5月22日、木曜日の晩、Wyndham's Theatreで見ました。
Ewan McGregorの17年ぶりのWest End出演となる舞台。
原作はイプセンの”The Master Builder” (1892) - 『棟梁ソルネス』をLila Raicekが脚色して、Michael Grandageが演出したもの。
舞台は最初ガラスの骨組みのような構造物がPhilip JohnsonとかRenzo Pianoのそれのように聳えて光が注いで神々しく、それを背に建築家のHenry Solness(Ewan McGregor)が10年前に焼け落ちた礼拝堂を再建する仕事について情熱的に語る - この礼拝堂はまるでDavid Bowieなのだ!- って”Moonage Daydream”がじゃーん、て流れる(…よくわかんない)。
現代のNYのハンプトンの彼の自宅 - 背後にビーチがあって明るくてモダン - で、出版社に勤める妻のElena (Kate Fleetwood)がゲストを招いたパーティの準備を進めていて、ゲストにはHenryのライバルに近くなってきた弟子のRagnar (David Ajala)や彼と付き合っているらしいElenaの部下のKaja (Mirren Mack)がいて、Kajaがゲストとして招いたMathilde (Elizabeth Debicki)がやってきて目を合わせるとHenryの様子が変わって冒頭の自信に溢れた姿とは別人のようにおろおろし始める。HenryとMathildeは10年前 - 礼拝堂が焼け落ちて、彼の息子が亡くなった年 - に出会って一瞬で恋におちて、その後は離れてそのままになっていた。
ふたりのどちらもはじめは再会にややうろたえて(あとで忘れるわけないだろ.. って言う)、少し落ち着いてから陰でこそこそ会って、それぞれの10年間について語り合い – Mathildeは”Master”っていう小説を書いていたり、Henryは美しくなったMathildeに骨なしのめろめろに溶けて崩れて、もう建築も家庭もどうでもいい、ってなりかけるのだが、ふたりの雰囲気が盛りあがってくるといちいちElenaが割りこんできたり、そうこうしているうちにパーティが始まって、Henryにとっては新プロジェクトのお披露目に近いものだし、Elenaはこの機にHenryと社交界での自分の地位を揺るぎないものにしたい、と張りきっているのだが、MathildeにやられてしまったHenryにはどうでもよいうわの空になっていて、その反対側でMathildeとの間のこともお見通しのElenaは、この機会にすべてまっさらになって頂きましょう、くらいに思っている。
みんなから尊敬され、地位も名誉もたっぷりあった建築家がすべてをぶち壊して落っこちて瓦礫に埋もれてしまう話、「棟梁」 - カリスマ建築家とは思えないくらいピュアなHenryと、10年前の喪失も含めて彼をいろんな情念込みで繋ぎ留めて支えてきた妻Elenaと、Henryと同じように空っぽの10年間を過ごしてきたMathildeの三角関係の行方は、真ん中にいたHenryが”Master Builder”とは思えない勢いで踏板を踏み外して間抜けに簡単に落っこちてしまって、最近はそういう事案もいっぱいあるから驚きはしないものの、お話しのバランスとしては、Elenaの孤独と怒りのほうがやや際立っていて、これでよいのかしら? だったかも。
Ewan McGregorは、Obi-Wan Kenobiが10年前に堕ちたダークサイドから抜けたと思ったら割と簡単にやられてしまう話、として見れば、それなりに趣き深く、彼も舞台なれしているかんじで素敵で、それよか、それ以上にElizabeth Debickiの、あのキリンみたいにひょろっとした容姿が驚異で、しなやかな珍獣としか言いようがないのだった。足の指までなんであんなに長いの?
