7.31.2020

[film] How to Build a Girl (2019)

7月25日、日曜日の晩、Amazon UKで見ました。見たかったから。

日本でもまもなくようやく公開になる”Booksmart” (2019) – これは必修 – でも炸裂していたBeanie Feldsteinさんのガリ勉女子コメディ、の続編でもなんでもないけど偶然とも思えない、舞台を英国に移して進学ではなくお仕事をテーマにしたドラマ。

英国のジャーナリストCaitlin Moranさんの自伝的小説の映画化、なので、はじめに”True(ish) Story”とでる。”Booksmart”とおなじくらいおもしろくて、これも必須。

90年代初めのWolverhamptonで、16歳のJohanna (Beanie Feldstein)のおうちはずっとミュージシャン(ドラマー)になる夢を抱いたまま失業中の父と産まれたばかりの双子を抱えて死にそうな母と他に男兄弟ふたりがいて貧困などなど完全にどん詰まってて、図書館の本はぜんぶ読んじゃったしつまんないなんかやりたいって腐っている。彼女の部屋の壁にはフロイト、マルクス、ボウイ、エリザベス・テイラー、ブロンテ姉妹、シルヴィア・プラス、『サウンド・オブ・ミュージック』のマリア、『若草物語』のジョー、等の肖像が貼ってあって、いろいろアドバイスをくれる。(「死にたい~」って叫ぶとシルヴィアがいいやり方あるわよ、とか)

ある日、音楽雑誌のレビュー募集の広告を見た父親がこんなのどう? って言ってきたので『アニー』の“Tomorrow”のレビューをさくっと書いて送ったら返事が来て編集部(雑誌の名前は“D&ME” - Disc & Music Echoだって。原作者が入ったのはMelody Makerらしいけど)に来いという。張りきって行ってみると、あんなのでレビュー書いてくる奴がいるとは思わなかったので興味本位で呼んでみただけ、って言われてトイレで泣いていたら壁に貼ってあるポスターのBjörk(あんま似てない)が話しかけてきて、ケルアックの『路上』なんて読んではだめ、今あなたが読むべきなのは『大草原の小さな家』なのよ! とかよくわかんないアドバイスをくれて、それで編集部にくいさがってお試しでライブレビューを書かせてもらう。こうして初めて行ったライブ - Manic Street Preachersが”You Love Us”をやってる – で火がついて(まあ、つくよね)熱狂的なレポートを送ったら採用されて、ライブレポートで食っていけるくらいになる。

で、今度はちゃんとしたインタビュー記事を書かせてください! って頼んでアイリッシュ系シンガーのJohn Kite (Alfie Allen)の担当を任されて彼と話したりしているうちによいかんじになってべったべたに甘い記事を書いたら却下されて切られて、それに反発して書いたやけくそ毒舌系のレビューが当たり、彼女は人気ライターDolly Wildeに変身して大見得きって歩いていくようになる(彼女のスタイルのモデルは4 Non BlondesのLinda Perryさんかな?)。

でもそんなふうに彼女が吐きまくった毒はやっぱり自分に跳ね返ってきて..  (王道)

脇目もふらずに爆走して舞いあがり、でも後に正気に返ったらいろいろ見えてなかったことに気付いて唖然.. という起伏の激しいキャラクターを演じたときのBeanie Feldsteinさんはとにかくすばらしい。のだが、他方で彼女をそんなふうにもてあそんだロック業界の男社会ミソジニーについてきちんと触れてもよかったのでは。 Britpop前夜の男祭りのノリのやーなかんじとか。 最後に登場するEmma Thompsonさんとか。 たまたまだろうけど、Q Magazineの廃刊と重ねてみたり。

小娘小僧が音楽業界でのしあがっていく自伝ベースのcoming-of-ageドラマというと、みんな大好き”Almost Famous” (2000)があって、担当しているミュージシャンとの確執とか似ているところもないことはない、けど「あの時代」の音楽への愛に溢れていた”Almost..”に対して、こちらは直球のGirl負けんな、になっていてそれがちっとも暑苦しくない。でもやっぱり別の映画かな。英国家庭ドラマという線で見れば、この間の”Blinded by the Light” (2019)の方が近いかも。

あと、90年代の音楽誌編集部に貼ってあるポスターとか流れている音楽とか、Carter the Unstoppable Sex Machineとか、 The Sultans of Ping FCとか、Stereo MC'sとか、あったよねえ、って、懐かしさたっぷり。なんか、90年代初に割とあった気がするごりごり無理強い、言ったもん勝ちみたいな毒舌カルチャーって現代の誹謗中傷あたりに受け継がれているのかなあ、とか。

音楽はたまんない。最初からElasticaの”Connection”ががんがん流れるし、お茶の間のTVからはHappy Mondaysの”Kinky Afro”が流れてるし、The Auteursとか、Jeff Buckleyまで。ぜったいあってもおかしくなさそうなThe Smithsがないというのは..


もう8月かあー。 の後にえんえんグチを言い続けたいかんじ。

7.30.2020

[film] Happy-Go-Lucky (2008)

23日、木曜日の晩、Criterion Channelで見ました。貼ってあったSally Hawkinsさんの笑顔が素敵だったのと、なによりもHappy-Go-Luckyになりたかった気がする(今も)。 日本では東京国際映画祭で上映されたのみ?

London – Camdenの辺り? - で友人とフラットをシェアして暮らしているPauline - "Poppy" (Sally Hawkins)がいて、特に表明するわけではないけど基本は鼻歌歌ってハッピーで楽しいモードで過ごしたいと思っていて、自転車こいで本屋に入ってご機嫌で挨拶して無視されたって平気だし、そこを出てきたら自転車が盗まれていてもちぇっ、くらいのノリでやっている。

女友達数人でライブに行ってわーきゃー騒いで(Pulpの”Common People”)、そのままだらだら飲んで喋って笑って朝まで、みたいな日々、でも別にいいかーって。

そんなふうに日々を過ごしていてもなんか端々に見える影みたいのがあって、それってなんなのかしら? って。不幸を呼びこむ不吉なホラーななんかではない(たぶん)のだが気になる。(わかる)

小学校の先生をしていると、休み時間に馬乗りになって虐めをしている男の子がいるし、車の教習を始めて迎えに来てくれる先生のScott (Eddie Marsan)は自信たっぷりで教え方もよいみたいだけど、すぐにレイシストみたいなこと言って沸騰してキレるのでこわいし、夜中に道端に座ってぶつぶつ言っているホームレスみたいなおじさんのことも心配になるし、友達の自宅新築祝いに行けば夫婦喧嘩が始まってはらはらするし、気がつけば腰のあたりが痛いし、こんなのは日々周りにあってカタストロフになることはあまりないと思うし、心配していったらきりないし見なかった聞かなかったってやり過ごすのが無難であることは十分承知しているのだが、なんかどこかおかしいんじゃないか。

なにごとも前向きにポジティブにがんばろう、えいえいおー! までは行かないしそれを標語みたいに振りかざしたり推進するつもりもない。ただなにやら不機嫌らしい向こうの誰かが(おそらく)意識しないところで肘鉄みたいなのをくらわしてくる、上に乗っかってこようとする呪いみたいなあれらってなんなのか。(ほんとに)

というこまこました内容のPoppyの戦いを不穏、というほどでもない緊張のなかで描いていって目を離すことができない。30歳でシングルで、そろそろ素敵な彼でも見つければさ、ってそういう線も少しだけ描かれるのだが、そういうことではないのだ、って断固。

ひとつひとつの圧とか突っかかりに対して明るく真面目に返していくPoppyがいつブチ切れた相手にやられてしまうのか、あるいは自分で壊れて/壊してしまうのか、あるいはひょっとして宙返りして解かりあえてしまったりするのか気が気でないのだが、その緊張関係を保ちつつ、不可解でGrumpyでUnhappyなそれらの周りをゆっくり回っていく。これがわたしの生きる世界。

妥協も遠慮もする必要はないし(向こうもそうだろうし)、日本だと愛嬌とか気配りとか異次元からの圧(ハラスメントだよ)とかミソジニー野郎共が狂喜してぶつかってくるのだろうけど、勝つ必要も負ける理由もない、Happy-Go-Luckyでいいの。

ほーんとにさあ、向こうから不機嫌に当たってくる奴ら、なんなんだろうね? (映画とは関係なく)

よくありがちな応援歌、みたいなのに落着したらやだな、ていうのもあったのだが、それもなくて、そこはSally Hawkinsさんのすばらしさだと思う。その笑顔に半魚人でもゴジラでも寄ってくる。

もうちょっとがんばったらロメールの世界にできたかもしれない、けどそれってそもそもこの21世紀には無理なやつなのかも。 あと、こんな世界をお酒の力でなんとかしようとしてなんとかしてしまう極めてアジア的な"Happy-Go-Lucky"がホン・サンスの世界なのかもしれない。知らんけど。

ラストシーンがほんとよくて、池でボート漕ぎたいよう、になる。


ここのところずっと涼しかったのだが、今日の午後になって真夏が戻ってきて暑くなる。これが7月の最後の、木曜日にきたということ。

[film] Walk on the Wild Side (1962)

22日、水曜日の晩、Criterion Channelで見ました。7/31で去ってしまうリストからひとつ。
邦題は『荒野を歩け』…  西部劇でもなんでもないのに。都市のノワール/メロドラマなのに。

2011年にMoMAで”Saul Bass: A Life in Film & Design”ていう本の出版を記念したイベントがあって、Chip Kidd氏とかが講義をしてくれたのだが、そのオープニングで、まあこれを見てみ、ってかんじで流されて観客全員がすげーってどよめいたのが、Saul Bassによるこの映画のオープニングロール - 黒猫と白猫の土管バトル(実写)だった。ここだけでも見る価値ある伝説の1本。いや本編もおもしろいけど。

大恐慌時代の西部を旅しているDove Linkhorn (Laurence Harvey)がある日の寝場所を探して土管に来たら先に寝ていたKitty (Jane Fonda)とぶつかって、やがて一緒にヒッチハイクしたりしてニューオーリンズを目指すことになる。Doveがなんで、なんのためにニューオーリンズに向かうのかわからなくて、ふたりきりの時にKittyが誘いをかけてものってこない。

ニューオーリンズに着いて最初に入った食堂でKittyは盗みを働こうとしたのでDoveは彼女を野良猫みたいに追い払って、そこの女主人Teresina (Anne Baxter)のところで下働きをしつつしばらく世話になることにする。ここで始めてDoveは離れ離れになって消息が途絶えている自分にとって運命の彼女 - Hallie (Capucine)を探しにきたことがわかる。

そのHallieはフレンチクォーターのJo Courtney (Barbara Stanwyck)が女衒をしている売春宿で高級娼婦として働いていて、でもそもそもこの世界に馴染めていないのでその境遇に絶望して離れたがっている。ここをJoが彼女個人の愛みたいなのも含めてなんとか引き留めているところ。そこに新聞の尋ね人欄でようやく消息をつきとめたDoveが現れて、Hallieはあたしはこんなふうになっちゃったのだからだめよ、って諭して追い払うのだがDoveはどうしても諦めきれなくて、館のやくざに何度ぼこぼこにされても戻ってくるの。

他方でKittyはDoveと別れたあと刑務所にいたところをJoのお店に引き取られていて、JoはDoveとKittyが知り合いだったことを知ると、それをネタに(未成年のKittyを連れまわしてここまで来たことを警察に言えば逮捕されるぞって)Doveを脅して、これ以上関わるなHallieには近寄るな、ってやくざ&警察を背後に並べていう。

でもやっぱりDoveは諦めきれなくて..

ノワール、と書いてしまったが、業や罪を背負った宿命の男女が闇のなかで破滅に向かって歩んでいくのとはちょっと違って、互いにとっての光であり宿命であるHallieとDoveはどこまでも一途に互いのことしか信じられなくなっていて(それしかできないくらいに傷ついていて)、それ故に彼ら周辺のドラ猫模様 - 膝から下を失っているJoの夫とJoの愛憎とか、どこに行っても除け者のKittyとかとの対照 - が際立ち、そいつらがフレンチクォーターの湿った空気のなかで違いに引っ掻きあって傷だらけのぼろぼろになっていくメロドラマなの。

これもまた”Desire”行きの路面電車が走っているフレンチクォーターの、これもまた無情に壊されてしまう無垢な夢の物語で、どこまで果てなく悲しい土地なのだろうか。食べ物と音楽はすばらしいのに。

中心にいるふたりの薄く儚い透明なかんじもよいし、脇をぐるぐるまわるBarbara Stanwyck, Anne Baxter, Jane Fonda - 見事に全員猫だ – もすばらしくよいの。

あと、あの結末はあれでよかったのだろうか、ていうのはちょっと思う。いまだに思う。

7.28.2020

[film] Flannery (2020)

20日、月曜日の晩、Film ForumのVirtual Cinemaで見ました。
今ここに来ると”Shirley” (2020)と”Flannery” (2020) – ひとつはフィクションだけど- を見ることができるよ。韻ふんでるし。

ジョージア州生まれの作家Flannery O'Connor (1925-1964)の評伝ドキュメンタリー映画。フルタイトルは“Flannery: The Storied Life of the Writer from Georgia”。ナレーションとFlannery の声をMary Steenburgenが、枯れたTommy Lee Jonesが「ぜんぶ読んでる」(いかにも)とか。

当時のコスモポリタンタウンだったサバナでアイリッシュ系の両親の元に生まれて敬虔なカトリックとして育ち、サバナ – アトランタ - ミレッジヴィルと転々としつつカートゥーンばかり描いていた少女時代 - 素敵な絵が多いの – から、Iowa Writers' Workshopに参加してPaul Engleと出会い、彼はそれまでフォークナーもカフカも読んだことのなかった彼女にリーディングリストを作ってあげたりして、その後NYのサラトガ・スプリングスのアーティスト・コミュニティ(Yaddo)で後に”Wise Blood” (1952)となる元の小説を書きあげる。

作家としてのキャリアを確立してからのことは、TVのトーク番組でのインタビューフッテージ等を中心に彼女のモチーフやスタイルがどう作られていったのかを見ていく。NYで世話になったRobert FitzgeraldとSally Fitzgerald夫妻の元で、Westの108th stに暮らして、Metのクロイスターズに行った、というあたりはおもしろいねえ(ゴス観点で)。

その後はミレッジヴィルの実家に戻って作家として家族と孔雀と暮らし、Lupus – 全身性エリテマトーデスに苦しめられつつ執筆活動を続けて、デンマークから現れたErik Langkjaerとの儚い恋とか、その辺も綴られる。あと、Alice Walkerは彼女の住んでいたところのほんの近所に住んでいたって。

終盤は昨年出版された生前の書簡集 - “Good Things Out of Nazareth: The Uncollected Letters of Flannery O'Connor and Friends”でも話題になった、彼女は実際にレイシストだったのか、等について。

過去の作家の作品を現代のレイシズムの目線で測定・裁定みたいのをすることについて余り興味はなくて、だってそれで選別して過去の作品を読むわけではないし、当時書かれたものを読むとき現代の我々にはそういうギャップが必ず見えるものだからそこはnoteして、それでも耐えられないのだったら読むのをやめればいいだけだから。プライベートな書簡でNワードを使っていたからどう、というのはちょっと短絡ではないか。 まず小説を読もう、そこで聞こえてくる複数の声が、その小説が描こうとした土壌や規範の上でどう機能し、バランスし、生きているのかを聞こう。 わたしは映画のなかでHilton Alsが語るように「彼女はBrilliantなレポーターであり、レイシストではなかった」と思う。 カートゥーン描きを志していた頃からその描写の姿勢と態度は一貫していたのではないか。

彼女の作品が見せてくれるバランス - それを編みだす構造 - 緊張関係は人種のことと、もうひとつはカトリック的な聖性・厳格さと見世物小屋的なグロテスク・野蛮の間にも見ることができる。こんなふうな変てこで奇妙な共存・共棲関係のなかで描かれる世界絵巻。 これって「南部」で括っていいの ?

