昨日、23日に会社を休んで日帰りでマドリッドに行った。
プラド美術館でやっているGoyaのドローイング展とか、Sofonisba AnguissolaとLavinia Fontanaのふたりの女性画家の展示とか、Thyssen-Bornemiszaでやっている「印象派と写真」展とか、ソフィア王妃芸術センターでやっているDelphine Seyrigのとか、たまたま見たいのが揃って固まっていて、しかも2月あたまで終わりそうなのがあったからで、実際どれもすばらしかったので後悔なんてこれぽっちもするもんか、なのだが、もんだいは、あと数時間ご - 25日の朝から少しだけにっぽんに戻る、その準備がぜんぜんできていないことなのね。
土曜日に出て次の土曜日(か日曜日)までのだいたい一週間、仕事と健康診断が主なので好き勝手に動けなくなるのはわかっていて、実際に予定表がぶちぶち埋められていくのを見ながらどうすんだこれ、とか他人事のように言っているそのどまんなかでなんで目をそらして休んで迷惑ふりかけとかへーきでやっているのか。いくつになったらそういうのわかるのか。
来週、まだ日本に滞在している2月のはじめがくると、ロンドンに来てちょうど3年になるの。
3年も経てばいちおう駐在っぽいかんじになるし、3年間いました、っていうと少しはロンドンのことがわかっている人のふりもできるのかも、とか思うのだが、まだぜんぜんそこまで行っていない気がする。 半分くらい映画とか絵画とかのなか - 向こう側に - いたような気がする。 まだ見ていない行っていない名所とかいっぱいあるし。
とにかくここまでで3年で、いまの時点で帰国のはなしがなさそう(わかんないけどな)、というところで一番うれしいのはオリンピックを見たり、見たくなくても視界に入ってくるようなことがないことで、最近はほんとぼろぼろでついてないことばっかりだけど、これだけできっとたぶん幸運なのかも、って思うようにしている。
ここ数年間で日本はほんとに、世界で一番滞在したくない国に下落してしまった気がするので、とっとと切りあげてこっちに戻ってきたいのだが、それでもなんかあるなら見たい、そういうのを見て気分を紛らわすことができるようななんかがあるのであればー。
とりあえずブダペストのと「窓」のと、Saul Leiterはどうか(渋谷行きたくな)、奈良原一高はむりかな、ダムタイプは遠いかー、Hammershøiはー(デンマークに行くべき?)、とか。 映画はあんまないかー、ないかー、ないかー(いちおう探している)。 時間と元気と気分がはまったらね。
このPCも持っていくので、あまりに行くところがなくて打ちひしがれたらなんか書くかも。
では、ひょっとしたら再会できるかもしれないみなさまには、お会いできるのをたのしみにー
ぱたん。
1.25.2020
1.24.2020
[film] Waves (2019)
21日、火曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。 Soundtrack担当があの2人だったので見ようと思ったのだが、とんでもなくよかった。これもA24の。
フロリダの高校生、Tyler (Kelvin Harrison Jr.)は、部活のレスリングに打ち込んでいて、恋人のAlexis (Alexa Demie)とも仲良いし、父はスポーツのところは厳しい(腕相撲やってもまだTylerよかぜんぜん強い)けど家族みんな - 母は継母だけどとても家族想いで、あと妹のEmily (Taylor Russell)も - との仲も悪くない、ほんとそこらにいるふつうの高校生とその家庭で。
ある日、腕の調子がよくないのでTylerは医者に行ったら相当やばい状態なのでレスリングはすぐに止めて治療に専念するように言われるの。でもチームとか父親の期待もあるので今のトーナメントが終わってからにしたい、と断って痛み止めを飲みつつ無理していったら試合で動けなくなって、父親からはどうしたなにやってる? と怒られるし、そうするとすべてが悪い方に向かってAlexisとも喧嘩してIMをブロックされて逆上し、酒をあおって彼女のいるパーティ会場に向かい、言い争いの果てに手が出て殺してしまう - で、捕まって裁判の後に収監され、家族の前から消える。
あの晩、パーティ会場にいてTylerがAlexisを引っ張って奥にいくのを見ていたEmilyはあの時なんで自分が止められなかったのだろう、ってずっと苦しんでどんよりしていて、そんな時同じ高校のLuke (Lucas Hedges)がおどおど声をかけてきて、いろんなことを話しながらゆっくり仲良くなって、ふたりでマナティー見に行ったり(いいなー)、やがてLukeの疎遠になっていた父 - DV歴あり - が末期ガンでもう長くないことを知ると、Emilyは会いに行かなきゃだめだ、って強く言って、ふたりでミズーリまで行くことにするの。
前半のTylorのパートでは彼の腕の件をきっかけに家族が積みあげてきたものすべてが粉微塵にされてしまう過程が描かれ(画面の幅も縮んでいく)、後半のEmilyのパートでは、彼女自身も、父も母もぎこちなくゆっくりと会話ができる状態に - 前と同じに戻れないことはわかっているけど - 戻っていく(画面の幅もまた)。 寄せては返す波のように。
前半のぐるぐる回りながら転がり落ちていく勢いとそのテンション、後半のひとつひとつを確かめながら踏みだそうとする惑いと揺らぎ、どちらも怖いくらいに生々しくて誰もがその感覚を自分のどこか/いつかに起こって刻まれているなにかとして感じることができるのではないか。そういうのを通して家族とか恋人とかの不可思議な関係のありようについて考えてしまう - ていうのが自分にとってのよいホームドラマってもんなの。
そういうのよりもなによりも、EmilyとLukeのふたりの出会いから旅に踏みだすまでの時間の描き方が素敵ったらなくて、どちらも傷を負った状態でおそるおそる近寄っていって互いになんとかしようとがんばるとってもよい女の子と男の子の絵、ひさびさに見た気がした。ふたりの萎れたかんじがめちゃくちゃよいの。
すばらしい音楽映画でもあって(最初はミュージカルにしようとしていたって本当?)、
Dinah Washingtonの”What a Difference a Day Makes"みたいなクラシックが全体のドリーミィな背景を作りつつ、Frank OceanやAnimal Collectiveのモダンな音(知らないやつばかりだった)が若者の心象とリンクして上昇気流をつくり、その隙間をTrent Reznor & Atticus Rossのオリジナルが埋めて、驚くべきことにこれらがぜんぶひとつの音楽のように段差なく繋がってずっと輪になって踊っていく。ピアノを中心としたTrentのあのコード進行がここではやたら切なく響いて、劇中の音響処理(脳内でじんわり鳴っているようなところとか)も含めて、この辺は是非映画館で。
それにしても”The Farewell” (2019)といいこれといい、A24の家族映画はすばらしいねえ。”Midsommar” (2019)も広義の家族 .. ?
まあ、よい猫とマナティーが出てくるだけで、この映画はじゅうぶんさいこうなの。
日本でも公開されますように。変な邦題がつきませんように。
フロリダの高校生、Tyler (Kelvin Harrison Jr.)は、部活のレスリングに打ち込んでいて、恋人のAlexis (Alexa Demie)とも仲良いし、父はスポーツのところは厳しい(腕相撲やってもまだTylerよかぜんぜん強い)けど家族みんな - 母は継母だけどとても家族想いで、あと妹のEmily (Taylor Russell)も - との仲も悪くない、ほんとそこらにいるふつうの高校生とその家庭で。
ある日、腕の調子がよくないのでTylerは医者に行ったら相当やばい状態なのでレスリングはすぐに止めて治療に専念するように言われるの。でもチームとか父親の期待もあるので今のトーナメントが終わってからにしたい、と断って痛み止めを飲みつつ無理していったら試合で動けなくなって、父親からはどうしたなにやってる? と怒られるし、そうするとすべてが悪い方に向かってAlexisとも喧嘩してIMをブロックされて逆上し、酒をあおって彼女のいるパーティ会場に向かい、言い争いの果てに手が出て殺してしまう - で、捕まって裁判の後に収監され、家族の前から消える。
あの晩、パーティ会場にいてTylerがAlexisを引っ張って奥にいくのを見ていたEmilyはあの時なんで自分が止められなかったのだろう、ってずっと苦しんでどんよりしていて、そんな時同じ高校のLuke (Lucas Hedges)がおどおど声をかけてきて、いろんなことを話しながらゆっくり仲良くなって、ふたりでマナティー見に行ったり(いいなー)、やがてLukeの疎遠になっていた父 - DV歴あり - が末期ガンでもう長くないことを知ると、Emilyは会いに行かなきゃだめだ、って強く言って、ふたりでミズーリまで行くことにするの。
前半のTylorのパートでは彼の腕の件をきっかけに家族が積みあげてきたものすべてが粉微塵にされてしまう過程が描かれ(画面の幅も縮んでいく)、後半のEmilyのパートでは、彼女自身も、父も母もぎこちなくゆっくりと会話ができる状態に - 前と同じに戻れないことはわかっているけど - 戻っていく(画面の幅もまた)。 寄せては返す波のように。
前半のぐるぐる回りながら転がり落ちていく勢いとそのテンション、後半のひとつひとつを確かめながら踏みだそうとする惑いと揺らぎ、どちらも怖いくらいに生々しくて誰もがその感覚を自分のどこか/いつかに起こって刻まれているなにかとして感じることができるのではないか。そういうのを通して家族とか恋人とかの不可思議な関係のありようについて考えてしまう - ていうのが自分にとってのよいホームドラマってもんなの。
そういうのよりもなによりも、EmilyとLukeのふたりの出会いから旅に踏みだすまでの時間の描き方が素敵ったらなくて、どちらも傷を負った状態でおそるおそる近寄っていって互いになんとかしようとがんばるとってもよい女の子と男の子の絵、ひさびさに見た気がした。ふたりの萎れたかんじがめちゃくちゃよいの。
すばらしい音楽映画でもあって(最初はミュージカルにしようとしていたって本当?)、
Dinah Washingtonの”What a Difference a Day Makes"みたいなクラシックが全体のドリーミィな背景を作りつつ、Frank OceanやAnimal Collectiveのモダンな音(知らないやつばかりだった)が若者の心象とリンクして上昇気流をつくり、その隙間をTrent Reznor & Atticus Rossのオリジナルが埋めて、驚くべきことにこれらがぜんぶひとつの音楽のように段差なく繋がってずっと輪になって踊っていく。ピアノを中心としたTrentのあのコード進行がここではやたら切なく響いて、劇中の音響処理(脳内でじんわり鳴っているようなところとか)も含めて、この辺は是非映画館で。
それにしても”The Farewell” (2019)といいこれといい、A24の家族映画はすばらしいねえ。”Midsommar” (2019)も広義の家族 .. ?
まあ、よい猫とマナティーが出てくるだけで、この映画はじゅうぶんさいこうなの。
日本でも公開されますように。変な邦題がつきませんように。
1.22.2020
[film] Lo sceicco bianco (1952)
18日の晩、『カビリアの夜』に続けてFellini特集で見ました。彼が単独で監督をした最初の作品。
英語題は”The White Sheik”。邦題は『白い酋長』 - これ、日本ではビデオ公開のみなの?
ついこないだ、NYのFilm Forumでも公開されて話題になっていた。とにかくすばらしくおもしろいやつなの。
新婚のカップル - 夫のIvan (Leopoldo Trieste)と妻のWanda (Brunella Bovo) がハネムーンで列車に乗ってローマにやってくる。ホテルに着くまでにIvanはWandaに旅行中のスケジュールについてこまこま指示をする。ヴァチカンに務める堅物のおじと会って、観劇して、食事はどこそこで、夜にはもちろんホテルに戻ってきて … めちゃくちゃ張りきっているのだがWandaは聞いていてもどこかそわそわ上の空で、ホテルで着替えて、紙の束を抱えて、ある住所を聞くとそこに出かけていってしまう。
彼女は当時イタリアで女子みんなを虜にしていたphoto comic - “fumetti”と呼ばれていた - のシリーズ活劇 - “The White Sheik”に夢中で、その主演男優Rivoli (Alberto Sordi)の大ファンで、ファンレターの返事を大切に持ってて、彼の似顔絵を抱え、せっかくローマに来たんだからひと目会えれば、って制作会社までやってきたの。(旅先でつい脇にそれて別行動してしまうかんじはようくわかるよ)
fumettiについては、ちょうど一年前、ここでやっていたMichelangelo Antonioniの短編ドキュメンタリー - “Lies of Love” (1949)でその制作現場が描かれていたのでよくわかる。毎週発売されるたびに女子を中心にものすごい人気を呼んでいて、その制作は映画を撮るみたいな大所帯で、でも俳優とかはそこらの工場にいる兄ちゃんだったり。
とにかく彼女はRivoliに会おうとするのだが、彼は週末にならないとここには来ないとか、それがやがてすぐそこに来ているけど会う?に変わり、会いに行こうよ、ってつい車に乗せられたらどんどんローマから離れてしまい.. かわいそうなのは夫のIvanで、彼女に会わせろって親戚はうるさいし、でも彼女はどこに消えたのか見当もつかない、ひょっとしたら嫌になって逃げてしまったのではないか、とか顔面蒼白で(かわいそうだけどめちゃくちゃおかしい)。
他方、Wandaはロケ先でついにRivoliと会うことができて、似顔絵を渡してお話して、comicに出演することまでできちゃって、すっかり新婚の夫のことなんか忘れてしまう(忘れちゃえ)のだが、我に返るとやばいやっぱし帰らないとかも、って。
だいたい昼間から次の日の昼間まで、24時間くらいのお話なのだが、夢のおとぎ話と現実のぐったり話が混濁して支離滅裂が螺旋になって加速していくさまはすでにFelliniかも。screwballのような取り違えのおもしろさとは別で、ここに出てくる連中はぜんぶ自分のことしか考えていないし自分の見たいものしか見ないので踏み外して脱線して大火事になる。『カビリアの夜』のCabiria (Giulietta Masina)も登場してIvanの方に絡むのだが、すぐ忘れて火吹き男に夢中になってしまうし。
コメディなので最後はめでたしめでたしなのだが、それにしてもおもしろすぎる。Felliniを見る最初の1本がこれだったら印象変わったかも。 実際変わった気がする。
英語題は”The White Sheik”。邦題は『白い酋長』 - これ、日本ではビデオ公開のみなの?
ついこないだ、NYのFilm Forumでも公開されて話題になっていた。とにかくすばらしくおもしろいやつなの。
新婚のカップル - 夫のIvan (Leopoldo Trieste)と妻のWanda (Brunella Bovo) がハネムーンで列車に乗ってローマにやってくる。ホテルに着くまでにIvanはWandaに旅行中のスケジュールについてこまこま指示をする。ヴァチカンに務める堅物のおじと会って、観劇して、食事はどこそこで、夜にはもちろんホテルに戻ってきて … めちゃくちゃ張りきっているのだがWandaは聞いていてもどこかそわそわ上の空で、ホテルで着替えて、紙の束を抱えて、ある住所を聞くとそこに出かけていってしまう。
彼女は当時イタリアで女子みんなを虜にしていたphoto comic - “fumetti”と呼ばれていた - のシリーズ活劇 - “The White Sheik”に夢中で、その主演男優Rivoli (Alberto Sordi)の大ファンで、ファンレターの返事を大切に持ってて、彼の似顔絵を抱え、せっかくローマに来たんだからひと目会えれば、って制作会社までやってきたの。(旅先でつい脇にそれて別行動してしまうかんじはようくわかるよ)
fumettiについては、ちょうど一年前、ここでやっていたMichelangelo Antonioniの短編ドキュメンタリー - “Lies of Love” (1949)でその制作現場が描かれていたのでよくわかる。毎週発売されるたびに女子を中心にものすごい人気を呼んでいて、その制作は映画を撮るみたいな大所帯で、でも俳優とかはそこらの工場にいる兄ちゃんだったり。
とにかく彼女はRivoliに会おうとするのだが、彼は週末にならないとここには来ないとか、それがやがてすぐそこに来ているけど会う?に変わり、会いに行こうよ、ってつい車に乗せられたらどんどんローマから離れてしまい.. かわいそうなのは夫のIvanで、彼女に会わせろって親戚はうるさいし、でも彼女はどこに消えたのか見当もつかない、ひょっとしたら嫌になって逃げてしまったのではないか、とか顔面蒼白で(かわいそうだけどめちゃくちゃおかしい)。
他方、Wandaはロケ先でついにRivoliと会うことができて、似顔絵を渡してお話して、comicに出演することまでできちゃって、すっかり新婚の夫のことなんか忘れてしまう(忘れちゃえ)のだが、我に返るとやばいやっぱし帰らないとかも、って。
だいたい昼間から次の日の昼間まで、24時間くらいのお話なのだが、夢のおとぎ話と現実のぐったり話が混濁して支離滅裂が螺旋になって加速していくさまはすでにFelliniかも。screwballのような取り違えのおもしろさとは別で、ここに出てくる連中はぜんぶ自分のことしか考えていないし自分の見たいものしか見ないので踏み外して脱線して大火事になる。『カビリアの夜』のCabiria (Giulietta Masina)も登場してIvanの方に絡むのだが、すぐ忘れて火吹き男に夢中になってしまうし。
コメディなので最後はめでたしめでたしなのだが、それにしてもおもしろすぎる。Felliniを見る最初の1本がこれだったら印象変わったかも。 実際変わった気がする。
[film] Le notti di Cabiria (1957)
18日、土曜日の夕方、BFIのFellini特集で見ました。英語題は”Nights of Cabiria”、邦題は『カビリアの夜』。
上映前に映画作家のCarol Morleyさんを交えたイントロがあった(彼女の”Out of Blue” (2018)はPatricia Clarksonの探偵がとってもかっこいいノワールだったの)。 映画作家としてのFelliniはでっかすぎてどこがどう好きとか言えるもんじゃないわよ、というのが結論になる。 この映画のエンディングについては - (客席から言っちゃだめーの声が多数沸いたので結末は言わずに)、わたしはあれはポジティブな方だととらえている、って。
ローマのはずれのバラックみたいなところ(あの場所、いいなー)で仲間とつるんで暮らす娼婦のCabiria (Giulietta Masina)は威勢よくフラれて溺死しそうになったりしていて、それでも彷徨っていると拾われたお金持ちの映画監督の家で冗談みたいな一夜 - 喧嘩した彼女が戻ってきたのでずっと狭いところに軟禁 - を過ごしたり、教会でじーんとしたり、マジックのショーで舞台に上げられて笑いものにされた後、おどおど話しかけてきたOscar (François Périer)と仲良くなって、彼はどうみても堅気だしいつも食事おごってくれるし過去のことも根掘り葉掘りしないし、って浮かれていると来た!ってかんじで結婚しよう、って言われちゃったので、家財一式売り払って現金にして、仲間に旗をふられてうきうきと彼のところに行くと..
このストーリーはどこかで… と思ったら昨年10月のLFFで見事なリストア版が上映されたBob Fosseの”Sweet Charity”(1969)、これのオリジナルはこの作品だったのね(FelliniやPier Paolo Pasoliniらによる共同脚本をNeil Simonが書き直し - 脚色っていうのか? している)。Cabiria (Giulietta Masina) → Charity Hope Valentine (Shirley MacLaine)、どちらもショートヘアでひどい扱いや境遇にめげずに元気いっぱいなのだが、このふたりを並べてみることにどんな意味があるのだろう? って少しだけ思った。 10年を隔てて全く異なる都市で、ああいうことが連鎖して起こることについて。 そういえば”Sweet Charity”にはエンディングがふた通りあるのだった - LFFでは両方見ることができた。
これってずっと日々続いていく同じ町、同じ通りの、でも決して同じでない夜に起こったいろんなことを繋げていくのだが、『甘い生活』のMarcelloが経験する夜のあれこれとはやはり違う。どっちがどう、とか問うのって意味ないのかもしれないけど、どっちが幸せかなあ、とか、Cabiriaのぴょんぴょこ踊りを見ると思ってしまう。 あんなふうに踊れるってそれだけでとっても素敵だしすばらしい、って。
ぜんぜん関係ないけど、Terry Jonesの訃報も悲しいけど、NYのFairway(グローサリーストア)が倒産してなくなるかもしれないことがショックで悲しい。ローストチキン、ほんとうにおいしくて大好きだったのになー。
上映前に映画作家のCarol Morleyさんを交えたイントロがあった(彼女の”Out of Blue” (2018)はPatricia Clarksonの探偵がとってもかっこいいノワールだったの)。 映画作家としてのFelliniはでっかすぎてどこがどう好きとか言えるもんじゃないわよ、というのが結論になる。 この映画のエンディングについては - (客席から言っちゃだめーの声が多数沸いたので結末は言わずに)、わたしはあれはポジティブな方だととらえている、って。
ローマのはずれのバラックみたいなところ(あの場所、いいなー)で仲間とつるんで暮らす娼婦のCabiria (Giulietta Masina)は威勢よくフラれて溺死しそうになったりしていて、それでも彷徨っていると拾われたお金持ちの映画監督の家で冗談みたいな一夜 - 喧嘩した彼女が戻ってきたのでずっと狭いところに軟禁 - を過ごしたり、教会でじーんとしたり、マジックのショーで舞台に上げられて笑いものにされた後、おどおど話しかけてきたOscar (François Périer)と仲良くなって、彼はどうみても堅気だしいつも食事おごってくれるし過去のことも根掘り葉掘りしないし、って浮かれていると来た!ってかんじで結婚しよう、って言われちゃったので、家財一式売り払って現金にして、仲間に旗をふられてうきうきと彼のところに行くと..
