12.31.2023

[log] 年のおわりに

2023年はとにかく断トツで、最低・最悪の一年だった。あまりに酷くて頭から追い出したい忘れたいと思うようなことばかりだったからあっという間に過ぎた。そしてもちろん、何ひとつ過ぎたり終わったりはしていない。とにかく虐殺を止めてほしい - しかなかったし今現在もそうだし、というこの一年。お祝いなんて、総括なんてする資格ないわ。以上。

でもお片づけに関して言えば、今年のはいつもとちょいと違うんだぜ、まあ聞いておくんなー。(うそ)

飛行機が取れて、ビザが取れて、いろんな行ったり来たり検査の果てに健康診断をなんとかパスして、船荷&空荷をどうにかだして、通関の依頼をだして、転出届をだして、まだなんか出てきそうだが、あとは高飛びするだけ。

2021年の5月に英国から戻ってきて2年半くらい、年明け(もう離陸まで100時間切ってるわ)から再び英国に戻ることになりました。これまでのように会社勤めの駐在なので、自分がだめだったら、仕事がだめになったら、会社が潰れたら、さようなら、ってテムズの橋の袂とか河原とかに行ってしまう可能性はあるのだが、向こう数年くらいはあっちで暮らすことになる、と思う。

もういいかげんな歳なのでこの先の余生はオフィスの隅とか窓際でルーティーンのメールや書類を待つとか気の抜けた相談にのるとか、仕事は楽にてきとーに流して、空いた時間で映画見たり美術館行ったりする時間がとれたらうれしいな、くらいに思っていたところに割とガチでキナ臭い話がやってきたので、のった。(映画だとぜったいぼろぼろにされて後悔して息絶えるやつ)

海外に駐在でいくのは4回め、これまでNYが2回、Londonが1回だったので、今度のでちょうどよいバランスになる。けど、こういう準備は何回やっても慣れないし前とは違っていろいろ電子中心になっていてよくわかんないし、時間切れの見切りのままじたばた流してしまうばかりのここ数日間。

荷造りにあたっての最大の難関はやっぱり本で、(1)もともとの棚と床に積んであったやつ、(2)2021年に戻ってきたときの船荷から出して積み足されたやつ、(3)2021年の帰国以降に深く考えずに買って積み置かれていたやつ、に加えて(4) 2021年に戻ってきたときの船荷でまだ箱から出していなかったやつ・ら(!)が新たに発見され、これらを横並びにして持っていきたい本たちを選ばねばならない。

持っていく本の選定は、いつも基本は無人島に持っていくxx冊で、その時の気分的ななにかが足されたりするもんなのだが、「無人島の」って、自分がサバイブする前提で選んでいるよなーと思い、それなら今回は自分が彼の地でくたばるときに傍らにあってほしい本、を中心に選んでみた。ら、結局前回の英国滞在期の後半に古本屋で買いまくった本たちばかりになってしまい… 古本たちからしてみればなんだよ? かもしれないけどもう少し傍にいてくれたら嬉しいな、と。

こうして本たちを船荷Sサイズの箱3つに絞りこんだのは自分で自分を偉いと思った。床積みの山をそれぞれぐるぐる3~4回シャッフルして、必要かも、読みたいかも、と思っていたのはみんななんとか発見して収めることができた。残されたみんな、ごめんね。あとで怒って床とか抜かさないでね。

少し考えて、アナログとCDは持っていかないことにした。どうせ着いたらなんか買っちゃうだろうし、再生用オーディオも向こうで買うことになるだろうし、それにもよるのかも。あと1ヶ月あったら対応できたのだろうがー。

こうして2023年のお片付けは、荷物出しという別プロジェクトのもとなんとなく完了してしまった感があるのだが、中間領域のようなところに積んでしまった本たちとか、もうちょっとなんとかしよう。したい。

ここで既に何度も書いているように、自分はいまのこの国で見せられたり強いられたりしているあれこれ(列挙したら気持ち悪くなるのでしない)、そこに結果的に自身が加担してしまっているいろんなのも含めて本当に嫌で嫌いでだいっ嫌いで、嫌というよりはっきりダメだし低劣だと思うし、ダメなのはお前だ子供じゃないんだからなんとかしよう! って立ちあがるほどの若さも時間もなく、ずっと嫌嫌の半鬱のような状態でずるずるすり減っていくのは耐えられなかったところなので、気分だけだけど少しだけ救われた気分。 もちろん、いまの世界はどこだって野蛮で残虐で、英国だって碌なもんじゃないところはいくらでもあるし、よくなる保証なんてなにひとつない - それでも。

どこに住んで暮らすのかによってモノの見え方感じ方〜生きづらさみたいなのまで変わってしまう、って本来はあってよいことではないと思うのだが、残念ながら世界の今はそうなっていないし、むしろ嫌らしく個別に自閉しようとしているかに見える。そういうのをもたらして、見せているのはどこの何なのか、を考えながらー ができたらよいのに … なんとかがんばる。

これから2023ベストの選考に入ろう、なのだがこういう事情もあるので今年はかるーく。

みなさまよいお年をー

12.30.2023

[film] Showing Up (2022)

12月23日、土曜日の午後、ヒューマントラストシネマ有楽町の『A24の知られざる映画たち』とかいう特集で見ました。「知られざる」って勝手に公開しないで見えないようにしていたのはお前らだろうが世界の秘境じゃねえんだよ! って怒る人たちはいないのか? みんな”First Cow”の牛さんみたいに従順よね。

Kelly Reichardtの最新作 .. を年内に見ることができたので今年はよい一年だった、と言ってよいのだ。というくらい好き。

原作はいつものようにJon RaymondとKelly Reichardtの共同で、撮影はこないだ見た”May December”と同じくChristopher Blauvelt。 今度のは現代の、彼女のお膝元ポートランドのOregon College of Art and Craftが舞台。(カーラジオからQuasiのライブ告知が聞こえてきたりする)

冒頭、音楽担当のEthan Roseの軽快な電子音のぴょこぴょこ(なんとなく『レネットとミラベル/四つの冒険』(1987) を思い出す。絵を売るエピソードとかもあったし)に乗って壁に貼られている女性を描いたドローイングが何枚か紹介されて、絵を描くひと? かしら? と思うと、それが作者である主人公Lizzy (Michelle Williams)のセラミック彫刻 - 実際に作っているのはCynthia Lahtiという方だそう - のための下絵で、どれも素敵なのだがアトリエを離れるとあまりよいことはないのだよ、って彼女のすっぴんのしかめっ面や浮かない表情が語っている。でも猫(かわいい)が傍にいる。

もうひとり、歩道の上、タイヤを転がしながら現れるJo (Hong Chau)は同じくアーティストで、庭の木にタイヤをぶら下げてブランコを作ろうとしているその背後にLizzyが現れて、お湯が出なくて困っているので早く給湯器を直してほしい、と限りなく文句に近い苦情を言う。 Joは売りに出ていた古い家を買って、その一部をLizzyに貸している。 JoはLizzyに向かって、自分も個展をふたつ控えていて忙しいけどがんばっとくー、と適当に返す。

やれやれーって仕事をしていると、夜中に猫がなんか音をたてていて、見るとハトを虐めているので引き離して、Gross… うううーごめん、とか目を合わせないようにしながらハトを外に放つ。すると翌朝、そのハトを拾ってきたJoがなんかひどいケガしててこのままにしとくとこのこ死んじゃうし、でもあたし忙しいから見ててくれる、って押し付けて消える。Lizzyは、はあ? ってなりながら獣医のところに連れて行くと治療費$150を請求され、包帯ぐるぐる巻きで箱に入れられてきょとんとしているハトの面倒を見なきゃならなくなる。

他にもアートスクールの事務をしている母(Maryann Plunkett)と別れてひとりで暮らす父(Judd Hirsch)は、ヒッピーみたいなアカの他人の流れもの連中を深く考えずに家に泊めているし、精神を病んでいるらしい兄(John Magaro - “First Cow”で掘られた穴からそのままやってきたような)は突然穴を掘り始めたりするし、でも準備を進めている個展には彼らにも来て見て貰いたいし。

窯焼きのEric (André 3000)と相談をしながら作品を焼いていってもなかなか思うようにはいかないし、その反対側で、Joによる紐が増植 - 大爆発している作品には悔しいけど圧倒されてしまう。給湯器問題は未解決のままだけど。

“Showing Up” - その後ろ頭・立ち姿が何度も映しだされるLizzyの、誰に頼んだわけでもないのに(頼んだことは実現されないのに)いくらでも湧いて出てくるあんなこととかこんなひと(ハト)の「現れ」、それら日々のあれこれにきりきりさせられていくのと、来るべき個展に向けて何もないどこかのなにかからアートらしき火花のようなものをShow Upさせなければいけないアーティストたちの活動を交錯させながら、これもまた”Certain Women”の軌跡をどこまでも伸びていく紐を追うように綴っていく。場面から場面への繋いでいるのかいないのか意識させないような連なりの不思議さ。とても変な気がするしなにかどこかが引っ掛かるのだがとりあえず右から左に流れていってしまうこれらの「現れ」とか「流れ」とか、なんなのだろう?    と思わせるところは小津(的)と言ってよいのかどうか。

最後、お湯の件も含めてぶちきれたLizzyがJoを追いつめて紐でぐるぐるの逆さ吊りにしてハトもついでに丸焼きにしてしまう - そんなテンションとはらはらを孕みつつ - この緊張感は”First Cow”にもあった- 最後までどうなるかわからずに画面に釘づけにされてしまう。そんなような自分のなかにあるのか外にいるのか、不機嫌や不安や混沌 - そんな単純なわけあるか - などをアートとして形にしていこうとするMichelle Williamsはそのあらゆる表情、俯き、嘆息、歩き方、動き、すべてがすばらしい。そんな彼女の反対側にあってどうでもいいけどさー、とアメリカ的としか言いようのない明るさを示すHong Chauもまた。

配信に来たらまた見てみよう。

12.28.2023

[film] Force of Evil (1948)

12月23日、土曜日の昼、シネマヴェーラで始まった特集 『Film Gris 赤狩り時代のフィルム・ノワール』で見ました。
パレスチナを巡ってあの時代とほぼ同じような囲い込みと排斥がおおっぴらに繰り広げられているいま、全部必見のやつ… なのに個人的にそれどころではない状態にあるのでううう。

邦題は『悪の力』。 監督はAbraham Polonsky、原作はIra Wolfertの小説 - “Tucker's People” (1943)。

冒頭、Wall stのTrinity Churchがでてきてナレーションが被ったところで、あーこれ見たことあったわ、なのだが、最近はそんなのばっかしなので、もう一回見れてうれしいな、しかない(老人)。

Joe Morse (John Garfield)はNYの数当てくじの胴元でギャングのBen Tucker (Roy Roberts)の弁護士をしていて、これが合法化されれば大儲けになるのでいろいろ活動しているのだが、反対側では新たに特別検察官になったHallという男が取り締まり強化に向けて動いていて、そんななか、Tuckerは独立記念日のくじ(みんなが776に賭ける)の当選番号を裏で操作して弱小胴元を破綻させて傘下に置く計画を立てる。

それを聞いたJoeは、弱小の胴元をしている兄のLeo (Thomas Gomez)に今度のくじはやばいからこの商売をやめろ、って言いに向かうのだが、Leoは弟の言うことを聞かずにおれが働いて弁護士にしてやったのに.. って臍を曲げてどうしようもないので、警察にLeoのとこにガサ入れを仕向けて彼のオフィスの全員を逮捕してどうにか破綻を回避させようとするのだが、結局間に合わなくて。

ここにLeoのオフィスにいる会計士のBauer (Howland Chamberlain)とか若いDoris (Beatrice Pearson)とか閉所恐怖症の男とか潰される側の人たちと、Joeと付き合っているTuckerの妻のEdna (Marie Windsor)とか、極悪ギャングのFicco (Paul Fix)と手下のWally (Stanley Prager)とか、闇の勢力が絡まってぶつかって、Joeは両方を見ながらなんとかうまく立ち回ろうとするのだが、結局BauerもLeoも…   

悪いことをしてのしあがろうとする闇ビジネスのチェーンと、その網から逃れようとする弱小個人店と、その間で権力への欲と血縁のしがらみの両方に絡みつかれどうしようもなくなっていく弁護士 - でもJoeは最後まで悲劇の主人公とはならず、その中途半端なありようがかえって”Force of Evil”を浮かびあがらせる、という。

高みからどっちもどっち、とか言っているとJoeみたいなことになって全てを失うことになるんだからね。

映画史でも有名なオフィスでの銃撃戦のとこと、ラストでGeorge Washington Bridgeのたもとに兄の死体を探しにいくとこについては言うまでもない。


The Lawless (1950)

12月25日、クリスマスの日の午後、シネマヴェーラの同じ特集で見ました。

邦題は『暴力の街』。監督はJoseph Losey、原作はDaniel Mainwaringの短編小説 - “The Voice of Stephen Wilder” - この人は”Out of the Past” (1947)や”The Big Steal” (1949) の原作も書いているのね。

これも見たことあるやつだった。自分にあきれてものもいえない。
こういうことが起きないように、いつなにをどこで見た、はちゃんと記録してるわけじゃん? なのに平気で繰り返すってばっかじゃないの? ばかだけど。

カリフォルニアの果実農家で働くラテン系のPaul (Lalo Rios)とLopo (Maurice Jara)が車に乗っていてちょっとした不注意で事故を起こしたら対向車に乗っていた白人たちに難癖つけられて、そのなかのぼんぼん - Joe (Johnny Sands)が根に持ってラテン系コミュニティのダンスパーティーに殴りこみをかけて、そこにいたPaulに再び掴みかかると騒動が広がって、誤って警官を殴ってしまったPaulは..

その現場にいた地元で小さな新聞 - “La Luz”を発行しているSunny (Gail Russell)とかつてNYの大新聞社にいて、今はここの地元紙 - “The Union”で編集者をしているLarry (Macdonald Carey)は、この件がまずい方に向かう気がしていたらやはりLarryの部下が人種暴動だ! って恐怖と嫌悪で分断を煽るような速報を出して、それが逃げていくPaulの挙動とそれを追う白人たちの怒りを増幅させて、Larryがきちんとした記事を書いてなんとか収めようとしても、偏向メディアだ! って却ってオフィスを襲撃されてしまう。

すべてが悪い方に転がって、というよりはもともとそういう根があったところにメディアが火をつけて延焼させて、という70年以上経った今でも続いている懲りない、しょうもない事態を極めてストレートに率直に投げてて、ぜんぜん古くなっていないの(ほめてない)。

「人権」や「差別」という言葉が今のようにはっきりと使われているわけでもなさそうなのに、やられていることは今とそんなに変わっていない、ということは人権意識や教育がどう、という以前に「悪」とか「悪いこと」ってどういうことなのか - 人を殴ったり虐めたり - もちろん殺したりしてはいけない - をふつうに、きちんと考えさせるようにしないといけないのではないか、って。これも結局は教育の話ではあるのだが。

12.27.2023

[film] La passion de Dodin Bouffant (2023)

12月22日、金曜日の晩、ル・シネマ 渋谷宮下で見ました。

英語題は”The Taste of Things”、邦題は『ポトフ 美食家と料理人』- 元のタイトルは”The Pot-au-Feu” だったらしいが、この邦題はなんかやだな。食べるひとと作るひとみたいなー。
料理の監修はPierre Gagnaire(少しだけ出演もしている)。

前日に続いてのJuliette Binocheものだった。しかもどちらも幸せを十分掴みきれなかったような彼女。

1885年のフランスの田舎で、一軒家の広い台所でEugénie (Juliette Binoche)と下働きの女性のふたりが黙々と料理を作っている。EugénieのパートナーのDodin Bouffant (Benoît Magimel)もそこにいて手伝ったりしているが、後に向かうにつれて、Dodinがメニューやレシピ、食材を考えてEugénieがそれを実現して、Dodinを含む正装して肥えた男たちがもりもり食べまくる、という構図になっていることがわかる。

冒頭ででっかいセロリ根を掘りだしたり、葉っぱを切り出して運んだり、大きな鍋に素材をぶちこんだり出したり、余計な音楽を入れずに外から入ってくる鳥たちの声の他は食材を切る音、叩く音、焼く音、煮る音、それをやる際に力を込めたりするときの鼻音、鼻を抜ける息遣いなど、つまり料理をする時の音と光がぜんぶあって、ここに欠けているのは匂いと温度・もわもわ感くらい、これだけで2時間続いても構わないくらいにすばらしく、その結果としてできあがったお皿を客の前に運んでいって、客がそれを戴く、ただこれだけなのだが、中心にあって目を見張らざるを得ないのは鶏とか肉の塊りとかでっかいヒラメとか牡蠣とかがどんなふうに料理されてその形を変えて見ているもの(どれだけ泣いてもあがいても目の前のこれらを口にすることはできない)の涎を搾り取ろうとするのか、そこに延々すべてを注力しているかのように見える。ものすごく怖くて底抜けで突き落とされるスプラッターホラー、とてつもなくエロいポルノ、並みの殺傷力でやってくる。だからどうした、ではあるのだが。

一応ストーリーぽいのもあって、どこかの皇太子のところに招かれて8時間ぶっ通しのコース料理に臨んだ彼らが、今度はお返し(復讐)におもてなしをしなければ、となったところでDodinは「ポトフだ」、っていうの。漫画や昔話によくある豪勢 vs. 質素対決で、研ぎ澄まされたシンプルなのが勝つパターンのあれかな、と思っていると、料理を作りながらよろよろしていたEugénieの病気が悪化してポトフどころではなくなったり、同じ家に暮らして料理を作っては食べを繰り返してきながら結婚していなかったふたりがやっぱり一緒になろうか、になったり、いろんな出汁が足されたり灰汁が除かれたりするものの、全体としてはDodinのパッション、というところに尽きるのかしら。全体を通してずっとシリアスな顔をしているものの食べ物への欲望が常に上位にくるただの食いしん坊でしかない、ような。

そしてEugénieは、あれだけの大量の料理を彼女は誰に向けて作り続けていったのだろうか? or ただ調理していく過程とかプロセスが楽しかったのか? Dodinのため? 彼のためだけに20年間もずっと一緒に? というのは少し思った。それくらい人が料理に向かう理由っていろいろある気がして。(でも19世紀末だとどうなのか..)

料理を食べる歓びと作る歓びがあるとした時、この映画はどちらかというと後者を真摯に描こうとしているようで、大きな台所、大きな鍋があってずっと火がくべられていて、水も氷もたんまり使えて、こういうところなら一日ずっと料理していたくなる。すべてが用意されたすばらしい読書室のような。

筋書きでいうと、やはり料理を通してできあがっていったふたりの愛、ということなのだろうけど、料理ができあがる方にばかり目がいってしまってそこまで辿り着かないのが難しいところかも。

フランス料理を8時間ぶっ通しで食べ続けることができるのか? たぶんできる気がする。これってDodinの言っていた「ストーリー」に関わるところ - 食材が出てきた季節と土地・風土とその加工や調達に掛かる手間と時間、その帰結として要請される調理法とやってはいけないこと、それを戴くときのお作法まで、あれこれを総合した複雑ななにかがお皿にのっかって現れたとき、それを拒否することなんてできるものだろうか? とか。 

日本だと今回の「ポトフ」に該当するのは「豚汁」あたりかしらね?

12.25.2023

[film] Le lycéen (2022)

12月21日、木曜日の晩 - 映画なんか見てる場合じゃないのに - シネスイッチ銀座で見ました。
英語題は”Winter Boy”、日本語ポスターだと”Winterboy”?

Christophe Honoréの新作を日仏とかじゃなくて見れる! ってこれだけで画期的ではないか、って行きたくなる。

主人公である17歳のLucas (Paul Kircher - Irène Jacobの息子なのね)が普段着で、カメラの方を向いたり向かなかったりしながら独白していく。父とふたりで車に乗っていて大型車にぶつかりそうになって道を外れたこと。2人ともだいじょうぶだったけど今から思えばあれが予兆だったのかも知れない、と語った後に学校でお父さんが、と呼びだされ、母Isabelle (Juliette Binoche)と兄Quentin (Vincent Lacoste)と車に乗ると病院ではなく自宅に向かい、父はもう亡くなった、と。

人が大勢きたお葬式を終えると、Lucasのなかで何かが抜けおちたのか壊れてしまったのか、友人で恋人のOscar (Adrien Casse)と会っても上の空だし学校は自宅の近くに転校すべきなのかとか、自分でもこれからなにをどうしたらよいのかわからない、母は母で傷ついていてそれどころじゃなさそうなので、パリでアーティストをやっている兄が彼をパリに連れて行って自分のところで暫く過ごさせたい、と言うのでそうさせてもらう。母はルーブルは行くべきだし、ポン・ヌフもあるわよ、なんて言う。

兄のパリでの同居人Lilio (Erwan Kepoa Falé) もアーティストでよい人ぽいのだが、Lucasはせっかくパリに来たのにあんま深く考えずに行きずりで体を売ってお金を貰ったりしているところをQuentinに見つかり、おまえなに考えてるんだ? って実家に送り返されてしまう。送り返されても受けとる母だってまだ自分のなかで整理がついていなくていっぱいいっぱいの状態だし、なにがなんだかわけわからなくなったLucasは、車のバックミラーを素手で叩き割ってその破片で両手首を。

命は助かったもの話せない状態になってしまったLucasは療養院に入って見舞いに来てくれたLilioに声をかけてもらったり、ギターを弾いたりしながら少しずつー。

ぼろぼろの状態からLucasと家族はどうやって支えを見出して立ち直っていったのか、かつての生に戻っていったのか、その軌跡を描いていくというより、すべてのコトの核心にあると思われる父の死は事故だったのか自死だったのか - 自死としか思えないのだが、であるとしたら何故彼は向こう側に渡ってしまったのか、ひょっとしてLucasにいけないことがあったりしたのだろうか? あなたがなにを思って悩んであんなことをしたのかわからないけど、こっちはものすごいショックと混沌のなかにあってちっとも立ち直れなくてなんなんだよ! って。

Lucasは家族にゲイであることを明かしていたし、パニック障害を起こすようなとこもあるし、でもそういったことで家族が変になるとは思えないし、家族だからと言ってなんでもオープンに話し合うべき、なんておかしいし、それぞれが他者には言えない悩みを抱えて走っていたってそれがどうした? だし、ってなるだけなのでおかしくもなんともないし。家族をそんな場所に置いてみたときに、父の死というのは後からゆっくりと、どんなふうに現れたり効いたりしてくるものなのか。

と、それまでひとりで画面に向かってぼそぼそ喋っていたLucasの場所にIsabelleが現れて、こちらに向かってあれこれ語ってから「会いたいよう」(こんなにも大好きなのに) って絞り出すように言うだけでこちら側も決壊してなにもかも一緒に持っていかれてしまう。Juliette Binoche、ふつうにおそるべし。

こうして最後に字幕で「父へ」って出るので、ああそうだったのか、と。監督の自伝的な作品、とは言われていたけど、なにが起ころうとずっとあの状態のままで蹲ってしまったままの - よくもわるくも - 父と子の姿を描いたものだった。

音楽はOMDの"Electricity" (1979)が何度か流れて、これは父親の好みだったのかしら? と思いつつ、あのチープで歪で、でも嫌いになれないあれ、がずっと残って引き摺られていった。

12.23.2023

[film] Wonka (2023)

12月17日、日曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXレーザーで見ました。
邦題は『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』。

原作はRoald Dahl、監督は”Paddington” (2014)シリーズのPaul King。 Tim Burton - Johnny Deppによる2005年版 - 成長したWonkaのは当時バカらしい、って思って見なかったのだった。

今回もTimothée ChalametのSNLの件があったのでふざけんな、だったのだがディズニーのあんなのよりはまし、とか思ったりしつつ。どっちもだめだけど、てめーら言ってることとやってることが違うだろ! 子供らを騙すんじゃねえよ! ってきちんと落としておくためにも。

冒頭、船の上のWonka (Timothée Chalamet)が身支度をして船員たちに見送られ、不思議な帽子と鞄に夢を詰めてイギリス.. ではないどこかで見たヨーロッパぽい陸地にあがる。ポジティブでお人好しで、何かを信じていて前途洋々向かうところ敵なし、大きなショッピングアーケードでぶちあげたる! ってお天道様に向かって吠える。

そうしながら極めて軽く簡単に騙されて邪悪なMrs Scrubbit (Olivia Colman)と下男のBleacher (Tom Davis)の安宿に幽閉されてしまうと、そこの地下には法外な借金を背負い込まされたNoodle (Calah Lane)をはじめとした同様の囚われ人たち5人がいて洗濯工場の奴隷仕事をさせられている。

でも自分には自分の作ったチョコをみんなに広めて幸せになって貰いたいというショコラティエとしての夢があるし、それをやるにはまず店を出さねば - けど新規参入を阻止する3人のチョコレート・カルテルがそこの市場を独占していて、Wonkaのチョコを食べてみるとこんなのに入ってこられたらやばいぞ、って両者の抗争が拗れていく。

優しかったママ(Sally Hawkins)の夢を抱え、魔法のチョコ(のレシピと素材)と共に世界を幸せにするはずだったWonkaとでこぼこの仲間たち vs. カルテル & 警察(Keegan-Michael Key) & カトリック教会(Rowan Atkinson)という地下に築かれた大人組織による悪の帝国(ややMinionsのあれっぽい)、という構図は、ちょうどPaddingtonが描いてみせたご近所 vs. ちっちゃめの悪者達のそれをより生々しくばかばかしいスケールで敷衍している。どっちも子供の頃からのママの味である魔法の食べ物 - チョコレートとマーマレード - を軸に展開していくあたりも。

Wonkaのチョコを夜な夜な盗んでいく変な小人Oompa-Loompa (Hugh Grant)をつきとめたり、ママの味を再現するためにNoodleと一緒に夜の動物園に忍びこんでキリンのAbigailからミルクを貰ったり - ここのシーンが一番好きだったかも - ファンタジーのところは楽しいのだが、その反対側にいる大人たちが張り巡らす闇の世界がねちっこくて今の資本主義のシステムすぎて、そのギャップには賛否あるかも。

