11日の月曜日、連休最終日の昼間、新宿で見ました。 「わたしはマララ」
冒頭、アニメーションでパシュトゥーン人の女の子英雄であるマイワンドのマラライ(Malalai of Maiwand) - 民を奮い立たせて侵略に立ち向かって亡くなった - の話しが出てきて、そういう目線で彼女を美化するような映画だったら嫌かも、と思ったがそういうのではなかった。 もちろん、人によってはいやいやそれでもとんでもねえよあんな描き方、なのかもしれないけど、印象としてはとってもプレーンなかんじの。
父親は娘 - Malala Yousafzai - を(あるいは子供たちを)性別に関係なく均等に学びの機会を与えて育てるべきだと思って、そうした。 娘はそれに応えるかたちで成長して学んで自分の言葉でいろいろ言うようになった。 そういう傾向を間違っていると思う人たち・勢力があって、彼らはそれを暴力で抹殺しようとして、実行した。 彼女は致命傷を負ったけど一命をとりとめて回復し、学ぶことも書くことも言い続けることも止めなかった。
映画は誰もが知っているであろうこの事実関係をなぞって進行していくだけ。
わたしは彼女の父親がたてた方針はごくあたりまえだし、それに応えて大きくなったMalalaもおかしくないとおもう。 でも、そうした彼女(とそのそばにいた女の子)に銃弾を放って黙らせようとした連中ははっきりとおかしいとおもう。 そして、そうやって傷ついても決して口を閉ざさなかった、おばさんのように執拗に言い続けたMalalaはえらいとおもう。
まだ若い女の子なのに、とか、ああいう地域・境遇に生まれたのに、とか、ひどい目にあったのに、という美談ぽいところから離れて、このひとは淡々と揺るがずぶれず、にこにこしているけど火の玉みたいに燃えていて湿り気ゼロなのがかっこよいの。 還るべき国や故郷を失ってしまった女の子とは思えない。 にこにこ穏やかだけど、フェリオサみたいな娘。
映画のタイトルは"He named me Malala"だけど、 "He named me Malala after Malalai of Maiwand, therefore ..."ではなくて、"He named me Malala after Malalai of Maiwand, but ..." なのだとおもう。 父はこう名付けた、けどわたしはわたしなんだ、ていうことなのではないか。
映画は彼女の笑顔や揺るがない言葉と共に淡々と朗らかに進んでいく分、やはり、それ故に、こんな女の子に銃を向けた連中の異様さ、気持ちわるさがはっきりと際立つ。 闇とか不寛容とか言うのは簡単だけど、その暴力 - ひとを痛めて傷つけて引き裂く力(物理的なのだけじゃないよ。言葉とかもだよ) - は確かに存在して、いまだに、ここだけじゃなくて世界中で沢山のひとを殺したり突き落したりしているのだということ。 それは彼女の背後だけじゃなくて、自分の家族とか恋人とか近所のおじさんおばさんとかの周りにもしっかりと根をおろしてしまっているのが現代なのだ、ということ。
それをわかっておけ、そして、そいつらをぜんぶ無力化してしまえ。
て、彼女の笑っている顔を見ていると思うのだった。 負けるもんか。
1.19.2016
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