1.13.2020

[film] La Dolce Vita (1960)

6日の月曜日の晩、BFIのFederico Fellini特集で見ました。
今年は彼の生誕100周年なのでNYでも同様の特集がある模様。 特集の予告は以下。ロッキンしていてなかなかかっこいいの。

https://whatson.bfi.org.uk/Online/default.asp?BOparam::WScontent::loadArticle::permalink=fellini&BOparam::WScontent::loadArticle::context_id=

今月はなにがあってもCarole Lombardさま特集を優先させねば、なのだが、では例えば昨年回顧特集が組まれたMichelangelo Antonioniと比べてみるとー。Antonioniの場合は掘っていくと近代化とか不寛容とか疎外、のような考えるネタとか「問題」が見え易くなっていく気がしたのだが、Felliniってどうなんだろうか? どうもKubrickとかFelliniとか、これがわかんなきゃ映画好きとは言わせないカテゴリ(by 偉そうなおやじ)のようなのが昔からあって、そんなのに乗るもんか、って敬遠してきたのだが見続けていくことでなにか見えてきたりするのか - そもそもそんなふうに見るもんじゃないよね。 でも、じゃあ、見ないかっていうと、やはり見るよね。

『甘い生活』。 上映は4Kリストア版で、ここだけじゃなくて他の映画館でもリバイバル公開されている。 約180分。ぶっといストーリの幹やドラマのうねりがあるわけでもないのに、あっという間すぎてびっくり。

冒頭、キリストさまのでっかい石像をぶら下げたヘリが堂々とローマの街を突っ切っていって、そこに乗っているのはタブロイド紙の記者のMarcello (Marcello Mastroianni)とその仲間のカメラマンとかで、こういうスペクタクルな場面とか、彼の周囲に出てくる女性たち - 貴族のMaddalena (Anouk Aimée)、面倒くさい恋人のEmma (Yvonne Furneaux)、アメリカ人グラマー女優のSylvia (Anita Ekberg)などなどとのやりとり、というかアンストッパブルだけど一瞬の恋とその連続、子供たちと奇跡、敬愛する文人Steiner (Alain Cuny)とのやりとりと彼の悲劇的な死(何が彼を?)、朝まで続くどんちゃん騒ぎと、浜辺に打ち上げられた化け物、などなどが夜に始まって朝に終わるエピソード、のような形で互いに交錯することもなくするする流れていく。その「現場」にはMarcelloが必ずいるのだが、彼はそれを記事にするわけでも何かを解決したりするわけでもなく、ただその場にいる(相手が女性だったら手をだしたり)だけ、カメラ – パパラッチはどこに行っても群れていて蠅のようで、その蠅の集りよう、みんなで束になって踊り倒すところも含めてどいつもこいつもドリーム・シークエンスとしか言いようがない。

例えば聖と俗、ハイとロー、という切り口、例えば冒頭とラストに顕著なように誰が何を言っても轟音にかき消されて聞こえない・届かない状態の持続、役に立つとか立たないとか、そういう議論から遠く離れて、夜から朝にかけてあっという間に老いたり錆びれたりしていく人や街、それを数千年に渡って繰り返してきたさまを俯瞰して、「甘い生活」?とか言ってみる。 生きて活きるで生活。 甘いの上等、こんなの、苦くて辛いことにどんな意味があろうか?

映像はそれに応えてどこまでもアイスクリームのように綿あめのように甘くて白くて、たまんないのだが、でも実際に舐めてみるとそんなにおいしくないのもわかっていて、それがローマの昼と夜を生きることなのだよ、って。

例えば、『ローマの休日』を見てもローマに行く気にはあんまならないけど、これを見ると行ってみてもいいかも、ってなる、とか。

あとはとにかく、女性のゴージャスな存在感がどこまで行ってもすごい。単にスケベ、っていうだけなのかも知れないが、これがなければ自分は死ぬ、生きているいみないもん、みたいな決意でもって撮られているかんじで溢れていてたまんないったら。

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