最後のほうは危機一髪救出作戦からそれでも島送り&爆破 〜 改めて危機一髪、更にはNoodleの出生の秘密までせわしなくてんこ盛りで、みんなを幸せにしたいのはわかるけど、それは果たしてチョコレートで可能となるのか? そこにくるのは果たしてチョコレートなのか? ってここまでやられると思ってしまったり。こんなに波瀾万丈大変になるならショコラティエ無理、って子供らは思っちゃわないだろうか。

広場でみんなを巻きこんだりしつつミュージカル的に展開していく音楽はどれも楽しくて、もうちょっとグリッターかつグラムに弾けてもよいかも(Jellyfishあたり?) と思ったのだが、Neil Hannonだったので文句はない。最後の曲はなかなかよかったし。

Oompa-Loompa - Hugh Grantはどうせなにをやってもおもしろくなる、って本人も思っているに違いないので、もっと好き放題やらせるべきだったし、Rowan Atkinsonとはもっとぐさぐさにやりあってほしかったのに(ここ、敵役をColin Firthにしてもよかったのにな)。 あと、すごく贅沢に最近の英国ドラマ - 映画のオールスターズを使っているわりには… って。

キリンのミルク、おいしいのかなあ? ラクダのミルクチョコはあったけど、あんなかんじ?
肝心のおいしいチョコレートの味がどんなのかがちっともイメージできない、っていうのもなあ…

日本でやるとしたら極上のあんこを軸に、下女の女の子 vs. 家父長制が前面に出るのだろうがそんなの想像しただけで辛すぎて洒落にならなくてぜったい誰も見にいかない。

みんなよいクリスマスを、って今年は言えないな…

12.22.2023

[film] Kuolleet lehdet (2023)

12月17日、日曜日の昼、ユーロスペースで見ました。
邦題は『枯れ葉』、英語題は”Fallen Leaves”。 突然のようにカンヌのコンペティション部門に出品されてJury Prizeを獲って、あ、生きてた.. ってみんなが思ったやつ。
 
もう映画は作らないと言っていた(← こういう発言を信じられるひととあんま信じられない人の二種類があって、この人は明確に後者)Aki Kaurismäkiの作、監督によるフィンランド・ドイツ映画。

冒頭のスーパーのレジの場面、工事現場の場面の色合いと落ち着きよう(のようななにか)から、あー帰ってきたわおかえりー、になってしまう不思議。なんの成分が入っているのかなにが違うのか。

スーパーで賞味期限切れ食品の管理(シール貼り)などをしているAnsa (Alma Pöysti)がいて、彼女の仕事を棚の影からチェックしている暗い目の太った男がいて、彼女が賞味期限切れの食料を街角に暮らす人々にあげたり、自分で持ち帰ったりしたのを指摘すると彼女はふざけんな、ってクビを言い渡される前に職場を蹴って出ていく。(かっこいい)

彼女がひとりで暮らすアパートに戻ってもTVもなくて、ラジオをつけるとロシアのウクライナ侵攻のニュースが聞こえてきてみるみる食欲も失せてしまうし、お先は真っ暗なの。(すごくわかる)
 
工事現場作業員のHolappa (Jussi Vatanen)は分厚い作業服をまとって肉体労働を続けているのだが、喋るのは「気が滅入る」、っていうのだけ、服とか現場の隅とかに酒瓶を置いていて手を休めるたびに水を飲むように酒をごくごく飲んでいる無自覚のアル中で、これを指摘されると、そうか、ってすたすた現場を出ていく。(身軽でよいなー)
 
こんなふうに行き場を失ったAnsaと同僚に連れられて飲みにきたHolappaが盛りあがっているのか荒んでいるのかちっともわからない変なカラオケバーで出会って、ぜんぜん会話が弾んでいるように見えないのに映画館でデートをすることにして、名画座でJim Jarmuschの”The Dead Don't Die” (2019)を見たりして、すごく盛りあがったわけではないようだがまた会おうって連絡先を書いた紙を彼女から彼に渡すのだが、彼はやっぱりそれを無くしてしまって会う前の無風状態に戻ってしまう。

とりあえず手にする仕事はろくなもんではなくて、日々の不満や不安がたっぷり、まず食い扶ちが先、恋なんてあるわけないと思っていたふたりが、このダウンしてローな状態を維持したまま再会して、Ansaの部屋であまり目を合わせずに食事をして互いの手をとったりぎこちないキスをするようなところまで行くのか。 もちろんそこには難病も奇跡もないし未来なんてあるわけない。ウクライナのこともあるし世界は真っ逆さまに堕ちていく。こんなもんだけど、そこにはなにがあるのか?
 
Ansaが拾った野良犬のたまんないノラっぽさも含め、すべてがなんともいえないゆるやかな下降線の軌道上やその隙間に、吹き溜まった不機嫌と共にどうにかこうにか生きているようで、でも彼らの顔色や仏頂面の(無)表情、服の色(すてき)、歩き方、などなどすべてが間違いなくそこに在って、どこかの町で見たあなただったりするこの感覚はなんなのか、これこそがKaurismäkiだ!っていろんな人が言っていて、それはわからないでもないのだが、なんなのだろう?

19日のアテネフランセでの清水宏の上映イベントで言われていた、顔や表情の造作に頼ることなしに、ここにしかいない存在を映画のなかに存在させるために撮るような撮り方、ってこういうのかも、とか。そしてこうしてあるようなありかたこそがロケンロールでありパンクなんだ、と彼はいうのかも。
 
バーで演奏していた女の子2人組バンド – Maustetytötによる主題歌?- “Syntynyt suruun ja puettu pettymyksin” - 英訳すると”Born in sorrow and clothed in disappointment” – の地を這うそっけなさがたまらない。地霊のように突然出てきて流れを変えてしまう劇中バンドとしては“Yes Man” (2008)に出てきたMünchausen syndrome by proxy以来ではないか。

いまはもうウクライナだけではない、パレスチナの人々もいる。ますます無口になって空を見上げるしかない。

12.21.2023

[film] May December (2023)

12月16日、土曜日の晩、アメリカのNetflixに繋いで見ました。
いろいろばたばたで動けなくなったときにはこうやって。

本当にあったMary Kay Letourneauの話をSamy BurchとAlex Mechanikがストーリーとしてまとめて、Samy Burchが脚色、監督はTodd Haynes、撮影はChristopher Blauvelt(最初はEdward Lachmanが撮るはずだったって.. )、音楽はMarcelo Zarvos - “The Go-Between” (1971)のMichel Legrandの音楽を緩く引用している 。それぞれのいろんな粒が要素が、どの画面もすばらしく映画〜 してくるのでいちいちたまんない。

Natalie PortmanとJulianne Moore、そもそもぜんぜん似ていないと思っていたのだが、この映画のポスターのふたりときたら…

女優のElizabeth (Natalie Portman)が、次のフィルムで演じる役柄のスタディと役作りでジョージア州のサバナのある家にやってくる。彼女のモデルとなるのは59歳の主婦Gracie Atherton-Yoo (Julianne Moore)で、若い夫のJoe (Charles Melton)がいて子供たちもいて、一見朗らかで平和そうな家庭なのだが、それだけでElizabethがやってくるはずもない。

Elizabethが探偵、という程のノリではないものの家のなかや家族の様子を見ていくなかで明らかにされていく過去とは、1992年にタブロイド周辺を騒がせたGracieが当時13歳で前夫との間の子 - Georgie (Cory Michael Smith)のクラスメートだったJoeをふたりがバイトしていたペットショップで誘惑して関係をもって逮捕されて収監された、という一連の事件 – 当時の記事がスクラップで – その後刑務所で彼の子を出産したGracieは出所後にJoeと結婚して、3人の子供ができた、と。それは犯罪だったのか、愛もあったのか。

そんな一連の過去を押さえたうえで、ElizabethはGracieの日々を自身のふるまいに転写すべく家族の行事 - 子供の卒業祝いやディナー – に参加したり、当時を知る関係者 – Gracieの前夫、弁護士、Georgie、もちろんJoeに(JoeとElizabethは同い年だった)インタビューしたり、事件の発端となったペットショップに行ってみたり、あるいはGracieの双子の娘の高校に行って演劇のクラスでQ&Aをしたり、Joeとマリファナをやったりセックスをしてしまったり、彼女のそもそもの目的がスタディする対象とその周囲に寄っていくにつれてぐんにゃりと捩れて、彼女自身の演技と役柄の境目が危うくなってくる – という薄っすらとこわくなっていくメロドラマ、だろうか? あるいはコメディ、に転びうるのか? 甘さも切なさもない、過去は助けてくれない。

家族がElizabethに語るGracieの正体や噂について、どこまでリアルに信じて演じればよいのか - そこには愛もあれば邪念もあるし、時間の経過と共に変わってきたそれらもあるし、成長と安定それぞれに向かう思いもあれば欲望もあり、ある曲がりくねった人物の軌跡を女優として写し取って統合させることの難しさ – Joeの飼育している蝶の羽化のシーン – が複雑な家族のありようのなかで誰も助けてくれないなにか、としてやってくる。

Julianne Mooreが演じるGracieは彼女の演じる女性がいつもそうであるように、降りかかる運命にひとり震え慄きつつ、それでも立ち向かうあれ、を基調としつつ、あんた(たち)になにがわかるのよ、的な不遜さをさばさばと隠そうともせず、結果としてあのファミリーの頂点に君臨している(ように見える)。

そんな彼女の像に迫っていくNatalie Portmanは中堅どころの女優としてのプライドを保ちつつ、かつて生々しい事件を起こした加害者 - 被害者 - でも家族? という外から見たら謎のサークルに触れてびっくりしたり揺れたりしながらもゆっくりと変容し、その制御できるできないの境界線上で困惑している(ように見える)。

Todd Haynesの前作 – “The Velvet Underground” (2021)のあの曲 - ”I’ll be Your Mirror – Reflect What You Are”を思い浮かべたり、Ingmar Bergmanの”Persona” (1966)や”Winter Light” (1963)の一部に監督がインスパイアされた、というのを知って、治療に向かおうとした先で起こる転移とか、でも肝心なところには手の届かないし助けなんてやってこない、こんな近くなのに触れることのできないなにか、について思ったり。

あとは、こないだの日仏でのギトリの『これで三度目』のなかで示された、演劇と愛、人生をめぐる反転や分身のテーマについて思った。あのコメディでは演劇の側に人生を強引に引き寄せてしまう(愛の)アクロバットがあったが、ここにはそれをやろうとした若い女優がモデルとなった毒婦とされた女性の側に意図せずに引き摺りこまれていくスリルとサスペンスがある。

12.20.2023

[film] ほかげ (2023)

12月16日、土曜日の午後、ユーロスペースで見ました。

塚本晋也の作・監督による『野火』(2014) -『斬、』(2019)に続く三部作の最後。二番目のは見ていない。ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門に正式出品されている。 制作は監督自身の海獣シアター、音楽は石川忠(の遺したものを使っている?)。
「ほかげ」とは「火影」のこと。英語題は”Shadow of Fire”。

終戦後、周囲には何もない(ほぼ室内のみなので映らない)ぼろぼろの居酒屋のなかで死んだように横になっている女(趣里)がいて、家主と思われる男(利重剛)が一升瓶を持って現れて、彼女の体を気遣うふりをしつつ凌辱するとそのまま出ていく。彼女はそういうことをして or させられ続けてほぼ死んだ状態なのだが、店内に盗みに入ろうとした身寄りのない子供(塚尾桜雅)を捕まえて「坊や」と呼んで飼うように食べものを与えたりし始めて、そこに彼女を買いにきた – けどだめだったので「またきます」と言いながら何度も繰り返し現れる復員兵(河野宏紀)が加わり3人で疑似家族のようなものができる(→『ゴジラ-1.0』?) のだが、警報の音で兵隊は突然狂暴になって女を殺す直前まで行ってどこかに消えてしまう。

その影響で彼女と坊やの間も気まずくなって、坊やはやさしいおじさんがいるから、と拳銃を持ってそこを出ていく。

そのおじさん(森山未來)と坊やがふたりで野山を旅していくのが後半で、おじさんの正体も目的も得体がしれなかったのだが、ある家の前に来て、そこで寛いでいるその家の当主の姿を見ると彼の顔色が変わり、坊やにそいつを呼びに行かせて、坊やが持っていた拳銃を …

名前をもたない主人公たち、名前が呼ばれるのはかつての上官が殺した兵隊たちのそれのみ、死ねなかった/生き残った人たちはみんな悪い、怖いひとになってしまった... という決して終わらない終われない戦争、戦後の地獄を描いている。というのがふつうの見方、なのかしら。

でも、そういう内面で燻ぶって消えない業火、それがもたらす災禍や混沌を描いてきたのが監督の作品であることはわかるのだが、PTSDを患う人たちの挙動をホラーのように描くのはどうなのか?

家屋の暗がりとかその向こうで変な音を立て、痙攣する獣のように、ゾンビのようにもがき苦しむ人々の姿をああいう風に描くことで我々の中に引かれてしまう線、が気になる。実際に人格も記憶もどこかにいってしまって危害を加える可能性がある人たち、それゆえの、どちらにとってもの地獄なのかもしれないけど、彼らを作ったのは天変地異でも超常現象でもなく、我々ひとりひとりが、当時の政治家や軍人が引き起こした戦争なのだ、ということを描かないと、あの時代の戦争にあったこと、だけで片付けられてしまう – or こないだの『ゴジラ-1.0』のように仮想の敵、理想の軍を充ててあげることで再びの戦前へ(これ、ここがいまのこの国)。

こうして生き残った彼らに引かれたのと同じ線は死んでしまった彼らにも適用されて、例えば犬死にだった特攻隊をきらきらの英雄に変えてしまう。

おじさんと別れた坊やは闇市の混乱をサバイブして、彼女のところに戻ってみるのだが、彼女は襖の向こうにいて病気だから来てはいけない、見てはいけないと強くいう。向こう側に隔たれアンタッチャブルとされる死のイメージ。 でもほんとうは、それを見据えるべきだったのでは。

こんなふうにすべてが閉じて荒れてささくれた部屋だか家屋だかの箱庭に幽閉されて、そこでの人も含めた荒廃がいかにもな「戦後」の表象として提示される。これならもう十分わかっているって。こんなふうに壊した人、壊された人や町はこのあとどうやって「復興」できたのか、結局棄てたのか、なだめたのか、ごまかして忘れさせたのか、それをどんなふうに家族や社会は受容していったのかとかそのへん。「戦争責任」という80年代の子達があまり触れたくなかった大文字の辺りを今は無理やりにでも掘ってみるべきなのではないか。ウクライナやパレスチナを見ていて、どうすることもできない無力さに囚われてしまう前に。

12.19.2023

[film] Je l'ai été 3 fois! (1952)

12月10日、日曜日の午後、日仏学院のイベント『映画のアトリエ 〜フランス映画の隠れた名作を探して〜 Gaumont(ゴーモン) 特集』で見ました。

この特集では12月8日、金曜日の晩に“La Fille prodigue” (1981) -『放蕩娘』(+トーク)も見て、これはこれですごくおもしろかったのだが、Jacques Doillon - Jane Birkin - Michel Piccoliの、特に主演ふたりの延々止まないダンスのような異様な動きや表情を眺めて立ち尽くしてなんかすごいな、ってあんぐりしかなくてあまり書けることがないようなやつだった – でも見たほうがいいよ。

邦題は『これで三度目』、英語題は”I Was It Three Times”とか”I Did It Three Times”とか。上映後に須藤健太郎氏によるトーク付き。これぞギトリ! としか言いようがない、めちゃくちゃおもしろい一本。

冒頭はいつものように、スタッフ(バンドメンバー)の紹介から入って、作・監督・主演のギトリらが、ばらばらと撮影現場に集まってくるところをコメント(+ややイヤミ)つきで並べてこんなですー、と。

冒頭、貫禄たっぷりのベテラン俳優Jean Renneval (Sacha Guitry)が舞台で演じているときに、客席にいた御婦人Thérèse (Lana Marconi)を見初めて、お付きに身許を確認して近寄っていくが彼女は人妻なので、夫が夜中にいなくなる予定だからその時うちに来て(つっぱねないんだ..)と返して、ここから話はこの二人の逢瀬の方に向かうかと思いきや、Thérèseの現夫のHenri (Bernard Blier)が出かける前、彼女の友人の御婦人たちを前に自分が過去の結婚で寝取られた話をなんだか嬉々として語り始める。(へんなやつ)

最初の妻は彼のそっくりさんに取られて、二番めの妻は勤め先の宝石商に宝石を買いにきた富豪のスルタンに取られて – どちらも再現映像あり - どっちも彼自身の問題というよりは歩いていて道で転んだり穴に落ちたり泥棒に会ったりしたかのような語り口なので大変だったねえ、としか言いようがないのだが、この後に3度目の惨事が彼を襲うであろうことは目に見えているのでどきどきしながら見ていると、舞台本番の幕間にThérèseのところにやってきたJeanがベッドに入ったところで電車に乗り遅れたHenriが現れて、ちょうど舞台上の枢機卿の恰好をしていたJeanは…

タイトルがああだし、Henriはそもそもぜんぜんいけてない男だし、JeanとThérèseが一緒になることは目に見えているのでべつになんの心配もいらないのだが、なんてかわいそうなHenri.. にならないところもすごいったら。

「これで三度目」って、Henriにしてみれば、なんてこったほんとについていない、だろうし、周囲からすれば、やっぱしこれってHenriのあれだと思うし、でもちっとも懲りてないようだからこのままだと4度目だってぜったいあるよね、って思ってもぜんぜん構わなくて、結局は本人が幸せならそれでよいのだし、5回でも10回でもやっていってほしいな、と思いつつ、現世の寝取られではなく寝取りのほうで生々しく5度目までやったのがギトリその人だったわけだしー。

上映後のトークもとてつもなくおもしろくて。彼の映画、というより彼の演劇・演技を貫く大原則 - 彼の映画には彼の生きた世界 - オンもオフも - の全てが示されている、というのは例えばどういうことか、を具体的かつ平易に、でも割と大風呂敷のなかに置いてみせて、そうだよねえー しかない。

演劇とは愛である。演劇をやることは愛を交わすことである。反転して、愛とは演劇である。また、俳優とは演出家であり、俳優とは観客でもある。これらのパラドックスぽい(どうとでも言えそうな)言い草を孕んでくるくる変転していくさまがコメディとして展開されていく彼の映画 – でもあくまでこれは「コキュ」- 寝取られと「分身」というテーマを巡って重層的に展開されるフィクションだから、なんて言ってみたところでギトリと実父リュシアン・ギトリの寝取られの話があり、いやいやそれでも自分は俳優だから、なんていうぐるぐるが。

ギトリが64歳、本作の(だけでない)相手Lana Marconiが32歳で出会って恋におちてギトリにとって5回めとなる結婚をした時、ギトリは彼女に「君は未亡人になるよ」って言ったと。ギトリはこれが彼の最後の恋になることがわかっていたし、それを言われた彼女にしてみれば、次もあるって? ざけんな! になったろうし。なんかいろいろ - でも彼も彼女もスクリーンの上ではなんと素敵に輝いていることだろう。 と思って上のようなことを重ねてみると、演劇も映画もすごいな、って改めてー。

12.18.2023

[film] Maestro (2023)

12月10日、日曜日の午前、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

邦題は『マエストロ: その音楽と愛と』。Netflixでも見れると思うのだが、Leonard Bernsteinの音楽が全編でばりばりに鳴り響く音楽映画であること、時代によって画面サイズが変わったりするので映画館 - 海外だとIMAXでやっていたし - で集中して見た方がよいかも、と思って。

監督は”A Star is Born” (2018)からの監督2作目 – これも音楽映画 - となるBradley Cooper。プロデューサーのリストにはMartin ScorseseとSteven Spielbergの名前がある。

冒頭はカラー画面、カメラが入ったリビングで独りピアノを弾く老齢のLeonard Bernstein (Bradley Cooper)が映しだされ、インタビューで亡くなった妻の不在を嘆いて想いを呟く姿があって、そこからモノクロ – コントラストの鮮やかな - スタンダードの画面になり、1943年、25才のとき、カーネギーホールで急遽Bruno Walterの代役として指揮者デビューを飾って喝采を浴びるLeonard Bernsteinの姿が描かれる。この頃の彼 – そのうちこの頃だけじゃないことが見えてくる - はエネルギッシュで全力疾走するきらきらで、男性のクラリネット奏者の恋人もいるのだが、妹のShirley (Sarah Silverman)のパーティで女優のFelicia Montealegre Cohn (Carey Mulligan)と出会って転がるように恋におちる。

スターとしか言いようのない指揮者としてのカリスマ性とプレゼンス、表面には出てこない作曲家としての彼、それらに加えてNYの社交界の華、セレブリティとしていろんな人々からいろんなことを求められる彼、才能の塊に多彩な顔を持って時代の文化を創ったり担ったりした彼の落ち着きのないばたばたした活動は彼のキャラクターそのもののように投影されて(いや、逆かな?)せわしなく元気いっぱいのサイクルが四季のように回りだす。

Feliciaとの運命の出会いはあっても、彼女との間に3人の子供ができても、それが彼の「活動」の勢いやスピードに影響を与えたりすることはなく、変わらず男性との関係は続けているようだし、アルコールもドラッグもやりまくり、その噂が家族の耳に入ったところで収まることはないし反省なんてもってのほかで、好き勝手にやりまくる。でもそれは彼が彼だからできること、彼が彼であるために必要なことなのかもしれないとしてもFeliciaや娘のJamie (Maya Hawke)には受け容れられるものではなく、少しづつFeliciaの表情に暗い影を落としつつ、彼女自身の女優としての活動も活発になるとどこかに消えたり、そんな捩れも英国のカテドラルでのマーラーの『復活』のドラマチックな指揮によってどこかにとんで改めて抱擁したり。

ふたりが互いの背中をくっつけて座る絵がいくつかの時代、季節と共に描かれて、その像が変わらなくてもそれぞれの顔がどっちを向いていようともその触れあう背中が離れることはなかった.. ということなのか、でもそのうちにFeliciaの癌が明らかになると…

NYに暮らして、文系でいろいろ見ていこうとすると – いや必ずしも文系でなくても、四季のどこかで必ず彼の音楽とか作品 - Jerome Robbinsのダンスでも”West Side Story”絡みでも – を目にすることになる、それくらい彼の遺した遺産は巨大で、ドラマの量的にはもっといろんな人を絡めてTVシリーズくらいにしてもよかったのでは、くらいに思うのだが、せわしなくモノクロとカラーとサイズを変えながら時系列で行ったり来たりする、そういう流れの真ん中にこの映画の背中を合わせたふたりを置いてみる。

でもというかだからというか、Bradley Cooperの鼻は、ついどうしても見てしまう。”The Hours” (2002)でVirginia Woolfを演じたNicole Kidmanの時ほどではなかったけど、やはり。なんで鼻だと気になって見てしまうのかしら?

いまに始まったことではないけど、Carey Mulliganがひとりゆっくりと暗いなにかを纏って悲しみと共に崩れ沈んでゆくさまはすばらしい。誰のせい? なんて質問させることを許さない強さも込みで。
もし女性が監督したら、この辺はこんなに緩くは描かなかったのではないか?  という辺りがなんか。

かかる音楽は当然Bernstein作のを中心としたクラシック系ばかりなのだが、終わり近くの晩年のほうで、カーステレオからR.E.M.の"It's the End of the World as We Know It (And I Feel Fine)" (1987)のあの一箇所が聞こえてくる(これは当然)のと、教育プログラムでひっかけた教え子男子を連れていったクラブでTears for Fearsの”Shout” (1984)が流れたりする。この辺はBradley Cooperがやりたかったのではないか。

ThanksGivingのパレードでスヌーピーのバルーンが窓の外を通るのが映る。一時期、あのパレードであれだけを待って追っていた時があったなー。

だれか、これと同じようなノリで小澤征爾のドラマも作らないかしら? きっと楽しいのになると思うー。

12.15.2023

[film] 父ありき (1942)

12月9日の土曜日、ル・シネマ渋谷宮下の『いますぐ抱きしめたい』に続けて「小津安二郎:モダン・ストーリーズ selected by ル・シネマ」で見ました。この特集、東京国際映画祭での小津作品をぜんぜん追えなかったのでラッキー、と思ったのにあっという間に終わってしまった。平日昼間に暇な老人向けではなく、夜に生きる大人のためにこそ連日ずっと上映してほしいのに。だめ?

これまでも見たことある作品も含め、日本の家族や集団のエキゾチックでおかしかったり不気味だったりするところを個別に見ていく、というより「モダン・ストーリーズ」という軸を置いて繋いで見ることで改めて「怒りをこめて振りかえる」ことができるタイミングに来ているのではないか。小津の映画に出てきた女性たちの怒りや嘆きをオフィスや家庭で(もちろん映画を見ながら)そうしてきたように笑って流してしまうのではなく、今こそ、あれってどういうことだったのか、「モダン」という枠に落として見直してみる。検閲で削除されていた箇所を含めてデジタル修復された今こそ。

今年のヴェネチア国際映画祭でのプレミアも話題となった『父ありき 4Kデジタル修復版』。
英語題は”There Was A Father”。 上映前に国立映画アーカイブの大澤さんのトークがあった。

今年は1903年の12月12日に生まれて1963年の12月12日にちょうど60歳で亡くなった小津安二郎の没後60年で生誕120年で、いろいろ狙ったとしか思えない四角四面のかっこよさ。

トーキーへの移行も遅く(1936年)、作品への評価は高かったがヒット作がなかった彼の最初のヒット作 - 『戸田家の兄妹』(1941)に続く作品で、脚本は小津が1937年に戦争で召集される前に書かれて、帰国後に一部書き直されて太平洋戦争下で製作された唯一の作品で、戦時に公開されてヒットしたのだが、戦後に再公開されるにあたってGHQの検閲が入って戦争に関する箇所など約7分がカットされた。

ソ連の崩壊後、旧ソ連に保管されていた日本映画が発見されて、その中に検閲が入る前のバージョンがあって、これを今回松竹と国立映画アーカイブが共同のプロジェクトでデジタル修復した、と – いうようなことがトークでは語られた。

映画のタイトル表示は検閲前のに戻って『きりあ父』。小津よりひとつ年下の笠智衆の初主演作、演じた当時の年齢は37歳…?

