ました。
原作は“The Quiet Girl” (2022) - 『コット、はじまりの夏』の元となった短編”Foster" (2007)を書き、本作の原作『ほんのささやかなこと』(2021)も邦訳されているアイルランドのClaire Keegan。監督はTim Mielants、主演のCillian Murphyがプロデューサーも務めている。今年のベルリン映画祭でプレミアされた。
クリスマスに向かう1985年のアイルランドのNew Rossという町でBill (Cillian Murphy)は自営の石炭運送業をしていて、自分で小さなトラックを運転し、暗くなるまで働いて真っ黒になった手を石鹸で擦って - 手のクローズアップ - 洗って、妻のEileen (Eileen Walsh)や3人か4人いる娘たちに囲まれていて、それだけだと幸せそうに見えないこともないのだが、クリスマス前なのにずっと浮かない顔で笑顔がなく、窓の外ばかり眺めている。
夕暮れ時の町を車で走っていて、ひとりで棒を拾っている少年を見かけて、心配になって車を停めて声をかけたり - 少年の方がびっくりして怯えたようになったり、子供の頃、突然倒れてそのまま亡くなってしまった母のことが脳裏に浮かんで苦しくなったり、所謂midlife crisis的な何かなのかも知れないが、辛い思いをしている人たちの反対側で、自分はこんなふうに日々を過ごしていってよいのか? の問いに目の前を塞がれて動けなくなる - とてもよくわかる。
ある日、配達先の教会の隅でぐったりしている少女を見かけて、なんとか助けてあげた彼女の名は自分の母と同じSarahで、それもあったのか気になって次に行った時も教会関係者に聞いてみると奥から責任者らしいシスター(Emily Watson)が現れて問題はないし教会としてきちんとケアするのでお引き取りくださいと言われるのだが…
これがアイルランドで実際にあった - 18世紀から続けられてきたMagdalene laundriesというカトリック教会による少女たちへの組織的かつ継続的な虐待と隠蔽 - 2013年に政府が正式に謝罪 - を描いていたことを最後の字幕で知る。
というわけなので画面は最後までどんより曇って湿って暗くて、主人公は笑わずほぼ喋らず、これがCillian Murphyが”Oppenheimer” (2023)でオスカーを受賞した後の第一作と聞くと(あまりに地味すぎるので)感心してしまうのだが、どうしてもこれを作りたかったのだ、という彼の熱、というかもどかしさのようなものは伝わってくる。過去の事件に対してだけではない、世界中にまだいるであろう言葉を発することができない状態で苦しんでいる彼ら子供たちをどうにかしなければ、という思いは。 そして、この辺のもどかしさや悲嘆を演技に落としてこちら側を引き摺りこむCillian Murphyのすばらしさ。
これもまた”The Quiet Girl”の話ではあるが、こちらははっきりと虐待され隔離されて声を出せない状態にあった少女たちの話で、こんな”Small Things”を重ねていくしかない、というやりきれなさはある。あのバカのせいで腐った男どもが噴きあがっているようだが、そんなの全無視で、彼女たちの声を聞き取れるように耳をたてておきたい。
あとはEmily Watson。登場するシーン、姿が見えなくても声だけで彼女の声はそれとわかって、その声が法衣を着た彼女の姿に重ねられたとき、そこにある仮面の笑みの恐ろしさときたらそこらの尼ホラーが軽く吹っ飛ぶくらいの強さで、健在だわ… って。
11.09.2024
[film] Anora (2024)
11月2日、土曜日の昼、Curzon Bloomsburyで見ました。ここからしばらくはLFFでプレミアされたやつの後追いシリーズが続く。
カンヌでパルムドールを獲ったSean Bakerの新作。(世間一般からすれば)隅っこの方で暮らす人々のちょっとした機微やごたごたをナイーブかつヴィヴィッドに、痛快に - そのよさ・痛快さってなんなのか、も含めて - 捕らえてきた彼がパルムドール、と聞くとちょっと驚くが、ものすごく評判がよいと聞いて。
Anora "Ani" Mikheeva (Mikey Madison)はNYの高級めのストリップクラブで働いていて、客としてやってきたロシアの富豪の息子 - 若くて明るい以外になんの取り柄のなさそうなバカっぽい子 - Vanya (Mark Eydelshteyn)に、ロシア語が少しできるから、という理由で引き合わされて、べたべた営業していると彼は彼女のことを気に入ったようで、翌日Briton Beachのほうの豪邸に彼女を呼んで、更に気に入った、ので$15,000で一週間一緒にいてもらうことにして、その流れで仲間たちとプライベートジェットでベガスに行ってどんちゃん騒ぎして、その酔っぱらった勢いに乗って、Aniと結婚してしまう。Vanyaからすれば、Green Cardも貰えちゃうからよいか、程度で。