こういうのを見てしまうと、彼女の小説を読み返したくてたまらなくなるのだが、Flannery O'Connorの文庫本は日本に置いてきてしまったの(Shirley Jacksonのも)。イギリスにはイギリスの(同じようなの)がいくらでもあるんじゃないか、って。 しみじみばかだった…

彼女、39歳で亡くなっているのね。すごく年をとった人だと思っていた。

音楽はLucinda Williamsと、エンドロールでBruce Springsteenの”Nebraska”がしっとり流れてよい。

映画のなかでも紹介されているJohn Hustonの”Wise Blood” (1979)、見なきゃ。


お買い物に出たついでにスタンドで廃刊となるQ Magazineの最終号を買ってきた。過去のインタビューや記事の集成みたいだが、表紙をめくるとM.E.Smithがベロを出してて、巻頭はLou Reed、Joni MitchellにPrinceにNina Simoneまであってお得かも。
創刊は1986年なのね。英国音楽への興味が薄れ始めたのがこの頃からだったかも …

[film] OUT 1 : Noli Me Tangere (1971)

“Woman Make Film”の14時間の次に何を見るべきか、はもう決めていて、これ以外には考えられなかった。

米国の(英国ではやってない)のMUBIで、18日土曜日の昼にEP1-2を、19日日曜日の昼にEP3-4を、25日土曜日の昼にEP5-6を、26日日曜日の昼にEP7-8を見ました。全部で773分。

こういう時期でもあるので一気に見る、という手もあったのかも知れない。でも内容によるよね、とも思い、最初のEP1-2を見た後でこれは分けて見ていっても大丈夫かも、と思ったので。

とにかくこれはずうーっと見たかった一本で、日本でクラウドファンディングでの上映のが来たときもすぐに申し込んで楽しみにしていたのだが最初の上映会が延期になって、その間に自分は英国に渡ることになってしまったので泣いた(後で特典だけ実家に転送されていることを知る)。

見る前もわかんなかったらどうしようとか、長すぎてついて行けなくなったらどうしようとか、少し悩んで、でもStar WarsのEP1からEP9まで見るのよりは短いしな、とか思って踏みきる。

これからこれを見たい、見ようと思っていて楽しみにしている人はここから先は読まない方がよいかも。 以下はただのメモ。

EP1: From Lili to Thomas

日付は最初に"13 April 1970"、とでる。日付が表示されるのはここだけで、どれくらいの時間間隔でこの話が進んでいったのかはわからない。同様に人の名前も、名札が出るわけでもないので彼/彼女がそう呼ばれたときに知る(複数の呼び名をもつ人もいる)。全体として、時間をかけて誰がなにをやっているのか/やろうとしているのか、誰と誰が繋がっているのか/過去に繋がっていたのか、等がいくつかの人や集団の会話と行動からだんだんに浮かびあがってくる、それがひとつのでっかい話なのかその一部なのか、個々が絡みあっているのかいないのかもわからない、なので最初はなにがなんだか、何についてのお話しなのかさっぱりわからない。でもおもしろいったらない。

最初は太鼓の音(テープ)に乗って男女5人のグループがダンスのようなパフォーマンスのような、のレッスンだかリハーサルをしている。どういう団体なのかはわからず演出してリードしているのはLili (Michèle Moretti)で、指示は細かいもののどこを目指しているのかはわからない。ずっと後になって彼らはAeschylusアイスキュロスの”Seven Against Thebes” - 『テーバイ攻めの七将』- を上演しようとしていることがわかってくる。

もういっこ、別の演劇グループのリハーサル風景も出てくる。こちらも男女6人くらいで、最初のグループよりはより前衛・即興風味がつよく、呻いたり痙攣したり転げまわったり舐めたり噛んだりやや激しくて、少し年長のThomas (Michael Lonsdale) がリードしている彼らはAeschylusの”Prometheus Bound” -『縛られたプロメテウス』を上演しようとしている。

どちらのグループも休憩中の風景(編み物したりフルート吹いたり)やリハーサル後の振り返り会でどこが難しいか、どこに注意すべきか、どうしたら巧くできそうか、等を全員でディスカッションする様子まで映しだす。それぞれの劇のテーマとその上演は彼ら全員が真剣に取り組んでいるなにか、そうする価値があるなにか、であるらしい。

このリハーサル映像と並行してカフェで「わたしは聾唖者です」の封筒をテーブルに置いてお金をせびるColin (Jean-Pierre Léaud)がいて、恵んでくれないとハーモニカをえんえん吹きまくるのでみんな嫌な顔をしてて、部屋でスタンプを押してこの封筒を準備する彼の姿が繰り返される。

もうひとり、街のカフェとかに現れてそこの客と話をしたりしてお金を持っていくコソ泥のようなことをしているFrédérique (Juliet Berto)がいて、彼女は部屋に戻るとピストルを手にしたりしている。

EP2: From Thomas to Frédérique

”Prometheus”をやっているグループのディスカッション - ゲーテのこと、シェリーのこと、神のこと、ベケットのこと、Prometheusを通して何を伝えるのか、エテオクレースやエリーニュスのこと、Violenceのこと、などなどの議論が続き、その合間合間にFrédériqueはいろんなカフェに出没していろんな連中と会話したりして、彼らの言葉の端と金を拾っていく。同じようにColinは、渡されたり拾ったりしたメモから何かに気づいたのか閃いたのか黒板に書きだして考え始め、Balzacの”Histoire des Treize” (1833 -1839) -『十三人組物語』に辿り着く。

EP3: From Frédérique to Sarah

Colinが大学の教授(Éric Rohmer !)に手紙を書いて、面談で”Histoire des Treize”(以下The 13)について3つの質問 – 構成される3編の主人公たちの役割とか、実際の事件が影響していたのかとか、現代でもここで描かれたようなアソシエーションはあると思うか、について聞いて、その内容を踏みしめつつ黒板で”The 13”について考えていく。そういう探索のなか"The Corner of Chance"ていう若者がだらだらしている店の前に辿り着いて、そこの店主Pauline (Bulle Ogier)に「the 13を知っているか?」ていうメモを渡す。あと、彼が両親に電話して記者証がほしい、という(ここで彼が喋れることを知る)
そしてFrédériqueはカフェやバーやホテルで小競り合いを繰り返しながらかっぱらいを続けている。

リハーサルはどちらのグループも壁にぶつかっているふうで、”Prometheus”のグループのThomasはSarah (Bernadette Lafont)を呼ぼう、と言って海辺の家(The Obade)に彼女を訪ねる。彼女はグループへの参加について了解する。

EP4: From Sarah to Colin

“Prometheus”のグループにはSarahが加わり、”Seven Against Thebes”のグループにはどこからか現れたRenaud (Alain Libolt)が加わる。
ColinはPaulineの店に出入りするようになり、彼女に”The 13”のことを聞く。その店にはSarahも 出入りしていたり、いろんな糸が見え始めたような。
Frédériqueは、家のリビングでひとりチェスをしていたEtienne (Jacques Doniol-Valcroze)のところにあがりこんで話をして(すごいな)、彼が飲み物を作っている間にカップボードから手紙を盗んで出ていく。この手紙を使って脅したりできないか、って。

Thomasの家での会話から「彼ら」の計画の頓挫とここ6ヶ月くらいずっと動きがないことがわかる。
ハーモニカを手に何かに目覚めて、ふたつのPathがある、ってColinが歩いてくるところで終わる。

EP5: From Colin to Pauline

FrédériqueはEtienneのところから盗んだ手紙をネタに脅迫を始めるがほぼ相手にされない。唯一、Paulineのところに行くと彼女は紙幣と引き換えに手紙をひったくる。
ColinはPaulineの店に入り浸るうちに”The 13”の件だけでなく、Paulineのことを好きになってしまい彼女と”The 13”の両方を(Jean-Pierre Léaudのあのどこか壊れた調子で)追っかけ始める。

“Prometheus”のグループは試行錯誤を通して疲れが出てきて、”Seven Against Thebes”のグループはRenaudがリードを取るようになってLiliは出て行ってしまう。更にメンバーのQuentin (Pierre Baillot)が当ててきた宝くじをRenaudは持ち逃げして、グループの全員で手分けしてパリの地下鉄の駅周辺で聞きこみ張りこみするようになる。

EP6: From Pauline to Emille

”Seven Against Thebes”のグループ全員は消えたRenaudを探しまくって稽古どころではなくて、”Prometheus”のグループの稽古場にはColinが現れてThomasに”The 13”とPrometheusの関係を直球で聞いて、Frédériqueは手紙の関係者に片っ端から会ってどうも連中がしらばっくれている組織のことを聞きだそうとする。 その組織のことを知っていると思われるThomas, Etienne, Lucie (Françoise Fabian)らは2年間動いてないけどどうする? とか言い合っている。

Thomasに教わったカードゲームを繰り返しながらColinは黒板で謎解きを始めて、”Thirteen to hunt the Snark”(スナーク狩り)とか”WAROK”という名前に行き着く。

いろんな角度から突かれて掘り出された名前と符号 - ”The 13”を通して何かが外側で持ちあがろうとしているような。

EP7: From Emilie to Lucie

ColinはWarok (Jean Bouise)に会いに行っていろいろ聞きだし、そこでThomasとすれ違う。ずっとPaulineを探している。
”Prometheus”のグループにはQuentinが加わってリハーサルは少しWorkするようになってきた。
店を畳んで海辺の家(The Obade)に戻ったPauline = EmilieはLiliと会って、Thomasたちの訪問を受ける。彼らの間には明らかに不信と疑念が渦巻いている。
Frédériqueはカフェで会った男は持ち逃げ男のRenaudで、ふたりのはぐれ者はFrédériqueのアパートで婚礼の儀を。

EP8: From Lucie to Marie

ここはもう書かないほうがよいかも。組織をこれからどうするのか/どうしたいのか、についてとてつもないテンションで会話が展開するのと、Frédériqueが最後の賭けにでるのと、Colinは..


確かに長いけど、軽いかんじで、その軽さはどこまでも完成しない演劇とか、目的を達成できないまま停止している組織とか、永遠に終わらないと思われるその運動とその問いの周りを人々がリスのからからみたいに回り続けてところから来るのだと思った。それがよいことなのかいけないことなのか、誰もわからないし答えを持っていない。それって人によっては「青春」とか呼んでしまうしょうもないアレかも知れず、登場人物たちの態度はそれを巡ってふたつの方角に別れる。 通りとカフェと地下鉄と稽古場と海辺が舞台なんて青春ドラマとしか考えられないじゃないか。

もういっこはギリシャ神話から始まりバルザックやキャロルを経由して五月革命に至る、歴史のドラマでもある、と。 人間とはどうやって作られてなんでこんなふうなのか、という問いに貫かれたやつで、顔を出さない名前だけの連中が幅を利かせる、とか、手紙や書物の掘り起しが真実を明らかにしていく、というあたりも。

テーマ的にはColinがÉric Rohmerの教授に聞いたことの答えがそのまま - のような気もする。
そして、Éric Rohmerの映画も、それらの問いの答えを諺とか格言に包んで見せてくれるやつではなかったかしら、って。

女性は誰もがみんなとてもかっこよくて、画面に顔をだす男性はどいつもこいつも割としょうもない。女性たちが頼りにするのは顔を出さないPierreとかIgorとかGeorges、それに真面目に探求を続けるColinだけ、というー。

音楽はなくて、リハーサルの時に流れる太鼓と、Colinのハーモニカと、縦笛とフルートと、これらって、ぜんぶ出陣のときの出囃子で景気付けなのね。

衣装もみんな素敵だし、アパートの部屋も海辺の家のデコールもかっこいいし、ここはフランス映画だねえ。

あと、あのラスト、終わっていないよね。 “OUT 2”ができる可能性もあったのよね?

もう一回見たくなっている。

7.26.2020

[film] Kemp. My best dance is yet to come (2019)

19日の日曜日の午後、Lincoln CenterのVirtual Cinemaで見ました。
ここで毎年開催されているDance on Camera Festivalが今年はオンライン開催になったので遠くからでも見ることができる。

今の時期、Royal Opera Houseでもどこでも過去のアーカイブ映像を見ることができるようにしてくれていて、見たいな見なきゃな、って思うもののそっちに行かないのは、バレエはライブだ、って思っているからだねえ。音楽のライブ映像もそこらじゅうに多すぎてもう..

North Americanプレミアで、終わりにはSky Artsとあったので欧州ではTVで上映されたドキュメンタリーなのかしら。64分。

Lindsay Kemp (1938-2018)が80歳でこの世を去って、まだこの20世紀後半を生きたダンス〜パフォーマンスの巨人のきちんとした総括とか追悼とかってできていない気がする。
冒頭、“Almost nobody dances sober, unless they happen to be insane”というH.P. Lovecraftの引用がでる。

基本は彼の生前のいろんな時期のインタビューが中心なのだが、最初の方の晩年(と思われる)のインタビューの中で、インタビューをしながらドラキュラが棺桶から立ち上がり、窓から外をみて、音楽が止まり、彼女をかき抱いてダンスするまでの流れを大きな動きをせずに顔の動きだけで演じてみせて、それがそのまま”Nosferatu” (1922)に繋がってしまうところがとんでもなくて、やられた。

漁師だった父は海で亡くなり、男の親族もほぼ同じで、パーティガールだった母の周りにいた水夫達に囲まれて育った、という生い立ちから、彼にとってのダンス、体の動き、メイクアップ、ドラッグ、バーレスク、客を歓ばせること、教えることについて、代表的な演目である*Salome*やGenetの”Flowers”について語り、David BowieやMarcel Marceauとの交流について語る。 とにかく時間が短すぎるわ。

映画の影響は、やはり”The Red Shoes” (1948)が決定的だった、って。
死について、リタイアはもちろん、死ぬつもりは全くない、やりたいことがありすぎる、って。

どうでもいいけど、インタビューをしている彼の部屋?ホテル?の部屋のインテリアとか布とかの色とか形とかぜんぶすばらしいの。 あれだけでもずっと見ていたくなった。そんなわけないけど。


Land of the Sweets: The Burlesque Nutcracker (2019)

これも19日の日曜日の午後、これもDance on Camera Festivalで、↑のKempのドキュメンタリーの前に見ました。

38分という短い作品だからか、”Being”という10分くらいの短編が前座でかかった。都市に暮らすやや疲れているひとりの女性が仕事帰りに稽古場に行って、20組くらいでタンゴのレッスンをする、その時間だけが生きているみたいに時間が止まる - それだけなのだが、全員の動きが見事に揃ってかっこよくて、やってみたいなー(望むのは自由だ)って。

“Land of the Sweets..”は、ワールドプレミア(映画が)。 みんなが知っている年の瀬の定番バレエ - チャイコフスキーの”Nutcracker” -「くるみ割り人形」をシアトルのグループがバーレスク風にアレンジし直して芝居小屋で上演を始めて14年になる。 その狙いとか苦労とかを創始者のふたりが振り返りつつ語っていく。

“Nutcracker”の変奏ものというと、Mark Morrisがコミックの要素を取り入れてパンクにぶちかました”The Hard Nut” (1991~)がまず思い浮かんで、随分昔に見たけどとても楽しかった、ツッコミがい、おちょくりがいのある演目なんだろうな。

シアトルのは、最初からバラエティショーのようなバーレスク形式を目指してオーディション(はクラシック・バレエ経験者を中心に)をして、衣装・セットを作っていった、と。
クラシック・バレエだと、全員の動きを細部まできちんと揃えることが前提になるが、これがバーレスクになると、まず「こんなにすごいあたしを見て!」って客を湧かせることが先に来るとか、ダンスの動き以前にそもそもの前提が違っていたりするので、そこをどう調整したり妥結したりするか、という難しさがあった、と。 ほぼ別のジャンル、ってことよね。 でも、”Nutcracker”のテーマそのものがバーレスクのそれ - 闇の祝祭とか - と親和性があったというのもおそらく。

リハーサル風景から本番の映像までいろいろ見れるけど、やっぱりこういうのって通しで見ないとー。みんなで楽しむものだから尚更よね当然よね、だった。  シアトル、行きたいな。


いきなりスペインから英国に帰ってきたり入ってきたりした旅客が14日間隔離だって。帰ってきてすぐ言われたらびっくりよね。 でもみんな生き物だからそういうもんよね(もう諦めてお手あげ)。 英国もまたそろそろ…

[film] Come and Get It (1936)

18日、土曜日の晩、これもAmazon UKのSamuel Goldwynシリーズから見ました。
ここまでで1936年にWilliam Wylerが撮った3本、を見たことになる。

"Come and Get It”というタイトルだけだと、”If you want it, here it is ~”で始まるBadfinger、というよりThe Beatlesの、Paul McCartneyの曲(だいすき)が流れてくるのだが、これはEdna Ferberの同名小説 (1935)を原作にしたHoward Hawks & William Wyler監督、Gregg Toland & Rudolph Maté撮影、Alfred Newman音楽、というすごいメンツで作られた映画で、なかなかおもしろかった。
邦題は『大自然の凱歌』 .. セクハラ・パワハラ全開の人間ドラマなんだけど。そういうのも含めた「大自然」てこと?

19世紀のウィスコンシンの山奥は木こり産業が盛んで、一帯の木こり達を束ねる現場監督のBarney (Edward Arnold)は野心たっぷりで、"Come and Get It”っていうのは木こり達に「メシができたぞー、とっとと食べに来やがれー」っていう時にじゃんじゃん打ち鳴らしながらやる掛け声で、その声を合図に木こりは食堂に殺到して、みんな荒っぽいので小競り合いも起こるのだが、Barneyは強いのですぐにぼこぼこにやっつけて、丁度かつて相棒だったSwan (Walter Brennan)もやってきたので俺たち世界最強だな、って盛り上がる。

この後に当時の伐採のシーンがドキュメンタリー風に出てくるのだが、これの迫力がまあすごい。よくこんな勢いでやっていたねえ、ってあきれる。こうやってアメリカは..

で、ある日酒場で歌っていたLotta Morgan (Frances Farmer)のしっとりした歌声に痺れて、その後のよくある大乱闘 - この乱闘シーンの迫力がとんでもないの。Hawksとしか言いようがないの - を経て彼女に惚れて、結婚しようぜ、ってなって彼女も頷くのだが、直前になってBarneyは、俺はやっぱり出世と名誉がほしい、って元々あった彼のボスの娘のEmma (Mary Nash)との縁談を取ることにする。

それから数十年経って、Barneyは狙っていた通り会社の代表になって大金持ちで、息子のRichard (Joel McCrea)も後継ぎとして修行中なのだが、彼は父の無計画な森林破壊のやり方に異議を唱えたりしている。 ある日、Barneyは腰を痛めたという旧友Swanからの手紙を貰って、久々に彼のところを訪ねてみたら、Swanは彼が土壇場でふったLottaと結婚していて、Lottaは既に亡くなっていたのだが同じ名前をもつ娘のLotta (Frances Farmer - 二役)がいて、その姿がBarneyの面影にあるLottaそのものだったので動揺して旧友との再会どころではなくなる。 その日からBarneyはSwanの看病とか理由をつけてやってくるようになり、Swanに自分の会社の仕事を与えて、やがてみんなをBarneyの地元に、おうちからなにから手配して呼び寄せてしまう。

そうやって知り合ったLottaとRichardはだんだんよい仲になっていくのだが、Lottaをマジで愛するようになってしまったBarneyは当然おもしろくなくて… 

途中までのフィルムを見たSamuel Goldwynは、Edna Ferberの原作が持っていた荒くれ共が富を求めて傍若無人に自然を破壊していく、という元のテーマがBarneyとSwanとLottaの三角関係の方に移っていたのを見てHawksをクビにして、”Dodsworth” (1936)のポストプロダクションに入っていたWilliam Wylerを呼びつけて脅して、仕上げろ、って。

なので後半のトーンは前半のそれとは明らかに違ってて、若い頃に出世のためにLottaをフった後悔と、その引き換えになんでもできる財力と権力を手に入れたものの、自分の家族はもう思い通りになってくれないし、でも若いLottaは尽くしてあげれば言うこと聞いてくれるかもしれないし、何よりもかつての自分の勢い(もう戻ってこない)を思い起こさせてくれるし、そういうのを通して自分をパパの友人ではなく恋人として見てほしいし見てくれるはずだし … みたいな中年男の気色悪い思い込みと妄想のひだひだ独り舞台が全開になって、それでLottaも含めて周囲がまるごと引いていく様のリアルな描写の惨さと哀れときたらWylerとしか言いようがないおもしろさなので、よいの。 ラストなんてほんといい気味だわ。 

"Come and Get It”って、犬みたいにやってもだめよ、ってこと?