筋はものすごくシンプルで、妻に先立たれてひとりで息子を育ててきた実直な教師の笠智衆が、修学旅行中の事故で教え子が溺死してしまった責任を取って教師を辞めて、息子を連れて長野の村役場で働いて大学までは行かせてやりたい、ってひとりでがんばり、息子(佐野周二)はそれに応えて勉強して大きくなって大学を出て教職について、父の元同僚の娘ふみ(水戸光子)を嫁に貰ってはどうか、っていう話も素直に受けいれ、かつての教え子たちとの同窓の会で飲んで歌ったりしてよかったなあ、ってしんみりした翌日に具合が悪くなり、そのままあっさり亡くなってしまうの。最後は息子とその嫁が手を取り合い列車に乗って自分たちの住処に帰る。

なんの破綻も混乱も、怒りも反抗も嘆きもない。お父さんはがんばるからな、っていうその一貫したがんばりに、息子はありがとうぼくもがんばるよ、ってそれに応えて努力してがんばって、彼の嫁すらもその流れに吸い寄せられるようにやってきて、父は亡くなっても父ありきじゃな、って。そんな父のありようを美化する、というよりも単に父とはそういうもの/それだけのもの、という場面を重ねることでAIに描かせたような、ホワイトホールのように空っぽな父親像を描出している。なにひとつ反抗したり文句言ったりできる余地がない。

そして小津映画の女性たちが怒ってなにかを放り投げたりするシーンについても、同様にその怒りはもっともすぎて異論を挟む余地がなくて、こんなふうに動かしようのない家具/インテリアとして頑と置かれた父親を中心とした家族像が受けいれられてヒットした、ってこれはこれでやばいのでは。GHQは映画まるごと発禁処分にすべきだったのでは、とか。

でもとにかく画面の構成とか奥行きとかエンディングとか、ああいつものだ、っていう安定感もすごくて。

来年のお正月に神保町シアターでやるやつは、行けないんだよう…

12.14.2023

[film] 旺角卡門 (1988)

12月9日、土曜日の昼、ル・シネマ 渋谷宮下の特集?「ウォン・カーウァイ ザ・ビギニング」で4Kリストア版を見ました。
原題をそのまま訳すと「九龍のカルメン」、邦題は『いますぐ抱きしめたい』、英語題は”As Tears Go By”。 Martin Scorseseの”Mean Streets”にインスパイアされたというウォン・カーウァイのデビュー作。

14歳から香港の闇社会で暮らすやくざのAndy (Andy Lau)には子分のJacky (Jacky Cheung)がいて、借金の取り立てを主な生業にしているのだが、気が早くてつんのめってすぐ沸騰して騒ぎを起こしてばかりのJackyの尻ぬぐいばかりやっていて、付きあっていた女性からはあんたの子を堕したから、って別れを告げられてどうしたもんかー、になっている。

ある日Andyは、ランタウ島の叔母から電話でいとこのMaggie (Maggie Cheung)が病院の検査でそっちに行くからよろしく泊めてやって、って言われて、現れた彼女はマスクをしてほぼ喋らず外にも出かけず具合悪そうに部屋でぼーっとしている。

Jackyは子分の結婚式の宴会の仕出しでもめたり、つみれの屋台の出店で小競り合いしたり、自分で火を点けてまわるような騒動が絶えなくて、特に同じ親分の下の別の勢力の連中と吠えたり噛んだりが激しく、そこに博打の借金が絡んでもうどうすることもできなくなり… っていうせわしなく血気盛んなヤングちんぴらの抗争が激化していくのと、JackyとMaggieが燃えあがる、というかんじでもなく、することもないしなんとなく近寄って、ゆっくりと親密になっていく絵の対比がなんともいえない。60~70年代の日本の四畳半の青春+ちんぴら任侠もの、で見たことがある気もする切なく燃えあがってしょぼんと消える系のー。

Jackyはぼろぼろの傷だらけになり、Andyもとばっちりで同様になり、Maggieはその間に別の男(医者)と恋仲になろうとしていたところで、雑巾になっていたAndyに再会して..

一瞬で向こうに去ったり消えたりする悪の火花 - 相手を襲って蹴散らしていくアクションの残像のようなイメージの表裏としてあるかのように相手にじりじりとにじり寄っていったり、ただそこにいるだけだったり、忘れられない、運命の恋の行方をしっとりと描く - 暴走と接吻、犯罪と恋愛、というのが『花樣年華』(2000)以前、80~90年代のウォン・カーウァイの基調にある気がするのだが、このデビュー作ではそれらいろんな要素とか記号など、稚拙でせわしないところも含めてぜんぶやんちゃにぶちまけられているような。

ただまあJackyの振る舞いはどう見ても田舎の猿のようにしょうもないガキのそれだし、対抗組のリーダーTony (Alex Man) は同じくらい鈍重で乱暴なだけのバカみたいな奴だし、猫を虐めるシーンは許せないし、連中が犬みたいに終始延々がうがうやりあって殴りあってばかりなのはちょっときついのだが、組織の大ボスからでっかい鉄砲玉案件 - どこそこの裏切り者を暗殺して名を上げてみろ、牢屋に入れられたって出てきたらもう一人前の英雄だ、って言われたJackyはそれを受けてしまう。かつて同じことをやって今、になっているAndyは止めろ、って止めようとするのだが…

主演はAndy Lauだし、撮影はAndrew Lauだし、”Infernal Affairs” (2002)を思いだしたりもするのだが、ノワールにまではとてもいかない、運命が拗れて絡まって堕ちていくようなのではなく、最初から男たちはほぼ全員がクズのまま、ファム・ファタールも男たちを狂わせるまでは行かずただそこにいるだけ、”As Tears Go By” - 涙あふれて - だったり「抱きしめたい」だったり、ほぼそれだけのかろうじて犯罪青春映画。

なんだけど、AndyとMaggieがなんで近寄っていって「抱きしめたい」になったのか、そのあたりはもうちょっときちんと描いてほしかったかも。Andyの部屋でMaggieがどんなふうに過ごしていたのかとか。Maggie Cheung、この頃から待たされたり置きざりにされたりする女、だったのね。

12.13.2023

[film] Othello (1951)

12月7日、木曜日の夕方、シネマヴェーラの『文学と映画』特集で見ました。

正式なタイトルは”The Tragedy of Othello: The Moor of Venice” - シェイクスピアの原作(1603頃)と同じく。1952年のカンヌでグランプリを受賞している。

監督・制作・脚色・主演はOrson Welles、撮影には5人がクレジットされていて、そうなんだろうなー、って。91分の上映時間で、つまんなくなる画面が1コマ一瞬もない。モノクロの、光と影の構成とか作り方がおもしろくて飽きなくてあっという間。

最初がOthello (Orson Welles)とDesdemona (Suzanne Cloutier)の石切り場のようなところを行く葬送の列を鳥の目で捕らえる。鳥籠に入れて吊るされたLago (Micheál Mac Liammóir)がそれを眺めて、自分がしてしまったことの深さ(高さ)と重さを思い知っているような。(この場面は原作にはない)

ここから過去に向かい、LagoとRoderigo (Robert Coote)がOthelloとDesdemonaの愛と結婚を嫉んでDesdemonaの父Brabantio (Hilton Edwards)に告げ口したり、それがうまくいかないとなるやCassio (Michael Laurence)とDesdemonaの秘密の恋をでっちあげ、Othelloが彼女に贈ったハンカチをうまく使ってOthelloにあれこれ吹き込むと、彼の嫉妬心→絶望が予想を超えておもしろいほどめらめらと燃え広がり、噂がLagoの手を離れても勝手に噴火してひとりで溶岩にまみれてあとは悲劇に..

演者としての(黒塗り)Orson Wellesは – いつものことだが威風堂々ふてぶてしく動じなくて、これなら周囲からの好感も反感もたっぷり買いそう、と思っているとずぶずぶ、どちらかというと自分から自己嫌悪・憎悪の海に嵌って転がり落ちていくようで、そのさまをダイナミックに上から下から露わにする天井の高低とか網目のように被さってくる光と影の明滅がすばらしい。感情のドラマって、こんなふうに描くことができるのか、って。

6月のNTLで見た“Othello”もすばらしかったが、こちらの方が上演/上映時間も含めて原作には近くて長くて、周囲の人間関係や機構がゆっくりとOthelloを取り込み蝕み、そのクビを絞めあげていく様が生々しく精緻に描かれていた。 こっちの作品は、Othello vs. Worldという構図が孤絶した岩の島でくっきりと迫ってきて、その臨場感の生々しさが。

いろんな映像表現のしかたがコンパクトに並べられているのもすごいなー、って。


The Sea Wolf (1941)

同じ日の晩、上のに続けてみました。

邦題は『海の狼』。原作は1904年にでたJack Londonの同名小説。
監督はMichael Curtiz、脚本をRobert Rossenが書いている。こちらもなかなかの情念が燃え広がるすごいやつで、痺れた。

ひどい悪天候の晩、飲んだくれてぼろぼろの船員George Leach (John Garfield)がバーで後ろからぶん殴られてどこかに連れていかれる。どこかから逃げてきたらしくそわそわしているRuth Webster (Ida Lupino)は、そこにいた作家のHumphrey Van Weyden (Alexander Knox)に警察が来るのでカップルのふりをしてくれないか、って頼んだのに彼は拒んで、ひどいーって文句を、言ったところで大波が来てふたりとも海に投げだされ、気がつくと霧のなかから幽霊船のように現れた”The Ghost”に拾われて、そこではさらわれたGeorgeも働かされていた。

船長のWolf Larsen (Edward G. Robinson)は船員たちを暴力で縛って絶対服従を強いているやばい奴で、雇われている船員の方もみみっちいCookie (Barry Fitzgerald)とか自称名医だがアル中で手が震えて使い物にならないDr. Prescott (Gene Lockhart)とか、他にどこにも出ていけないやくざ者ばかりの地獄で、溺れて死にそうになったところをGeorgeからの輸血 – 血液型合っていないかもだけど、このままだとどうせ死んじゃうからやるか、って怖すぎ - で一命をとりとめたRuthとそれをきっかけに彼女に寄っていくGeorgeと、ずっと極悪一筋で成りあがってきたLarsenに文を書いたりミルトンの詩を愛でる知性があることに気づくVan Weydenと、この4人くらいを中心に、他の船からの襲撃とか船員からの反乱(数回)とか目が見えなくなってもしぶとく死なないLarsenの立ち姿とか、いろんな波風にさらされて... という海洋サバイバルホラー、というか。

海の上だと逃げようがないし、陸の上では生きようがないし、という行き場を失ったはぐれものたちの死ねないし生きれないやりきれないかんじが見事で、同じくMichael Curtizによるこないだこの特集で見たヘミングウェイの”The Breaking Point” (1950) - 『破局』も同じような船乗りのお話しだったが、すばらしい。

彼の”Mildred Pierce” (1945)なんかもそうだけど、追いつめられたかわいそうな落伍者たち、という描き方ではないの。ついていないけど、でも生きるから - なぜなら.. っていう強さ、激しさとしぶとさがまず前面にくるの。見習えない。

この映画でのEdward G. Robinsonのすさまじいこと。あんなふうに立っていても目が見えなくなってうずくまっていても、ああしているだけで岩みたいに「ある」演技をできる俳優さんて、いまいないよね。

12.12.2023

[film] Plane (2023)

12月5日、火曜日の晩にTohoシネマズ日比谷で見ました。邦題は『ロスト・フライト』。

監督はJean-François Richet。筋を聞いて予告を見ただけでB級の駄菓子だわ、って思うもののなんか見たくなる。機内ではぜったいやらないだろうし。

“Olympus Has Fallen” (2013)などでGerard Butlerの演じるMike Banningモノもそんなかんじので、ちっとも強そうには見えない忠犬みたいなGerard Butlerがぼろぼろになったり地面を這いずったりしながら地道に敵を片付けていく。Bruce Willisのあれみたいにべらべら喋って威勢よくないし、そんなにタフにも見えないのだが、地味に沸騰しつつ地を這って負けないスコティッシュの踏んばり、ってやはり嫌いになれない。

機長のBrodie Torrance (Gerard Butler)はそんなにメジャーでないエアラインTrailblazer Airlinesのパイロットで、元はRoyal Air Forceのパイロットで、ひとつ前にはもっとメジャーなエアラインにいたのだが、迷惑客をぶん殴っちゃってここまで落ちてきていて、その辺については本人もどうでもよさそう。

彼のフライトは年末にシンガポールから東京を経由してホノルルに向かうやつで客は14人、離陸直前に殺人犯Louis (Mike Colter)の護送の依頼が入ったり - なんでわざわざ東京経由? - 天候悪化の予報が出ているのに上から燃料をケチられて迂回できるルートを取れないとか、ついてない運気が渦を巻いており、でもこの先映画がどこでどうなるかはわかっているのできたきたきた、しかない。

離陸後、悪天候でずっとやなかんじでがたがたしていた機内に落雷で電源が落ちて、客席がパニックになり、Louisを護送していた警官が通路に落としたスマホを拾おうと席を離れたのをCAさんが離れてはいけません、って近寄ったところで激しい揺れが襲ってふたりは天井から叩き落とされて簡単に亡くなってしまう。

コントロールを失って海に着水しかない、って覚悟した飛行機がとりあえず前方に見えたフィリピンの島に不時着するまでは導入でしかないのだが、小さい飛行機で悪天候できりきり怖い思いをしたことがある人にとってはなかなかにリアルでおっかなくて、こうなったらああ神さま、しかないよなー、って。

死者は出てしまったものの、とりあえずほぼ無事に着陸できたのはよかった、と助けを求めに行こうとしたところで、この島は反政府系ゲリラに支配されて警察も軍も機能していない場所であることがわかり、やばい、って戦慄しているとやっぱりそういう見るからに(この辺の風貌とか見せ方もいい加減に …)の連中がやってきて機長とLouis以外の乗客全員が連行されてしまう。

本国のアメリカでは、機が消息を絶ったの報を受けて緊急対策本部が立ち上がり、やばい方も含めたその道のプロっぽいおじさん(Tony Goldwyn)が動きだしたり、再会を待つ娘と機長とのぎりぎりのやりとりもあったりするのだが、武装したレスキュー隊が入ってくる以外、ほぼ大勢に影響はない。

現地の連中に対する動じない様子をみてLouisにあんた誰? って聞いてみると、過去を隠すためにフランスの外人部隊で傭兵をやっていたことがわかり、それなら手伝ってね .. と頼みもしないうちからあっさりほいほい敵をやっつけ始める。 彼がいなかったらあっという間に一同全滅したはず。

襲ってくる側のほうは強くて悪そうなリーダーと同様にガラ悪そうな舎弟みたいのがいて、ジャングルの地の利を活かしたねちっこくしんどいサバイバル戦になるかと思ったら全員が車でがーっと乗りつけてきて、揃ってばりばり撃ちだしたので、エアライン側が差し向けた武装した連中などに効率悪くやっつけられ、最後の脱出のとこだって”Die Hard 2”みたいにやれないこともなかったのに、なんだそんなもんかー、って終わってしまったのはやや残念だったかも。 なんのために襲おうとしたのよ?

あと、嵐と不時着であんなふうにぼろぼろになった機体を脱出のためもう一回飛ばすのと、レスキュー隊も来たことだしあの島にそのまま残って政府の救出を待つのと、リスクはどっちが大きかったのか。あの状態なら待ったほうがよかったのでは?

これの第二弾が”Ship” っていうのは本当なのか? そうしたら第三弾は”Train” になるのか? だれかがアンチ乗り物キャンペーンでもやろうとしているのか?

あと、年始からこれだったら、残りの一年なんもやるきにならないよね。

12.11.2023

[film] Today We Live (1933)

12月3日、土曜日の昼、シネマヴェーラの『文学と映画』特集で見ました。

邦題は『今日限りの命』。Howard Hawksによるpre-Codeドラマ(なのか、やはり、これでも)。なかなかおもしろかった。

原作はWilliam FaulknerのSaturday Evening Post誌に掲載された短編 "Turnabout" (1932) – 邦題は「方向転換」とか「急転回」とか。1932年は前年の「サンクチュアリ」を経て「八月の光」が出た年。Faulkner絶好調の季節だったのかも。

あと、このセットでJoan Crawfordは二番目の夫となるFranchot Toneと出会った、って。

第一次大戦中、イギリスの港にアメリカ人のRichard Bogard (Gary Cooper)がやってきて、そのままケントの田舎に向かい、そこの農場+邸宅を買おうとAnn (Joan Crawford)の地所を訪ねるのだが、ちょうど戦地に赴いていた彼女の父の戦死の報が届いたところで、召使も含めてしんみりしょんぼりしているところで、そんな時に父の書斎をすてきですね、なんていう購買者のアメリカ人に、普段のJoan Crawfordなら牙をむくところなのに、そうはしない(で、恋におちた)。

Richardはその家を買って、Annたちは敷地内の使用人小屋で暮らして、イギリス海軍にいる兄のRonnie (Franchot Tone) と幼馴染のClaude (Robert Young) が訪ねてきて、3人は小さい頃からずっと一緒に楽しく過ごしてきて、ゴキブリを素手で掴まえて遊んだりしてて – そのゴキブリがウェリントンと命名されるの - ClaudeはそんなAnnと結婚したいと思っていて、Annもそれは了解しているのだが、自分にとっては運命のRichardと出会ってしまったのでどうしたものか、ってRonnieに相談すると、RonnieはClaudeにはっきり告げるべき、っていうのだが悩んでいるうちに戦争でそれどころではなくなる。

激しくなっていく戦局を田舎から黙って見ていられなくなったAnnは看護婦として前線の方に向かうことにして、Richardもそれに倣ってアメリカ空軍のパイロットとして共に戦うことにして、そうしたらある日、RonnieがAnnのところに新聞記事の切り抜きを持ってきて、Richardが亡くなった、と。

もちろんそんな記事はうそっぱちで、ゴキブリ相撲をやって盛りあがるバーに現れたRichardは酔っぱらっているClaudeを引っ掴んで自分の戦闘機の銃座に座らせるとドイツ軍のいる方角に飛ばして突っこんでいって、当然ドイツ空軍はなめんな、って追いまわしてくるのだが、Claudeは無邪気に撃ち返したりして、それが見事に当たるのでなかなかやるじゃないかこいつ、になって - でも彼の懐にいたウェリントンは戦死 - 着陸してからそういえば飛行機のここに引っかかっている爆弾はこれでいいの? って全員が凍りついたり。

じゃあ今度はお返しにRichardをClaudeの魚雷挺に乗っけてあげる、って彼を乗せて停泊しているドイツの戦艦をからかいに行くと、ちょっとした事故でClaudeは失明してしまうの。

Claudeの失明を知ったAnnはきっぱりとRichardにお別れを告げるのだが、その様子からClaudeはAnnの本当の気持ちに気づいて、身を引こうとしたときに、海空軍共同の特攻作戦が立ちあがり、Richardは空から、ClaudeとRonnieは海でドイツ軍に向かっていって…

戦闘機での勇ましくぐるぐるまわる戦闘シーンも含めて、とってもHawksらしい楽観主義といい加減さに溢れた(どうでもいい)「男」映画で、原作タイトルの“Turnabout” – 「急展開」については、戦時下においてはだいたいがそうで、Ann視点ではRichardの登場~ 死亡通知 ~ 復活以降の流れは連続ドラマみたいに起伏が激しくてめちゃくちゃだし、ドイツ軍との駆け引きだって、RichardとClaudeの駆け引きだって、何が起こっても不思議ではないのだが、「急展開」の本当の意味が明かされるのは最後の最後で、いつも必ずどこかが引っ掛かって敵に向かってリリースされないバカな爆弾を炸裂させる手段はこれしかない、と。なぜ必ずどこかに引っかかって思うような軌跡を描いてくれないのか、それは戦争だからか、恋愛だからか、それが”Today We Live”っていう彼らの戦時の生きざまに重なるとなんかやりきれないな、っていうのと、でも、それでもなんとかやっていくからさ、っていうてきとーな軽さはHawks、かなあ。

12.10.2023

[film] Napoleon (2023)

12月3日、日曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXレーザーで見ました。
監督はRidley Scott、”The Last Duel” (2021)に続く歴史もの。脚本はDavid Scarpa。

ぜんぜん関係ないのだが、この日の昼にシネマヴェーラで見た”Today We Live” (1933) - 『今日限りの命』にウェリントンっていう最強のゴキブリ(リアル)が出てきて、この映画のネタと繋がったのがちょっと嬉しかった。

冒頭がフランス革命でMarie Antoinetteがギロチンされる場面で、その様子をコルシカから見にきてじーっと見つめて動かない、そんなNapoleon Bonaparte (Joaquin Phoenix)がいる。苦虫の仏頂面で不気味で何を考えているかわからないギャングの親分のような挙動が最後まで続く。彼をフランスの皇帝たらしめた天才的な戦術家としての側面は、結果として示されるだけで、しかもそれが史実として不正確なところも多い - 専門家ではないので知らんが - ときたら評判も悪くなろうもんじゃ… なのかしら。

ギロチンの後、1793年、港町トゥーロンに陣取っていたイギリス軍を夜襲で蹴散らして名をあげると、国内の恐怖政治を終わらせ、王党派の反乱デモに向かって大砲ぶっ放して抑え込んで内政を掌握し、文句言えるなら言ってみろ、状態にまで成りあがる。

そうしながらNapoleonは子連れの娼婦Joséphine (Vanessa Kirby) と出会ってめろめろになり、彼女も彼を愛して呪いをかけるかのように縛りつけて結婚して、なのに世継ぎができないのが悩みで戦よりもそっちの方でイラついて狂っていって、ピラミッドに大砲をぶちこむエジプト遠征中も彼女の浮気を聞くと飛んで帰っていろいろ大変、になる。

以降、有名なアウステルリッツの戦いもボロジノの戦いも圧倒的な勝利、というよりは両軍勢にものすごい量の死者数 - エンドロール手前でフランス側の戦死者の数字が出てきて呆れる - を出して、戦闘の場面はいかにもRidley Scottぽい、敵も味方もよくわからず血も涙もない即物的な肉と泥にまみれたどす黒いでろでろが続いていくのに彼の頭のなかは空っぽか、常にJoséphineの方に飛んでいくかで、Duke of WellingtonとのBattle of Waterlooでも、最初の段階から負けるのがわかっているようなのに、突っ込んでいって揺れていて、とにかく死を恐れていないことだけはわかる。

従来のナポレオン = 英雄像を覆す、というより、結婚式を挙げても戴冠式を経てもずっと内側にぶすぶすと何かを燻らせたままで、それがなんなのかはよくわからず、皇帝になる人ならもっとコミュニケーションとか世渡りに長けたものでは? というおおもとがなんか歪で変だし、Joséphineとの行為もまるで動物の交尾だし、この人だいじょうぶなの? というやばさで最後まで引っ張って、歴史もの、としての風格とか大作感はあんましない - その辺はぜんぜん狙っていなかったのでは。

なんといってもJoaquin Phoenixなので、向こう側に渡ってしまった後のやばさと、向こう側に渡る境界線上をうろうろしている不審人物のそれと、今回のはどちらかというと後者で、彼の主演作でいうと”You Were Never Really Here” (2017) の、とんかちで敵をぶんなぐる殺し屋の挙動が一番近い気がした。皇帝が”You Were Never Really Here”っていうのもまたなんというか。

その反対側で、皇帝の愛を獲得した後、彼があっち側に行ってしまってからどんどん幽霊のように透明になっていくVanessa Kirbyが圧倒的によくて美しくて、”The Last Duel”で見事にバカな男どもをあぶり出したJodie Comerと同様に、彼女のために戦場に向かって土地を荒らし、大量殺戮を行って、そんなでもいまだに評価されたり信奉されている皇帝、という像が伝わってくる。

『首』もそうなのか知らんが、歴史上の偉人・有名人をこんなふうに描く - 貶めるというよりあれだけのことをした人物は同時にこれだけのこともしていたのだ - まともじゃない、酷いよね、っていうのは「普通の」感覚としてもっておくべきなにかで、ここのNapoleonの描き方って、はっきりと最近になって増えてきた気がする独裁者 - ロシアの、シリアの、北朝鮮の、中国の、イスラエルの、思い浮かべただけで吐き気のする鼻持ちならない連中の貌を思い起こさせる。Napoleon信奉者には我慢ならないかも知れんけど、この連中に連ねてしまうことにそんなに違和感はなかったかも。

12.08.2023

[film] 兄とその妹 (1939)

12月3日、日曜日の夕方、国立映画アーカイブの特集『返還映画コレクション(1) - 第一次・劇映画篇』で見ました。
監督・脚本の島津保次郎の「松竹最後の作品にして最高作」と作品説明にはあったので。

間宮敬介(佐分利信)と妻あき子(三宅邦子)、敬介の妹文子(桑野通子)の三人は同じ家に仲よく暮らしていて、敬介は会社の専務との囲碁に付きあわされて冒頭の場面でも午前1時に帰宅して、あき子と会話して寝るだけ、小さな貿易会社で翻訳事務の仕事をしているらしいモダンな - 洋服かっこいい - 文子は同情しているのか軽蔑しているのか関係ないふりをしている。

場面は会社での敬介の仕事ぶり- 数字に強くて優秀で上を含めて周囲から認められている反面、囲碁ができるから上に気に入られているんだろ、とか河村黎吉をはじめとするやっかみ組も湧きはじめている – と毎晩そういう糞玉にまみれたりして家に帰ってくる夫をどんなふうであれ朝に晩に受けいれて送りだすあき子の会社員の家世界と、大変ね~ とか言って距離を取りそっちを見ないようにして我が道を行こうとする文子の世界、このふたつをじーっと描いていく。めちゃくちゃ地味だし、ここからどう転がるんだ? って思いつつもなんでか目を離すことができない。

