12月17日、日曜日の昼、ユーロスペースで見ました。
邦題は『枯れ葉』、英語題は”Fallen Leaves”。 突然のようにカンヌのコンペティション部門に出品されてJury Prizeを獲って、あ、生きてた.. ってみんなが思ったやつ。
もう映画は作らないと言っていた(← こういう発言を信じられるひととあんま信じられない人の二種類があって、この人は明確に後者)Aki Kaurismäkiの作、監督によるフィンランド・ドイツ映画。
冒頭のスーパーのレジの場面、工事現場の場面の色合いと落ち着きよう(のようななにか)から、あー帰ってきたわおかえりー、になってしまう不思議。なんの成分が入っているのかなにが違うのか。
スーパーで賞味期限切れ食品の管理(シール貼り)などをしているAnsa (Alma Pöysti)がいて、彼女の仕事を棚の影からチェックしている暗い目の太った男がいて、彼女が賞味期限切れの食料を街角に暮らす人々にあげたり、自分で持ち帰ったりしたのを指摘すると彼女はふざけんな、ってクビを言い渡される前に職場を蹴って出ていく。(かっこいい)
彼女がひとりで暮らすアパートに戻ってもTVもなくて、ラジオをつけるとロシアのウクライナ侵攻のニュースが聞こえてきてみるみる食欲も失せてしまうし、お先は真っ暗なの。(すごくわかる)
工事現場作業員のHolappa (Jussi Vatanen)は分厚い作業服をまとって肉体労働を続けているのだが、喋るのは「気が滅入る」、っていうのだけ、服とか現場の隅とかに酒瓶を置いていて手を休めるたびに水を飲むように酒をごくごく飲んでいる無自覚のアル中で、これを指摘されると、そうか、ってすたすた現場を出ていく。(身軽でよいなー)
こんなふうに行き場を失ったAnsaと同僚に連れられて飲みにきたHolappaが盛りあがっているのか荒んでいるのかちっともわからない変なカラオケバーで出会って、ぜんぜん会話が弾んでいるように見えないのに映画館でデートをすることにして、名画座でJim Jarmuschの”The Dead Don't Die” (2019)を見たりして、すごく盛りあがったわけではないようだがまた会おうって連絡先を書いた紙を彼女から彼に渡すのだが、彼はやっぱりそれを無くしてしまって会う前の無風状態に戻ってしまう。
とりあえず手にする仕事はろくなもんではなくて、日々の不満や不安がたっぷり、まず食い扶ちが先、恋なんてあるわけないと思っていたふたりが、このダウンしてローな状態を維持したまま再会して、Ansaの部屋であまり目を合わせずに食事をして互いの手をとったりぎこちないキスをするようなところまで行くのか。 もちろんそこには難病も奇跡もないし未来なんてあるわけない。ウクライナのこともあるし世界は真っ逆さまに堕ちていく。こんなもんだけど、そこにはなにがあるのか?
Ansaが拾った野良犬のたまんないノラっぽさも含め、すべてがなんともいえないゆるやかな下降線の軌道上やその隙間に、吹き溜まった不機嫌と共にどうにかこうにか生きているようで、でも彼らの顔色や仏頂面の(無)表情、服の色(すてき)、歩き方、などなどすべてが間違いなくそこに在って、どこかの町で見たあなただったりするこの感覚はなんなのか、これこそがKaurismäkiだ!っていろんな人が言っていて、それはわからないでもないのだが、なんなのだろう?
19日のアテネフランセでの清水宏の上映イベントで言われていた、顔や表情の造作に頼ることなしに、ここにしかいない存在を映画のなかに存在させるために撮るような撮り方、ってこういうのかも、とか。そしてこうしてあるようなありかたこそがロケンロールでありパンクなんだ、と彼はいうのかも。
バーで演奏していた女の子2人組バンド – Maustetytötによる主題歌?- “Syntynyt suruun ja puettu pettymyksin” - 英訳すると”Born in sorrow and clothed in disappointment” – の地を這うそっけなさがたまらない。地霊のように突然出てきて流れを変えてしまう劇中バンドとしては“Yes Man” (2008)に出てきたMünchausen syndrome by proxy以来ではないか。
いまはもうウクライナだけではない、パレスチナの人々もいる。ますます無口になって空を見上げるしかない。
12.22.2023
[film] Kuolleet lehdet (2023)
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