11.30.2017

[film] Ingrid Goes West (2017)

寒くなったよう。 昼間には雪が降ったって。

19日、日曜日の午後、CurzonのBloomsburyでみました。

Ingrid (Aubrey Plaza)はSNS - 特にInstagramにどっぷりの女の子で、自分にとっては親友と思っていたCharlotteが結婚式に自分を呼んでくれなかったのを根にもってWedding Crasherをやらかしてから村八分にされて病院に隔離されセラピーとかも受けさせられて、あーあ、ってなってから今度は雑誌に載ってたインフルエンサーのTaylor (Elizabeth Olsen)に目をつけて、彼女のインスタにコメントしたらちょっとだけレスしてくれたので嬉しくなって、亡くなった母が遺してくれた$60,000を手にひとりカリフォルニアに渡り - Goes West -  Taylorの近所に出ていた貸家をキャッシュで借りて居場所を確保すると、猛然と彼女を追っかけ始める。 それはもう手当り次第で、大家でバットマンおたくのDan(O'Shea Jackson Jr.)のヘルプも借りたりしつつ、彼女の夫も含めてなんとか友達になることに成功するのだが、結局塗り固められたIngridのいろんなウソは動物みたいに野蛮なヤク中のTaylorの兄に見破られて、さてどうなっちゃうのか。

物語の転がしかたに無理があるとは思えなくて、ああなるしかないのだろうな、と思う一方で、Ingridのキャラクター設定についてはわかんなくて - つまり、あんなふうにペンシルベニアから西海岸に移動してなおも懲りずにSNS上でのFameを勝ち取ろうとするような若者がいるのだろうか? - いるんだろうな - 程度の感触しか持てず、SNSなんて虚構なんだから上っ面なんだから、とか言ってみたところで、そんなのあらゆる「リアル」を片っ端から軽蔑してへらへらやってきた80年代の奴が言ってもだめよね、とか。
Ingridだけでなく、彼女が向かっていく先のTaylorの方も、そのしょうもないアーティスト気取りの夫も、その周りの取り巻きも揃って見事にろくでなしばっかりで、結局こんなろくでなし共がはしゃぎまわっている世界、ていうあたりも80年代とたいして変わんないのかも …

ただ、いまのソーシャルメディアにしてもゲームにしても、世界のいろんなとこから降ってくるその量とそこに没入できてしまう時間ときたらたぶん年寄りの想像を絶するもので、そこからそこに浸かってその世界で受容されること、あるいはその世界から排除されることがその人にとってどれだけ意味とか価値を持つ(or 損なう)ものであるかは想像できないこともない。 依存症、とかいう用語は安易に使いたくないけど、このことをドラッグと同じような視座で見てしまうことは適切なのかどうなのか。

Aubrey PlazaもElizabeth Olsenもどちらかというと人を呪ったり祟ったり憑りついたりする演技が得意だった気がするのだが、ここでは同様の動きをしているかに見える彼女たちの背後にあるソーシャルメディアの呪縛、みたいのがくっきり見えてしまうところが怖さを倍加させている。 彼女らを(彼女らだから?)あんなふうに狂わせてしまうレスとかタグとかスレッドとかの恐ろしさ。 実体がない、とは言わない。 実体はあって、ただそれがどんなふうに考えや志向を捕えて変えていくのかが見えないところがこわい。 それが、そこから逃避するためにやってきた軽くて薄い西海岸でさらにぐちゃぐちゃの展開を見せてしまうところも。 
例えば彼女が東(New Yorkとか)に行ったら別の展開を見せたのだろうか?

なんかうだうだ書いてしまったが、全体のノリとしてはホラーというよりは、どたばたコメディなの。普段あんまし関わりたくない、そのサークルには加わりたくないかんじの人たちがいっぱい出てくる、ていうだけの。  Aubrey Plaza、うますぎるしこわすぎるし。

今晩(30日)、The Fallのライブのはずだったのだが、M.E.Smithの容態がよくないということで延期になってしまった。 残念だけどそれ以上に心配だよう。

ああ11月も..

[film] Battle of the Sexes (2017)

25日の晩、PiccadillyのPicturehouse Centralで見ました。
ほんとうはLFFで見ようと思ったのだが、チケットが£35くらいしたので手前で踏みとどまったやつ。

テニス実録モノとしてはこないだの"Borg McEnroe" (2017) - あー見逃しちゃったよう - に続く。
なんでここにきて70年代80年代のテニスものばっかしなのか、よくわかんないのだが。

Billie Jean King (Emma Stone)がトーナメントで何度目かの優勝をしたところで、全米プロテニス協会かなんかのお偉方Jack Kramer (Bill Pullman)に、トーナメントの賞金額は男性の優勝賞金の1/8くらいでいいんだ、だって女子は男子よか身体能力が劣ってるんだもの、てあたりまえのように言われてふざけんじゃねーよ、チケットの売り上げの額は一緒だろうが、て喧嘩になってあったまきてGladys Heldman (Sarah Silverman)と一緒に女性のトーナメントを立ち上げてスポンサーも見つけて女子だけのツアーを始める。

他方、かつて男子の全米チャンピオンだったBobby Riggs(Steve Carell)はとっくに引退しているのだが、ギャンブル癖が抜けなくてうろうろ落ち着きなくて、仲間に冗談でBillie Jean Kingと戦ったらどっちが勝つか、とか言われてなんとなく火がついて喧嘩を吹っかけてみる。

最初はBillie Jeanも相手にしていなかったのだが、彼女を負かしたばかりのMargaret Court (Jessica McNamee)にBobbyは矛先を向けて、結果彼女に勝っちゃったもんだから更に調子に乗ってわーわーはしゃぐのでBillie Jeanはざっけんじゃねえよ、とあったまきて受けて立つことにして、こうして1973年、世紀の一戦 - Battle of the Sexesが勃発した、と。

単純な性差をめぐる男女間のテニス喧嘩、というよりは、当時根強くあった男性優位物差しに対する不満とか怒りとか異議がじわじわと燃え広がっていって、実際の試合でいい加減にしろよこの腐れブタ野郎!て炸裂するまで。 スポーツ界の勝負の話だけではなくて、ツアーを通してBiliie Jeanの恋人になっていく Marilyn(Andrea Riseborough) のこととか、そうなっていっても静かに彼女を見守る夫とか、切ない要素もいろいろあって、だから最後のゲームは思いっきり力拳にぎにぎになってたまんない。

とにかくEmma Stoneの内側でめらめら燃えていく炎と、Steve Carellの天真爛漫バカのスパークとその行方が眩しくてすばらしいのでまずはそれを堪能しよう。 なのだが、映画"Suffragette" (2015)の時にも思った、ほんの少し前 - この映画だとほんの40年数年前 - はこうだったんだなー、というのも結構くらくらする。 今なら男女で身体能力に差が出るところも出ないところもそんなのあって当然、それがなにか? だし、そこでの優劣を問うなんて論外、だと思うのだが、この頃はまだそんなもんだったのね、ていうあたりが。

ただ、あと、日本は... まだまじでそういうこと(男のほうが能力が高いので大変な仕事をいっぱいしていて偉いんだから、云々)を平気で言ったり信じたりしている糞尿じじいがそこらじゅうにいそうなので、要注視だな。 あぶり出して殺虫剤と殺鼠剤をばしゃばしゃかけて地の果てに裸で追いやってしまいたい。

まずは"Suffragette"でやってくれたような邦題とか宣伝をもう一回やらかしてくれるかどうか、だよな - おもしろがってるんじゃないよ、あれ、本気で頭にきて冗談じゃないと思ったんだから。いまだに。 "Suffragette"でのCarey Mulliganの地獄と絶望を、本作でのBillie Jean King = Emma Stoneの怒りを、彼女が最後に大泣きした理由を - 映画の中心にあるそれらを正面から伝えようとしないで、なにが宣伝だよ配給だよ、って。

ラスト、ファッションデザイナー役で出ているAlan CummingがBillie Jeanを抱きしめて言う言葉がほんとうに感動的で、泣きそうになった。Alan Cumming、あんたって…

それにしてもBobby RiggsとSteve Carellって、よく似てるんだねえ。

11.27.2017

[music] Queens of the Stone Age

21日の晩、O2アリーナで見ました。 いろいろくたくたよれよれで、20:45の本編開始ぎりぎりに会場に入った。

チケットが発売されてすぐに売り切れになって、あーあ、て言っていたら、こちらを見越したようにちょこちょこ「よいお席のチケットが少しだけリリースされました」ていうメールが数回に渡って入るようになり、結局負けてすごい遠くの席だけど見ないよりはいいよね、て買った。

QOTSAを最後に見たのは02年9月のNY、Roseland Ballroomで、"Songs for the Deaf"のツアーで、その時の前座は...And You Will Know Us by the Trail of Dead で、ベースはまだつるっぱげのNick Oliveriで、Mark Laneganがちょこちょこヴォーカルで入っていた。今思えば豪華なやつだったと思うのだが、バンドはあの地点をはるかに超えたスケール(いろんな意味で)を獲得してしまったことだねえ、と遠くから蟻みたいに見えるアリーナを眺めておもった。

ステージはシンプルで、蹴っ飛ばしたり寄りかかると根っこがぶらぶら動く発光するビニールの柱みたいのがいっぱい立っている程度。
"Villains"のツアーだと思っていたのだが、ここからの曲が出てきたのは4曲めくらいからで、それまでは"...Like Clockwork"とか旧作からが続いて、要するに新旧ぜんぜんギャップのない、黒めにうねるボトムの上を2台のギターががしゃがしゃ刻んで走っていって、そこにJoshの艶のあるヴォーカルが乗っかると、とにかくセクシーで痺れる極上のロケンロールのできあがり。 2002年の頃のライブの暴風砂嵐のような音と比べると、そりゃ音は分厚くゴージャスに、つやつやになってはいるけど、セクシーなとこ - 腰をくいくいできるような音の癖 - は一貫していると思った。 石器時代からオカマをやっているその強靭さと、それを水平方向にどこまでもぶん流していくアメリカのランドスケープとか砂漠とか。

"Villains”の冒頭の2曲をやって会場があったまってきた頃にかました“You Think I Ain't Worth a Dollar, but I Feel Like a Millionaire”でのスタンディングの客の跳ね具合が遠くから見ていると実に壮観で、続く”No One Knows”では台風の渦が前方に3つくらい現れては消えてを繰り返して、すごいいーて唸った。

音もそうだがJosh Hommeのメッセージも一貫している。 どこまでも異形で、化け物で、変態で、病気であれ、闇に生まれ闇に生きろ、交われ、それを貫け、それでいいんだって。彼らはそちらの側にずっと立っている。(ちなみにその野生の、変態連鎖の頂点にいるのがIggy、ね)
しみじみかっこいいよねえ。

アンコールは1回、「最初のアルバムの最初の曲です」と静かに言ってから”Regular John”をやって、それがまたよくてさあ。  
これ入れて2時間たっぷり。

ライブの翌日くらいに、来年6月末、Finsbury Parkのライブ告知がきた。 “QOTSA and Friends”ていうので、Iggy Pop, Run The Jewels, The Hivesが一緒に出る、と。 いいなー。

11.25.2017

[film] The Disaster Artist (2017)

20日月曜日の晩、BFIでみたPreview。 先週の終わりくらいに突然発表になって、前売り開始は18日,土曜日の昼間で、その日はバーミンガムに絵を見にいっていたので、忘れないようにしなきゃ、だったのだがバカみたいに当ったり前のように忘れて、夜にアクセスしたら当然のように売り切れてて、ううむ、とか言いながら当日月曜日の昼間に釣り糸を垂らしてみたらなんとかいちまい釣れてよかった。

"The Room"という2003年リリースの映画は、月1回くらいのペースでPrince Chaeles Cinemaで上映されていて、黒髪長髪のターミネーターみたいな男の暗い顔がクローズアップされたそのポスターは、それだけだと何の映画だかまったく謎で不明で、宣伝のされ方からするとどうもカルトっぽくて、自分はまだ映画のいろいろを勉強しているところなので、こういうカルトふうはいいや、って放っておいた。

で、この"The Room"を作った監督&主演のTommy Wiseauとそのバディでラインプロデューサーで主演のGreg Sesteroが2013年に出版したノンフィクション本を元に、なんで、どうやってこの映画ができあがったのかをプロの俳優とかスタッフを使って(いや、”The Room”もそうなのだけど)ちゃんと描いた実録モノがこの”The Disaster Artist”で、その辺のことを一切知らずわからずに初めてこれの予告を見たときは、「なんじゃこりゃ?」て途方に暮れるしかないのだった。

"The Room"のことをもう少し書くと、年齢も出自も一切不明(未だに不明)のTommy Wiseauがどこからどうやって調達したかわからない(未だに謎)$6millon (推定)で製作した映画で、公開時は2週で$1,800 の収益しかあげられなくて、「史上最悪の映画」ていう評判が高くて、とにかくいろんな伝説にまみれてて、だから(なのに)えんえんいまだに、本国じゃないLondonあたりでも上映され続けているの。

上映前に監督&主演のJames Franco(Tommy Wiseau役)、同主演のDave Franco(Greg Sestero役)による椅子に座った長めのイントロがあった。はじめに司会のひとが、客席に向かって「この中で"The Room"を見たことのあるひと?」てやったら9割くらいが「いえーい」てかんじで元気いっぱいに手をあげたのが衝撃だった。 Sold OutしたのはFranco 兄弟が来るから、というより"The Room"の制作譚を見たかったからなのね ...