このストーリーはどこかで… と思ったら昨年10月のLFFで見事なリストア版が上映されたBob Fosseの”Sweet Charity”(1969)、これのオリジナルはこの作品だったのね(FelliniやPier Paolo Pasoliniらによる共同脚本をNeil Simonが書き直し - 脚色っていうのか? している)。Cabiria (Giulietta Masina) → Charity Hope Valentine (Shirley MacLaine)、どちらもショートヘアでひどい扱いや境遇にめげずに元気いっぱいなのだが、このふたりを並べてみることにどんな意味があるのだろう? って少しだけ思った。 10年を隔てて全く異なる都市で、ああいうことが連鎖して起こることについて。 そういえば”Sweet Charity”にはエンディングがふた通りあるのだった - LFFでは両方見ることができた。
これってずっと日々続いていく同じ町、同じ通りの、でも決して同じでない夜に起こったいろんなことを繋げていくのだが、『甘い生活』のMarcelloが経験する夜のあれこれとはやはり違う。どっちがどう、とか問うのって意味ないのかもしれないけど、どっちが幸せかなあ、とか、Cabiriaのぴょんぴょこ踊りを見ると思ってしまう。 あんなふうに踊れるってそれだけでとっても素敵だしすばらしい、って。
ぜんぜん関係ないけど、Terry Jonesの訃報も悲しいけど、NYのFairway(グローサリーストア)が倒産してなくなるかもしれないことがショックで悲しい。ローストチキン、ほんとうにおいしくて大好きだったのになー。
[film] La città delle donne (1980)
16日、木曜の晩、BFIのFellini特集で見ました。英語題は”City of Women”、邦題は『女の都』。
列車のなかで自分の向かいに座った女性にぼうっとなった初老のSnàporaz (Marcello Mastroianni)が己の欲望の赴くまま彼女のお尻を追って列車を降り、森のなかに迷いこんで進んでいくとそこにはでっかい建物があってフェミニストの集会だかイベントだかが開かれていて、いろんな多様な女性たちが彼に向かって寄ってきたり煽ってきたり敵意むきだしできたり、際限なくいろいろなので彼もそれに応えたり応えなかったり、彼の分身のような男が出てきたり、そこを出てからもいろんな女性たちが次から次へといっぱいのカーニヴァル状態でかしましくてせわしなくて果てがない。
ふつうここまで錯綜しててきとーでぐじゃぐじゃだと、いくら1980年であったとしても映画として成り立たないのではないか、と思うのだが、見ることができてしまうのはひとりの男の夢の繋がったり途切れたりしているその要素とか断片をオーケストレートするという明確な指針とか意思みたいのがあるからではないか。夢だからなんでも起こりうるし、落下も飛翔も思いのままだし、誰でも何度でも登場して再生も転生も思いのまま、「甘い生活」のタブロイド紙記者のように自分がどこのだれであるのか、なんて意識しなくてよいまま、どこまでも広がって続いていく。
その続いていくかんじが男性とか王族とか動物とかの間ではなく割と強そうな女性との間でえんえん、というのがこの映画のキモで、すごいのはエキストラも含めて誰ひとりとしてしらじらしく演じたり出演している感がないことで、全員が彼の夢のパーツとして完璧にフィットして機能している。とにかく偉大な監督なんだねえ。
もちろんこんな状態の晒されっぷりを女性蔑視の、ミソジニーの光景として見てしまうことは可能で、Fellini自身はいやいや自分はいつもいろんな女優も女性もRespectしてきたしずっとひとりの妻と一緒だし、と返すわけだが、そういうひとがよくいうあれよね。 ほんとうの「女の都」っていうのは例えばこないだの”Delphine and Carole” (2019)で描かれたようなやつだと思う。
「生活」を描いたものでも「旅」を描いたものでもなく、この世のどこか、誰かの頭のなかに139分間は存在したCity - 「都」を描いた映画で、そういうものがどこかに浮かんでいたかんじは確かに。
BFIで貰った解説ペーパーにはこの映画を思いついた時のFellini自身の回想が載っていて、夜のローマで、Ingmar Bergmanと一緒のとき(横にはLiv Ullmannもいたかも)で、なにか一緒に作れないか検討を始めたのだと。このふたりがこのテーマで共作していたらすごいものになっていただろうな。 どっちも女性に対する勝手な妄想とか畏れとか希望とかでぱんぱんに膨れあがっているのであっというまにこれに洗脳されて影響される勘違い野郎がうじゃうじゃ湧いてでそうな。
どうでもいいけど、この映画のMarcello Mastroianniが、ところどころColin Firthに見えることがあった。
列車のなかで自分の向かいに座った女性にぼうっとなった初老のSnàporaz (Marcello Mastroianni)が己の欲望の赴くまま彼女のお尻を追って列車を降り、森のなかに迷いこんで進んでいくとそこにはでっかい建物があってフェミニストの集会だかイベントだかが開かれていて、いろんな多様な女性たちが彼に向かって寄ってきたり煽ってきたり敵意むきだしできたり、際限なくいろいろなので彼もそれに応えたり応えなかったり、彼の分身のような男が出てきたり、そこを出てからもいろんな女性たちが次から次へといっぱいのカーニヴァル状態でかしましくてせわしなくて果てがない。
ふつうここまで錯綜しててきとーでぐじゃぐじゃだと、いくら1980年であったとしても映画として成り立たないのではないか、と思うのだが、見ることができてしまうのはひとりの男の夢の繋がったり途切れたりしているその要素とか断片をオーケストレートするという明確な指針とか意思みたいのがあるからではないか。夢だからなんでも起こりうるし、落下も飛翔も思いのままだし、誰でも何度でも登場して再生も転生も思いのまま、「甘い生活」のタブロイド紙記者のように自分がどこのだれであるのか、なんて意識しなくてよいまま、どこまでも広がって続いていく。
その続いていくかんじが男性とか王族とか動物とかの間ではなく割と強そうな女性との間でえんえん、というのがこの映画のキモで、すごいのはエキストラも含めて誰ひとりとしてしらじらしく演じたり出演している感がないことで、全員が彼の夢のパーツとして完璧にフィットして機能している。とにかく偉大な監督なんだねえ。
もちろんこんな状態の晒されっぷりを女性蔑視の、ミソジニーの光景として見てしまうことは可能で、Fellini自身はいやいや自分はいつもいろんな女優も女性もRespectしてきたしずっとひとりの妻と一緒だし、と返すわけだが、そういうひとがよくいうあれよね。 ほんとうの「女の都」っていうのは例えばこないだの”Delphine and Carole” (2019)で描かれたようなやつだと思う。
「生活」を描いたものでも「旅」を描いたものでもなく、この世のどこか、誰かの頭のなかに139分間は存在したCity - 「都」を描いた映画で、そういうものがどこかに浮かんでいたかんじは確かに。
BFIで貰った解説ペーパーにはこの映画を思いついた時のFellini自身の回想が載っていて、夜のローマで、Ingmar Bergmanと一緒のとき(横にはLiv Ullmannもいたかも)で、なにか一緒に作れないか検討を始めたのだと。このふたりがこのテーマで共作していたらすごいものになっていただろうな。 どっちも女性に対する勝手な妄想とか畏れとか希望とかでぱんぱんに膨れあがっているのであっというまにこれに洗脳されて影響される勘違い野郎がうじゃうじゃ湧いてでそうな。
どうでもいいけど、この映画のMarcello Mastroianniが、ところどころColin Firthに見えることがあった。
1.20.2020
[film] Carole Lombard and the Birth of Screwball
14日、水曜日の晩にBFIで見て聞いた。ここではたまに特集のテーマに合わせたレクチャーとかトークもやっていて、これもそのひとつ。講師はこのために米国から来たというMiriam Bale女史。
大きなテーマはタイトルにあるようにScrewballコメディにはどういう要素があってそれはどういう(社会)状況のなかから出てきたものなのか、ていうのと、そこでのCarole Lombardの登場はどう絡んできたのか、作品の紹介をしつつ彼女のプロファイルやキャリアについても順番に追っていく。約60分。
最初に”My Man Godfrey” (1936)の冒頭のスラム街にお金持ちがスカベンジャーハントにやってきてGodfrey (William Powell)とIrene (Carole Lombard)が出会うシーンを映して、ここにひとつめの要素があると。30年代の大恐慌後を背景に大金持ちと貧乏人の ふたつの階級(クラス)が衝突して双方に混乱をもたらす、と("Fast and Loose” (1930)なんかもそうね)。 ふたつめはこれに近いところで人間と動物 - 動物並みにしょうもなくなった人間とか人間みたいな振る舞いをする動物に勝てない人間とか – 彼女の作品ではないけど“Bringing Up Baby” (1938)? みっつめがヘイズコードの導入が背景にあると思われるジェンダー間のセクシュアルな衝突とか混乱とか。
衝突によるscrewといっても単にどーんてぶつかるだけではだめで、それがscrewballとなってつむじ風ときりきり舞いを巻き起こすには恋による発熱とか火花とかドライブとかが必要で、出会いがしらいきなりとか病気のようにじわじわ来るのとか、きっかけはいろいろなのだろうし、恋が先なのか事故が先なのか、恋ってそもそも事故みたいなものだ - なんていうこともできるのだろうけど、いろんな様相・局面でのギャップや衝突を起点に当事者たちが思ってもみなかった方向に事態が転がって収拾つかなくなって、なのに最終的にはふたりが(見ているみんなが)狙ったり想ったりしていたところに曲芸みたいに着地して、めでたしめでたしになる。
見ていた我々は、はっ? 今のはなんだったのかしら、って我に返る。
別のかたちに単純化していうと、ぜんぜん身分とか立場が違う男女がぶつかって、(大抵は)女の方が笑いながら男の方のプライドとか地位とかをずたぼろのずるむけのすっからかんにしちゃってどうしてくれる、になるのだが女の方はべつにいいじゃんあたしがいるでしょ、ってうちのめしちゃうの。 今の時代にこれほど必要とされているコメディはないかも。
彼女の12歳のときの”A Perfect Crime” (1921)のスチール写真とか、”No Man of Her Own” (1932)のセクシーライブラリー(笑)のシーンとかはいちいち納得で、でもやはり“Nothing Sacred” (1937)で、彼女が川に落ちた後にFredric Marchにも落ちてしまうところとか、”To Be or Not to Be” (1942)で楽屋を訪ねてきた若い将校にめろめろになってしまうところを続けて見てみると、この人の恋に落ちる演技ってものすごくて、ゾンビに噛まれたり未知の病原体に襲われたりしたヘンなヒトに見えないこともないけど、彼女にあんなふうに向こうからやってきたら世界はひっくり返るしかないし、恋というのはそういう経験なのよね、って改めて。
この特集のイントロとかで繰り返し聞かされてきたけど、キャリアの絶頂期に突然亡くなってしまったことが本当に惜しまれる。これまで、ここまでさんざん振り回してくれたのになにさ! って泣き崩れてしまうくらいに残念だわ。
今の時代のCarole Lombardって誰か? の議論はいろいろあって、いろいろあってよいと思うけど、まあ答えなんてないよね。 唯一無二っていうのは..
”To Be or Not to Be”、もういっかい見たくなった。(のでさっき見てきた)
大きなテーマはタイトルにあるようにScrewballコメディにはどういう要素があってそれはどういう(社会)状況のなかから出てきたものなのか、ていうのと、そこでのCarole Lombardの登場はどう絡んできたのか、作品の紹介をしつつ彼女のプロファイルやキャリアについても順番に追っていく。約60分。
最初に”My Man Godfrey” (1936)の冒頭のスラム街にお金持ちがスカベンジャーハントにやってきてGodfrey (William Powell)とIrene (Carole Lombard)が出会うシーンを映して、ここにひとつめの要素があると。30年代の大恐慌後を背景に大金持ちと貧乏人の ふたつの階級(クラス)が衝突して双方に混乱をもたらす、と("Fast and Loose” (1930)なんかもそうね)。 ふたつめはこれに近いところで人間と動物 - 動物並みにしょうもなくなった人間とか人間みたいな振る舞いをする動物に勝てない人間とか – 彼女の作品ではないけど“Bringing Up Baby” (1938)? みっつめがヘイズコードの導入が背景にあると思われるジェンダー間のセクシュアルな衝突とか混乱とか。
衝突によるscrewといっても単にどーんてぶつかるだけではだめで、それがscrewballとなってつむじ風ときりきり舞いを巻き起こすには恋による発熱とか火花とかドライブとかが必要で、出会いがしらいきなりとか病気のようにじわじわ来るのとか、きっかけはいろいろなのだろうし、恋が先なのか事故が先なのか、恋ってそもそも事故みたいなものだ - なんていうこともできるのだろうけど、いろんな様相・局面でのギャップや衝突を起点に当事者たちが思ってもみなかった方向に事態が転がって収拾つかなくなって、なのに最終的にはふたりが(見ているみんなが)狙ったり想ったりしていたところに曲芸みたいに着地して、めでたしめでたしになる。
見ていた我々は、はっ? 今のはなんだったのかしら、って我に返る。
別のかたちに単純化していうと、ぜんぜん身分とか立場が違う男女がぶつかって、(大抵は)女の方が笑いながら男の方のプライドとか地位とかをずたぼろのずるむけのすっからかんにしちゃってどうしてくれる、になるのだが女の方はべつにいいじゃんあたしがいるでしょ、ってうちのめしちゃうの。 今の時代にこれほど必要とされているコメディはないかも。
彼女の12歳のときの”A Perfect Crime” (1921)のスチール写真とか、”No Man of Her Own” (1932)のセクシーライブラリー(笑)のシーンとかはいちいち納得で、でもやはり“Nothing Sacred” (1937)で、彼女が川に落ちた後にFredric Marchにも落ちてしまうところとか、”To Be or Not to Be” (1942)で楽屋を訪ねてきた若い将校にめろめろになってしまうところを続けて見てみると、この人の恋に落ちる演技ってものすごくて、ゾンビに噛まれたり未知の病原体に襲われたりしたヘンなヒトに見えないこともないけど、彼女にあんなふうに向こうからやってきたら世界はひっくり返るしかないし、恋というのはそういう経験なのよね、って改めて。
この特集のイントロとかで繰り返し聞かされてきたけど、キャリアの絶頂期に突然亡くなってしまったことが本当に惜しまれる。これまで、ここまでさんざん振り回してくれたのになにさ! って泣き崩れてしまうくらいに残念だわ。
今の時代のCarole Lombardって誰か? の議論はいろいろあって、いろいろあってよいと思うけど、まあ答えなんてないよね。 唯一無二っていうのは..
”To Be or Not to Be”、もういっかい見たくなった。(のでさっき見てきた)
1.19.2020
[film] Uncut Gems (2019)
13日、月曜日の晩、BFIで見ました(BFIでは新作もいくつかやっている)。
Josh & BennyのSafdie兄弟が、Adam Sandlerと組んでなんか作った、と聞いて誰もが震撼したやつ。
わたしはAdam Sandlerのコメディを深く長く愛してきているものだが、ついに“Punch-Drunk Love” (2002)の線上にありそうな彼の狂った野性を露わにする作品が、(推定)情け容赦なんてこれぽっちもないSafdie兄弟によって作られる。 しかも役柄はNYのDiamond Districtにいるユダヤ人宝石商だというからどんぴしゃだし、でもぜったいに怖くて泣きたくなるに決まっているから、怖いよう、だったのだが、見ないわけにはいかない。
Safdie兄弟の作品は、いまだにあんまよくわからない。”Heaven Knows What” (2014)も、前作の”Good Time” (2017)も画面から目が離せなくてどきどきあっという間なのだが、そんなに暴力的ではないはずの暴力描写 - うまく言えない - が怖くてきつくて、ずっと手に汗握って気がつくと終わっていて、いつも悪い夢を抜けた後のようになる。(これと同じような作家というとBruno Dumontとか)
冒頭はいきなりエチオピアの鉱山で、なんかの宝石を含む石の塊が掘り出されるところで、その石の発する光にカメラが寄って、「2001年宇宙の旅」のラストみたいならりらりのトンネルを抜けると舞台はNYに移り、宝石商のHoward Ratner (Adam Sandler)があまり堅気っぽくない複数の客をあの調子(想像できるそのまま)で魚屋のように捌いているのが見えて、そこに冒頭で掘りだされたのと同じ原石が魚のお腹に入って配達されてきて、それを横で見ていたNBAのKevin Garnett(本人)がそれほしい、と言い、でもHowardはオークションに出すものだからダメ、って言って、Kevinはあとで返すから手元で見たいから、って彼の指輪と交換して持っていく。 その魔法の原石の辿る奇妙な旅とすったもんだを中心に、典型的なDiamond District商人である彼の家族一族とか、別のアパートに囲っている愛人との修羅場とか、どこからあんな濃い臭いの俳優探してきたんだろ? の得体のしれないやばい客たちとかがごった煮状態で、それでもHoward = Adamはどこでも一貫してあのハイテンションで世界で一番信用できるのは自分だから掴まっていろ、って自信たっぷりに転がしていく。
地方のTVで流れているCMみたいにぱおぱおとうねるDaniel Lopatinのシンセとそこに絡むAdamの啖呵がとにかくうさんくさくて安っぽくて、いつあれが来るのかわからないまま話はぐいぐい進んでいって、これってひょっとしたらただの痛快コメディなのかしら、と思っていると… (もちろん書かない。客席の数名は椅子から飛びあがっていた)
稀代のホラ吹きで、同時に金を稼ぐことにかけてはとてつもない自信に溢れたHowardの語りにノせられたらもうお財布はすっからかんで絶対に戻ってこない、そんなかんじに消えてしまう135分で、得したのだか損したのだかわからないあっという間の - であることは確かかも。 いや、こんなふうに書いている時点で既にじゅうぶん騙されているのかも、とか。
Safdie兄弟のお父さんは実際にDiamond DistrictでHowardっていう人に仕えて働いていて、彼から聞く嘘だか本当だかわからないお話がおもしろくて、とインタビューでは言っていたので、ひょっとしたら本当にあったことなのかしら。ぜんぜんありそうなのだけど、伝説のようなおとぎ話のようなブラックユーモアのような奇妙なツヤがあって、Diamond Districtのある47th st界隈の、あそこだけ隠れ里のようにして浮かんでいる - どうやって儲けて儲かって生き残ってきたのだろう - っていう不可思議な雰囲気とうまくはまっている、というか、はめられる、というか。
とにかくAdam Sandlerがどれだけ恐ろしい強度と狂気を湛えた俳優であるかがついに晒された(みんなわかっていたよね)、と言ってよいのではないか。 ”Joker”のJoaquin Phoenixよりもよっぽど変幻自在で油断ならなくて危険で、どうしたらよいかわからない状態に持っていかれてしまうの。(いや、コメディ映画での彼もやっていることは同じなのかも、とふと思ったり)
Safdie兄弟とAdamは先週新作短編を公開していたが、あんなふうにどんどん出していってほしい。
これ、見たのはデジタル上映だったが、35mmで見た方がよいかも(Prince Charlesでだけ35mmでやってる)。宝石の怪しいきらきらとか、昔のB級犯罪映画のやばめの輝きに溢れているから。
Josh & BennyのSafdie兄弟が、Adam Sandlerと組んでなんか作った、と聞いて誰もが震撼したやつ。
わたしはAdam Sandlerのコメディを深く長く愛してきているものだが、ついに“Punch-Drunk Love” (2002)の線上にありそうな彼の狂った野性を露わにする作品が、(推定)情け容赦なんてこれぽっちもないSafdie兄弟によって作られる。 しかも役柄はNYのDiamond Districtにいるユダヤ人宝石商だというからどんぴしゃだし、でもぜったいに怖くて泣きたくなるに決まっているから、怖いよう、だったのだが、見ないわけにはいかない。
Safdie兄弟の作品は、いまだにあんまよくわからない。”Heaven Knows What” (2014)も、前作の”Good Time” (2017)も画面から目が離せなくてどきどきあっという間なのだが、そんなに暴力的ではないはずの暴力描写 - うまく言えない - が怖くてきつくて、ずっと手に汗握って気がつくと終わっていて、いつも悪い夢を抜けた後のようになる。(これと同じような作家というとBruno Dumontとか)
冒頭はいきなりエチオピアの鉱山で、なんかの宝石を含む石の塊が掘り出されるところで、その石の発する光にカメラが寄って、「2001年宇宙の旅」のラストみたいならりらりのトンネルを抜けると舞台はNYに移り、宝石商のHoward Ratner (Adam Sandler)があまり堅気っぽくない複数の客をあの調子(想像できるそのまま)で魚屋のように捌いているのが見えて、そこに冒頭で掘りだされたのと同じ原石が魚のお腹に入って配達されてきて、それを横で見ていたNBAのKevin Garnett(本人)がそれほしい、と言い、でもHowardはオークションに出すものだからダメ、って言って、Kevinはあとで返すから手元で見たいから、って彼の指輪と交換して持っていく。 その魔法の原石の辿る奇妙な旅とすったもんだを中心に、典型的なDiamond District商人である彼の家族一族とか、別のアパートに囲っている愛人との修羅場とか、どこからあんな濃い臭いの俳優探してきたんだろ? の得体のしれないやばい客たちとかがごった煮状態で、それでもHoward = Adamはどこでも一貫してあのハイテンションで世界で一番信用できるのは自分だから掴まっていろ、って自信たっぷりに転がしていく。
地方のTVで流れているCMみたいにぱおぱおとうねるDaniel Lopatinのシンセとそこに絡むAdamの啖呵がとにかくうさんくさくて安っぽくて、いつあれが来るのかわからないまま話はぐいぐい進んでいって、これってひょっとしたらただの痛快コメディなのかしら、と思っていると… (もちろん書かない。客席の数名は椅子から飛びあがっていた)