文子の会社に仕事でやってきた有田(上原謙)が文子を見初めてお付き合いしたい、と申し込んでくるのだが文子はめんどくさいので結婚してます、ってウソをつくと有田は叔父である敬介の会社の専務に報告して裏をとって(… こわすぎ)、改めてどうでしょう? になったり、間宮の家で行われた文子の誕生日の会で交わされるなんだかみんな遠くにきちゃったわね、の会話とか、3人で箱根にピクニックに行って富士山を手のひらの上に乗せたりとか。会社的なあれこれから離れたところでの文子とその兄、その義姉の世界は割と穏やかだったりする。

敬介のいろんな仕事とか数字のしがらみにまみれて、でもすごく大きな不満も不安もなく流れ流されていく日々と、ただの妹ではなく「その妹」 - “The 妹” - と特別に強調されてしまうくらいに浮きあがった - 浮きあがるように造形された文子の世界が彼女の縁談話と共にゆっくりなにかに絡みとられようとした時…

敬介の会社の出世に関わる中傷のほんとにどーでもよい愚痴ごたごたは、現代の会社でもゴルフや飲み会の場でふつうにありそう - なので翻訳なしで言語が伝わるくらい鮮明に理解できる - で、そういう肥溜めみたいなところをしゃぶ漬けになって生き抜いてきたあれら神経のないじじい共が戦中戦後を支えてきたのだから、この国のいまの停滞だって推して知るべし。

で、ぶちきれて河村黎吉をぶん殴る敬介をやや離れた距離でとらえるシーンはありがちな爽快さからはやや遠めで、あららやっちゃったよ、を第三者が遠くのなにかをとらえて目撃する図に近くて、でもあの引っ叩きかたはちょっと痛そうでよかったかも。

こうして会社にいられなくなった敬介は、彼の経験したような柵を振り払ってひとり会社を立ち上げていた笠智衆 - 文子が名刺を貰っていた - のところに向かい、彼からは一緒に大陸での仕事をやらないか、って誘われて任されて、「その妹」もまた申し分なさそうだった上原謙との縁談を蹴っとばし、3人揃って中国行きの飛行機に乗り込むのがラスト。飛行機が滑走路を走り出した時、窓から外を見ていた文子が車輪に草が絡まっているわよ! ってなにが楽しいのか楽しそうに言うのだが、ここにはどんな意味があったのだろうか?  ① そんなふうに絡まったって意味なさそうだけど、まるで私たちみたい ② 飛行機が飛びたった後に絡まったのが原因で大爆発しちゃえばいいのに ③ 絡まって大陸に渡ったあとに外来種として根をはって生きるわよ ①が妻で、②が妹で、③が夫の視点、だろうか…  

小津的な穏やかさとも溝口的な厳しさとも成瀬的なやりきれなさともどこか違って、どこにも向かうとも知れずに車輪に絡み取られて飛んでいってしまう平熱の雑草感があって、これはこれですてきだと思った。

12.07.2023

[film] The Lost Moment (1947)

12月2日、土曜日の昼、シネマヴェーラの『文学と映画』特集で見ました。もう止まらない。

原作はHenry Jamesの”The Aspern Papers” (1888) - 『アスパンの恋文』。原作と同じタイトルで作られた2018年の英独映画は未見。監督は俳優でもあるMartin Gabel。

邦題は『失われた時』。Henry Jamesがフィレンツェ滞在中に聞いたMary Shelleyの異母姉に纏わる実話が元になっていて画面に出てくる詩人のポートレートはPercy Bysshe Shelleyのそれ、だって。

19世紀の詩人Jeffrey Ashtonが恋人に宛てて書いた恋の手紙を探し求める出版人の Lewis (Robert Cummings)は、詩人の当時の恋人で手紙の受取り人だったJuliana Bordereau (Agnes Moorehead)がまだ生きている、という情報を得て、ヴェネツィアにある彼女の邸宅に向かう。彼自身がJeffrey Ashtonの熱烈なファンだったし、その幻の書簡集を出版すればベストセラーの一攫千金間違いなさそうだったし。

でも玄関で応対に出てきた侍女は明らかに何かに怯えて恐れているようだし、彼女を使っている家政婦の振るまいも口調も意地悪だし、家のすべてを仕切っているTina (Susan Hayward) - Julianaの姪だという - は氷のように冷たく怪しい。でもなんとかよぼよぼで椅子に座った枯れ木のようなJulianaに会うことができたし、彼女が要求してくる法外なお金を気前よく払って暫く屋敷に滞在させてもらうことに成功する。

そのうち邸のどこかから音楽が聴こえてきて、それに導かれるように奥の部屋に入るとドレスも髪型も替ったのか替えられたのか目がどこかにいっちゃったTinaがいて、自分はJulianaなのだと言う… ではあの老婆は… ? そしてJeffreyの書簡は… ?

お屋敷設定も画面の雰囲気もどうみたってホラーでしょ、なのだが、ぎりぎりどうにかサイコホラー、程度に留まってしまって、終わりもなんかもこもこ部屋の暗がりにフェードアウトして一夜の夢、みたいになってしまったのはやや残念だったかも。お屋敷の雰囲気も猫も、クールなSusan Haywardも最後に立ちあがるAgnes Mooreheadも、一見いい人ふう(でも裏は.. )のアメリカンのRobert Cummingsも悪くないのになー。


The Breaking Point (1950)

上のに続けて見ました。 邦題は『破局』。
原作はErnest Hemingwayの“To Have and Have Not" (1937) - 『持つと持たぬと』。Howard Hawksが原作とおなじタイトルで1944年に映画化したやつ – 邦題は『脱出』- 脚本にWilliam Faulknerが参加してHumphrey Bogart、Lauren Bacall 、Walter Brennanが登場する豪華版のとは雰囲気から何からぜんぶ全然ちがうのだが、こちらもまったく悪くなくて地続きなかんじ。監督はMichael Curtiz。

釣船 Sea Queen号の船長をやっているHarry Morgan (John Garfield)は妻 (Phyllis Thaxter)と娘ふたりに囲まれて家庭はそこそこ平和で幸せなのだが船の金繰りがうまくいかなくて、陽気だけど怪しい金持ち風でぶとその連れLeona (Patricia Neal)を乗せたら運賃を踏み倒されて、困ったのでしぶしぶ怪しい弁護士Duncan (Wallace Ford)が持ってきた話 - 8人の中国人をメキシコからカリフォルニアに密入国させる仕事を受けたら、受け取った代金が足らなかったので岸に戻って連中を下ろして、その際のごたごたで引率していた奴を撃っちゃって、やれやれさいてーだわ、って戻ると船を取りあげられて散々で、完全にお手上げになってしまったので最後の最後の賭けでもういちどDuncanの仕事を受けることにする。

今度のは競馬場の売り上げ金をかっさらう予定のギャングたちを犯行後に乗っけて沖のほうに逃げる、というやつで、強盗はうまくいったのだが車に乗る前にDuncanは撃たれて消えて、危ないから来るな、って言ったのに乗りこんできた相棒のWesley Park (Juano Hernandez)もギャングが乗り込んできた直後にやはり撃たれて海に沈められ、ぜったいこうなる、って予測して銃器を仕込んでおいたHarryとギャングのガチの撃ち合い殴り合い - 狭い船内の至近距離でのどんぱちが痛そうで - になって…

この映画でのHarryはとにかくずっとどこまでもついていないので、どのへんが”The Breaking Point”だったのか、最初に踏み倒されたあたりか、銃で中国人を殺しちゃったあたりか、苦虫顔が止まらないJohn Garfieldにしてみればぜんぶだ、ずっとだ、なのかも。HarryとLeonaの仲を疑った妻がいきなり髪をブロンドに染めて子供達にぜんぜん似合わないよママ、って引かれるあたりだったりして。

最後にパパはどこ? って消えてしまったWesleyのうちの坊やがひとり..

でもあんなことになった後は、もう船の商売は二度とやらない/できないであろう、かわいそうなHarryのうち..  って。

12.06.2023

[film] 春の画 SHUNGA (2023)

11月30日、木曜日の晩、シネマート新宿で見ました。
春画についての美術ドキュメンタリー。監督は平田潤子。

少し前にやっていた「春画先生」というフィクションの方は、映画としてはよいのかも知れないし評判もよさそうだったのだが、大筋を聞いただけでちょっと無理、これならまだホラーのがまだまし、って思ってしまって見ていない。昭和?

アートとしての春画を、鈴木春信、葛飾北斎、喜多川歌麿、鳥居清長といった画家、彫師、摺師まで含めてなんであんな「もの」とか「こと」を、あんな形象に描いたり彫ったりしたのか、というのと、その異様な、奇想なあれらがどんなふうに、なんで時代を超えて伝播していったのかという流通のはなしと、それらが現代のコレクターや研究者、画家や愛好家たちから見てどんなふうに見えたり熱中させたりするのか、という3軸くらいで見ていく。

大きな話題となった大英博物館での春画展の話や海外のコレクターも出てくるが、春画ってこんなにすごい、日本の(伝統)美術すごい、という熱はそんなにはなくて、なんであんなこと・こんなことをこんな変てこふうのびろびろで描いたのか、現代まで残って大切に保管されてきたそれらを改めて眺めて、なんなのこれ? のようなクールなトーンで貫いているところは好感が持てたかも。美しい、というより相当におかしく変な絵もいっぱい出てくるので、いろんなことを考えさせられる。

自分は大英博物館の展示はぎりぎりで見逃して、永青文庫の時には通って、もともと浮世絵の紙の肌理が好きだったので春画もおおぉう! だったのだがひだひだとかちりちりとかよくもまあ、という感覚は来て、みんながよく言う- 映画のなかでも語られる(にっぽんの、日本人の)性に対する「おおらかさ」については、何に対しての「おおらか」っていうのか、そのニュアンスって「ウェルカム」なのか「無頓着」なのか「放置」なのか「どう受けとめようが勝手じゃ」なのか、とか、エロへの「おおらかさ」とは別に、虐めとか凌辱とか差別とか暴力とか村八分についてもおなじ温度感(態度)の「おおらか」なのだろうよ、とか、その表裏でどこまでも隠蔽してぜったいに「恥」の部分を見せないようにする、っていうのも同じようにあるよね、そんなポジティブに語れることでもないような。

あと、これら - いまの世に残って収集されているような絵って、それなりに当たって刷られて流通した、ということで、こういうのが売れてみんなが嬉々として眺めて悦んでいた、ってどういうかんじなのだろうか。同じ日の少し前に見た『月夜鴉』での、階級社会(春画って平安の頃からあったらしいのでその頃からにしてよいのか?)を貫く串刺しで横断できるはけ口として機能した春画、という側面はあったのだろうか? いまの公共の場やスマホやWeb上に有無を言わせずうんざりするようなエロが流れてくる/流しておいて平気な神経もこれと同じようなことなのか(やや乱暴すぎかな)。

あと、春画の来歴やディテールについて解説・説明をする(だいたい)初老の男(複数)の説明する語り口みたいのが - リアルな春画先生なのだろうが – なんかどうにもやらしく見えて、他にどうしろっていうのだ、かもしれないけど、あれってなんなのだろう、と少し気になった。聞き手の性に関する知識の有無やその粒度を測ったり探ったりしながら自分と同じ知覚や感覚の地平に立たせようと誘導しているような。西欧の風景画を説明するときに、あんなふうな語り口になるだろうか? とか。これって、絵を理解するとはどういうことか、みたいなところにも繋がっていくのだと思うが、はて、ここでの「理解」とは?

他方で、そういうのから離れた(ジャンプした?)ところにあるとしか言いようのない奇想系の絵の奇想天外な、ファンタジーとしてのおもしろさと楽しさ。あはは、って笑ってそれで終わりにできるのが理想、なのかな、とか。

結局、ひとが春画を見るとき、そこに描かれていない裏や奥や隠や襞なども含め、実はものすごくいろんなものを見ようとしているのではないかと、そんなことを思うひとが一番不純であるに決まっている。

12.05.2023

[film] 月夜鴉 (1939)

11月30日の午後、国立映画アーカイブの特集『返還映画コレクション(1)―第一次・劇映画篇』から見ました。
上映後に木下千花さんのトークあり。

この特集だと、11月29日に石田民三の『三尺左吾平』(1944)を見てて、でもこれここで前に見たことあるやつだった。彼の最後の作品というのもあるのか、ちょっとパワーがないような。

監督は井上金太郎、原作は川口松太郎、脚本は秋篠珊次郎&依田義賢、解説文にはスクリューボール・コメディタッチとあったが、すばらしい芸道物 – 見ていておおこれはすごいぞ、ってぞくぞくしてくるやつ、そうあることじゃない。

三味線の家元 - 杵屋和十郎(藤野秀夫)の娘のお勝(飯塚敏子)は三味線の腕は確かなのだが、20代後半で貰い手/貰われ手もいないままずっとひとりでへっちゃらで、このままではこの家を継げない、って父親は嘆いてばかりで、そんななか若い17歳の和吉(髙田浩吉)がお勝に稽古をつけてください、田舎の家に戻されたら死んでしまいます、って彼女に泣いて頼んであまりにうるさいので、しょうがないねえ、ってビンタ体罰満載の特訓を施していくうちに四季が過ぎる。

こうして気がつけば誰のところに出してもおかしくない凄腕にしれっと育っていた和吉 – でもメンタルはなよなよのままお勝にべったり - が、お前たちいいかげんにしないか、になってきた父和十郎や親族たちをあんぐりさせて蹴っとばしていく終盤が痛快で、ああよいものを見た、になる。

最初のうちは余裕たっぷりに和吉をしごいていたお勝が、情が移ったのかどこまでも犬のように慕ってくるのに負けたのか和吉を好きになってしまい、このままわたしが傍にいてはいけない、って決意したお勝が、小さい姪っこに和吉への伝言 – 舞台で弾く時は遠くの一点を見つめるように、っていうのと、もう出ていきます、ひとりで強く生きて – を残して、それでもやっぱり我慢できずに客席から和吉の芸をじっと見つめるお勝と、ずっとめそめそして合同リハーサルにも出れずに周囲の顰蹙まみれのぶっつけで舞台にあがった和吉の目がひとつの線で結ばれる瞬間の鳥肌ときたら。

どうかこのまま悲恋で終わったりしませんように、って最後まで気が抜けず祈るように見ていたのだが、なんとかどうにかなって、このふたりは永遠になったの。

出演時、高田浩吉のリアル年齢は27歳で、飯塚敏子の方は24歳、和吉のほうが3歳上だったのだが、まったくそうは見えない上手さ、というか始めのほう、仏頂面のお勝が田舎のぼんくら顔の和吉をどついてひっぱたいて和吉がそれに応えてがんばるうちにふたりの顔立ちがどんどん四季と共に変わって移ろって、そこにスクリューボールコメディに必要な階層の壁や障害が被さって最後に恋するふたりの顔になって寄り添っていくのがたまんなくよいの。 あと10回くらいは見たい。


上映後の木下さんの講義 – トークというより講義 – はものすごく濃くてとても勉強になった - あのスライドほしい。

特に芸道物 – パフォーミングアーツ- 芸道に精進する人物と恋人など人間関係の相克を描くドラマが戦時中の逃避として機能した、という点。 芸道で描かれる古いがちがちの芝居の世界が戦時のプロパガンダと地続きの土俵にあるその向こう側で、芸道の世界は精進すれば、実力をつけさえすれば女性であろうと身分がどうであろうと関係なく、明治であろうと江戸であろうと時代の壁すらも超えた「自由」や「恋」を享受することができた。それがどんなに儚く切ないものであったとしても - 切なくあればあるほど。

そして、そんな自由のなかで自在になされたメディアミックス。原作小説からのアダプテーションだけでなく、新派の舞台なども含めて。

あと、今回の特集であるところの「返還映画」について。元はアメリカの日系コミュニティで上映されていたものが接収されそれが返還されて、本土でオリジナルが焼失などしても、こうして見ることができる。 というのと、なぜ接収されたのか、を考えるとき、芸道物の八方美人なところが戦争と占領下においてどんな見えかたをしたのか、等。

12.04.2023

[film] The Story of Temple Drake (1933)

11月25日、土曜日の夕方、シネマヴェーラの『文学と映画』特集で見ました。  

邦題は『暴風の処女』...  こういう古い映画の邦題って、昔は昔の土壌や呼び込み目的の勢いで付けちゃったのもあると思うのだが、いまの世に照らして明らかに変なのって、直していった方がよいのでは? 本当にその映画が好きならそこはわかってくれると思うし、それでも文句言ってくるのがいたら、あんた誰? だよね。

原作はWilliam Faulknerの小説”Sanctuary” (1931) – こんな話だったっけ? - 1961年にはTony Richardsonが小説のタイトルで再映画化している(未見)。

ヘイズコード施行のきっかけのひとつにもなったプレ・コード映画で、監督はStephen Roberts。プレ・コードのって今見ると微笑ましいものあったりするのだが、これはちょっと.. かも。

ミシシッピの田舎に暮らすTemple Drake (Miriam Hopkins)は祖父が判事で弁護士の恋人Stephen (William Gargan)から婚約を申し込まれてもやなこった、っていっぱいいる遊び仲間のToddy (William Collier Jr.)と酒場で呑んでぐでんぐでんになった帰り道、酔っ払い運転で衝突事故を起こし、Toddyは怪我で動けなくなり、その近くの酒場のLee (Irving Pichel)とすごく悪そうなギャングのTrigger (Jack La Rue)に捕まって囚われて、TempleはLeeの妻と若者に監視され、翌朝にTriggerは若者をあっさり殺してTempleをレイプすると町の売春宿に連れて行って隠してしまう。

そのうちLeeが若者の殺害容疑で捕まって裁判にかけられるが、Triggerの報復が怖くて彼の仕業だとは言えなくて、その弁護にあたったStephenがLeeの妻からTempleの居場所を聞いて現地に向かうと…

ものすごく陰惨な、アメリカの田舎の怖くてやばくて踏み入れたくない沼のようなところが全部みっしり詰まっているやつで、そういうのから離れたところにいたかっちりした家のお嬢さんが少し羽目を外したらあんなふうに転げ落ちて引き摺りこまれてあーあ、っていう。最後の裁判のシーンでも、やはり関係者全員が暴力にすくんでしまってどうすることもできず、Templeひとりががんばるもののばったりしてしまう。すべての悪も闇も地続きで逃げ場のないSanctuaryの恐ろしさ – Faulknerだねえ。


Sabotage (1936)

11月28日、火曜日の晩、シネマヴェーラの同じ特集で見ました。

邦題は『サボタージュ』、英国映画でアメリカでの公開タイトルは“The Woman Alone”。監督はAlfred Hitchcockで、原作はJoseph Conradの小説“The Secret Agent” (1907) -『密偵』。Hitchcockは同じ1936年に“The Secret Agent”というタイトルの作品も出していて、こちらの原作はW. Somerset Maugham だと – ややこしい。

ロンドンで、Karl Verloc (Oscar Homolka)の経営する映画館 – だけじゃなく広域 - で停電が起こって、客との間で金返せ返さないの騒ぎになって彼の妻(Sylvia Sidney)が対応している陰でVerlocはこっそり裏口から帰ってきてなんか怪しくて、彼は翌日にも怪しげな連中と会って、今度は停電なんかじゃなくもっとでっかい「花火」を打ちあげるのだ、って次のテロを指示されて、そんな彼をスコットランドヤードのTed Spencer (John Loder)が隣の八百屋の店員となって監視していて、Verlocの協力者は彼の家族内にもいるのかいないのかを探っている。

初めから犯人の顔も名前も割れていて、起こりうる破壊工作の内容も分かっている中、それを実行するのは怪しまれている自分ではないことを監視・追跡している側に示すために犯人が取った非道な手とは。 まさかね… まさか… って油断していたらそれがまんまとその通り - ではない巻き添え多数で起こって騒然・愕然とする中、まさかあなたが… って、導火線に火がついたように次の殺人と鼠取りと爆発が連鎖して、それにしてもあれでよかったのか? いやよくない、なぜなら..  という地続きの気持ち悪さが残る。

誰かが誰かを貶めたり暴きたてようとするその企みや試みは、必ず別の第三者の思惑によって妨害されたり壊されたりしつつも、でもどっちにしたって落ちるのだ、という小物の神が支配する小さな不条理を、四畳半の小さな舞台設定のなか、でもでっかい普遍の世界と日常のなかに描き出していて揺るがない。ここで感じる気持ち悪さって、ここの、いまの世界のものなの。

Verloc役が当初想定されていたPeter Lorreだったらなー、Sylvia Sidneyとの間でもっとすごい背筋の凍るようなものになったのではないか。

劇中に出てくるのはディズニーのアニメーション - “Who Killed Cock Robin?” (1935)で、久々にあの音頭が…  

12.03.2023

[film] My Foolish Heart (1949)

11月25日、土曜日から始まったシネマヴェーラの特集『文学と映画』 - 見たことがあるのも含めて改めてできるだけ見たい - から見ました。

神保町シアターでやっていた『文学と恋愛』特集からのも何本かみたのだが、映画の出来とは別にやっぱりあれこれ日本的ななんか等がきつかった。なんで自分が海外の方に向かおうとしたのかを改めて見て確認してしまった、というか。

邦題は『愚かなり我が心』。原作はThe New Yorker誌に発表されたJ. D. Salingerの短編 - “Uncle Wiggily in Connecticut” (1948)「コネティカットのひょこひょこおじさん」、短編集『ナイン・ストーリーズ』にも収録されている。監督はMark Robson。

雨の日、ひとり車を運転するMary Jane (Lois Wheeler)がEloise (Susan Hayward) と娘のRamonaの暮らす家を訪ねる。Mary JaneとEloiseは女学校時代からの友人のようだが暫く疎遠になっていたところも含め、かつていろいろあったらしい。

Mary JaneはEloiseの夫のLew (Kent Smith)のこともよく知っているので、二人の別れ話を聞きにやってきたらしいのだが家出のための荷造りを始めたEloise がある服を手にとると、ああーってなって過去に。

パーティでEloiseの用意した服をいけすかないやつがけなして悔しくて泣いていたのに当時つきあっていたLew は相手にしてくれなくて、そこでばったりぶつかった軍人のWalt Dreiser (Dana Andrews)が慰めて付き合ってくれて、最初はうさんくさく見えたこいつが悪くないようでEloise はだんだんはまっていって、LewはMary Janeにあげちゃって、そろそろ結婚を、ってなるのだがEloiseは妊娠してしまい、それを理由に結婚を迫るのはなんか違う、って黙って悩んでいると召集令状がきて、彼はなんも知らないまま戦地に向かう手前の事故で死んじゃって…. あたしのばかばかばか … って嘆いて引きずる「愚かなり我が心」 なの。

サリンジャーの原作だと、Ramonaのimaginary friendのことと、グラス家の三男だったWaltおじさんが戦死したことを聞いたりする話なので、ずいぶん、すごい改変したもんじゃ - これなら怒るだろうな、って思ったけど、戦時の女性を中心に置いたメロドラマとしては、そんなに悪くなかったかも。


The Fountainhead (1949)

上のに続けて見ました。邦題は『摩天楼』。
原作はAyn Randの同名小説 『水源』(1943) で彼女は脚本も書いている。監督はKing Vidor。

現代建築家のHoward Roark (Gary Cooper)は確固たるデザインの理念 - モダンであるとは - 等々を以ってギリシャ風とか蹴散らして強引に貫き過ぎるので顧客はみんな離れていって無一文になっても石切場で土方とかをやってる頑固者で、大衆紙New York Bannerの建築コラム担当のDominique Francon (Patricia Neal)はそんな彼に惹かれるのだが、もうひとりの建築コラム担当に反Roarkキャンペーンを張られて、社主で富豪のGail (Raymond Massey)はDominiqueに惹かれて、凡庸なぼんくら建築家と結婚していたDominiqueをそいつからひっぺがして自分の妻にして、でもDominiqueはRoarkと運命の出会いを…

最近は割と当たり前になっている感のある濃ゆい登場人物たちが財力と情念で思いのままに運命を転がし高笑いして、でもやられる方だって一筋縄ではいかない連中なのでガチでぶつかりあってとんでも展開の後にすべてが .. という大味すってんてんドラマの原型の趣きもあるような。この辺の大鍋を振るようなタッチが原作者としてはふざけんな、になったのではないか。

でも個々のパート - RoarkとDominiqueが石切場で出会うとこの睨み合いとか、Roarkが裁判で建築のあり姿や使命について演説するとことか、ぜんぜん悪くないし、Gary CooperとPatricia Nealの並んでいるのも素敵だし、このノリで現代の大御所がリメイクしたらおもしろくなるにちがいないー、って。

あと、やっぱり時代劇だなー って。いま建築についてあんなことを言ってもただの教科書知識にすぎなくて誰ひとり聞く耳もたない。ここ20年ですっかり変わってしまったマンハッタンのスカイライン、あんなカビの培養シャーレみたいのがよいとはちっとも思えないし、神宮外苑の件を例にとるまでもなく、問題となるのは建築家ではなく「ディベロッパー」とかいうロボットみたいな企業体なのでどうすることができようか? とか、「モダン」とか言われる建築家はとうにこの「ディベロッパー」業界に囲われているので… 以下えんえん。


この特集、ほんとになに見てもおもしろいよ。

12.01.2023

[music] John Zorn 70th Anniversary Special

11月26日、日曜日の午後から晩にかけて、新文芸坐で見て、聴きました。

John Zornの60歳の誕生日の時 – 2013年9月はNYの彼の小屋The Stoneを中心に一ヶ月間還暦お祝いのライブが続いて、そのいくつかは行って、9月2日お誕生日のBirthday Inprov Nightも行った(ことがこのサイトにも書かれている)。なので今回もSFやNYのホールで行われた70歳記念に行きたかったのだが無理だったのでせめてこれくらいは、と。

John Zornそのひとについては勿論80年代から知ってはいたが、Painkillerなどはやや怖くて謎のイメージがあり、実際にライブを見た最初は2002年の2月、Knitting FactoryでのMassacre – dsはCharles Haywardだった - のライブのゲストだった、かしら。

その後、やはりNYのダウンタウンの潰れてしまったライブハウスTonicの資金集めとかクローズ前のライブとか、The Stoneができてからはそこでのとか、ライブで演奏する姿を見ている回数でいえば、実は彼のが一番多いのかもしれない。夏に観光で行ったNYでも食堂のテラスに彼がいてお喋りしているのを見たし。