James Francoがこの映画を知ったのは公開当時、ハリウッドでこの映画のビルボード(5年もそこにあったという)を見て、ものすごく変で異様な印象を受けて、なぜかというとそこにはでっかく電話番号が載っていたから、だと。 でも映画を見てとてつもない衝撃を受けてDaveにとにかく見ろ!、と伝えて、Daveはシカゴのホテルで見てものすごく感銘を受けた、と。

あとは、Tennessee WilliamsとかJames Deanとか、James Franco観点での微妙にくすぐられるところとか。

Tommy & Gregにはこれの続編の構想もあったのだが、最近彼らと話しをしたら、この作品がトリロジーの2作めになる可能性がある、とか..

とにかく映画が始まると、冒頭でKristen Bellを始めとしたハリウッドセレブ達が”The Room”のことをものすごい言葉で絶賛しまくってて、そのなかには J.J. Abrams なんかもいて、とにかくすごい映画なんだからさ、と。

映画は90年代末、俳優を志していたGreg Sestero (Dave Franco)は稽古場で出会った同じく俳優志望のTommy Wiseau (James Franco)と友達になって、Tommyに誘われるままにLAに移動して(彼はなんでかLAに部屋を持っていた)、ふたりで一緒に暮らし始める。Gregにはエージェントも見つかって始めはうまくいきそうだったのだが、Tommyのほうはぜんぜんだめで、Judd Apatow(本人)にこっぴどく叱られたりしたので、自分たちで映画を作ることを決意して、がんばって脚本を書いてスタッフ(スクリプターにSeth Rogenとか)を集めて撮り始めるのだが、Tommyは映画なんてやったこともないし、演技は素人以下でものすごいので、現場はDisasterとしか言いようがなくなるのだが、Disasterなのはおまえだろ、ってみんなが突っこんで、でもとにかく映画は出来あがって、世紀のプレミアの晩がやってくる...

映画製作の現場がどんなものかわからなくても、映画の演出とか演技があんまわからなくても、これが事実だとしたらとにかくすげえな、ひでえな、としか言いようがないのだが、それはそれとしてこの"The Disaster Artist"が映画としておもしろいことは確か。 James Franco監督作って、William Faulkner原作の2本を含めて見たいようと思いつつ見れていなかったのだが、彼の辺境アート、映画、コメディ、スラップスティック、バディもの、などに対するいろんな愛が炸裂して、そのスピード感も込みで一気に見せてしまう、その勢いがすばらしい。  演技陣も"This Is the End" (2013)みたいにいろんなひとが次々とうじゃうじゃ出てくるし。

エンドロールで、"The Room"の画面とそれをカバー/コピーした"The Disaster Artist"の画面が対比されてて、それを見るとますます"The Room"を見たくなって、帰ってからPrince Charles Cinemaのサイトを見てみると、2月にTommy & Gregが参加する上映会があると。
あと、これの翌日(21日)にはここで、James & DaveとTommy & Gregが参加しての"The Room"と"The Disaster Artist"の2本立てがあることがわかったのだが、どうすることもできないわ。 と思っていたら22日の21時に上映されることがわかったので慌てて行ってみた。(こういうのは冷ましたらあかん)

The Room (2003)

そしてこうして、22日の21時、Prince Charles Cinema。 まず上映前の行列がすごかった。
で、中に入ると前のほうの席が割と空いていたので一番前に座った。(これがしっぱいだったことが後でわかる)

本編が始まる前にTommy本人が画面に登場して、楽しんでいってくれ、スプーンやフットボールとかをスクリーンに投げちゃだめだよ、とかいう。
客席はこの時点で相当な歓声と拍手でヒートアップしていて、これってやばいほうのカルトなのか、とか思って少しだけ帰りたくなる。

ストーリーはシンプルで、銀行員をしているJohnny (Tommy Wiseau)は結婚前提でLisaとサンフランシスコのタウンハウスに暮らしていて、Johnnyはとっても幸せなのだが、Lisaはそうでもなくて、Johnnyの親友のMark (Greg Sestero)をしょっちゅう家に呼んでやらしいことをいっぱいしていて、Lisaのママとか友達はJohnnyはいい奴なんだからそういうのをやめるようにLisaに言うのだが、Lisaは結婚するつもりはないわ、ってやめなくて、やがて全てを知ったJohnnyは...   
それだけなの。 見たことないけど、最近の昼メロとかのがもうちょっと高度で複雑かも。

画面もアクションも台詞もどれも繋がっていかないでがたがただし、基本の基本からできていないぜんぜんだめだめなやつなのかもしれないけど、ここまでアブストラクトに攻められるとひょっとしたら、という気がして、柳下さんがいつもぶっ叩いている邦画のしょうもないのとは根本からなんか違うかんじはする。

だって、なんといっても集まった客席の熱狂ときたらとてつもなくて、というか、映画がスカスカの突っ込みどころ満載なので、そこに全員が全力で突っ込むことではじめて映画が完成する、そういうあたりを狙ったアートではないか、とさえ思えてくるの。

よくわかんないやつが登場すると、「おまえ誰だよ?」 とか、ひとが部屋に入ってくると「ドア閉めろー!」(ほんとに閉めないからさ)とか、出ていこうとすると「もう帰るのか? それだけか?」とか、台詞も紋切り型でよくわかんないのが多いし、でも有名な台詞はみんなで復唱するし、フットボールを投げ合うところは1.2.3.4.てカウントするし、Lisaが邪悪になってやらしいことをする場面になるとスクリーンに向かって大量のプラスチックのスプーンが投げ入れられて、前方に座っていると頭に刺さったりスプーンまみれになる(使用済みじゃないだけよかったな..)。
こんなふうな客席からのわーわーが99分、ノンストップで続く。

昔の”The Rocky Horror Picture Show"の上映会(ていうのがあったのだよ、子供たち)の観客参加型に近いのかもしれないが、あんな統制のとれた楽しいものではなく、アナーキーでひとりひとりがばらばら勝手につっこんだり、悶絶したり、そっくり返ったりしている。 でも「金返せ〜」みたいな怒りをこめたやつではなくて、みんな笑って楽しんでいるのだからよいのではないかしらん。誰がどうやってここまでのものになっていったのか、はとっても興味ある。

あと、これひょっとして中毒性ある?  もう一回見にいって試してみるべきかどうか、少し悩みはじめているの。

"The Disaster Artist"は是非日本でも公開されてほしい。 けど、"The Room"も併映しないとあんま意味ない、というかどっちみち絶対に"The Room"見たくなるからー


RSDのBlack Friday、会社終わってすぐにRough Tradeに走ったけど、ぜんぜんどうってことなかった。Black Fridayってやっぱりアメリカのもんなのね。

11.23.2017

[film] Justice League (2017)

19日の日曜日の夕方、BFIのIMAXで見ました。 疲れそうだったので2Dにした。
楽しみにしているひとはここから先、読まないほうが、かも。

"Batman v Superman: Dawn of Justice" (2016) からの続きで、アメリカはSupermanが死んじゃってみんな嘆いていて、そんななか、Steppenwolf ていう角が生えた乱暴者 - こないだのThorに出てきた奴とは別? と蠅みたいな蜻蛉みたいなやつの軍勢が現れてなんかの箱 - Mother Box - を集めていて、Wonder Womanの国に行って強奪して、半魚人の国に行って強奪して、あといっこ取られて結合されると地球はやばいことになるらしいのだが、対応する人手が足らない、と。

で、Batman (Ben Affleck)とWonder Woman (Gal Gadot)はよいとして、あと、半魚人のAquaman (Jason Momoa)と電撃小僧のFlash (Ezra Miller)とサイボーグのCyborg (Ray Fisher)が集まるのだが、やはりあいつがいないと、ということでClark Kentの墓を掘りかえして(...掘るのか)、死体を運んで、Mother Box入りの池に浸したらびっくり生き返るのだが、記憶がじゅうぶん戻っていなくて御機嫌ななめでやたら凶暴で - ほうら"Pet Sematary"になっちゃった、とか言われる - でもとにかくなんとかなって、箱はロシアの原発のところで結合されようとしていたのだが、みんなで力をあわせてやっつけるの。

とにかく人間ではない、地球のものではないSupermanの復活が鍵で、それができさえすればあとはなんとかなるに決まっているから決着までをどう料理するか、のような話しで、全体としては軽い - 少なくとも前作のねちねちえんえん陰鬱な喧嘩はやめていい加減にして、の重いトーンからは自由になっている。

ただひとりなんか重そうにしててだいじょうぶかな? になってしまったのがBatmanで、みんな人間じゃなかったり、加工したり変異したりしているなか、ひとりだけ重装備な素(す)の人間で、特技は? って聞かれて 「俺はRichなんだ」て答えるけど、しょうじきあんま笑えないとか。
このお話ってそもそもBatman起源なのに、ちょっとかわいそうかも。 Alfred (Jeremy Irons)の存在感も、Cyborgが出てきちゃったので微妙なところに来ちゃったふうだし。

というかんじなので、Wonder Womanひとりがんばって! になってしまうのはしょうがない。 あとは魚とガキとロボだし。

Supermanの復活のところ、 Lois Lane (Amy Adams)とMartha (Diane Lane)がカギになることはわかっていたのだが、もうちょっと感動的で強烈な目覚めとか - Lois Laneが赤子を抱えてて「あなたの子よ..」ていうとか - がないとPet Sematary疑惑は払拭できないよね。

あと、"Justice League"なんだけど、Justiceとは?みたいに前作に溢れかえっていた議題はなくて、いまはとにかく一大事なんだから死人だって起こすし来てくれやっつけてくれ、の一辺倒で、別にいいけど、この状態ならJusticeいらないよね、て思った。(そういう軽さはとても好きだけど)

SupermanとFlashの速さ対決もいいけど、QuicksilverとFlashだとどっちが速いかのほうが気になる。
でも速いひとって、どうして人格まで軽いふうになっちゃうのか?