すべては酒とドラッグとセックス、その快楽があり、Vanyaはそれをお金(大金)で買う、Aniはそれを売る - 仕事/サービスとして応える。互いにそれで十分だと思っていたのだが、「結婚」 - 紙の契約によってそれらの色というか扱いが変わってしまう - ことをボンボンのVanyaはわかっていない、けど、セックスワーカーであるAniは十分にわかっていた… これにくっついて指輪とか毛皮とか…
やがてVanyaが「結婚」なるものをやらかしてしまったらしいことを知った富豪の手下でVanyaのお目付役のおじさん(Karren Karagulian)とその部下 - どう見てもちんぴら - 2人(Yura Borisov, Vache Tovmasyan)が彼らの「結婚」をキャンセルさせるべく乗りこんでいって、Vanyaはその現場から逃亡していなくなり、豪邸にひとり残されたAniと彼らの必死の、必死であればあるほどばがばかしくておかしい戦いと消えてしまったVanyaを探して寒そうなBrooklynの盛り場に出ていく彼らの、これもばかばかしい彷徨いが物語の中心にきて、やがて猛り狂ったVanyaの両親がプライベートジェットに乗って現れて…
全体としては、言われているようにスクリューボール・コメディ形式のPretty Woman、ということになるのだろうが、結末は結構苦くてせつない。最後にいつもの現実に戻る、夢から少し醒めてアザとかカサブタに気づく、という辺りはいつものSean Bakerだと思うけど、こんなにもそこらに転がっていそうな世知辛い結末にしなくたってさー、というのが少し。 “Home Alone”みたいにAniが家に侵入しようとするちんぴら達をぼこぼこにする話にしてもよかったのに。
あとこれ、愛とセックスをめぐるお話しのようで、ふつうの職場の労使関係でも起こりそうなお話しで、要はお金があって人数固めて支配している側がいつも勝つ、っていういつもの、と思って諦めることもできるか。
だだっぴろい豪邸で、ふりかえる度に犬のように交尾しているふたりの姿などがたまんなくよかった。
あと、既にいろんな人が言っているようにMikey Madisonの強さ、しなやかさがすばらしい。反対側に出てくる男性たちはみんなむかつくくらい普通でちっちゃく固まっていて、いちいちあったまくるのだが、手下のひとりとして出てきたYura Borisovは、“Compartment No. 6” (2021)に出ていた彼よね?
11.08.2024
[music] Big Star “Radio City” 50th Anniversary
10月31日、木曜日の晩、Hackney Churchで見ました。
Laura Marlingのライブ 4 Daysの間に1日だけ割り込んでいたのがこのライブ。7月からアメリカ〜欧州を回ってきた寄せ集めバンドのツアーの最終日。
最初に告知を見たときはなんだこれ? だったのだが、このメンバー - Jody Stephens, Mike Mills, Chris Stamey, Jon Auer, Pat Sansone が揃って同じステージに立つというのであれば見にいくしかないではないか。
彼らが所属していたバンドのライブはぜんぶ行った - Big Starは90’sの再結成版だけど、R.E.M.は初来日もNYでも行ったし、The dB’sは2005年のHobokenでの再結成に通ったし、The PosiesもWilcoも日本とアメリカで何度も見ている。 9月のElvis CostelloやNick Lowe以上に自分の根っこに深く刺さっているバンドの人達が、Big Starの3枚の中では一番好きな2nd “Radio City”をカバーするなんて、こんなの(以下略)。
入口はLaura Marlingの時の10倍くらい空いてて、フロアは暴れなさそうな老人だらけで、スタンディングがきつそう(自分も)で、でもSold Outはしたのかな? 前座はなしの2部構成だという。
20時過ぎに全員が出てきて、最初から”Radio City”かと思ったら”Feel” - 1stの1曲目だったので、へえ、になり続けて”The Ballad of El Goodo” - 1stの2曲目 - がきたので、このまま1st 〜2ndをフルでやったりして、と思ったがそれはなかった。