で、BarneyとEmmaが引退して旅にでるとまた”Dodsworth”みたいなのが勃発して..

Richardが父親に、紙を使った使い捨て紙コップ(病院とかによくある円錐型の)を提案して、即座に却下されるのだがあれってまだあるよね。Richardえらい。


週末、National Galleryにでも行ってみようかな(無料だけど事前予約要)、ってサイトに行ってみたら当然いっぱいだった。
午後から雨になったのでふて寝した。 

7.25.2020

[film] Dodsworth (1936)

16日、木曜日の晩、Amazon UKの最近でたSamuel Goldwynシリーズから見ました。

邦題は『孔雀夫人』で、80年代の終わりか90年代頭くらいにはこれのVHSを1万円以上で売ってて、当時はこういうクラシックをかけてくれるシネマヴェーラみたいのもなくて、どうしても見たかったけど諦めた(でも『教授と美女』は諦めきれずに買った)。これが今や£3で..

監督はWilliam Wyler、原作はSinclair Lewisの小説、撮影はRudolph Maté、音楽はAlfred Newman。

アメリカの中西部でSam Dodsworth (Walter Huston)は自分の名前の自動車会社を20年くらい経営して成功していたのだが、それを売って引退して妻のFran (Ruth Chatterton)とヨーロッパへの旅に出ることにする。 Samはそれまで仕事一筋でやってきて、それに引っ張られてきたFranは田舎の社交生活にちょっとうんざりしていて、どちらにとっても楽しみな旅行になるはず。

豪華客船の上で、Samは離婚してイタリアに住んでいるというアメリカ人のEdith (Mary Astor)と出会って、Franはおしゃれ英国人(David Niven)に言い寄られて最初は喜んでいたのだがちょっとしつこいので怖くなって最初の寄港地ロンドンには寄らずにパリに向かうことにする(ロンドン寄ればいいのに)。

パリで社交界に出入りするようになったFranは浮かれはしゃいで知り合った遊び人ふうの社交家Arnold (Paul Lukas)に誘われるままにスイスに行ったりして、他方でSamはふつうの観光地とかを見てれば十分じゃないか、ってふたりの間に溝が出てきて、Franはあなたもうアメリカにお戻りになれば、って言うとSamはわかった、って帰っちゃって、FranはSamからの手紙が来ても燃やして風に散らしちゃうの(有名なシーン。痺れる)。

アメリカに戻ったSamは娘夫婦とか昔馴染みと会ったりするのだが落ち着かなくて、向こうでのFranの挙動を現地の部下に報告させるとヨーロッパに向かい、ふたりを問い詰めたらFranはごめんなさいしたので関係を修復することにする。けどその後にFranはウィーンの若い男爵Kurt (Gregory Gaye)におとされて、彼に求婚されちゃったのでもう無理..  って、Samは離婚に合意する。

離婚協議もあるのでひとりヨーロッパを彷徨うSamはナポリでEdithと再会して仲良くなってふたりで旅に出ようかっていう。他方でFranはKurtの母から、あなたは年を取りすぎているので結婚は認められない、って冷たく言われて、そのまま泣きながらSamに電話して離婚とりやめ、って。Franがアメリカに戻るというのでSamも戻らないわけにはいかない、って告げるとEdithはがっかりして..

結婚して20年くらい経った夫婦が、夫の仕事を中心に回っていた日々をやめて旅に出て、新しい土地で、新しい関係に晒されり刺激されたりした途端に互いが嫌になってきて、ただ嫌になるのも修羅場するのも初めてなので行ったり来たりで悶々した挙句にやっぱり.. というメロドラマで、あんな立場、あんな金持ち貴族、あんな豪華客船、あんな豪遊放浪生活、なにひとつ経験なくても彼らの感情の襞 - 希望、諦め、うんざり、苛立ち、徒労 - などなどが生々しく伝わってくるのがすごい。比べてしまうのはよくないと思うのだが、後に残るかんじは小説を読んだ後のように壁に投げつけられた感情がクラッシュしてべったり残って、そういうのが、どちらかというと見ている我々の内側で起こる。

ふたりの感情以外のところだと、アメリカ人の富豪に対するヨーロッパ人の目、そこにおける年齢やジェンダーへの目線もあって、そういう目でSamやFranを見る。この映画の場合はどうしてもFranの方をみて、孔雀になってしまった夫人、とか思ってしまうのはどうなのか。

結末もそうだけど、ここでの勝者はFamily nameを持つSam - 家庭をほぼ省みずに仕事一筋で財を築いた男で、仕事以外のことはほぼ愚鈍みたいなのにー、対するFranはこれまで本で読んだりしているくらいだったヨーロッパのいろんなことに触れて舞い上がって、でも結局はいろんな男達に捨てられて…

同じ年に作られた”These Three” (1936)を見てこれを見ると、原作があるやつだとしても「William Wylerとミソジニー」でなんか書ける気がする。もう誰かが書いているのかも知れないけど、なんかもう自分はこれ以上は深入りできません手に負えません、て強く線を引いてしまっているような。

この後、アメリカにいられなくなったFranはヨーロッパに向かう途中の客船でEdithと同じように引退した富豪と出会い、っていうのが反復されるのだと思った。 これをロードムーヴィーとしてリメイクしてみたら、とか。

でも、とにかくのめりこんで見てしまうことはたしか。他人の人生なのにな。


英国では今日からお店でのマスク着用が義務化された。別にどこのお店で発生したとかはっきりした根拠があるわけでもないけど。 それにしても日本の夜の街がどうライブハウスがどう.. の報道はどう考えても異常だねえ。よってたかって文化を破壊している、ってわかんないのか。

7.24.2020

[film] Radioactive (2019)

15日、水曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。3月の公開とほぼ同時にLockdownをくらってしまった不幸な作品。 地下鉄の駅にはまだこのポスターが結構貼ったままになっていたり。

“Persepolis” (2007)を監督したMarjane Satrapiさんによる英国映画。Marie Skłodowska Curie(キュリー夫人)の評伝映画で、原作はLauren Rednissさんによるグラフィック・ノベル - “Radioactive: Marie & Pierre Curie: A Tale of Love and Fallout''。

1934年のパリで倒れて病院に運ばれる途中のMarie Skłodowska Curie (Rosamund Pike)がいて、彼女の脳裏に去来していくのは…  と、舞台は1893年のパリに移って、そこで研究生活を始めた彼女が大学の研究室に十分な環境と待遇を貰えなくて腐っているところにPierre (Sam Riley)が寄ってくるのでなによあんた、とか初めは反発しながらも同じ科学を愛する共同研究者として仲良くなって、やがてふたりは結婚して娘も生まれて、1903年にはノーベル物理学賞を貰う。のだが最初に名前が出ていたのがPierreだったのでMarieは怒ってストックホルムには行かなくて、でも受賞したことで研究には集中できるようになって、そうしたらPierreが馬車に轢かれて亡くなってしまう。

その後には年下のPaul Langevin (Aneurin Barnard)との不倫とか、そのスキャンダルとポーランド人であることを叩く攻撃とかいろいろあって、でも2度目のノーベル賞を受賞して、今度はストックホルムに行って、パリ大学初の女性教授となり、娘の Irene (Anya Taylor-Joy)と第一次世界大戦の前線にX線装置を持ち込んで救護活動をしたり..  とにかくどこまでも強くて負けない。

彼女の回想の合間に1957年のクリーブランドでX線治療を受ける子供、1945年のヒロシマでの原爆、1961年のネヴァダでの核実験、1986年のチェルノブイリでの原発事故の映像(どれもニュース映像ではない)が挟みこまれる。彼女の科学的成果が実社会にもたらした影響はこんなにも、という。

科学的発見と、それを応用した技術革新と、その技術の社会への適用と拡がりをわかりやすい単線で結んでしまうことには慎重であるべき、と思う反対側で、そういうのを避けて社会の進歩を複線の雲のように覆ってしまうことで生じる御都合主義的な曲解、隠蔽に改竄が生じることもわかる(最近は特に。こと女性になると)。この映画ではそういったことを踏まえた上でMarieの物語の線上に敢えてこれらを挿入している。もしMarieが生きていたら原爆やチェルノブイリや福島をどう見ただろうか、と。

近代のエピソードを挟んだことについては、賛否あるところだと思う。Marieに降りかかる困難と乗り越える強い意志を軸に波乱万丈の人生を描く、”Marie Skłodowska Curie”というタイトルの女性映画にすることもできたはずだ。 けど、この映画はそうはしなかった。 彼女が発見した”Radioactive” - 放射性の - という形容詞を看板にもってきた。 彼女の辛苦が切り開いた地平を今の我々の社会と、それが抱え込んでしまった危うさも込みで生々しく繋いで、現在進行形の、当事者の物語として語ること、読むこと。 なぜそうする必要があるのか、は言うまでもないし、それでMarieの像が歪むことなんてないはず。

(これでまたしても邦題とポスターをお花畑にしたら許さないから。国連とノーベル財団に訴えるから)

彼女が生涯をかけて没頭した物理化学の知識がなくても見れるけど、なぜ彼女がそこまで熱中したのか、なにが彼女をそんなに強くしたのか、っていうその底に科学そのものの魅力があることは確かだと思うので、そこら辺はもう少し説明してもよかったのでは、とか。知りたくなると思うし。

Rosamund Pikeのすばらしさについては言うまでもない。不屈の主人公を演じるときのこの人の絶対に負けないかんじ - 特に戦場に突っ立ったときに絵になるのって、この人かCharlize Theronか、ていうくらいに強くてかっこいい。

娘のIreneを演じたAnya Taylor-Joyさんは、こないだの”Emma.” (2020)でEmmaを演じていて、Rosamund Pikeさんは”Pride & Prejudice” (2005)でJane Bennetを演じているので、ふたりのJane Austen女優が第一次大戦の戦場に立つ、という光景を見ることができる。ついでにいうと、Pierre役のSam Rileyは”Pride and Prejudice and Zombies” (2016)でMr. Darcyを..  ほんとどうでもいいけど。  これでMarie CurieがJane Austenを読んでいたりしたらー。

7.23.2020

[film] Woman Make Film: A New Road Movie Thorough Cinema Part 5 (2019)

12日、日曜日の昼、BFI Playerで見ました。5月の終わりに始めた14時間のドライブもこれで終わり。

ここまでのPart1~4迄は各3時間だったが、最後のPart5だけ2時間で、Chapter35から40まで。紹介された映画は71本。ナレーションはDebra Wingerさん。かっこいい。 最後に近づくにつれて旅の終わりの寂しさ切なさが滲んでくるかんじで、それはそれでよいかも。 簡単なメモをー。

Chapter 35  Life Inside

小説家がHe thought.. She thought.. のように主人公の内面に入ったり描いたりしていくところをFilm Makerはどうやってきたのか。最初に”The Seashell and the Clergyman” (1928) by Germaine Dulac  での主人公の口を隠して頭のなかをオーバーレイで見せる古典的な手法から、迷路のような廊下の描写、見送った後に一人でぽつんと立っている - "The Future” (2011) by Miranda Julyとか、キスした瞬間のライトアップとか、 やりとりの中で沸騰してブチ切れるまで - Mikey and Nicky (1976) by Elaine May - とか、こないだ見た”An Angel at My Table” (1990)で、主人公が彼とキスして別れた後で広がる不安とか、最後に”La zerda ou Les chants de l'oubli” (1983) by Assia Djebbar で、植民地時代の古い写真を通して撮影者に向けられた強い目線と撮られて見られる者の内面を照らしだす。

Chapter 36  The Meaning of Life

内面の方はわかった、ではLife Itselfは?
“Together” (1956) by Lorenza Mazzetti や”Mermaid” (2007) by Anna Melikyanで描かれる障害者の知覚感覚を通してなぞられる生、いなくなってしまった兄弟についての会話と沈黙、夢を語ること、”Les rendez-vous d'Anna” (1978) by Chantal Akerman での、Anaの移動ショットを通して描かれる彼女の孤独(すばらしい)、”Betoniyö” (2013) by Pirjo Honkasalo でスタイリッシュに描かれる絶望、最後に”What Else Is New?” (1992) by Tahmineh Milani で生きることの意味、或いは意味のなさに対する率直な問いが突きつけられる。

Chapter 37  Love

そしてそれはやっぱり愛でしょ、と。 
“Sacrificed Youth” (1986) by Nuanxing Zhang の暗闇のやりとりとか、”The Girls” (1978) by Sumitra Peries での手を繋ぐこと、”Me and You and Everyone We Know” (2005) by Miranda Julyでの歩道を歩くこと、における物理的な距離による表現、”On Body and Soul” (2017) by Ildikó Enyediでの夢の中の鹿の件も含めた不思議な出会いのこと、”The Piano” (1993) by Jane Campionでの靴下の穴からの愛が始まる瞬間とか、”The Intruder” (2004) by Claire Denis の手持ちカメラで男と赤ん坊を映すところとか、”An Education” (2009) by Lone Scherfig での超定番ぴっかぴかのパリのデートシーン、”Mustang” (2015) by Deniz Gamze Ergüvenで髪を結ってもらう少女たちが見世物として行進をさせられる哀しいシーン、未亡人が語る娘への愛、看病を通しての愛、そして最後に来るのは”Heart of a Dog” (2015) by Laurie Anderson での”Did you ever really… Love me?”という問いから、母の愛を見出す瞬間とそこからBuddhist的な愛の境地に向かう。

Chapter 38  Death

こんなふうに映画は愛で溢れている。では死は? 
最初が田中絹代の『乳房よ永遠なれ』(1955)の病院の廊下を彷徨うシーンから入り、”The East is Red” (1965) by Ping Wang の資本家 vs 労働者の戦いの果てにタペストリーのように描かれる死、”The Attached Balloon” (1967) by Binka Zhelyazkov で軍に殺されてしまう飛行船のこと、”Le Lit” (1982) by Marion Hänsel の死んでいく男の最後の吐息、”Hateship Loveship” (2013) by Liza Johnson でKristen Wiigの介護者と亡くなってしまう老女のやりとり、El Camino (1963) by Ana Mariscal や”Sworn Virgin” (2015) by Laura Bispuri でのお葬式のシーン、”Tonio” (2016) by Paula van der Oest でのアフターショックまで。いろんな愛と死が映画のそこらじゅうに溢れているねえ。

Chapter 39  Ending

最初のChapterがOpeningだったので、Endingも。
”Hotel Very Welcome” (2007) by Sonja Heiss でのずるずる終われない、終わらないEndingから入って、”The Girls” (1978) by Sumitra Peries の”?”で終わるEnding、同様にHappyなのかSadなのか、の『恋文』(1953)のEndingとか、”Hard, Fast and Beautiful!” (1951) by Ida Lupino の最後、母に残されたトロフィーひとつ、などなど。

Chapter 40  Song and Dance

〆は歌って踊ってお別れしましょう、と。派手なの華やかなのおもしろいのいっぱい。

“Woman Demon Human” (1987) by Shuqin Huang の京劇の喝采、”Boris Godunov” (1954) by Vera Stroyeva のオペラの豪華絢爛。”John MacFadyen” (1970) by Margaret Taitの躍動する楽しさ、”Le Lit” (1982) by Marion Hänsel や”Elena” (2012) by Petra Costaの抽象的だったり浮かんでいたりする動きとイメージ、かっこよさが印象に残っている”Girlhood” (2014)のホテルの部屋でのパーティシーン、楽しかった”Crossing Delancey” (1988) by Joan Micklin Silver のPapayaでみんなが歌う”Never Let Him Go”とか、”The Connection” (1961) by Shirley Clarke での撮影シーンの壊しながら作っていくかんじとか、”Le Bonheur” (1965) by Agnès Varda のふたりがぐるぐる回って相手の女性だけ次々変わっていくとこ、同じくAgnèsの”One Sings, the Other Doesn't” (1977)のボートで歌う女性たちの連帯、”Attenberg” (2010) by Athina Rachel Tsangariでしんみり終わるかと思ったら最後はこれしかないよね、って”Beyoncé: Lemonade” (2016)で、BeyoncéがGene Kellyばりにステップを決めつつ車をどかどかぶっ壊していって、最後にこっち(カメラ)に向かって…

そしてほんとうに最後に、車を降りたカメラは静かに墓地に入っていって始まりのあのひとのところに。

Endingに流れるFlorence PriceのViolin Concerto No. 1がしみた。

Part 1から5まで、紹介された映画は延べで534本、重複を除いたら310本(このうち、日本で公開されたものは何本あるだろう?)。 紹介された女性映画作家の数は201人だった。  数を集めればいいってもんじゃない、のかも知れないがこれはこれでとても勉強になったし、2019年にこのようなドキュメンタリーが作られる必要があった/作られた、ということはしっかり記憶されるべき。作品の選定やChapterの置き方についてはいろんな議論や異なる視点があってよいと思うし(ちょっと英国人視点かなあ、というのは思った。例えばアジアの女性作家が選んだらどんなものが、とか)。

数年おきに地図が改訂されていくように、新たなルートが出来たり新たに舗装されたりしていくように、数年おきに増補改訂されていってほしいな。

あと、見ていなくて、見なきゃいけないのが山ほど、っていうのはいつも通り。ガイド本を読んだからといって旅したことにならないのと同じで、これを見て見たことにしちゃうのはだめだから。映画は見ないと。

あと、「日本人なら」田中絹代監督作品は見ておかないとな、って。

7.22.2020

[film] These Three (1936)

14日、火曜日の晩、Amazon UKで見ました。事情は知らぬが最近ここ(Amazon)でSamuel Goldwynの30-40年代のクラシックが12本くらいレンタル可能になっていて(£3ちょっと)、こんなの見ない手はない。監督William Wyler、原作はLillian Hellmanの戯曲”The Children's Hour” (1934)、撮影Gregg Toland、音楽Alfred Newmanという鉄壁の人たちが作っていて、Wylerは同じ原作をAudrey HepburnとShirley MacLaine主演で61年にリメイクしている(邦題は『噂の二人』)。こっちの邦題は『この三人』。

Karen (Merle Oberon) とMartha (Miriam Hopkins)が大学を卒業して、ふたりでKarenの打ち棄てられていた実家に戻るとそこで勝手に養蜂とかしている地元の医師のJoe (Joel McCrea)と出会って、KarenとJoeはちょっとときめいて、MarthaもJoeをちょっと好きになるのだが、それはともかく、KarenとMarthaはこの家を改装して女子の寄宿学校にして、そこにやかましいKarenの叔母さんLily (Catherine Doucet)もやってきて、生徒も集まって賑やかにやるようになる。

JoeとKarenはこっそり(でもMarthaにはお見通し)夜中にデートしたりしていたのだが、JoeがKarenを待つ間にMarthaの部屋で休んでいたのを Lily叔母さんが見て勘違いして騒いで(定番)、それを傍で聞いてた女生徒が誤解して、それを日頃から教師を憎んでいる邪悪なMary (Bonita Granville) が 曲解して転がして、学校のスポンサーであるおばあちゃんのところに泣きながら駆け込んだもんだからさあ大変、ふざけんなよガキって裁判まで起こすのだが負けちゃって学校はお取り潰しになって…

よくある三角関係ドラマを無垢であってほしいのにそうでない子供が目撃して騒いだら、しかもその子供がとんでもないモンスターだったら? 知られているように元の戯曲でKarenとMarthaはレズビアンという設定で、当時の舞台でそれが上演できたのは異例で、映画でも当時のヘイズ・コード下では無理だったのでやむなく三角関係を持ってきた(61年のリメイクではそれをオリジナルのに戻した)という、そういう事情があるにせよ、いけない関係をいけないことと認識しているいけない子が上塗りして暴いて騒ぐ、そうやって現れる今でいう「地獄」に「この三人」が手を繋いで立ち向かうのだが、ここでいちばん強く残ってしまうのはMaryだという.. 更に、「この三人」を結果的に救ってしまうのはみんなから煙たがられていた困ったおばちゃんだと..

