1.17.2020

[film] Amanda (2018)

12日、日曜日の昼、CurzonのBloomsburyで見ました。日本では昨年とうに公開されている『アマンダと僕』、こちらではほんの少しの館で1週間くらい。

20代半ばのDavid (Vincent Lacoste)はツーリストのB&B手配とか植木の剪定とかをしながら暮らしていて、忙しい姉でシングルマザーのSandrine (Ophélia Kolb)に頼まれて姪のAmanda (Isaure Multrier)の送り迎えとか面倒も見たりしたりしていて、明るいパリの陽光のもと、結構楽しく幸せに暮らしていた。

のだが、夕刻の公園を襲った無差別テロによりSandrineは突然に亡くなってしまい、Davidはショックで途方に暮れて、でもAmandaなんてもっとかわいそうだし、いちいちいろんな局面で目を赤くして泣きながら立ち尽くしてしまう – この辺、Vincent Lacosteってほんとうにうまいと思う。

彼らにはうさぎと暮らす変わった叔母もいるし、ロンドンには疎遠な母(Amandaには祖母)もいるのだが、Amandaの後見人となるとこのふたりはどうかと思うし、かといって自分もAmandaが18歳になるまで面倒をずっとみるなんて想像もつかない..  定職があるわけでもないし、恋人になりかけているのかいないのか、Léna (Stacy Martin)との恋だってあるし、悩んで泣いてばかりいるわけにも、って横をみるともっと不憫なAmandaがいるので、もとに戻ってぐるぐる悩み続けてしまう。

終わりのほうで、DavidとAmandaはSandrineがいた頃に約束していたロンドン旅行に出かけて、プリムローズ・ヒル(だよねあれ?)で母- 祖母と会って、ウィンブルドンでテニスを見て、そういうのを通してDavidがAmandaとのことについて自分なりの結論を.. ていうだけだったらおもしろくないのではないか、と思っていたらそっちには行かなかった。 あの終わりかたは不意打ちのようにえ??、ってなって思わずAmandaと一緒に泣いてしまうのだが、でも時間が経ってみるとそうだよね、ってしみじみする。

で、よくわかんない状態のままじーんとしているとそこにJarvis Cockerの“Elvis Has Left The Building”が荘厳と呼んでよいのか微妙に惑うかんじでへらへら降り注いできて、やっぱり泣くもんか、って思った。

喪失の悲しみとか傷のありようって、例えばこんなふうにひっくり返すことができる。 “Ponette” (1996)のママはPonetteのために一瞬現れて、Amandaのママ(= Elvis)はAmandaのためにとビルから去った。 それはとっても脆くてちょっと不可思議で、でもそんなもんか、と後になるとわかって、でも案外忘れてしまったりもする、そんな夏のテニスコートで起こったこと。

ここで描かれたロンドンの街って、なんかさわやかでヨーロッパのどこかの街のようで、自分が住んでいるロンドンとはぜんぜん違うかんじがした。そういうもんよね。

DavidとLénaのふたりも素敵だったので、5年後くらいに続編とか作らないかなあ。こないだ見たChristophe Honoréの“Room 212” (2019)にもあったように、彼って時の経過を絡めた長いレンジで見たくなる俳優さんかも。

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