ステージ上の人たちは、みんなギターもベースも鍵盤もできて、ヴォーカルは全員がAlex Chiltonのkeyでリードを取れる、ということで、曲毎に担当楽器とリードが替わっていってせわしない。Jody Stephensもたまに前に出てきて歌ったりする(”The India Song”とか)。どうやって曲毎のパートを決めていったのか聞いてみたいところだが、どれも見事にはまっているので異議なし、にはなる。 それにしても、楽しそうにベースを弾くMike Millsの隣にギターを抱えたChris Stameyがいる、ってなんという光景であろうか、と。(R.E.M.の初期のプロデューサーだったMitch Easterはthe SneakersでChrisのバンド仲間だった、など)
5曲目から”Radio City”のセットになって”O My Soul”から順に演っていく。レコードでモノラルの録音しかないこの曲が、カラフルに突っ走っていくことの爽快なことったら(この曲でのベースはChrisだった)。 その先はどれも名曲だらけなのでみんな隅から隅まで歌えるのだが客席側はそれぞれ各自の口もとだけに留めているのが微笑ましく、でもさすがに”September Gurls”は大合唱になっていた。
“Radio City”を最後までやってから休憩、その後の第二部は、自分たちのバンドのレパートリーをカバーしていけばおもしろいのに、って思ったがそんなはずはなく、3rdの曲まで含めた回顧となって、“I am the Cosmos”までやる。Big Starの3rdがなんであんなに巷で評価されるのか、自分にはあまりよくわからなかったのだが、この流れのなかで聴いてみると複雑さとかも含めて曲の構成とか、格段に進化していることがわかる。
50年代ふうの、60年代ふうの、70年代ふうの、ハードなのからソフトなのから切ないのからポップに弾けるのまで、ほんとになんでもあるな、と改めて感心して、それは演奏している彼らが自分たちのバンドでやってきたことにもそのまま繋がっているよね、と気付いたり。
アンコールは一回、最後はこれに決まってらあ、の”Thank You Friends”で、そんなのこっちが君らに言うことだよ、って誰もが思ったに違いない。
この次はAlex Chilton没後15年(来年だよ)で再結集してほしい。すばらしいバンドの音になっていたから。
いろいろ辛くなったので会社を休んで日帰りでパリに行って、美術館いくつかとParis Photoとか見てきたのだが、トートひとつで軽く出たのが帰りは両手紙袋でよろよろ買い出しになってしまうのはどうしたものか。なんとかならないのか(ひとごと)。
11.06.2024
[music] Laura Marling
10月29日、火曜日の晩、Hackney Churchで見ました。
ここでの4Days(間1日あく)の初日。チケットはずっと売り切れで、3日くらい前にキャンセル待ち(スタンディング)のが取れた。
開場の19:00くらいに会場の教会に着いたら、すごい列が前の公園をぐるうーっと囲んでいて、こんなに入るのかしら? だったのだが入った。
教会だけどふつうにバーがあるし物販もやっている。新譜リリースにあわせたプリントもあったのだが、”Goodbye England”の – この曲好きなので - 手刷りサイン入りプリントを買った。
前座なしで20時過ぎに始まる。ひとりでギターを抱えて出てきて”Take the Night Off”から。彼女のライブを見るのは2011年のNYのWebster Hall以来だと思う – ロックダウン期間中に配信ライブはあったか - が、変わらずギターのストロークが力強い。かき鳴らすなんてレベルではなくブロックのようにどかどか落ちてくるかんじで、そこにあの澄みすぎてどこで鳴っているのか見えなくなる声が重なる。今回の新譜 – まだ聴いてない – は母になったことや育児の経験が反映されていると言われているが、多少滑らかになったくらいで、コアのがしゃがしゃ重層で揺らしてくるライブのギターの音色はハードコアとしか言いようがない。ライブで聴いてみてほしい。
”Goodbye England”まで演ったところで新譜のコーナーになって、左手に弦楽隊とベースの人、右手にはコーラス隊(名前はDeep Throat Choir…)が加わる。音は少しだけドリーミーな、滑らかな布団に包まるようなかんじでなだらかに高揚していくのだが、根本に横たわる違和、のトーンは頑固に変わらない。研ぎ澄まされればされるほど、のかんじはCocteau Twinsにあったものに近いかも。本人はそもそもフォークミュージックとはこういうものなのだ、と言うのだろうが。