「ドフトエスキー!」はよかった。 少なくとも「チェーホフ!」じゃないし。

[film] Professor Marston and the Wonder Women (2017)

16日、木曜日の晩、Piccadillyで見ました。 "Justice League"の前に見ておきたいな、と。

2017年は"Wonder Woman"の年だった、と後年に言われることになるであろう。
ちっとも収束する気配をみせないWeinsteinスキャンダルを挙げるまでもなく、ハラスメントだなんだ以前のところで、はぁ?あんたなに言ってんの?といった性をめぐる旧態依然とした腐れた意識のありようが冗談みたいなのまで含めて広範に暴かれて曝されていったのは良い悪いでいうと絶対に良いことで、それは第一次大戦の頃にアマゾンだかどっかの神さんだかの、ボンデージコスチュームを纏って鞭とか刀で武装したこの女性の顕現(あのテーマ音楽と一緒に)がぜったいどこかで影響しているのだとおもう。おもいたい。

それってなにがどうなって? ていうのは結構面白い社会学のテーマになると思うのだが。

実話の映画化。
前世紀の真ん中頃のアメリカで、Wonder Womanのコミック本は焚書扱いで排斥されていて、作者のWilliam Moulton Marston(Luke Evans)は教育委員会みたいなところに呼ばれ、「なんで彼女はこんな淫らな恰好で?」とか「なんで縛られなきゃいけないの?」とか尋問されてて、彼は委員連中の頭の堅さにうんざりしつつもなぜ、どうしてWonder Womanが生まれたのかを振り返りはじめるの。

20年代のアメリカ、Marstonは妻のElizabeth (Rebecca Hall)と一緒にHarvardのRadclife校で心理学を教えていて、そこのアシスタントの応募に手を挙げてきたのがOlive (Bella Heathcote)で、ウソ発見器を開発したり、人間のエモの行方とかそれが行動に及ぼす影響とかをDISC Theory - Dominance (D), Inducement (I), Submission (S), and Compliance (C) :  支配 - 誘発 - 降伏 - 従順 - ていう状態の遷移論で説明・解明しようとしていたWilliamは、Oliveに興味半分で「自分と寝たいか?」て聞いたらウソ発見器は"Yes"って言って、「Elizabethと寝たいか?」て聞いたらこれも"Yes"て言って、じゃあ、とオープンな3人はそれぞれを愛しあいながら一緒に暮らすようになる。 当時婚約者もいたOliveなのに当然結婚はなくなって、更には3人の関係が学内で噂になって大学を追い出されちゃったので、食い扶持を探していくことになって、そんななかでWonder Womanのアイデアが浮かんで、当時のDCコミックスに売り込みにいくの。

NYのGreenwich Village(Christopherのあたり?)のボンデージ・ショップのウィンドウをのぞいたWilliamの頭になにかが閃いて、そこにElizabethとOliveを連れていって、ついに後光に照らされたWonder Womanが現れるあたりはちょっと感動する。 ただそれがなんで感動を呼ぶのかをきちんと、論理的に説明することは(美とか倫理とかエロとか後ろめたさとか快楽とかいろいろ絡んでくるから?)けっこう面倒で、頭が痒くなったりもするので、いいや。

偉そうにふんぞり返っている男(共)を懲らしめるためにあのようないでたちのWonder Womanが現れて、それが喝采を呼んだ、ていう事実の背後には、(いかにもアメリカな)心理学者が自ら(研究テーマの追及も含めて)セットしたこういう愛の相克とか葛藤みたいのがあったのだ、ということ。
更にやっぱこういうのだめでしょ、みたいな規制が後付けで社会から入った、という点も含めておもしろいなー。
(日本は..  日本版の主題歌に勝手にあんな歌詞をつけちゃったりするところを見ると、こんなのよか相当病巣は根深いよね)

というわけで、やっぱし当面はWonder Womanやっちゃえ! でよいのだ、と思った。

[film] Susperia (1977)

14日、火曜日の晩、Barbicanで見ました。 上映後にDario ArgentoとのQ&Aつき。

こないだの夏にNYに行ったとき、Metrographでこれの"uncut Italian 35mm print"ていうのの上映をやっていて、でもどの回もぱんぱんに売り切れていた。
これはおそらくそっちのではなくて、4Kリストア版のリリースを記念したもの。

上映前の挨拶にもDario Argentoさんは登場して、もっとゴスでおっかなそうな人かと思ったら上機嫌なイタリアのおじいさんのようなかんじ。

"Susperia"は70年代の公開時にはひとりでは見てはいけないことになっていたので、とうぜん見ていなくて、見たのは割と最近のことで、でも内容はもう憶えていないの。 怖すぎるやつはすぐに頭がどこかに追いやってアワと消えてしまう。

ひどい土砂降りの晩、NYからイタリアのバレエ学校にやってきたSuzy (Jessica Harper)が経験するでろでろの悪夢みたいな本当のことみたいな - でも眠すぎてよくわかんないとか、あんたらよってたかって変だし怪しいし、いい加減にして、とか。

かっ切る、ぶっ刺す、ワイヤーがんじ絡めとか蛆虫ぼろぼろとか、あんま生理的に見たくない経験したくないのばっかりがやってきて、決して美しいとは言わないけど、やたらドラマチックに激流奔流となって襲ってきて情け容赦がない、その怒涛の誰も彼もの傷まみれっぷりに驚嘆させられるのと、悪魔だか魔女だかしらんが誰がそんなのを仕掛けてくるのか、というのもあるけど、それ以上に、とにかく恐怖というのはこんなふうに次から次へとどこかから湧いてきて溺れそうになる、これってなによ? みたいになってくるあたりもすごいねえ、だった。 あの圧倒的な赤が、なんであんなにも毒々しくやばく怖く見えてしまうのはなんでか? ってこと。

4Kで画面が細部まで鮮やかでゴージャスなのは言うまでもないのだが、音が爆音でもなんでもないのにふつうにぐわんぐわんに耳に刺さってくるので、これも逃げようがない拷問みたいななんかだねえ、て痺れた。

上映後のQ&Aはいろんな話が出ておもしろかった。
Goblinの音については、ギリシャのブズーキの音をなんとしても入れたかったので、そこだけは(Goblinに)明確に指示をした、とか。
強くて負けずに戦う女性が好き - John Fordの映画に出てくる女性とか - なのでSuzyはそのイメージである、とか - イタリアによくいるマンマには勝てない男のタイプ、よね。
あとは、R.W. Fassbinderとの交流のこととか。 Londonでよく一緒に遊んでいたんだって。

血まみれのオルゴール人形のあの有名なビジュアルはあなたが考えたものですか? という質問に、あれは映画会社が勝手に持ってきたもので一切関係ない、だいいち、あの赤は自分の赤ではないじゃろ、と力強く断言したところで、場内は一瞬静まって、その後すごいー!ってみんな拍手した。先生のサイン入りポスターがもらえるBest Questionに選ばれたのはこれでした。

来年のリメイクのもちょこちょこ相談を受けているって。

これの前日 - 13日にBFIの"Tears and Laughter: Women in Japanese Melodrama"ていう特集で、『青空娘』 (1957)を見た。
35mm版の上映。 英語題は"The Blue Sky Maiden"。
ぜんぜん違うけど、若い娘がひとりで出てきて意地悪で容赦ない責め苦に曝される、ていう点では似てるかも。 こっちは赤じゃなくて青だけど。

日本のTVも雑誌も新聞も、ほぼなーんも見なくなっている(見る気にもならねえや)ので、なんだかとっても新鮮で懐かしいかんじがした。

[music] Chris Thile and Brad Mehldau

12日の晩、Barbicanで見て聴きました。 たまにはこういうのも行く。
実は知らなかったのだが、なんとかJazz Festivalていうのの一環で、彼らのUKでのライブはここだけだって。

Brad Mehldauさんを見るのは久々で、最後に見たのは彼が飛び入りしたJon Brionのライブで、あれはいつのどこだったかしらん?

Chris ThileさんがいるPunch Brothersは一度ライブ見てみたくて、でもいつもチケット売り切れちゃうので歯ぎしりしてた。Blue Note東京のときはJohn Caleの公演と近く過ぎてJohn Caleのほうを取ったのだった。

ふたりのデュオのCDは、渡英引っ越しお片付けのBGMになると思って出ていたのをすぐ買って流してみたのだが、音楽とは違って片付けはぜんぜんスムーズに流れてくれなくて、途中でもっとぶっ壊してくれる系の音にスイッチしてしまったことを思い出す。

ステージ上にはピアノとマイク2つだけ。 Chris Thileさんはマンドリン一本と声、だけ。

ちりちりぬいぬい、素材と色と太さの異なる糸を手繰って、太さも形状も異なる編み針を使って、一枚のでっかい織物をあらゆる方角から織りあげていくかんじ。或は別々の布をパンケーキみたいに重ねていくかんじ。或は海と砂みたいな... とかきりがない。
要は気持ちよいしおいしそうだしいろいろたまんない、てことよ。

ピアノの一音もマンドリンの一音も、異なる弦楽器から放たれた音波が、どこでどう撚りあわさってあんなふうな気持ちよい波になっちゃうのかは謎で、でもそんなこと言ったら音楽なんてぜんぶそうなのだろうけど、このふたりの弦のつまみあい、ひっかきあいは気持ちよすぎる。 猫だったらずっとごろごろ喉を鳴らしている状態。

Chris Thileさんのヴォーカルも素敵で、でもどの(歌詞つきの)曲にも声を被せるかというとそうではなくで、Fiona Appleの"Fast As You Can"は歌うけど、Eliott Smithの"Independence Day"は歌わない、とか(どちらもLate 90'sの名曲だねえ、としみじみ)。 ふたりが声を重ねたNeil Youngの"Tell Me Why"はすばらしかったねえ。 他のカバーだと、Gillian Welchの"Scarlet Town"とか。

このふたりが技術的に卓越しているのは誰もがじゅうぶんわかっていて、そういうのの応酬にしてしまうこともいくらでもできるのだろうが、ライブでは歌のひだひだの先にはみでた糸くずを拾いあげて紡いでその先の模様を、或は本を編み直してその先のお話しを聞かせてくれる、そういう方向に自分たちで演奏しながら耳を傾けているようだった。

ああこのままこのブランケットにくるまって寝たいよう(週末が行ってしまうようー)、となったところで終わった。 アンコールやって!の騒ぎは当然。2回でてきた。

11.19.2017

[film] The Florida Project (2017)

12日、日曜日の午後に見ました。
見れずに悔しい思いをした(まだ見れてない)”Tangerine” (2015)のSean Bakerの新作。
予告が流れ始めた時からこれはぜったい見たい、と思っていた。

Floridaのディズニーランドがある一帯の外れ、観光と住宅がまだらになってどんより寂れた一画の安モーテル(長期滞在可)に長屋みたいにいろんな家族がわいわい暮らしていて、そこの修繕管理人がBobby (Willem Dafoe)で、そこに暮らす若いシングルマザーのHalley (Bria Vinaite)と6歳のMoonee (Brooklynn Prince)がいて、彼女が遊び仲間の男の子Scootyと女の子Jancey (Valeria Cotto)と過ごしたひと夏のいろんなこと。

最初のほうは悪ガキトリオがかんかん照りのフロリダの陽気のなか、楽しそうに行進しながらかわいいイタズラとかローゼキ(建物の設備室に入って電源落とすとか)とかソフトクリーム貰ったりとかを長屋周辺の人々とか人のいいBobby相手に繰り広げてきゃーきゃーわーわーはしゃぎまくる、それだけなのだが、それで十分おもしろいの。 そうやって遊んでいくなか、冒険に出かけた廃屋で火遊びをしたらそこが火事になって、当然しらばっくれるのだがScootyのママはあいつらのせいだって、Mooneeたちと遊びに出ることを禁じて、それまでは仲よくつるんで夜遊びしていたHalleyとも縁きって、猛り狂ったHalleyが殴りこんでいったり、道端で観光客向けに香水売ってたふたりの行商もどん詰まって、家賃が払えなくなって他に行ってくれと言われたり、他の住民からは子供がいるのにやばいことやってるって通報されて取り調べられて、雪だるま式に悲惨になっていくの。

でも、こんなふうにHalleyはひとり満身創痍なのだけど、Halley - Moonee組は変わらず最強でキュートだし、Mooneeの笑顔とキューピー・ボディに勝てる奴なんてひとりもいないの。

ああこれどうなっちゃうのかしら、とはらはらしていたらラストはあんなふうになる。 そっちかー! と思ったけど考えてみればやっぱこれしかないよなー、って感心した。
どっちにしたってガキ共は最強でそのままどこまでもぶっとんでいってほしい。
そしてHalley負けるな! って。 彼女を見ていてKatell Quillévéréの”Suzanne” (2013)のSuzanne
を思い出したわ。

誰もが自分にとっての夏休みの冒険とか、近所にいたおっかないおばちゃんとか気のいいおじさんのことを思いだすことでしょう。 どこかしら『長屋紳士録』 (1947)のような感じとか。それがフロリダのあんな角度からあんなきらきらしたアメリカの駄菓子みたいな意匠で現れるとは思わなかった、ていう嬉しさもあったねえ。

