12.20.2023

[film] ほかげ (2023)

12月16日、土曜日の午後、ユーロスペースで見ました。

塚本晋也の作・監督による『野火』(2014) -『斬、』(2019)に続く三部作の最後。二番目のは見ていない。ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門に正式出品されている。 制作は監督自身の海獣シアター、音楽は石川忠(の遺したものを使っている?)。
「ほかげ」とは「火影」のこと。英語題は”Shadow of Fire”。

終戦後、周囲には何もない(ほぼ室内のみなので映らない)ぼろぼろの居酒屋のなかで死んだように横になっている女(趣里)がいて、家主と思われる男(利重剛)が一升瓶を持って現れて、彼女の体を気遣うふりをしつつ凌辱するとそのまま出ていく。彼女はそういうことをして or させられ続けてほぼ死んだ状態なのだが、店内に盗みに入ろうとした身寄りのない子供(塚尾桜雅)を捕まえて「坊や」と呼んで飼うように食べものを与えたりし始めて、そこに彼女を買いにきた – けどだめだったので「またきます」と言いながら何度も繰り返し現れる復員兵(河野宏紀)が加わり3人で疑似家族のようなものができる(→『ゴジラ-1.0』?) のだが、警報の音で兵隊は突然狂暴になって女を殺す直前まで行ってどこかに消えてしまう。

その影響で彼女と坊やの間も気まずくなって、坊やはやさしいおじさんがいるから、と拳銃を持ってそこを出ていく。

そのおじさん(森山未來)と坊やがふたりで野山を旅していくのが後半で、おじさんの正体も目的も得体がしれなかったのだが、ある家の前に来て、そこで寛いでいるその家の当主の姿を見ると彼の顔色が変わり、坊やにそいつを呼びに行かせて、坊やが持っていた拳銃を …

名前をもたない主人公たち、名前が呼ばれるのはかつての上官が殺した兵隊たちのそれのみ、死ねなかった/生き残った人たちはみんな悪い、怖いひとになってしまった... という決して終わらない終われない戦争、戦後の地獄を描いている。というのがふつうの見方、なのかしら。

でも、そういう内面で燻ぶって消えない業火、それがもたらす災禍や混沌を描いてきたのが監督の作品であることはわかるのだが、PTSDを患う人たちの挙動をホラーのように描くのはどうなのか?

家屋の暗がりとかその向こうで変な音を立て、痙攣する獣のように、ゾンビのようにもがき苦しむ人々の姿をああいう風に描くことで我々の中に引かれてしまう線、が気になる。実際に人格も記憶もどこかにいってしまって危害を加える可能性がある人たち、それゆえの、どちらにとってもの地獄なのかもしれないけど、彼らを作ったのは天変地異でも超常現象でもなく、我々ひとりひとりが、当時の政治家や軍人が引き起こした戦争なのだ、ということを描かないと、あの時代の戦争にあったこと、だけで片付けられてしまう – or こないだの『ゴジラ-1.0』のように仮想の敵、理想の軍を充ててあげることで再びの戦前へ(これ、ここがいまのこの国)。

こうして生き残った彼らに引かれたのと同じ線は死んでしまった彼らにも適用されて、例えば犬死にだった特攻隊をきらきらの英雄に変えてしまう。

おじさんと別れた坊やは闇市の混乱をサバイブして、彼女のところに戻ってみるのだが、彼女は襖の向こうにいて病気だから来てはいけない、見てはいけないと強くいう。向こう側に隔たれアンタッチャブルとされる死のイメージ。 でもほんとうは、それを見据えるべきだったのでは。

こんなふうにすべてが閉じて荒れてささくれた部屋だか家屋だかの箱庭に幽閉されて、そこでの人も含めた荒廃がいかにもな「戦後」の表象として提示される。これならもう十分わかっているって。こんなふうに壊した人、壊された人や町はこのあとどうやって「復興」できたのか、結局棄てたのか、なだめたのか、ごまかして忘れさせたのか、それをどんなふうに家族や社会は受容していったのかとかそのへん。「戦争責任」という80年代の子達があまり触れたくなかった大文字の辺りを今は無理やりにでも掘ってみるべきなのではないか。ウクライナやパレスチナを見ていて、どうすることもできない無力さに囚われてしまう前に。

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