一応言っておくけどアンコールはやらないのでー(昔からそう)、とあっさり告げてさらりと去っていった。
Iron & Wine
10月30日、水曜日の晩、London Palladiumで見ました。
イギリスのフォークの翌日には、アメリカのフォークを。数日前にチケット売れているのかしら? と見てみると前から4列目とかが出ていたので取ってしまった。
彼らを最初に見たのはCalexicoとの共同制作EP - ”In the Reins” (2005)のツアーの時で、これがすーばらしくよくて、Iron & Wine単独でのRadio City Music Hallでのライブも見て、アメリカで人気があるのはわかるのだがイギリスではどうなのか? フォーク的なものの質感からして結構違う気がする。イギリスのフォークって、アメリカだとブルースの方に近いのでは、とか。
バンドはSam Beamを中心に弦が2人、Key, Bass, DrumsでKey以外はすべて女性。Drumsとかすばらしく、豆を散らすようなよい音。
ステージの左手には、テーブルの上のOHP2台を操作する男女二人組 - シカゴのManual Cinemaがいて、切り絵とか影絵とかススキとかを駆使して月とかウサギとか落ち葉とかうっとりの幻燈世界を映しだす。ライブに合わせて手元でヴィジュアルを作って投影していくのって、むかしTown HallのBright Eyesで見たのが最後だったかも。
彼らのレコードは随分長いこと聴いていなかったのだが、Samの歌い方が少しアグレッシブに、力強くなったかも。昔は仙人みたいに静かで祈るように歌うかんじだったのだがとても気持ちよさそうに。だからどう、という話ではなくてこのバンドのどこで何をやっても - 自作だろうがカバーだろうが、均質に素敵に流れていくありようがよく出ている、と思った。
昨晩はTVつけないでスマホも見ないようにして寝て、起きたらほぼ決まっているようだった。
まっ暗。絶望。第2期ブッシュ政権の時よりも、ヒラリーが負けた時よりも(どちらの時もアメリカにいた)重くて暗いかも。だって犯罪者なんだよ。
たくさんのパレスチナの人たち、ウクライナの人たち、非白人の子供たち、なにも知らない動物たちが排除され、追われ、殺されていくだろう、森も氷河も無くなっていくだろう、これらすべてが「彼ら」白人の目先の利益追求のために正当化され、そのためのデマや隠蔽が茶飯事となっていくだろう。ぜんぶ正義の反対側の悪いことで、そうなるであろうことを十分にわかっていながら止められなかった。国の違いとか関係ない。悪いものは悪い。放置してはいけない。と言いたいけど今は力がでない…
イギリスにStop Trumpっていうトランプ阻止団体?があって、2017年頃、彼が渡英してくる時にデモとかやっていたのだが、昼過ぎに再起動したぞ、ってメールが来た。 あの風船人形とかまだ取ってあるのかな?
[film] The Train (1964)
LFFが終わったあとのBFIでは、12月までのでっかい特集として”Art of Action: Celebrating the Real Action Stars of Cinema”というアクション映画特集をやっていて(あと、”Echoes in Time: Korean Films of the Golden Age and New Cinema” - 韓国映画史を俯瞰する特集も)、サイレントの頃からキートンから『七人の侍』からジャッキー・チェンからターミネーターまで、なんでもありなのだが、特集の目玉は4KリストアされたKathryn Bigelowの”Point Break” (1991) - これまで権利関係で公開できなかったものが漸く、だそうで予告を見ると確かにおもしろそうかも。
そこから見た何本かを纏めて。見た順で。
The Long Kiss Goodnight (1996)
10月23日、水曜日の晩に見ました。監督はRennyHarlin、邦題は『ロング・キス・グッドナイト』。
小学校の先生をしているGeena Davisは小さな町で娘とBFと幸せに暮らしているのだが、8年前に妊娠した状態で浜辺で倒れているのを発見され、でもそれより前の記憶がないのが不安で、でもクリスマスパーティの後の自動車事故のショックで自分のなかの何かが目覚め、同時にTVで彼女を発見した悪そうな連中がわらわら追ってくるようになり、探偵のSamuel L. Jacksonと一緒に逃げたり戦ったり - 身体が反射して動く - しながら自分を取り戻していくうち、自分がCIAの凄腕スナイパーだったことを知り…