今の日本の子供達のことを憂うのは杞憂、かしらん。 

11.17.2017

[film] The Killing of a Sacred Deer (2017)

11日の土曜日の午後、SOHOのCurzonで見ました。
"The Lobster" (2015)の監督Yorgos Lanthimosの新作。
"The Lobster"って、なかなか割れない噛みきれないロブスターみたいな変な映画だったが、これも相当変てこで、おもしろいおもしろくないでいうと、おもしろい、のかなあ - とにかく画面に釘づけにされ続けたことは確か。

Steven(Colin Farrell)は優秀で高名な心臓外科医で、妻のAnna(Nicole Kidman)はなんたってニコールだし、娘のKimも息子のBobも美しくてかわいいし一軒家もすばらしいし、そんな彼がMartin (Barry Keoghan)ていうちょっと変わったふうの若者 - 挙動からすると神経発達症群-自閉症のかんじ - と頻繁に会ってDinerで食事したり、腕時計の贈り物をあげたり、家に呼んで食事したりもしている。 MartinはStevenになついて昼間もしょっちゅう病院に会いに来たりして、Stevenは嫌がったり叱ったりすることなく、Martinの言いなりになっているようにも見えて、彼の地位とか立場とかからすると明らかにおかしいような。

それってどうして? 過去になにがあったの? ていう話が亡くなったMartinの父とStevenの仕事のあいだで明らかになっていくのと、Bobがある日いきなり腰から下が動かなくなり、やがて食べ物をいっさい受けつけなくなる - 精密検査してもどこにもおかしなところは見つからない - ということになり、間を暫く置いて今度はKimにも同じことが起こって、これはいったいどういうことだ? になる。
そうなったとき、家族で団結してこれに抗する、みたいなことにはならずに、StevenはStevenで、AnnaはAnnaで、KimはMartinと恋におちてたり、てんでばらばらで、でも事態は進行していって、やがて。

"The Lobster"の世界と同じように、これはそういう世界のお話しなのだと思えばよいだけのこと、なのだがロブスターになっちゃう話ほど荒唐無稽ではない、たんなる超常現象と呼べないこともないような、それを切り取るときのホットなところとクールなところ、気持ちわるいところとそうでないところ、どうにかなりそうなとことそうでないところ、のバランスというか線の引き方がうまい、ということではないだろうか。

ホラーだったら「なんじゃこれ!」とか「ぎゃーっ!」てなるところを誰もそういう想定された動きをしない、気がついたときにはもう起こっている、あるいは誰かがなんかやっていてどうすることもできない。 これがもたらす冷たく凍った世界の感触は、いまの我々の世界と地続きのそれで、"The Lobster"をドライブしていたのもそんなような動物的に神経反射してしまう非情ななにかで。

"The Beguiled"(2017) に続いてColin FarrellとNicole Kidmanが対峙して睨み合ってColin Farrellがぐさぐさにされるやつかと思ったらそんなでもなかった。でもNicoleの凍った表情と演技はそれだけでじゅうぶんおっかないったら。

"Dunkirk" (2017) でCillian Murphyにあっさり殺されてしまったMartin役のBarry Keoghanの不気味さ、異様さが際立ってすごい(スパゲッティ..)。 漂白されたようなハイソな家庭内に置かれると特に際立つ。 彼、これからPhilip Seymour Hoffmanみたいになっていくのではないかしら。

このお話しはStevenとAnnaの視点が主だったけど、Kimの視点で見たらどうなったか、ていうのは見てみたい。変てこ青春映画になったに違いない。

これの後に"Paddington 2"を見たので、鹿 → 熊になった。

[film] Paddington 2 (2017)

こっちから先に書く。
11日、土曜日の夕方、Piccadillyで見ました。

最初に"Paddington" (2014)の予告を見たときのなんじゃこれはどうしてくれよう、なかんじは今だにはっきりと思い出すことができて、でもそれは映画を見てみる(NYでみたの)と、なんか悪くねえじゃねえか、やるな熊公、になって、今回のでは予告からきゅうきゅうで、早く会いたくてたまらなくなったので公開翌日に見にいった。 これと同じ魔法がこないだ予告が出たPeter Rabbitでも起こるのだろうか? ダンボはどうか?(ダンボ、微妙かもな)

とにかくPaddingtonくんはロンドンの暮らしにもじゅうぶん馴染んで近所に友達もいっぱいできて(いいなあ...) 幸せに暮らしているようなのだが、ペルーに残してきた叔母さんのことはいつも気がかりで、バイト先の骨董品屋で見つけたLondonの飛び出す絵本がすばらしいのでこれを贈ろう、てがんばってお金を貯め始めるのだが、ある日家族みんなで出かけた公園の市で見世物をやっている昔はすごかったらしいが今はドッグフードのCMに出たりしている俳優のPhoenix Buchanan (Hugh Grant)に引っかかって、彼に絵本のことを話したら目つきが変わるの。

で、絵本は見事に盗まれちゃって、それを追っかけていたPaddingtonは牢屋送りになって、牢屋には主みたいにおっかないKnuckles (Brendan Gleeson)がいて食事を作っているのだが、誰もがおっかないから不味いとかはっきり言えなくて、でもPaddingtonはやっぱり言っちゃって、とか、どうやってそこから抜け出すのか、どうやって絵本を取り戻して汚名を晴らすことができるのか、叔母さんの誕生日はどうする?  とか。

で、そこにいつもの家族 - Henry (Hugh Bonneville)とMary (Sally Hawkins)に子供ふたり - がみっちり絡んできて、いつものことながら碌なことにはならないのだが、今回は牢屋の面々もろくでなしばっかりで、でもそうやって見渡してみると悪役も含めてぱりっとしたまともな奴なんてひとりもいないの。 でもそういうなかでPaddingtonのじたばたとか奮闘は活きてきて、今回のはその辺のスクリューボール(毛玉)展開や追っかけっこがとにかく楽しい。 冒頭のペルー、ロンドンの街中(名所)、牢獄、列車、飛行機、水中、などなど。
昔の邦題だったら 『パディントンの底抜け大脱獄』 とかつけるな。

とにかくあの、ちょっと間抜けで、でも憎めないあの熊がセンターにいる、それで大抵のことはなんとかなること(魔法)が明らかになってしまったので、こいつは強いと思う。 最強のファミリー映画で、ロンドン映画で、でもそれは世界のなかのロンドンなのだし、ヒトだろうがクマだろうがなのだし、あの世界で暮したいよう、て思った。 でもあんな世界にも牢獄はあって、裁判もあるのな。

誘拐 → 脱獄 ときたので次はなにかな、Home Aloneか、珍道中ものか。  “Ted vs Paddington” とか。

マーマレードがすごく食べたくなって困るので、そうなりそうなひとはお気に入りの瓶とパンを持っていったほうがいいよ。

[film] Murder on the Orient Express (2017)

6日の月曜日の晩、Piccadillyのシネコンで見ました。

Kenneth Branagh監督・主演によるアガサ・クリスティーのミステリー。原作は小学生の頃に読んだけど、これっぽっちも憶えていないわ。
英国では宣伝がなかなかすごくて、公開後も映画館ではこの映画とどういう関係があるのかわからないのだが関係しているらしいロレアルのメイクアップ製品のCMがずっと流れている。

ポアロというと子供の頃に見た - 78年の"Death on the Nile" - 『ナイル殺人事件』 - のPeter Ustinovのイメージが強くて、それと比べるとこのKenneth Branaghてナルってるし、かっこよすぎるんじゃないか、て少し思った。ここはGary Oldmanのジョージ・スマイリーに感じた違和とおなじで、要はでっぷり太って哀れをさそうかんじのおっさんが刃物のように明晰な推理をかますところがかっこよいんじゃんと思うのだが、でもそこは個人の好み、ということなのか。

オールスターキャストが豪華列車に連なってて、隅々までものすごいお金かけてて、こういうの失敗しがちよね、と思ったのだが、なんか悪くなかった。

冒頭のイスタンブールでのエピソードから、銭湯みたいにスケールでっかい画面どーん、とごちゃごちゃした密室との対比とか切り替わりとか列車内の人物の移動や動きがところどころ面白くて(大半はCGなんだろうけど)、大画面の映画を見ているかんじがとってもした。
Wes Andersonの列車もの - "The Darjeeling Limited" (2007)とか"The Grand Budapest Hotel" (2014)とか - にあった走り続ける列車の細長い管のなかではどんなことだって起こりうる、ていうあのノンストップでがたがた動いていく感覚 - 自分も列車に乗っているかのような - がやってくる。 列車を撮ると割とそうなっちゃうのかもしれないけど。

ストーリーはいいよね。 いろんな乗客 - Judi DenchとかMichelle PfeifferとかDaisy Ridley とかPenélope CruzとかWillem Dafoeとか、みんなお金はありそうだけど癖も事情もありそうでなんかやっていたり知っていたりしそう - が乗り合わせた豪華列車内で、いちばんやくざで自分でも狙われているって言っていた男(Johnny Depp)が個室の寝台でわかりやすくめった刺しにされて殺されていた。列車は雪山で雪崩にあって立ち往生していて誰も逃げることはできないし、誰ひとり逃げる気配は見せない。 犯人はだあれ?

で、名探偵ポアロはひとりひとりに聞き取りをしていって、その過程でいろいろ明らかになったりきな臭くなっていくところはあるものの、でも最後にじゃじゃーん、と驚きの、驚異のどんでんとか慟哭の修羅場とか、そういうのが現れるわけではないので、そこはそういうドラマ、として見たほうがよくて、でもだからといってつまんないかというと、まったくそういうところはない。 最後に乗客全員を最後の晩餐のように横にずらーっと並べて(列車の縦一本の流れが横並びに転換・展開されるおもしろさ)推理を述べるところはわかっていてもぞくぞくくるし。

あと、とにかく俳優さんたちが全員じゅうぶん巧すぎるくらい巧くて隙も破綻もなくて、それが故に、というのもあるかも。 このストーリーの場合は特に。

とにかくでっかい画面ででっかい音で見るのがおすすめよ。
ちょっとだけ観光した気分にもなれる。 たぶん。

11.15.2017

[film] Don't Break Down: A Film About Jawbreaker (2017)

3日、金曜日の晩、Hackneyていうとこにあるシネコンで見ました。

9月からDoc'n Roll Film Festivalていう、音楽ドキュメンタリーを中心とした映画祭がLondonのいくつかの映画館でてんてんと行われていて、ミュージシャンにフォーカスしたものだけでなく、場所とかムーブメントとかを取り上げたもの、いろいろあって、Richard Thompsonの、Tangerine Dreamの、Conny Plankの、Bill Frisellの、見たいのはいっぱいあったのだが、いまのとこ、この1本を除いてぜんめつ状態。

http://www.docnrollfestival.com/

会場のあるHackneyは地下鉄ではなくて地上の電車で行くようなとこで、こないだのLFFのときに到達できなくて見逃してしまった怨念の地でもあるのだが、仕事の飲み会を途中で抜けてなんとかたどり着くことができた。

こないだ再結成ライブをした(ライブ映像見てない)JawbreakerのドキュメンタリーのUKプレミア。
こんな遠くの場所で21時開始なので満席にはなっていなかった。
オープニングの挨拶で主催者側のひとが、Jawbreakerの歌詞のユニークさに触れようと"Boxcar"の"My enemies are all too familiar 〜"のくだりを言おうとして上手く言えなくなってファンの子に助けてもらう、という微笑ましい場面があった。

最初のほうでBilly Joe Armstrongが当然のような顔して「JawbreakerはNirvanaとGreen Dayの間のMissing Linkだ」みたいなことをいうのでなんだよこいつ、とか思う(なんでいらっとしたのか考えてみよう)のだがそれはそれ。

映画はバンドの結成からの歴史振り返りをメンバー、関係者やファンのコメントと共に紹介していくところと、解散以来久々に3人がスタジオに集まってこの映画のためと思われるインタビューをしながら、はじめは堅かったBlake氏の表情がだんだんに変わっていって、「しょーがねえなーやらせだろこれ」という顔をしつつも楽器を手にしてがしゃがしゃ始めるところまで、の2トラック構成。