稀代のホラ吹きで、同時に金を稼ぐことにかけてはとてつもない自信に溢れたHowardの語りにノせられたらもうお財布はすっからかんで絶対に戻ってこない、そんなかんじに消えてしまう135分で、得したのだか損したのだかわからないあっという間の - であることは確かかも。 いや、こんなふうに書いている時点で既にじゅうぶん騙されているのかも、とか。
Safdie兄弟のお父さんは実際にDiamond DistrictでHowardっていう人に仕えて働いていて、彼から聞く嘘だか本当だかわからないお話がおもしろくて、とインタビューでは言っていたので、ひょっとしたら本当にあったことなのかしら。ぜんぜんありそうなのだけど、伝説のようなおとぎ話のようなブラックユーモアのような奇妙なツヤがあって、Diamond Districtのある47th st界隈の、あそこだけ隠れ里のようにして浮かんでいる - どうやって儲けて儲かって生き残ってきたのだろう - っていう不可思議な雰囲気とうまくはまっている、というか、はめられる、というか。
とにかくAdam Sandlerがどれだけ恐ろしい強度と狂気を湛えた俳優であるかがついに晒された(みんなわかっていたよね)、と言ってよいのではないか。 ”Joker”のJoaquin Phoenixよりもよっぽど変幻自在で油断ならなくて危険で、どうしたらよいかわからない状態に持っていかれてしまうの。(いや、コメディ映画での彼もやっていることは同じなのかも、とふと思ったり)
Safdie兄弟とAdamは先週新作短編を公開していたが、あんなふうにどんどん出していってほしい。
これ、見たのはデジタル上映だったが、35mmで見た方がよいかも(Prince Charlesでだけ35mmでやってる)。宝石の怪しいきらきらとか、昔のB級犯罪映画のやばめの輝きに溢れているから。
[film] I vitelloni (1953)
12日、日曜日の夕方、BFIのFellini特集で見ました。 タイトルの英語字幕は”The Bullocks”って出て、原題をそのままGoogle翻訳にかけると「 仔牛」となる。 邦題は『青春群像』。
この特集で見る2本目で、この特集でかかるやつは昨年に生誕100年でリストアされたばかりのぴっかぴかのやつら、であるらしい。
イタリアの海辺の町に5人の若者(ガキ共)がいて、その中で一番若いMoraldo (Franco Interlenghi)を語り手として、彼ら - ①女たらし、②お祭りやろう、③ドリーマー、④文学おたく、⑤お悩み坊主 - どいつもこいつもぱっとしない - が田舎の地元でもしゃくしゃしていた時代とそのエピソードを繋いでいく。 80年代以降、だれでもどこでも作られるようになる箸にも棒にもトイレットペーパーしか引っかからない系ティーンムーヴィーの源流にあるような作品かも(ただしドラッグぬき)。
町の夏祭りのミスコンでMoraldoの妹のSandra (Leonora Ruffo)がミス・マーメイドに選ばれるのだが彼女は具合が悪くて失神してしまい、なんでかというとFausto (Franco Fabrizi)の子を妊娠していたからで、Faustoはしぶしぶ観念して彼女と結婚して働きに出るのだが、勤め先の親分の奥さんに手を出そうとしてクビになり、その後も浮気をやめないので呆れた妻子は家出して町中大騒ぎ、とか5人のそれぞれに、この世のそこらじゅうのひとりひとりにも思いあたるところがある - 普遍的にしょうもなさそうな - バカは死ななきゃ寄りのエピソードが綴られて、だからそれがどうした? なんてことはもちろんなくて、それらがその騒動の周囲にいた人々の表情挙動情動もまるごと含めた一枚の写真を構成してしまう - だいたい夜中で、行列していたり横並びしていたり、その向こうには海とか路地とか、たまに大雨とか - のはすごいなと思った。
そしてそれらの写真は、ラストで町を去ることにしたMoraldoの視線 - 駅のホームと彼を見送る町の少年が画面の奥に遠ざかっていく - と共に永遠のものになる。ぼくはここを出ていくから、というのと、ほんとうに行っちゃうの? ていう奴のせめぎあい。遠ざかっていくのはどちらの方なのか、それを決めるのはきみで、決めることで写真とかスクラップブックがずっと残る。
グランドでダイナミックなドラマなんかなくたって、こんなふうな柱の傷とか壁の落書きのように残すことができる物語はいくらでもあるのだし、そっちの方がおもしろかったりする、ていう最初に誰がやったのかわからないけど - 発見はこのあたりから、なのだろうか。 夜は明けるし夢は醒めるし、でもその刻みさえあれば、お話はいかようにでも、えんえん転がしていける。
そしてときに祭囃子だったり行進曲だったり哀歌だったり、ラジオのようにずうっと横で流れて耳に入ってくるNino Rotaの音楽もすごいの。 彼の音楽を聴くと、なにを食べたっておいしいイタリア料理、みたいなのが浮かんでくる。そして飽きないったら。
この特集で見る2本目で、この特集でかかるやつは昨年に生誕100年でリストアされたばかりのぴっかぴかのやつら、であるらしい。
イタリアの海辺の町に5人の若者(ガキ共)がいて、その中で一番若いMoraldo (Franco Interlenghi)を語り手として、彼ら - ①女たらし、②お祭りやろう、③ドリーマー、④文学おたく、⑤お悩み坊主 - どいつもこいつもぱっとしない - が田舎の地元でもしゃくしゃしていた時代とそのエピソードを繋いでいく。 80年代以降、だれでもどこでも作られるようになる箸にも棒にもトイレットペーパーしか引っかからない系ティーンムーヴィーの源流にあるような作品かも(ただしドラッグぬき)。
町の夏祭りのミスコンでMoraldoの妹のSandra (Leonora Ruffo)がミス・マーメイドに選ばれるのだが彼女は具合が悪くて失神してしまい、なんでかというとFausto (Franco Fabrizi)の子を妊娠していたからで、Faustoはしぶしぶ観念して彼女と結婚して働きに出るのだが、勤め先の親分の奥さんに手を出そうとしてクビになり、その後も浮気をやめないので呆れた妻子は家出して町中大騒ぎ、とか5人のそれぞれに、この世のそこらじゅうのひとりひとりにも思いあたるところがある - 普遍的にしょうもなさそうな - バカは死ななきゃ寄りのエピソードが綴られて、だからそれがどうした? なんてことはもちろんなくて、それらがその騒動の周囲にいた人々の表情挙動情動もまるごと含めた一枚の写真を構成してしまう - だいたい夜中で、行列していたり横並びしていたり、その向こうには海とか路地とか、たまに大雨とか - のはすごいなと思った。
そしてそれらの写真は、ラストで町を去ることにしたMoraldoの視線 - 駅のホームと彼を見送る町の少年が画面の奥に遠ざかっていく - と共に永遠のものになる。ぼくはここを出ていくから、というのと、ほんとうに行っちゃうの? ていう奴のせめぎあい。遠ざかっていくのはどちらの方なのか、それを決めるのはきみで、決めることで写真とかスクラップブックがずっと残る。
グランドでダイナミックなドラマなんかなくたって、こんなふうな柱の傷とか壁の落書きのように残すことができる物語はいくらでもあるのだし、そっちの方がおもしろかったりする、ていう最初に誰がやったのかわからないけど - 発見はこのあたりから、なのだろうか。 夜は明けるし夢は醒めるし、でもその刻みさえあれば、お話はいかようにでも、えんえん転がしていける。
そしてときに祭囃子だったり行進曲だったり哀歌だったり、ラジオのようにずうっと横で流れて耳に入ってくるNino Rotaの音楽もすごいの。 彼の音楽を聴くと、なにを食べたっておいしいイタリア料理、みたいなのが浮かんでくる。そして飽きないったら。
1.17.2020
[film] Amanda (2018)
12日、日曜日の昼、CurzonのBloomsburyで見ました。日本では昨年とうに公開されている『アマンダと僕』、こちらではほんの少しの館で1週間くらい。
20代半ばのDavid (Vincent Lacoste)はツーリストのB&B手配とか植木の剪定とかをしながら暮らしていて、忙しい姉でシングルマザーのSandrine (Ophélia Kolb)に頼まれて姪のAmanda (Isaure Multrier)の送り迎えとか面倒も見たりしたりしていて、明るいパリの陽光のもと、結構楽しく幸せに暮らしていた。
のだが、夕刻の公園を襲った無差別テロによりSandrineは突然に亡くなってしまい、Davidはショックで途方に暮れて、でもAmandaなんてもっとかわいそうだし、いちいちいろんな局面で目を赤くして泣きながら立ち尽くしてしまう – この辺、Vincent Lacosteってほんとうにうまいと思う。
彼らにはうさぎと暮らす変わった叔母もいるし、ロンドンには疎遠な母(Amandaには祖母)もいるのだが、Amandaの後見人となるとこのふたりはどうかと思うし、かといって自分もAmandaが18歳になるまで面倒をずっとみるなんて想像もつかない.. 定職があるわけでもないし、恋人になりかけているのかいないのか、Léna (Stacy Martin)との恋だってあるし、悩んで泣いてばかりいるわけにも、って横をみるともっと不憫なAmandaがいるので、もとに戻ってぐるぐる悩み続けてしまう。
終わりのほうで、DavidとAmandaはSandrineがいた頃に約束していたロンドン旅行に出かけて、プリムローズ・ヒル(だよねあれ?)で母- 祖母と会って、ウィンブルドンでテニスを見て、そういうのを通してDavidがAmandaとのことについて自分なりの結論を.. ていうだけだったらおもしろくないのではないか、と思っていたらそっちには行かなかった。 あの終わりかたは不意打ちのようにえ??、ってなって思わずAmandaと一緒に泣いてしまうのだが、でも時間が経ってみるとそうだよね、ってしみじみする。
で、よくわかんない状態のままじーんとしているとそこにJarvis Cockerの“Elvis Has Left The Building”が荘厳と呼んでよいのか微妙に惑うかんじでへらへら降り注いできて、やっぱり泣くもんか、って思った。
喪失の悲しみとか傷のありようって、例えばこんなふうにひっくり返すことができる。 “Ponette” (1996)のママはPonetteのために一瞬現れて、Amandaのママ(= Elvis)はAmandaのためにとビルから去った。 それはとっても脆くてちょっと不可思議で、でもそんなもんか、と後になるとわかって、でも案外忘れてしまったりもする、そんな夏のテニスコートで起こったこと。
ここで描かれたロンドンの街って、なんかさわやかでヨーロッパのどこかの街のようで、自分が住んでいるロンドンとはぜんぜん違うかんじがした。そういうもんよね。
DavidとLénaのふたりも素敵だったので、5年後くらいに続編とか作らないかなあ。こないだ見たChristophe Honoréの“Room 212” (2019)にもあったように、彼って時の経過を絡めた長いレンジで見たくなる俳優さんかも。
20代半ばのDavid (Vincent Lacoste)はツーリストのB&B手配とか植木の剪定とかをしながら暮らしていて、忙しい姉でシングルマザーのSandrine (Ophélia Kolb)に頼まれて姪のAmanda (Isaure Multrier)の送り迎えとか面倒も見たりしたりしていて、明るいパリの陽光のもと、結構楽しく幸せに暮らしていた。
のだが、夕刻の公園を襲った無差別テロによりSandrineは突然に亡くなってしまい、Davidはショックで途方に暮れて、でもAmandaなんてもっとかわいそうだし、いちいちいろんな局面で目を赤くして泣きながら立ち尽くしてしまう – この辺、Vincent Lacosteってほんとうにうまいと思う。
彼らにはうさぎと暮らす変わった叔母もいるし、ロンドンには疎遠な母(Amandaには祖母)もいるのだが、Amandaの後見人となるとこのふたりはどうかと思うし、かといって自分もAmandaが18歳になるまで面倒をずっとみるなんて想像もつかない.. 定職があるわけでもないし、恋人になりかけているのかいないのか、Léna (Stacy Martin)との恋だってあるし、悩んで泣いてばかりいるわけにも、って横をみるともっと不憫なAmandaがいるので、もとに戻ってぐるぐる悩み続けてしまう。
終わりのほうで、DavidとAmandaはSandrineがいた頃に約束していたロンドン旅行に出かけて、プリムローズ・ヒル(だよねあれ?)で母- 祖母と会って、ウィンブルドンでテニスを見て、そういうのを通してDavidがAmandaとのことについて自分なりの結論を.. ていうだけだったらおもしろくないのではないか、と思っていたらそっちには行かなかった。 あの終わりかたは不意打ちのようにえ??、ってなって思わずAmandaと一緒に泣いてしまうのだが、でも時間が経ってみるとそうだよね、ってしみじみする。
で、よくわかんない状態のままじーんとしているとそこにJarvis Cockerの“Elvis Has Left The Building”が荘厳と呼んでよいのか微妙に惑うかんじでへらへら降り注いできて、やっぱり泣くもんか、って思った。
喪失の悲しみとか傷のありようって、例えばこんなふうにひっくり返すことができる。 “Ponette” (1996)のママはPonetteのために一瞬現れて、Amandaのママ(= Elvis)はAmandaのためにとビルから去った。 それはとっても脆くてちょっと不可思議で、でもそんなもんか、と後になるとわかって、でも案外忘れてしまったりもする、そんな夏のテニスコートで起こったこと。
ここで描かれたロンドンの街って、なんかさわやかでヨーロッパのどこかの街のようで、自分が住んでいるロンドンとはぜんぜん違うかんじがした。そういうもんよね。
DavidとLénaのふたりも素敵だったので、5年後くらいに続編とか作らないかなあ。こないだ見たChristophe Honoréの“Room 212” (2019)にもあったように、彼って時の経過を絡めた長いレンジで見たくなる俳優さんかも。
[film] Twentieth Century (1934)
9日、木曜日の晩、BFIの見れば見るほど好きになるCarole Lombard特集で見ました。『特急二十世紀』。
監督Howard Hawks、脚本Ben Hecht and Charles MacArthurによる”Screwball Comedy”というジャンルを語るときに必ず初期の一投として教科書に出てくる問答無用のクラシックなの。このトリオは後に“His Girl Friday” (1940) っていう速射砲掛け合いトーク劇の大傑作を作っているのだが、その原型とも言えるやつかも。
上映前にQueen Mary University of Londonの先生からExtended introとしてCarole Lombardの生い立ちを含めた紹介があった。(Screwball Comedyってなに? の講義はまた別にあったのでそれはそのうち) 小さい頃からスポーツが得意でLAに引っ越すと映画産業がすぐそばにあったのでオーディションとかいろいろ受けたり(チャップリンの”The Gold Rush”を受けたら落とされたって)、地元のチャールストン大会ではJoan Crawfordがライバルだったとか、いろんなエピソードがあって。でもほんとうにみんなに愛される素敵な人だったみたい。
ブロードウェイで泣く子も黙る大御所演出家のOscar Jaffe (John Barrymore)がいて、新作の稽古では周囲の懸念を押し切って大根のMildred Plotka (Carole Lombard)を主役に据えて鍛えあげ、結果劇は成功して彼女はLily Garlandという名のスターになり、ふたりは一緒になってヒットを連発していくのだが、そのうちLilyは彼の過干渉が嫌になってハリウッドに行くっていなくなり、Oscarは行かないで、っていうのだが止められずにずるずる落ちぶれて、やがてシカゴからNYに向かう特急電車にLilyが乗り合わせていることを知ったOscarは...
男女の立場や身分の境界がある時ある出来事をきっかけにころりとひっくり返ることで起こる悲喜劇の渦 – ま、だいたい喜劇 - をすべてぶっとばして止まらない列車中の劇として、周囲には変な鈍行連中ばかりを配置して収拾つかない逃げようのない状態にまで持っていって、でも気がつけば終点に着いている、という驚異の芸当。 最後まで沸騰しっぱなしのJohn Barrymoreの演技も、「体当たり」っていうのはこういう演技をいうのだと思うCarole Lombardの錯乱 – リハーサルの際、HawksからもBarrymoreからも思いっきりブチ切れろやっちまえ、ってさんざん言われてああなったのだそう - も、中も外も超特急だもんだから気持ちいいったらないの。
Nothing Sacred (1937)
10日、金曜日の晩に見ました。『無責任時代』。上映は35mmのテクニカラー。
これまだ見たことないやつ、と思っていたら既にシネマヴェーラで2回も見ていた..
監督はWilliam A. Wellman。脚本はBen Hecht(Cosmopolitan誌の短編をもとに)。
冴えない新聞記者のWally (Fredric March)がへまをして窓際の訃報セクションに飛ばされて、最後のチャンスをくれ、ってそこに置いてあった地方紙に載っていたラジウム中毒であまり生きることができないHazel Flagg (Carole Lombard)を指さし、彼女の地元に飛んでみる。そこは変なひとばかりの町で、彼女の中毒って地元のいいかげんな医者の誤診だったのだが、崖っぷちのWallyはうまく切り出すことができないHazelをピックアップしてNYに連れてきて悲劇の主人公としてシリーズで紹介すると大騒ぎになる。 そうなると実は病気ではありませんでした、なんて言えなくなって.. そういう懸念の反対側で、当たり前のようにWallyはHazelを好きになってしまい…
見どころは最後のほうのビンタ合戦の他にもいろいろあって、彼女が川に落ちたあとで恋にも落ちてしまう瞬間 - 消防服を着せられてうっとり、のところはすごいよ。あと彼女の地元に行った際に、いきなりWallyの腿に噛みついてそのまま去っていく子供、とか。
Nothing Sacred - 聖なるものなんてなにもない、ことがじゅうぶんわかる世界なのだが、そんなことをしでかした彼女はと言うと聖なるものとしか言いようのない勝者の輝きに溢れかえっているので、お手あげとしか言いようがないの。
監督Howard Hawks、脚本Ben Hecht and Charles MacArthurによる”Screwball Comedy”というジャンルを語るときに必ず初期の一投として教科書に出てくる問答無用のクラシックなの。このトリオは後に“His Girl Friday” (1940) っていう速射砲掛け合いトーク劇の大傑作を作っているのだが、その原型とも言えるやつかも。
上映前にQueen Mary University of Londonの先生からExtended introとしてCarole Lombardの生い立ちを含めた紹介があった。(Screwball Comedyってなに? の講義はまた別にあったのでそれはそのうち) 小さい頃からスポーツが得意でLAに引っ越すと映画産業がすぐそばにあったのでオーディションとかいろいろ受けたり(チャップリンの”The Gold Rush”を受けたら落とされたって)、地元のチャールストン大会ではJoan Crawfordがライバルだったとか、いろんなエピソードがあって。でもほんとうにみんなに愛される素敵な人だったみたい。
ブロードウェイで泣く子も黙る大御所演出家のOscar Jaffe (John Barrymore)がいて、新作の稽古では周囲の懸念を押し切って大根のMildred Plotka (Carole Lombard)を主役に据えて鍛えあげ、結果劇は成功して彼女はLily Garlandという名のスターになり、ふたりは一緒になってヒットを連発していくのだが、そのうちLilyは彼の過干渉が嫌になってハリウッドに行くっていなくなり、Oscarは行かないで、っていうのだが止められずにずるずる落ちぶれて、やがてシカゴからNYに向かう特急電車にLilyが乗り合わせていることを知ったOscarは...
男女の立場や身分の境界がある時ある出来事をきっかけにころりとひっくり返ることで起こる悲喜劇の渦 – ま、だいたい喜劇 - をすべてぶっとばして止まらない列車中の劇として、周囲には変な鈍行連中ばかりを配置して収拾つかない逃げようのない状態にまで持っていって、でも気がつけば終点に着いている、という驚異の芸当。 最後まで沸騰しっぱなしのJohn Barrymoreの演技も、「体当たり」っていうのはこういう演技をいうのだと思うCarole Lombardの錯乱 – リハーサルの際、HawksからもBarrymoreからも思いっきりブチ切れろやっちまえ、ってさんざん言われてああなったのだそう - も、中も外も超特急だもんだから気持ちいいったらないの。
Nothing Sacred (1937)
10日、金曜日の晩に見ました。『無責任時代』。上映は35mmのテクニカラー。
これまだ見たことないやつ、と思っていたら既にシネマヴェーラで2回も見ていた..
監督はWilliam A. Wellman。脚本はBen Hecht(Cosmopolitan誌の短編をもとに)。
冴えない新聞記者のWally (Fredric March)がへまをして窓際の訃報セクションに飛ばされて、最後のチャンスをくれ、ってそこに置いてあった地方紙に載っていたラジウム中毒であまり生きることができないHazel Flagg (Carole Lombard)を指さし、彼女の地元に飛んでみる。そこは変なひとばかりの町で、彼女の中毒って地元のいいかげんな医者の誤診だったのだが、崖っぷちのWallyはうまく切り出すことができないHazelをピックアップしてNYに連れてきて悲劇の主人公としてシリーズで紹介すると大騒ぎになる。 そうなると実は病気ではありませんでした、なんて言えなくなって.. そういう懸念の反対側で、当たり前のようにWallyはHazelを好きになってしまい…
見どころは最後のほうのビンタ合戦の他にもいろいろあって、彼女が川に落ちたあとで恋にも落ちてしまう瞬間 - 消防服を着せられてうっとり、のところはすごいよ。あと彼女の地元に行った際に、いきなりWallyの腿に噛みついてそのまま去っていく子供、とか。
Nothing Sacred - 聖なるものなんてなにもない、ことがじゅうぶんわかる世界なのだが、そんなことをしでかした彼女はと言うと聖なるものとしか言いようのない勝者の輝きに溢れかえっているので、お手あげとしか言いようがないの。
1.16.2020
[film] The Gentlemen (2019)
11日、土曜日の夕方にCurzonのVictoriaで見ました。 Guy Ritchieによるオールスタークライムコメディ?