90年代、絶好調だったRenny Harlinと同様にドル箱脚本家だったShane Blackのコンビなので、なんの捻りもないどかどかと大味のアクション(これでもくらえ → どかーん)が繰り広げられていくばかりなのだが、どこか懐かしいし、これくらいで丁度よい(なにが?)のかも。ぼろぼろに引きずられた挙句、”Oh Shit..”って呻きながら彼方に吹っ飛ばされる定番Samuel L. Jacksonを見れるだけでもすばらしい。Geena Davisもかっこよいのだが、なんか、どこか無理しているかんじ – 眠らせていた女を目覚めさせたら怖いぞ、っていう強引なイメージ作りに貢献しているようなところとか、ね。
そして結婚していたRenny HarlinとGeena Davisはこの後離婚しました、と。
Captain Blood (1935)
10月27日、日曜日の昼に見ました。監督はMichael Curtiz、邦題は『海賊ブラッド』。35mmプリントでの上映。
まだそんなに有名じゃなかったErrol FlynnとOlivia de Havillandを主演に据える賭けに出て大成功した作品。
17世紀のイギリスで、外科医をしていたBlood (Errol Flynn)が逮捕されて死刑寸前のところを西インド諸島に流されて、そこのお嬢さんArabella (Olivia de Havilland)に買われてどうにか生き延びて脱走計画をたてるが、ばれていよいよやばい、ってなったところで横からスペインの襲撃にあって、そのどさくさで海賊になって名をあげて… という波乱万丈の巻きこまれ成りあがり海賊ロマンで、さくさく流れて2時間あっという間。終わってみんな大拍手で。
Bloodの何も考えていないふうでとにかく目の前の危機を乗り越えてなんとか生きていく能天気さと、同様に一切の湿っぽさを見せないArabellaの都合よい軽さ適当さが大恐慌の時代には必要だったのだろうかー。海賊のモンスターみたいに陰惨な、あるいは残酷で貪欲なイメージとは真逆のその場限り無責任男一代で、これなら自分も海賊になれる、って思った人は多かったに違いない。
当時のイギリス、スペイン、フランスとの関係もてきとーにわかって勉強になるけど、みんな英語で会話できたの? とかいつもの…
The Train (1964)
10月27日、日曜日の夕方に見ました。監督はJohn Frankenheimer。邦題は『大列車作戦』。こんなおもしろいのあったのかー、だった。
実話ベースの話ではないが、実際に絵画が運び出されそうになったことも、その手前で発見されたこともあるし、これをアメリカ軍の側から描いたGeorge Clooneyの”The Monuments Men” (2014)もあったよね。
第二次大戦末期のフランスで、ドイツ国防軍が国宝のような美術品 - ゴッホ、セザンヌ、ルノアール、ピカソ、ドガ、等々を次々梱包して列車でドイツ側に運び出そうとしていて、それを断固阻止すべくレジスタンスのBurt Lancasterたちと鉄道員たちが一緒になって飄々と妨害工作を繰りひろげていくの。でもそう簡単には行かずに作戦実行の度に沢山の人が消されていって、たかが絵画のために? って問いが繰り返されるのだが、Burt Lancasterのずっと噛んでいる苦虫と最後のくそったれ、がすばらしい。
最初の方に出てくる機関士のMichel Simonとか駅前食堂/ホテルのJeanne Moreauのそこらにいそうな疲れたかんじもかっこいいし、実際に列車を走らせて、止めて、脱線させてを実際にやっている、そのアクションの重さでっかさには感嘆しかない。走っている狂暴な列車を無理に停めたり壊したりすること、それを再び走らせること、そのために何をするのか、何が必要なのか、等が小さな人々の走りまわるシルエットに重ねられていって、その上に突然飛行機がやってきたり、というめくるめくな展開。
鉄道員たちひとりひとり、そんなに言い合ったりすることもなく、静かに沸騰している佇まいがたまんなくよくてー。
とってもどうでもよい話。BFIではフィルム上映前に、いつも予告数本とLloyds BankのCMが掛かって、このLloydsのCM(子供積み立てみたいなやつ)がすごくださくて不評で(日本の映画泥棒のよりはまし)、元気な客がいるときは”Rubbish~!”って罵声(→拍手)になるのが恒例だったのだが、1年くらい続いていたこのCMがLFFの後についに変わって、スポンサーは変わらずLloydsなのだがちょっとほっこり系のになった。少しはおとなしくなるかな.. と思ったら、先日やはり”Rubbish!!” “Still!!”って...