コメントを寄せるのは先のBilly Joe Armstrongの他、Steve Albini、(評論本がおもしろかった)Jessica Hopper、That DogのAnna Waronker & Rachel Haden、などなど。 個人的にはThat Dogのふたりが仲良く並んでいるところが見れたから、それだけでこの映画は ◯ なの(..そこか)。

Jawbreakerが90年代、コマーシャルなところから離れた、とてもユニークな位置にあったバンドで、それ故にいまだに根強いファンを持っていることは十分にわかるのだが、そんなのは誰もが知っている当たり前の話であって、いちばん掘り下げて欲しかったのは、Blake Schwarzenbachのちょっとひねた、でもリリカルな詞が持つ世界観とか、この後のJets to Brazilにも繋がる独特のメロを生むソングライティングの秘密だったりするのだが、そこは本人も余り話さなかったのかしら。 例えば影響を与えた本とか詩とか、本棚にレコ棚を映してくれるだけでもよかったのになー。

でもファンへの愛に溢れた、贈り物感たっぷりのよいドキュメンタリーだった。 この後に本当にバンドが動きだしたことを知っているだけに明かりが灯るかんじ。

エンドロールでいろんなバンドがJawbreakerのカバーをやっていくのだが、ラストのJulien Bakerさんによる"Accident Prone"のピアノ弾き語りがとってもよいの。

上映後、監督とSkypeでのQ&Aがあったのだが、ちゃんと帰れるか心配だったので途中で抜けた。
でも、2018年はファンのみんなにとってとてもよい年になるはずだ、と断言していた。
なので来年いちねんはなんとか生き延びたいものだわ。

11.14.2017

[television] Howards End (2017)

1日の水曜日の晩、BFIで見ました。
これは劇場公開される映画ではなくて、BBCのTVミニシリーズの最初のエピソード1時間分のPreview(最初の放映は11/12の日曜日で、見逃した..)で、上映後に脚本のKenneth Lonergan、監督のHettie Macdonald(女性)、プロデューサー、主演女優ふたり、などが並ぶQ&Aがあった。

普段こういうTVドラマって見たいなーと思いつつぜんぜん見れなくて、でもなんでこれを見たかというと、ついこないだリストアされてリバイバルされた"Howards End" (1992)との違いを見たい、というのもあるし、あとはKenneth Lonerganさんの実物を見たい、ていうのとか。

全4エピソードの最初のは中心となる2つの一族、3つの階級の紹介をしつつも序章としてMargaret Schlegel (Hayley Atwell)とMrs. Wilcox (Julia Ormond)の出会いとか、MargaretとHelen(Philippa Coulthard)の姉妹のこととか、HelenとPaul Wilcox (Jonah Hauer-King)の婚約騒動とか、それにふりまわされるAunt Juley (Tracey Ullman)の勇姿とか、Leonard Bast (Joseph Quinn)のコンサートと傘のエピソードとか、1時間あっという間でとってもおもしろかった。最近のTVドラマのレベルは高い、って本当なんだねえ。

多様な登場人物がそれぞれの立場立ち位置からいろんなことを好き勝手に言っているようで、でも同時に全体を俯瞰したり整理したりしているようなかたちで会話が流れていく(流れていったように見えた)不思議、というのは上映後のQ&AでKenneth Lonergan脚本に対する驚異・賞賛として出ていたが、彼によると、結構いじったように見える部分でもよく見れば原作に同じ台詞があったりする - いろいろ作ろうと思っても最終的には原作のに還っていった - のだという。(なのでこれの脚本化はとてもExcitingで勉強になった、と)

92年の映画版も決して嫌いではないのだが、TV版を見てしまうと、やや間延びした印象 - 映画であるが故の? 気のせいかもだけど - があるのと、Emma ThompsonとHelena Bonham Carterがあんま姉妹には見えないのに対して、このTV版のSchlegel姉妹は、ほんとに姉妹みたいでやりとりがちゃきちゃきしていて楽しいのと、キャストが全体に若くぱりぱりしている気がして、それはWilcox家のほうとSchlegel家のほう、どっちの一族に重きを置くかにもよるのかもしれないが、TV版は何かが起こりそうな雰囲気がぷんぷんで、TVの連続ドラマなのだからそれはそっちの方がよいのかもなー、て思った。

(ちなみに、客席側には若いキャストの子たちもみんな座っていて、プロデューサーはこの子らは将来みんな絶対スターになるから憶えておくようにね! て言ってた)

もちろんまだ第一話しか見ていなくて、エピソードはロンドンの都会が中心で、これがこの後、時代の変遷とか階級意識の揺れとかうねりのなかでどう移ろっていくのか、Howards Endの田舎はどんな変遷を映しだしていくのか、とっても楽しみなのだが、日曜の晩(21:00〜)のTV、見れたらいいなー。むずかしいよなー。

ところで、大英博物館の前(たぶん)を通っていくシーンで日本の着物姿の女性2人とすれ違うとこがあるのだが、ああいうのって昔はあったの?

11.13.2017

[film] Sea Sorrow (2017)

また少し戻る。
10月30日の月曜日の夕方、BFIで見ました。 これ一回きりの上映で、上映後に監督のVanessa RedgraveさんのQ&Aつき。

どうでもよい話しなのだが、28日の土曜日に”Blade Runner 2049”を見て、ここに出てくるHarrison Fordが翌29日の”Joan Didion: The Center will not Hold”に出ているのを見て、更にここ(Broadway舞台版の"The Year of Magical Thinking")に出てくるVanessa Redgraveさんが、翌30日のこれの監督であるという、なんか日々繋がって面白かった、ていうただの偶然、があった。 それだけ。

60年代からアクティビストとしての活動もしてきているVanessa Redgraveさんが最近の欧州の難民問題 - 特に子供の難民問題について取りあげたドキュメンタリーで、英国への受入窓口として設営されたフランスのCalaisの惨状とか、そこに命からがら逃げてくるまでの、難民ひとりひとりの苦労とかキャンプで過ごす日々とか、英国内のデモでのスピーチ(Emma Thompson, etc.)、などなどをインタビュー、ニュース映像などを繋ぎながら綴る。 更にはなぜ彼女(たち)がこの問題を取り上げ、解決しなければならないのか、という観点から、監督である彼女自身が先の大戦時に国内で難民孤児状態に置かれたこと、同様にヨーロッパ - 特に東欧やドイツで子供の頃、家族から切り離されて辛い思いをした人々の記憶が重ねられ、最後にはシェイクスピアの「テンペスト」からプロスペロ—が娘ミランダにミラノから追放されて孤島に流された際の辛い漂流(Sea Sorrow)を回想するくだりをRalph Fiennesのプロスペローに演じさせて、つまり、ヨーロッパの民である我々はこの問題を原体験のような形で共有、共感できるはずだし、解決することができるのではないか、という。

まず、こういうことは知らないよりは(きちんとソースは確認した上で、だけど)知っていたほうがよいのだし、80歳になって初めてカメラをとってこの問題を伝えねばと思ったVanessa Redgraveさん - 壇上でスニーカーがかわいかった - の切迫感と熱意はきちんと受けとめたい。 形式的にはドキュメンタリーと呼べるほど整ったものではなくて、とりあえず手元にある素材、手に入る素材、手伝ってくれるひとを可能な限り使って束ねたエッセイのようなものになっているが、それでも見てよかった、と思った。

Calaisの難民キャンプは昨年10月に閉鎖されてしまったのだが、それでも行き場を失った難民はそこのジャングルで未だにホームレス状態のまま暮らしていて、なんとかしなければ、というのは先のBilly Braggさんのライブでも触れられていた。なんとかしたいな。

という映画の後のQ&Aには、Vanessa Redgraveさんの他に、映画にも出てきた政治家のLord Alf Dubsも参加したのだが、政治討論会どまんなか、のような内容になってしまった。 つまり、いま市民の我々にすぐできることは何か(→ 電話でもFaxでも)、とか、国や組織はどう動くべきなのかとか、そういうこと。 あと、この映画に対する米国の反応はどうか? とか - NYFFでも上映されたようなのだが、反応は微妙だったと。 
討論は時間切れで終わってしまったが、最後に客席の誰かが言った、「例えば自分の子供がそういう状態に置かれていたらどういう行動を取るか考えてみよう」 - そういう問題なのだと思った。

日本ではこの問題、あまり報じられていないよね。 昔からそういうとこあるけど、自分達さえ面白おかしければ、自分達の子供さえよければ、それでいい - 世界でなにが起こっていても関係ない - みたいなメディアのありよう、心の底からクソだとおもう。 こんな壁好きの連中が日本人すごいって言いつつヘイトや排外を垂れ流しているんだからしみじみ吐き気がする。 なにが「存在感」だよ。

11.12.2017

[music] Billy Bragg

7日の火曜日、冷たい雨の晩、Islington Assembly Hall でみました。

Billy Braggは”Don’t Try This at Home”の後のツアーでのクアトロとか00年代に何度かNYで集会みたいなとこでも見ているのだが、バンドで最後に見たのは02年くらい、Ian McLaganがオルガンにいたときとか。
Londonのは6日と7日の2日間で当然の、あっという間のSold Out。

まだ体調がいまいちだったので前座は諦めて8:50くらいに着いたら3分くらいで始まった。
バンドではないソロで、曲によってC.J. HillmanさんのギターとかPedal steelが加わる。

最初から”Sexuality” 〜 “The Warmest Room”だったのであーらおもしろ、だったのだが、これはマクラみたいなもので、3曲めのWoody Guthrieのカバーから、この曲が80年前に書かれたものだなんて信じられないよね、とお話しが始まり、キャリア初期の曲をやる - 緑色のカブトムシギターを手にする - ときなんかは、2016年のBrexitとトランプは余りに衝撃でなにかあるごとにFacebookにコメントを書いていたのだが、ある日ちょっと待てよ、自分が音楽を始めたのはこういうことを伝えるためだったんだろうが! と気付いてFacebookにあれこれ書くのはやめた、と言って”Accident Waiting Happen”を。

昔からであるが、彼の曲間のお話しはそこらの政治演説よか断然おもしろくてためになってしみじみ気付かされてくれて、これじゃSold Outも当然よね、だった。テーマはBrexitは勿論、メイにトランプにLGBTにAntifaにClimate changeに難民支援にデモに三文メディアにどこまでも広がっていって、それらを自分の歌に盛って自在に替え歌にしていく。 そういえば00年代のときはAnti-Bush全開だったなー、とか。

“Solidarity stands”、”Solidarity exists”、“Empathy”といった言葉が頻繁に飛んできて、音楽は社会を変えることができる、自分にとって音楽はIdeaだ、自分はこれを使って戦っていく、間違っても自分に期待しないでほしい、僕は君たちのAbilityを信じる、共にそれぞれのやり方で、自分の場所で戦うべきなんだ! と言ってラストの”I Keep Faith” 〜  “There is Power in a Union”になだれこんでいく様は圧巻としか言いようがなくて、とにかく彼はこういったことを30年以上ずっと言い続けているんだからさ。

こういう固めのばかりではなくて、”Greetings to the New Brunette”のときには、C.J. Hillmanを指差して、彼はこれから4分間、Johnny Marrになります! と言い、つまり俺はCraig Gannonになるわけだが … いやそんなの誰も知らないか、と自分で突っ込むとフロアからは「俺はしってるぞ」「知ってるよ」という声が次々あがるという。(知ってるよもちろん)

アンコールは1回、4曲。
“Full English Brexit”で自分たちの足下を照らして、“The Times They Are A-Changin' Back”でDylanを借りつつトランプを強烈に皮肉ってから、替え歌満載の”Waiting for the Great Leap Forwards”で大合唱のうねりを作って、そのうねりが最後の”A New England”で大爆発する。彼がなんもしなくても怒号のように響きわたる声声声。
85年にKirsty MacCollのバージョンにときめいてからようやくこんなところまできた。この歌をこんなふうに大合唱するために自分は英国に来たんだと思った。