愛の勝利とか、ぜんぜんそんなのかすりもしない、Joeはなんの役にもたたない、誰と誰が一緒になっても別にどうでもええわ、みたいに展開する変なドラマといえば変なやつで、でもおもしろくて手に汗握るったらないの。

女子たちの寄宿学校での同じように秘められた関係とそれが内側でゆっくり壊れていく行方を追う、というとJacqueline Audryの”Olivia” (1951)があって – これ先週の#FridayFilmClubでかかったの – どっちも素敵だねえ。

でも室内の扉の向こうとこちらとか、ドアの向こう側にいる誰かとこちらとか、外と内を強く意識させる空間の陰影づくりはクラシックとしか言いようがなくて、そのままサスペンスホラーに転化できるくらい強いかんじがした。 そういう捉え方もできないことはないくらい。

というわけで、このシリーズ - Samuel Goldwynもの - をしばらく見ていくことにした。

7.21.2020

[film] Hvítur, hvítur dagur (2019)

12日、日曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。アイスランド映画で、英語題は”A White, White Day”。タイトルはアイスランドの諺から来たもので「すべてが真っ白で天と地の境目がなくなるそんな日には、死者が話しかけてくるよ」とかいうの。

冒頭、深い霧のなかを進んでいく車をカメラは後ろから追っていくと、それは突然柵を破ってその向こうに消えてしまう。もうひとつは殺風景な原野の中に建つ発電所みたいに素っ気ない一軒家が周囲の四季が変わっていくなか少しずつリノベーションされていく様子をタイムラスプで映しだす。

Ingimundur (Ingvar Eggert Sigurðsson)はまだリノベが続くその家に移ってきた停職中の初老の警察官で、可愛がっている孫の女の子がいて、でも娘夫婦には少し距離を置かれて怖がられていて、そのうち彼は冒頭の車の事故で妻を失ってそこに来たこと、停職中なのは癇癪持ちでキレるとどうしようもなくなってしまうせいで、そのために精神科医との定期的なセッションをしていること、等々がわかってくる。

そのうちIngimundurは妻の遺品のなかから図書館カードとか写真とかビデオカセットとかを掘り起こして、PCの画面からだと判別もできないようなそれらの細部から妻が浮気していたのではないか、という疑念が浮かび、その疑念が新たな疑念を呼んで、その疑念と無念とこんちくしょうに絡めとられ逃れられなくなって、相手の男を突きとめると精神科医とのセッションもぶち壊して暴走機関車に…

冒頭の謎めいた画面の動きからすると、或いはIngimundurの北欧神話に出てきそうな風貌からすると、彼の妻は何者かに殺害されたか超常現象に巻きこまれたかに違いなくて、復讐の鬼と化したIngimundurが(Liam Neesonふうに)執念で追い詰めていく(そうしているうち第二第三の惨劇が…)、そっちの方かと思うのだが、そこはいかなくて、例えばサッカーの試合で、あいつかー、って寄って行ってわざとぶつかってみたり。

起源が彼のそもそもの気性にあったのか妻との家庭生活にあったのかその両方なのか、彼がどっちに転ぶかどこに行ってしまうのかは予測不能なので、それらが脈絡なく波状段段でやってくる怖さとスリル(まだあるのかやるのか、とか)、それがいかにもサイコパスっぽい謎男から発せられるのではなく、ハイジのおじいさんみたいな一見正義漢ふうの人(警官だし)から現れて突然ぶち切れられたりするのが怖いといえば怖い。でも、よくよく見てみるとその怖さのコアはアイスランドの原野の一軒家だから、でもなんでもなくて実はそこらにふつうに転がっているような。これと同じことがグリーン・グリーンのジャングルの奥地で起こらないとは言えないような。

冒頭のショットが思い起こさせる”The Shining” (1980)から超常現象を除いてぜんぶ真っ白くしたらこんなふうになるのかも。 建てかけている途中の家のがらんとした怖さ、屋内も屋外も寒々のきついかんじはとってもある。

あんな大きな家があるなら、でっかい本棚とでっかいスピーカーを置けばごきげんになるのにな..


もうお家で仕事を始めて4ヶ月が経ってしまった。 1年の1/3を在宅勤務で過ごした、ってなんかすごいことかも。 しかもみんなちっとも会社に、通勤の生活には戻りたがっていない。  あの地下鉄じゃねえ…   もちろん前期比での「業績」みたいのはがたがたになるのは見えているけど、それは在宅が直接の理由ではないし、意味ある比較になるとは思えないので、もうこの状態を「正」にしちゃえばいいのに。

7.20.2020

[film] 36 Chowringhee Lane (1981)

11日、土曜日の昼、そこらのYouTubeで見ました。

金曜日晩にやっている映画監督Carol Morleyさんによる#FridayFilmClubで取りあげられた映画で、でも晩の8時には見れなくて翌日に。 翌日でも見れてよかった。

Aparna Senの映画監督デビューとなるインド映画で、でも言語は吹き替えではない英語で、たまにベンガル語がまじる。画質もややぼやっとしているのだが、それもまたよいかんじ。

冒頭はお墓参りをしているViolet (Jennifer Kendal)が墓地から戻るところで、アングロ=インディアンで初老の彼女は女学校でシェイクスピアを教えているのだが学生はまったく興味もってくれなくて、ひとりでアパート - この住所が”36 Chowringhee Lane” - に戻ると昇降機は壊れていたりして、手紙を拾って中に入ると黒猫のSir Toby -『十二夜』の - がいて、連絡が取れるのはたまに手紙をくれる結婚して遠くに行ってしまった姪のRosemaryくらいで、それでもそんなに寂しくないし辛くもないし。

クリスマスの日にかつての教え子のNandita (Debashree Roy)とそのBFのSamaresh (Dhritiman Chatterjee)と出会って家に呼んでお茶をして蓄音機でレコードをかけて踊ったりの楽しい時間を過ごす。実はふたりは昼間に会ったり書きものをしたりする場所を探していて、喫茶店だとお金取られるし、彼女のとこがちょうどいいかも、って狙っていて、でもそんなの知らずに人のよいVioletは彼女たちをいつでもここに来てくれていいのよ、って招き入れて、ふたりは昼間にやってきてはやらしいことしたり書きものしたり好き放題する。

やがてふたりは結婚することになって、Violetはお祝いに思い出の蓄音機をあげちゃったりするのだが、しばらくして結婚後の新居を訪ねてみるとすごく立派なお家に暮らしてふたりとも忙しそうで、前に約束したけど今年のクリスマスはうちに来てくれないかしら? って控えめに聞いてみるとちょっと用事がいろいろ、というのでわかった、って。 でも一応ケーキだけ作ってサプライズで持っていってみると..

Violetのかつての恋人のことはお墓まいりのところとかで少し触れられる程度で、それは過去のことだけど、いまの学校では新しい校長の仕切りで、彼女はシェイクスピア担当から文法担当に替えられたり、養老院にいる唯一の肉親の兄がひとり寂しく亡くなったり、つらいことが続いて、そんな中、若者ふたりとの交流は唯一の楽しみだったのにひどいやつらのせいで..

ラストは作ったケーキを抱えてしょんぼり歩いていく彼女のそばに野良犬がきて、一緒に歩きながらリア王の一節 - “Pray do not mock / I am a very foolish fond old man" - とかを暗唱するの。こんなクリスマス映画があったっていいんだ。

Violetの機微を繊細に演じてすばらしいJennifer KendalさんはBBCの『十二夜』(1980)でViolaを演じたFelicity Kendalさんの実姉で、彼女たちの両親はインドでシェイクスピア・カンパニーを立ち上げてツアーをしていた、その時の話が”Shakespeare-Wallah” (1965)にあるとか。そういうのも#FridayFilmClubは教えてくれる。

彼女の部屋の光とかお墓の冷たい光とかをうまく使う画面構成が素敵で、毛糸まみれになったりのSir Tobyがたまらない猫映画でもあるの。


ところで、どうして週末ってふつかしかないのだろう。

7.19.2020

[film] John Lewis: Good Trouble (2020)

18日の土曜日の朝に目覚めたらLohn Lewisの訃報が届いていた。

これは13日の月曜日の晩、Film ForumのVirtual Cinemaで見て、アメリカって今はひどいけど(それも秋までな)、それでも司法の世界にはRBGがいて、政治の世界にはJohn Lewisがいるって、なんてうらやましいことだろう、って。 だってうちの国にはだーれもいないんだよ、全部悪の、不正義の手羽先(手羽先ごめん)みたいな腐れたじじい共しかいないんだよ。

“Selma” (2014)でも描かれていたアフリカン・アメリカンへの選挙権を求めるプロテスト - Edmund Pettus Bridgeの行進のその先頭で、武器を持って向かってくる警官隊に素手の無抵抗で立ち向かう、その先頭に立っていたのがJohn Lewisで、この映画でもそのフッテージが流れるのだが、彼は本当に先頭なのであっという間にやられて、本人もあーこれは死ぬ/死んだと思ったそうなのだが、彼は死ななくて、45回手錠かけられて40回逮捕されても懲りなくて負けなくて、ずっと政治家をやってきました、と。

アフリカン・アメリカンの公民権運動の生き証人というか、まだずっと続いているこの運動の突端で先端で土壌として最後の砦として非暴力の活動を貫いてきた、人と会って話して訴える活動そのものが、その全てが彼の思想として刻まれていて、見て聞けばわかるそのわかりやすさと、なぜそれが必要なのか、止めてはいけないのか、などなどがこの映画を見れば歴史も含めてあっという間に、簡単にわかる。

映画は彼の行動をMartin Luther King Jr.との出会いの頃から63年のオリジナル・フリーダムライダーとしてワシントンで演説をした時のこと、Selmaのマーチにこの前の中間選挙時からBeto O'Rourkeへの応援まで、彼の休まない行動と言動を繋いで、合間にAOCやクリントン夫妻のコメントを入れつつも、彼の思想を紹介することに徹している。 苦労話なんて入れようと思えばいくらでもあったろうに、そういうお涙系は一切ない。 癌とか体調のこともまったく出てこない。 とにかくシンプルで力強い。とても優れたコンサートフィルムのように、彼のパワーにダイレクトに触れたかんじになる。

タイトルは彼の口癖の”Get in Trouble, good trouble, necessary trouble”から来ていて、これの前にくるのは「もし君が正しくないもの、フェアじゃないものを見たりした時は、言葉にしろ、行動に起こせ」で、それはよいトラブルで、必要なトラブルなんだ、と。 両親からはずっと“Don’t get in trouble. This is the way it is.”と言われてきたことの反対で。

あと、Selmaを経験した後、死ぬことが怖くなくなったのだと。そしたらどんなことでもできるようになった、って。これって、やるときは死ぬ気でやれ死ぬまでやれ、っていうのとは違うからね。行動するときに死ぬかもしれない、ってことを計算したり判断の基準に入れないってことで、映画のヒーローみたいなことを平気な顔してやってきた。 確かにあのマーチの先頭に立つなんて、Captain Americaとしか思えない。

彼が尽力してきたのはずっと公正な投票権の獲得で、なぜならそれが国の行く末に対する唯一の意見と態度の表明であり、変える力に繋がるから。それが非暴力で行われる(はずの)民主主義の基礎となるから。 当たり前だけど、これはアメリカだけの話ではなくて、選挙っていうのはそれくらい大事なもので、その権利を獲得するまでにSuffragetteでも、Civil Rightsでも、多くの血が流されてきた。 だーかーらー選挙に行け、その権利を使えって言ってるんだよ日本のー(略)。

この点も含めて、この映画のテーマの及ぶところは差別や抑圧に慣れっこになってしまった日本のそれとも無関係ではない。ぜんぜんない。 職場や学校や家庭でトラブルを起こしてはいけません、上の言うことは聞きましょう、の事なかれでずっとやってきたあの国がいまどんなふうになってしまったか。 声はあげてよいの。 必要なトラブルは起こしていいの。
だから日本でも早く、緊急上映でもいいから上映されてほしい。大学のオンライン授業でがんがん流してほしい。

あとね、Selmaのマーチの武器を持たない彼らに襲いかかっていった警察の人たち、「彼ら」の子供たち孫たちは未だに同じことをし続けているよね。それがBLMにまで繋がっていることの重さ、終わらないかんじ。「教育」っていうのは簡単だけど、ちっとも簡単ではなかった/ないのだということ。

John Lewisは死を怖れていなかったので、実は自分が死んだことに気づいていなくて、あの表情であの歩き方で棺桶から出てきて演説を始める … っていう落語みたいなことが起こらないかなあ。

Rest In Power。 ありがとうございました。がんばる。

本編上映後、30分くらいJohn LewisとOprah Winfreyのビデオ対話も上映されてて、これもとてもほっこりするやつだった。

RBGも本当にお大事に。


今日は久々に町にでて、The Second Shelfに行って、SOHOをうろうろしてFoylesを見てからRough Trade Eastに行って、久々にあれこれいっぱい買った。
The Second Shelf、もう予約不要なので行けるひとは行ってあげて。 こないだあそこに入ったEmily Dickinsonの最初期の詩集 - 500部限定の - も見せて触らせてもらった。 宝石のように美しい。車とか買うより、モダンアートに投資するより安いよ。

7.18.2020

[film] Beanpole (2019)

10日、金曜日の晩、MUBIで見ました。なんとなく。2019年のカンヌのある視点部門で監督賞を受賞したロシア映画で、原題は“Dylda”。 とても怖くて哀しい女性ふたりのドラマ(またしても)。

第二次大戦も終わりに近づいた1945年のレニングラードで、軍人病院で働くIya (Viktoria Miroshnichenko)がいて、ひょろひょろのっぽさんなので”Beanpole” - 豆の蔓が絡まる棒ね - と呼ばれている。 彼女は戦争の後遺症で突然体が硬直してしまう病を抱えていて、冒頭も仕事中に固まってしまってなんだか辛そう。

彼女は立ちあがって歩き始めたばかりくらいの小さな男の子を連れていて、病院のみんなにも可愛がられているのだが、ある日その子と遊んでいる時に突然硬直がきて、男の子は彼女の下敷きになって亡くなってしまう。

そこから暫くしてIyaの親友であるらしいMasha (Vasilisa Perelygina)が戦地から戻ってきて、抱きあって再会を喜んだ後に「わたしの坊やはどこ?」という。亡くなった子はMashaの子だった..