イプセンと言えば、5月8日の木曜日に、Lyric Hammersmith Theatreで”Ghosts” (1881)の半分だけ見たのだった。
この日は短期滞在した日本から戻ってきて、ヒースローに16:30に着いたのだが、Paddingtonから先の地下鉄が全然動いてくれなくて、おうちに着いて荷物を置いて、そのまま外に出たらシアターに向かう地下鉄もやはりのろのろ運転で、シアターに駆けこんだのは19:45、15分遅れだから入れてくれたっていいのに、ダメで、休憩後の21時くらいから後半パートだけを見た - 見ないよりは見たほうがよいから。
発表当時、テーマの過激さ(性病、自殺、安楽死、など)から発禁処分をくらった劇で、現代のシンプルなリビングとソファを中心に静かに展開していく母と息子の地獄絵は、現代ならそんなに過激ではないように思われた。その週末で終わってしまったので再見できなかったのが残念だった。
5.29.2025
[theatre] My Master Builder
5.27.2025
[film] Flickorna (1968)
5月17日、土曜日の午後、BFI SouthbankのMai Zetterling特集で見ました。
英語題は”The Girls” (日本では公開されていないの?されていたらごめんなさい)。
上映後に研究者を含む3人の女性によるディスカッションがあった - がこちらは略。
監督はMai Zetterling、脚本はMai Zetterlingとパートナーの英国人David Hughes。
原作はアリストファネスによる古代ギリシャ劇”Lysistrata” - 『女の平和』(411 BC)。
公開当時、Simone de Beauvoirがル・モンド紙で"The best movie ever made by a woman"と絶賛した、と。2012年にはスウェーデン映画のオールタイムBest25の1本にも選ばれているそう。
Liz (Bibi Andersson)、Marianne (Harriet Andersson)、Gunilla (Gunnel Lindblom)の3人の舞台女優がいて、彼女たちの所属する劇団が”Lysistrata”を上演するツアーに出ようとしているところで、でもそれぞれに既婚の恋人を置いていったり、子供の世話を頼めなかったり、夫から文句を言われたりいろいろあって、ツアーに出たら出たで、劇の最中は、多くの男性客が寝ていたり無表情だったりがひどくて、劇のテーマがきちんと伝わっているかどうかわからなかったので、、終演後、客席に残って少しトークをしませんか? と客席に呼びかけても雰囲気が微妙に、男性はまた無表情に戻って、要は女性に指示されたりが嫌なようで、それなら女性客だけを相手にするか、とかいろいろ話して、それでも男性たちからは早く家庭に戻ってきてくれとかうるさいので、もう別れるしかないな、になっていく。
女性たちが女性たちのための芝居をやる、それも紀元前に書かれたようなクラシックだし、職業として劇団に参加している以上ツアーなんて普通にあることなのに、始まる前からも始まってからも何かを言ってやりたくて我慢できない - 家を長期間留守にすること、夫の相手をしないこと、子供の相手もしないこと、夫のよく知らない技術でもって自分の仕事をしてお金を稼ぐこと、などに異議いちゃもんを唱えたい男たちがいて、あらゆる角度から首を突っこんできて従わせようとする。
といったことが振り返って見ればよりはっきりと見えて、それってアリストファネスが劇のなかで書いた時代のとなにひとつ変わってないのにあきれる。自分たちのことは一切言われずに容認されてきた男性たちが、そういう自分のありようを振りかえることなく平気ででかい顔をしていられる、ということに。
1968年、という年を反映したドラマでもあるのだろうが、68年ですらこの地点か、というのとそこから50年を経ていても大差ないな(後退しているんじゃないか?)とか、でも原作上演時からだと2436年経っているんですけど… とか。 ならいいかげん諦めたらどうだ、って平気な厚顔で言ってきそうな今日この頃が、笑えるような笑えないようなトーンで描かれていて、トータルではやはり、ぜんぜん笑えない – 笑うべきなの?
Älskande par (1964)
5月18日、日曜日の午後、BFI Southbankの↑と同じ特集で見ました。
英語題は”Loving Couples”。邦題は『歓喜のたわむれ』(←ポルノか..)
