11月30日、木曜日の晩、シネマート新宿で見ました。
春画についての美術ドキュメンタリー。監督は平田潤子。
少し前にやっていた「春画先生」というフィクションの方は、映画としてはよいのかも知れないし評判もよさそうだったのだが、大筋を聞いただけでちょっと無理、これならまだホラーのがまだまし、って思ってしまって見ていない。昭和?
アートとしての春画を、鈴木春信、葛飾北斎、喜多川歌麿、鳥居清長といった画家、彫師、摺師まで含めてなんであんな「もの」とか「こと」を、あんな形象に描いたり彫ったりしたのか、というのと、その異様な、奇想なあれらがどんなふうに、なんで時代を超えて伝播していったのかという流通のはなしと、それらが現代のコレクターや研究者、画家や愛好家たちから見てどんなふうに見えたり熱中させたりするのか、という3軸くらいで見ていく。
大きな話題となった大英博物館での春画展の話や海外のコレクターも出てくるが、春画ってこんなにすごい、日本の(伝統)美術すごい、という熱はそんなにはなくて、なんであんなこと・こんなことをこんな変てこふうのびろびろで描いたのか、現代まで残って大切に保管されてきたそれらを改めて眺めて、なんなのこれ? のようなクールなトーンで貫いているところは好感が持てたかも。美しい、というより相当におかしく変な絵もいっぱい出てくるので、いろんなことを考えさせられる。
自分は大英博物館の展示はぎりぎりで見逃して、永青文庫の時には通って、もともと浮世絵の紙の肌理が好きだったので春画もおおぉう! だったのだがひだひだとかちりちりとかよくもまあ、という感覚は来て、みんながよく言う- 映画のなかでも語られる(にっぽんの、日本人の)性に対する「おおらかさ」については、何に対しての「おおらか」っていうのか、そのニュアンスって「ウェルカム」なのか「無頓着」なのか「放置」なのか「どう受けとめようが勝手じゃ」なのか、とか、エロへの「おおらかさ」とは別に、虐めとか凌辱とか差別とか暴力とか村八分についてもおなじ温度感(態度)の「おおらか」なのだろうよ、とか、その表裏でどこまでも隠蔽してぜったいに「恥」の部分を見せないようにする、っていうのも同じようにあるよね、そんなポジティブに語れることでもないような。
あと、これら - いまの世に残って収集されているような絵って、それなりに当たって刷られて流通した、ということで、こういうのが売れてみんなが嬉々として眺めて悦んでいた、ってどういうかんじなのだろうか。同じ日の少し前に見た『月夜鴉』での、階級社会(春画って平安の頃からあったらしいのでその頃からにしてよいのか?)を貫く串刺しで横断できるはけ口として機能した春画、という側面はあったのだろうか? いまの公共の場やスマホやWeb上に有無を言わせずうんざりするようなエロが流れてくる/流しておいて平気な神経もこれと同じようなことなのか(やや乱暴すぎかな)。
あと、春画の来歴やディテールについて解説・説明をする(だいたい)初老の男(複数)の説明する語り口みたいのが - リアルな春画先生なのだろうが – なんかどうにもやらしく見えて、他にどうしろっていうのだ、かもしれないけど、あれってなんなのだろう、と少し気になった。聞き手の性に関する知識の有無やその粒度を測ったり探ったりしながら自分と同じ知覚や感覚の地平に立たせようと誘導しているような。西欧の風景画を説明するときに、あんなふうな語り口になるだろうか? とか。これって、絵を理解するとはどういうことか、みたいなところにも繋がっていくのだと思うが、はて、ここでの「理解」とは?
他方で、そういうのから離れた(ジャンプした?)ところにあるとしか言いようのない奇想系の絵の奇想天外な、ファンタジーとしてのおもしろさと楽しさ。あはは、って笑ってそれで終わりにできるのが理想、なのかな、とか。
結局、ひとが春画を見るとき、そこに描かれていない裏や奥や隠や襞なども含め、実はものすごくいろんなものを見ようとしているのではないかと、そんなことを思うひとが一番不純であるに決まっている。
12.06.2023
[film] 春の画 SHUNGA (2023)
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