Mashaは嘆き悲しんで自分はもう子供を産めない体になっている(下腹に大きな傷がある)し、あの子がわたしの希望の全てだったのだから、あなたが責任をとってわたしの子供を産んでほしい、といって合意書を作ってサインさせて病院の初老の先生を連れてきて同じベッドに横になってIyaとセックスさせたりする(ちょっと唖然)。 Mashaは他にも町に出た時に知り合ったぼんぼん風の彼 - 見るからにカモ - を連れてきて部屋でべたべたしたり、Iyaが嫌がることを平気でやり続けるので、女の子の世界にありそうな虐めっ子 – 虐められっ子的な絆なのかしらと見ていると…

やがてIyaの子作りがうまくいかないことがわかるとIyaは絶望で狂ったようになって、Mashaがぼんぼんの彼の実家(田舎のお金持ち)に行った時の彼の両親とのやりとり(で明らかになる彼女の過去)から、改めてふたりが戦争でどこまでどんなふうに痛めつけられ、それ故に互いを必要とするようになったのかが明らかになってくると、その救いのなさに言葉をうしなう。

彼女が傍にいてくれないのならもう自分は自分じゃなくなってしまう、それくらいに自分はもう空っぽの役立たずで自分の体すら思うようにはならないし、だから彼女を繋ぎとめるためならなんでも、どんなことでもする、彼女たちをそこまで追い詰めてしまう苛烈さってなんなのか。戦時下っていうのはこういうもの、っていう説明よりもなによりも神様.. ってそうか神様がいないから戦争なのか、とか。 銃弾が飛び交う戦場ではなくても地獄はこんな手元足元にまで広がってきて容赦ない。慰安婦問題はなかった、とかいうバカに見せてやれ。

最後までどきどきはらはらが止まらないけどいちおう、悲しくは終わらないから。画面はお金をかけていないけど宗教画の静けさと輝きと悲惨があってくすんで美しく、でもそこで立ち止まって手を合わせて終わりではなくて、ふたりのその後のことをずっと考えてしまう。 ふたりとも笑うとほんとに素敵だから。

ふたりぼっちの映画なのにこんなにも孤独で、でもこんなにも切り離すことができないふたりの映画ってあっただろうか。


もう夏休みのシーズンのはずだし休みを取ってもぜんぜんよいはずなのだが、なんだかまったく企画しようって気になれない。そこの国に行って戻ってくるのは大丈夫なのか制限ないのか、美術館はやっているのか行動制限はあるのか、調べる手間が倍だし、それなら国内にすれば、なのだろうけど国内ならそもそもなんで大丈夫なのかわかんなってくるし、そこまで準備と対策しないと旅できないのならべつに… になるのかしら。  旅への愛が試されようとしているんだねえ。仕事よりはぜったい大きいけど美術館や映画館や古本屋やレコ屋よりは小さい愛かも。

7.17.2020

[film] The Happy Ending (1969)

8日、水曜日の晩、YouTubeで見ました。New Yorker誌で紹介されていたので、程度。
日本ではTV放映のみらしく、邦題は『ハッピーエンド/幸せの彼方に』。

1953年のコロラドで、Mary (Jean Simmons)とFred (John Forsythe)は情熱的に出会ってデートしてそのままMaryは学校をドロップアウトして彼と結婚して、ものすごく幸せなカップルになる .. はずだった。(このバックに流れるMichel Legrandの音楽がロマの極致みたいに攻めたててとんでもない)

時は流れて1969年、16周年の結婚記念日の朝、FredはいつものようにMaryに愛しているよ、とか言いつつも彼女のクローゼットのブーツに隠してあるウォッカを見つけたりしてて(他に香水瓶にもウォッカ入れてスプレーして飲んでいたりすごい)、Maryが既に裏でぼろぼろであることは知っているのだが何をどうしたらよいのかわからなくて、そんななかMaryは美容院に行ってそのままバハマへの片道チケット(NYワンストップ)を買って飛行機に飛び乗ってひょいって家出してしまう。

よく眠れない機内で、またバハマに流れ着いてからもMaryの脳裏には昨年の結婚記念日のパーティでFredがいちゃいちゃしていて荒れたことや、その後に薬飲んで自殺未遂を図ったこととか、いろんなうんざりもういやだがフラッシュバックしてきて、またことあるごとに主人公が見ていたり背後で流れていたりした”From Here to Eternity” (1953) - “Smilin' Through” (1932) -   “Casablanca” (1942) - “Father of the Bride” (1950)といったハリウッド・クラシックスの場面が挿入されてくる。

バハマに向かう途中でMaryは大学の同窓生のFlo (Shirley Jones)と出会い、彼女は現地でお金持ちの彼とランデブーする予定で、結婚はしないでいろんな男を渡り歩いているようなのだがへっちゃらで楽しそうで、宿も取らずろくな荷物も持たずに飛んできたMaryに宿も服も世話してくれて、Maryはそうやって街でジゴロみたいな詐偽男と話したり、夜の浜辺をうろついたりしながらいろいろ考えるの。

立派な家があってメイドもいる今の生活に不満があるわけではないし、夫は(裏ではなんかやっているのかもしれないが)暴力を振るうこともなく愛がないこともないし、娘も立派に育っているし、でも何が不満なのか我慢できないのか – いやそういうのとも違って単に生きてない気がする - つまるところ結婚って幸せになるための解とか策ではなかったのではないか? そもそも結婚てなんだったの? という古いようで新しいテーマ - ヨーロッパだとDouglas SirkとかR. W. FassbinderとかIngmar Bergmanあたりが探ってきた – をアメリカのクラシカルな夢とか幻想にぶつけてみること、或いはニューシネマ的な無頼の流れに乗せてみようとした、ようにも見える。Maryの背後には当時のTVの映像 - ニクソンの就任とかプロテストとか、前述のクラシック映画、等が頻繁に流れていて、そういう書割のなかに置かれたドラマであるということ。

結末は書かないけど、単純な絶望とか破局・破滅には向かわない、誰にもなにも期待しないでひとり向こうに行ってしまうところもよくて、つまりあくまで彼女が志向するのは”The Happy Ending”、あるいは、Happy Ending的な何かの否定、なのではないか。 こういうテーマの作品がなにがなんでもよい男を見つけてしがみついてよい結婚することを至上命題としてアクロバティックに弾けまくる80年代のRom-comの約10数年前にあった、というのは興味深い。

監督のRichard Brooksが脚本も書いて、当時の妻だったMary役のJean Simmonsはオスカーの主演女優賞にノミネートされている。Michel Legrandの音楽も含めて映画全体のタッチと雰囲気はしっとりしたクラシカル・ハリウッドとしかいいようがないのに、なんだか過激でかっこいい。

そして、この翌年に"Wanda" (1970)がリリースされるのはたんなる偶然だろうか?


BA (British Airways)からダイレクトメールが来て、23日までに予約すればマヨルカ片道£22からとか、イビザ片道£29からとか、マラガ片道£25からとか煽ってるので、みんな大変なんだな、と思いつつもなにかが揺れはじめた気がした木曜日。

7.16.2020

[film] California Typewriter (2016)

6日、月曜日の晩、Criterion Channelで見ました。タイプライターに関するドキュメンタリー。
California Typewriterはバークレイにある新品・中古のタイプライターを販売・修理をする個人商店で、1967年にIBMの人がひとりで始めて、今年の3月末にその歴史を閉じている。

映画は、みんなタブレットとかスマホとかPCの時代に旧いタイプライターを拾ってきてこつこつ修理して売っているのか、その思いを綴るのと、タイプライターを使う側としてTom HanksとかSam ShepardとかJohn MayerとかDavid McCulloughといったセレブが、なんでタイプライターなのか、彼らの創作活動においてタイプライター、タイプするということがいかに重要なのか、をこれもたっぷりのカメラ目線で語るのと、アンチークのタイプライターを追いかけていくコレクターと。

全体の中ではセールスマンみたいに快活に流暢に喋りまくるTom Hanks氏が最高で、つい欲しくなってしまうのだが、通してみると、わかんなくはないけど、これってやっぱり男の道具なのかなあ、とか。眉間に皺の作家先生が原稿用紙とか万年筆について「君にはわかんないだろうけどな」みたいな態度と調子で語るのを聞いているような。おもしろいけど。

タイプする、指でキーを叩いて字や文章にしていく快感はわかるし、自分の好みにあったキーボードがあったらいいだろうな、って夢想するのだが、PCのキーはラップトップだと3年くらいで変わっていく消耗品で、そんなハードに自身を適応させるしかない感覚(奴隷性)が根付いてしまっていてどうしようもない。自分でタイプしたり手書きしたもの(All stream of consciousness)をそのまま雲の向こうに流通させられるような技術ができれば可能になるのかもしれないが、これはキーを叩いて紙に打ち込む、ペンで紙に書く、それで滲んだり痺れたり、といった身体の歪んだ快楽とかと結びついていて、思っているほど簡単にデジタルと相容れるものではない気がする。紙の本 - 古本に触れて読書するのが絶対なくならない(これは確信)のと同じやつで。

あとは自分が英語だけで読んで考えて書いてできたらどんなに楽だったかしら、って。漢字カナ変換なんかもさー、とか、他方でこれってコミュニケーション信仰とか生産性信仰に囚われたしょうもないなんかだなーとも思い、そういう点でもTomが薦めていたSmith-Coronaのとか触ってみたいな。 あとこれ、ミシンでも同じような映画できないかしら。

Carmine Street Guitars (2018)

11日、土曜日の夕方、”First Cow”を見る前にCurzon Home Cinemaで見ました。これは日本でも公開されていたやつ。
NYのヴィレッジにある地元で出た建物の廃材とかを調達してそこからハンドメイドのギターを作って売る、これも特殊な道具を扱う個人商店のドキュメンタリー。

タイプライターは文字を入力する道具で、ギターは楽器なので入出力両方でどちらもそれを使う人の好みとか技量とか音楽への愛、等々によって偏愛の度合いも変わってくるのかも。タイプライターはなくても文字は書けるしPCだってあるし、だけどギターの音はギターでなければ出せないのでギタリストのギターに対する熱量って人によっては相当なものになる、のはわかる。

というわけで月火水木金と普段のお店の様子とお店を訪ねてきてそこのギターを弾いてギターについての与太話をするギタリスト - Lenny Kaye - Bill Frisell - Jim Jarmusch - Dave Hill - Eleanor Friedberger - Nels Cline - Marc Ribot - Charlie Sexton  といった人たち。

店主でひとりでギターを作り続けるRick Kellyさんと店番をしている彼の母親と、主にギターアートを担当する女性の3人がいて、その哲学のようなものが開示されるわけではなくて、出来あがったものがただ並べられている店内にその生涯をかけてギターの音を探求し続けているギタリスト – ほぼ全員ライブで見たことある人たちだわ - がふらりと現れて音を鳴らしてわお、ってなる、その幸福な風景ときたらない。

ここに出てくるギタリスト達って、それぞれ特徴的なギターの音を持っているのだが、彼らってエフェクターを駆使してギターの音を作って加工して、というより、弦を引っ掻いたりネックをひん曲げたりして起こした手元の振動をどうやって大きなエレクトリックの振動とかアンプの圧に乗せてみんなの鼓膜に響かせるか、そういうことに注力してきた人たちだよね。ここに出てこない人で誰がいるか..  Tom Verlaineとか?

それぞれのギタリストでそれぞれによい音が鳴るのだが、生きていたら間違いなくここに登場したであろうLou Reedの音が延々響いている。”New York” (1989)から”Ecstasy” (2000)の辺りまでのごりごりした音が。失われてしまったバーやホテルの木材がかつての姿を思い起こさせるのと同じように、Lou Reedがギターを抱えて少し上を向いて、恍惚となった顔が見えて聞こえてくるので、よい映画だと思った。

Jonathan Demmeに捧げられている。わかるー。

一番うけるのが、お母さんが何度直してもひん曲がってくるRobert Quineの肖像。Lou Reedがいるように、彼もそこにいたのね。


7月15日って、夏休みまであと一週間で、来るぞ来るぞって助走に入るあたりのはずなのだが、風が冷たくて寒すぎる。暑いとそれはそれで文句いうのだが、ちょっとこれはー。

7.14.2020

[film] Lynn + Lucy (2019)

5日、日曜日の晩、Curzon Home Cinemaで見ました。

最近よく見ている気がする女性ふたりのドラマ。監督・脚本のFyzal Boulifaさんはこれが長編デビューとなる。Ken Loachの制作会社 - Sixteen Filmsが一部出資している英国映画。

エセックスのそんなに裕福ではない地域でLynn (Roxanne Scrimshaw)とLucy (Nichola Burley)は学校の頃からの親友で肩に同じタトゥーをしていて、家はお向いで、Lynnは16歳の時に子供ができていろいろあり、その娘はもうティーンになり、負傷した帰還兵の夫は家でごろごろしていて自分がなんとかしなきゃ、と思っている。

青い髪のLucyにはゲームばかりやっている年下の夫がいて、映画の冒頭には彼女の生まれた子供の洗礼式があって、こちらも大変だけどなんとかしないと、の事態。Lynnは地元の美容室でバイトを始めて、そこを経営しているのは高校の時にLucyとふたりで虐めていた同級生だったり気まずいところもあるのだがそんなことも言っていられない。でもLynnは仕事を始めたしLucyは疲れているようだけど子供もできたし、久々にふたりでナイトアウトをして酔っ払って、いろいろあるけどまだまだいけるよね大丈夫だよね、って。

そんなある日突然、家の前に救急車が.. ってLynnのところに電話があって、Lucyの子供が亡くなってしまったらしい。赤子の突然死のようだが遊び人の夫による虐待の可能性があり、小さいコミュニティなのでLucyではないか、って噂が流れて中傷する落書きがされていたり、Lucyはもう疲れきって目も虚ろで、Lynnはなんとかしてあげたい、と思うのだが娘の証言を聞いて..

貧困があり、ムラ社会があり、夫婦間の疲弊があり、育児鬱があり、こういう縛りの沼でかつての「友情」はどんなふうに人を動かしたり殺したりするのか、或いはそんなのはなんの役にも立たずにどっかに行ってしまうものなのか。

ふたりがふたりでいるだけで最強だったあの頃は遠い昔、それはもうふたりの記憶の中にしかなくて、いまの現実はまずはそれぞれの(自分の)家族が来て、生活のための仕事が来て、Lucyの苦しみや感情はそういう柵の隙間から辛うじて見えるだけで、その像は歪んでしまっているかも知れないのに確かめてみる余裕も余力もない。 というのが主にLynnの目線 – そこには警察もメディアも病院もSNSも入ってこない -  触れてくるのは職場と近所と家族のみ - で省略されたりジャンプしたりしつつ語られて、彼女の抱える葛藤も苦しみもLucyの元に届く前にどこかに流されてしまう。

Lynn自身がなんらかの意図や確信をもってそう変わっていったのではないし、それはおそらくLucyの場合も同様なのでその救いのなさが怖くて、貧困や余裕のなさがもたらす分断の(ひとによるし場合にもよるけど)最悪のケースはこんなところにこんなふうに現れる、のかも知れない。

Ken Loachの“Sorry We Missed You” (2019)の、あの家族に起こったことと単純に結び付けてはいけないと思いつつ、とても似た風景に見えてしまう。人を巻きこんで萎縮させすり潰していく当事者不在のシステム – “We” – がそこにあるというホラー。

映画のポスターに並んでいるふたりの像は姉妹のようによく似ていてLucyの青い髪がなければどちらがどちらかわからないくらい。タイトルが”Lynn & Lucy”ではなく、”Lynn + Lucy”であること、主人公ふたりの間にあるのが記号なのは意味があるのではないか。

小さいし明るい映画ではないけど、日本でも公開されてほしい。同じように苦しんでいる人はきっといるはずだから。

いまはCovid-19の対応でどこもいっぱいいっぱいの中、こういう昔からある問題が現実にどうなっているのか気になる。 Covid-19下で家族やコミュニティはどうなっていったのか、をテーマにしたドラマはこれから山ほど作られていくのだろうけど。

7.13.2020

[film] First Cow (2019)

11日、土曜日の晩、Film at Lincoln CenterのVirtual Cinemaで見ました。
ヴァーチャルなので何時でも見れるかと思ったら上映は米国東海岸時間の19時からの1回のみでチケットは買ってから3時間有効とか見直せるのも4時間までとかいろいろあって、でもどうしても見たかったので夜寝して深夜0時から。見てよかった。

Kelly Reichardtの新作。脚本は”Old Joy” (2006) ~ “Wendy and Lucy” (2008)の頃から一緒にやっている作家のJonathan Raymondとの共作、原作は彼の小説”The Half-Life”で、ただふたりで10年くらい転がしてきた結果、キャラクター設定も含めて原作とは相当変わってしまったそう。(原作に牛は出てこない、とか)

冒頭、現代のオレゴン、コロンビアリバーをゆっくり貨物船が動いていく岸辺で犬を散歩させていた女性(Alia Shawkat – “Animals” (2019)の彼女だ..)が犬が掘り起したらしき人骨 - 横に並んだ2体 – を発見する。

そこから時代は1820年頃のポートランドの森にスリップして、Cookie (John Magaro)は毛皮の隊商をする一団の料理と食材調達(おいしそうなキノコ)をやっていて、ある晩、裸でどこかから逃げているKing Lu (Orion Lee) を繁みで見つけて服を渡して匿って、翌日には離れ離れになるのだが、ある村に落ち着いたとき、酒場で賭博をしているKing Luと再会する。行き場のないCookieをKing Luは家に招いて泊めてくれて、これまでどうしてきた、これからどうする、とかを話したりする。

村には最初の乳牛がやってきて、それを見たCookieはお菓子を焼けないだろうか、と思いたつ。夜中に牛が繋いであるところに忍んでいって、King Luが見張りに立ってそうやって搾ったミルクでドーナツのようなビスケットのようなのを焼いて食べてみたらおいしいかも、になったので、試しにマーケットに持っていって並べたら、これ美味いじゃないか、ってあっという間になくなって、行列ができるようになり、夜中のミルク調達は日課になっていく。

で、村に駐在している英国の偉い人(Toby Jones)が噂を聞いてやってきて、これは英国の風味じゃ(ほんとかよ?)、って、Cookieにクラフティを作れるか?って聞いたらブルーベリーがあればできると思う、って言うのでお茶会への出前を依頼して、持って行ったら褒められて、最近ミルクの出が悪いんだけどうちの牛を見せてあげよう、って見たら毎晩お世話になっている彼女だった… 

やがて夜に見張りをしていたKing Luが木から落ちて、その音で感づかれてやばいことになり..