ぜんぶで2時間たっぷり。 “Jeane”も聴きたかったなー。

11.11.2017

[art] Christian Dior, Couturier du rêve

5日、日曜日の昼、パリ装飾美術館 - Musée des Arts Décoratifs - でChristian Diorの創業70周年を記念するレトロスペクティヴ - Christian Dior, Couturier du rêve -「クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ展」。前売りはもう売り切れていたので10:20くらいに並んだ(オープンは11時)。陽は射していたがきんきんに冷えた朝で、その時間でも十分に列は延びていて何度か凍えて泣きそうになったが2時間後の12:30くらいに漸く入れた。

ふだんはまったくファッションとか装いとかに興味ないし同じ格好の繰り返しだしブチックをまわったこともセールに並んだこともないし、21世紀に入ってからのトレンドとかにはちーっとも興味が湧かないのだが、こういう展示になると狂喜して並んで溜息ついてうっとりしてこのお花畑の中でしにたい、とか断言したくなるのはやはり80年代に「ファッション通信」を毎週正座して見て、Hi Fashionを購読していたからだろうか、と少し思った。

階段を昇ってからDiorの人と時代、みたいな紹介があり、その中でその時々のアート - Leonor FiniとかPicassoとかMatisseとかCocteauとかMan Rayとかの本物が並んでいて、写真の領域ではAvedonとかPennとかSnowdonとかBeatonとか大御所たちがとらえた決定版Dior、のようなファッション写真とその実物(服)があり、カラーっていうテーマで色別のミニチュアやデッサンも含めたあらゆるシェイプの色もの(きれいでびっくりよ)がぐちゃーっと並び、同様に柄のテーマ別のがあり、香りがありメイクがあり、雑誌の表紙になったDiorがタイルのように並べられ、あーすごかったねえ、と下に降りたらそこまでは折り返しと知って背筋が寒くなり、館の反対側では、Yves Saint-Laurent 〜 Marc Bohan 〜 Gianfranco Ferré 〜 John Galliano 〜 Raf Simons 〜 Maria Grazia Chiuriまで、デザイナー別の展示があり、John Gallianoはほんとに大バカ野郎だったねえ、としみじみ(だってさー..)し、それぞれの時代を彩った泣く子も黙るBest of the Bestの数々が競うようにこれでもかこれでもかと、あたしを見て! とか、これはどう? とか言ってくるので途方にくれてどうしろってんだ、って泣きそうになった。

これまでNYとLondonで、こういうファッションデザイナーの展示は結構見てきた方だと思うのだが、ここまで物量とエネルギーで圧倒させられるものはなかったように思う。 なにがそうさせるのか? だって綺麗なことってこんなにも綺麗で優雅でかっこいいのだから文句ないでしょなにが不満なのさ? って服のピースや袖口や端切れの肌理やこまこました細部までぜんぶが言ってくるの。
ブランド - メゾン - クチュリエ、こういうの威力っていうのはこんなふうに人を襲ってめろめろの骨抜きにして財布をからっぽにしてしまうのねおそろしやー だった。けどあまり「帝国」みたいな「着れ」ていうような威圧感は不思議となくて軽やかにこちょこちょくすぐってくるかんじ(だからやばいのか)。最後の最後のほうで女性の職人さんがカバン製作の実演をしてて、そこだけ少し和めた。ああロボじゃなくてヒトが作っているんだねえ、とか。

70年のご祝儀でカタログ買った。服のほうは買うことも着ることもこの先ないだろうが。


これ以外の美術館はルーブル、ピカソ、オルセーに行った。ルーブルとオルセーは実はきちんと見てこなかったスタンダードを凝視することに徹して、ピカソ美術館の”Picasso 1932. Année érotique”は1932年の相当とっ散らかって、でも勢いに溢れていた頃のピカソを月ごとに追っていて面白かった。

[dance] Balanchine / Teshigawara / Bausch

4日 - 5日の週末にパリに行ってきた。
ものすごい、なにがなんでもの用事とか演し物があったから、というわけではなくて、パリなんて電車で2時間なんだからしょっちゅう行けるのだし、行ったら自在に動けるようにはなっておきたいよね、くらいの軽い動機だったのだが、実際に行くとなるとあれもこれも入れたくなって結果は週末の休みとはとても呼べないいつものじたばたになってしょうもなかった。
結局まだ凱旋門も見てないしエッフェル塔も遠くからしか見てないありさまなのよ。

4日の晩はまたガルニエ宮でオペラ座バレエをやっていたので見る。今回もまたモダンで、そろそろクラシックのほうも見たいのだが、まだ見れるところで見れるのを見ておく、でよいか、と。

演目は3つ。 BalanchineとTeshigawaraとBausch。
この中だと、やはりBauschの「春の祭典」を見たかった。

George Balanchine - ”Agon”

1957年、BalanchineがNew York City Balletに振りつけたピース。 音楽はStravinsky
BalancineのはNYで結構見てきた方だと思っていたのだが、これはたぶん見ていない。彼のアンサンブルものの中では結構アクロバティックで複雑なほうだと思うのだがオペラ座バレエのダンサーは軽々ふんふんこなしているように見せてしまうのがすごい。多少シンクロしていなくてもへっちゃら、に見えてしまうところも - この辺も技術なのだろうか - なんかすごいわ。

Saburo Teshigawara  - “Grand miroir”

音楽はEsa-Pekka Salonenの"Violin Concerto"で、バイオリンは諏訪内晶子のほんもんがピットに入って鬼のように弾きまくる。
ステージ上では青とか緑とか黄色にうっすら塗りたくられた人々がうねりと揺れのなか集合離散を繰り返す。

勅使川原三郎のダンスは90年代頃からちょこちょこBAMで見たりしていて、彼のダンスというのは動きそのものよりも動きに取りつくようにして現れるノイズ(のようなもの)にフォーカスした光とか陰とかに近いものだと思っていて、そういう意味では既視感のあるノイズに見えて(聴こえて)しまったのは残念だったかも。 聴いたことのないノイズを見たかった。バイオリンの鳴りはすさまじかったのだが。


Pina Bausch  - “Le Sacre du printemps”

Stravinskyの『春の祭典』。
休憩時間、ステージ上では大人数でせっせと土を盛っていてとても大変そうで、彼らの退場時にも暖かい拍手が送られた。

これが一番見たかったやつで、なぜってPina BauschがTanztheaterのコンセプトの元で自身の劇団員=ダンサーの顔やキャラまで含めて(情念、狂気、エロス、などなど込みで)磨きあげたクラシックピースを、技術的には申し分ない(ほんとに巧いのよねこいつら)オペラ座バレエ団のメンバーが演じてみたときに何が起こるのか。 バンドサウンドとして申し分なかったオリジナルを一流のスタジオ・ミュージシャン達がカバーしたとき、にオリジナルのアウラとか求心力みたいなのは失われてしまったり変わってしまったりするのか、とか。

結果からいうと、ぜんぜんすごかったので感動した。 - Pinaとバレエ団の両方に。 それはWuppertal土着のどんどこ踊りでもなんでもなくて、ユニバーサルに狂いまくって咲きまくる堂々たる「祭典」になっていた。 それってPinaが情動に情念、エモの嵐を生の身体の動きや絡みに、そのうねりに落とし込んで土泥とか花とか水とか鼻水とか涎にまみれながら差し出してきたきたものがどこまでも普遍的に強く、瑞々しく、でも同時に脆く壊れやすいものかを改めて示してくれた。ここまでくると古典だよね。

いつもPina作品を見るときとおなじように頭のなかまで泥と鼻水にまみれて、見終わってへたへたになるのだったが、今度のはそんなでもなんかとても嬉しかった。
久々にPinaに再会した気がして。


22時に終わってビストロ - L'Assietteてとこ - に車で走りこんで食べてみた。 なんかとんでもなかった。

[film] The Party (2017)

10月28日土曜日の午後、Picturehouseで見ました。

こないだのLFFでも少し話題になっていた英国のSally Potter - "Ginger & Rosa" (2012)とか - の新作。
71分の室内ジェットコースター、ブラック(モノクロ)、コメディ(?)。

政治家のJanet (Kristin Scott Thomas)は自宅で自分が所属する野党の影の内閣のメンバーになったお祝いパーティを開こうとしていて、夫のBill (Timothy Spall)はよれよれとリビングでレコードをかけたりしているところに、Janetの親友のApril (Patricia Clarkson)とその夫のGottfried (Bruno Ganz)が現れて、他にMartha (Cherry Jones)とその同僚で三つ子を妊娠していることがわかったJinny (Emily Mortimer) が現れて、汗びっしょりで挙動不審のTom (Cillian Murphy)も現れて、一見全員まともで上品そうな社会の上層の人々のようなのだが、実はぜんぜん噛み合わない最悪の組み合わせの人びとだった、と。で、パーティは?

どんなふうかというとAprilとGottfriedはもう離婚すると息巻いてて、Tomは頻繁にトイレに篭ってはコカイン吸って持ってきた拳銃で自殺しようするけど踏みだせなくて、Billは病気でもう長くないことを明らかにして、更にTomの妻のMaryanneと不倫関係にあることを告げたりしたのでTomはBillをぶん殴って、みんながおろおろするなか、Janetには頻繁にどこかから電話がかかってくる。

みんなで楽しく暖かくお祝いする会のはずが、なにかをきっかけに愛憎どろどろ、ぶっ殺したろかの修羅場に変貌していく様って、演劇とかでは割とあった気がするが、この映画はその辺を割と上品に繋いで沸騰させて、でも血染めの惨劇みたいなところのぎりぎり手前で踏み止まる。 その踏ん張り具合がThe Partyであり、同時に政党のThe Partyでもある、と。

で、最後に、人はなにをもって幸せな状態とか不幸な状態になるんだろうねえ、といったことを考えたり。

中心の女優陣にKristin Scott ThomasとPatricia Clarksonというキツくて強そうな狐2人を置いて、それぞれの相方にTimothy SpallとBruno Ganzというずぶずぶ食えない糠味噌みたいな2人を置いて、そこに薬物系のヤバ男とスピリチュアル系の女性を絡ませる、というキャスティングが効いていて、それでも話の先が見えないのはこの連中だからなのね、と。

11.08.2017

[film] Alice in den Städten (1974)

10月22日、日曜日の夕方、BFIで見ました。 “Alice in the Cities” -『都会のアリス』
1本だけ生き残っていた(サバイバー)16mmからリストアされた版のBlu-Ray発売記念とか、LondonのPhotographers' GalleryでやっているWim Wendersのポラロイド写真展示"Instant Stories. Wim Wenders' Polaroids"とかにあわせての1回きりの上映。
上映後にWim WendersとのQ&A。

ライターのPhilip Winter (Rüdiger Vogler)がアメリカの中西部をポラロイドで写真を撮ったりしながらひとり車で旅していて、でも締切までに文章を書けなかったので切られて、ならドイツに戻ろうと(PanAmビルで)手続きをしていたら、同じくドイツに戻ろうとしている女性Lisaとその娘Alice (Yella Rottländer)と会って、英語も不慣れなようなので助けてあげるのだが、出発の直前にLisaは片づけなければならないことがある、とAliceをPhilipに押し付けてどこかに消えてしまい、アムステルダムに着いても現れる気配がないし、そのままアムステルダムにいてもしょうがないので、警察に届けをだした上でドイツのどこかにいるらしいAliceの祖母を探して車でのふたり旅にでる。 でもおばあちゃんの家がどんなかは番地も書いていない一枚の古い写真と、あとは彼女の頭のなかにしかないので大変で、Wuppertalに行ったりRuhrに行ったり転々としていながらだんだんと楽しくなっていくのだが、他方でいつまでも連れまわすわけにもいかないし。

所謂ロードムービーと呼ばれるジャンルの1本で、主人公たちが特定のシチュエーションや設定のなかで動くのではなく、旅や移動をしながら、その途中で遭遇する出来事や風景のなかでどう変わったり動いたり消えたりしていくのかをダイナミックにとらえていくようなやつで、風景が変われば人も変わるよね当然、とか人も風景の一部としてうつろったり消えていったりするよね、とかいろいろあって、でもへたするとただの旅のアルバムになってしまうので、出てくる人の顔と、移動していく風景がどこまでどんなふうに頭の隅に残るのかが肝心なのかしら。