11.04.2024
[theatre] Macbeth
10月26日、土曜日の午後のマチネーを、Harold Pinter Theatreで見ました。
これの前日、金曜日の午後にトークイベントがあった。
David Tennant Meets Greg Doran: My Shakespeare
昨年出たGreg Doranの著書”My Shakespeare”について、彼とDavid Tennantがおしゃべりする(+サイン本つき)、というもので、金曜日の午後2時からこんなのやるなよ、ってぶつぶつ言いつつ、おもしろそうだったので行ってみる。こちらに来て少し演劇を見るようになって、演るほうも語るほうも見るほうも、如何にシェイクスピアがいろんなベースとして根を張って豊潤な層としてあるか、その深さと厚みにおそろしくなり始めている時期でもあったので、こういう機会はつかまえて行くようにしている。 休憩1回挟んで2時間強、自身のシェイクスピアとの出会いに始まりシェイクスピアを演出する/演じる深さおもしろさをどこまでも掘って語っていけるふたりだと思うし、司会や客席から投げられたどんな球も軽々と打ち返していたのでそうだと思うが、もっと勉強しな(お芝居見な)きゃ→自分、になった。がんばる。
それにしても、文化階層とか教育とか、いろいろあるにせよ、基層のようなところでのシェイクスピアのこの根のはり方ってなんなのだろうか、っていつも思う。アメリカとか日本にこれ相当のってあるのだろうか? それが文化というものなのだ、って言われたら黙るしかないのか。
で、ちょうどDavid Tennant主演のMacbethをやっていたのでその翌日に見る – ずっとSold Out状態でたまたまキャンセルが出ていたのを買えた(演劇のチケットはだいたい当日とるの)。 演出はMax Webster。休憩なしの約1時間50分。
客席の各椅子にはヘッドセットが置いてあって、それを掛けてみるとテスト用の音声が流れて、聴力テストみたいに右側、左側でそれぞれ音が正しく出ていることを確認させられる。これ難聴の人とかどうするんだろうと思ったが、外してもふつうに舞台の音は聞こえたので、効果を高めるためのものだということがわかった。実際、音質は3Dですばらしくよくて、姿を現さない3人の魔女が耳元で(レフト・センター・ライトで)呻くように呟いたり囁いたりしてくるし、剣の金属のきーんていう音とか、Macbethの声は独り言のような小さいものでも拾われるし、喋りながら自分の髭をなでるじょり、っていう音、息遣いまで生々しく伝わってくる。主人公がいろんな内面の声に縛られ操られたりしながら自壊していくドラマの背景として的確かつすごく効果的ではないか、と思った。
Lady Macbeth (Cush Jumbo)の確信(悪意)に満ちた声とぶつぶつも含めて悩み苦しんでいくMacbeth (David Tennant)の声の – どちらかが打ち負かされ潰れていくドラマはこのサウンドスケープのなかでじわじわと進行していくし、Lady Macduff (Rona Morison)と子供たちが殺される場面も暗闇のなかの音のドラマとして細部まで生々しい。音や声のもつリアリティやニュアンスを舞台用に拡大再生したりしなくても伝えることができる、って結構すごいことではないだろうか。
舞台は奥の半分がガラス箱のように仕切られていて、そこにケルトっぽいどんどこ民謡を演奏したり歌ったりする人たちとか、奥まったところで議論する人たちが詰められていて、前のほうはシンプルな段々がある程度。ガラスの向こう側で決められたり動いたり守られたりしていく何か、フロントでもがいたりのたうち回ったり殺されたりしていく人々、という対比があり、全体のビジュアルは表現主義映画っぽいシャープな光と影のなかで映しだされる。浮かびあがる音像も含めて、ちょっと映画っぽすぎる、というのはあるかも知れない。
他方で、前のめりにのめり込ませるライブの緊張感はやはり演劇のものとしか言いようがなく、David Tennantすごいな、になるしかなかった。
[film] The Room Next Door (2024)
10月27日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
こんなふうに映画祭の1週間後には殆どの新作が見れるようになるのだから、がんばって映画祭のチケット取る必要はない。 でもその皺寄せなのか11/1公開の新作が多すぎてやってらんない。この週末なんて5本見ても追いつかなかった。
ヴェネツィアでプレミアされて金獅子を獲ったPedro Almodóvarの新作 - これが彼にとって初めての英語劇なのだそう。原作はアメリカのSigrid Nunezによる小説 - “What Are You Going Through” (2020) 。
冒頭、NYのRizzoli(本屋)でサイン会をしている作家のIngrid (Julianne Moore) が並んでいた友人からしばらく会っていない友人のMartha (Tilda Swinton)が末期癌の治療をしていて状態がそんなによくないらしい、と聞いて病院 - あの橋、Queensboro Bridgeのようだがあんな角度のとこに病院あった? - に駆けつける。
