5.29.2012

[art] Turner Inspired: In the Light of Claude

到着した土曜日は夕方なのにすごく暑くて、日曜日もその陽気が継続。 朝から逃げたくなるようなかんかん照り。

National Galleryでの有料の展示。
わたしはターナー好きのふつうの、平均的な日本人なので、喜んで見にいく。
12月のダ・ヴィンチ展の悪夢があったので、少し早めに行ったのだが、ぜんぜん心配いらなかった。

ターナーは死ぬ前に自分の作品の寄贈先と展示方法、特にNational Galleryに寄贈される作品については、大好きだったクロード・ロランの絵の間に置いてほしい、と特別の注文を出していた。(Tateとの調整あれこれをクリアしてこの願いが実現されたのは1968年)

ターナーというと、Tate Britainにあるコレクションがまず圧巻(あれはほんとに何回見てもすごい。単純に狂っている)なので、あっちかと思っていたのだが、こっちにもあったのね、でした。

この展示ではターナーがそこまで愛してやまなかったクロードとターナーの絵をざーっと並べて両者の影響関係を見てみよう、と。

クロードは17世紀のひとで、(フランス生まれだけど)ローマで風景画の基礎を作った、特に光を持ちこんで理想的な「風景」の原型を作ったと言われている。
それから1世紀以上後に生まれたターナーはクロードの光を含めた「風景」のありようを細かに分析し(その創作メモや模写デッサンも展示されている)、彼の構図をそのまま遵用したりしつつ、自身のスタイルを模索していく。 それはクロードの目に射してきた光をそのまま自身の絵に乱反射させるような試みだったにちがいない。 そこには、実際の(今自分の目の前にある)風景をいかにリアルに写しとるか、ということよりも、クロードが見た風景を、光を、いかに自分の「風景」に移植するか、クロードが多分に無意識的に追った光を自分もカンバスの上で追っていく、追ってみる、そういう、創作というより批評に近いような活動だったのではないか、と。

画面のまんなかに光のためのまるい空間、トンネルを用意して、そのまるい縁に沿って建物や樹木を配置すること。
それによって生まれるこちらの視野や瞳孔を拡げてくれるような効果、或いは渦の向こうにのまれていくような効果(→没落もの)が、風景(画)の見方を大きく変えてしまうことにターナーは気づいた。 どこかで。

こうしてターナーの絵は年を経るにつれて、絵のまんなかの光の円が大きくなり、光だけが突出して、やがて光の海に全てが飲みこまれるような方向に向かっていく。
これはターナーが光をそういうふうに見た、とからりらりに酔っぱらってなんでもよくなった、ということよりも分析対象としての光を彼なりに冷静に解析し咀嚼していった結果ではなかったか、と、そんなふうに思えるような展示になっていた。

展示作品のなかでいかったのは、ワシントンのNational Galleryから持ってこられた"Keelmen Heaving in Coals By Moonlight"。
ターナーの黄白色の光ではなくて、これは青白い月の光なの。 こういうのもいいなー、と。

んで、風景画の構成要素としてそれまであった主題と構図と遠近、これに加えて導入された「光」という要素はその後の印象派において、パンクさながらに炸裂していくのだった、と。

これの後で、 小走りで常設のJan van Eyckの『アルノルフィーニ夫妻』みて、Da Vinciの『岩窟の聖母』を昨年に続いて再び拝んで、レンブラントの自画像をいくつかみて、乳を垂らしたおねえさんに挨拶して、隣に行ったの。

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