今回の誕生日イベントはMathieu Amalricがひとりで撮影して監督している(編集はCaroline Detournay)ドキュメンタリー・フィルムのZorn I, II, IIIの現時点までに出ている3本の一挙上映と、その後で東京作戦アニバーサリー部隊 - 東京部隊アニバーサリー作戦と間違いがち – のライブという、これだけどかどかやったらなんか少しは彼にも届くのではないか、くらいの。


Zorn I (2010-2016) (2017)

年代で区切ってあるので、その時代のいろんな土地でのライブ活動やリハーサルの風景を追っていく。ここまでの3部作全体に言えることだが、John Zorn自身が演奏に加わって吹いたり弾いたりしているライブ映像はそんなになくて、ライブイベントのあるその土地に行ってオーガナイズしたり、リハーサルの場面で奏者に細かに指示を出したりしている場面の映像が多い。彼を中心とした音楽のギャングのような凄腕たちの即興だろうが前衛だろうが、の面々 - 巻上さんも - の凡そが紹介され、ライブで音を出しているその時間、よりも音が音楽となるその瞬間を掴まえようとしているかのようで、こういう場の見せ方にJohn Zornの音楽に対する姿勢や態度が反映されているのだった。 リハーサル場面では”Freud” (2016)の弦に細かな指示を出していたり。

あと今は別の場所に移転してしまったがThe Stoneの旧館での演奏風景とか懐かしい。ここは本当に「彼の小屋」で、凍える冬に屋外で並んで待つのは本当にしんどかったのだが、時間になるとJohn Zornがドアを開けて、彼に$20とか代金渡して、終わると映画にもあったようにお片付けも彼がやってて、他にはバイトみたいな人がひとりいるかいないかくらいの、本当にコンパクトなスペースで、そんなに数を通えたわけでもなかったけど、そこで鳴り響く音楽ときたら極上でとんでもなくて、そこではもちろんJazzだの即興だのジャンルなんてどうでもよくなるの。


Zorn II (2016-2018) (2018)

リスボンでの音楽イベントの準備風景と彼の”Necronomicon” – だったかな?のリハーサル風景を追っていく。59分なので、こんなのあっという間。


Zorn III (2018-2022) (2022)

フィンランドのソプラノ歌手Barbara HanniganとピアノのStephen Goslingが、Zornの “Jumalattaret” (2012)をリハーサルを通して仕上げていくさまをずっと追っていって、これがもう本当にすばらしい。音楽ってこういうふうにできて練られて形になっていくんだ、って。最初は難しすぎてできない、という彼女に音楽の「完璧さ」について手紙で返す箇所も含め、教育者としての彼のすばらしさを思い知る。なにより音楽ドキュメンタリーってこうあるべきでは、というのがJohn Zornの譜面を追う姿、指示をだす姿、喝采する姿、などに凝縮されていて、そこらのフィクションなんかよかよっぽど感動する。

どの作品も終わりには”To Be Continued …”と出るので次の機会にはあと3本くらい増えていますように。


John Zorn's Cobra 東京作戦 アニバーサリー部隊

プロンプター巻上公一を含めて14名のバンドがJohn Zornの”Cobra”を演奏する。映画館なので楽屋もなく、映画上映が終わって外に出るとバンドの人たちがふつうに映画館のフロアに座っていておかしかった。

そういう状態なのでリハーサルの時点から入れてくれて、この曲の難しさについて – この曲のルールを知って演奏することができのはJohnの他には巻上さんだけで、ルールとセオリーの説明を始めたら1日掛かる、そういうものなのだ、など巻上先生によるレクチャーも入る。

演奏者の自発性がひとつのキーであり、プロンプターと各演奏者、演奏者同士の目合図の取り合い奪い合いが重要な要素となるこの曲で、奥行きが狭く13名が横長に広がるしかない - プロンプターはステージを降りて座席の最前列に立つ - 映画館のステージはめちゃくちゃやりにくそうであったが、それもまたスリリングな要素のひとつではあり、実際に聴いてみると、あーこういうやつかーそうだろうな、しかない。鎌首をもたげたコブラに睨まれてしまうのと同じで目を離せなくなり耳もついていくのが精一杯で、噛まれた毒がまわるのも早い。ここにJohnがいたらさっき見た映画のように微笑みながらなにかを教えてくれたに違いない。なんだかんだあっという間で、これは体験するしかないやつだった。


RIP Shane McGowan.. いつかこの日が来ることは覚悟していたけどやっぱり悲しい。
”If I should fall from grace with God where no doctor can relieve me” - ライブのたびにまたShaneのやつ... って笑いあいながら、それでも、それだからこそあんなに歌って叫んで踊った、どれだけ一緒に地面を蹴っ飛ばしたことだろうか。そのうちお墓参りいくからね。 ありがとう。安らかに。

ああそしてElliott Erwittも…

11.29.2023

[film] Gaza (2019)

11月23日、祝日の午前にイメージフォーラムで見ました。邦題は『ガザ 素顔の日常』。
監督はアイルランドのGarry KeaneとAndrew McConnell。

これ、2019年にロンドンで見ていたのを忘れていて、始まってからああこれはー、って思いだす。同年のサンダンスでプレミアされて、オスカーのInternational部門でアイルランドからの候補としてリストされたものの選ばれなかった、と。自分も2019年のベストのなかに入れてるじゃん。

邦題通り、ガザに暮らすいろんな人々の日々の「素顔の日常」を追っているだけ。しかしその「日常」が我々の普段のそれとはどれほどにかけ離れ隔たった過酷なものであるかを、しかしそんなふうであっても、現在がどれだけ政治的に痛めつけられたものであったとしても、彼らが淡々と夢や理想や想いを、こうなってしまう前の幸福だった過去を語る姿のなかに、ほんの少しの希望を – そんなのは第三者が眺めて思うだけの図々しいものであることを十分承知のうえで見て、そんな彼らの生に思いを廻らすことができた、気がした。2019年の8月には。

でも今回見返したらとても辛くて悲しくて。イスラエルの築いた壁に向かってずっと石を投げたり火を焚いたりしていた - 仕事もない他にすることもない若者たちは、そうやって撃たれて怪我をした若者たちをひたすら病院に運んでいた、いつまでも家に帰ることができないでいた救急隊員のおじさんは、船乗りになりたいって言っていたあの子は、将来の夢を語っていた少女は、無事なのだろうか? 「無事」なんて言葉を使える状態ではないくらいに無惨な映像が次々に流れてくる。病院も、学校も、図書館も、すべてが瓦礫に化そうとしていて、逃げ場を塞がれた状態で、そのまま穴に落ちるように子供たちが沢山傷ついて殺されて埋められていて、さらにこれらは互いの情報操作や扇動や交換の道具として使われるばかりで、解決に向かおうとしているようには思えない。「解決」とかじゃなくて、とにかく誰も殺さないで、壊さないで – それすらもできない、止められないのがやりきれない。

2019年に確認されていた - そもそも確認てなんだよ - 悲惨が、その頃には想像もしていなかったような更に酷い状態となって彼らを潰しに、皆殺しに、殲滅にかかっていることを思い知る絶望 – そのため(だけ)であっても見る価値はあると思う。なんで4年前の時点で - それを言うなら75年前の時点で、行動を起こせなかったのだろう、こんなふうに積まれていくのもまた「歴史」と呼ぶのなら学問とか人文とかなんのためにあるのだろうか、って。


Stranizza d'amuri (2023)

同じ23日の午後、”Gaza”を見たあと、こんなに落ちこんではよくないもっと明るいのを見なければ、って見たのだがちっとも明るいやつじゃなかった…  邦題は『シチリア・サマー』、英語題は”Fireworks”。 原題がどこから来たどういうものなのか、ちょっとわからず。
監督はこれが映画初監督となる俳優のGiuseppe Fiorello。

1980年にシチリアのGiarreで実際に起こったヘイト殺人事件を題材にしたもの。
82年、サッカーのワールドカップで湧くシチリアで、家族で打上げ花火師をやっているNino (Gabriele Pizzurro)と、隣の工場で修理工をしているGianni (Samuele Segreto)が知りあう。

母とふたりで暮らすGianniは近所のバーの客たちからゲイだ、ってかわるがわる陰湿にからかわれたり虐められたりしていて、母は粗暴な工場長と関係をもって生活面の弱みを握られているので行き場がなくて、石切り場でバイトしても続かなくて、客先にバイクを届けにいくところでNinoとぶつかったのをきっかけに近寄っていく。

はじめは喘息で具合のよくないNinoの父のかわりに花火の打ちあげを手伝って貰おう、ってGianniを誘って一緒に花火をどーんってやって、シチリアの夏の景色はとても美しいし花火もきれいだし、ふたりの笑顔も輝いているのに、なにかが奥のほうで捩れてうまくいかないままに…

イタリアの田舎の、みんながサッカーに熱中してばかりの熱の裏側でじわじわと生えて育っていった悪意や嫌悪、そこの描写は控えめにして、緑と青の眩しい夏を楽しもうとしたふたりの短かった青春にフォーカスしている。

そこは別によいのだが、バーにいた変な連中とか怪しい影のありようをそれなりの形にできていないのが勿体ないのと、真ん中のふたりの関係が短いから故か深みとか切なさがなさすぎで、比べられるものではないと思うものの、こないだの“Le otto montagne” (2022) - The Eight Mountains -『帰れない山』なんかを見てしまうと、なんか芯となるものがほしかったかも。

11.27.2023

[film] Reality (2023)

11月21日、火曜日の晩、イメージフォーラムで見ました。
邦題も『リアリティ』。現実性、といった意味をもつ名詞ではなく、単に主人公の女性のファーストネームである、と。

監督はこれがデビューとなるTina Satter、彼女が劇作家として2019年に舞台用に書いた”Is This a Room” - FBIがReality Winnerを尋問した際の実録音テープを元にした台本があり、Tina Satter自身による映画化の際にも録音テープそのものをシーケンシャルに追っていく構成は変わらない。 元のテープがそんなに長くないからか、82分。製作はHBO Films。

2017年5月9日、FBI長官のJames Comeyがトランプによってクビにされた時のFox Newsの映像をオフィスで無表情に眺めるReality Winner (Sydney Sweeney)の姿があり、そこから25日が経った6月3日の夕方、買い物から戻ってきた彼女の家の前にふたりの男 - Garrick (Josh Hamilton)とTaylor (Marchánt Davis)が現れる。

彼らはFBIである、と言って身分証を見せ、フレンドリーに話をしたい、という。彼女の方も特に慌てる様子は見せずに、繋いでおかないと犬が吠えるから、とかベッドの下に猫もいるから、とか心配を自分ではなく犬猫に向けると、捜査官たちも落ち着いてそれならどうしようかここで話すか別の場所にいくか、など、あくまでもこの聴取は強制ではなく彼女の判断や意向を尊重する自発的なものだから、と言いつつ、もうひとりの捜査官が現れ、さらに追って沢山の人がやってくると家のなかに入ってなにかの作業を始め、家の周りには”Crime Scene”の黄色テープが張られてしまう。

彼女の車にはナウシカのステッカーが貼ってあったりメモ帳の落書きもナウシカだったり、殺風景な部屋の壁にはAFIのポスターが貼ってあったり、特異なところはなくて、捜査官が調べている彼女の経歴もおかしなところはなさそう - 軍を名誉除隊後、NSAの派遣社員としてペルシャ語文書等の翻訳をしている、軍を辞めた理由はもう海外に行く機会もなくなってしまったようだから、と極めてまっとうで。

そして捜査官が、機密情報を印刷したようなこと、それを持ちだしたようなことはあった? と聞いてきて、Realityもああそういえばあんなことが、と持ち出し注意ラベルの付された文書を持ちだそうとして注意された件があった、くらいで返して、温度感が少し変わる。少なくとも彼女は機密情報がどういうものを指していて、それを持ちだすというのがどれくらいやばいことなのか、そのことを確認するためにFBIがきた、という程度は気づいているらしい、と。彼女のほうも彼らが聞きだしたいのはこれじゃなくてあれだろう、くらいの感触はもって察して、(おそらく)頭のなかに防御線を何本か引く。

彼女の聴取が細部に入っていくと、並行してスクリーンには録音内容の該当箇所が表示されるようになり、機密の機密たる核心箇所に触れると、その文言だけぽわん、て消えたり喋っている当人が消えたりする。あと、彼女が立った状態で聴取されるのが台所の裏手の、ちょっと気持ち悪い(creepy)ので使っていないスペースで、この辺の臨場感とテンションはホラーっぽかったりもするのだが、これらの演出は必要なのかどうか、は賛否別れるところかも。

確かにこの件は少し気持ちわるくて、なんでこれが機密と言えるのか、そこにはある事件の全容が書かれていて、その事件の加害者も被害者も明らかで、であればその両者をふつうに明らかにすればよいのに、そうはできない事情があって、そこにこの機密の重心があると思われるのだが、とにかくそれが機密とされることには触れられたくないらしいの。なぜなら.. どろん(煙)。

彼女がなんでそんなことをしたのか、しようと思ったのかについてもはっきりと言明はされない。が、これもわからないことはない。2016年から2017年のオフィスで、勤務中ずっと職場にFox Newsが流れていたら誰だってふざけんじゃねえよ、って凍りついた仏頂面になるのではないか。なるわよ。

この件についてははっきりとアメリカの歴史に残る恥で汚点で、だから隠したくなるのもわかんなくはないけど、もうみんなとうに知ってることだし、それを言うならあんなバカを大統領にしちゃったことそれ自体がそうだし - この辺はもうじき歴史が明かしてくれるのだろうが、その狭間であんなことになってしまったRealityはかわいそうとしか言いようがない。今から振り返ればそういうことだったんだ、ってみんな納得できるのにな。

日本だとたぶんもっと悲惨で、フジとか民放とかNHKばかり流されてあったまきて情報漏洩してやったってだれひとり機密の意識も認識もないからせいぜい文春とかタブロイドみたいので消費されるだけ、またいつものあれだから、って誰も捕まらずに悪は変わらずやりたい放題できるの。こういうのが壊れて底が抜けて腐った国っていうのよ。


しかし、いまうちにあんなふうに踏みこまれて差し押さえられたらやばいな。捜査員がしぬのでは…


11.26.2023

[film] Strays (2023)

11月20日、月曜日の晩、Tohoシネマズ日比谷で見ました。
邦題は『スラムドッグス』。こんな邦題つけるもんだから検索かけてももう一本の英国のやつばかり引っかかる。べつに「ノラたち」でいいじゃんか。
監督はすばらしいコメディ”Barb and Star Go to Vista Del Mar” (2021)を撮ったJosh Greenbaum。

実写で撮られたわんわん達(実写比率は95%だって)がヒトの言葉を喋ったりしながら人間たちとの間でわーわー大騒ぎを巻き起こしていくやつ。子豚の”Babe” (1995)辺りからふつうになって、そんな外面はかわいく見える奴らが実は救いようもなく卑猥で破廉恥でしょうもないのだ、というのを暴いて世界を震撼させた”Ted”(2012)とか、アニメだけど”Sausage Party” (2016)とか、その路線に連なるやつで、ふつうのよい子には見せられないような言葉遣いや描写がてんこ盛り。どうせ野良なんだから、って。 USでのレイティングはR、UKでは15。

ボーダーテリアのReggie (Will Ferrell) はシェルターでだらしなくて卑しい中年ひとり男のDoug (Will Forte)に拾われて、自分ではずっと愛されていると思いこんできて幸せなのだが、Dougからすれば彼女に二股かけていることをばらしたり碌なことをしない使えねーダメ犬で、これまで何度も車で遠くに出かけてボール投げてからひとり車で帰って追い払って捨てようとしたのに、Reggieはその度に彼への愛を試されているんだと思ってがんばって家に戻ってきてしまうので、Dougはもうふざけんな、ってものすごい遠くに彼を捨てにいって置き去りにする。

そうやって遠くに来てしまったReggieが同じような事情を経て悟りきってノラをしているボストンテリアのBug (Jamie Foxx) - 口がわるい親分肌、やさしいコリーのMaggie (Isla Fisher) 、カラーをつけた不安症のグレートデンのHunter (Randall Park)の3匹と出会って、そらおまえ、嫌われて捨てられようとしてるだけだ目を醒ましな、って。でもそんなふうに止められてもDougの家に向かおうとするReggieにくっついて旅をしていくお話し。

3匹がご主人様を無邪気に信じきって無垢で世間知らずのReggieに犬の習性や本能や世渡りを身をもって示したり教えたりしていく道中のあれこれと、その反対側にあるヒトの卑しさおぞましさについても - 保健所に捕獲され閉じ込められたりしながら、ほらな、って。

いちおう教育TVぼい体裁をとってはいるものの、アニマルたちの「それ」なので - “The Secret Life of Pets 2” (2019)にあったようなお気に入りのボールを追っかけてどこまでも、辺りの一途さは似ているけど - 生々しく肉肉しくすぐに交尾や性器や(上下)排泄物の方に話題と嗜好は向いてしまって止められないし - それしかねーのか、だし - やばいキノコたべてみんなでらりらりになったり、それらすべてにF言葉に罵詈雑言がくっついてくるのでおいおい、ってなったりする。 それでもDougへの、ヒトへの怨み復讐と仲間への友情というあたりの基軸は一切ぶれずに筋が通っているので、それらすべてがスパークする最後はとっても納得できるような。 Dougにとってはたいせつなあれを食いちぎられてひどく屈辱的でかわいそうなことになったと思うが。

最初のほうで描かれるReggieとDougの関係ってヒトの典型的なDVによって縛られ動けなくなったそれそのものだし、BugとMaggieとHunterのそれぞれの態度も我々の身近にある病やトラウマや困難を鏡のようにして背負い込んだものだし、そんなにわかりやすいことあるかよ、って思ったりするものの、いまの世の犬猫への虐待ってよくもわるくもこんなにもわかりやすくあるのだということ、少しは恥ずかしいと思いたまえよヒューマン、って。

最後に流れてくる主題歌はあったりまえにSnoop Dogg、なのだった。本人を出せばよかったのに。

猫バージョンもできないかしら? 依存症度も毒性もこっちの方がより濃く、というかその濃淡がくっきりと出ておもしろくなると思うけど。 “Garfield”あたりに期待したいのだが、今度のってちょっと可愛すぎよね。

11.24.2023

[film] Mona Lisa and the Blood Moon (2021)

11月19日、日曜日の昼、シネマカリテで見ました。
監督は”A Girl Walks Home Alone at Night” (2014)を撮ったイラン系アメリカ人 - Ana Lily Amirpour。
ぴっかぴかのどこから見てもB級だけど、なんか嫌いになれない。音楽はDaniele Luppi。

満月の晩、ニューオリンズで、Mona Lisa Lee (Jeon Jong-seo)は身元不詳のまま10年以上収容されている精神異常をきたした青少年のための保護施設 – というのは後でわかる – の自分の檻に入ってきて虐待を始めた看守の目を覗きこんで相手を催眠術のように釘付けにすると、看守は自分で自分のモモを「なんで?」って叫びながら爪切りでぐさぐさ血まみれにして、Leeはそうして手に入れた鍵で牢を開けて、受付の青年も同様の手でボコって、袖長の拘束衣を纏った状態で町中に彷徨い出る。

ここまで、彼女がなんでここに入ることになったのか、彼女の使うパワーがどういうもので、どういう経緯を経てそれが身についたのか、なんでこの晩にこんなことを起こそうとしたのか、起こってしまったのか、等の説明は一切なくて、このあとにもない。

収容施設での/からのホラー含みのぐさぐさしたやつとして、近年だと”The New Mutants” (2020)とかJohn Carpenterの”The Ward” (2010)あたりが思い当たったりするのだが、あれらにあったスケールのある、起爆性をもった超常感のようなものは余り感じられなくて、湿っぽい月夜のフレンチ・クォーターの雑踏をやばい目をした不審な少女がお腹へった食べものくれ、ってもぐもぐ言いながら災厄を撒き散らしていくのを遠くから眺めているうちに終わってしまう、ような。それだけで十分だったりもする。

そこに彼女を見かけて気になって追い始める - 「知らんぷりをするがよし」ってランチのフォーチュンクッキーでは出たのに - 警官のHarold (Craig Robinson)とか、デリの前にたむろしていて彼女のシャツを替えてくれたごろつきのFuzz (Ed Skrein)とか、見ていられなくてLeeに声を掛けたストリッパーのBonnie Belle (Kate Hudson)などが関わり、Leeの術でストリップのチップを巻きあげて貰ったお礼に彼女を自宅に連れて帰るとBonnieのひとり息子でやや古めのメタルを聴いたり絵を描いたりしている孤独な少年Charlie (Evan Whitten)がいて、最初は怪しいと関わらないようにしていた彼女の絵を描いてあげたり少しずつ仲良くなっていく。

銀行のATMにやってきた客の手先を操作して現金を巻きあげる二人組強盗として有名になり追われるようになるBonnieとLeeのうち、Bonnieは恨みをかった町のちんぴらにぼこぼこにされて病院に送られて、追ってきたHaroldを振りきったLeeとCharlieはFuzzの助けを借りて髪を切ったり染めたり作ってもらったフェイクのIDで初めての飛行機に乗りこんで未知の世界へ高とびしようとする。Leeがパワーを駆使して誰かを懲らしめたり助けたりするお話しではなく、子供たちの明日へと向かう解放に向けた逃走劇となって、ここにせっかくの魔術が絡むことはないので、そんなんでよいの? と思うひとは思うかもしれないが、これでよいのではないか。月の光の下、飛行機と音楽プレイヤーの力を借りてどちらかと言うと魔術を捨てて一人で生きようとするお話しになっていて、そうやって見てみればモナリザの微笑みの意味もくるりとひっくり返るような。

不気味で野蛮でゾンビだって溢れるブードゥーの町、満月の晩にどこからともなく現れた彼女が月に向かって飛びたっていく変に爽やかな青春ドラマのように見えないこともなくて、この感触って90年代のGregg Arakiあたりのにあった、ぐちゃぐちゃ小汚くやかましく、大人はみんなゴミでいなくなっちまえ、で全体として不思議となんか清々しい、変なやつを狙ったのだろうか? リアルの噛みあい殴りあいの向こうにむき出しになる無垢な魂、のようなありよう。それか、Harmony Korineの享楽と没落とゴミ、の紙一重の駄菓子的な何か、とか。

Kate Hudsonがああいう役をやったのにも少し驚いた。そうかー“How to Lose a Guy in 10 Days” (2003)がもう20年前なのか…
 

[film] A Portuguesa (2018)

11月18日、土曜日の午後、”TERRA”に続けてTAMA映画祭のポルトガル特集で見ました。
Rita Azevedo Gomesの監督作を続けて2本。 まずは『ポルトガルの女』。

彼女の監督作は2020年のロックダウンの時にこれを含めて何本か - “Fragil como o mundo” (2002) - “Fragile as the World”, ”A Vingança de Uma Mulher” (2012) - “A Woman's Revenge”, “Correspondências” (2016) - を見て、なかでも“Fragil como o mundo”はあまりの美しさに痺れて、何度か見た。この”A Portuguesa”もなんだこれは、って2回くらい見た。

原作はRobert Musilの短編『三人の女』(1924)からの一編 - “Die Portugiesin”をAgustina Bessa-LuísとRita Azevedo Gomesが脚色。とんでもなく美しい撮影はAcácio de Almeida。

冒頭、廃墟にひとり佇むIngrid Cavenが琵琶法師みたいに歌を披露して、節目節目で俯いたり崩れるように座ったりしながら悲歌とか哀歌のようなのを歌う。

ポルトガルの女(Clara Riedenstein)はポルトガルから北イタリアの小さな城主(Marcello Urgeghe)のところに嫁いできた公爵夫人なのだが、結婚して少し一緒に過ごしただけで夫は戦争に行くのだ行かねば、長くなりそうだから君はポルトガルに帰っていた方がいいよ、と言われて、でもここに残りますって。

こうして古城で読書し、歌を唄い、踊り、馬に乗り、川で泳ぎ、森を散歩して過ごす若い公爵夫人の姿が描かれ、そのうち子供が生まれて大きくなっても彼女はお付きの人々を除けばずっとひとりで、ようやく戦場から戻ってきた夫は負傷して生死の境を彷徨っては立ち直りを繰り返し、死んじゃえ、くらいのことを思うのだがしぶとくて、やがて。

そんな戦時における夫婦間や子供を含めたお家のとめどないぐさぐさを描く歴史劇、コスチューム・ドラマ、というより夫がいてもいなくても付き纏ってその首を締めにくる見えない何かと向きあいつつ自身が廃墟と化してゆっくり森の奥に沈んでいくポルトガルの女、その凍るような美しさ、最後の足のぴく、までを。

大画面(でもなかったけど)見ると絵画の、細部の美しさにやはり圧倒される。

あと、これの前に見た”TERRA”の鈴木監督が召使役で出ていた。


O Trio em Mi Bemol (2022)

上のに続けて見ました。邦題は 『変ホ長調のトリオ』、英語題は”The Kegelstatt Trio”。現時点でのRita Azevedo Gomesの最新作。Éric Rohmerが80年代(『レネットとミラベル/四つの冒険』を作っていた時だって)に書いた戯曲『変ホ長調三重奏曲』を監督自身が脚色している。2020年11月の、ヨーロッパでロックダウンが少しだけ弱められた3週間(があったなー)で、手の空いている知り合いの助けを借りて集中的に撮ったものだという。インタビュー記事を読むととにかく撮りたかったらしい。

一年前に別れた元夫婦、という設定でPaul (Pierre Léon)の家をAdélia (Rita Durão)が訪ねてきて互いの近況について会話する、そのいくつかのシークエンスを撮影している映画監督のJorge(Adolfo Arrieta)とそのアシスタントのMariana (Olivia Cábez)、登場人物はほぼこの4人、撮影が行われるのがポルトガルの建築家Álvaro Siza (1933-)の設計による光に溢れるモダンな邸宅 - かっこいい - で、ふたりの再会と会話の重要なモチーフになるのがCDでかけられるモーツァルトの「ケーゲルシュタット・トリオ(ピアノ、クラリネットとヴィオラのための三重奏曲変ホ長調 K.498)」 なの。