アメリカ人のMickey Pearson (Matthew McConaughey) は学生の頃から英国のキャンパスでマリファナ売買のビジネスに取り組んで、大人になった今はお金持ち - Matthew Berger (Jeremy Strong) - の後ろ盾もあって栽培から流通までしっかり固めているのだが、アメリカや中国のマーケットとかも考えなければいけなくなって、中国の方はDry Eye (Henry Golding)っていう威勢のいいやくざが出てきたりして、だんだんに食うか食われるかの争いになっていく。
ていう割とオーソドックスなドラッグビジネスをめぐる覇権争いをタブロイド・ジャーナリストのFletcher (Hugh Grant) – すごくうさんくさ - がMickeyのパートナーのRaymond (Charlie Hunnam)を相手に彼ってあんなことをしたよね、こんなこともやっちゃってるよね、写真とかあるけどどうする? とか問い詰めながらゆっくり脅してて(お金くれないと公表するよ)、いろいろ面倒なの。
基本はとっても男臭い英国(の)男子がやりあうドラマなのだが侮れないMickeyの妻のRosalind (Michelle Dockery)とかちんぴら軍を配下におく怪しいCoach (Colin Farrell)とか、脇のひとりひとりも粒が立っていておもしろい。
英国のすごく上流の方からジャージ着たちんぴらあんちゃん達まで、アメリカ人にチャイニーズマフィアにジャーナリスト、はっぱにナイフに銃に氷漬け、それらのぐじゃぐじゃが描きだす「英国」の”The Gentlemen”のいま。時代も世界もぜんぜん違うけど、例えば”The Irishman” (2019)が描きだした広いようで実は狭いところできゅうきゅうしていて面倒になるとすぐに消しちゃう殺しちゃう男の世界のありように似ていないことはない、かも。
もうちょっと豪快に破天荒に英国のアメリカ人としてのMickeyが動き回ってくれるのかと思ったけどそうでもないし、その役割は角刈り若頭のDry Eyeかと思ってもそんなでもなくて、細かい暴力や脅しのうねりがでっかい抗争の波に繋がっていくかというと、それらはところどころで邪魔されたり分断されたりで、大ナタでだん、爆弾でどーん、みたいなところには行ってくれない。いまの時代なんてそんなもんよ、と言われちゃったらそれまでか。
やくざ者の喧嘩上等で痛かったり痒かったり肌に近い痛覚をくすぐってくるのがGuy Ritchieの芸風だった気がするのだが、なんか考えすぎたのか練りきれなかったのか大勢でやりすぎたのか、あんますっきりしなかったかも。犯罪(者)を扱った映画でいうと、Safdie Brothersの最近のとかを見てしまうと圧倒的に弱いし。
でもMatthew McConaugheyは変わらずMatthew McConaughey風味たっぷりだったし、Hugh Grantの絶妙にせこいかんじはたまんないし。 Henry GoldingがもうちょっとCrazy Richに弾けて暴れたり、逆にぼこぼこにされたりしたらなー。
アメリカ人のMickey Pearson (Matthew McConaughey) は学生の頃から英国のキャンパスでマリファナ売買のビジネスに取り組んで、大人になった今はお金持ち - Matthew Berger (Jeremy Strong) - の後ろ盾もあって栽培から流通までしっかり固めているのだが、アメリカや中国のマーケットとかも考えなければいけなくなって、中国の方はDry Eye (Henry Golding)っていう威勢のいいやくざが出てきたりして、だんだんに食うか食われるかの争いになっていく。
ていう割とオーソドックスなドラッグビジネスをめぐる覇権争いをタブロイド・ジャーナリストのFletcher (Hugh Grant) – すごくうさんくさ - がMickeyのパートナーのRaymond (Charlie Hunnam)を相手に彼ってあんなことをしたよね、こんなこともやっちゃってるよね、写真とかあるけどどうする? とか問い詰めながらゆっくり脅してて(お金くれないと公表するよ)、いろいろ面倒なの。
基本はとっても男臭い英国(の)男子がやりあうドラマなのだが侮れないMickeyの妻のRosalind (Michelle Dockery)とかちんぴら軍を配下におく怪しいCoach (Colin Farrell)とか、脇のひとりひとりも粒が立っていておもしろい。
英国のすごく上流の方からジャージ着たちんぴらあんちゃん達まで、アメリカ人にチャイニーズマフィアにジャーナリスト、はっぱにナイフに銃に氷漬け、それらのぐじゃぐじゃが描きだす「英国」の”The Gentlemen”のいま。時代も世界もぜんぜん違うけど、例えば”The Irishman” (2019)が描きだした広いようで実は狭いところできゅうきゅうしていて面倒になるとすぐに消しちゃう殺しちゃう男の世界のありように似ていないことはない、かも。
もうちょっと豪快に破天荒に英国のアメリカ人としてのMickeyが動き回ってくれるのかと思ったけどそうでもないし、その役割は角刈り若頭のDry Eyeかと思ってもそんなでもなくて、細かい暴力や脅しのうねりがでっかい抗争の波に繋がっていくかというと、それらはところどころで邪魔されたり分断されたりで、大ナタでだん、爆弾でどーん、みたいなところには行ってくれない。いまの時代なんてそんなもんよ、と言われちゃったらそれまでか。
やくざ者の喧嘩上等で痛かったり痒かったり肌に近い痛覚をくすぐってくるのがGuy Ritchieの芸風だった気がするのだが、なんか考えすぎたのか練りきれなかったのか大勢でやりすぎたのか、あんますっきりしなかったかも。犯罪(者)を扱った映画でいうと、Safdie Brothersの最近のとかを見てしまうと圧倒的に弱いし。
でもMatthew McConaugheyは変わらずMatthew McConaughey風味たっぷりだったし、Hugh Grantの絶妙にせこいかんじはたまんないし。 Henry GoldingがもうちょっとCrazy Richに弾けて暴れたり、逆にぼこぼこにされたりしたらなー。
1.15.2020
[film] 1917 (2019)
11日、土曜日の昼にBFI IMAXで見ました。こういうのはやはりでっかいところで見て震えないと。
第一次大戦中、今から100年くらい前、1917年の4月6日、フランスの北の方の前線のあたり、菜の花の咲くお花畑で寝っ転がっていたふたりの兵士 – Will (George MacKay)とTom (Dean-Charles Chapman)が呼び出されてテントに入ると、司令部のGeneral Erinmore (Colin Firth)がいて、現在撤退しようとしているかに見えるドイツ軍の動きって実は罠で、それを真に受けて明け方に突撃を仕掛けようとしている英国軍は逆に一網打尽にされてしまう可能性があるから、向こう側に突撃をやめるようメッセージを届けてほしい、と。乗り物では行けないし無線も電話もないから飛脚で。時間もないからすぐ行って、と。そこの前線に兄がいるTomは二つ返事で受けるのだがWillはこんなの危険すぎるからやめよう、って言って、でもTomはすたすた早歩きで先に行ってしまう。
こうして泥とかぐちゃぐちゃとか廃屋とかそこに置いてあった爆弾とか泥に埋まった死体とかそれに群れている鼠(でっかい)とか蝿とか牛とか、こっちから突っこんでいるのか向こうからやってくるのか、いろいろ現れてくるいろんなのを避けたりかわしたりぼろぼろになりながらも、とにかく進んでいく。
そのふたりの道中をワンショットで切れ目なく流し続ける、というのがこの映画すごい!のポイントになっているみたいなのだが、そこはそんなでもない、というかRoger Deakinsさすが、くらい。
すごいと思うのは、自分たちが正面から突撃したり戦闘したりするわけではない、どちらかというと端役で割と簡単に思えたただの飛脚 – 味方のいる地点Aから味方のいる地点Bまで – の任務遂行にここまで戦争の得体の知れない気持ち悪さ、恐ろしさをこれでもかと盛り込んでいることで、その地獄めぐりに見ている我々を強引に引き摺りこむ、その磁場とか重力みたいなやつなの。
最近の戦争映画では『野火』(2014)あたりに近いかも。 あの映画ではネガティブな敗走で、この映画のはポジティブな任務行動なのだが、歩いたり走ったりしていくその先々に無数の死者たちが群れたり沈んでいたり浮かんでたりしつつ死が歩み寄ってくる、そういう構造とか。相手にするのは敵、ではなく既に死んだ者たち、死そのもの、というところとか。これまで好んで描かれがちだった「戦争の狂気」のようなのはあんまなくて、ただの「死」がそこらじゅうに - 桜が咲くふつうの平屋の平地に - いっぱいある。
ほんとうはもっと発狂したくなるくらい凄惨であってもよかったかも。 最後の300ヤードの疾走なんて、手に汗握るし見事だと思うけど、スポーツを見ているような感覚になったりもするし。 どうせなら時間も同軸にして、6〜7時間くらいそのまま流していってもよかったのではないか。なまの戦場の時間がどんなものかわからせたかったのであれば。
日本でもようやく公開されるらしいPeter Jacksonのドキュメンタリー映画 - “They Shall Not Grow Old” (2018) も合わせて見てほしい。 ここで映し出される平原と泥ぐちゃでところどころ死体が埋まってて腐臭が漂ってきそうな空気や地面は似ている、というか同じ戦争だからなー。
Peter Jacksonの祖父は第一次大戦に従軍していて、Sam Mendesも祖父から聞いた話をもとにこれを作ったという、こんなふうにヨーロッパの人たちにとって第一次大戦は、まだぜんぜん過去のことではない - 過去にして片付けようとはしていない - のだな、って。
そしてあんなふうにうち棄てられた死体たちの上にようやく建てられたのがいまのヨーロッパなのであるから、それを死守するのは今を生きる我々の義務なのだ、ってふつうは思うよね?
第一次大戦中、今から100年くらい前、1917年の4月6日、フランスの北の方の前線のあたり、菜の花の咲くお花畑で寝っ転がっていたふたりの兵士 – Will (George MacKay)とTom (Dean-Charles Chapman)が呼び出されてテントに入ると、司令部のGeneral Erinmore (Colin Firth)がいて、現在撤退しようとしているかに見えるドイツ軍の動きって実は罠で、それを真に受けて明け方に突撃を仕掛けようとしている英国軍は逆に一網打尽にされてしまう可能性があるから、向こう側に突撃をやめるようメッセージを届けてほしい、と。乗り物では行けないし無線も電話もないから飛脚で。時間もないからすぐ行って、と。そこの前線に兄がいるTomは二つ返事で受けるのだがWillはこんなの危険すぎるからやめよう、って言って、でもTomはすたすた早歩きで先に行ってしまう。
こうして泥とかぐちゃぐちゃとか廃屋とかそこに置いてあった爆弾とか泥に埋まった死体とかそれに群れている鼠(でっかい)とか蝿とか牛とか、こっちから突っこんでいるのか向こうからやってくるのか、いろいろ現れてくるいろんなのを避けたりかわしたりぼろぼろになりながらも、とにかく進んでいく。
そのふたりの道中をワンショットで切れ目なく流し続ける、というのがこの映画すごい!のポイントになっているみたいなのだが、そこはそんなでもない、というかRoger Deakinsさすが、くらい。
すごいと思うのは、自分たちが正面から突撃したり戦闘したりするわけではない、どちらかというと端役で割と簡単に思えたただの飛脚 – 味方のいる地点Aから味方のいる地点Bまで – の任務遂行にここまで戦争の得体の知れない気持ち悪さ、恐ろしさをこれでもかと盛り込んでいることで、その地獄めぐりに見ている我々を強引に引き摺りこむ、その磁場とか重力みたいなやつなの。
最近の戦争映画では『野火』(2014)あたりに近いかも。 あの映画ではネガティブな敗走で、この映画のはポジティブな任務行動なのだが、歩いたり走ったりしていくその先々に無数の死者たちが群れたり沈んでいたり浮かんでたりしつつ死が歩み寄ってくる、そういう構造とか。相手にするのは敵、ではなく既に死んだ者たち、死そのもの、というところとか。これまで好んで描かれがちだった「戦争の狂気」のようなのはあんまなくて、ただの「死」がそこらじゅうに - 桜が咲くふつうの平屋の平地に - いっぱいある。
ほんとうはもっと発狂したくなるくらい凄惨であってもよかったかも。 最後の300ヤードの疾走なんて、手に汗握るし見事だと思うけど、スポーツを見ているような感覚になったりもするし。 どうせなら時間も同軸にして、6〜7時間くらいそのまま流していってもよかったのではないか。なまの戦場の時間がどんなものかわからせたかったのであれば。
日本でもようやく公開されるらしいPeter Jacksonのドキュメンタリー映画 - “They Shall Not Grow Old” (2018) も合わせて見てほしい。 ここで映し出される平原と泥ぐちゃでところどころ死体が埋まってて腐臭が漂ってきそうな空気や地面は似ている、というか同じ戦争だからなー。
Peter Jacksonの祖父は第一次大戦に従軍していて、Sam Mendesも祖父から聞いた話をもとにこれを作ったという、こんなふうにヨーロッパの人たちにとって第一次大戦は、まだぜんぜん過去のことではない - 過去にして片付けようとはしていない - のだな、って。
そしてあんなふうにうち棄てられた死体たちの上にようやく建てられたのがいまのヨーロッパなのであるから、それを死守するのは今を生きる我々の義務なのだ、ってふつうは思うよね?
1.14.2020
[film] Jojo Rabbit (2019)
8日、水曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
監督は“Thor: Ragnarok” (2017)のTaika Waititiで、彼はこの作品でも初期の”Boy” (2010)でも – これはとてもよい作品 - 主人公(の男の子)と父親との関係をずっと描き続けている気がする。
第二次大戦末期のドイツでJohannes "Jojo" Betzler (Roman Griffin Davis)はママのRosie (Scarlett Johansson)とふたりで暮らしていて、父はイタリアかどこかの戦場に行ったまま消息を絶ち、姉はインフルエンザで亡くなっていて、ママは不在のことが多くて、彼のところには想像上の父親だか友人だかのAdolf Hitler (Taika Waititi)が頻繁に現れて横で騒いでくれたり励ましてくれたりする。
でも子供たちのためのナチスの学校に行ってもJojoはドジでウサギを殺すこともできない臆病者って虐められてばかりで、そのうち間抜けな事故で大けがをして自宅に戻された彼は、そこの隠し扉の奥に潜んで暮らしていたElsa (Thomasin McKenzie)と出会ってびっくりして、始めはJewじゃないか、って反発したりするのだがだんだん仲良くなっていく。
並行して留守のまま何かをしているらしいママのこととか、よくわかんないけどかっこいいCaptain (Sam Rockwell)がいたり、お家の中に捜索が入ったり、戦局が変わって家の周囲でも爆撃がひどくなってきたりいろいろあって、Elsaとたったひとり彼女を匿うJojoはどうなっていくのか。
酷くてしんどい大人の世界から離れて自分たちだけのユートピアに向かおうとする子供たちとその周囲の変てこな大人たちを描いたドラマとしてはWes Andersonの“Moonrise Kingdom” (2012)なんかがあって、そのカラフルで儚いかんじが始めは近いのかも、って思ったりもしたし、そういう子供たちにとっての戦争を描いた映画があってもよいとは思うのだが、でもやはり、ナチスがあれだけ正面に出てきて、アンネ・フランクみたいなElsaがいたり、街や家が壊されたりしているのを見ると、これは絵空事として済まされるものでもないのではないか、って。
ああいう戦時下の子供たち、というと映画でまず思い浮かべてしまうのは、自ら成長することを止めてしまった”The Tin Drum” (1979)のOskarなんかで、要は(笑えるところはいっぱいあるし、彼は笑いたいのだろうし、笑ってよいのかもしれないけど)あんまり笑えない。 あんなふうにダンスをすることもできないまま、親とお別れをいうこともできないままに亡くなっていった沢山の子供たちがいたことを振りきってしまうことができない、っていうあたりが(少なくとも)英国でのレビューがあまりよくない背景にはあるのではないかしら。
もちろん、あの厳しく辛い時代、彼らなりに逞しく懸命に生きた子供たちを描いたドラマとして、多くの人たちが絶賛するのはわかる。 けど、ヨーロッパの人たちにとって、ナチスのことって、本当にまだ生々しい、忘れてはいけない傷に向かい合うことでもあるのではないか、って。(にっぽんは?)
Elsa役のThomasin McKenzieさんは“Leave No Trace” (2018)でも大人社会から隠れて逃げて居場所を見つけようとする役だったねえ(しかも、ここでもうさぎが..)。
毎年のオスカーもオスカーの候補選定も、べつにどうでもいい行事なのだが、今年ほど自分の好きだった作品がことごとく徹底的に無視された年はないので、なんだろうな? って思っている。 もちろん、だーれも悪くない、の。
監督は“Thor: Ragnarok” (2017)のTaika Waititiで、彼はこの作品でも初期の”Boy” (2010)でも – これはとてもよい作品 - 主人公(の男の子)と父親との関係をずっと描き続けている気がする。
第二次大戦末期のドイツでJohannes "Jojo" Betzler (Roman Griffin Davis)はママのRosie (Scarlett Johansson)とふたりで暮らしていて、父はイタリアかどこかの戦場に行ったまま消息を絶ち、姉はインフルエンザで亡くなっていて、ママは不在のことが多くて、彼のところには想像上の父親だか友人だかのAdolf Hitler (Taika Waititi)が頻繁に現れて横で騒いでくれたり励ましてくれたりする。
でも子供たちのためのナチスの学校に行ってもJojoはドジでウサギを殺すこともできない臆病者って虐められてばかりで、そのうち間抜けな事故で大けがをして自宅に戻された彼は、そこの隠し扉の奥に潜んで暮らしていたElsa (Thomasin McKenzie)と出会ってびっくりして、始めはJewじゃないか、って反発したりするのだがだんだん仲良くなっていく。
並行して留守のまま何かをしているらしいママのこととか、よくわかんないけどかっこいいCaptain (Sam Rockwell)がいたり、お家の中に捜索が入ったり、戦局が変わって家の周囲でも爆撃がひどくなってきたりいろいろあって、Elsaとたったひとり彼女を匿うJojoはどうなっていくのか。
酷くてしんどい大人の世界から離れて自分たちだけのユートピアに向かおうとする子供たちとその周囲の変てこな大人たちを描いたドラマとしてはWes Andersonの“Moonrise Kingdom” (2012)なんかがあって、そのカラフルで儚いかんじが始めは近いのかも、って思ったりもしたし、そういう子供たちにとっての戦争を描いた映画があってもよいとは思うのだが、でもやはり、ナチスがあれだけ正面に出てきて、アンネ・フランクみたいなElsaがいたり、街や家が壊されたりしているのを見ると、これは絵空事として済まされるものでもないのではないか、って。
ああいう戦時下の子供たち、というと映画でまず思い浮かべてしまうのは、自ら成長することを止めてしまった”The Tin Drum” (1979)のOskarなんかで、要は(笑えるところはいっぱいあるし、彼は笑いたいのだろうし、笑ってよいのかもしれないけど)あんまり笑えない。 あんなふうにダンスをすることもできないまま、親とお別れをいうこともできないままに亡くなっていった沢山の子供たちがいたことを振りきってしまうことができない、っていうあたりが(少なくとも)英国でのレビューがあまりよくない背景にはあるのではないかしら。
もちろん、あの厳しく辛い時代、彼らなりに逞しく懸命に生きた子供たちを描いたドラマとして、多くの人たちが絶賛するのはわかる。 けど、ヨーロッパの人たちにとって、ナチスのことって、本当にまだ生々しい、忘れてはいけない傷に向かい合うことでもあるのではないか、って。(にっぽんは?)
Elsa役のThomasin McKenzieさんは“Leave No Trace” (2018)でも大人社会から隠れて逃げて居場所を見つけようとする役だったねえ(しかも、ここでもうさぎが..)。
毎年のオスカーもオスカーの候補選定も、べつにどうでもいい行事なのだが、今年ほど自分の好きだった作品がことごとく徹底的に無視された年はないので、なんだろうな? って思っている。 もちろん、だーれも悪くない、の。
1.13.2020
[film] La Dolce Vita (1960)
6日の月曜日の晩、BFIのFederico Fellini特集で見ました。
今年は彼の生誕100周年なのでNYでも同様の特集がある模様。 特集の予告は以下。ロッキンしていてなかなかかっこいいの。
https://whatson.bfi.org.uk/Online/default.asp?BOparam::WScontent::loadArticle::permalink=fellini&BOparam::WScontent::loadArticle::context_id=
今月はなにがあってもCarole Lombardさま特集を優先させねば、なのだが、では例えば昨年回顧特集が組まれたMichelangelo Antonioniと比べてみるとー。Antonioniの場合は掘っていくと近代化とか不寛容とか疎外、のような考えるネタとか「問題」が見え易くなっていく気がしたのだが、Felliniってどうなんだろうか? どうもKubrickとかFelliniとか、これがわかんなきゃ映画好きとは言わせないカテゴリ(by 偉そうなおやじ)のようなのが昔からあって、そんなのに乗るもんか、って敬遠してきたのだが見続けていくことでなにか見えてきたりするのか - そもそもそんなふうに見るもんじゃないよね。 でも、じゃあ、見ないかっていうと、やはり見るよね。
『甘い生活』。 上映は4Kリストア版で、ここだけじゃなくて他の映画館でもリバイバル公開されている。 約180分。ぶっといストーリの幹やドラマのうねりがあるわけでもないのに、あっという間すぎてびっくり。
冒頭、キリストさまのでっかい石像をぶら下げたヘリが堂々とローマの街を突っ切っていって、そこに乗っているのはタブロイド紙の記者のMarcello (Marcello Mastroianni)とその仲間のカメラマンとかで、こういうスペクタクルな場面とか、彼の周囲に出てくる女性たち - 貴族のMaddalena (Anouk Aimée)、面倒くさい恋人のEmma (Yvonne Furneaux)、アメリカ人グラマー女優のSylvia (Anita Ekberg)などなどとのやりとり、というかアンストッパブルだけど一瞬の恋とその連続、子供たちと奇跡、敬愛する文人Steiner (Alain Cuny)とのやりとりと彼の悲劇的な死(何が彼を?)、朝まで続くどんちゃん騒ぎと、浜辺に打ち上げられた化け物、などなどが夜に始まって朝に終わるエピソード、のような形で互いに交錯することもなくするする流れていく。その「現場」にはMarcelloが必ずいるのだが、彼はそれを記事にするわけでも何かを解決したりするわけでもなく、ただその場にいる(相手が女性だったら手をだしたり)だけ、カメラ – パパラッチはどこに行っても群れていて蠅のようで、その蠅の集りよう、みんなで束になって踊り倒すところも含めてどいつもこいつもドリーム・シークエンスとしか言いようがない。
例えば聖と俗、ハイとロー、という切り口、例えば冒頭とラストに顕著なように誰が何を言っても轟音にかき消されて聞こえない・届かない状態の持続、役に立つとか立たないとか、そういう議論から遠く離れて、夜から朝にかけてあっという間に老いたり錆びれたりしていく人や街、それを数千年に渡って繰り返してきたさまを俯瞰して、「甘い生活」?とか言ってみる。 生きて活きるで生活。 甘いの上等、こんなの、苦くて辛いことにどんな意味があろうか?
