1.22.2020

[film] La città delle donne (1980)

16日、木曜の晩、BFIのFellini特集で見ました。英語題は”City of Women”、邦題は『女の都』。

列車のなかで自分の向かいに座った女性にぼうっとなった初老のSnàporaz (Marcello Mastroianni)が己の欲望の赴くまま彼女のお尻を追って列車を降り、森のなかに迷いこんで進んでいくとそこにはでっかい建物があってフェミニストの集会だかイベントだかが開かれていて、いろんな多様な女性たちが彼に向かって寄ってきたり煽ってきたり敵意むきだしできたり、際限なくいろいろなので彼もそれに応えたり応えなかったり、彼の分身のような男が出てきたり、そこを出てからもいろんな女性たちが次から次へといっぱいのカーニヴァル状態でかしましくてせわしなくて果てがない。

ふつうここまで錯綜しててきとーでぐじゃぐじゃだと、いくら1980年であったとしても映画として成り立たないのではないか、と思うのだが、見ることができてしまうのはひとりの男の夢の繋がったり途切れたりしているその要素とか断片をオーケストレートするという明確な指針とか意思みたいのがあるからではないか。夢だからなんでも起こりうるし、落下も飛翔も思いのままだし、誰でも何度でも登場して再生も転生も思いのまま、「甘い生活」のタブロイド紙記者のように自分がどこのだれであるのか、なんて意識しなくてよいまま、どこまでも広がって続いていく。

その続いていくかんじが男性とか王族とか動物とかの間ではなく割と強そうな女性との間でえんえん、というのがこの映画のキモで、すごいのはエキストラも含めて誰ひとりとしてしらじらしく演じたり出演している感がないことで、全員が彼の夢のパーツとして完璧にフィットして機能している。とにかく偉大な監督なんだねえ。

もちろんこんな状態の晒されっぷりを女性蔑視の、ミソジニーの光景として見てしまうことは可能で、Fellini自身はいやいや自分はいつもいろんな女優も女性もRespectしてきたしずっとひとりの妻と一緒だし、と返すわけだが、そういうひとがよくいうあれよね。 ほんとうの「女の都」っていうのは例えばこないだの”Delphine and Carole” (2019)で描かれたようなやつだと思う。

「生活」を描いたものでも「旅」を描いたものでもなく、この世のどこか、誰かの頭のなかに139分間は存在したCity - 「都」を描いた映画で、そういうものがどこかに浮かんでいたかんじは確かに。

BFIで貰った解説ペーパーにはこの映画を思いついた時のFellini自身の回想が載っていて、夜のローマで、Ingmar Bergmanと一緒のとき(横にはLiv Ullmannもいたかも)で、なにか一緒に作れないか検討を始めたのだと。このふたりがこのテーマで共作していたらすごいものになっていただろうな。 どっちも女性に対する勝手な妄想とか畏れとか希望とかでぱんぱんに膨れあがっているのであっというまにこれに洗脳されて影響される勘違い野郎がうじゃうじゃ湧いてでそうな。

どうでもいいけど、この映画のMarcello Mastroianniが、ところどころColin Firthに見えることがあった。

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