元夫婦の会話は、Adéliaが現在の恋人との関係がどうなるどうする、と不満や不安や愚痴を含むあれこれを投げてそれをPaulがふんふん聞いてあげて、お茶を淹れたり音楽をかけたりして会話が転がってふたりのヨリが戻るのかどうか - 男女それぞれの思惑や惑いを右に左に散らして何が起こるのか/それみたことか、というあたりはとってもロメールぽいのだが、やはりどうしても演劇的な作為が見えてしまって - 演劇だからだけど - 家の外に、町の方に出たかったかも。

でも家 - 囲いとしての家 – その果ての廃墟 - はRita Azevedo Gomesのテーマでもあると思っていて、今作のモダン建築の撮りかたもおもしろいと思った。最後のほう、どんなにモダンでも夜の訪れとともに何かが歪んでくるように見えたり、とか。

あと、最初の方は、ふたりの演技がある程度進んだところで監督がカットをかけて「よくない」とか言ったりして、どこがどうよくないのか、具体的には言わなかったりする。後の方でその干渉がなくなるのとAdéliaの話がより混みいった、どうしろっていうの? レベルに変わってくるあたり、劇中劇としてのテーマと関係あるのかないのか。

本作のなかの三重奏についてはロメール自身が著作 - “From Mozart to Beethoven: An Essay on the Notion of Profundity in Music” (1996) のなかでヴィオラは男性、クラリネットは女性、ピアノはモーツァルト、であるとか書いているそうで。ドラマのなかでAdéliaがこの三重奏を思い出そうとするとき、あのフルートの旋律! って言うと、Paulが、ああそれはクラリネットだよ、っていうやりとりが印象的だった。


ポルトガルではないけど、Primavera Sound Barcelona 2024を取ってしまった。どうしよう…

11.22.2023

[film] TERRA (2018)

11月18日、日曜日の昼、映画祭TAMA CINEMA FORUMのサブ企画としてポルトガル映画特集というのがあって、そのなかの1本。上映後に監督の鈴木仁篤さんと赤坂太輔さんのトークつき。

監督は鈴木さんとRossana Torresの共同。タイトルについて、英語字幕では”Earth”と出るのだが、これはやはり地球、というより「土」とか「地面」なのではないか。

人工的に盛土がされた小屋のような小山のような赤土の塊が立っていて、そこに錆びれた金属の扉がついてて、その隙間や山の所々から煙が出ている。最初はその小さい火山のように内側が煮えたったり燃えたりしているらしい様がよくてずっと見ていられて、以降、すべての画面が一枚の or 個別の絵の落ち着きでそこにあり、これらなにもかもをえんえん飽きずに見ていられるので60分間はあまりにあっという間。

やがてその扉と赤土の隙間にひとが粘土を捏ねてぶつけるようにあてていたり、扉から何かを出したり何かを放り入れたりしている様子が出てきて、これは何かを焼いたり焼却したりする窯なのか、なにかが焼ける燻ぶるような音もするので炭をつくる炭焼き小屋なのか、と思っていると人がやってきて太い木の枝を投げこんだりしているので、炭焼きなのかー、くらい。でもこの先にこれがなんであるのか、特に説明はなし。

なんでこの絵 – 厚くぼろぼろの赤土の壁の向こう側で何かが燃えたり燻ぶったりしている - にこんなにも惹かれてしまうのか、見えない向こう側の奥で何かが起こっている、生起生成しようとしている、その表層をじっと見つめてしまうのって、オーブンの向こうで、蓋を落とした鍋の内側で温かくおいしいものができあがろうとしているあの時間を想起させてくれるからだろうか、とにかくその赤土の表面・肌理・質感は息をして生きているなにかのようで、その生が生々しく立ちあがるかんじを山や樹を相手にしてカンバスの表面に塗りこめようとしたのが例えばセザンヌかも、と思って。ぜんぜん違うのにストローブ=ユイレの『セザンヌ』(1989)のぐるーっと回る緑の森を思いだしたり。

この炭焼き小屋のすぐ裏には池だか湖だががあって、その水を汲んで流したりもしつつ四季や一日を通して変わっていく山水の景色とか、地・火・気(煙)・水のぜんぶがあるー、とか。これらが近く・遠くにある、フレームの内外で移ろっていくイメージの豊かなこと。

これ以外には羊がうろうろ歩いていく山道に銃を持った狩人のようなおじさんたちが座っていて、ヤマウズラ - Partridgeを待っているのだと言い、呼び寄せる鳴き声をたてたり – でも乗ってこない - 夜の町の片隅でバーベキューを焼いているとこ - うす暗い・けど寂しいかんじもしない - の風景とかも挟まったりするものの、やはりあの世界の根源にあるような赤土を露わにした山の姿、その山から袋詰めされて持ちだされていく炭の束などに戻っていって、そこに詰まって運び出されていくなにかに涎が。あれはバゲットじゃないのか(違う)。

最後、道の向こうからバイクが2台こちらに走ってきて、そこから横に向かって騒がしく飛びたって彼方に発っていく鳥の群れに繋いでいく音と光の流れがすばらしくて痺れる。

上映後のトークで、この土地はポルトガルのアレンテージョ地方 – ああーおいしい食べもの、ヤマウズラいっぱいの地! - で、鈴木さんがRossana Torresと共同でこの地を撮った作品 - ”Cordão Verde” (2009)-『丘陵地帯』の撮影の際、この土地で椅子を作っている職人の人と出会って、彼が炭を焼いている場所に連れて行ったところから始まった、と。初めから炭山を撮ろうとしていたわけではなかったのだが引きこまれていった、と。やはり窯とか焼き物とかパンに惹かれるらしい - ということで、ふたりの2作目 - “O Sabor do Leite Crème” (2012) – “The Taste of Crème Brûlée” - 『レイテ・クレームの味』すごく見たい。

11.21.2023

[film] あずきと雨 (2023)

11月16日、木曜日の晩、ポレポレ東中野で見ました。上映後にトーク付き。
軽くて暗くなさそうで短かった(70分)ので。 作・監督はこれが初長編作品となる隈元博樹。

不動産会社に勤めるユキ(加藤紗希)のアパートには元恋人のノブ(嶺豪一)が別れたのにまだ同居していて、彼がなにをしているのかというと、中国の干ばつであずきの輸入量が減って生産中止になってしまうというあずきアイスの販売継続を求めて製造メーカーに抗議文を書いて送り続けている、と。なので彼らの冷蔵庫の冷凍コーナーにはあずきアイスがぱんぱんに詰まっていて、ユキが新しい彼ができそう – 結局できなかったのだが - だから出て行ってほしい、とノブに告げると「雨が降ったら出ていく」って返す。

いまの世の中で一緒に暮らしているカップル(元であろうとなかろうと)の「ふつう」 - 特に暴力的ななにかがあったりSM的な歓びを求めていたり、過去によほどの何かとか宗教的な絆とかがあったりしなければ – のありようからすれば、ユキはノブに対してふざけんじゃねえよ、とっとと出ていけごくつぶし! ってなると思うのだが、この映画の時間と空間のなかでは、ノブは抗議文を書いてごろごろして(いいなー)、あずきアイスを配達に来たひとにアイスをあげて話をしたりしている。このへんのことが、部屋の明るさと、なんも、一ミリも考えていなさそうな(←よい意味で)飼われている動物のように穏やかな俳優 嶺豪一の佇まいによってありかも、になってしまう不思議さと見事さ。

ユキが不動産屋で仕事をしていると、貼ってある物件情報を真剣に見ている少女がいて、部屋を見せに行った時の様子から彼女 - リコ(秋枝一愛)は家出してきたらしいことがわかるのだが、行くあてもなさそうなので、とりあえず家に連れて帰る。彼女の理由も事情も聞かない、掘らない。そしてリコもあずきアイスを食べる。

ノブはトイレットペーパーを買いに出た帰りに野球をやっている子供たちの間に入ってバットを握ったら止まらなくなり日が暮れるまでバットを振り続けるもののぜんぜん当たらずのへたくそで、子供たちは逃げるように帰っていったり。翌日、明るい空に雨が降ったらあずきアイスだけ残して彼は消えてしまうの。スナフキンか。

ユキひとりのラストはすばらしい像として残るのだが、ここも含めて主人公たちの行動や挙動に「なんで?」という問いが発せられることは一切ない。なんでユキとノブは一緒にいるのか? なんでリコは家出したのか? なんであずきアイスなのか? なんで雨が降ったら出ていくのか? なんでノブは誰に何も告げずに消えちゃったのか? 最近のミニシアター系でもシネコンでも邦画の予告では必ずと言っていいほど登場人物たちが「なんで?」「どうして?」「なぜだぁー?」って泣き崩れたり天や地に向かって叫んだりするのばっかり(数えたことないけど相当な数だと思うよ)なので、ここはとても喜ばしく清々しい。ほんとに大きなお世話系ばっかしの世の中においては。

かわりにあずきアイスはなにか? というのが来て、途中から考えるのが止まらなくなる。
あずきの柔らかくふっくらした丸い甘みを活かすのに果たしてあずきアイスは正しい解と呼べるのか? やはりぜんざいや白玉あずきではないのか? 冷やして戴くのであればせめて宇治金時ではないのか? それをあんなふうにカチカチに冷やし、しかも歯が折れそうなくらいに固いバーに成形してしまうのはあずきのポテンシャルを正しく引き出しているといえるのか? などなど。そして、なによりも困ってしまうのはそんな疑義と懸念にまみれたあずきアイスを悪くないって夜中につい齧ってしまうことなの。

ノブがあずきアイスのどこをそんなに愛してしまったのかは知る由もないし、知りたくもないのだが、彼のそんな条理を欠いた(いいかげんな)愛のありようがふたりの生活を貫く糸ならぬバーとしてあったことは確かな気がして、ここに関しては答えなんてどこにもない、誰も持っていない待っていないことを承知のうえで、それでよいのでは、と。

そして、あずきアイスは溶けて、降った雨もあがる。雨が来たので干ばつも終わるかもしれない。そんなふうにして新しい繋がり – というほどのものでは – が後ろ頭から生まれたり。

シンプルだけど、すごくいろんなことを考えさせてくれる映画で、とてもよかった。

上映後のトークは、松本で「恋愛関係を持たない」「呼びようのない暮らし」をしている二人のお話を聞けて、いろいろ考える。だって世の中恋愛関係じゃない関係のほうが死ぬほど多くて大部分なのになんでそういうの(あと家族愛もか)ばっかしがテーマになって、共にある理由づけばかりを求められてしまうのか、それってよいことなのか、とか。

帰りにあずきアイスを求めてコンビニに寄ったのだが、パッケージがなんか違う気がして踏み込めなかった。

11.20.2023

[film] R.M.N. (2022)

11月15日、水曜日の晩、ユーロスペースで見ました。邦題は『ヨーロッパ新世紀』。
作・監督・制作はルーマニアの、『4ヶ月、3週と2日』(2007)や『エリザのために』(2016)のCristian Mungiu – であることを知って見ようと思った。

字幕は喋られる言語 - ルーマニア語、ハンガリー語、その他の言語 + 意図的に字幕表示しない言語もある - によって3種に色分けされている。

トランシルヴァニアの山間にある多民族地域 - ルーマニア人、ハンガリー人、ドイツ語圏の人々が共存している - の人々の日々の暮らしのなかで、EUの移民政策やBrexitにより揺さぶりをかけられた彼らの他民族、人種に向けられた差別意識がどんな状態にあるのか、向かおうとしているのか。終盤に向けて悲惨な、陰惨な大事件が勃発するようなことはないのだが、その分、日々の不満や鬱憤がどんなふうに蓄積され小競り合いのようなかたちで表出していくのか、手に取るようにわかる。なぜならそれは。

冒頭、ドイツの屠殺場で働くMatthias (Marin Grigore)が作業中に「ジプシー」って罵られたのでそいつをぶん殴って家に戻る。戻ると妻のAna (Macrina Bârlădeanu)は冷たいし、ひとり息子のRudi (Mark Blenyesi)は森でなにか怖いもの – それは熊なのか宿のない移民なのか - を見たらしく、殆ど言葉を発せない状態でぬいぐるみと遊んでいたり(父からすると)女々しいし、自分の父はずっと具合が悪そうだし、多少むかついたからって失業なんかしている場合ではない。

Matthiasは地元でパン屋を経営する洗練されたCsilla (Judith State)とずっと不倫関係にあって、彼女のパン屋の工場はずっと人手不足で求人しても地元の人たちは賃金が安すぎる、と来てくれない、ので時給額を隠して残業代は倍、という求人広告を出して、ようやくエージェント経由でスリランカ人ふたりがやってくるのだが、片言の英語しか通じない彼らに対する地元民の目は冷たく、カトリックなので教会の礼拝に参加しようとしても追い払われて、ムスリムって決めつけられたり、やがて彼らがこねたパンの不買運動~彼らの住居からの締めだしにまで発展し、神父や首長にまで話がいってタウンミーティングの開催、となる。

そのうちMatthiasの父が動けなくなり、病院でMRI検査を受けると彼の脳断面の画像がMatthiasの携帯に送られてくるのだが、それを見ても影があったり膠着していそうな箇所はなんとなくわかるものの、どこがどうだからこれが悪い/悪くない、についてはわからないままもやもや。

集会所のホールで住民たちを集めて開催されたタウンミーティングでは、自分たちの見解が多勢であると認識している排斥派が人種差別的な被害妄想を好き勝手に喚き散らして吼えまくる場となり、異義を唱えるのはCsillaや熊の個体数調査に訪れているフランス人くらい、17分間、固定のカメラがその光景をノンストップで映しだして、それは確かに異様すぎて釘付けにされてしまう。 何故釘付けにされるのかというと、明らかに差別と偏見に基づいたヘイトな物言いが支配的になっているなか、自分がそこにいた時になにができるのか、できないのではないか、という無力感に囚われてしまうからで、これが突きつけてくるものはどんなホラーよりも否応なしに恐ろしい。だって戦争や他民族の虐殺はこんなふうに起こるのだ、って目に見えてわかるし、わかっているのだし。

ここのこれって特殊事情ではないのか? なにをもってこの土地のこれを「特殊」って排除できるのか不明なのと、これと大差ない物言いを今やSNSなどでいくらでも(世界中の至る所で)見ることができるし。

震えていると、Matthiasの父が自殺した、って報が入ってみんなでそちらに向かうと…  MRIの画像ではどこが悪いのやら、程度に見えたのだがそういうのとは関係なく本人には先を覆ってしまう影としてはっきりわかっていた、ということなのか。ここにもっていくまでの淡々としたペースは悪くなくて、そして最後の、あの熊(s)はなんなのか。

タイトルのR.M.N.はルーマニア語でMRIを意味する“Rezonanță Magnetică Nucleară”の略なのだそう。スライスした断面から何かの兆候を見ようとすること、そこからどんな(治療)行動を起こせるのか起こせないのか、そうなった時にはもう既に遅いのか、など。

ここで描かれたのって、日本だとクルド人や韓国人への差別があるし、欧米でもふつうにいくらでもあるし、それらは戦っていかなければいけないあれとしてあるのだが、いまはガザのが本当にきつくてやりきれなくて、ふつうにあの土地で暮らしていた人たちをあんなふうに根こそぎなんて。どうしたら止めることができるのか、ものすごい無力感とともにもう…

11.19.2023

[film] 無間道 (2002) - Infernal Affairs

11月11日、土曜日の夕方にシネマート新宿で1を、12日日曜日の昼に109シネマズプレミアム新宿で2を、14日、火曜日の晩、グランドシネマサンシャイン池袋で3を見ました。

このシリーズが公開されて話題になっていた頃はアメリカにいたので見れなくて、リメイクされたMartin Scorseseの”The Departed” (2006)は見たものの、元のをずっと見たかったところで今回の4Kのがきたので。 最初は1だけでよいか、と思っていたのだが、いちおう2も見てみるとやっぱり3も、になって結局。これもまた無間道か、って。

監督はAndrew LauとAlan Makの共同。どの作品も冒頭に仏教における「無間道」とは.. はまったら絶え間なく続く苦しみを抱えて彷徨うことになる地獄である云々、という説明書きがでる。映画はそんな地獄を壊す話しでもそこから抜ける話でもなく、そこがどんな場所でそこにはどんな責め苦があるのか、を宗教や信仰を脇に置いて、淡々と綴る。そしてこの地獄は死んだ者をとりこむのではなく、生きている者の前に現れて包みこんで動けなくして、そこには善玉も悪玉もないのだ、と。


インファナル・アフェア (2002)

ギャングのサム(Eric Tsang)の使いとして警察の中核に潜入することに成功したラウ(Andy Lau - 若い頃はEdison Chen)とウォン警視(Anthony Wong)に認められた部下としてサムの組織に潜りこんで頭角を現すヤン(Tony Leung - 若い頃はShawn Yue)がいて、それぞれが切れ者で互いの組織の動勢や内情を漏らしたり検知したりすればするほど両者の軋轢は高まって熱くなって、ラウもヤンも互いの組織にモグラがいることはわかっていて、抗争の激化とともにウォンが殺されサムも殺されて、これは直接ぶつかるしかない - 「明日が過ぎれば無事だ」って。 どうなるの? ってきりきりしていると .. なるほどなー。 しかしエレベーターのとこって、”The Departed”もそうだったのを思い出したが、あの映画、そこ以外は一切憶えていないわ…

ふたつの対抗勢力の抗争劇を、モグラがこう動いたからこうなって/なった、ではなく、コトが起こっている現場の焦りや戸惑いも込みでライブで右左のツー・トンで繋いで、だからすべてが唐突に、突然に起こって取り戻せない、取り返せない、そういう時間のなかにある。


インファナル・アフェア 無間序曲 (2003)

1のコトが起こる前、1991年から97年までの香港でそれぞれの「活動」を始める前の、若いラウ(Edison Chen)とヤン(Shawn Yue)には何があったのか、彼らはどうしてそうなっていったのか、を描く。

やくざの大ボスのクワン(Joe Cheung)がサムの妻マリー(Carina Lau)の指示でラウによって殺されて、その手下のビッグ4も次々と殺されていくなか、彼の息子でそれまで静かなカタギだったハウ(Francis Ng)と、騒動を遠巻きでみていたサムはどう動くのか。

クワンの私生児でハウの異母弟であることが明らかになったヤンはその出自故に警察学校を退学になるのだが、ウォン警視は彼に最後のチャンスを与えようとモグラになるオファーをし、サムの方はラウを警察に送り込んでマリーの仇を討たせようとする。 そして誰にとってもうっとおしい目の上のコブになってきたハウを誰がどうするのか。

「序曲」と呼ばれているものの、その先を知っている我々にとっては既にすべては用意されていたのだ、としか思えない静けさ。こうなることをぜんぶわかっていたハウと、死ぬことを屁とも思っていないサムが周囲の苦悩を勝手にかき混ぜて放置するものだからどうしようもない。答えをもっていそうな連中がすべていなくなってしまっているという…


インファナル・アフェアIII 終極無間 (2003)

1のコトが起こる少し前とその後に何が起こっていたのか、シロかクロかの審議の後、10ヶ月後に内務調査課(Infernal Affairs Dept.)に戻ったラウは強権的な動きを見せて平然としている保安部のヨン(Leon Lai)に疑いの目を向けて彼の動きを調べ始めるのと、並行してヤンがセラピーにかかっていた精神科医リー(Kelly Chen)に近づいて病んでいたというヤンの様子を探ってみるのだが、ただ寝てたらしい… って。

そしてサムと本土の大物シェン(Chen Daoming)の闇取り引きに絡んで刺さっていたヨンとヤンの動きと証拠のテープを、と思ったらそれは。

「運命は人を変えるが人は運命を変えられない」って地獄の地獄たる由縁を漬物石として上から落っことす。「..でも彼らは変えたのだ」って、連中死人だから…. この辺は厚塗りがすぎて却っておかしかったり。

『恋する惑星』 (1994)の警官663のあれもセラピーの一種だったのではないか、なんて見てしまったり。


3部作全体の構成そのものが「無間道」としか言いようのないぶ厚さと抜け道と救いようのなさで固められていて、逃げようがなくてぐったり、だったのだが、でもおもしろかった。 Johnnie To作品をずいぶん見ていないので、久々に見たくなったかも。

11.17.2023

[film] The Marvels (2023)

11月10日、金曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAX 3Dで見ました。こんなの初日に見ないでどうする。

Marvel Cinematic Universe (MCU)の33番目だそうで、監督・脚本はNia DaCosta。
改めてびっくりなのだが自分はたぶん33本ほぼ全部見ているはずで、音楽で同じアーティストのを33枚ずっと追っている、というとすごい気がするので、これはやはり「産業」の力なのかも、と思ったりする。それがどうした、ではあるが。

あと、最近のMCUって、マルチバースとQuantumなんとかで時間も空間も人格もぜんぶがとっかえひっかえ自在の行き来ができるようになっていて、その詐欺みたいな不思議については追及しないし、出てくるスーパーヒーローがどんなやつか(そもそも、人か?)などを押さえておくのが精一杯で、悪役はどんな化け物が出てこようがちっとも驚かないし、かなりどうでもよくなっている、という傾向をどう見るか。など毎度思ったりぶつぶつ言ったりしつつもなんか見てしまうのね。

今作の興行的な不振も、あんなふうに物理宇宙の設定(適度にもっともらしい)や境界が勝手に更新され続けるのにいい加減飽きてきたとか、善玉と悪玉の仕切りも大戦~冷戦の時代を抜けて以降、立ち位置がどうでもよい濃度や粘度のに変わってきたとか、個々のキャラクターも人種や性別設定のガイドライン的なあれらに配慮しまくるものにならざるを得なくなったとか、これらの総合として各キャラクターやエピソードが微妙に連関したり影響しあったりしているのをぜんぶチェックして押さえてなんかいられない – そこそこに見ているおたくであることを強要される(逆に真のおたくからはバカにされる)構造になっていることとか、この作品単独で論じるべきではないのかも、とか思うし、(これまでだってそうだった)明らかにアンチフェミ系の愚か者ども等が荒らしているのだと思うし。 昔ってもっとこういう軽くてバカバカしいノリのやつ、ふつうにあったし。ターゲットがどうであれ、そういうのを見て支持するのだと子供の頃の星に誓ったのではなかったか、って自分に言ってみたり。

Dar-Benn (Zawe Ashton)が宇宙のどこかで腕輪を発掘して自分の腕にはめて、これじゃよこれ、ってなんか悪さ(悪そうに見える動き)を始めると、同じ腕輪の片割れを持っていてCaptain Marvelを崇める高校生Kamala Khan (Iman Vellani)とか宇宙で作業中だったMonica Rambeau (Teyonah Parris) - 前作ではちびっこだった - に変な現象 - 誰かひとりがパワーを使うと3人の場所なのか人なのか、が瞬時に切り替わってしまう - が出始めて、そこに宇宙ステーションでちんたらしていたNick Fury (Samuel L. Jackson)とか、前作のあとにひとり宇宙を彷徨っていたCaptain Marvel/Carol Danvers (Brie Larson)が絡まって、宇宙に亀裂が入って被害が拡大していく。

その被害はCaptain Marvelが前作でボスのAIをぶっ壊したことによって壊れてしまった星とか、難民になって/されてしまった民 – Dar-Bennはその新しいリーダー - とかに起因しているらしいことが見えてきて、少なくとも宇宙ステーションはぼろぼろで避難させないといけなくなったので、ねこたこお化けのFlerkenに手伝って貰ったり、そういうのの合間にCaptain Marvelの婚礼があったり、全体としてはじたばたどたばたやかましくくだんないこと極まりなくて、TikTok向けだなんだ悪口も言われているようだが、それがどうした、くらいにはめちゃくちゃである(褒めてる)。

ふとこれ、子供向けなのかしら? と思ったりしたのだが、そうでもなさそうな程度に当然のように空を飛ぶことができたり気がつけばユニフォームも揃っていたり、あと「解き放て」- 「解放せよ」のようなテーマはくっきりと、ある。あと、なによりも子供たちが彼女たちを見てあんなふうになりたい! って思うかどうか - 子供じゃないからわかんないけど。

3人組、ということでNick FuryをCharlieに置いた”Charlie's Angels”のようになっていくのかな、とか思ったりもしたのだが、エンドロールなどを見るとあそこまで固めていくつもりでもなさそうだし、とにかく彼女たちが3人がかっこよく痛快に暴れまくってくれれば文句はないのだが、最後にどかーん、ていうのが欲しかったかなあ。自分にとって”Captain Marvel” (2019)は文句なしにかっこよい映画だったので、あの勢いで照れずにぶっとばしてほしかった。

今回、生態の一部が明かされたFlerkenであるが、あれを見ると、こいつらグレムリンの親戚なのかも? とか。なにをトリガーにしてあの毛玉らが湧いて出るのか、今後要注視であることは間違いない。ところであのタコ、ヒトを飲みこんで間違ってそのまま食道の方に送りこんでいたりしないもんなのかしら?  Minionsみたいにこいつらのスピンオフやったらぜったい本体よりも当たるよ。

11.16.2023

[film] Loving Highsmith (2022)

11月5日、日曜日の午後、シネマカリテで見ました。邦題は『パトリシア・ハイスミスに恋して』。

なんだかとっても切なく人恋しくなる「恋して」系のドキュメンタリーだった。監督はスイスのEva Vitija。Highsmithの声をGwendoline Christieが担当している。ちりちり、ぺなぺなしたギター中心の音楽はNoël Akchoté、ギターを弾いているのはBill FrisellとMary Halvorson。猫多めでどいつもかわいい。

アメリカの作家・劇作家Patricia Highsmith (1921–1995)の評伝。最初の小説 – “Strangers on a Train” (1950)がいきなりAlfred Hitchcockによって『見知らぬ乗客』 (1951)として映画化、舞台化もされて、その後も”The Talented Mr. Ripley” (1955)を始めとするRipleyもの(5作)のRipleyはいろんな映画のキャラクターとして登場するセレブ悪漢となり、Claire Morgan名義で書いた“The Price of Salt” (1952)が後に”Carol”となったのも有名。こんなふうに彼女の書いた小説は欧米でほとんど映画化されていて、そこに携わった監督もHitchcockに始まってClaude Autant-Lara、Claude Miller、René Clément、Claude Chabrol、Wim Wenders、Anthony Minghella、Todd Haynesなど錚々たる人々がいっぱい、直近だとSteven Zaillianが監督してAndrew ScottがTom Ripleyを演じるNetflixのシリーズ - ってもう出来たのかしら?