見終わってとにかく、ああKelly Reichardtだー、ってしみじみ噛みしめてしまう、そういうやつで、書きたいことはいっぱいあって、もう少し落ち着いてからのがよいのかもだけど、書きたいので、書くの。

これまでの彼女の作品の登場人物と同じように、これからどうしよう?どう生きよう? - 極限状況で切羽つまってどうする – という程ではないものの、平たく宙吊りにされた彼らの周りを風が吹いて動物たちが行ったり来たりする。もちろん決着したり解決したりしない問いが。

男たちふたりが出会って家に入って生計を立てようとするお話しなのだが、恋愛関係になることはないし喜怒哀楽が爆発したり泣いたり絶叫したりはぜんぜんなくて、静かに掃除したりお菓子作ったり、話す内容もビーバーの毛皮とかサンフランシスコはどうか、とかそんなのばかりで、植物のような薄い儚い存在感で、でも逃げるときは一緒に逃げる。

Kellyさんとの対話にも出てくるのだが、とにかく牛がかわいいの。アニマルのルッキズムについてどこまで語ってよいのかいけないのか、とにかくあのお目目ぱっちりの牛娘を見るだけでも。深夜の搾乳でCookieに懐いてしまった彼女が英国の大使のとこで嬉しそうに身を寄せてくるとことなんてたまんない。これ以外にも、犬、梟、猫、いろいろ出てくるから動物好きは劇場に走ること。

19世紀初の、カリフォルニアではなくオレゴンに、東海岸からCookieが毛皮の交易で流れてきて、広東からKing Luがヨーロッパとアフリカを経由してやってきて、彼はロシア人に襲われて、というこの時点の歴史や地勢をイメージしてみる。ここにやって来た人々はビーバーの毛皮でこの土地は栄えるだろう、という。そしてここに初めて連れてこられる牛(First Cow)がいる。では、ここに初めてきた人はどこのどういう人だったのだろう? というような連想のなかに"United States of America"を、やたら"Great"でありたいらしいあの国のいまを置いてみること。

オレゴンの、彼らの足下でそんな資本主義的ななにかがゆっくり起動される元となるOily Cakeについては既にWebでレシピが出回ったりしているよう(↓)だが、とにかく深夜0時過ぎにあれを - アメリカのドーナツ(の起源) - を見るのはきつかった。目の前で揚げたのに蜂蜜ぬってくれるんだよ。あんなふうにポートランドのカフェ文化は出来上がっていったのかもしれない。おいしいドーナツ食べたい。食パンの耳揚げたのでもいい。

https://slate.com/culture/2020/03/first-cow-oily-cakes-recipe.html

冒頭にWilliam Blakeの詩が出てくる。19世紀のアメリカが舞台でWilliam Blake、というとJim Jarmuschの“Dead Man” (1995)で、Kellyさんは当然そこは意識している、と。詩句じたいはどうってことないのだが。

音楽はWilliam Tylerさんで、出てくるふたりのナリと同じようにシンプルだけど枯葉とかチクチクのように服にくっついてきて離れない森とか藪の音。

画面はとっても瑞々しく美しくて、Frederic Sackrider RemingtonやWinslow Homerといったアメリカ画家を意識しているそう。あのへん、最近流行っているのかしら?

実験映画作家のPeter Huttonに捧げられている。オープニングショットは彼へのオマージュだって。 今度見てみたい。

映画館があいたら、もう一度映画館でみたい。そういうのがもう10本くらいあるのだが。


BBCでは屋外ではマスクをすべきかしなくてもいいのか、みたいな議論を政治家の誰それがああいったこういった、とかずうっとやっていて、どうでもいいかんじだけど、どうやって拡大を抑えるのか、を考えるのが政治家の仕事なので、まあわかる。でもGoToなんとかは、さすがに常軌を逸していてわけわかんないしわかりたくもない。人間のクズとか、そういうふだん使わない言葉が浮かんできてとまんない。

[film] Miss Juneteenth (2020)

4日、土曜日の晩、BAMのVirtual Cinemaで見ました。独立記念日だし、くらい。
監督Channing Godfrey Peoplesさんの長編デビュー作。

今年はBLMもあったせいか、6月19日のJuneteenthはより盛大だった気がするが、これはテキサスで行われてきた(本当にあるのかどうか不明)Miss Juneteenthページェント - 優勝者には大学への奨学金とかその後の輝かしいキャリアが待っています - を舞台にしたドラマ。

シングルマザーのTurquoise (Nicole Beharie)はかつてMiss Juneteenthページェントの勝者だったものの(途中で妊娠してあれこれ諦め)今は定職もなくバーメイドでトイレ掃除をしたり、葬儀屋で死化粧のバイトをしたり、でも電気代の支払いにも困って電気を止められたりしている。

彼女の夢は娘のKai (Alexis Chikaeze)をMiss Juneteenthに出して自分と同じように優勝させることで、それが彼女の夢であることをずっとKaiには言ってきたし、Kaiも母親の夢でありほぼ唯一の誇れる過去であるらしいそれを否定するわけにもいかないのではいはい、って割と素直に準備とかリハーサルに付きあっている。

のだが、ページェントのエントリーだけでもすごくお金が掛かるし衣装だって買わなきゃいけないし、肝心なときにバーのオーナーのおっさんが倒れちゃうし、次から次へと難題が降りかかってきて、ママがそういうので憔悴してくると別にそこまでしなくてもいいのに、ってKaiはますますやる気が失せていく。

ドラマはそれでも何かを見つけて共にがんばっていく母娘、というよりまだ未練が残る別れた元夫との関係とか葬儀屋の男から付きあわないかって言われたりとか、アル中でしょうもなくなっていく自分の母親とか、半ばやけくそできりきり舞いしつつ自分の生を見ようと踏ん張るTurquoiseを描く女性映画になっていてよいの。 かつてMiss Juneteenthだった自分でも、これからMiss Juneteenthをつくる自分でも、親でも娘でも妻でも愛人でもない自分はどこにあるのか、を探すこと。

で、そういうのを通して、明確には語られないものの間接的にミスコンが演出する一時の栄華的ななにかへの批判にもなっている気がした。学業やキャリアへの支援はこういうお祭りではなくてみんなに対してずっとされるべきよね。

というわけなので、本来こういうお話がてっぺんに持ってくるページェントそのもの - Kaiの演し物もあんま弾けたり盛りあがったりしなくて、結果もなんとなく見えてて、そんなんでいいのか、ではあるのだが、Turquoiseが生きているし、TurquoiseとKaiがふたりでいるところも絵になってよいな、って。

かんじとしては”Support the Girls” (2018)に似ているかも。どっちもあれこれ大変だけど、どっちもみんな素敵で。


土曜日に歩いてHarrods(デパートね)まで行ってみた。 普段でも十分わかりにくいフロアの動線がOne Wayとか行き止まりの導入により更にわけわかんなくなって途方に暮れている人々がいっぱい。 本屋は地下の隅っこに移動されていて、やはり閑散としている。今こんなとこにコーヒーテーブル本を買いにくるひとなんていないよね。

7.10.2020

[film] Woman Make Film: A New Road Movie Thorough Cinema Part 4 (2019)

6月27日、土曜日の昼にBFI Playerで見ました。

“Part 4”はChapter26から34まで。紹介された映画は98本。ナレーションはSharmila Tagore → Thandie Newton → Kerry Foxとリレーされた。Part3の最後で個別のジャンルに行って、その後の章立てはやや散文的になってきた気もする終盤。とにかくメモだけ。

Chapter 26  Melodorama

“Shoes” (1916) by Lois Weber の公園でひとりサンドウィッチを食べる女性の描写 – Powerlessness, 自分ではどうすることもできない痛みや被害者の感覚から入って、”Chekhov's Motifs” (2002) by Kira Muratova の会話の抑揚や感情の動きがテンションを生んで、それが火山の噴火(父の家出)に繋がっていくようなのとか、単に嗚咽や死で終わるだけではないメロの多様さ。最後はGreat Melodoramaとして田中絹代 -『恋文』(1953) のラストシーンが。

Chapter 27  Sci-Fi

最初はみんなが知ってる”The Matrix” (1999)のbullet-timeが新しいアクションの見方を紹介した、と。ところでこれ、公開当時は彼らWachowski Brothersじゃなかったっけ? - ま、いいか。同じく彼らの”Jupiter Ascending” (2015) のコレオグラフとか、”Tank Girl” (1995)のコミックにスリップするとことか、TV映画だけどどうしても出したかったんだと思う”The Handmaid's Tale” (2017)で女性が監督している”Offered”のパートとか、嬉しかったのが、”My Twentieth Century” (1989) で星が犬に話かけるところ。

Chapter 28  Hell and Horror

ここはいっぱい、19本も。最初に”Huis-clos” (1954) by Jacqueline Audry でサルトルの”Hell is Other People”が導入されて、”Earth” (1998) by Deepa Mehta のホームに来た列車に死体がいっぱいになっているリアル・ライフ・ホラーとか、監禁とか拷問とか。Abuse, Murder, Torture, War, HomelessnessのいろんなHellといろんなHellの複合がやってくる”The Babadock” (2014) - その対極にあるstaticな家族のHell – “Archipelago” (2010) by Joanna Hogg とか。地獄は逃げることができないから地獄なのだ、というのとそれは結局Other Peopleだから .. というヘルなケースがいっぱいで、この辺のヘル観は作り手のジェンダーによって結構異なるのではないかしら。

Chapter 29  Tension

まずはリアル・ライフ・テンションとして”Demon Lover Diary” (1980) by Joel DeMott のドキュメンタリー撮影現場、”Dreams of a Life” (2011) by Carol Morley のドキュメンタリーが露わにする真実の瞬間とか。平穏であるはずのダイニングシーンに浮きあがってしまうテンション、追跡現場の、出産現場の、屠殺現場のテンション、テンションの高まりが怒りとなって暴発するシーン – “Selma” (2014)とか、そのカオスが渦を巻いて社会全体のテンションに拡がっていくとか。

Chapter 30  Stasis

テンションの反対側でそれを鎮める和らげる停留・滞留状態について。”Places in Cities” (1998) by Angela Schanelec の怒りのこもったSexの後に約2分間続く黒スクリーンとか”Brownian Movement” (2010) by Nanouk Leopold のSexの後、外で横になって考える時間、とか。横になって動かず、静かに眺めるとか、動きの少ない状態 - 寝る食べるとかカメラもFixで、でもそれだからといってこちらの考えも停止してはいいわけではなく、その状態でどれだけこちらの認識や感覚を突っついて動かせるか、と。その点では”Marlina the Murderer in Four Acts” (2017) by Mouly Surya のシメントリックな部屋の配置に首なしの体が運ばれてくるとこなんてなかなか。

Chapter 31  Leave Out

画面から見えない/見せないことで見せる・わからせるやり方あれこれ。 性的なあれこれ - レイプ、自慰等々をダイレクトに見せずに描く、もうひとつは宗教上の掟として”Wadjda” (2012) by Haifaa Al-Mansourや”The Sealed Soil” (1977) by Marva Nabili での顔を見せない、見せてはいけない女性たちの姿、”The Day I Will Never Forget” (2002) by Kim Longinotto の対話として描かれる割礼の話とか。物理的なOn-Screen – Off-Screenの例 – “Baxter, Vera Baxter “(1977) by Marguerite Duras とか、更には登場人物がこちらに語りかけたりすることで見えないカメラの存在を明らかにする”The Story of the Flaming Years” (1961) by Yuliya Solntseva とか。 

Chapter 32  Reveal

物事の全貌や真相って画面の上ではどんなふうに明らかになったり暴かれたりするのか。カメラが引いていって様子がわかる – “Morvern Callar” (2002) by Lynne Ramsay の転がっている彼の死体とか、”The Story of the Flaming Years” でクレーンがあがって男の死体がわかるとか。Plot reveals, Death reveals, Love reveals, God reveals、等。”Lourdes” (2009)  での神の顕現とか、そうそうこれがあった、の”Stories We Tell” (2012) by Sarah Polley での会話のピンボールによって明らかにされていくなにか。

Chapter 33  Memory

思い出や記憶はどんなふうに画面上で表現されるのか。”Elena” (2012) by Petra Costa で死者について語ることで記憶がそこにあること、”Pet Sematary” (1989) で、墓場から蘇ることで形を表わす生前の記憶、とか、歌が呼び覚ます、双眼鏡で覗きこむことで現れる過去の映像、とか。”The Enchanted Desna” (1964) by Yuliya Solntseva で子供が畑を走っていくシーンで個人ではない国としての記憶がフラッシュバックされるところとか。でもこればっかりは文学のが得意なのかもな、とか。どっちがすごいとか意味ないけど。

Chapter 34  Time

映画は時間を早めたり縮めたり自在にコントロールすることが得意なの。まずは古典の”Falling Leaves” (1912) by Alice Guy-Blaché の落ち葉を止めたり遅らせたりするのから入り、”Les rendez-vous d'Anna” (1978) by Chantal Akerman - 冒頭のなんの加工もないリアルなタイムイメージを示して、”My Twentieth Century” でのふたつの列車の間で見つめ合いつつ共有される時間 - 世紀が変わった瞬間とか。 時間の経過を表わす暗転の使い方、タイトルに合わせて現在にジャンプする、或いはタイムマシーンとしてのいろいろすっとばしていくカメラ等、早送りされる時間。その逆に引き延ばしたり早回しされたりフラッシュバックの中でフラッシュバックしたり、”The Future” (2011) by Miranda July の中で彼女の時間が止まるシーン(その間なんでもできる)。そしてもちろん忘れてはいけない”Orlando” (1992) の時を駆けていく自由。最後は”The Day I Became a Woman” (2000) でのGirlhoodの終わりを告げる時間表現 -  素敵。

これ、9月からアメリカのTCMでも放映されるって。
英国でのPart5までをChapterをもう少し細かく切って14夜にして12/1までの毎週火曜日から水曜日の朝まで。本編の後、Chapterに関連した女性監督による作品群(本編内で紹介されていないのも含まれているみたい)も放映される。 これ、企画するの楽しいだろうなー。見たいなー。

https://womenmakefilm.tcm.com/


最後に映画館で映画を見たのが3月18日、少し立ち止まってうーって考えたのちオンラインで映画を見始めたのが3月28日で、そこからずっと平日1日1本は見て、週末土日は2本以上見て、4月1日から見た映画の感想を1日1本ポストする、っていうのをやってきた。飽きたらやめようと思って始めたのだがこれがなんとなく続いてきて、でももう100本超えたし、いろいろ再オープンして週末には出掛けられそうな場所も機会も増えてきたので、書くペースを以前のペースに戻そうか、って。 べつに誰に頼まれたわけでもなんかの誓いを立てたわけでもないのだけど、自分にいちおう言っておく。 見る方は変わらずやめない。

7.09.2020

[film] Il traditore (2019)

4日、土曜日の昼間、Curzon Home Cinemaで見ました。今年はVirtualで開催されることになったEdinburgh International Film Festivalの作品が数日間だけCurzonに来ていて、ふーん、てよく見たらMarco Bellocchioの新作だったので慌てて。他にRon Howardのドキュメンタリーもあったのだが油断していたら消えてしまった。英語題は”The Traitor”。

実在したシシリアンマフィアのボス - Tommaso Buscetta (Pierfrancesco Favino)の評伝ドラマ。
1980年の9月、パレルモのSaint Rosaliaのお祭りでマフィアのファミリーが親戚家族も含めて集合していて、そこには旧い勢力と新しい勢力がいるのだ、という説明があって、その冬にTommasoがリオに滞在している時、イタリアで彼の身内が何者か - 言うまでもなく同じパレルモのマフィア - に次々と殺されていく様子が描かれる。

84年にドラッグ密輸容疑でブラジル当局に拘束され、冗談みたいにありえない拷問を経てイタリアに送還されてからはローマの監獄で判事Giovanni Falcone (Fausto Russo Alesi)の前でファミリー - Cosa Nostraの組織、関係者、お仕事そのもの - をバラしていって、これがマフィアの大規模拘束~裁判の果てに判事暗殺まで拡がり、やがては366人のマフィアの逮捕に繋がるマフィアとの/マフィア間の戦い。 後半に延々続く裁判の反対尋問でかつての仕事仲間と対峙して背後の牢屋にいる連中から「裏切り者!」って野次を飛ばされながらもこれは裏切りじゃない、Cosa Nostraはかつての掟と結束を失った全く別の組織になってしまったからだ、ってひとり強く揺るがないTommasoの孤独な闘い。

ローマでの判事とTommasoの出会いがターニングポイントであることは確かなのだが、司法警察 vs. マフィアの抗争活劇ではなく、ファミリーの中で引き裂かれたり沸騰したり後ろから刺されたり怒りと涙を噛みしめたり、そういうドラマなの。Tommasoの家族は身の安全のため米国で暮らしていて、彼も一時は滞在したりするものの、魂はイタリアで自分を裏切った連中への怨念にひとり燃えていていつ刺客がやってくるかもしれないのに戻る。

古典的なやくざの組織内抗争劇 – でも暗殺や殺しのアクションが出てくるのは最初の方だけで、ほぼ沈黙と怒り、対話に口論が動かしていく1980年から2000年までの物語。伝統や掟を重んじつつも組織を存続させるために新たな仕事や領土に手を出し始めた新勢力が、そんな不可避で不可視の裏切りの螺旋が結果的に内部を瓦解させていく - 組織への忠誠か新たな金ヅルか – そんな中、Tommasoは組織に殉じるのではなく自ら組織を潰して過去に遡り永久凍土に自らを埋めようとする。

歴史の内側にどっしりと座りめらめらと燃えたぎってその熱で自分も込みで焼け焦げていく主人公はBellocchio映画のそれとしか言いようがない。彼らは罪人ではあるが決して狂気に取り憑かれているわけではなく、どこまでも(自身にとっての)正気を貫こうと、強い意志で、静かにこちらを見つめてきて、それに向かい合うのは結構体力がいるのだがいつものように窯のなかに引きずりこまれる。で、あとでその熱をどこに持っていけばいいのか困ったり。

パレルモのマフィアと社会について市民の目から追ったドキュメンタリー映画に“Shooting the Mafia” (2019)があって、地元の女性ジャーナリスト/写真家の目を通してマフィアの暴力 - 子供も容赦なく殺されるようになっていく恐怖 -  を追ったこの映画の後半にはここに出てくる裁判の顛末も含めて結構詳しく描かれているので一緒に見るとよいかも。