映像はそれに応えてどこまでもアイスクリームのように綿あめのように甘くて白くて、たまんないのだが、でも実際に舐めてみるとそんなにおいしくないのもわかっていて、それがローマの昼と夜を生きることなのだよ、って。
例えば、『ローマの休日』を見てもローマに行く気にはあんまならないけど、これを見ると行ってみてもいいかも、ってなる、とか。
あとはとにかく、女性のゴージャスな存在感がどこまで行ってもすごい。単にスケベ、っていうだけなのかも知れないが、これがなければ自分は死ぬ、生きているいみないもん、みたいな決意でもって撮られているかんじで溢れていてたまんないったら。
今年は彼の生誕100周年なのでNYでも同様の特集がある模様。 特集の予告は以下。ロッキンしていてなかなかかっこいいの。
https://whatson.bfi.org.uk/Online/default.asp?BOparam::WScontent::loadArticle::permalink=fellini&BOparam::WScontent::loadArticle::context_id=
今月はなにがあってもCarole Lombardさま特集を優先させねば、なのだが、では例えば昨年回顧特集が組まれたMichelangelo Antonioniと比べてみるとー。Antonioniの場合は掘っていくと近代化とか不寛容とか疎外、のような考えるネタとか「問題」が見え易くなっていく気がしたのだが、Felliniってどうなんだろうか? どうもKubrickとかFelliniとか、これがわかんなきゃ映画好きとは言わせないカテゴリ(by 偉そうなおやじ)のようなのが昔からあって、そんなのに乗るもんか、って敬遠してきたのだが見続けていくことでなにか見えてきたりするのか - そもそもそんなふうに見るもんじゃないよね。 でも、じゃあ、見ないかっていうと、やはり見るよね。
『甘い生活』。 上映は4Kリストア版で、ここだけじゃなくて他の映画館でもリバイバル公開されている。 約180分。ぶっといストーリの幹やドラマのうねりがあるわけでもないのに、あっという間すぎてびっくり。
冒頭、キリストさまのでっかい石像をぶら下げたヘリが堂々とローマの街を突っ切っていって、そこに乗っているのはタブロイド紙の記者のMarcello (Marcello Mastroianni)とその仲間のカメラマンとかで、こういうスペクタクルな場面とか、彼の周囲に出てくる女性たち - 貴族のMaddalena (Anouk Aimée)、面倒くさい恋人のEmma (Yvonne Furneaux)、アメリカ人グラマー女優のSylvia (Anita Ekberg)などなどとのやりとり、というかアンストッパブルだけど一瞬の恋とその連続、子供たちと奇跡、敬愛する文人Steiner (Alain Cuny)とのやりとりと彼の悲劇的な死(何が彼を?)、朝まで続くどんちゃん騒ぎと、浜辺に打ち上げられた化け物、などなどが夜に始まって朝に終わるエピソード、のような形で互いに交錯することもなくするする流れていく。その「現場」にはMarcelloが必ずいるのだが、彼はそれを記事にするわけでも何かを解決したりするわけでもなく、ただその場にいる(相手が女性だったら手をだしたり)だけ、カメラ – パパラッチはどこに行っても群れていて蠅のようで、その蠅の集りよう、みんなで束になって踊り倒すところも含めてどいつもこいつもドリーム・シークエンスとしか言いようがない。
例えば聖と俗、ハイとロー、という切り口、例えば冒頭とラストに顕著なように誰が何を言っても轟音にかき消されて聞こえない・届かない状態の持続、役に立つとか立たないとか、そういう議論から遠く離れて、夜から朝にかけてあっという間に老いたり錆びれたりしていく人や街、それを数千年に渡って繰り返してきたさまを俯瞰して、「甘い生活」?とか言ってみる。 生きて活きるで生活。 甘いの上等、こんなの、苦くて辛いことにどんな意味があろうか?
映像はそれに応えてどこまでもアイスクリームのように綿あめのように甘くて白くて、たまんないのだが、でも実際に舐めてみるとそんなにおいしくないのもわかっていて、それがローマの昼と夜を生きることなのだよ、って。
例えば、『ローマの休日』を見てもローマに行く気にはあんまならないけど、これを見ると行ってみてもいいかも、ってなる、とか。
あとはとにかく、女性のゴージャスな存在感がどこまで行ってもすごい。単にスケベ、っていうだけなのかも知れないが、これがなければ自分は死ぬ、生きているいみないもん、みたいな決意でもって撮られているかんじで溢れていてたまんないったら。
[music] R.I.P. Neil Peart
まったくとつぜんに、RushのNeil Peartが亡くなってしまった。
いちばんいなくなってしまうイメージがなかった人 - 太鼓に囲まれた風神雷神さま - でありバンドだったので呆然としている。
なにか書けることがあるだろうか、くらいのところから書いていってみよう。
Rushの初来日公演の時は高校生だったのでとても行くお金なんてなくて、でもNYでは”Vapor Trails”がリリースされた時の2002年と2004年- R30- の時にライブに行くことができて、ああやっぱりRushだ、って感動して、あとは2010年、NYに滞在していたときにTribeca Film Festivalでかかったドキュメンタリーフィルム - “Rush: Beyond the Lighted Stage”があって(2016年のドキュメンタリーの方は未見)、これを見ると現在のミュージシャンに与えた影響の大きさを伺うことができる。 このたびの訃報に際して寄せられたメッセージを見てもそれは。
彼はドラムスを叩いてバンドの主要曲の歌詞も書いた。その歌詞の重要性についてはこれからきちんとした読解が進められることを望むが、個人的には彼の偉大さはPete Townshend と同じくらいにでっかく(Peteはギタリストだけど彼の偉大なパートはKeith Moonが憑依したドラマーだと考えている)、Peteが”Teenage Wasteland”って指さしたその方にどうしても踏みだせなかった片隅にいる弱虫のいくじなし共(Freaks and Geeks)を大勢救ったのである - まあ、どちらもしょうもない男(ガキ)の世界のことではあるのだが。(Bowieは、彼らとはちょっと次元がちがう)
RushはProg-rock - プログレというカテゴリに入れられていて、プログレとは何か、というのはそれはそれで面倒な問いなのだが、従来のロックのエモーショナルで直情情動、動物に訴えるようなやり方とは異なる、それなりに完結した世界観、宗教観、歴史観などに基づいて記述された詞や観念の世界を高度な演奏技術と音楽/音響構成力で展開する/できる音楽、のようなものであるとすると、歌詞の世界の多くがSFのユートピアやディストピアのかたちを取ったりするRushの音楽はまさにそういうやつで、それは聴き手ひとりひとりに向けて本を読むようなパーソナルな経験として届けられて(だからみんなヘッドフォンで聴く)、コマーシャルな音楽のありようからもメディアのプッシュからもほど遠いのにライブでは人が集まってあんなにすごいことになる。
でもRushのはそんなに難しいやつではなくて、基本は目覚めよ! って79年の時点でひとりひとりにhonestyやintegrityを訴えているのはパンクの横に並べて聴いていてもそんなに違和感はなくて、他方でこのやり方でずっと続けていくことの難しさをどこかで彼らも感じていたのだろうか、ステージ上にランドリーのぐるぐるを置いたり、オールドロックのスタンダードに繋げたりやや自嘲的で散文ぽい流れも出てきた気がして。 それでもR50の到来を楽しみにしていたのに。
ご冥福をお祈りします。 安らかに。でもどかどかうち鳴らしてね。
いちばんいなくなってしまうイメージがなかった人 - 太鼓に囲まれた風神雷神さま - でありバンドだったので呆然としている。
なにか書けることがあるだろうか、くらいのところから書いていってみよう。
Rushの初来日公演の時は高校生だったのでとても行くお金なんてなくて、でもNYでは”Vapor Trails”がリリースされた時の2002年と2004年- R30- の時にライブに行くことができて、ああやっぱりRushだ、って感動して、あとは2010年、NYに滞在していたときにTribeca Film Festivalでかかったドキュメンタリーフィルム - “Rush: Beyond the Lighted Stage”があって(2016年のドキュメンタリーの方は未見)、これを見ると現在のミュージシャンに与えた影響の大きさを伺うことができる。 このたびの訃報に際して寄せられたメッセージを見てもそれは。
彼はドラムスを叩いてバンドの主要曲の歌詞も書いた。その歌詞の重要性についてはこれからきちんとした読解が進められることを望むが、個人的には彼の偉大さはPete Townshend と同じくらいにでっかく(Peteはギタリストだけど彼の偉大なパートはKeith Moonが憑依したドラマーだと考えている)、Peteが”Teenage Wasteland”って指さしたその方にどうしても踏みだせなかった片隅にいる弱虫のいくじなし共(Freaks and Geeks)を大勢救ったのである - まあ、どちらもしょうもない男(ガキ)の世界のことではあるのだが。(Bowieは、彼らとはちょっと次元がちがう)
RushはProg-rock - プログレというカテゴリに入れられていて、プログレとは何か、というのはそれはそれで面倒な問いなのだが、従来のロックのエモーショナルで直情情動、動物に訴えるようなやり方とは異なる、それなりに完結した世界観、宗教観、歴史観などに基づいて記述された詞や観念の世界を高度な演奏技術と音楽/音響構成力で展開する/できる音楽、のようなものであるとすると、歌詞の世界の多くがSFのユートピアやディストピアのかたちを取ったりするRushの音楽はまさにそういうやつで、それは聴き手ひとりひとりに向けて本を読むようなパーソナルな経験として届けられて(だからみんなヘッドフォンで聴く)、コマーシャルな音楽のありようからもメディアのプッシュからもほど遠いのにライブでは人が集まってあんなにすごいことになる。
でもRushのはそんなに難しいやつではなくて、基本は目覚めよ! って79年の時点でひとりひとりにhonestyやintegrityを訴えているのはパンクの横に並べて聴いていてもそんなに違和感はなくて、他方でこのやり方でずっと続けていくことの難しさをどこかで彼らも感じていたのだろうか、ステージ上にランドリーのぐるぐるを置いたり、オールドロックのスタンダードに繋げたりやや自嘲的で散文ぽい流れも出てきた気がして。 それでもR50の到来を楽しみにしていたのに。
ご冥福をお祈りします。 安らかに。でもどかどかうち鳴らしてね。
1.12.2020
[log] Budapest
2日のパリ日帰りから1日おいて、4日から5日、1泊でブダペストに行ってきた。
これでやや長めの年末年始の休みはおわり(おかげで仕事始まりの一週間はめちゃくちゃきつかった)。
なんでブダペスト? というとまだ行ったことなかったから、程度。 ヨーロッパのいろんな都市も行けるときに行っておかないとねえ。 でも、都市とか言っても、行くのはほぼ美術館ばっかしだねえ、と思っていたらここのふたつのでっかい美術館の主な収蔵品が大勢日本に行ってしまっていることを知る。とほほ。 なら月末に日本でも見ればいいんだろ、って。
(やっぱりウィーンの方にすればよかったかな、って少し)
街のまんなかをドナウ川が通っている、片側がブダ、片側がペスト、くらいしか知らないのは失礼だと思ったのでお城のまわりを歩いてまわる2時間くらいのツアーに入って、ちょうどNational Galleryの前まで来たのでしれっとツアーから離脱して美術館に入った。もう暗くなりかけだし寒かったし。
Magyar Nemzeti Galéria
↑ これがNational Gallery。ハンガリー語は他のヨーロッパ言語とぜんぜん違うと聞いたのだが、たしかに。
ふたつ特別展をやっていた。
Forsaken World. The Art of István Farkas (1887-1944)
出版社の一家に生まれ、第一次大戦に従軍して、20年代のパリで画家として成功してハンガリーに戻るもナチスのユダヤ人狩りにあって家族を殺され自らのアウシュビッツに送られてしまった、あまり幸せとは言えなかったかも知れない画家の回顧展。 パリ時代のころころ移ろっていく作風もよいが、ムンクのような淡いペシミズム -少しの希望も - が全開になっていく晩年の画たちが痛ましい。
"I am an Artist of the World…” Philip de László (1869-1937)
このひと、英国の画家だと思っていたらハンガリーの人だったのね。とてもよい意味できれいに並べられた素敵なお菓子のような貴族みんなのポートレート。
これ以外には、ハンガリーの画家の常設展示もよくて、楽しみにしていたMunkácsy Mihályの絵画は(日本に行っているのを除いても)結構あってうれしかった。『あくびをする徒弟』(1869) とか「自分の娘たちに失楽園を書き取らせる盲目のミルトン」(1878) とか、映画の一場面のようなドラマを見せてくれるの。有名な“Ecce Homo” (1896) はないのかしら、って探したらあれは別の美術館(Déri Múzeum)にあるのだった。
あと、ハンガリーのナビ派の作家のいくつかもよかった。
Szépművészeti Múzeum
↑ これが国立西洋美術館。5日の午前中に行った。 特別展はふたつやっていた。
Rembrandt and His Pupils: Drawings and Etchings from the Collections of the Museum of Fine Arts
2019年はレンブラント・イヤーだったので収蔵品を改めて振り返る、という企画か。 油彩が一枚 - レンブラントのママ、とか、農村の子供 - いつも柔らかい- が出てくる風景とか、よかった。
Rubens, Van Dyck and the Splendour of Flemish Painting
ルーベンスのでっかいのを中心に17世紀のオランダ絵画を総括する。
レンブラント・イヤーの前年はルーベンス・イヤーでもあって、ウィーンの美術史美術館のルーベンス展で見たものも結構あったのだが、改めて、あの頬っぺたたちは永遠に最強のものだわ。
3階まである建物も素敵で(National Galleryのほうもそうだった)、常設の目玉はラファエルの『エステルハージの聖母』くらいだったのだが他にもすばらしいのがいっぱいで、だいたい早歩きで2時間くらい。
戻りの飛行機までまだ時間があったので地下鉄とバスでブダ側に渡って前日のツアーで説明を受けたマーチャーシュ聖堂 - 「聖母マリア聖堂」に入った。 今のおおもとは13世紀に建てられたものだというが、ハンガリーの歴史を通してその持ち主はいろんな変遷を辿り、直近の第二次大戦も含めて何度も破壊されて修復されて、を繰り返してきている、と。装飾が天辺までびっしり。ブダペストって、どこに行ってもハプスブルク帝国とオスマン帝国による支配の話は出てくるので、次のときはちゃんと歴史を学んでから行きたい。
あと、5日の朝食でとっても豪華だときいたNew York Cafeにも行った。NYではぜったいありえないぎんぎんで、でもただのCafeなのだが単にほんとに豪華、ってだけだったかも。ご飯はなにこれ? くらいにしょぼかった。 ポルトのMajestic CaféとかプラハのCafé Savoyにはちっとも及ばないかんじ。
そうそう、ブダペストの映画といえば、”The Shop Around the Corner” (1940)があるわけだが、あの舞台となったお店があるところ - ”Andrassy street on Balta street”を探してみたのだがなくて - Andrassyはあるんだけど .. 名前とか変わってしまったのかしらん。
できればもう一度、もう少し暖かい季節に。
これでやや長めの年末年始の休みはおわり(おかげで仕事始まりの一週間はめちゃくちゃきつかった)。
なんでブダペスト? というとまだ行ったことなかったから、程度。 ヨーロッパのいろんな都市も行けるときに行っておかないとねえ。 でも、都市とか言っても、行くのはほぼ美術館ばっかしだねえ、と思っていたらここのふたつのでっかい美術館の主な収蔵品が大勢日本に行ってしまっていることを知る。とほほ。 なら月末に日本でも見ればいいんだろ、って。
(やっぱりウィーンの方にすればよかったかな、って少し)
街のまんなかをドナウ川が通っている、片側がブダ、片側がペスト、くらいしか知らないのは失礼だと思ったのでお城のまわりを歩いてまわる2時間くらいのツアーに入って、ちょうどNational Galleryの前まで来たのでしれっとツアーから離脱して美術館に入った。もう暗くなりかけだし寒かったし。
Magyar Nemzeti Galéria
↑ これがNational Gallery。ハンガリー語は他のヨーロッパ言語とぜんぜん違うと聞いたのだが、たしかに。
ふたつ特別展をやっていた。
Forsaken World. The Art of István Farkas (1887-1944)
出版社の一家に生まれ、第一次大戦に従軍して、20年代のパリで画家として成功してハンガリーに戻るもナチスのユダヤ人狩りにあって家族を殺され自らのアウシュビッツに送られてしまった、あまり幸せとは言えなかったかも知れない画家の回顧展。 パリ時代のころころ移ろっていく作風もよいが、ムンクのような淡いペシミズム -少しの希望も - が全開になっていく晩年の画たちが痛ましい。
"I am an Artist of the World…” Philip de László (1869-1937)
このひと、英国の画家だと思っていたらハンガリーの人だったのね。とてもよい意味できれいに並べられた素敵なお菓子のような貴族みんなのポートレート。
これ以外には、ハンガリーの画家の常設展示もよくて、楽しみにしていたMunkácsy Mihályの絵画は(日本に行っているのを除いても)結構あってうれしかった。『あくびをする徒弟』(1869) とか「自分の娘たちに失楽園を書き取らせる盲目のミルトン」(1878) とか、映画の一場面のようなドラマを見せてくれるの。有名な“Ecce Homo” (1896) はないのかしら、って探したらあれは別の美術館(Déri Múzeum)にあるのだった。
あと、ハンガリーのナビ派の作家のいくつかもよかった。
Szépművészeti Múzeum
↑ これが国立西洋美術館。5日の午前中に行った。 特別展はふたつやっていた。
Rembrandt and His Pupils: Drawings and Etchings from the Collections of the Museum of Fine Arts
2019年はレンブラント・イヤーだったので収蔵品を改めて振り返る、という企画か。 油彩が一枚 - レンブラントのママ、とか、農村の子供 - いつも柔らかい- が出てくる風景とか、よかった。
Rubens, Van Dyck and the Splendour of Flemish Painting
ルーベンスのでっかいのを中心に17世紀のオランダ絵画を総括する。
レンブラント・イヤーの前年はルーベンス・イヤーでもあって、ウィーンの美術史美術館のルーベンス展で見たものも結構あったのだが、改めて、あの頬っぺたたちは永遠に最強のものだわ。
3階まである建物も素敵で(National Galleryのほうもそうだった)、常設の目玉はラファエルの『エステルハージの聖母』くらいだったのだが他にもすばらしいのがいっぱいで、だいたい早歩きで2時間くらい。
戻りの飛行機までまだ時間があったので地下鉄とバスでブダ側に渡って前日のツアーで説明を受けたマーチャーシュ聖堂 - 「聖母マリア聖堂」に入った。 今のおおもとは13世紀に建てられたものだというが、ハンガリーの歴史を通してその持ち主はいろんな変遷を辿り、直近の第二次大戦も含めて何度も破壊されて修復されて、を繰り返してきている、と。装飾が天辺までびっしり。ブダペストって、どこに行ってもハプスブルク帝国とオスマン帝国による支配の話は出てくるので、次のときはちゃんと歴史を学んでから行きたい。
あと、5日の朝食でとっても豪華だときいたNew York Cafeにも行った。NYではぜったいありえないぎんぎんで、でもただのCafeなのだが単にほんとに豪華、ってだけだったかも。ご飯はなにこれ? くらいにしょぼかった。 ポルトのMajestic CaféとかプラハのCafé Savoyにはちっとも及ばないかんじ。
そうそう、ブダペストの映画といえば、”The Shop Around the Corner” (1940)があるわけだが、あの舞台となったお店があるところ - ”Andrassy street on Balta street”を探してみたのだがなくて - Andrassyはあるんだけど .. 名前とか変わってしまったのかしらん。
できればもう一度、もう少し暖かい季節に。
1.10.2020
[film] Hands Across the Table (1935)
3日の晩、BFIのCarole Lombard特集で見ました。
この日の昼間は新作映画の最初の1本として”Little Women”をもういっかい見た。幸せしかない。
監督はMitchell Leisenで、競演はFred MacMurray。この作品が当たったので、30年代には彼と一緒にこの後3本作られている。
ホテルの美容室でマニキュア師をやっている(だから”Hands Across the Table”)Regi (Carole Lombard)はお金持ちと結婚して玉の輿を夢見ていて、ホテルで優雅に暮らす元飛行機乗りで今は車椅子のAllen (Ralph Bellamy)からの毎度の指名も嬉しいのだが、ある日その部屋の外でケンケン跳びをしているTed (Fred MacMurray)とぶつかって、変なヒト、って思うのだが彼が大金持ちのTheodore Drew IIIであると知ってびっくり、こいつはモノにしないとな、と思うもののほんとに彼からの指名が来たら緊張しまくって彼の爪先を血だらけにしてしまう。
でもTedといろんなことを話していくと楽しくなり、そのうち彼の一家は大恐慌のあと破産状態で彼も文無しの宿無し(なのでRegiのアパートのソファで寝る)、しかもパイナップル資産家の娘と婚約していることがわかって、そんなら話がちがうしさよならー、なのだが一緒にいて楽しいし猫みたいにずっといるので別れ難くなって、他方でAllenはRegiが好きでプロポーズしようとしていて。
Tedと婚約者の電話の最中、交換手のふりして横から無理やり突っこみ入れて妨害するRegiのシーンが爆笑もの(でもこれがきっかけで婚約者にバレてしまう)で、こんなふうに底抜けに弾けてバウンドする彼女のエモがあっけにとられている共演者を巻きこんで止まらなくなり、そこしかありえない結末に強引に誘う、っていうのが彼女のrom-comのすごさだよねえ、って改めておもった。
In Name Only (1939)
7日、火曜日の晩に見ました。Cary GrantとCarole Lombardの競演なんてぜったいおもしろいどたばたコメディで.. と思ったら、しっとりしたメロドラマみたいなやつだった。
原作はBessie Breuerによる35年の小説 - “Memory of Love”、RKOは競演にKatharine Hepburnを見込んで権利を買ったのだが、”Bringing Up Baby” (1938) - 『赤ちゃん教育』 の興行的失敗でKatharineが降りちゃったところにCarole Lombardがやりたいって入っていったと。
裕福なコネティカットの一帯でお金持ちのAlec (Cary Grant)が未亡人で子連れのEden (Carole Lombard)と出会って、明るく快活な彼女にAlecは惹かれて仲良くなっていくのだが、その反対側で彼の実家は典型的なつんけんした東部のお金持ち一族で、特に妻のMaida (Kay Francis)は邪悪でおっかなくて、Alecはそれら何もかもが嫌で離婚しようってずっと言っているのに彼女は首を縦にふらず、彼の父母を味方につけてあれこれ仕掛けてくる。で、Alecはますます家に近づかなくなってEdenと一緒にいるようになり、そのうちEdenも彼のそういう事情を知ってそれなら別れましょ、ていうのだが、だんだんに彼を好きになって一緒にいたくなって、そうして迎えたクリスマス、一応義理で実家に顔をみせたAlecにMaidaが酷いことを仕掛けたので、彼はひとりバーで飲んだくれて朝までしょんぼり過ごすことになり、けっか体調が悪くなって、最初はインフル程度と思っていたのに実は相当ひどい重症で、医者は体力的にもつかどうかは五分五分ですが、精神的に弱っているので彼の支えになる方が必要なのです、ってEdenが、え? わたし? とか言っていると突然奥からMaidaが現れ..