このドキュメンタリーのなかでも上にあげた映画からの切り抜きが散りばめられているのだが、彼女の小説の何が、どんな要素が彼ら映画作家たちを焚き付けたのか、ここを小説家観点から掘ってくれたらなー、だったのだが、その目線はあまりなかったかも。

テキサスのフォートワースに生まれて、両親は彼女が生まれる前に離婚して – 別れた実父は母に中絶するように頼んだとか、母もテレビン油を飲んで堕そうとしたができなかったとか、再婚した母に呼ばれてNYで暮らしたと思えば、テキサスに送り返されて祖母のところで過ごしたり、どこまでもさいてーの母に疎まれ嫌われた子であったことが繰り返し語られる。この辺が彼女の小説の作中人物に向けられるあんたなんかいなくなっちゃえば、はじめからいなければいいんだ、的な存在に対する邪悪な視線、こびりついて取れない「悪」に対する妄執を産み育てることになったのだろうか。

作家としてのキャリアができあがって以降は、生誕100年で公開された彼女が遺した書簡や創作メモ、ガールフレンドが撮ったであろう彼女の写真等を中心に彼女の足跡を辿っていく。ポスターにもなっているけど、彼女のポートレートがなんとも言えずぽつんと寂しげでよいの。”Wendy and Lucy” (2008)のMichelle Williamsのような。あれは犬と一緒のだったけど。

そのなかでやはりクローズアップされるのがレスビアン作家としての彼女で、偽名で出版して、史上初めてハッピーエンディングで終わるレスビアン小説 - ”Carol” - 出版から38年後に自分の名前の小説となる – をまんなかに置いて、映画化権を売ってお金はいっぱいあったのだろう、欧米のいろんな土地を渡り歩くように暮らしていって、そこでの暮らしが、そこでの彼女がどんなだったか、存命している当時のガールフレンドに聞いていく。そのなかにはこないだのUlrike Ottinger特集の『アル中女の肖像』(1979)に出ていたTabea Blumenschein – なんてチャーミングな人! - もいたりする。

結果としては愛を貰えなかった孤独な彼女の内面に降りていってそっと触れようとする、とても親密で切ない内容のものになっているような – そしてここに投影される”Carol”の質感がまた… (併せて上映してくればよいのに)

そうして描かれた彼女の肖像から、誰もが知っている彼女の差別主義 – 反ユダヤ主義的な暗い側面は掘りさげられることなく削られている - テキサスの親族へのインタビューで聞いてみても”Shut Up”の一言だし、だからだめじゃん、ではないのだが、彼女原作の映画を見ていてたまに感じる割り切れない気持ち悪さ、不信に近いところの不可思議な感覚、は残るかも。

アメリカの女性作家、ということで”Flannery” (2020)も”Shirley” (2020) – これはフィクションだけど – も改めて、もう一度並べて見てみたいかも。どれもとってもおもしろいの。

11.15.2023

[film] Carole King Home Again: Live in Central Park (2023)

11月4日、土曜日の午後、ヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。
1973年の5月26日、NYセントラルパークのThe Great Lawnで行われて約100,000人を集めたライブの記録。今から50年前のライブ映像。

Kingの“Tapestry” (1972)のプロデューサーであり、この映画のプロデューサーでもあるLou Adlerが16mmフィルムをまわして、最初は彼のナレーションでCarole Kingのキャリアと音楽がざっと紹介される。

NYで生まれ育った彼女がGerry Goffinと出会って結婚して、一緒に曲を書くようになって、Goffinと別れてからローレル・キャニオンに渡ってトリオの"The City" – 大好き – を結成して音楽活動を続けつつJames TaylorやJoni Mitchellと出会って、ソロとして”Writer” (1970)を出して... 以降はいいよね。このファーストソロから1973年までで驚異としか言いようのない5枚をリリースして、”Fantasy” (1973)を作ったときのレコーディングが楽しかったのでこのメンバーとライブをやってみたくなった、と。

それまでMetropolitan OperaやNY Philharmonicのライブが行われていた程度だったThe Great Lawn – 夏になるとSummerStageとして日替わりでライブをやってくれるのはRumsey Playfieldという別の場所。念のため - に野外ライブ用のステージを組んで、大規模な宣伝はせずラジオで流したくらいで当日これだけの人が集まった(でも80年のElton Johnの時は300,000人来たって)。

内容は最初彼女ひとりのピアノと歌だけ、衣装なんて呼べないそこらの普段の野良着のような格好で、でもそれが似合ってて、彼女がそのままリビングで歌っているような少しの緊張とやわらかさをもって歌いだしたかのよう - でもこれこそが聴きたかったライブのCarole Kingだなー。彼女のこんな音楽、嫌いになれるひとがいるだろうか、というのと、これだけの聴衆を前になんでこんな温度感でさらりと歌えてしまうのだろう、という驚きと。

地べたに座っておとなしく聴いたり口ずさんだりしていた聴衆もバンドが入り始めた後半から緩く立ったり動いたりするようになってきて、大勢がわらわらと櫓に登り始めた時にはひやひやするのだがいつものように追い払われて(それでも残るバカはいる)。

まだちょっと寒さが残っていそうな5月の終わりの午後だったけど、家に帰ったらみんなレコードかけてまた歌ったりしたんだろうな(自分ならきっとそうする)、というところまで追いたくなるような、そんな景色がいっぱいあった。


Travelin' Band: Creedence Clearwater Revival at the Royal Albert Hall (2022)

11月11日、土曜日の昼、ル・シネマの渋谷宮下で見ました。
監督はBob Smeaton、ナレーションはJeff Bridges - 朴訥で、そんなにべらべら喋らない。

1970年4月14日にロンドンのRoyal Albert Hallで行われたCCRの英国で最初の、ひと晩のライブを16mmで撮ったものが倉庫から50年ぶりに発掘された、と。

前半(最初の40分)はバンドの成り立ちから1970年に初めてヨーロッパの地を踏んでこの日のライブに至るまでを紹介して、後半のライブ(後の42分)が始まってからはナレーションも編集も一切入らず、最後まで(おそらく)全曲通して流される。

CCRについては、John Fogertyひとりがクローズアップされがちだし、彼のヴォーカルの強さに改めて感嘆するものの、ライブだとDoug CliffordのドラムスとStu Cookのベースが際立ってよく響いて、割とおとなしめ(客席もフルでは埋まっていない)の観客が最後の" Keep On Chooglin'"で一部狂ったようになるのは彼らのエンジンのおかげなのではないか。このライブの数日前に発表されたThe Beatlesの解散がどうの、とはまったく関係なく、彼らのストンと足元に落ちてくるリズムって英国のR&B系とは明らかに違っていて、それを遠くからなんだこれ、って眺めているような感があっておもしろい。アメリカのガレージ的な、日が暮れても延々止まらずに鳴り続けているなにかが、でっかい箱ででっかく響きわたった最初の方なのではないか(← てきとー)。

Carol Kingのもだけど、こんなふうに「発掘」されてくるのって、デジタル化による倉庫の整理整頓が進んできた結果なのかしら、と思う反面、デジタルにしたからあとは棄てていいってものじゃないんだからね! というのも改めて言っておきたい。

11.14.2023

[film] Mon Crime (2023)

11月5日、日曜日の昼、シネクイントの白で見ました。

邦題は『私がやりました』、英語題は” The Crime is Mine”。監督はFrançois Ozon。
フランスのGeorges BerrとLouis Verneuilによる1934年の同名戯曲を脚色したもので、この原作はハリウッドで1937年と1946年の2回映画化されている古典である、と。過去の映画化作品はどちらも見ていない。見たい。

1935年のパリで、売れない女優のMadeleine Verdier (Nadia Tereszkiewicz)が売り込みに行ったプロデューサーの邸宅で乱暴されそうになったのでなめんなよ、ってぶん殴ってそこを出てアパートに帰ると、家賃の滞納で大家がねちねち嫌味と文句を言ってきてうんざりで、付きあっている大企業オーナーのぼんぼんのAndré (Édouard Sulpice)は婚約手前でどうしたいのかおどおど頼りなくてため息で、同居している駆け出し弁護士のPauline Mauléon (Rebecca Marder)と食事に出てから戻るとアパートには警察がいて、昼に訪れたプロデューサーのMontferrand (Jean-Christophe Bouvet)が撃たれて殺されたって引っ立てられてしまう。

その時間帯に被害者のところを彼女が訪れてなにやら交渉しようとしていたこと、凶器の拳銃が彼女のアパートにあったし、被害者の財布が無くなっていたので金目当てらしい、ということで証拠も含めて被告人Madeleineは圧倒的に不利で勝ち目なさそうでどうしたものか、と弁護を引き受けたPaulineは考えて、裁判官と陪審員を前に、確かに彼女はプロデューサーを撃ちました - 「私がやりました」 - けどね … という圧倒的な嘘/熱弁論を展開して無罪を勝ち取り、理不尽かつ強引な金持ち老人の暴力と戦ったサバイバー、というヒーローみたいな女優像と親友の窮地を救った若手弁護士、という美談で花吹雪が舞って、時の人となったMadeleineのもとには新たな出演のオファーが舞い込んで、ぼろアパートからの脱出にも成功して…

すべてがまるく収まった - これも「私がやりました」 - と思ったところで横から孔雀のような女優のOdette (Isabelle Huppert)が現れて、Montferrandを殺したのは自分だほれこれが証拠、とか言いだしたり、有名になればなったでAndréとの結婚問題が再燃したりとか別の富豪がちょっかい出してきたりとか、いろいろ面倒なのが湧いてきて悩ましいのだが、でも貧乏じゃないってすばらしい、と。

元の脚本がしっかりしているからだろうか、MadeleineとPaulineのキャラクター設定 - 何事においても派手で恋愛でもなんでも自分が中心にいて愛されて当たり前、でずっとやってきたMadeleineとそんな奔放な彼女に振り回されてばかりだけど彼女のことがちょっと好きなのでどうしても強く出れずに言いなりになってしまう真面目なPauline - の二人組がバカでぼんくらで傲慢で二言目には「女なんて」「女だから」ばかりの男ども - 初めから終わりまでずっと - の全員をコテンパンにしてざまあみろ、になりかけたところで、魔女が現れてもう一回引っかき回してくれるけど、でもなんとかだいじょうぶだから、ってなる。ちょっとだけ金持ちをきりきり舞いさせるスクリューボールコメディで、法廷/バックステージもの、でもあったりする。しかも今のご時世の話題の中心線からそんなにズレてないし。

François Ozon、ついこないだの”Peter von Kant” (2022)といい、ここのところ90分サイズの軽めのをさくさくリリースしていて、どのテーマも作風も作品ごとにてんでばらばらだし、それぞれそんなに深く考えさせるやつでもないし、個々の作品にはっきり好き嫌いはあるのだが、そのフランス映画職人に徹したようなちぎっては投げ、の姿勢はよいかも。まだ油断ならないかんじだけど。

Paulineを演じたRebecca Marderさんは、こないだの『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』(2021)で若き日のSimoneを演じていた。弁護士役がとてもよくあう頼もしさがあったり。

今回のIsabelle Huppertさんは好き勝手やり放題していてよかった。ちょっとHelena Bonham Carterぽい化け猫の化け方だったけど。(実際に狙ったのはSarah Bernhardtだったそうだが)

あと、久々にAndré Dussollierさんを見れてうれしかったかも。

11.13.2023

[art] 奈良美智: The Beginning Place ここから - 他

10月の最後の週から11月の最初の週、長めの休みを取っていろいろ見てきたのでメモ程度に。

生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ @国立近代美術館

この翌日の青森に行く前に。子供の頃からどこにでもあった彼の素朴で暖かめの版画、のイメージから離れたアナーキーでダイナミックな雲(ときどき雷)のような作品群。この雲のうねりを彫りたかったのではないか。 ホイットマンの『草の葉』の柵がよかった。

3階での小企画『女性と抽象』もすばらし。見る機会のなかった桜井浜江や藤川栄子をはじめ、他にももっとあるはず、もっと見たい、になる。いつか大企画に引きあげられますように。


奈良美智: The Beginning Place ここから @青森県立美術館

これまで自分が行った日本の北限は猪苗代湖くらいで、このぶんだと北海道もいけないまま一生を終えることになる気がしたので、10月30日、青森までがんばって日帰りしてみる。

奈良美智の作品に最初に触れたのは90年代の米国で、二本の脚で踏んばっているように見える少女はこちらを睨みつけて手にナイフを握っていた。(少年ナイフの米国でのブレークもあり)

今回の回顧展的、と言わないまでもいったんの区切りと思われる展示のポスターで、少し成長したように見える少女(おなじ女性だろうか?)の像は上半身のみでこちらを見て佇んで、その目には涙を浮かべていて、服はP.クレーの暖色のだんだら。表明はもうかつてのように怒っているようには見えない。力尽きたのか訴えているのか祈っているのか絶望しているのか、もちろんそれは、こうなってしまった、という話ではなく、いまの天気や季節や世界がそうさせているのだ、というだけのこと、なのかもしれない。他方でタイトルは”The Beginning Place”であり『ここから』 - ここを起点として始まる、起ころうとしていること、であると。たぶんおそらく、絵や彫刻に向かう手前のぬかるんだ世界のありようについて、いまの時点から振り返ってみれば、という定点観測なのではないか。いまから10年後に行われるかもしれない『ここから』はまったく別の表情を見せるに違いない、そんなものでよいのだ、というところも含めた風通しのよさ。

そして、背景がブランクであることが多い彼の作品で、彼女たちはどんな場所で踏んばったり仁王立ちしたりしていたのか、あるいは、そのナイフはどんな部屋で研がれ or その叫びはどんなレコーディングスタジオで録られようとしていたのか、部屋 - “I Want to See the Bright Lights Tonight” (1974)のジャケットのように窓が濡れている部屋 - 掘っ立て小屋やロック喫茶がDIYで ←これも重要 - 再現されて、だからこれらは彼の定点であるこの青森の地で開催されなければならなかったのだ、って。

あのロック喫茶でそのまま3時間くらいレコード聴きながらだらだらしたくなる展示だったが、バスで市場のほうに行って、穏やかでぜんぜんらしくない津軽海峡をながめて電車で弘前に向かって弘前れんが倉庫美術館の『松山智一展:雪月花のとき』も見て、晩の飛行機で戻る。

10月31日から11月3日までは京都に行って、そこを起点にすこしだけ大阪と奈良にも行った。
これまで桂離宮も法隆寺も行ったことがなかった、ので改めて基本を見ていこう/おこう、ってそれだけ。

寺社系だと「東寺のすべて」を見て、三十三間堂を見て、法隆寺を見て、永観堂を見て、建仁寺を見て、展覧会だと京セラ美術館で『竹内栖鳳 破壊と創生のエネルギー』、京都国立近代美術館で『京都画壇の青春―栖鳳、松園につづく新世代たち』と常設展を見て、大阪の中之島美術館で『生誕270年 長沢芦雪 - 奇想の旅、天才絵師の全貌』を見て、奈良国立博物館で『正倉院展』見て、建仁寺でやっていた『スミソニアン 国立アジア美術館の名宝』を見て、結構足と目がしんだ。

あと、桂離宮のあの茶室はやっぱすごい(日本とか和とか、じゃなくて考えた人が)。外側のどこからどう見て攻めていっても驚嘆すべき格子模様が出現して止まらない。

奈良の正倉院展は去年も行ったので今年はよいかとも思ったのだが、すっぽんの石とかおしどりの布とかを見たくてたまんなくなって。実際にたまんないやつだった。

耳系だと昨年Brian Enoのインスタレーションを見たところで:

Ambient Kyoto 2023

アンビエント、っていうと古い人なのでEnoの”Ambient 1: Music for Airports” (1978)がまずあって、かつては環境音楽とも言われていて、特定の「環境」の与件とかありようを侵さないことを基本とした音楽とか音像を探求していく(そういうなかでいかに音楽は可能となるのか、という)試み、と理解していたので、ここでBuffalo Daughterとか山本精一とかCorneliusがライティングやヴィジュアルやミストと共に鳴らしていた音って、ものすごくふつうの、スタティックというよりはダイナミックな音像たちで、ここから「アンビエント」を導きだすとしたら、音の塊りが環境そのものとして感覚まるごとを襲って覆う、そういう機能性をもった音楽、のように言えるのだろうか? と。すべての活動を追っているわけではないが、坂本龍一のまず「聴く」ことへの注力から環境そのものを考えていくようなアプローチもそこに含まれるのだろうか、とか。

こんなの考えなくてもよいことなのかもだけど、止まらなくなって、あんま考えずに楽しめた昨年のEnoのほうがまだよかったかも、とか。

この後に、これの関連イベントで、岡崎のほうのふつーの日本家屋でやっている「しばし」っていうのにも行った。予約制で、Garrardのターンテーブル、真空管アンプ、Lockwoodのお座敷スピーカーで、ちりちり系のレコードを鳴らすのを聴く(だけ)。涼しくなった(11月に入ったのになんでこんな暑いの?)夕暮れ時、床の間のある純和室に鳴るこんな音が悪いわけはないのだが、自分のとこでこんなの実現するのは無理よね、ってすべて崩れる。本とかレコードとか、どうするのか、っていつもの―。

これで日本のアート系は当分のあいだ見なくても...  となるかどうか。

11.12.2023

[film] ゴジラ -1.0 (2023)

11月4日、土曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。

もはや世界的ブランドとなってしまったゴジラの『シン・ゴジラ』 (2016)に続く本家からのリリース、生誕70周年記念作品、らしいのだが全く期待はしていない。昭和のシリーズが好きだから、というわけでもなく、最初期の数本が絶対だからというわけでもなく、『シン・ゴジラ』にあった単純な自衛隊万歳 - 日本負けるな、って歯を食いしばって突っこんでいくノリについていけなかったから。 最近のハリウッド版のほうが派手だし荒唐無稽でまだ楽しめるし。

今回のは敗戦によりすべてを失った日本をゴジラが襲う、と。 そいつはまじでやばいかも知れないな、って思って見に行ったのだが、基本はあんま変わらなかったかも。ポジティブ、なのかバカなのか。

冒頭、日本軍の戦闘機が修理工場のある島に降りたち、憔悴して具合が悪そうなその操縦士敷島(神木隆之介)は、機の具合がどうも.. って修理を依頼するのだが、飛行機はどこも悪くないのでひょっとして貴様は.. ってなった晩にその島を怪獣が襲い、敷島は機銃を撃つこともできずに立ち尽くしてそこにいた隊はほぼ全滅してしまう。

戦争が終わって敷島が焼野原の東京に戻ると家は燃えて両親は亡くなっていて、赤ん坊を抱えて彷徨う女性典子(浜辺美波)を見ていられなくて自分の掘立て小屋に住ませてあげると、その赤子も彼女の子ではなく、誰かから託されたものだという。そしてそんな彼らを横から見てられないよ、っておせっかい/助けにくる安藤サクラとかもいる。誰もがみんなすごくよい人たち。

働き口がない中、お金にはなるから、と海上に放置されている機雷を除去する仕事を見つけてきた敷島とその仕事仲間 - 吉岡秀隆、佐々木蔵之介等 - は、海上でゴジラに遭遇して、これが東京に上陸したら大変なことになるぞ、って戦慄するのだが、やっぱりゴジラは上陸してひと暴れして典子を彼方にふっとばして海に戻り、次の上陸はなんとしても阻止せねば、ってみんなで知恵を絞って作戦を立てる。

戦争に負けてからっけつの日本の軍と助けに来てほしい米軍はソ連を刺激したくないから、と動けないし動かないし。自分たち有志で(→ いまのクラウドファンディングみたいに)なんとかするしかないんだ、って残っていた船とかゴム会社とか終戦間際まで開発中だった戦闘機とかを総動員してその時を待って..

1954年の第一作で原爆の脅威と恐怖そのものだったゴジラは今作では(日本が)克服すべき敗戦のトラウマ、でしかなくて、ここでやっつけなければ自分が死ぬしかない、だから「生きて、抗え」で結局誰ひとり死なないし、こんなこともあるから自衛の軍は持たなきゃいけないし(→ 自衛隊)、こんな安っぽいプロパガンダに使われてしまうゴジラが本当に哀れでかわいそうだ。

米国の核実験の話は出てくるけど、広島・長崎に原爆が落とされたこと、なぜ日本がこんなことになってしまったのか、自分たちがトリガーを引いた戦争についての言及はない。いつまでたっても”Oppenheimer” (2023)の公開がされないのは、これとの対比で語られることを嫌がったのだな、としか思えない。

子供の頃(リアルタイムではないよ)に見た54年版ゴジラでの芹沢博士の自死は、本当にショックで理不尽で怖くて、でも彼の抱えていた絶望はなんとなくわかった。今作でなんで主人公たち誰もがあんな元気にがんばって生きようとしているのか、自分にはよくわからない。それはいまのこの国がそんなふうにあることへの気持ち悪さにも繋がっていて、なるほどな、しかない。

俳優さんはみんな「熱演」だと思うけど、どう呼んでよいのかわからない少年漫画みたいな「なんでだぁー拳」のような演技スタイル & キャラクターの置き方 - 女性はほぼだいたい女神 - がぜんぜん好きではないし、昔の映画を見てきて、あの時代の人たちがああいう喋りや振るまいをするとは思えないので、どうかなー、とは思った。 あの時代の人たち、でいうとみんな - やたら「みんな」のように括りたがる傾向も含めて - 穏和で秩序を重んじて助けあうよい人たちすぎるし。『風の中の牝雞』 (1948)の鬼畜みたいなありようの方がふつうだったのでは。

怪獣の描き方はよい、すごい、って言われているようなのだが、そもそもこれって怪獣映画なの? ただ怪獣を仮想敵に置いただけの 「自衛隊 1.0」じゃん。

そんななか、伊福部昭の音楽だけは変わらずに最強なのだった。


あー LITURGYみたかったよう…

11.10.2023

[film] 浮草物語 (1934)

10月28日、土曜日の午後、国立映画アーカイブで見ました。サイレント。 英語題は”A Story of Floating Weeds” - 59年のリメイク版は” Floating Weeds”。

東京国立映画祭のなかの小津特集。いろいろ被りすぎててわけわからず、とりあえず見れるところで見るしかない – って思わせてしまうような映画祭って、さいてー(改めて、何度でも)。小津のシンポジウムだってチケットが別扱いで気が付けば売り切れているし、Kelly Reichardtさんは結局このためだけに来たの? 失礼すぎない? とか。

10月1日にロンドンのBFI IMAXで堂々とした『浮雲』(1959)を見て、これの前に作られた1934年版も見たいと思っていたところ。米国のプレ・コードドラマ”The Barker” (1928) - 『煩悩』がベース(これを受けた原作は小津の変名 - ジェームス・槇による)だそうで、こちらも見たい。

この34年版を見ると、59年版のと思っていた以上に似ていた、というか、59年版は旧版で撮られたものをカラーと音声を使ってより直截的に洗練させたものなのか - 25年かけて。すごいわ。

旅まわり歌舞伎一座の喜八(坂本武)と情婦のおたか(八雲理恵子)が中心にいる一座がある村に興行にやってくると、喜八はおつね(飯田蝶子)がやっている呑み屋に入り浸っておつねの子の信吉(三井弘次)と頻繁に会うようになる。彼らの事情も込みでそれを妬いたおたかが若いおとき(坪内美子)を信吉に仕向けて…  

ストーリーはもうわかっているのだが、いろんな登場人物たちの束と溜まる場所や場面が色別に分かれていて、その奥行きが格子模様の遠近でくっきりしたり滲んだりする59年版の完成度と比べると、やや平坦でリニアな人情噺の方に寄っているようで、でも嫉妬が嫉妬を生んで燃え広がって渦を巻くその熱ややばさが声を介さずに伝わってくる距離の近さ、でいえば34年版もとてもよいかんじ。

キャストもこれ以上のものは想像できない、空前絶後で唯一無二の59年版の中村鴈治郎 - 京マチ子 - 杉村春子 - 川口浩 - 若尾文子 - たちと比べても悪くなくて、特に八雲理恵子のすばらしさにびっくりした。今回の特集で『東京の合唱(コーラス)』(1931)も見たりもして…


風の中の牝鶏 (1948)

10月28日の土曜日の午後、『浮草物語』を見た後にTohoシネマズ日比谷のシャンテで見ました。
間違えて角川シネマ有楽町の方に行ったら誰もいないので少し焦った。

これは2021年1月、コロナでロックダウン中の英国にいた頃、Criterion Channelで見ていた - 英語題は”A Hen in the Wind” – ことを思いだした。

全体としてあまりに酷くて辛くしんどい話で、田中絹代がなにをやっても不憫でかわいそうすぎて、佐野周二がしみじみ憎らしくてうんざりぐったり世界が嫌になったので見た記憶を消したくなったのだと思う。

時子(田中絹代)は幼い坊やを抱えて夫の修一(佐野周二)の復員をずっと待っているのだがずっとお金がなくて着物などを売ってやりくりしていたのだが、坊やが腸カタルにかかって入院してしまい、高額な入院費を払うために近所の怪しい女性経由で売春をやるところを紹介してもらってなんとか工面する。坊やも無事に回復して、夫も戻ってきたところで病気は大変だったろう、お金はいったいどうしたんだ? って聞かれると彼女は嘘をつけなくて泣きだしてしまい…

修一はそこでばかやろう、って泣いて謝る時子をぶんなぐり、彼女の供述にもとづいて月島の宿にまで出かけていってそれが事実だったことを確かめ、戻ってきて時子を階段から突き落として... たぶんこういう話はこの頃にいくらでもあったのだろうな、って。(これ見ると『ゴジラ-1.0』なんてよい人まみれの極楽にしか見えない) 修一、最後は自分も苦しかったんだよう、って言いたげに泣いて謝って抱きあうのだが誰が信じるかよ、って。

何度も正面から不吉に映しだされる階段、同じように気が遠くなるような階段があって近所から見下ろしている巨大なガスタンクとその轟音 – 鳥籠のイメージ、川べりを転がっていく紙風船、不安定でおそろしいイメージの連なりとそこに風が吹いているなか、逃げようのない牝鶏 - 夫の背中にまわされた羽 - の影が結ばれて、おそろしい。このおそろしさを画面におとせてしまうところが小津のこわさなのか。世に言われる失敗作では決してなくて、むしろ逆、これを「失敗作」とすることでなにかに蓋をして見ないようにしたのだとしか思えない。


11.09.2023

[film] 左手に気をつけろ (2023)

10月28日、土曜日の昼、東京国際映画祭をやっている角川シネマ有楽町で見ました。英語題は”Keep Your Left Hand Down”。上映後に監督井口奈己によるトーク付き。43分の中編。

この映画祭での上映がワールド・プレミア、だそうで、エグゼクティブ・プロデューサーである金井久美子 & 金井美恵子姉妹が国際映画祭のレッドカーペットを歩いたぞ、ということでおおおっ、となったやつ。

6月の終わりだったか7月の頭だったかの週末、京都の恵文社一乗寺店で行われたこの作品の上映イベントには行けず、でもその前の週にあった『こどもが映画をつくるとき』(2021)と『だれかが歌ってる』(2019)の上映+金井姉妹のトークには行って、ここで今作の前日譚のようなこれらを見れたのはとてもよいことだった、と今にして思った。

はじめに「よーい、スタート」の声がかかって、『こどもが映画をつくるとき』から更に数歩進んだ、子供が掟をつくって統制をかけている社会が示される。コロナのような謎の疫病がまん延するが、子供たちは疫病フリーで、病が左利きによって媒介されることから左利きを取り締まる子供警察が組織されて、子供が左利きを発見すると、四方八方から十手を手にしたガキどもが大量に湧いてきて「御用だ! 御用だ!」 - 英語字幕だと“Police Business!”なのね - って騒ぎたてながら左利きの大人を追い詰めて寄ってたかって縛りあげるとどこかに運んでいってしまう。っていう緩めのディストピアのお話し。子供たちは楽しそうに行進していって、大人たちはうざいな、って思いつつも普段の暮らしをふつーに行っているっぽい。

神戸りん (名古屋愛)が姉を訪ねていったら家にはいなくて、ここのとこ暮らしていた痕跡もないようなのでどうしたんだろう? って探し始める。カフェに行ったりタロットで見てもらうと大切な人と出会うよ、って言われたり、映画館(サッシャ・ギトリ特集がかかっているシネマヴェーラのロビー)に行ったり、学校に行ったり、この辺は『だれかが歌ってる』の変奏のように、あそこでかかっていた鼻歌も聞こえてくるし、誰かをそんなにシリアスに探す、というよりもそのうちどこかで見つかるじゃろ、くらいの温度感で町や原っぱを、いろんな人々の間を抜けていく。

だれも気にとめない、だれを気にする必要もない、しらーっとした世界で主人公の彼女の目だけがまっすぐになにかを見ようとして、その脇を大量の子供たちがひたすらやかましく傍若無人に群れて画面を横切っていく。

かつてどこかにあった「地上にひとつの場所を」ってぶつぶつ言いながらどこかから現れた男が音と光と場所をてんでばらばらにぶつけ合いつつ探したり徘徊したりするゴダールの『右側に気をつけろ』(1987)を思ったり、あるいは『ウィークエンド』のあの殺伐とした原野に鳴るドラムス – と同じような雷神の音を聞いたりしながら、この作品の主人公が最後に見つけたひとつの場所 - 右利きにも十分にやさしい左利きの場所、とは。 「側」ではなく、「利き腕」とはなにを意味するものなのか?