BFI Southbankから”We’ve missed you!” っていうメールが来て、あたしもだよ! って開いたら、9/1に再オープンだって。 9月なんてもう秋じゃん.. なのだがあとほんの1ヶ月半先だということに気づいて下向いて黙った。 今年はほんとにもう。

7.08.2020

[film] All I Can Say (2019)

3日、金曜日の晩、配給のOscilloscopeから来たメールに従って、”Other Music” (2019)の時と同様に現地のレコード屋を指定して(売上げの半分が行くらしい)お金を払って見ました。

Blind MelonのヴォーカリストShannon Hoon - 1995年に28歳で亡くなった彼のドキュメンタリー映画。ドキュメンタリーといっても映像の殆ど(全部かな?)はShannon自身が90年から死の数時間前まで自分のハンディカメラで撮り続けていたバンドとか家族とか自分とかの - を編集したもので、だから彼自身も4人目の監督としてクレジットされている。

Blind MelonはShannonの死後に解散してしまった(まだやっているらしいが)ので若い人は知らないかも知れないが、泥沼ぐちゃぐちゃのグランジの横でルーツ回帰みたいなシンプルなロックがあった時期(→ その一部は90年代中後期のSSWとかに繋がる、とか?)があって、大ヒットした”No Rain” (1992)は一時期毎日のように蜂の子のPVと共に流れていた。この映画のタイトルもこの曲の最初の一行めので、それは”All I can say is that my life is pretty plain” ていうの。

冒頭は95年10月21日、ホテルの客室に録画オンのままのカメラを置き、電話で喋りながらベッドに横になるShannonの姿で、彼はこの数時間後に亡くなってしまうのだが、映像はそこからぱたぱた遡っていって90年頃、ビデオを撮り始めた頃までいく。

見る前にこの映画の内容 – Shannonが遺したホームビデオの映像が中心 – を聞いたときはちょっときついかなあ、と思ったのだが、インディアナの田舎から出てCapitolとメジャー契約をして”No Rain”の大ヒットでバンドが爆発してやがて..  の5年間が当時の音楽シーン、ライブの現場、バンドの内側外側、Shannonの家族、Shannon自身まで極めてパーソナルなところからパブリックに近いところまで、upperなのもdownerなのもplainなのも、彼個人の視点と目線できちんと網羅され切り取られていて、目を離すことができない。

彼のセンスによるものなのか編集が見事なのか、90年代初のアメリカの音楽シーンの熱狂 – あの時代に自分のバンドがブレークする – がどんなだったのかというのが目をひんむいている当事者の目で綴られ、更にはその動きと決して無縁ではない94年のKurt Cobainの悲劇がShannon自身に与えた衝撃とそのよくない余波までありありとわかる。関係者証言なんてほぼない。彼が撮ったMTV Newsの映像と独り言だけでも十分に。

“No Rain”のメイキング映像も少し。このPV、どこに行っても笑いもの除け者にされてしまうかわいそうな蜂の女の子が最後に同じような仲間を見つけてみんなで歓喜のダンスする、そういうやつで、いま意地悪くみればオタク的集団の興隆を描いたものに見えてしまうのかも知れないけど、このビデオの中に置かれるとShannonとバンド自身の姿でもあったのかもねえ、とか。

あと圧倒されるのは当時のライブ会場の熱。死者が出たり怪我人が出たりで90年代終わりにはおとなしくなってしまうのだが、ダイブ、モッシュ初期の狂った芋洗い状態が最前線で撮られている。いまの、そしてこれからの若者たちからすれば信じられない肉団子かも知れない、今後100年くらいは御法度になってしまうであろうやばいやつ。
Woodstock ‘94の映像とかやっぱり疼くねえ。タイムテーブル、彼らの少し後にはNINがいる..

それよりもなによりもギターをかき鳴らして歌いだせばそれだけで一曲できあがってしまうようなShannonの才能とあのバンドが持っていた可能性を思うとしみじみする。再開された”Soup”のツアーのチケットはすぐ買ったのにな。そういえば払い戻ししていないわ。

何度か出てくるMTV NewsでのKurt LoderとTabitha Sorenの姿、Webなんてまだぜんぜん、だった90年代初、このふたりが世界の窓だったんだよ。まじで。

来日公演時の移動とかインタビューを受けるシーンも少しだけ出てくる。

“Other Music”のドキュメンタリーと同様、あの時のあの場所を知っている人にしか伝わらないような、突然出てきた手紙のようなやつかもしれない。 けど別にそれでいいじゃん、って。

こないだの”The King of Staten Island”のThe Wallflowersあたりから火がついたのか90年代の割とどうでもいい寄りバンドをYouTubeでぐるぐる回しだしたら止まらなくなっている。レコードを持っているわけでもなくMTVでただ流れていただけだったのに結構覚えているもんだねえ。… Gin Blossoms, Third Eye Blind, Collective Soul, Spin Doctors, 4 Non Blondes, Semisonic, Goo Goo Dolls, Soul Asylum, Deep Blue Something, Sixpence None the Richer ... とかそんなの。自分は80年代の人だと思っていたしたぶんそうなのだが、この辺ならシンガロングも結構できるかも。(嫌いなのもいっぱいあったけどね)


Lockdownの間、ずっと閉まっていた最寄りの駅が今週になってようやく開いて、今日そこから地下鉄に乗ってみた。 地下のホームに降りるエレベーターは一台に4人までしか乗ったらダメって。 朝の通勤時なんてぜったい無理なので通勤あきらめる。

7.07.2020

[film] Something Wild (1961)

2日、木曜日の晩、Criterion Channelで見ました。なんとなくー。 
邦題は『傷だらけの愛』 - 劇場未公開、TV放映のみ、だそう。原作はAlex Karmelの小説”Mary Ann”で、脚本は監督のJack GarfeinとAlex Karmelの共同。 86年のJonathan Demmeによる同名映画 – 傑作 - とは別もの。

NYインディペンデント映画の起源のように言われている作品なのだが、自分がイメージしているそれとは結構違う。低予算ぽいけどプロダクションは相当しっかりしている気がした。

冒頭のタイトルシークエンスでは、Aaron Coplandのスケールでっかい音楽にのって、Saul Bassが切り取った街の風景がクールに流れていく – ここまでだと都会の真ん中でダイナミックに展開するサスペンスかコメディか、って思う。

大学生のMary Ann Robinson (Carroll Baker)が夜中、帰宅する途中、家の近くで公園の繁みに連れ込まれて何者かにレイプされ、よろよろと立ちあがって家に帰り、放心状態で風呂に入ると着ていた服も下着もずたずたにハサミで切って捨てて、親にはバレないようにしたいらしい。

翌日、まだショックは続いていて大学に通う地下鉄のラッシュで人混みが気持ち悪くなり、帰り際にも卒倒して警察の世話になって家まで連れていって貰ったら心配性の母親はひたすらうざくてやかましいので、自分で週いくらの安アパートを見つけて、リテール雑貨屋のバイトも探してひとりで暮らし始める。のだが、バイト先の仕事仲間には馴染めず、アパートの隣の酔っ払いもこれ以上は絡まないで、になって、マンハッタン橋からきれいな川面を眺めて身を投げようとしたらそこにいた機械工のMike (Ralph Meeker)にとめられる。

Mikeは彼女を近所の自宅に連れて行ってミルクをあげて介抱してくれて、やさしそうな人のようだし少しここにいてみようか、と横になっていると、夜になって戻ってきた彼はぐでんぐでんに酔っ払って凶暴になっていて、寄ってきて怖いから蹴っとばしたら目に当たったようで翌日は眼帯して失明したみたいなのだが、本人はなんも覚えていないという。それはそれでやっぱり怖いので、もう帰りたい仕事もあるし、というとだめって鍵をポケットに入れて出してくれない。君の命を救ったのは自分だしずっと君を見ていたいんだ、って。その流れでふつうの顔でプロポーズしてきて、Mary Annは断固拒否して..   (ここからまだまだ驚愕の展開が)

レイプされて心身憔悴して身投げしようとして助けてもらったと思ったら監禁、ここまでずっと周囲にふつうに助けてくれるまともな人がひとりも出てこない – 確かにSomething Wildとしか言いようがない都会の闇が極めてリアルに具体的に描かれていて、ひとつひとつはそんなに違っていないかも。でもそれらが全部いっぺんに立て続けに来たり起こったりするのはホラーだし、そこからサマーソルトを決めてしまう結末はもっとびっくりかも。

そういえばCarroll BakerさんはTennessee Williams - Elia Kazanの”Baby Doll” (1956)でも20歳になるまで性的関係を持たない婚姻契約を結んだ歪んだ中年男の元で監視監禁されてしまう女性(のちに逃亡)の役だった。あれは大田舎が舞台で、こっちは大都会ので、ついてないとしかいいようがない。  (いちおうこの作品の監督はCarroll Bakerさんの旦那だという)

Aaron Coplandの音楽はすばらしく、ここでのピースは後程 - "Music for a Great City" (1964)として再編されるのだが、最初はMorton Feldmanに依頼が行ったのだそう。それはそれで聴いてみたかったかも。

いくつかの画面 - Mikeの部屋で放心状態になって座りこんでいるMary Annの姿 - はEdward Hopperのいくつかの絵画の構図そっくりだった。 ふたりいてもいっぱいいてもどこまでもひとり。


七夕なのに大雨で、しかもまだ火曜日とか散々なのだが、BBCでもEuronewsでも九州の水害の映像が繰り返し流れてきてそれどころではなさそう。ひとりでも多くの人が犬が猫が救われますように。ご無事でありますように。

[film] On The Record (2020)

1日、水曜日の晩、BFI Playerで見ました。音楽業界での#MeTooを追ったドキュメンタリーで、公開直前にExecutive ProducerのOprah Winfreyが出資を引きあげたりいろいろあったようだが、とりあえず見る。

冒頭、主人公のDrew Dixonさんがこんなのがあるのよ、ってJunior M.A.F.I.A.のデモのカセットを見せてくれて、それはDef Jamの前身の頃にBiggieからひょいって貰ったという、要は彼女はそういうシーンの、交差点のど真ん中にいた人で、Def Jamが立ちあがってからはA&R, Directorとして”The Show (Original Soundtrack)” – これは一時期どこに行っても売ってた - とかを手掛けて成功させた、それくらいにすごい人なのだ、と。

90年代のDef Jamときたらそれはそれは最強で、音楽だけじゃなくてMTVもHBO's Def Comedy Jamとかメディア関係も押さえていて、その創業者Russell SimmonsときたらHarvey Weinstein以上のbig nameと影響力を持った人だと思う/思っていた。

彼女が受けたsexual assault、更に映画の中で紹介される同様の告発をしたあと2名(全部で20名以上いるうちの2名)の内容についてはこの映画と公にされた際のNY Timesの2017年12月13日の記事 - "Music Mogul Russell Simmons Is Accused of Rape by 3 Women" – を見てほしいのだが、ポイントは何故彼女(たち)が告発に踏み切ったのか、Weinsteinのケースが出てきたから乗った、っていうだけではない、ということ。

もうひとつはWeinsteinのケースは白人女性が生態系の最上位にいる白人男性を告発するというものだったが、このケースでは最下位にある黒人女性 – この点は議論あると思うけど – が決して上位にいるわけではない同胞の黒人男性を告発する、というものでこれはどうなのか? Russell Simmonsも、映画の後半に出てきて同じように告発されるL.A. Reidも、ビジネスリーダーとして認められた数少ない黒人の経営者だし、更にDef JamがリリースしてきたHip Hopは歴史的な迫害や差別に対抗し黒人の誇りや意識を呼び覚ます、そういう役割を担ってきた文化ジャンルではなかったのか? (Oprahが引きあげたのもこの辺の捉え方・描き方にギャップがあったのでは)

Drew DixonさんはDef Jamを退社後、Arista Recordsに行って Clive Davisの下でLauryn HillやSantanaを手掛けて成功に導いてその手腕を見せつけるのだが、Clive DavisからL.A. Reidに変わったところで彼から同様のsexual assaultを受けて(こちらも複数件の告発あり)退社して、音楽業界から身を引いてしまう。

ひとりの女性が情熱をもって取り組んできた仕事を棄ててしまう、それだけでなく既に自分は死んだ/殺されたかのように自分を、自分の生を見るようになる、この時点で相手が誰であれ、告発され糾弾されるべきだと思う。そして、そこへの道は開かれていなければいけない。この件はNY Times紙の記者による長期のインタビュー取材が実を結んだものだが、誰もがそういう環境に置かれているわけではない、という点は頭に留めておきたい。伊藤詩織さんの件だってまだー。

NY Times紙に記事が掲載された後、Drew Dixonさんは離婚して引っ越して再び音楽の方に踏み出そうとしていて、彼女は記事が出た後でつかえが取れてようやく思い切ることができたのだ、と。

本告発についてRussell SimmonsもL.A. Reidも全面否認していて、なのでこの映画にもインタビュー映像は出てこない。これだけ具体的に言われていたら黙るしかないのか。
出てこないだけでRockの世界とか他にも相当、いくらでもありそうだし、「そういうものだから」はもう通じない。通用させてはいけない。

あと、本題から少し脇道にそれたとこで、ポピュラー音楽はThe Beatlesの頃からずっとミソジニーに溢れていたのだ、っていう指摘があってそれはそうだねえ、って。いまからそれ故に選り分けて聴くようなことはしないけど、過去の表現は – これは文学でも映画でも漫画でもそうだけど - 注意して見たり聴いたりするようにしたい(し、するようになってきた)。自分の感動や快楽は誰かの苦痛や悲しみの上に乗っかっている可能性がある – という想像力を養っていくためにもいろいろ見たり読んだり聴いたりしていかないと、ていう歴史のレッスン。 そんなのつまんない? 「そんなの」程度で諦めるような愛ならやめちゃえ、とか。

後々の文化史では、Harvey Weinstein以降の映画、Russell Simmons以降のHip Hopはどんなふうに語られることになるのかしらん?


今日のBBCは朝からずーっと”The Good, the Bad and the Ugly” (1966)のぴろりろりー の音楽(あとたまに”Cinema Paradiso” (1988)とか)をえんえん流し続けてくれて、ずっと頭のなかでぐるぐる回っていて、ものすごい巨匠が亡くなったことはわかるけど、もうちょっと相応しい音楽があったのではないか。 映画音楽ってこれくらい強いものなのね、って改めて。  合掌。

7.06.2020

[film] You Can't Take It with You (1938)

6月30日、火曜日の晩、Criterion Channelで見ました。 6月30日で終わってしまうやつのリストから。邦題は『我が家の楽園』。ピュリッツァー賞を受賞した劇作を脚色したもので、”It's a Wonderful Life” (1946) -『素晴らしき哉、人生!』の Frank Capraが監督でJames Stewartが主演ではないけど出てて、オスカーの作品賞と監督賞を受賞している。

Wall St.の銀行家Anthony P. Kirby (Edward Arnold)は政府の後ろ盾を取り付けてぶいぶい勢いに乗っているところで、近隣の12ブロックを買収しようとしているのだが、一軒だけ拒否しているとことがあると聞く。
それがVanderhof (Lionel Barrymore)爺さんの家で、彼は親族はもちろん、銀行で見つけたおもちゃ(あのうさぎの、ほしいな)を作っている事務員を家に呼んで自分の好きなことをやらせて、家の中ではみんなそれぞれ好き勝手なことをして楽しんでいて(いいなあ)、Vanderhofはそれでいいのじゃよ、って言う。

Kirbyの息子のTony (James Stewart)はKirbyのとこのVPをやっていて、オフィスの速記係のAlice (Jean Arthur)と恋に落ちて、TonyはAliceにプロポーズするのだが、AliceはVanderhofの孫娘で、プロポーズを受ける前に自分の家がすごく、桁外れに変なこと知っておいた方がいいかも、ってTonyとKirby夫妻を自分ちに招待する。 ところがTonyが普段の彼女の家を見ておいた方がいいかもってわざと別の日にやってきたもんだからディナーはめちゃくちゃになって、憤慨して夫妻が帰ろうとしたところに警官隊が乗り込んできて、更に地下に蓄えてあった大量の花火が炸裂してパニックになる。

こうして大量の酔っ払いと変人と一緒に牢屋にぶちこまれたKirby夫妻は簡易裁判に巻き込まれ、傍聴している隣人たちみんながVanderhofの味方なのに驚いて、なんでここにKirby夫妻がいるのかを聞かれたVanderhofは、Aliceを庇うために近所一帯の土地売買の話を出すのだが、Aliceは逆に頭きてTonyのプロポーズの件をぶちまけて、それが新聞ネタになったのでAliceは姿を隠してしまう。

で、最後は家を売ることにしたVanderhofの家のしょんぼりした引越しの様子で、でもそれだけでは終わらなくて..