最後まで気を抜けないおっかないドラマで、Cary Grantでもあんなに顔色わるい死人みたいな演技するんだ、ていうのとCarole Lombardは泣き崩れたりすることなくどこまでもCarole Lombardだねえ、とか思った。Kay Francisもすごかったのだが、もしこの役をJoan Crawfordあたりがやっていたら..
あああ、Neil Peartが.. 年の初めからつらすぎる…
この日の昼間は新作映画の最初の1本として”Little Women”をもういっかい見た。幸せしかない。
監督はMitchell Leisenで、競演はFred MacMurray。この作品が当たったので、30年代には彼と一緒にこの後3本作られている。
ホテルの美容室でマニキュア師をやっている(だから”Hands Across the Table”)Regi (Carole Lombard)はお金持ちと結婚して玉の輿を夢見ていて、ホテルで優雅に暮らす元飛行機乗りで今は車椅子のAllen (Ralph Bellamy)からの毎度の指名も嬉しいのだが、ある日その部屋の外でケンケン跳びをしているTed (Fred MacMurray)とぶつかって、変なヒト、って思うのだが彼が大金持ちのTheodore Drew IIIであると知ってびっくり、こいつはモノにしないとな、と思うもののほんとに彼からの指名が来たら緊張しまくって彼の爪先を血だらけにしてしまう。
でもTedといろんなことを話していくと楽しくなり、そのうち彼の一家は大恐慌のあと破産状態で彼も文無しの宿無し(なのでRegiのアパートのソファで寝る)、しかもパイナップル資産家の娘と婚約していることがわかって、そんなら話がちがうしさよならー、なのだが一緒にいて楽しいし猫みたいにずっといるので別れ難くなって、他方でAllenはRegiが好きでプロポーズしようとしていて。
Tedと婚約者の電話の最中、交換手のふりして横から無理やり突っこみ入れて妨害するRegiのシーンが爆笑もの(でもこれがきっかけで婚約者にバレてしまう)で、こんなふうに底抜けに弾けてバウンドする彼女のエモがあっけにとられている共演者を巻きこんで止まらなくなり、そこしかありえない結末に強引に誘う、っていうのが彼女のrom-comのすごさだよねえ、って改めておもった。
In Name Only (1939)
7日、火曜日の晩に見ました。Cary GrantとCarole Lombardの競演なんてぜったいおもしろいどたばたコメディで.. と思ったら、しっとりしたメロドラマみたいなやつだった。
原作はBessie Breuerによる35年の小説 - “Memory of Love”、RKOは競演にKatharine Hepburnを見込んで権利を買ったのだが、”Bringing Up Baby” (1938) - 『赤ちゃん教育』 の興行的失敗でKatharineが降りちゃったところにCarole Lombardがやりたいって入っていったと。
裕福なコネティカットの一帯でお金持ちのAlec (Cary Grant)が未亡人で子連れのEden (Carole Lombard)と出会って、明るく快活な彼女にAlecは惹かれて仲良くなっていくのだが、その反対側で彼の実家は典型的なつんけんした東部のお金持ち一族で、特に妻のMaida (Kay Francis)は邪悪でおっかなくて、Alecはそれら何もかもが嫌で離婚しようってずっと言っているのに彼女は首を縦にふらず、彼の父母を味方につけてあれこれ仕掛けてくる。で、Alecはますます家に近づかなくなってEdenと一緒にいるようになり、そのうちEdenも彼のそういう事情を知ってそれなら別れましょ、ていうのだが、だんだんに彼を好きになって一緒にいたくなって、そうして迎えたクリスマス、一応義理で実家に顔をみせたAlecにMaidaが酷いことを仕掛けたので、彼はひとりバーで飲んだくれて朝までしょんぼり過ごすことになり、けっか体調が悪くなって、最初はインフル程度と思っていたのに実は相当ひどい重症で、医者は体力的にもつかどうかは五分五分ですが、精神的に弱っているので彼の支えになる方が必要なのです、ってEdenが、え? わたし? とか言っていると突然奥からMaidaが現れ..
最後まで気を抜けないおっかないドラマで、Cary Grantでもあんなに顔色わるい死人みたいな演技するんだ、ていうのとCarole Lombardは泣き崩れたりすることなくどこまでもCarole Lombardだねえ、とか思った。Kay Francisもすごかったのだが、もしこの役をJoan Crawfordあたりがやっていたら..
あああ、Neil Peartが.. 年の初めからつらすぎる…
1.09.2020
[art] Leonardo da Vinci
2日、日帰りでパリに行ってきた。約1週間前に行ったばかりじゃん? なのだが、クリスマス前のあの日程ではルーヴルのダ・ヴィンチ展のチケットが取れなくて、この日の夕方なら取れたので、それなら行こうか、って。 しょうがないの。(今にして思えばひょっとして、ストでキャンセルとかも出て、がんばれば取れたりしたのかしら?)
いつものように行きは飛行機にした(速いし電車より安いし)のだが、空港からの交通は相当にぐじゃぐじゃぽかったので、時間と面倒をお金で買って(←やな言い方)タクシーに乗ってしまった。
Maison de Balzac: Grandville et Balzac
ダ・ヴィンチのチケットは16:30からだったので、その前に前回行こうと思って時間切れになったやつを。 バルザックが晩年を過ごしたお家が記念館というか美術館になっていて、1Fの常設のところには『人間喜劇』の登場人物ぜんぶの系譜図とかすごいのがあって、2時間くらい遊んでいられそうなのだが、これは地下でやっていた展示。
グランヴィルといえば、2011年の練馬区立美術館での鹿島茂コレクションの展示がすばらしく、あれほどの物量はなかったものの、グランヴィルの” the Private and Public Life of Animals” -『動物の私的・公的生活情景』にバルザックは文章を寄せていて、その辺を中心に楽しくてかわいい動物画がいっぱい。社会全体のいろんな人々とかが動物以下に激しく劣化してしまった今となってはとっても懐かしい「風刺」の風景が。
お昼を食べた後 – 2時くらいにルーヴルに入って常設展示のほうから見ていく。2時間半くらい簡単につぶれる。
美術館の常設展示を見るのって、昔はふんふんふん♪ の30分、くらいで済んでいたのだがここのところえらく時間が掛かるようになっていて、それはなんでかというと、各地いろんなとこを回ってそこにある絵をつけっぱなしのラジオのように眺め倒していくと空っぽの頭にもそれなりに溜まってくるものがあるらしく、例えば宗教画の意匠とかシンボルとかにいちいち、これ、とか引っ掛かり立ち止まって、へえ、とか、ほう、とかやっていると次に行けない。それがルーヴルともなると量もあるし、これいいなあー、ていうのもいっぱいあるし。その割には憶えるのが進まない。(だからちゃんと勉強しなおそうね)
没後500年(まだたった5世紀)のダ・ヴィンチ展は当然混んではいたものの、行ったり戻ったりはできたし、イモ洗い状態ではなかった。(通常展示のところにいたモナリザさんは変わらず凄い混雑だったけど)
2011年、ロンドンのNational Galleryで見たダ・ヴィンチ展と比べると、大騒ぎになっている割にはそんなでもなかったかも。 今回の大看板の“La belle ferronnière”はすばらしいし、”Saint Jerome”も来ていたけど、クラクフの白貂はいなかったし(Infrared reflectogramのみ)、『岸壁の聖母』新旧揃いもなかったし。替わりに物理学者、天文学者としてのダ・ヴィンチにもスポットがあてられていて、科学方面のスケッチやメモも纏まって展示されていた – これって昨夏にBritish Libraryでやっていた” Leonardo da Vinci: A Mind in Motion”のと被っているのかしら?
驚異の人文・博物・ルネサンス・マンとしてのダ・ヴィンチはそれはそれはもうじゅうぶんすごいのだからよくて、自分が興味あるのは彼の絵画と素描なので、その点で今回の目玉はルーヴルにある” The Virgin and Child With Saint Anne” (1508-10)- 『聖アンナと聖母子』とその元画とされるロンドンNational Galleryの所謂” The Burlington House Cartoon” (1498) - 『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』の並びあたりだったかも。このふたつを眺めているだけでダ・ヴィンチの底知れぬ恐ろしさ – 情念みたいのがじわじわ滲んでくるのだった。
絵画以外(いや、これも絵画なのかな)ではInfrared reflectogramを通した作品(写真、でよいの?) – 白貂の他にはモナリザとか代表作いっぱい - が結構並んでいて、でもこれってどうなのかしら? って。 いま丁度National Galleryでも“Leonardo Experience a Masterpiece”ていう展示をやっていて、そこでは彼らの所有している『岸壁の聖母』にフォーカスして洞窟の光の具合(一日の変化を追って)までシミュレーションして解析していたりするのだが、ある絵画が、その下絵も含めてどんなふうに重ねられ試行しつつ描かれていったのかその痕跡を追う - TV番組ふうに言うと彼の創作の秘密を探る、って、あんま興味ないの。知ればおもしろいのだろうけど、へー、で終わってしまう気がする。自分のふたつの肉眼を通して見えるものがすべて、でよいのではないかしら? お料理の食材や調理方法を解析して化学式のレベルまで掘っていくのと、それがおいしいおいしくないっていうのは別の話で、ダ・ヴィンチって500年経ってもおいしいままだからその謎を調べたくなるのはわかるけど、結局彼はこんなにも天才だったの … ってその一点をぐるぐる回っているだけなのではないか、とか。
でもいろんな絵にじっとり浸かることができて、新年のいっぱつめとしてはよかったかも。カタログは重かったし、2011年のがあるからいいや、にした。
戻りは電車で、パリ北駅までの交通は前回ほどひどくはなくて、慣れたもん、になっていたかも。これならもう一回くらい日帰りしてもいいかも。
いつものように行きは飛行機にした(速いし電車より安いし)のだが、空港からの交通は相当にぐじゃぐじゃぽかったので、時間と面倒をお金で買って(←やな言い方)タクシーに乗ってしまった。
Maison de Balzac: Grandville et Balzac
ダ・ヴィンチのチケットは16:30からだったので、その前に前回行こうと思って時間切れになったやつを。 バルザックが晩年を過ごしたお家が記念館というか美術館になっていて、1Fの常設のところには『人間喜劇』の登場人物ぜんぶの系譜図とかすごいのがあって、2時間くらい遊んでいられそうなのだが、これは地下でやっていた展示。
グランヴィルといえば、2011年の練馬区立美術館での鹿島茂コレクションの展示がすばらしく、あれほどの物量はなかったものの、グランヴィルの” the Private and Public Life of Animals” -『動物の私的・公的生活情景』にバルザックは文章を寄せていて、その辺を中心に楽しくてかわいい動物画がいっぱい。社会全体のいろんな人々とかが動物以下に激しく劣化してしまった今となってはとっても懐かしい「風刺」の風景が。
お昼を食べた後 – 2時くらいにルーヴルに入って常設展示のほうから見ていく。2時間半くらい簡単につぶれる。
美術館の常設展示を見るのって、昔はふんふんふん♪ の30分、くらいで済んでいたのだがここのところえらく時間が掛かるようになっていて、それはなんでかというと、各地いろんなとこを回ってそこにある絵をつけっぱなしのラジオのように眺め倒していくと空っぽの頭にもそれなりに溜まってくるものがあるらしく、例えば宗教画の意匠とかシンボルとかにいちいち、これ、とか引っ掛かり立ち止まって、へえ、とか、ほう、とかやっていると次に行けない。それがルーヴルともなると量もあるし、これいいなあー、ていうのもいっぱいあるし。その割には憶えるのが進まない。(だからちゃんと勉強しなおそうね)
没後500年(まだたった5世紀)のダ・ヴィンチ展は当然混んではいたものの、行ったり戻ったりはできたし、イモ洗い状態ではなかった。(通常展示のところにいたモナリザさんは変わらず凄い混雑だったけど)
2011年、ロンドンのNational Galleryで見たダ・ヴィンチ展と比べると、大騒ぎになっている割にはそんなでもなかったかも。 今回の大看板の“La belle ferronnière”はすばらしいし、”Saint Jerome”も来ていたけど、クラクフの白貂はいなかったし(Infrared reflectogramのみ)、『岸壁の聖母』新旧揃いもなかったし。替わりに物理学者、天文学者としてのダ・ヴィンチにもスポットがあてられていて、科学方面のスケッチやメモも纏まって展示されていた – これって昨夏にBritish Libraryでやっていた” Leonardo da Vinci: A Mind in Motion”のと被っているのかしら?
驚異の人文・博物・ルネサンス・マンとしてのダ・ヴィンチはそれはそれはもうじゅうぶんすごいのだからよくて、自分が興味あるのは彼の絵画と素描なので、その点で今回の目玉はルーヴルにある” The Virgin and Child With Saint Anne” (1508-10)- 『聖アンナと聖母子』とその元画とされるロンドンNational Galleryの所謂” The Burlington House Cartoon” (1498) - 『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』の並びあたりだったかも。このふたつを眺めているだけでダ・ヴィンチの底知れぬ恐ろしさ – 情念みたいのがじわじわ滲んでくるのだった。
絵画以外(いや、これも絵画なのかな)ではInfrared reflectogramを通した作品(写真、でよいの?) – 白貂の他にはモナリザとか代表作いっぱい - が結構並んでいて、でもこれってどうなのかしら? って。 いま丁度National Galleryでも“Leonardo Experience a Masterpiece”ていう展示をやっていて、そこでは彼らの所有している『岸壁の聖母』にフォーカスして洞窟の光の具合(一日の変化を追って)までシミュレーションして解析していたりするのだが、ある絵画が、その下絵も含めてどんなふうに重ねられ試行しつつ描かれていったのかその痕跡を追う - TV番組ふうに言うと彼の創作の秘密を探る、って、あんま興味ないの。知ればおもしろいのだろうけど、へー、で終わってしまう気がする。自分のふたつの肉眼を通して見えるものがすべて、でよいのではないかしら? お料理の食材や調理方法を解析して化学式のレベルまで掘っていくのと、それがおいしいおいしくないっていうのは別の話で、ダ・ヴィンチって500年経ってもおいしいままだからその謎を調べたくなるのはわかるけど、結局彼はこんなにも天才だったの … ってその一点をぐるぐる回っているだけなのではないか、とか。
でもいろんな絵にじっとり浸かることができて、新年のいっぱつめとしてはよかったかも。カタログは重かったし、2011年のがあるからいいや、にした。
戻りは電車で、パリ北駅までの交通は前回ほどひどくはなくて、慣れたもん、になっていたかも。これならもう一回くらい日帰りしてもいいかも。
1.08.2020
[film] Long Day's Journey into Night (2018)
12月31日 - 何曜日だとか意識しなくていい大晦日の午後、CurzonのBloomsburyで見ました。ここ数年、大晦日は家に溜まって積もったゴミとか紙束を見てはいけない見ないほうがいいよ、って外に出て、それよりおっかなそうでやばい映画を見るようにしている(そこになんの意味があるというのか)のだが、今年は適当なホラーみたいのがなかったのでこれにした。
Eugene O'Neillによる同名の戯曲とはなんの関係もなかったのだが、タイトルとしてはこれしかないかんじはした。
(堅気の仕事人ではなさそうな)Luo (Huang Jue)が父の死の報を受けて20年ぶりに故郷の凱里市に戻ってきて、彼の遺した店のことなどをやりとりしていると、古い壁掛け時計の裏に古い写真を見つけて、その写真に写っていた幽霊のような女性を探して、彼女の面影を求めてあちこちを彷徨い始める、のだが探していく過程であの時のだれか、だれそれを知っているなにがし、死んでしまった昔の友人、その母とか振りむいてくる女性、などなどが挟まってきて、自分が探しているのがどこの誰でどんなふうなのか、断片ばかりなので見ている方はわからなくなってきて、でもLuo本人にはわかっているみたいなのでいいのか、と思っていると彼は映画館に入って、そこで映画が始まる。
そのタイトルは”Long Day's Journey into Night”っていう、最後の50数分間、3Dカメラのワンショットで撮られた映画で(上映は2D。3Dだったらどうなるか?)、これが映画の本編でもあって、そこまでの映画がつぎはぎだらけで過去と現在が入り乱れる現実の世界を描いたものであるとすると、ここからはすべてが満たされた(満たされているように見える)夢の世界に入ってくる、のかしら。どこかの境内ような場所で、カラオケとか演芸大会をしている縁日の様子がぐるりゆっくりと映されていくだけなのだが、その生々しさ、すべてがそこに降りてきているような感覚のありようは「夢」としか言いようがないやつで、おもしろい。
まあ、他人の夢なんて知るかよどうでもいい、ていうひとにはおもしろくもなんともないやつなのかも知れないが、ノワールの体裁を取りつつ、幻影や亡霊や化け物の力を借りずに夢 – 夢に出てきた女性を追う、っていうのが類型的すぎる気はするけど & 全体にちょっときれいすぎる気はするけど - それなりの説得力はあるかも。アジアのエキゾチシズムをくすぐってくるところもあるのでApichatpong Weerasethakulなんかと一緒にされてしまうかんじがないとは言えないが、彼の作品世界ともまたぜんぜん違う。あの世とか、あの世と繋がったどこか、の話ではなくて、いまここ - 手元で転がって果てのない夢 - その夢が満ちてくる夜に向かっていく旅の話なのだと思った。
監督が89年生まれと聞いて少し驚いて、だって何度か聞こえてくる中島みゆきの歌(だよねあれ? よくわかんないけど)とか、字幕にでてきた(気がする)Momoe Yamaguchiとか、やっぱり彼岸から来た映画なのかなあ。
Eugene O'Neillによる同名の戯曲とはなんの関係もなかったのだが、タイトルとしてはこれしかないかんじはした。
(堅気の仕事人ではなさそうな)Luo (Huang Jue)が父の死の報を受けて20年ぶりに故郷の凱里市に戻ってきて、彼の遺した店のことなどをやりとりしていると、古い壁掛け時計の裏に古い写真を見つけて、その写真に写っていた幽霊のような女性を探して、彼女の面影を求めてあちこちを彷徨い始める、のだが探していく過程であの時のだれか、だれそれを知っているなにがし、死んでしまった昔の友人、その母とか振りむいてくる女性、などなどが挟まってきて、自分が探しているのがどこの誰でどんなふうなのか、断片ばかりなので見ている方はわからなくなってきて、でもLuo本人にはわかっているみたいなのでいいのか、と思っていると彼は映画館に入って、そこで映画が始まる。
そのタイトルは”Long Day's Journey into Night”っていう、最後の50数分間、3Dカメラのワンショットで撮られた映画で(上映は2D。3Dだったらどうなるか?)、これが映画の本編でもあって、そこまでの映画がつぎはぎだらけで過去と現在が入り乱れる現実の世界を描いたものであるとすると、ここからはすべてが満たされた(満たされているように見える)夢の世界に入ってくる、のかしら。どこかの境内ような場所で、カラオケとか演芸大会をしている縁日の様子がぐるりゆっくりと映されていくだけなのだが、その生々しさ、すべてがそこに降りてきているような感覚のありようは「夢」としか言いようがないやつで、おもしろい。
まあ、他人の夢なんて知るかよどうでもいい、ていうひとにはおもしろくもなんともないやつなのかも知れないが、ノワールの体裁を取りつつ、幻影や亡霊や化け物の力を借りずに夢 – 夢に出てきた女性を追う、っていうのが類型的すぎる気はするけど & 全体にちょっときれいすぎる気はするけど - それなりの説得力はあるかも。アジアのエキゾチシズムをくすぐってくるところもあるのでApichatpong Weerasethakulなんかと一緒にされてしまうかんじがないとは言えないが、彼の作品世界ともまたぜんぜん違う。あの世とか、あの世と繋がったどこか、の話ではなくて、いまここ - 手元で転がって果てのない夢 - その夢が満ちてくる夜に向かっていく旅の話なのだと思った。
監督が89年生まれと聞いて少し驚いて、だって何度か聞こえてくる中島みゆきの歌(だよねあれ? よくわかんないけど)とか、字幕にでてきた(気がする)Momoe Yamaguchiとか、やっぱり彼岸から来た映画なのかなあ。
1.07.2020
[film] Fast and Loose (1930)
ここ数年、年の初めの映画はクラシックを、ということにしていて(ちなみに昨年はThe Ghost Goes West (1935)だった)、今年はなにかしら? と思っていたらBFI(ここは1/1から通常営業)で、”Carole Lombard: The Brightest Star”という問答無用の特集上映が始まってしまい、こーんなに縁起のよいものはないので、夕方から続けて2本見た。もういっこ、Felliniの回顧特集も始まったのだが、正月からFelliniを見てしまうと、なんか終わらないどんちゃん騒ぎばっかりの大変な一年になりそうな気がしたので少し留まった。
NYの裕福な名家 - Lenox家のBronson (Frank Morgan) とCarrie (Winifred Harris)夫妻は真面目で人望も厚いのに息子のBertie (Henry Wadsworth)と娘のMarion (Miriam Hopkins)はそんなでもないふうなのでちゃんと結婚できるかしら、って親ははらはらで、Bertieは街のコーラスガールのAlice (Carole Lombard – ちなみにこれ以前のクレジットはCarol Lombardだった) に入れこんでいて、Marionはお見合いした男が余りにぼんくら(見ればわかる。すごい)だったので嫌気がさしてひとり車を走らせて夜の浜辺に逃げこんだら、そこにひとりで泳ぎに来ていたHenry (Charles Starrett)っていう車の整備工と知りあって、互いにつんけんしながらも近寄っていく。
元はブロードウェイで“The Best People” (1924)ていうタイトルで上演されていた戯曲を映画用に書き直して、そこに更にPreston Sturges(これがハリウッドふたつめだって)がダイアローグ周りのアレンジを施していて、これが素敵ったらない。 金持ち階級のバカっぽさを嘲笑うテイストはもちろん、Marionの思い上がりをHenryが真面目に諌めたりしてMarionがしおしおと寄っていくところ、ふたりが夜の浜辺で泳いでいって突然キスしちゃうところとか、AliceのアナーキーなダチがLenox家の堅物のおじさんをいじりまくるところとか、最後はあたりまえのハッピーエンディングで、パパがHenryとAliceを指して最近の若い子たちは我々よりもよっぽどしっかりしておるわい、っていうの。
主演はこれが長編映画デビューとなるMiriam Hopkinsさんの方で、伸び縮みするエモのもしゃくしゃした表現とか表情が絶妙にうまくて、Carole Lombardさんは役柄として芯のしっかりした娘、だったせいかややおとなしい。けど、お話しとしておもしろくて終わったらみんな大拍手だった。
No Man of Her Own (1932)
上のに続けて、元旦の20:00からの上映。 邦題は『心の青空』(.. まったくわかんない)。
これと同じタイトルでMitchell Leisen監督、Barbara Stanwyck主演の1950年に作られたすばらしい作品があるのだが、あっちはノワールで、こっちはrom-comなの。
のちにカップルとなるClark GableとCarole Lombardが最初で最後、唯一共演した作品 – これが撮られた時は、互いにぜんぜんそんな気配はなかったらしいのだが – そういう1本なの。
NYの裏社会で仲間とポーカー賭博で稼いでいる"Babe" Stewart (Clark Gable)は、いつものようにカモから巻きあげたところで、仲間で情婦のKay (Dorothy Mackaill)もうるさいし、警察も動きだしそうなのでしばらくNYを離れることにする。てきとーに列車に乗り込んででGlendaleていう街で降りて宿を取り、することもないので図書館に行ってそこで司書をしている真面目そうなConnie(Carole Lombard)に目をつけて軽くひっかけてみようとする。
Connieは退屈な街も仕事も放り出したくてたまらないのだがBabeの前ではよいこにして家族にも紹介したりして、でもクールなその裏には何かがあるようで、BabeがNYに帰るとき、別れ際にホームでコイントスの賭けをしてその結果ふたりは結婚してしまう(えー)。
NYで、堅気の会社員ということになっているBabeは昼間にどこかの会社に机と電話番号だけ借りて夜中の博打稼業を続けるのだが、Connieを毎日だましていくのが辛くなり、そのうち仲間から南米にでっかいヤマがあるから行かないか、ていう誘いを受けると..