ふたりは80年代、Paper Magazine - 当時の先端タウン誌 - の仕事で出会って、MarthaはNY Timesの戦場カメラマンだった。ふたりの会話とIngridのMarthaへの寄り添いぶりから彼女たちの絆の深さが見えてくるのだが、最後の望みをかけていた最新の治療法が失敗したことを知ると、Marthaはずっと考えてきたらしい自分の最期までをどう過ごすか、の計画を実行に移すべくIngridについてきてほしい - つまり自分の死を看取ってほしい、と。
考えや思いを共有してきたふたりなので、戦場で死と隣り合わせだったMarthaが考えたこと - 彼女がその決意を変えるとは思えないし、自分が断っても彼女は実行するのだろうし、とIngridは同意してレンタルしたNYのアッパーステイト - ウッドストックの方にあるモダンな山荘 - の設定だけど家のなかのコンセントの形状が違うのであれアメリカじゃなくて、ヨーロッパだよね? - に車で向かう。
隣りのベッドで看護するのではなく、ふたりの部屋は別々にする、だいじょうぶな時は部屋のドアを開けておく、Marthaが自分でもうだめだ、となった時には薬を飲んでドアを閉めておくから、という合図を(Marthaが)決めて、何が起こるのか予測できない共同生活が始まって…
戦地のボスニアに溢れていた死やベトナム戦争でPTSDを患って自殺のように火に飛びこんで亡くなってしまった夫を見てきたMarthaにとって、死はドアの向こうにあるアクセス可能ななにか、でしかない、ということがふたりの部屋の上下斜めになったレイアウトとか、朗読されるJames Joyceの”The Dead”などから明らかになって、あとはそこにVirginia Woolfの”A Room of One's Own”とかIngridの語るDora CarringtonとLytton Stracheyのこととか繋がってくるいろんな予兆など。
いつものPedro Almodóvar映画にある、見えないなにか(よくなかったり汚れていたり)を表に暴きだす際の亀裂とか断層のような要素や展開はそんなになくて、死という未知の領域に向きあうふたりの女性をまっすぐに描いているので、え?これだけ? にはなるかも。でもその分、ふたりを囲む文化周りの記号、その配置がいろいろで、冒頭のRizzoliも、ふたりが会話をするAlice Tully Hallのロビーも、壁に掛けられたPaper Magazineの表紙も、レンタルした家にあったEdward Hopperの”People in the Sun”も、あのレンタルした家の本棚の本も、ぜんぶ気になりすぎてあまり集中できなかったかも。 インテリアも、NYのMarthaのアパートからの眺めとか、作りものってわかっているのに見入ってしまう。
最後におまけのように足されてくるMarthaの娘の件も、これはこれで相当深く掘れたのかも知れないが、そちらは”The Souvenir” (2019)でやってしまったから?とか。
あと、Julianne MooreとTilda Swintonがドラマをするとしたらこの設定しかないのではないか、というくらいにこのふたりのありようって、最初から見えていて、そこから掘っていった、と言われても信じてしまうかも。それくらいー。ただ、もう少しぐさぐさやり合う修羅場のようになるのかも、とか思ったけど、静かだった。
ちょうど、古書でNoel Carrington(Doraの弟)による”Carrington” (1978)を見つけてめくり始めたところだったので少し驚いたり。
11.02.2024
[film] Teaches of Peaches (2024)
10月24日、木曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。
毎年やってくるDoc'n Roll Film Festivalのオープニングで、ロビーは人で溢れかえっていた。上映後にPeaches(Merrill Nisker)とのQ&Aつき。
“The Teaches of Peaches” (2000)のリリース20周年を記念したツアーの記録を中心に、これまで彼女がどんなことをやってきたのかを振り返る - キャリアを総括するようなものではないから間違えないように、と上映後に本人が釘をさしていた。
00年代の音 - Roland MC-505のエレクトロを中心にぶいぶい鳴らしてアゲて、ざっけんじゃねーよ! って蹴散らしていくバンドがいっぱい出てきて、おとなしくて暗めの人たちはDFA - LCD Soundsystemとかの方にいってフロアの床を地味に蹴って、よりパンクな方はLe TigreとかM.I.A.とかPeachesとかに行って踊ったり拳をあげたり噴きあがっていた。 自分はどちらかというと前者の方だったけど、すぐ隣だったり近くだったりしたので、ライブも何回かいった。 あの頃、PeachesやLe Tigreの存在に救われた子とか多かったのではないかしら。
現在住んでいるベルリンのスタジオで、ツアーに向けたリハーサルの合間に、昔の映像が流れてPeachesの前にやっていたThe Shitのバンド仲間だったChilly Gonzalesからのコメントとか、90年代ぼろアパートに一緒に暮らしていたFeist - ローラースケートをはいて謎のキラキラでバックボーカルしている姿が笑える – からのコメントとか。当時からずっとああだったのかー、などと思っていると、子供たちを前にアコギを抱えて歌のおねえさんをしていた時代の映像が微笑ましい。
20周年のだから、と特別に気合いを入れたり思いや抱負を語ったりすることなく、メンバーと一緒に淡々と変てこ衣装やメイクを仕込んでリハで確認してライブでぶちかまして次にいく、その後ろ姿がかっこいいったら。