そういう点では前半のPhilipひとりがとらえるアメリカの風景と後半のAliceが加わったヨーロッパの風景のありようははっきりと異なっていて、それは違うもんなのだから違うだろう、ではなくて、異邦人として通過していくアメリカと、家族の記憶の断片を抱えた子供と共に路地のひとつひとつを凝視し、居場所を探しながら移動するヨーロッパはものすごくいろんな意味で異なっていて、それはアメリカ映画とヨーロッパ映画の違い、アメリカ音楽とヨーロッパ音楽の違い、といっていいくらいにくっきりと顕在化していて、そのスケールのでっかさに感動した。

もういっこは子供のAliceの目に映ったWonderlandならぬCitiesの、なんとか自分の帰るべき家を見つけようとするその先にある未開のごちゃごちゃした広がりとか驚異とか。
それはPhilipが撮るポラロイドの、真四角の一枚きり、その一瞬の写し絵にすべてが込められている、それがもたらす奇跡に近いなにか、に近いのかも知れない。

上映後のQ&Aでも、Wendersは撮影で使われた16mmとポラロイドによる別種のShareのありようについてきちんと説明していて、相当考えたのだろうな、と。 ただ、ポラロイドは撮ってその場で人にあげてしまうのも多くて、その部分も含めて独特でおもしろいメディアだと。

そういったところを踏まえてPhotographers' Galleryの展示 - 撮影された映画ごとだったり、地名ごとだったり(東京もあったよ)いろいろ - を見てみると、フィルムと同じくらい重要な位置を占めていることがわかる。

"they occupy a very special place in our relationship to imagery and to photography, certainly in mine" であると。

そうやって撮られた一枚一枚は朽ちていく色味と合わせてとても切なく美しくそこにあるのだった。
Instagramの話にも少しなって、あれはやっぱり全然違う種類の、冷蔵庫みたいなもんだと(ごめん、聞き間違えたかも)。

ポラロイドじゃない写真については特定の写真家に影響を受けたことはないって。映画を撮るようになってだいぶ経ってからWalker Evansを知り、あとはStephen Shoreくらい、とか。

個人的にはNYの昔のPanAmビル(現Metlife)の回転扉の向こうはこんなだったのかー、って。

あと、映画のなかのAliceは今はお医者さんになってて、3人の子供のお母さんなんだって。

明日からミュンヘンに行くので更新止まります。
がんばってチケット取った明日のFather John Mistyはおじゃんになってしまったが、さっき見てきたBiily Braggがすばらしすぎて年内いっぱいくらいは生きられそうな気がしてきた。 のでがんばる。

11.07.2017

[music] Melvins / Redd Kross

10月31日、火曜日の晩、Electric Brixtonていうライブハウスで見ました。

英国でのMelvinsは初めてだが、でも連中がどこにいたってぜったいそのうち必ず見ることになるに決まっていた。
Redd Krossと一緒ならなにがなんでもだし。 この2バンド、何年か前の年末に西海岸怪獣大決戦をやっていたよね?

Door openが7時で、何時開始なのだかわからなかったが8時丁度に着いてドアを入ったらRedd Krossがステージに出てきたところだった。 こいつは楽しくなりそうだぜ、って見た瞬間にわかるやつ。
McDonald兄弟のギターとベースがぱりぱり軽快に絡み合って、その隙間にドラムスが威勢のよい餅つきみたいにばりばりやたら気持ちよく合いの手いれてくるのであんた誰よ? と思ったらDale Croverだったの - 彼のSecond Actでもがんばるからねー って紹介されてた。 そりゃすごいわよね、しか出てこなくて、ふつうだったらぴょんぴょん跳ねまわるのだが次があるのですこし我慢した。

9時を10分くらいまわったところで、トリオのMelvinsが登場する。 ベースはついさっき見た気がするSteven McDonaldさんで、両バンドのボトムが一緒なのだから音は、というとやはりぜんぜん違っていて、空中で鋭角的に跳ね回るのがRedd Krossで、地の底から地鳴りを起こしておろおろ右往左往させてしまうのがMelvinsで、表面のやかましさも、引き起こされるパニックの度合いとか内容も、やはり違っていて、冒頭、ギターをぎゃんぎゃん鳴らし始めたBuzz Osborneのばくはつ後ろ頭を眺めつつなんなんだろうねこいつら、とひたすらわくわく感心していた。

盤石の3ピースで、3コードパンクでもガレージでもハードロックでもメタルでもコアでもノイズでもなくて、やかましいことは保証つきだが、人懐こさも不可侵の孤高さとも縁がないふうで、ただただそれぞれの楽器が叩きだす音がぶつかり合ってかっこよい模様とか星座とかを描いて繰りだしてくるそのさまを荒れ狂う嵐のなかびじゃびじゃになりながら見ているような、そんなかんじ。 そういう状態で震えながら立ちつくしてしまうので、演るほうも演られるほうも変態、みたいな言われ方をしてしまうのだろうが、いちど聴きにきてみなよ、電気ウナギでいちころだよ。

いちおう7月に出た新譜 "A Walk with Love & Death"のプロモーションのようだったが、曲目は全キャリア通してのヒットパレード風で極めて安定 - カテゴリー5のハリケーンの猛威を「安定」と呼んでしまってよいのかはあるにせよ - していた。 ビートルズのカバーまでやっていたし。 とにかく気持ちよく滑っていって、ベースのStevenの佇まいがいっしゅんRushのGeddy Leeに空目してしまい、つまりそれってほぼ神の領域、ということなのだが、案外違っていないこともないかも、と思ったりした。 でもそれはAvengersというよりはこないだのThorみたいなほうで、要は神というよかお化けの愚連隊みたいなかんじの。

75分くらい、アンコールなし。ハリケーンは戻ってこないから。
物販がほとんどなかったのが悲しかった。 やはりアメリカじゃないとな、なのか。

[film] Joan Didion: The Center will not Hold (2017)

10月29日、日曜日の昼、CurzonのBloomsburyで見ました。 ここにはドキュメンタリーだけを流しているシアターがあって、そこで一日一回だけ上映されていた。

現在82歳になるアメリカのジャーナリスト - というだけに留まるひとではないと思うが - Joan Didionの肖像を最新のインタビューを交えつつ描きだす。 監督兼聞き手は彼女の甥のGriffin Dunne - "After Hours" (1985)のひと - 甥だなんて知らなかったわ - で、彼の小さい頃から叔母と甥として接してきたふたりならではの親密さと暖かさに溢れている。

カリフォルニアのサクラメントに生まれて、小さい頃からノートにいろんなことを書くようにしていて、在学中にVogueのエッセイコンテストに優勝して、そのままNYのVogueに入って、最初に雑誌に書いたのが“Self-respect: Its Source, Its Power”。これを27歳で、61年の女性誌に書いて、掲載されたってなんかすごい。 原文は↓で読める。

https://www.vogue.com/article/joan-didion-self-respect-essay-1961

その後、John Gregory Dunneと結婚してVogueをやめて西海岸に移動し、サンフランシスコのヒッピー・カルチャーを、そこの子供達
を取材したノンフィクション - "Slouching Towards Bethlehem" (1968) - 『ベツレヘムに向け、身を屈めて』 で有名になり、いろんな雑誌に寄稿したりフィクション書いたり、映画の脚本 - "The Panic in Needle Park" (1971) とか書いたり、2007年には劇の脚本まで書いて、とにかくアメリカの現代文化史の結節点をまるごとぶちこんだようなとても豊富で多岐に渡るお話が次々に出てくるので映画を見てほしい。 特に60年代のJanis JoplinやJim Morrisonとの話、70年代、マリブの海沿いの邸宅がSteven SpielbergやWarren Beattyといった映画人の溜まり場になっていた、といったあたり、本当におもしろい。

映画は当時のNewsなどを含む記録映像と周辺にいた人々の話、現時点からそれを振り返って(甥に向かって)語る彼女を交互に映し出していくのだが、ひょろひょろの細腕をゆっくり振ったりしながら慎ましく丁寧に話していく彼女から感じられるのはある種の透明さとか優雅さといったもので、それは先のSelf-respectというところにも繋がってくるのだろうな、と思った。
センターを保持しない、一箇所には留まらない。 でもわたしはあるんだから。

後半はややトーンが変わって、養女のQuintana が病に倒れ、その直後に夫が突然他界してしまい、やがてQuintanaも.. という悲劇が連なっていく中、悲嘆(Grief)について書いた"The Year of Magical Thinking" (2005)をリリースし、更にそれを劇作に翻案してブロードウェイで上演し(主演はVanessa Redgrave)、娘のことを書いていなかったから、と"Blue Nights" (2011)をリリースする。

自身の悲しみも、絶望の深さもとてつもないのでは、と思うものの、悲しみというものがそこに確かにあって、それについて書けるのであれば書こう、と。そのとてつもない強さと深さに打たれるのだが、そのへん、彼女の過去から現在までの写真 - 特に彼女の目 - を追って見ていくとなんか感動する。 たったひとりでやってきて、それでもなぜあんなにも家族を希求したのだろうか、とか。

Joan Didionという名のひとりの女性が、というよりも60年代以降のアメリカを生きる女性が、(例えば)”Self-respect"というテーマと共にどう生きてどう世界を見ていったか、を綴るドキュメンタリーにもなっているように思った。 これもまた"20th Century Women"の物語で。

オリジナルのBlade Runnerが出てくるの。 彼女のマリブの家で大工をやっていたって(レプリカントとして?)。

11.03.2017

[film] Daphne (2017)

10月の21日(なんてこったいもう11月かよ)の土曜日、BloomsburyのCurzonでみました。

ロンドンに独りで暮らす31歳のDaphne(Emily Beecham)がいて、レストランで料理作っててスーシェフを目指したりもしているようだが、基本は日々をお気楽に生きてて、バーで知り合った男と寝ては離れてそれきりでじゅうぶんで、タバコもドラッグもあったらするし、暇でぼーっとしているわけではなくてそれなりに忙しそうではあって、病気の母親が心配してちょこちょこ家に見にきたりするのだが、平気だからだいじょうぶだから、って寝る前にシジェクを読んだり、恋愛の話になるとフロイドを持ち出して煙にまいたりしている(相手はあきれて寄ってこない)。

そんなある日の晩、帰宅途中に小さな雑貨屋に寄って買い物をしていたらいきなり強盗が現れてレジのひとをさっと切りつけて逃げてしまう。 彼女は救急車を呼んで出血で震えはじめたレジのおじさんに家族の写真を見せたり介抱してあげたりするのだが、そこから先、彼はどうなったのか。 死んじゃったのだろうか? (そこは彼女に知らされない)

警察からはそういう目にあってしまった人が今後のトラウマにならないためにセラピストを紹介されるのだが、彼女はぜんぜんへーきだから、ととりあわなくて、でもそれ以降、彼女のなかでなにかが壊れてしまったようで、荒っぽくなって対人関係を始めとしてぼろぼろになっていってどうすることもできない。 これはちょっとやばいかもと思って一応セラピストのところに行ってみるものの、やっぱしなんか違うと思って喧嘩みたいになって、更に悪化していったり。

Daphneのような女性がほんとうにいるのか、どれくらいいるのか、はわかんないしあまり興味もないのだが、彼女がここで見せているような将来を楽観してて(ナメてて)、でもシニカルで、他人も愛も恋もなんかどうでもよくて、夢とか目標なんて雲の上の遠くにあるし、漠然と不安はあるけどどうせ死ぬときはひとりなんだからしょうがないじゃん、どうしろってんだ? みたいに日々を過ごしているひとの眼差しとか歩き方、イメージ、というのはとてもよくわかるし、だからそんなふうにいるんだろうな、と、それが描けているだけでじゅうぶんだと思ったのと、終わりのほうでゆっくりとなにかが上向いていく兆候とかかんじの描きかたも悪くない。

