National Portrait Galleryで2月から始まっていたLucian Freudの肖像画を中心とした回顧展。
これこそが今回の渡英でいちばん、なんとしても見たかったやつだったの。
最終日が5/27のこの日。 当初予定していた日曜着のフライトだとたぶん無理、だったので一日早まってほんとによかった。
隣のNational Galleryから走りこんだのが10:40頃。 チケット売り場には柵があってそこそこの列ができていたので、並ぼうとしたら係のおじさんに止められて、列の終端はあっち、と指をさされたそのほうを見ると、階段の上のほうにまで延びるずらーっとした列が。
ばかばかばか、最終日にこうなるのはちょっと考えればわかったろうに、なんで最初にこっちに来なかったあほんだら、と頭を階段の壁にがんがんぶつけながら1フロア分上に昇って待って、でも11時には入れたのでよかった。
40年代からの線の細いフラットな人物画にだんだん肉がついていって、後期にもつながる人の独特のポーズ(あの獣みたいな横たわり方)やインテリアといったモティーフは50年代で既に(技術的にも)完成していたことがわかる。
60年代以降は肉とか皺とか、それらが肖像にとってなんであるのか、を床とか椅子とかリネンとかとの対比で示そうとする。肉のくしゃくしゃと布のくしゃくしゃは、カンバスの上ではどんなふうにちがうのか、とか。
Francis Baconにおける「肉」が情動とかオブセッションの動きに連動してダイナミックに変容を続けていくのに対して、彼のはあくまでスタティックに、そこにあるだけの、しかし屍肉ではない生きた肉に刻印として焼きつけられるなにか、を掬いとろうとしているように見えた。
それは単に説得力とか力強さ、といった印象だけでは片づけられない、そのひとの顔だちや肉があってそれがそのひとと認知されるその瞬間に頭のなかで起こるであろういろんなことを凝縮して示す、絵に描かれたそのひとがそのひと固有の表情を見せる直前のプレーンな顔 - そこにこそそのひと自身が現れるような - を抽出しようとする、そんなような。 (彼はそこにDramaを作ろうとした、と)
これにくる直前、なんかあるかも、と思ってNational Galleryでレンブラントの自画像(若い頃のと老いてからの)を見ておいたのだが、どこかしらあれらに近い気もした。
00年代以降のは、"Big Sue"の連作も含め、ひたすらすさまじく、肉に乗しかかられて動けなくなるかんじ。
肉や皺を貫いて骨も通り越して、ごりごりと固い存在そのものに到達してしまったかのような、異様な重さでもってそこにある絵画たち。
Kate Mossのはありませんでした。
上半期の展覧会、もんくなしのベスト。 カタログは当然、ハードカバーのを買う。
そのまま横の展示スペースで、"The Queen: Art & Image"というのも見る。
Diamond Jubileeおめでとう企画(たぶん)で、エリザベス女王の肖像あれこれを50年代からざーっと集めて並べてみる。
ちなみにLucian Freudのチケットは、£14、こっちは£6。
50年代の、即位した頃の貴族か!(貴族だよ)みたいにかっこいい肖像画とか、Cecil Beatonの有名な王室アルバムはもちろん、年代順にいろんなアーティストの餌食になりつづけたその姿にはひれ伏してしまうしかない。 そういうのに加えて、これまでそこらのガキに教科書の写真に落書きされたりした分も含めて「アート」にされてしまった肖像の規模としては世界いちなのではないか。
もちろん、Jamie Reidの"God Save The Queen"のシルクスクリーンだって、ある。
他にはAndy Warholがあり、Gerhard Richterがあり、さっき見ていたLucian Freudもある。
(Lucian Freudの展示会場のほうには、彼が女王様を描いているところの写真だけあったの)
あとはHiroshi Sugimotoによる肖像写真(しぶい)、いちばん最近だとAnnie Leibovitzのが。
ほんとすごいなあーと思って。
半世紀以上、ここまでいろんな芸術のネタを提供しつづけたアイコンて、前代未聞だよね。
だからこその女王様、なんだろうけど。
あと100年くらい生きてくれたらすばらしいのに。
がんばれおばあちゃん、ておもった。
5.29.2012
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