ものすごく爽快だったり豪快だったりのオチが来るわけではないのだが、Carole Lombardさんは既にCarol Lombardさん – つーんとかしているのに瞳だけは静かに燃えてて、すべてわかっていてお見通しで何をやってもかなわないな – になっていて、その佇まいがちょっと爬虫類ぽいClark Gableのねちねち男と絶妙の相性を見せる。ま、最後には彼の方が溶けてしまうわけだが。
“To Be or Not To Be” (1942) のJack Benny(彼もすてきだけど)がClark Gableだったらなあ、とかちょっとだけ思った。
というわけで映画に関してはすばらしい一年の滑りだしだったの。
NYの裕福な名家 - Lenox家のBronson (Frank Morgan) とCarrie (Winifred Harris)夫妻は真面目で人望も厚いのに息子のBertie (Henry Wadsworth)と娘のMarion (Miriam Hopkins)はそんなでもないふうなのでちゃんと結婚できるかしら、って親ははらはらで、Bertieは街のコーラスガールのAlice (Carole Lombard – ちなみにこれ以前のクレジットはCarol Lombardだった) に入れこんでいて、Marionはお見合いした男が余りにぼんくら(見ればわかる。すごい)だったので嫌気がさしてひとり車を走らせて夜の浜辺に逃げこんだら、そこにひとりで泳ぎに来ていたHenry (Charles Starrett)っていう車の整備工と知りあって、互いにつんけんしながらも近寄っていく。
元はブロードウェイで“The Best People” (1924)ていうタイトルで上演されていた戯曲を映画用に書き直して、そこに更にPreston Sturges(これがハリウッドふたつめだって)がダイアローグ周りのアレンジを施していて、これが素敵ったらない。 金持ち階級のバカっぽさを嘲笑うテイストはもちろん、Marionの思い上がりをHenryが真面目に諌めたりしてMarionがしおしおと寄っていくところ、ふたりが夜の浜辺で泳いでいって突然キスしちゃうところとか、AliceのアナーキーなダチがLenox家の堅物のおじさんをいじりまくるところとか、最後はあたりまえのハッピーエンディングで、パパがHenryとAliceを指して最近の若い子たちは我々よりもよっぽどしっかりしておるわい、っていうの。
主演はこれが長編映画デビューとなるMiriam Hopkinsさんの方で、伸び縮みするエモのもしゃくしゃした表現とか表情が絶妙にうまくて、Carole Lombardさんは役柄として芯のしっかりした娘、だったせいかややおとなしい。けど、お話しとしておもしろくて終わったらみんな大拍手だった。
No Man of Her Own (1932)
上のに続けて、元旦の20:00からの上映。 邦題は『心の青空』(.. まったくわかんない)。
これと同じタイトルでMitchell Leisen監督、Barbara Stanwyck主演の1950年に作られたすばらしい作品があるのだが、あっちはノワールで、こっちはrom-comなの。
のちにカップルとなるClark GableとCarole Lombardが最初で最後、唯一共演した作品 – これが撮られた時は、互いにぜんぜんそんな気配はなかったらしいのだが – そういう1本なの。
NYの裏社会で仲間とポーカー賭博で稼いでいる"Babe" Stewart (Clark Gable)は、いつものようにカモから巻きあげたところで、仲間で情婦のKay (Dorothy Mackaill)もうるさいし、警察も動きだしそうなのでしばらくNYを離れることにする。てきとーに列車に乗り込んででGlendaleていう街で降りて宿を取り、することもないので図書館に行ってそこで司書をしている真面目そうなConnie(Carole Lombard)に目をつけて軽くひっかけてみようとする。
Connieは退屈な街も仕事も放り出したくてたまらないのだがBabeの前ではよいこにして家族にも紹介したりして、でもクールなその裏には何かがあるようで、BabeがNYに帰るとき、別れ際にホームでコイントスの賭けをしてその結果ふたりは結婚してしまう(えー)。
NYで、堅気の会社員ということになっているBabeは昼間にどこかの会社に机と電話番号だけ借りて夜中の博打稼業を続けるのだが、Connieを毎日だましていくのが辛くなり、そのうち仲間から南米にでっかいヤマがあるから行かないか、ていう誘いを受けると..
ものすごく爽快だったり豪快だったりのオチが来るわけではないのだが、Carole Lombardさんは既にCarol Lombardさん – つーんとかしているのに瞳だけは静かに燃えてて、すべてわかっていてお見通しで何をやってもかなわないな – になっていて、その佇まいがちょっと爬虫類ぽいClark Gableのねちねち男と絶妙の相性を見せる。ま、最後には彼の方が溶けてしまうわけだが。
“To Be or Not To Be” (1942) のJack Benny(彼もすてきだけど)がClark Gableだったらなあ、とかちょっとだけ思った。
というわけで映画に関してはすばらしい一年の滑りだしだったの。
1.06.2020
[log] Rome
クリスマス直前にパリから戻って、クリスマスの間だけロンドンにいて、26日の朝にロンドンを発ってローマに行って、29日の晩に戻ってきた。昨年はフィレンツェとミラノだったので、今年はその続きで、最初はローマとヴェネツィアの予定だったのだが、11月頃、ヴェネツィアは洪水で大変なことになっていたのでやめて、その替わりに日帰りツアーのポンペイとナポリを加えた。ローマって、みんなふつーに観光で行くし、なんか俗っぽいかんじだしどうかしら、だったのだがヴァチカンだけはなんとしても行かないといけない案件だったので、行った。結果、とってもおもしろかった。
メモを書くけど、いろいろ溜まっているのでぜんぶきちんと網羅するような書き方はやめる。
Colosseo, Palatino, Foro Romano
着いたその日の午後、ふつうの観光ツアーに入って見た。本当はコロッセオのunderground の方も行けるツアーにしたかったのだが、売り切れていた。コロッセオのなかに立って、見て、丘の上から遺跡全体を見渡してみる、と遺跡と街の切れ目がないような錯覚がやってきてあらすごいかっこいい、と。モダンななにかが入りこむ余地がないような爛れた光景で、そのおかげですべてを停滞させるか、なにかを諦めてどんちゃん騒ぎするしかなくて、古都というのはそういうもの、とか、そうやって何千年もやってきたのだからべつにいいじゃん、と言われて終わるだけのー。
Musei Capitolini
そこの横にあった世界最古と言われたりしている美術館に入って大量の彫刻とかいっぱい。建物が3つあって地下を抜けて上に戻ったら別の建物だったとか、いろいろありすぎる。この、館の細部も含めていろいろあって混みいりすぎててなにこれお手あげ、の感覚はローマの美術館巡りで最後までついてまわった。これ、時間の余裕がある時は笑っていられるけど時間がない観光客にはしんどいったら。
Vatican Museums
今回の旅の目的はなんといってもヴァチカンの中に行くこと - 昨年ウフィツィ行って、ミラノで最後の晩餐を見て、今年はエルミタージュまで行ったのでヴァチカンは最後のほんもんの.. だった気がする(まだいっぱいあるよ)。ので宿もヴァチカンの傍に取って、毎晩広場のツリーを見て拝んでいた(なにを?)。
一刻も早く見たかったので朝食付きとかいう7:15に入れるチケットを取って暗い中並んだ。朝ごはんは館内のカフェでどうでもいいアメリカンのビュッフェで、横にいたおばさんなんてご飯なんてどうでもいいから早く見せろって、8:00に開いたら奥にすっ飛んでいった(同感・同様)。 目指すのはもちろんシスティーナ礼拝堂なのだがそこに行くまでにラファエロのとか迷路のようにあれこれありすぎてぜんぜん奥に行けなくて悪夢の中を彷徨っているようだった。 モダンまで出てきてマティスとかモランディはわかるけど、なんでKirchnerとかOtto Dixあたりのがヴァチカンにあるの? とか。
礼拝堂は確かにすごかったのだが、あんなに上空にわらわらひしめいていたら騒々しくてお祈りどころじゃないよなお祭りだよな、っていうのと、その喧噪を貫いて神の声を聞くことができたものだけが.. とか、割とふつうの感想しか来ない。
Biblioteca Angelica
本当かどうかは知らぬが世界最古のPublic Libraryだという。自分は古い本に囲まれてその匂いを嗅いでいるだけで幸せになれるタイプなので、ここは行って浴びるしかない。すばらしい香りだった。奥で勉強している人たちもいたけど、あんな中で静かに勉強できるのか.. (広げて散らかす派)。隣のBasilica di Sant’Agostinoにはカラヴァッジョの”Madonna di Loreto”があった(たまたま入った、程度なのに)。行く先々のごくふつうの寺にカラヴァッジョとかラファエロとかが貼ってある、ってなんなのこの街は。
Museo di Roma
図書館のそばのナヴォーナ広場を抜けたところのローマ博物館で、Canova展をやっていたので見る。ここの建物もなんか変なつくりで展示物とか天井に気を取られているとここはどこ? になる。
Canovaの彫刻はどれも滑らかで(大理石なんだからあたりまえか)すごくよくて、主要作は台の上でゆっくり回転してくれるので表のつるつるも後ろのひだひだとか結びめもじっくり見ることができた。展示のタイトルであるEterna bellezza - Eternal beautyっていうのはこの両者の表裏とか隠す隠されるのバランスなんだろうねえ。
Museo e Galleria Borghese
ボルゲーゼ美術館も行くならなんとしても、のひとつだったわけだが、ここもまたすんごいお化け屋敷だった。昔、NYのFrick Collectionあたりで興奮していた自分がかわいく思えてしまう(いや、Frick Collectionもいいのよ)。ここのゴージャスな積みあげ散らし - 大きい広間と小さな部屋の使い分けは素敵すぎ。はじめはカラヴァッジョの果物籠とラファエロの一角獣が見れればじゅうぶん、だったのだが彫刻の大群と天井の突き抜けぐあいがすさまじいの。ここで暮らしたら神々と悪魔とか獣とかの果てしない戦いが毎晩みられるんだとおもう。(”Night Museum”なんてアメリカのmuseumだから成立したお話で、ここでやったら毎晩黙示録が勃発してとんでもない事態になる)
Pompeii
ポポロ広場を朝7:30に出てPompeiiの遺跡を見てナポリに寄って晩の19:30に戻ってくるバスのツアー。 廃墟を見るのは好きだけど遺跡は知識が乏しくて、でも火山噴火でたった数日間で栄えていた町全体が灰に埋まった、ってなんかすごいな、と思って。まだ発掘が続いているその場所に行ってみると思っていたよりも広くでっかく町としての機能は一通り揃っていて、パン屋の話とか赤線地帯の話には感動する。
これ、大昔の他人事ではなくて、311にしても今のオーストラリアの火事にしても、文化や文明の消滅って、起こるときはこんな簡単に起こるんだな、って。
帰りにナポリに寄って1時間くらい自由時間があったのだが1時間だと歩いているだけで終わってしまう。昔からいろんな人が書いているようにとっても雑でざわざわした街だったような。夏は楽しいのだろうけど、冬はクリスマス後の吹きだまったゴミがものすごくて、わー、だった。
Basilica di San Pietro
美術館群だけ行って本堂にお詣りしないのは失礼ではないか、と最終日の朝に並んで入った。ここが総本山かー、て上を見あげて盛りあがるばかり。皇居に行って身震いする人たちって(いるのか知らんが)こんなふうなのかしら?
Castel Sant'Angelo
総本山の近所の五角形のお城(?)。眺めがいいだけでなく、砲台とか武器とかがいっぱい、美術品も少しはあって、でも全体としては野暮ったい野武士のたまり場、男くさー、みたいな。
Palazzo Barberini
バルベリーニ宮 - 国立古典絵画館。ここはなんといってもラファエロの「フォルナリーナ」なのだが、カラヴァッジョの首斬りby ユーディトとか、グイド・レーニの「ベアトリーチェ」とか、よいのがうようよあって、もう少し時間があったらなあ、だった。
Villa Farnesina
帰国する日の午後、まだ30分くらい時間があったので最後に車で寄った。
ラファエロのでっかいフレスコ画 – 『ガラテイアの凱旋』と”Cupid and Psyche”(ラファエロはデザインのみ)があって、どちらも漫画みたいにドラマがあって楽しいの。
食べものは何食べてもおいしい、といってもカルボナーラとカシオエペペとピザとアーティチョークとジェラートばっかりだったかも。 けどそれだけでじゅうぶん。あと1週間いたら内臓のどこかが膨満してぶっ壊れる気が少しだけ、した。
あと、足も疲れたけど目もたいへん疲れた - 予備の目があと4組くらいほしい。
やっぱりローマはフィレンツェともミラノともぜんぜん違う街だった。
フィレンツェは中世がそのまま生き延びているかんじ、ミラノはモダンが押して変に捩れて居座っているようなかんじ、ローマは古代からのなんかがそこらじゅうにあって、それらはただそこに遺っているだけでなくて、よくわかんないエネルギーだか念みたいなのを放っていて、人々はみんななんか酔っ払っているような、でもたった数日の滞在でそんなのわかるわきゃないから、またくる。
1月頭からBFIで始まったFellini特集で、さっき”La dolce vita” (1960)を見てきた。
ローマの記憶を噛みしめつつ掘っていけたらなー。
メモを書くけど、いろいろ溜まっているのでぜんぶきちんと網羅するような書き方はやめる。
Colosseo, Palatino, Foro Romano
着いたその日の午後、ふつうの観光ツアーに入って見た。本当はコロッセオのunderground の方も行けるツアーにしたかったのだが、売り切れていた。コロッセオのなかに立って、見て、丘の上から遺跡全体を見渡してみる、と遺跡と街の切れ目がないような錯覚がやってきてあらすごいかっこいい、と。モダンななにかが入りこむ余地がないような爛れた光景で、そのおかげですべてを停滞させるか、なにかを諦めてどんちゃん騒ぎするしかなくて、古都というのはそういうもの、とか、そうやって何千年もやってきたのだからべつにいいじゃん、と言われて終わるだけのー。
Musei Capitolini
そこの横にあった世界最古と言われたりしている美術館に入って大量の彫刻とかいっぱい。建物が3つあって地下を抜けて上に戻ったら別の建物だったとか、いろいろありすぎる。この、館の細部も含めていろいろあって混みいりすぎててなにこれお手あげ、の感覚はローマの美術館巡りで最後までついてまわった。これ、時間の余裕がある時は笑っていられるけど時間がない観光客にはしんどいったら。
Vatican Museums
今回の旅の目的はなんといってもヴァチカンの中に行くこと - 昨年ウフィツィ行って、ミラノで最後の晩餐を見て、今年はエルミタージュまで行ったのでヴァチカンは最後のほんもんの.. だった気がする(まだいっぱいあるよ)。ので宿もヴァチカンの傍に取って、毎晩広場のツリーを見て拝んでいた(なにを?)。
一刻も早く見たかったので朝食付きとかいう7:15に入れるチケットを取って暗い中並んだ。朝ごはんは館内のカフェでどうでもいいアメリカンのビュッフェで、横にいたおばさんなんてご飯なんてどうでもいいから早く見せろって、8:00に開いたら奥にすっ飛んでいった(同感・同様)。 目指すのはもちろんシスティーナ礼拝堂なのだがそこに行くまでにラファエロのとか迷路のようにあれこれありすぎてぜんぜん奥に行けなくて悪夢の中を彷徨っているようだった。 モダンまで出てきてマティスとかモランディはわかるけど、なんでKirchnerとかOtto Dixあたりのがヴァチカンにあるの? とか。
礼拝堂は確かにすごかったのだが、あんなに上空にわらわらひしめいていたら騒々しくてお祈りどころじゃないよなお祭りだよな、っていうのと、その喧噪を貫いて神の声を聞くことができたものだけが.. とか、割とふつうの感想しか来ない。
Biblioteca Angelica
本当かどうかは知らぬが世界最古のPublic Libraryだという。自分は古い本に囲まれてその匂いを嗅いでいるだけで幸せになれるタイプなので、ここは行って浴びるしかない。すばらしい香りだった。奥で勉強している人たちもいたけど、あんな中で静かに勉強できるのか.. (広げて散らかす派)。隣のBasilica di Sant’Agostinoにはカラヴァッジョの”Madonna di Loreto”があった(たまたま入った、程度なのに)。行く先々のごくふつうの寺にカラヴァッジョとかラファエロとかが貼ってある、ってなんなのこの街は。
Museo di Roma
図書館のそばのナヴォーナ広場を抜けたところのローマ博物館で、Canova展をやっていたので見る。ここの建物もなんか変なつくりで展示物とか天井に気を取られているとここはどこ? になる。
Canovaの彫刻はどれも滑らかで(大理石なんだからあたりまえか)すごくよくて、主要作は台の上でゆっくり回転してくれるので表のつるつるも後ろのひだひだとか結びめもじっくり見ることができた。展示のタイトルであるEterna bellezza - Eternal beautyっていうのはこの両者の表裏とか隠す隠されるのバランスなんだろうねえ。
Museo e Galleria Borghese
ボルゲーゼ美術館も行くならなんとしても、のひとつだったわけだが、ここもまたすんごいお化け屋敷だった。昔、NYのFrick Collectionあたりで興奮していた自分がかわいく思えてしまう(いや、Frick Collectionもいいのよ)。ここのゴージャスな積みあげ散らし - 大きい広間と小さな部屋の使い分けは素敵すぎ。はじめはカラヴァッジョの果物籠とラファエロの一角獣が見れればじゅうぶん、だったのだが彫刻の大群と天井の突き抜けぐあいがすさまじいの。ここで暮らしたら神々と悪魔とか獣とかの果てしない戦いが毎晩みられるんだとおもう。(”Night Museum”なんてアメリカのmuseumだから成立したお話で、ここでやったら毎晩黙示録が勃発してとんでもない事態になる)
Pompeii
ポポロ広場を朝7:30に出てPompeiiの遺跡を見てナポリに寄って晩の19:30に戻ってくるバスのツアー。 廃墟を見るのは好きだけど遺跡は知識が乏しくて、でも火山噴火でたった数日間で栄えていた町全体が灰に埋まった、ってなんかすごいな、と思って。まだ発掘が続いているその場所に行ってみると思っていたよりも広くでっかく町としての機能は一通り揃っていて、パン屋の話とか赤線地帯の話には感動する。
これ、大昔の他人事ではなくて、311にしても今のオーストラリアの火事にしても、文化や文明の消滅って、起こるときはこんな簡単に起こるんだな、って。
帰りにナポリに寄って1時間くらい自由時間があったのだが1時間だと歩いているだけで終わってしまう。昔からいろんな人が書いているようにとっても雑でざわざわした街だったような。夏は楽しいのだろうけど、冬はクリスマス後の吹きだまったゴミがものすごくて、わー、だった。
Basilica di San Pietro
美術館群だけ行って本堂にお詣りしないのは失礼ではないか、と最終日の朝に並んで入った。ここが総本山かー、て上を見あげて盛りあがるばかり。皇居に行って身震いする人たちって(いるのか知らんが)こんなふうなのかしら?