彼女が意識的に変わろうと思って変わったとか素晴らしい出会いが彼女を変えたとか、そういうふうではなく、彼女は強いとか弱いとかそんなこともどうでもよくて、起こったのか変わったのかなにかがあったようだけどそんなの知りようがない、けど、なんだか変わったみたいよね、といったところを微細な表情とか口調のかんじから読み取ろうとして、その距離の取りかたはDaphneの像を描くとても正しいやり方のような気がしてよいと思った。

Hollywood Reporter誌のレビューでは"Looking for Mr. Goodbar meets Kenneth Lonergan's Margaret on the streets of 21st century London"とあって、ああそういえば"Margaret"(2011)のかんじはあるねえ、と。 これほんとうに素敵な作品なんだけど、なんで日本では公開されないのかしらねえ。

11.02.2017

[film] Call Me by Your Name (2017)

29日、日曜日の夕方にSOHOのCurzonで見ました。
この日昼間に見たのもとってもよくて、でも病み上がりのぼろぼろで体が持つかしら、だったのだがだいじょうぶだった。

これの予告で、奥のほうに滑るように走っていく自転車にSufjan Stevensの"Mystery of Love" が被さるのを見たときから、これはもうぜったい自分の映画だと思った。なので公開されたらすぐにでも見たかったの。

83年の夏、イタリアの北、そこのヴィラに家族 - 父、母、17歳のElio (Timothée Chalamet) - が滞在していて、そこのゲストとして父の友人で美術関係の調査をしているらしいOliver (Armie Hammer)がボストンからやってきて、Elioの部屋 - Elioはバスルームを隔てたもういっこの部屋に移動 - に泊まることになる。

映画はひと夏の、いつもの夏とは少し違った夏の、ElioとOliverのやりとり - 声のかけあい、体が触れたり、目で追ったり、部屋にいるいないを気にしたり、自転車で遠出したり、タバコ吸ったり、池で泳いだり、昼寝したり、どつきあったり追っかけっこしたり、やがて自然とキスするようになって、互いが互いにとってかけがえのない名前に、記憶になっていくまでを、傷として残るような事件とか事故とかそういうの一切ぬきで描く。 そんなのなしでも、洗礼とか通過儀礼とか「大人になる」とかなしでも十分に忘れられないなにかとして残るなにかを。 

ほとんどそれだけ、それと、ひと夏の思い出 - 遅くに起きて、陽射しのなかみんなでご飯食べて、本読んだり、音楽聴いたり、ピアノ弾いたり、ノートに落書きしたり、女友達と遊んだり、夜遊びしたり、もうほんとうに、ごろごろなーんにもしていないに近い、でもこれらがどれだけかけがえのない時間だったか後からわかる、そういう場面がこれでもかと重ねられている。

設定を原作の87年ではなく83年の夏に置いたのも、おそらくその辺のなんもない、まっさらなかんじを出したかったからではないか。
ここには無垢で純な美や愛への志向や欲望があって、ヘラクレイトスの断片があって、キレイごとばっかりだけど、そんなものしかないけど、それらが自然に対しても彼に対しても彼女に対しても食べ物に対してもなんの作為も邪念もなく開かれてある。
ぜんぜん、ちっともいやらしく見えない。 ギリシャ彫刻を眺めるのとおなじで、これをBL映画とか呼ぶ奴がいたら目と脳が腐っちゃったのねかわいそうに、とふつうに思おう。

で、とにかくそれは確かに残る、とても強く残る。 それがあるので、自分はこの映画はすばらしいと思った。
「君の名前で僕を呼んでくれ」とOliverは言った。 彼が自分の名前を呼ぶ声は耳から頭に浸みてきて、あの夏にかかっていた音楽と同じようにずっと残るだろう。 どこに?

この映画のリファレンスとして出されるMaurice Pialatの “À Nos Amours” (1983) - 『愛の記念に』 - がぜんぜんいやらしくなく、ちょっと青苦い瑞々しさばかりが残る不思議と似ていないこともないかも。 これよか能天気でピースフルではある、けど。

脚本を書いたJames Ivoryがそのまま監督していたらどうなっていただろうか。もっとノスタルジックな甘いかんじのものになったのではないか。 でもこれ、30数年前のお話しではあるが、遠い昔のとんでもなく離れた田舎のお話しではなくて、奇跡的に「いま」のお話しになっている気がするのはなぜか。 Sufjanの曲のせいだろうか。

そしてJohn Hughesの影。 最後の父親の台詞はもちろん(泣くよ、まじで)だが、The Psychedelic Fursの”Love My Way"がかかり、それにのって彼らは踊り、OliverにRichard Butlerの名前まで言わせている。 (あと、Elioの部屋のポスターもそう?)

あとさー、ラジオとかであの曲かかんないかなー、と思っていたら本当にかかったF.R. Davidの"Words"。客席の離れたとこでもかかった瞬間に「あう」とかうめき声が聞こえたので同じことを思ったひとがいたのだろう。 なんだろうねこういうの?

一度でもいい、こんな夏を過ごせたらなー、いいなー、ていうのをだらだら思いながら見る、それでもいいと思う。

エンドロールのとこもよくてねえ。 今年のベスト3にはいるかも。

11.01.2017

[film] The Snowman (2017)

21日の土曜日の夕方、Leicester Squareのシネコンで見ました。
監督は、"Tinker Tailor Soldier Spy" (2011)のTomas Alfredson。

最初にママに虐められている子供が出てきて、そのママはどこかからやってきたおじに虐められてて、それを息子に見られたママは車で外に飛びだして湖の氷の下に沈んでしまう。

ノルウェーの警察のHarry Hole (Michael Fassbender)はよれよれで路上で寝たりしていて、どうしてかというと妻Rakel (Charlotte Gainsbourg)と別れて子供も妻の再婚相手のほうに行っちゃって、ということらしい。

ある雪の晩、遅くに帰宅したシングルのママが明け方に消えている事件が起こって、Harryがそれを担当して見ていくと過去にも同様のケースがあったらしいこと、新たに同僚となったキレ者Katrine (Rebecca Ferguson)の資料から10年以上前にCold Caseとなったのとも似ていることもわかる。更にHarryのところにも予告らしきものが届いたり、別の女性がひどいやり方で殺されたり、どの事件も被害者は女性のシングルマザーで、いろいろ事情を抱えていたらしいことがわかって、最初に雪が積もった日に起こって、あとには雪だるま(Snowman)が残されていたりする。 殺しかたも残忍で、だいたい首がちぎれていたりふっとんでいたりばらばらにされて鳥のご飯になっていたり。

だんだんに地元の富豪(J. K. Simmons)と関係のあるらしい医者の線とかが見えてくるのだが、ようやく近い、あと少しのところまでいったKatrineにも...

断片的なネタがこまこま出てくる割りにはミステリーぽくない、犯人はああそうなの、的にわかってしまうのでポイントはそこにはなくて、身が切れるような寒さのなか、子供に悲しい思いをさせるとSnowmanが現れて自分の身をざっくり切られることになるよ、ていう犯人のメッセージに付きあわされることになった警察の苦労とかもういいかげんにして、とか、とにかくずうっと寒そうで気候以上に人生がきつそうなMichael Fassbenderがかわいそうだった。

氷の下とか雪の下に埋められて見えなくなっている哀れな子供たちの念が、ていうピエロ(IT)じゃない雪だるまホラーとして作る手もあったのかも知れないが、降り積もっていく雪、吹きまくる風、その音、扉の開閉、突然灯る明かり、それらだけで十分おっかなかったりするので、その中においては追っかけられるホラーよりは、追っていくサスペンスのほうが、雰囲気は盛りあがるのかも。
で、そこに疲れきってへろへろのMichael Fassbenderを置くと更に身を切るような切なさが増してよいの(じっさい切れたりするし)。なんでそんなにくたびれて擦り切れているのかは最後までわかんないのだが。

ふと、"Blade Runner 2049"のRyan GoslingがMichael Fassbenderだったら? と思ったけど、やっぱなんか違うよね。
でも、Ryan Goslingを追っかけるほうのレプリカントがMichael Fassbenderだったら、ちょっとおもしろくなったかも。
そうすると、もういっこのあのシリーズのテーマとも繋がりそうじゃん? 製作おんなじだし。
 

[film] Blade Runner 2049 (2017)

28日、土曜日の晩、PiccadillyのPicturehouseで見ました。 もうでっかいシアターでの上映はほぼ終わり状態。

他に見たいのがいろいろあったりしてつい後ろまわしの後ろ向きになっていた。
オリジナルの82年のは公開時に見ているのだが、Director's Cut (1991)は見てない。 当時、べつにあんましすごいと思わなかったのね。
でも周りは割と褒めたり熱狂したりしてて、ふーん、だった。 要はディストピア的世界観を細部に至るまで精緻に緻密に表現している、ということらしかったが、映画がなんらかの世界観を表明するのなんて当ったり前のことだし、その程度がどうかなんて、そこらの田舎のあんちゃんがファッションをつま先から髪の先までぎんぎんにきめて粋がるのと変わんない気がした。 都市が道頓堀だの歌舞伎町だっていうのも、だからなに?(大文字)としか言いようがなかったし、レプリカントが云々、にしても既にGary Numanを通過していたので、相手が人間だろうがレプリカントだろうがめんどうでうっとおしいのも危険なのも変わらない、そんなのどうでもいいじゃん、だったの。 (←すげえやな奴だよね)

そういうわけだったので続編がどんなにすばらしい、と言われても、そういうことを言うのは最初のをすごいって言ってた連中に決まっているし、上映時間164分もあるし、とかいろいろ躊躇してて、でも評判よいらしいしねえ、くらい。

舞台は2049年で、前作からの間にレプリカントの製造会社が変わったり、大規模なブラックアウトがあったりしたらしいが、旧型のレプリカントを狩る作業はまだ続いていて、LAPDのK (Ryan Gosling)もその狩る側のひとりで、でも彼自身もレプリカントらしい。 ある日、旧型をやっつけたらその傍の樹の下になんか埋まっているのがわかって、掘り出してみたら鞄に入った人骨で、さらに調べてみたらそいつは産後ので、でもその骨はレプリカントのだった.. レプリカントが子供を産んだりするのか、そんなわけないじゃろ、とデータ掘りを含めた大騒ぎがはじまるの。

ここに旧作のDeckard (Harrison Ford)が出ていることを既に知っているので、あーこの骨はRachaelのなんだろう、とか、じゃあその子供は? とか、その記憶は? とか、それらはKの出自とどう関わってくるのか? とか、それがレプリカント側にとってなんで大変なことなのか? とかいろいろ考えさせるようにはなっている。 けど、基本は人間のミラー(であり奴隷)であるレプリカントの製造工程で見えてくるユートピアとディストピア、その当初想定と結果、そのギャップはご覧のとおり、みたいなところを廻っていく(しかない)。

おおもとに返っていうと『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という問いに対して、Yes. ああその夢のなんと儚く美しいことか、て涙するか、そんなのどーでもいい、他人の夢なんて興味ねえし、ていうかで反応は分かれるのだろうか。
映画は前者の流れに立って、その可能性を近未来のいろんな大風呂敷デザイン(含. 廃墟事案)のなかに抒情たっぷりに描きだす - でも最後に残るのは雨のしずくとか雪のかけらとかだったりして、とにかく儚いんだから魂があるんだったら泣いてみろ、とかいうの。

こーんな面倒なことになるんだったらレプリカント、べつにいんないよね。
あそこの社会、だれも幸せそうに見えなかったし。すでにじゅうぶん奴隷やらされてるしディストピアだし。

撮影はRoger Deakinsで、あそこまで延々もやもやどよーんさせつつも最後まで飽きさせなかったのは見事だとおもった。
音楽のBenjamin Wallfisch + Hans Zimmerも、ずーっと象の鳴き声みたいのがぱおーんぱおーん、響いていたけどなんかすごそうだった。 "Dunkirk"のときにも思ったけど、映画音楽てこれからどんどん音波とか音壁みたいになっていくのかしら。

目と耳が分厚い雲でずっと塞がれてわうわうしている状態 - これが2049年。
いまから35年たったとき、この作品の評価はどうなっているのか。 どうでもいいけど。

"A.I. Artificial Intelligence" (2001)をリメイクしてJude Lawがやった役をRyan Goslingにやらせてみたい。名前も同じJoeだし。