Peachesの教え - "Fuck the Pain Away"は、20年経っても色あせていないし、たぶんPainは消えることなくまだあって、でも"Fuck xxxx Away"だ! って泡をぶちまける。 彼女のヴォーカルって、どんなに激しく荒れたやかましいライブになっても、言葉としてきちんと届く・届かせるものになっているのだということが映像を見ているとわかる。
彼女とのQ&A、想像していた通りの素敵なひとで、ベルリンに住んでいると今は言論統制とかいろいろあると思いますが.. と問われて、即座に、Free Palestineだ、そんなのあったりめーだ、って強く (大拍手)。
Devo (2024)
10月25日、金曜日の晩、同じくBarbican CinemaのDoc'nRoll Film Festivalで見ました。
開始が18:15で、この日はそのまま↓のにハシゴしたくて、会場間の移動時間を30分とすると結構ぎりぎりなのだがなかなか始まってくれなくて、イントロもゆっくりで、このフェスのそういうずるずる運営がいやだ。
これまでありそうでなかった(あったのかな?)Devoの歴史ドキュメンタリー。
Kent State UniversityでGerald CasaleとBob LewisとMark Mothersbaughが出会って楽器も何もないところから始まるのだが、オハイオの州兵に学生たちが撃たれたあの事件 – Neil Youngの歌ったあれ - が起こった当時の学生だった、というのに驚く、のと彼らが作った冊子とか落書き、ばかばかしい写真に映像、証言とかも全部取ってあってどれも当時から一貫していたのがおもしろすぎる。 NYに出てからBowieに惚れられてEnoを紹介されて、というその過程もDe-voとしか言いようのない野心を欠いた(ように見える)転がりよう - ところてんが押しだされるみたいに種も仕掛けもないかんじなのがすごい。
日本では(たしか)江口寿史の漫画でギャグのように紹介されていたのだが、実際にStiffから出た”Jocko Homo"を聴いたら痛快に尖がっていて、びっくりしたのを思い出す。Talking Headsより断然パンクじゃん、と当時思ったし、いまも少し。
低迷期を抜けて再び盛りあがろうとしていた90年代辺り – 残り10分くらい - で次のがあるので泣きながら抜ける。 バンドの立ちあがり~黎明期の一番クリスピーで膝を何度も打ってしまうところを確認できたのでよしとした。 資料が十分に網羅されていてわかりやすく、音楽ドキュメンタリーの見本のようにとてもよくできていた。 いつか再見したい。
結成から約50年が経って、人類は着実にDevoしてきたと思われるのだが、バンドはその逆になっているのではないか? という辺りについて最後にコメントを聞けたのではないか、とか。
S/he is Still Her/e: The Official Genesis P-OrridgeDocumentary (2024)
10月25日、金曜日の晩、↑のに続けて BFI Southbankで見ました。BarbicanからSouthbankに向かうバスが来なかったので仕方なくタクシーを使った。今年赴任してからタクシーを使ったの2回め。
ロンドンプレミアで、客席にはPeachesもいたらしい。 Genesis P-Orridge (1950-2020) のドキュメンタリーは2022年にMOMAの配信で”Other, Like Me: The Oral History of COUM Transmissions and Throbbing Gristle” (2020) を見ているし、その前にも”The Ballad of Genesis and Lady Jaye”(2011) というのがあったし、少しだけまーたかよ、にもなるのだが、これは”Official”ドキュメンタリー、だという。たしかに、アーティストの - 人としてもだけど - 生きざまとしておもしろすぎ、というのはあるかも。人生そのものがアートでした、というよく使われる文句がこの人ほどイメージとして鮮明に表出して、その変貌も含めてアート的に痛快に転がっていった例を知らない。そして本人はそれらを特に狙ってやっていったわけでもない、いろんな人たちとの出会いのなかで巻きこまれるように紡いでいった(本当かどうかはわかんないけど)ように見えるぐんにゃり柔らかい動物のような不思議さと不穏さと。
生まれ育った頃からCOUM~TG~Phychic TV辺りまでのことは、ヌードの肖像画を描いてもらっている晩年の彼/彼女の様子と並行して語られ、内容としてはほぼ知っていることばかりだったのだが、90年代、QueensのRidgewoodに移り住んでLady Jayeと出会った辺りからがおもしろくなる。 Love and RocketsのKevin Haskinsが語るRick Rubinのスタジオの火事で焼けだされた時のこととか(他にもいっぱい)。
上映後に監督のQ&Aがあったのだが、夢にGenesisが出てきてドキュメンタリーを作ってほしい、と言われたので本人に会いにいった、とか、聞き手のひとも自分のことばかり喋っててちょっとつまんなかったかも。そういう磁力みたいのがあった人、であることはよくわかった/しってた。
一瞬、“Pretty Hate Machine”のジャケットが映ったりもする。