Castel Sant'Angelo
総本山の近所の五角形のお城(?)。眺めがいいだけでなく、砲台とか武器とかがいっぱい、美術品も少しはあって、でも全体としては野暮ったい野武士のたまり場、男くさー、みたいな。
Palazzo Barberini
バルベリーニ宮 - 国立古典絵画館。ここはなんといってもラファエロの「フォルナリーナ」なのだが、カラヴァッジョの首斬りby ユーディトとか、グイド・レーニの「ベアトリーチェ」とか、よいのがうようよあって、もう少し時間があったらなあ、だった。
Villa Farnesina
帰国する日の午後、まだ30分くらい時間があったので最後に車で寄った。
ラファエロのでっかいフレスコ画 – 『ガラテイアの凱旋』と”Cupid and Psyche”(ラファエロはデザインのみ)があって、どちらも漫画みたいにドラマがあって楽しいの。
食べものは何食べてもおいしい、といってもカルボナーラとカシオエペペとピザとアーティチョークとジェラートばっかりだったかも。 けどそれだけでじゅうぶん。あと1週間いたら内臓のどこかが膨満してぶっ壊れる気が少しだけ、した。
あと、足も疲れたけど目もたいへん疲れた - 予備の目があと4組くらいほしい。
やっぱりローマはフィレンツェともミラノともぜんぜん違う街だった。
フィレンツェは中世がそのまま生き延びているかんじ、ミラノはモダンが押して変に捩れて居座っているようなかんじ、ローマは古代からのなんかがそこらじゅうにあって、それらはただそこに遺っているだけでなくて、よくわかんないエネルギーだか念みたいなのを放っていて、人々はみんななんか酔っ払っているような、でもたった数日の滞在でそんなのわかるわきゃないから、またくる。
1月頭からBFIで始まったFellini特集で、さっき”La dolce vita” (1960)を見てきた。
ローマの記憶を噛みしめつつ掘っていけたらなー。
1.01.2020
[log] Best before 2019
新年あけましておめでとうございます。
2019年最後に見た映画は、既に書いたようにCurzonのBloomsburyでの”Long Day’s Journey into Night” (2018)でした。
2020年最初に聴いたレコードはこないだ再発されたR.E.M.のMonster (25th Anniversary Edition)の封を開けて、”What’s The Frequency, Kenneth?”の新しいmixを聴いたらなんか違う気がして(よくある)、元のを聴いたらやっぱりこっちだよね、って。そこからX-Ray Spexとか。
最初に見た映画はBFIで元旦から始まったCarole Lombard特集から30年代の作品を2本見た。至福だった。
2019年、映画館で見た映画はぜんぶで、311本あった。
DVDとか買っていないし、ネット配信もやったことないので、こんなものかしら。 そういうのに頼らなくても見るものがいくらでも、というのは恵まれている、と思う。 のだがもう少し抑えて楽に過ごしたいかも
アート方面の展示・展覧会は、だいたい200くらい、音楽のライブは35本、演劇、ダンスとかトークなどは25本くらい。
[film] - 新作 25 - 見た順(上が古い)
まだ、”Parasite”も”Portrait of a Lady on Fire”も”Amanda”も見てないの。
◼️ If Beale Street Could Talk (2018)
◼️ Hale County This Morning, This Evening (2018)
◼️ Under the Silver Lake (2018)
◼️ Mid90s (2018)
◼️ Lazzaro felice (2018) Happy as Lazzaro
◼️ Ash is Purest White (2018) - 江湖儿女
◼️ Long Shot (2019)
◼️ High Life (2018)
◼️ Booksmart (2019)
◼️ Tarde Para Morir Joven (2018) ”Too Late to Die Young”
◼️ Animals (2019)
◼️ The Farewell (2019)
◼️ Pájaros de verano (2018) - Birds of Passage
◼️ Gloria Bell (2018)
◼️ Support the Girls (2018)
◼️ Dolor y gloria (2019) - Pain and Glory
◼️ The Souvenir (2019)
◼️ Hustlers (2019)
◼️ Good Posture (2019)
◼️ Marriage Story (2019)
◼️ National Theatre Live: Fleabag (2019)
◼️ Vitalina Varela (2019)
◼️ The Last Black Man in San Francisco (2019)
◼️ Motherless Brooklyn (2019)
◼️ Little Women (2019)
[film] - Documentary 13本くらいあるけどいいや - 見た順
Documentary映画が果たす役割って本当に大きくなっている気がする。ろくでもないのもあるけど。
◼️ Knock Down the House (2019)
◼️ Amazing Grace (2018)
◼️ Last Stop Coney Island: The Life and Photography of Harold Feinstein (2018)
◼️ Rolling Thunder Revue: A Bob Dylan Story by Martin Scorsese (2019)
◼️ Apollo 11 (2019)
◼️ Varda par Agnès (2019)
◼️ The Great Hack (2019)
◼️ Gaza (2019)
◼️ For Sama (2019)
◼️ Hitsville: The Making of Motown (2019)
◼️ White Riot (2019)
◼️ Making Waves: The Art of Cinematic Sound (2019)
◼️ The Cave (2019)
[film] - 旧作 絞ったほうだけど結局絞れなかったのでそのまま置いておく - 見た順
昔の映画ってほんとうに、おもしろいんだよ。同じことしか言わないけど。
◼️ The Private Life of Henry VIII (1933)
◼️ La signora senza camelie (1953)
◼️ Knight without Armor (1937)
◼️ That Hamilton Woman (1941)
◼️ Il Grido (1957)
◼️ The Innocents (1961)
◼️ Golden Boy (1939)
◼️ Night Nurse (1931)
◼️ No Man of Her Own (1950)
◼️ Clash by Night (1952)
◼️ Meet John Doe (1941)
◼️ Remember the Night (1940)
◼️ Outside the Law (1920)
◼️ Geschichtsunterricht (1972)
◼️ Ya shagayu po Moskve (1963) 『私はモスクワを歩く』
◼️ La Pointe Courte (1955)
◼️ Madame DuBarry (1919)
◼️ Vendredi soir (2002)
◼️ The Little Foxes (1941)
◼️ You Can Count On Me (2000)
◼️ Stonewall (1995)
◼️ Enamorada (1946)
◼️ Gas Food Lodging (1992)
◼️ The Doom Generation (1995)
◼️ I Was a Male War Bride (1949)
◼️ Lust for Life (1956)
◼️ The Man in the White Suit (1951)
◼️ An Affair to Remember (1957)
◼️ Love, Life and Laughter (1923)
◼️ Goodbye, Mr. Chips (1969)
◼️ La Maison des bois (1971)
◼️ De bruit et de fureur (1988) - “Sound and Fury”
◼️ The Cool World (1963)
◼️ N'oublie pas que tu vas mourir (1995) - “Don't Forget You're Going to Die”
◼️ Van Gogh (1991)
BFIの特集では、Michelangelo Antonioni, Alexander Korda, Barbara Stanwyck, Cary Grant, Maurice Pialat, Musicals! .. どれもすばらしかった。
[art] best 27くらいあるけどいいや。 これも見た順で。
◼️ Good Grief, Charlie Brown! @Sommerset House
◼️ Mantegna and Bellini @National Gallery
◼️ Fernand Khnopff (1858-1921) The master of enigma @Petit Palais
◼️ Pierre Bonnard: The Colour of Memory @Tate Modern
◼️ Bermejo. The 15th century rebel genius @Museu Nacional d'Art de Catalunya
◼️ John Ruskin: The Power of Seeing @Two Temple Place
◼️ Balthus @Museo Thyssen Bornemisza
◼️ Albert Serra: Personalien @Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía
◼️ Edvard Munch: Love and Angst @British Museum
◼️ Mary Quant @V&A
◼️ Sorolla: Spanish Master of Light @National Gallery
◼️ I, I, I, I, I, I, I, Kathy Acker @ICA
◼️ The Self-Portrait, from Schiele to Beckmann @Neue Galerie New York
◼️ Harald Sohlberg: Painting Norway @Dulwich Picture Gallery
◼️ Félix Vallotton: Painter of Disquiet @Royal Academy of Arts
◼️ Lee Krasner Living Colour @Barbican
◼️ Van Gogh and Britain @Tate Britain
◼️ Helene Schjerfbeck @Royal Academy of Arts
◼️ Charleston Farmhouse - Monk's House
◼️ Drawing the Curtain: Maurice Sendak’s Designs for Opera and Ballet @The Morgan Library & Museum
◼️ Berthe Morisot @Musée d'Orsay
◼️ Mondrian figuratif @Musée Marmottan Monet
◼️ William Blake @Tate Britain
◼️ Pre-Raphaelite Sisters @National Portrait Gallery
◼️ Degas at the Opera @Musée d'Orsay
◼️ Peter Hujar: Speed of Life @Jeu de Paume
◼️ Le monde nouveau de Charlotte Perriand @Fondation Louis Vuitton
Rijksmuseumのレンブラントお蔵出し、Hermitage Museum、Vatican Museums ぜんぶ、Museo e Galleria Borghese 憧れだったところのはどれもすばらしかった。
[music - Live]
◼️ Apr 02 Le Bucherettes @MOTH club
◼️ Apr 21 Rufus Wainwright @Royal Albert Hall
◼️ May 02 Otoboke Beaver @The Scala
◼️ May 09 Philip Glass - The Bowie Symphonies @Royal Festival Hall
◼️ Jun 04 Liz Phair @Islington Assembly Hall
◼️ Jun 10 Bikini Kill @O2 Academy Brixton
◼️ Jun 13 Thurston Moore Ensemble @Cafe OTO
◼️ Jun 19 Conversations with Nick Cave @Barbican Hall
◼️ Jul 07 Barbra Striesand, Bryan Ferry, Kris Kristofferson @Hyde Park
◼️ Aug 14 Russian Circles @EartH
◼️ Sep 30 Richard Thompson 70th Birthday Celebration @Royal Albert Hall
◼️ Oct 10 Helmet 30x30x30 @O2 Academy Islington
◼️ Oct 24 Lloyd Cole @Union Chapel
◼️ Nov 10 The Raincoats @EartH
[new records] .. レコードは、新譜も旧譜も中古も抑え気味になっている。
◼️ Billie Eilish “When We All Fall Asleep, Where Do We Go?”
◼️ Lana Del Rey “Norman Fucking Rockwell!”
◼️ Sharon Van Etten “Remind Me Tomorrow”
◼️ Jenny Lewis “On the Line”
◼️ Marika Hackman “Any Human Friend”
女性ばかりなのは偶然かしら?
[reissues]
◼️ The Spinanes ”Manos”
◼️ Prefab Sprout “I Trawl the Megahertz”
◼️ The Replacements “Dead Man’s Pop”
◼️ The Beatles, “Abbey Road: Super Deluxe Box”
◼️ X-Ray Spex “Am A Cliché”
ストリーミングのなんかに入らなきゃ、とここ3年くらい思っていて実行できていない。
[theater & ballet & talk]
◼️ Jan 15 Akram Khan Company: Until The Lions @Roundhouse
◼️ Feb 04 All About Eve @Noël Coward Theatre
◼️ Mar 26 Viv Albertine and Tracey Thorn @British Library
◼️ Apr 15 Betrayal @Harold Pinter Theatre
◼️ May 11 A German Life @Bridge Theater
◼️ May 12 Vivien Goldman + Jenn Pelly @McNally Jackson Bookstore
◼️ Jun 08 All My Sons @Old Vic
◼️ Jun 24 The Damned (Les Damnés) by Comédie-Française @Barbican Theatre
◼️ Aug 10 The Starry Messenger @Whyndham's Theatre
◼️ Sep 23 Giselle by English National Ballet and Akram Khan @Sadler’s Wells
◼️ Nov 21 Geiselle by Bolshoi Ballet @Bolshoi Theatre
◼️ Dec 08 Fleabag: The Scriptures - Phoebe Walter-Bridge & Deborah Frances-White @Royal Festival Hall
◼️ Dec 16 Translations @National Theatre
今年もたくさんのよいものに出会うことができますようにー。
振り返ったり思い出したり、しんどかった。年末から始めないと一日潰れてしまうねえ。
2019年最後に見た映画は、既に書いたようにCurzonのBloomsburyでの”Long Day’s Journey into Night” (2018)でした。
2020年最初に聴いたレコードはこないだ再発されたR.E.M.のMonster (25th Anniversary Edition)の封を開けて、”What’s The Frequency, Kenneth?”の新しいmixを聴いたらなんか違う気がして(よくある)、元のを聴いたらやっぱりこっちだよね、って。そこからX-Ray Spexとか。
最初に見た映画はBFIで元旦から始まったCarole Lombard特集から30年代の作品を2本見た。至福だった。
2019年、映画館で見た映画はぜんぶで、311本あった。
DVDとか買っていないし、ネット配信もやったことないので、こんなものかしら。 そういうのに頼らなくても見るものがいくらでも、というのは恵まれている、と思う。 のだがもう少し抑えて楽に過ごしたいかも
アート方面の展示・展覧会は、だいたい200くらい、音楽のライブは35本、演劇、ダンスとかトークなどは25本くらい。
[film] - 新作 25 - 見た順(上が古い)
まだ、”Parasite”も”Portrait of a Lady on Fire”も”Amanda”も見てないの。
◼️ If Beale Street Could Talk (2018)
◼️ Hale County This Morning, This Evening (2018)
◼️ Under the Silver Lake (2018)
◼️ Mid90s (2018)
◼️ Lazzaro felice (2018) Happy as Lazzaro
◼️ Ash is Purest White (2018) - 江湖儿女
◼️ Long Shot (2019)
◼️ High Life (2018)
◼️ Booksmart (2019)
◼️ Tarde Para Morir Joven (2018) ”Too Late to Die Young”
◼️ Animals (2019)
◼️ The Farewell (2019)
◼️ Pájaros de verano (2018) - Birds of Passage
◼️ Gloria Bell (2018)
◼️ Support the Girls (2018)
◼️ Dolor y gloria (2019) - Pain and Glory
◼️ The Souvenir (2019)
◼️ Hustlers (2019)
◼️ Good Posture (2019)
◼️ Marriage Story (2019)
◼️ National Theatre Live: Fleabag (2019)
◼️ Vitalina Varela (2019)
◼️ The Last Black Man in San Francisco (2019)
◼️ Motherless Brooklyn (2019)
◼️ Little Women (2019)
[film] - Documentary 13本くらいあるけどいいや - 見た順
Documentary映画が果たす役割って本当に大きくなっている気がする。ろくでもないのもあるけど。
◼️ Knock Down the House (2019)
◼️ Amazing Grace (2018)
◼️ Last Stop Coney Island: The Life and Photography of Harold Feinstein (2018)
◼️ Rolling Thunder Revue: A Bob Dylan Story by Martin Scorsese (2019)
◼️ Apollo 11 (2019)
◼️ Varda par Agnès (2019)
◼️ The Great Hack (2019)
◼️ Gaza (2019)
◼️ For Sama (2019)
◼️ Hitsville: The Making of Motown (2019)
◼️ White Riot (2019)
◼️ Making Waves: The Art of Cinematic Sound (2019)
◼️ The Cave (2019)
[film] - 旧作 絞ったほうだけど結局絞れなかったのでそのまま置いておく - 見た順
昔の映画ってほんとうに、おもしろいんだよ。同じことしか言わないけど。
◼️ The Private Life of Henry VIII (1933)
◼️ La signora senza camelie (1953)
◼️ Knight without Armor (1937)
◼️ That Hamilton Woman (1941)
◼️ Il Grido (1957)
◼️ The Innocents (1961)
◼️ Golden Boy (1939)
◼️ Night Nurse (1931)
◼️ No Man of Her Own (1950)
◼️ Clash by Night (1952)
◼️ Meet John Doe (1941)
◼️ Remember the Night (1940)
◼️ Outside the Law (1920)
◼️ Geschichtsunterricht (1972)
◼️ Ya shagayu po Moskve (1963) 『私はモスクワを歩く』
◼️ La Pointe Courte (1955)
◼️ Madame DuBarry (1919)
◼️ Vendredi soir (2002)
◼️ The Little Foxes (1941)
◼️ You Can Count On Me (2000)
◼️ Stonewall (1995)
◼️ Enamorada (1946)
◼️ Gas Food Lodging (1992)
◼️ The Doom Generation (1995)
◼️ I Was a Male War Bride (1949)
◼️ Lust for Life (1956)
◼️ The Man in the White Suit (1951)
◼️ An Affair to Remember (1957)
◼️ Love, Life and Laughter (1923)
◼️ Goodbye, Mr. Chips (1969)
◼️ La Maison des bois (1971)
◼️ De bruit et de fureur (1988) - “Sound and Fury”
◼️ The Cool World (1963)
◼️ N'oublie pas que tu vas mourir (1995) - “Don't Forget You're Going to Die”
◼️ Van Gogh (1991)
BFIの特集では、Michelangelo Antonioni, Alexander Korda, Barbara Stanwyck, Cary Grant, Maurice Pialat, Musicals! .. どれもすばらしかった。
[art] best 27くらいあるけどいいや。 これも見た順で。
◼️ Good Grief, Charlie Brown! @Sommerset House
◼️ Mantegna and Bellini @National Gallery
◼️ Fernand Khnopff (1858-1921) The master of enigma @Petit Palais
◼️ Pierre Bonnard: The Colour of Memory @Tate Modern
◼️ Bermejo. The 15th century rebel genius @Museu Nacional d'Art de Catalunya
◼️ John Ruskin: The Power of Seeing @Two Temple Place
◼️ Balthus @Museo Thyssen Bornemisza
◼️ Albert Serra: Personalien @Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía
◼️ Edvard Munch: Love and Angst @British Museum
◼️ Mary Quant @V&A
◼️ Sorolla: Spanish Master of Light @National Gallery
◼️ I, I, I, I, I, I, I, Kathy Acker @ICA
◼️ The Self-Portrait, from Schiele to Beckmann @Neue Galerie New York
◼️ Harald Sohlberg: Painting Norway @Dulwich Picture Gallery
◼️ Félix Vallotton: Painter of Disquiet @Royal Academy of Arts
◼️ Lee Krasner Living Colour @Barbican
◼️ Van Gogh and Britain @Tate Britain
◼️ Helene Schjerfbeck @Royal Academy of Arts
◼️ Charleston Farmhouse - Monk's House
◼️ Drawing the Curtain: Maurice Sendak’s Designs for Opera and Ballet @The Morgan Library & Museum
◼️ Berthe Morisot @Musée d'Orsay
◼️ Mondrian figuratif @Musée Marmottan Monet
◼️ William Blake @Tate Britain
◼️ Pre-Raphaelite Sisters @National Portrait Gallery
◼️ Degas at the Opera @Musée d'Orsay
◼️ Peter Hujar: Speed of Life @Jeu de Paume
◼️ Le monde nouveau de Charlotte Perriand @Fondation Louis Vuitton
Rijksmuseumのレンブラントお蔵出し、Hermitage Museum、Vatican Museums ぜんぶ、Museo e Galleria Borghese 憧れだったところのはどれもすばらしかった。
[music - Live]
◼️ Apr 02 Le Bucherettes @MOTH club
◼️ Apr 21 Rufus Wainwright @Royal Albert Hall
◼️ May 02 Otoboke Beaver @The Scala
◼️ May 09 Philip Glass - The Bowie Symphonies @Royal Festival Hall
◼️ Jun 04 Liz Phair @Islington Assembly Hall
◼️ Jun 10 Bikini Kill @O2 Academy Brixton
◼️ Jun 13 Thurston Moore Ensemble @Cafe OTO
◼️ Jun 19 Conversations with Nick Cave @Barbican Hall
◼️ Jul 07 Barbra Striesand, Bryan Ferry, Kris Kristofferson @Hyde Park
◼️ Aug 14 Russian Circles @EartH
◼️ Sep 30 Richard Thompson 70th Birthday Celebration @Royal Albert Hall
◼️ Oct 10 Helmet 30x30x30 @O2 Academy Islington
◼️ Oct 24 Lloyd Cole @Union Chapel
◼️ Nov 10 The Raincoats @EartH
[new records] .. レコードは、新譜も旧譜も中古も抑え気味になっている。
◼️ Billie Eilish “When We All Fall Asleep, Where Do We Go?”
◼️ Lana Del Rey “Norman Fucking Rockwell!”
◼️ Sharon Van Etten “Remind Me Tomorrow”
◼️ Jenny Lewis “On the Line”
◼️ Marika Hackman “Any Human Friend”
女性ばかりなのは偶然かしら?
[reissues]
◼️ The Spinanes ”Manos”
◼️ Prefab Sprout “I Trawl the Megahertz”
◼️ The Replacements “Dead Man’s Pop”
◼️ The Beatles, “Abbey Road: Super Deluxe Box”
◼️ X-Ray Spex “Am A Cliché”
ストリーミングのなんかに入らなきゃ、とここ3年くらい思っていて実行できていない。
[theater & ballet & talk]
◼️ Jan 15 Akram Khan Company: Until The Lions @Roundhouse
◼️ Feb 04 All About Eve @Noël Coward Theatre
◼️ Mar 26 Viv Albertine and Tracey Thorn @British Library
◼️ Apr 15 Betrayal @Harold Pinter Theatre
◼️ May 11 A German Life @Bridge Theater
◼️ May 12 Vivien Goldman + Jenn Pelly @McNally Jackson Bookstore
◼️ Jun 08 All My Sons @Old Vic
◼️ Jun 24 The Damned (Les Damnés) by Comédie-Française @Barbican Theatre
◼️ Aug 10 The Starry Messenger @Whyndham's Theatre
◼️ Sep 23 Giselle by English National Ballet and Akram Khan @Sadler’s Wells
◼️ Nov 21 Geiselle by Bolshoi Ballet @Bolshoi Theatre
◼️ Dec 08 Fleabag: The Scriptures - Phoebe Walter-Bridge & Deborah Frances-White @Royal Festival Hall
◼️ Dec 16 Translations @National Theatre
今年もたくさんのよいものに出会うことができますようにー。
振り返ったり思い出したり、しんどかった。年末から始めないと一日潰れてしまうねえ。
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