政治的な立ち位置としての右左「側」とか「寄り」の話がまるで利き腕のそれであるかのように理不尽に幅をきかせている - 右利きあたりまえ - の気持ちわるく覆って圧してくる空気に対する市街戦であり空中戦であり、ふざけんなばーか、という子供達によるアナーキーな異議申し立てでもある。恋愛メルヘンなんかではない。

中編だからってあまりに散文調で纏まりがないし、主人公の世界と子供の世界はあまり交わらないし、おならみたいに唐突な電子音も耳にくるし… など「子供」に顔をしかめる「大人」からの賛否は(きっとぜったい)あるのだろうが、でもそれこそが思う壺、これはこれである世界とかその輪郭くらいを作っていることは確かで、文句を言うやつらは子供警察に引っ立てられてしまえ、くらいのことは思った。

ESGみたいにぶっとい女性バンドが出てくるのだが、喜多見にある熊鍋のお店のひとがベースを弾いていた…

11.08.2023

[film] Los delincuentes (2023)

10月25日、水曜日の晩、東京国際フィルムフェスティバル(TIFF)をやっているTohoシネマズ日比谷シャンテで見ました。
邦題は『犯罪者たち』、英語題は”The Delinquents”。180分。作・監督はアルゼンチンのRodrigo Moreno。カンヌのある視点部門で紹介された作品。 すごくおもしろい。

そういえば昨年のTIFFには”Pacification” (2022)があって、こういう長すぎるしよくわかんなそうだから絶対一般公開をされなさそうな - けどおもしろいのに出会う、という楽しみが映画祭にはある。のだがこの映画祭ってほんと相変わらず… あんな代理店とスポンサーまみれの映画祭なんて胸糞悪くなるばかりだからやめちゃえ、ってずーっと思っている – けど映画好きは映画見れるなら、って文句を言いながらチケットを取ってしまうというよくないサイクル。(文句書きだしたら止まらなくなるのでやめる。どうせ絶対に「改善」なんてされないから)。

そもそものタイトルがそうだし、銀行強盗が最初に起こるし、ポスターに出ている男たちの人相は悪そうだし、どう考えてもノワールぽい暗い展開でくると思った、のにそっちには行かない – どちらかというと昼間の映画。英国Guardian紙はPedro Almodóvar + Eric Rohmerって書いていたがそんなかんじのすごく変なやつ。

ブエノスアイレスの銀行でずっと窓口業務をやってきたMoran (Daniel Elías)は日々の仕事にうんざりしていて、でもそれなりに長く勤務して信頼はされているので現金の運搬も任されている。そこで託された現金を隠してリュックサックにいれて外に持ち出し、やはりうだつのあがらない同僚のRomán (Esteban Bigliardi)にそれを託して、自分は自首する。Moranの言うことにゃ刑期は3年半、それだけ我慢すれば、出所後は盗んだお金で好きに遊んで暮らせるはずだ、死ぬまで毎日毎日会社で奴隷仕事させられるより断然ましだろ? って。そして、もし現金に変なことしたら獄中でぜんぶばらしておまえの人生を台無しにしてやるから、ってRománには脅す。

盗られた銀行側 - ボスがGermán De Silva - はMoranが自首したのはよいとしても現金がどこにいったのか、行内のどこかに仲間がいるはず、って社員の尋問や首切りを始めて、お金を置いていかれたRománは自分のアパートでの萎れた生活 – 妻子がいて愛人もいる - を振り返りつつ、うなだれてぜえぜえ息を切らしながら田舎の崖があるところに金を隠しにいく – この辺までが第一部。

崖の岩の下に金を隠したRománは湖の畔で寛いでいる男1人女2人と出会い、彼らに誘われるままに一緒に映画を撮ったりして過ごすうち、そのなかのNorma (Margarita Molfino)と親しくなって、町にやってきた彼女と会ったり - 彼はもう銀行も辞めて家も出ているので自由な時間を過ごすのだが、というのと、やがて出所したMoranがお金が埋めておいた山の方に向かうと..

都市の銀行に勤めてはいても牢獄の壁に向かいあうような日々を送っている彼らが強盗に成功して、自首して牢屋に入った方も – おっかない牢名主も同じくGermán De Silvaが演じている - 牢屋の外でお金を隠しにいく方も、当初想定していたような自由は得られないままでどんよりと頭を抱える第一部から、田舎を舞台にした飲んで歌って映画を撮っての自由で気儘な生活に飛びこむ第二部への転調があって、そのきらきらした楽園の世界に無邪気に馴染めるほど子供ではないので、これはほんとうに望んでいた生活と言えるのか、等を過去や足元を踏みしめながら考える、そういう方に思索を向かわせるドラマになっていて、この点で後半の田園パートは中年(犯罪者)版ロメール/ルノワール、のような変な絵になる。MoranとRomán、互いの名前がアナグラムになっているふたりは鏡を見るようにそれぞれの姿を認めて、最後に同じ女性とぶつかってなにを思うのか。これが果たして求めていたなにか - 自由なのか? など。

レコード盤から何度か流れる”Pappo's Blues” (1971)のごりごりしつこいかんじがまたなんとも。結局70年代じじいの夢なのか? とか。

それにしても、3年半牢獄で我慢して、出たあとの老後が安泰になるのだとしたら、こういうの考えてしまうかも。どうせ年金なんてないのだし。 盗んだ金が見つからない状態で本当に3年半で出てこれるのか、というのはあるにせよ。


11.07.2023

[theatre] National Theatre Live: Good (2023)

10月22日、日曜日の午後、Tohoシネマズ日本橋でみました。『善き人』。

原作はスコットランドのC.P. TaylorがRoyal Shakespeare Companyの委託を受けて書いた同名戯曲 (1981)をDominic Cookeが演出して、Harold Pinter theatreで上演された。

Viggo Mortensenが主演したという2008年の映画版は見ていない。

舞台には奥が角でどんづまった牢獄のようにも見えるなにもない寒々しい部屋がひとつ、登場人物は男性2、女性1だけなのだが、彼らの演じるキャラクターは場面転換など無しに人物、年齢、役割などがころころ切り替わっていくし、それらは背景の音楽や照明が変わることでわかったりもするのではじめは混乱するのだが、戦時下で人格が歪んだり潰されたり豹変したり切り替わっていく - 誰でも誰かに代替可能 - という怖いテーマからすれば、そういうもんかも、になったりする – そしてそのペースに慣れていくのもうすら怖い。

1933年(ヒトラーがフロントに)から1941年(アウシュビッツが作られる)頃まで、約8年間のドイツ - フランクフルトで、文学教授のHalder (David Tennant)と妻Helen (Sharon Small)とユダヤ人の友人Maurice (Elliot Levey)の3人がいて、この3人を(いちおう)中心に置いて、それぞれが官警や役人や義母や恋人や浮浪者などに切り替わったりしながら、時代の節目にどこかの町や家の片隅で行われていたに違いないやりとりをコントやスケッチのように並べていく。そのどーってことのなさそうな蓄積がまさかあんなところまであっという間に行ってしまうまで。

はじめは誰もがヒトラーに懐疑的であんなの.. って思っていたしユダヤ人の扱いについてもすぐ傍にいるのだから悪い冗談としか思えず、まさか自分だけは… そんなふうに緩く適当に受けとめていると本を焼かれたり家に踏みこまれたり水晶の夜を通過したりしていくなか、Mauriceと一緒にいるわけにはいかなくなって、さらに気がつけばHalderはSSの制服をぎこちなく身に纏っていたりして。

David Tennantの一見温厚そうな知識人の佇まい、ちょっと呆けて遠くを眺めて固まってしまう虚無の表情と、同様に時折ロボットのように見せてしまう所作をはじめとして、このキャラクターに応じた変わり身、それに伴う台詞回しの変更をスムーズにこなしていく俳優たちの動きと演技は驚嘆すべきものだと思う反対側で、これと同じように、組織の長やお偉いさんやお得意様が現れた途端に豹変してしまう変な男たちっているし、そういう連中が重用されたりするのも見ているので、あーあそこにいたあれらか? とも思ったり。

Halderは「善き人」であろうとしたのか? というと、ベストセラーになった本『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』を思いだしたりもするのだが、何/誰にとっての「よい/よき」と言えるのか、のありようが異なるのであの本のと単純に比べてはならない、と思いつつも、それを「よき」と認める「こと」なり「人」なりに向かうときの思慮の浅さというかてきとーさは同じようなものなのかも。そうやって認められた「よき」ひとはそれと同じ軽さと速さで「わるき」ひとを選別しようとするだろう。それが「よき」ひとと認知される要件のひとつであればなおのこと。

そして、文学の教授でもあるHalderは勿論そんな簡単に「よき」ひとになるつもりはない。むしろそんな表面的な「よき」を回避したり鼻で笑ったり嫌悪したり、そうしていくうちに周囲にガスのように充満してくる悪に無感覚になっていくのと、そのすぐ横に見えるなんとなく幸せで楽な生活とか、そこに絡みつく虚栄心とか出世欲とか、これらがダンゴになって誰も抵抗できないままに転がり落ちていく、それを恐ろしい、と見るか、周りがみんなそうだしそれはそれでよいのでは – “Good”. と言ってしまうか。 結果、なにがもたらされたのか、と。

今だと、ここに黙っていても大量に流れてくる情報の量とか質とかそれらの操作とかが入ってくるので、「よき」「わるき」の峻別とか判定はワンクリックの相対的なものにしかならなくて、でも人権も正義もそういうどっち側? っていう線引き綱引きなんかではないのだ、って何万回言ったら….

11.06.2023

[film] Writing with Fire (2021)

10月22日、日曜日の昼、ユーロスペースで見ました。邦題は『燃えあがる女性記者たち』。

ここのとこ、あちこち行ったり来たりしていて、どこから手を付けたら状態なのだが、とりあえず書けるものから。

インド産のドキュメンタリーフィルムで監督はこれがデビューとなるSushmit GhoshとRintu Thomasの共同。

2001年のサンダンスでAudience AwardやWorld Cinema Documentary部門でSpecial Jury Awardなどを獲り、他の映画祭でもいろいろ受賞している。いまのこんな時代、なぜジャーナリズムとジャーナリストが必要とされるのか、も含めて考えさせられる。必見の内容。

この邦題、これでもよいけど、中心にいる女性記者たちが燃えあがる・燃えている(→炎上)ように見えてしまうのがなんか。それもあるけど、男女関係なく、燃える意思と共に書いて出していくべき何かとは何か、っていうテーマだよね。

最初にインドのカースト – その最下層である”Dalit”について、更にそこに女性として生まれ育つというのはどういうことなのか、が示されて、そこで生まれ育った彼女たちが2002年、保守的なUttar Pradeshの州で立ちあがった新聞社 - Khabar Lahariya - 翻訳すると”News Waves”に入って自分たちで取材して記事を書いて発信していく。 発行はデジタルのみ、FacebookとYouTubeのチャネルはあるけど、それだけ。取材道具は記者たちに支給されたスマホ1台でぜんぶ。そんな彼女たちの2018年から2019年頃の活動を追う。

まず紹介されるのが主任記者のMeeraで、14歳で結婚して(させられて)子を産んで、育児をしながら義理の親と夫の理解があったので大学の修士まで行ってこの仕事に入ったのだが、へろへろなんも考えていないふうの夫は彼女の仕事について早くやめちゃえばいいのに、とか言うのだがMeeraは相手にしない。

もうひとりはSuneetaで、山奥の村人を苦しめるマフィアによる違法採掘を現地で取材して、どんなに威嚇されてもカメラを回して動じないの – このドキュメンタリーのカメラも入っているからだろうか、かっこいい。のだが、その裏で年間50人のジャーナリストが殺されているインドの現実も示されたり。

あとは、新聞社内の教育担当でもあるMeeraが傍らについて教えていく新人のShyamkaliで、それまでスマホなんて触ったことないので、文字入力から何から、何をどうしたらよいのかすらわからない、という。

カメラは違法採掘の件や、レイプされて殺されてろくに捜査もされないDalitの女性、ヒンドゥー至上主義が台頭していく地方選挙、などの取材現場と、Meeraの育児 - 子供は学校の授業についていけなくなっている - とか、結婚しないので親からプレスされるSuneetaとか、肝心なとこでなくなるスマホのバッテリーとか、取材する彼女たちの日々の苦労を追ってあっという間で、その成果はYouTubeの閲覧数 - 10 million viewsなど、で示される。この辺、ところどころ痛快だったりするものの、どちらかというとはらはらして気が気でなかったりする。気をつけて危ない目に会わないで、って祈りつつ拳を握る。

インドの現在とそれを取材する女性たち、の間を行ったり来たりする構成はシンプルでわかりやすいのだが、ドキュメンタリーとしては、この新聞社を誰がどうやって立ちあげたのか、とか、どう(会社として)運営しているのか、これからもだいじょうぶなのか? なども含めて描いてほしかったかも。

最後、覚束なかったShyamkaliが自分で堂々と操作できるようになったり、いったん結婚で退社したSuneetaが戻ってきたり明るい要素はあるものの、全体を覆うこの先(社会が、世界は)どうなっていっちゃうんだろう感は滲んできて、でもMeeraのいう、ジャーナリズムは民主主義の根幹だと信じるから、という一言が全体を救うかんじ。ごくあったり前の一言を彼女が言うことでものすごくパワフルなものになるのだが、翻って足下の自分の国のジャーナリズムの後進・後退ぶりってどうにかならないのか、なんでガザであんな酷いことが行われているのに、べたべたと権力とスポンサーに寄り添って幼稚で恥ずかしい芸能ネタやスポーツネタではしゃいでいられるのか - どうせ誰も見ていないとか、いつまで居直ってゴミを量産しているのか、などを思う。爪の垢を煎じて…  っていうのはこういう時に使う。

11.05.2023

[film] Numéro zéro (1971)

10月21日、土曜日の夕方、日仏学院のJean Eustache映画祭で見ました。 『ナンバー・ゼロ』。

この作品でこの夏から秋にかけて紹介された彼の作品はひと通り見たことになった。のだが、まったく全部見たかんじがしていない(まだ他にもいっぱいあるし)。彼のフィルモグラフィーを全て制覇すれば、とかそういう話ではなく、彼の映画に向かう姿勢のようなものが少しでも見えてしまった以上、彼の映画を「見た」などと軽々しく言えなくなってしまう、それくらい饒舌にべらべらいろんなことを言ってくる(だけの)映画、だった。例えばロメールの映画も登場人物たちはあーだこーだ喋りまくるのだが、それはストーリーを展開させたり彼ら自身を動かしたりするためのもので、でもEustacheの映画におけるお喋りは誰をどこにも動かしたり連れていったりするようには見えない。 彼らは自分(たち)がいまどんなふうで、なぜここにこんなふうにしているのか/あるのか、その足元をひたすら喋ったり示したりしている、ような。その語りのなかには自分のことだけでなく世界まるごとの歴史や経験も含めてぜんぶあって、我々はそれが照らしだすまるごと全てを映画館の暗がりにうずくまって見る。

このお話は、Jean Eustacheが彼の祖母Odette Robertの語る彼女の半生を2台の16mmカメラを据えて切れ目なしに収めている。祖母がウイスキーを飲んでタバコを吸いながらカメラ(というよりEustache)に向かって喋り、向かいあうEustacheが背中を向けてほぼ黙って話を聞いて、フィルムのリールが切れてカチンコで次に繋ぐところも含めて撮って、要は彼女のいる時間が一瞬でも消えていなくなることのないように配慮されている。配慮、というよりそうやって持続・継続して彼女と共にある時間がそもそもの姿なのだと。

これは通常のドキュメンタリー、とも違って、確かにそこにいる女性はOdette Robertという名の実在した人物なのだろうが、彼女の語りが示す出来事や人間関係に具体的かつ客観的な確かさは一切なく、その証拠らしきものも示されない。

Eustacheが幼い頃からあんなふうに何度も聞いてきたであろう(Odetteの)義母の意地悪な話などはただの法螺話であってもおかしくはなくて、例えば - 比べられるものではないが - ワン・ビンの『 鳳鳴 中国の記憶』(2007)の老女の語りが描きだす凄惨さとか、Frederick Wisemanのドキュメンタリーでお仕事や活動について喋りまくる人々のそれとも明らかに違うし。ここで問われているのは語られる内容の確かさとか精度とかそれがもたらす共(生)感、などではなく、それによって明かされる彼女が生きた時間の不思議さ、その共有が導いてくれるかつてあった時代のフランスの田舎の生活の像のようなもので、そうやって現れてくる世界こそがすべての礎ではじまりで、だからそれは「ナンバー・ゼロ」 - 足しあわされていくことすら拒む消失点、のようなものとしてあるの。

こんなふうに示される世界のバリエーションが併映された彼の遺作『アリックスの写真』(1980) で説明される写真の数々で、ここで取り上げられる写真たちも何ひとつ確かな「現実」との接点や連関を持たないまま、でもはっきりとその輪郭を、そこにいた写真家と彼女に撮られた対象とそれを見て聞くもうひとり、というトライアングルのなかで示して揺るがない。フィクションだなんだ以前に世界はまずそうやって現れるのだ、というのと、映画はそこから始まる - その扉をノックするように - ものなのだ、というのと。

ただそうやって囲われる対象がぜーんぜんつまんない(とはどういうこと? というのはある)そこらの人だったりするとうまくいくとも思えず、その点でOdette Robertによる語りの確かさとおもしろさ - 日々戦争のようなサバイバル劇 - は揺るがなくて、すごい人を見つけたもんだな、っていうか、この魔法のような語りの技に幼時から晒されていたことが映画作家Eustacheを作ったのだろうな、くらいは思う。

あと、語り手が女性であること、というのはあるのだろうか? そんなの偶然に決まっているのだが、『ママと娼婦』にしてもこれにしても彼の目線は最初からそこ、と揺るがずに決められていたのではないか、とか。

[film] The Killer (2023)

10月27日、金曜日の晩、新宿シネマートのでっかいとこで見ました。 Netflixでもうじき見れるものだが、本作に関してはなんとしてもシアターじゃないと。

Alexis Nolentによるグラフィックノベルの原作を”Se7en” (1995)のAndrew Kevin Walkerが脚色して、監督はDavid Fincher、音楽にはTrent Reznor & Atticus Ross、Michael FassbenderがThe Smithsを聴いてばかりいる”The Killer”を演じるという、更にはTilda Swintonさまが”The Expert”、として出てくる、と、想像しただけでざわざわ背筋にくるやつ。なんでこれが配信なの?

全部で6パートからできていて、各パートはThe Killer (Michael Fassbender)が相対したり追いかけたり追い詰めたりしていく相手単位に構成されている。登場人物たちは時折名前で呼ばれることもあるが、”The Killer” - “The Client” - “The Lawyer” - “The Brute” - “The Expert”など、誰が誰であっても構わない匿名性が保たれ - “The Killer”本人は数十は保持していそうなパスポートやスマホやナンバープレートを場面ごとに使い捨てていく - そんな強い匿名性を要求する組織名も機構も掟も明確にはされず、そういう中で与えられたミッションを遂行するだけ。うまくいって当たり前、失敗したら.. ?

最初はパリで、ホテルの向かいのオフィスビルの空きスペース - がらんと廃れたWeWorkのそれ、というのがまたどこか象徴的 - で、The Killerはターゲットが現れるのをひたすら待って、その間ヨガやストレッチをし、マクドナルドで食事をとり、雇い主と電話で話し、などをしつつ自分が仕事にむかう姿勢などをくどくど自分のあたまに向かって何度も言い聞かせる - “Stick to your plan” - “Anticipate” - “Do Not Improvise” - “Trust No One” - “Forbid Empathy” - “Empathy is Weakness” などなど。これってあの顔と声で眉間にシワでシリアスに語っているかのようで、実は80年代の村上春樹的になんも言っていない空っぽ野郎なのかも、という疑念が立ちあがり、その主人公が大事な必殺の場面で集中すべくプレイヤーでかけるのがThe Smithsの楽曲群である、と。 べつにけちつけるつもりはないけど、これだけで実はこいつは中身からっぽのただのぼんくら野郎なのではないか… と思い始めたら止まらなくなってくる。と、彼の方は現れたターゲットを狙いに狙ったその本番でやっぱりしくじって「大変なことになった」とか言っているのでなんかおかしい。

こうして重要な依頼の執行に失敗したあと、とりあえず現場からは退避したもののドミニカの隠れ家に行くと彼の恋人が襲われて病院に入っていて、やっぱり現れた組織からの刺客を追って叩き潰すべく襲撃犯を乗せていったタクシー運転手を尋問して殺し、直接の依頼人であり大学の恩師でもあるThe Lawyer (Charles Parnell)をニューオリンズに訪ねるとNine Inch釘3本で情報を聞きだしてから秘書と共に殺し、フロリダの方に向かって実行犯のひとりThe Brute (Sala Baker)とぼかすか殴りあって - なかなかすごい - なんとかやっつけて、続けてもうひとりの実行犯であるThe ExpertをNYのBeaconに訪ねていって殺し、最後にThe Client (Arliss Howard)にまで辿り着いて…

ここまで、冷酷非情に仕事を遂行する殺し屋、というイメージの外枠こそ保たれているものの、彼が語る薄っぺらい言葉と組織やシガラミらしきものとの摩擦や葛藤 - そこから滲んだり溢れたりする肉欲のようななにか - といったDavid Fincherが過去作で描こうとしてきた生々しい生のありようがぼろぼろにほつれて疲れてやけくそになっていくThe Killerと共に崩れていくようで、でもそれはそれ、この半端なお話には嵌っているようにも見えてくるのがおもしろい。

ここ数作のDavid Fincherフィルムのボディを担ってきたTrent Reznor & Atticus Rossの暴力的な音楽/音塊を嘲笑うかのように隙間にThe Smithsがちゃらちゃらと捩じ込まれてくる(ほぼイントロクイズ状態)のは、人によっては悪夢なのかも知れんが、これもまた。

The Expert = Tilda Swintonさまとの対決はもっと時間をかけて煮詰めて燻してほしかったかも。あれじゃ彼女がなんのExpertなのかわかんないわ。

The Smithsの選曲については、やや無難すぎてつまんなかったかも。最後に流れる曲はやはりあれだったし。”I Started Something I Couldn't Finish”とか、”Still Ill”とか、”Cemetry Gates”とか、”Half a Person”とか他にもいっぱいありそうなのに。主人公のありよう的にはMorrisseyの曲の方が合う気もするのだが、そこはやはり違う、ということか。


少し長めのお休みを貰ったので、青森行って京都行って大阪行って奈良行ってきました。ほぼ美術館ばかり。どこ行っても暑くて調子くるった。