Frank Capraなので、お金でなんでも買える大富豪と、そうじゃない - “You Can't Take It with You” - って信じて理想のコミュニティを作ろうとしている老人の噛み合わない対立とどたばたはあるものの、それはやや派手な仕掛けの背景でしかなくて、メインはあくまでTonyとAliceのRom-comになっているのがよいの。
でもそういうのとは別に、乗り込んできたIRSの役人に税金はそもそもなんのために払うのじゃ? って問答するVanderhofとか、裁判で言い渡された罰金を傍聴していたみんながおれが出すよおれもわたしもって帽子をまわすとことか、説話みたいな方に目がいってしまう。

あとは俳優がみんなよくて、Lionel Barrymoreは言うに及ばず、Edward ArnoldもJean Arthurもみんな素敵なの。あの子猫も。


Sergeant York (1941)

6月29日の月曜日の晩、Criterion Channelで見ました。これも6月30日で終わってしまうやつだったから。
こんなクラシックも見たことがなかったの。 『ヨーク軍曹』。監督はHoward Hawksで、Gary Cooperが実在した第一次大戦の英雄Alvin C. Yorkを演じてオスカーの主演男優賞を、更に編集賞も受賞している。

第一次大戦前夜のテネシーでYork (Gary Cooper)は、貧しい農家に老いた母と弟と妹と暮らしていて、最低の生活から抜け出すために土地を得ようとがんばるのだが根が適当なのでなんかだめで、でもある日雷に打たれて信仰に目覚めて - “The Blues Brothers”みたい - 牧師に諭されて軍隊に入ってフランスに送られて、ライフル射撃が得意だったので戦功をあげて英雄になって故郷に凱旋する、っていう一代記なの。

真珠湾攻撃された頃に公開され、その年の興行収入トップで、多くの若者がこれを見て徴兵を志願した戦意高揚映画と言われるのだが、中味は相当いいかげんな気がした。 雷に打たれて開眼、とか、人を殺すためでなく守るために戦争にいくんだ、とか、そのくせ口笛ひゅい、って吹いて七面鳥が首だしたところを撃つ得意技をドイツ兵相手にやっちゃうとか。 そんなのStar Warsを見て戦争行こう、っていうのと同じくらいかと思う。

とにかく、そういういい加減さたっぷりの法螺噺をいかにもっともらしく映画的に構成するか、ていう観点からするとそれはそれはおもしろくて一気に見れるのだが、こういうのに心底感動してしまうひとっていちど雷に打たれたほうがいいのかも。


いろいろオープンしてから最初の小遠出、ということで毎年初夏になると行くKew Gardensに。 Maids of Honourのエッグタルトも食べて、カモやグースと遊んで、もうじき夏だわ7月なんだわ、ってようやく思ったかも。  そのうち夜の穴熊観察ツアーに行きたい。

7.05.2020

[film] La belle saison (2015)

6月26日、金曜日の晩、MUBIで見ました。Pride Monthだし、くらい。2015年のフランス=ベルギー映画。英語題は”Summertime”。

71年、フランスの田舎の村でDelphine (Izïa Higelin)は農家の一人娘で父親母親と毎日外で畑仕事をしてて忙しい。彼女はレスビアンで近所に女友達もいるのだが、夜に会ったら結婚するのでもう会えない、とか言われてどんよりして、父親も結婚しないのかってうるさいのでパリに出ることにする。

パリに出たDelphineはフェミニストの女性たちの抗議活動にぶつかって、彼女たちを助けたことからそのグループに出入りしてビラ作成とかプロテストを手伝うようになり、グループメンバーの友人でゲイであるが故に電気ショック療法で虐待されていた男性を精神病院から救出した時に、仲間のCarole (Cécile de France)と出会って、背が高くてさばさばした彼女にぽーっとなってキスしたら、あんたなによ! って言われる。Caroleには同棲している彼もいたのであたしはゲイじゃないからね、ってDelphineには言うのだが、何度か会っているうちにふたりは仲良くなっていって、関係を持つようになるの。

やがてDelphineの父が倒れて入院して、命は取りとめたものの半身不随になって、農場を守らなきゃいけないので彼女は実家に戻って再び農作業に復帰して、そこにCaroleが訪ねてきてDelphineの家に泊まって畑仕事の合間にべたべたするようになる - とそのうちDelphineの幼馴染とか近隣の農家の男たちはなにか気づき始めて、初めは仲いいのね、って言っていた母にも知られてしまい、気まずくなってきて..

本当に直球のGirl meets Girlのお話しなのだが、女性同士、というだけでいろんなことがいろんなところで軋轢と混乱を呼び起こしていた時代と場所と階層の段差を見渡すことができる。 70年代初、パリではあれこれオープンになりつつあったとは言えCaroleと彼の間で、彼は理解を示すふりをしつつ我慢できなくなっていくし、それが田舎に行けば尚のこと、村の衆は好奇の目と恥の意識を掲げて首をふりながら女性ふたりを潰しにかかる。 でもずっとプロテストをやってきたCarolとDelphineはその程度の偏見はわかりきっていたこと、って最初は相手にしないのだが、だんだん疲れてくる。 田舎でのびのびおおっぴらに愛を交歓していたふたり、それがとっても気持ちよさそうで素敵だったが故に、外から来る冷たさや嘲笑によってゆっくりと疲弊していく描写はとても生々しく辛い。

特に最後の駅のホームでの一緒にいくか別れるかのやりとりと駆け引きのところ、男女のそれとはちょっと違う気がして、よいシーンなのだがいろいろ考えてしまう。これに続いて描かれる5年後で少し暖かくなる。

いま、状況は少しはよくなっているのか、都会と田舎、男性と女性という軸で見れば余り変わっていないのではないか - と思ってしまう根拠はなんだろ?

描かれた時代はこないだ見た“Misbehaviour” (2020) - これはロンドンだけど - とかドキュメンタリーで見たDelphine Seyrigさんの頃ので、あの頃のがなぜ今? というのは単に50年だから、とか言わないで。
(監督によると主人公ふたりの名前は Carole RoussopoulosとDelphine Seyrigから取っているのだそう)


ロンドンではパブとか美容室とか再オープンの初日で、ぜんぜん外に出る気のしない肌寒い曇天なのにパブ方面はものすごい賑わいだった模様。ほんとにしょうもねえ..  床屋はどこもドアを開け放って、みんなとっても嬉しそうに髪をやってもらっていた。

7.04.2020

[film] An Angel at My Table (1990)

6月28日の昼、Kent Film Foundationていうとこの企画で、30th AnniversaryのスクリーニングとQ&Aがあって、オンラインで見ました。権利関係で難しいところがあるらしく登録して寄付するとリンクとパスワードが送られてくる。日本でも91年に『エンジェル・アット・マイ・テーブル』のタイトルで公開されているニュージーランド映画。

Jane Campionが“The Piano” (1993)の前に撮った長編で、ニュージーランドの作家/詩人Janet Frame (1924-2004)の自伝三部作 - ”To the Is-Land” (1982) - “An Angel at My Table” (1984) - “The Envoy from Mirror City” (1984)を映画化したもの。ニュージーランドからヴェネツィア国際映画祭への初エントリーとなった作品で審査員特別賞を受賞している。全部で158分、撮影は16mmで12週間かけて撮ったそう。映画も原作に合わせてPart1から3まで分かれている。

冒頭、もしゃもしゃ赤毛の女の子が野道をこっちに向かって歩いてくるだけでなんか素敵。
20年代、ニュージーランドの田舎の村で、5人兄弟の大家族の中でわいわい育てられて友達と遊んで大人の世界を少しのぞいたり肉親の死を経験したり詩が大好きで本が手放せなくなっていく幼年時代を綴る第一部。

戦争の暗さが立ちこめる中、Janet (Kerry Fox)は将来詩人になる夢をもって妹と一緒に都会に出て師範学校に通って、窮屈な下宿で教師になるべく学んでいくのだが妹と比べると学校での対人関係がまるっきりだめで、検査官の参観する授業の肝心なとこで生徒の前で固まって動けなくなってしまう。いろいろ追い詰められて自殺未遂まで行って、でもなんとか持ち直して、優しくしてくれた教授に紹介された医院に行ってみたら統合失調症と診断されてそのまま8年間拘束、数百回の電気ショック療法を受けて ..  ほぼ廃人状態になって母親が合意したロボトミー手術をやる一歩手前で、ずっと書き続けていた短編が認められて出版される - これが日本でも翻訳が出ている『潟湖(ラグーン)』 - というニュースが、という第二部。

作家として認められて得たフェローシップで初めてニュージーランドを出てロンドンに滞在し、しばしのしょうもない下宿住まいを経てスペインに渡り、変わらずアーティストのコミュニティに馴染むことができないのだが、それでもそこにいたアメリカ人とぎこちない恋に落ちてぎこちなく別れたら妊娠していて流産して、でも精神科での体験を書いた本がベストセラーになって少しほっとしたら父の死の報を受けてニュージーランドに戻る - そしてそこからまた始まるなにか - という第三部。

すべてがでっかく不可思議に見えてしまう少女時代 – 大きな父親の靴に寄っていくとこ - とか、そしてすべてが横並びの気がする学生時代にどこに行っても中心からずれて揺れまくってしまうとこ - とか、大人になってからも気楽にハグもキスもできやしないとこ - とか、今だとずれてイケてない女性と呼ばれるに違いないその典型がそれぞれの時代時代でぜんぶ並べられているかんじなのだが、どの場所のどんな時代のものだったとしても、波乱万丈でなかったとしても、ひとりの女性の成長物語としてとてもきちんと正確に、彼女が見ていた世界を捉えている気がした。(制作時には存命中だったJanet Frameさん本人からいろいろアドバイスを貰ったそうな)

彼女のプロフィールを語る際に欠かせないと思われる「狂気」について、精神病院での日々については特に強調されるような描き方になってはいない。 どんな「狂気」も本人からすればそういうものなのかも知れないが、なんで彼女が創作を志したのか、を幼年期のエピソードから丁寧に拾っていくことで、すごく当たり前だけどこれはわたしの生なんだ、ということを少し強く言っているだけなの - それを狂っている、とかヒトが言いたきゃ言えばいい、と。

それにしても『ハチドリ』から続けてここに来ると女性の生き難さ - これが自分の生だ、と正面から言えない壁とか溝とか穴とか、規格から外れたら暴力的に病院とか監獄に送ってしまうような不寛容がいくらでも、世界のそこらじゅうにあって続いてきたのだ、この100年くらいずっと -  を改めて徒労感としんどさと共に思う。なんとかしないといいかげん。

日曜の晩22時からZoomでQ&Aがあって、プロデューサーのBridget Ikinさん、主演で、これが映画デビュー作だったKerry Foxさん等が参加していた。女性たちで女性の映画を撮る、ということが当時どういうことだったか、を中心に。


東京都知事選に行きたい。こちらに来る前に住民票は外して住民税はもう払っていないので投票することができないのはわかるけど、それまで何十年も暮らしてきたし戻ったらたぶんそこで暮らすつもりなので関係ない人の目で見ることができない。 めんどくさいとかかわんねーしとか言って投票に行かないバカの1票を取りあげて自分が行きたい。 そういう思いで遠くから見ているひとがいることをわかって。 そして投票に行って。 日本の都市をこれ以上ださい薄っぺらなのにしないで。

7.02.2020

[film] House of Hummingbird (2019)

6月27日、土曜日の晩、Lincoln CenterのVirtual Cinemaで見ました。日本でも『ハチドリ』で公開が始まっているのね。

94年のソウルで、14歳(また14歳..)のウニ (Park Ji-hoo)がいて、玄関のベルを何度押しても開けてもらえないのでなによもう!って怒ったら別のフロアで、でっかい団地なので自分ちに入ることすら大変なのだ、というオープニング。

彼女の家は自営の餅屋をやっていて店に出ている母親とがみがみやかましい父親がいて、長男は父親の前では大人しく勉強しているふりをしつつ裏ででウニを殴ったりして、姉はすべてを諦めているかのようにふらふら遊んでてBFを家に連れこんだりしている。

家の外にはふつうに親友がいて、彼っぽい青い彼がいて、年下の女の子から憧れられたりして、親友と万引きしたら捕まって彼女が自分の家のことを喋っちゃうので絶交したり、彼とはキスするくらいまで行っていたのに突然向こうの親が割りこんできて引き裂いていったり、耳の脇のところにしこりができて入院しなきゃならなくなったり、ほんといろいろあって頭がぱんぱんになっていた頃に中国語(漢文?)の塾の先生 - ヨンジ(Kim Sae-byuk)と出会って、彼女のクールで、でも優しいところにぽーっとなって、いろんなことを相談するようになって。

いいことは何一つないし、こちらがこうなってほしいと思うことは何一つ叶わないし、逆に怒られる叱られる叩かれる嫌われる裏切られるおまけに入院かよ、って散々だし、そこが団地だったりするので飛び降りちゃったりしないか、はらはらなのだが、彼女は時折泣いたり怒ったりするものの割とつーんとしている – でもその反対側に何やらいっぱい貯めこんだり飲みこんだりしていることもわかる。 羽をものすごい勢いと回数でばたつかせて結果的に空中で静止しているように見せるハチドリのように。花の周りに寄ってくるとあら小さくてかわいい、とか言われるけどハチドリからすればうるせーよこれがどれだけ懸命で必死なのかわかってんのか、って。

この辺、誰もが思いだすであろうアメリカの“Eighth Grade” (2018)との比較でいうと、あれは空中で静止するハチドリではなく、とにかく初っ端から虚勢を張ってでも目立つべし! 注目してくれればこっちのもん、ていう極楽鳥みたいなやつで、東と西で違うもんだねえ、っていうのと、どっちにしてもそこまでしなければいけないのか、っていう彼らの負荷とか生き辛さ面倒くささに打たれる。
仮装もなりすましもパラサイトも全く無理、自分らしさ? なんてどこ探したら見つかるのか。

もういっこ、最初の方に出てくる母方のちょっと変わった伯父さんの突然の死、小さなしこりで突然入院まで行っちゃうのとか、1994年10月に実際に起こった聖水大橋の崩落事故で身近な人たちの生死を目の当たりにしそうになったり、すぐそこにある死が描かれる。それは偶然の重なりで起こったことではなくて、ハチドリが巣から出て飛び回るようになって見えてきたもので、目一杯なんとかしようとする生の世界の彼方、というよりはすぐそこに穴を開けて控えているやつだった、と。

もうひとつは家族も含めた周囲にいる人たちの像の残りかたで、親も兄弟も友達も先生も、みんな同じ濃淡と輪郭でそこにいて、ただ通り過ぎるだけではなくてずっと印象に残る。なんであなたはそんなに意地悪なの?陰険なの?ぶつかってくるの?恨みでもあるの? 或いは、なんでそんなに落ち着いていられるの? やさしくしてくれるの? っていう眼差しと共にウニの視野にずっと残る像たちの強さ、重さ。ずっと忘れないからなって。それらが彼女の家を形作る。逃げようが戻ろうが好きでも嫌いでもそこにあるやつ。

これらはどれもとても注意深い演出とものすごくうまい俳優さんたちなしではありえないと思った。特にウニの、放心したようなハチドリの無表情はすごいの。


London Film Festival 2020の概要が来た。 映画館でも少しやるみたいだけどほぼVirtualみたい。お祭りなのになー。XRなんてぜんぜん興味ないのになー。

7.01.2020

[film] The More the Merrier (1943)

6月25日、木曜日の晩、Criterion Channelで見ました。6月いっぱいで見れなくなるよリストからなんとなく。Jean Arthurの出ていた映画たちがいっちゃうみたい。邦題は『陽気なルームメイト』 - いや陽気どころか割と変態に近いと思う。

怪しげなおじさんBenjamin Dingle (Charles Coburn)がワシントンD.C.に着いてホテルにチェックインしようとするのだが予約した2日前に来たので部屋は空いてないって言われて(そりゃそうだ)、街中で部屋を探そうとするのだが、D.C.はどこも部屋不足でみんな列を作っていて、「貸間あり」の貼紙を前に交渉のために並んでいる人たちを無視してつかつか中に入り、現れた部屋の住人Connie (Jean Arthur)に貸してと言うと、えーって返される(当然)のだがなんか強引に部屋の半分を契約してしまう。

仕方ないのでConnieは共同生活に向けて朝のスケジュール(どっちがいつバスルームを使うか、とか)を分刻みできっちり作るのだがあれこれ衝突してドタバタめちゃくちゃで、この先どうするんだろ?って見ていると、Connieが会社に出ていった後、Dingleは部屋を探していた別の怪しげな男Joe Carter (Joel McCrea)を手招きして勝手にサブレットのサブレットをしてしまう。他にもDingleが置いてあったConnieの日記を読んじゃうとか、そもそもありえないでしょ、なことが続くのでConnieが激怒してふたりを追っ払って終わり、で実際そうなるのだが、顔を合わせたConnieとJoeは何やらときめいてしまったらしく、Joeが次の目的地アフリカに旅立つまでの数日間なら居てもいいわよ他に行くとこないんでしょ、とか言うのでだんだん捩れていくの。

ConnieはD.C.の官僚のCharles J. Pendergast (Richard Gaines)ていうのとずっと婚約していて、でもConnieの様子を見たDingleはこいつはよくないな、ってPendergastを仕事で呼びつけてそのまま缶詰にして、その隙にJoeとConnieを一緒にしようと画策して、ふたりをなんとかディナーデートの席まで持ってくるのだが…

最後の方、登場人物全員が乗り合いタクシーの中で口喧嘩して、その始終を聞いていた乗客の新聞記者がおもしろいネタをありがとう、ってビルに消えていくとこに向かって絶叫しながらスライディングをかますシーンがめちゃくちゃおもしろいのと、ラスト、Connieのアパートでの魔法(じゃないけど)のように壁がなくなっちゃうとこがすばらしいったらないので、全部許すことにした。

住宅難じゃなければ、「貸間あり」ってやらなけば普通に安泰だったかも知れない人生なのに、そこにrom-comっていうより長屋の人情どたばたコメディ(ふう)が接続されて、そんなのが都会のD.C.で成立してしまう変で不思議なかんじ。 戦時下でよくこんなの作れたもんだわ。

6月17日に同じくCriterionで見た”The Devil and Miss Jones” (1941) – 見始めてからこれ前にシネマヴェーラで見て感想書いてたことに気づく -  でもしょうもないおっさんCharles Coburnの隙だらけの悪だくみとそんなのにはめられて奮闘しまくる真面目なJean Arthur、の構図があったが、こういう小太りのおっさんをお茶目とか言って甘やかしてはいけない、って思いつつこのふたりはなんかよいからいいや、って。 


昨日、National GalleyとRoyal Academy of Artsから再開するよ、ってメールがきた。
そろそろ来ることはわかっていたが、来てみればどうしよう… になっている。見たけりゃ見ればいいじゃん、なのだが何が何でも駆けつけたい程でもないしな、でも絵は見たいしな、とか延々転がしていて、それだけで楽しかったり。