監督はMai Zetterling、彼女の監督としての長編デビュー作で、同年のカンヌにも出品された。原作はスウェーデンの小説家Agnes von Krusenstjerna(1984-1940)による同名小説 (1933)で、Mai Zetterlingは後の監督作”Amorosa” (1986) - 未見 - で彼女の人生を映画化している。
第一次世界大戦が始まる前のスウェーデンの古く重厚そうな病院に3人の女性(Harriet Andersson, Gunnel Lindblom, Gio Petré)が出産のためにやってきて、悲しんでいる女性、苦しんでいる女性、浮かれている女性それぞれで、彼女たちがここに来るまでにどんな生や家庭環境を経たり交錯したりしてきたのか、結婚と出産は繋がっているのかいないのか、等を、フラッシュバック、フラッシュフォワードを繰り返しつつ置いていって、歓喜も辛苦もひとそれぞれなのだが、共通の通過点として描かれるのが1914年の白夜の晩の出来事で、白夜映画といえば思いだすベルイマンの“Smiles of a Summer Night” (1955) - 『夏の夜は三たび微笑む』ほど明るくもおめでたくもないのだが、やはり悲劇的なところも含めてなだらかで大らかに見えるところもあり、それは監督も語っているようにスウェーデン的、なものなのかもしれない。
主人公として複数の境遇にある女性を置く、というのは↑の”The Girls”と同様だが、”The Girls”ほどメッセージに重心を置いていない分、(原作のトーンなのかも知れないが)物語の複雑さが前に出てきて、こちらの方がのめり込むようにして見れたかも。
俳優として彼女の出演した英国映画を中心に見てきた後に、これらの監督作(の初期)を見ると、なぜどうしてここまでのものを? というのは探りたくなるかも。
[film] The Green Man (1956)
5月18日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
大きいスクリーンでクラシックを見よう、の枠で、BFI所蔵のArchive 35mm Printでの上映。
アメリカの50年代の映画がなにを見てもそんなに外れないのはイギリスの50年代についても同じで、有名なEaling Stidioのは勿論、他のヨーロッパの国々に負けないように国の威信をかけた産業としてやっていたのと、演劇の伝統もあるのでよい脚本と俳優がいくらでもあったとか、とにかくおもしろいんだって。
犯罪巻き込まれすっとぼけコメディで、監督はRobert Day、ノンクレジットでBasil Deardenがサポートしている。元は舞台劇 - “Meet a Body”を元にしたもの。
Harry Hawkins (Alastair Sim)は爆弾を使っていろんな殺しを請け負ってきたプロの殺し屋で、でももう老いたので次ので終わりにしようとしている。今回依頼を受けたターゲットはSirの称号をもつビジネスマンで、まずその秘書の女性にアプローチして彼がタイピストの女性を連れて週末に海辺のホテル”The Green Man” - なんでこれがホテルの名前なの? - に滞在することを知ると、自分の棲家に戻って爆弾の製造と準備を始める - のだが嫉妬に狂った秘書がHarryの家まで乗りこんで来て様子を見られたので始末したら、それをたまたま隣にやってきた掃除機のセールスマンWilliam Blake (George Cole)とその家に新婚で暮らす予定だったAnn (Jill Adams)が何かを察知して、彼らの勘違いも込みでの大騒ぎの追いかけっこが始まるの。
誰も事態を正しく把握しないまま大変だぁ、ってそれぞれ勝手に騒いだら、それが延焼して手がつけられなくなって、パニック起こして目を瞑って大振りしたらたまたま当たっちゃった、みたいに転がっていく痛快捕物劇、そんなに悪玉に見えない犯人(とその助手)はほんとついてなくてざんねーん、みたいな、昔の赤塚不二夫の漫画みたいなオチの。
要領が悪くて融通が利かない困った英国人たちをそのまま野に放って好きなように振るまわせると暗殺の企てすらこんなおかしく捩れてなんでこんなことに… ?になって、でもそれがあまり変なふうに見えない、どこが変なのかきちんと指摘できない、という底意地の悪いおかしさ - これも、掘ればなんでおかしいんだろう? ってなりそう - が底にあってとても納得する。
終わってみんな思わず拍手してしまうのだったが、どこが? と問われたらなんか固まってしまいそうなー。
The Man Who Finally Died (1963)
5月17日、土曜日の夕方、BFI SouthbankのMai Zetterling特集で見ました。
Mai Zetterlingが女優として出演した(でもそんなに出てこない)イギリス映画で、監督はQuentin Lawrence。1959年にTV放映されたドラマのリメイクだそう。これもBFIのアーカイブプリントでの上映。
ドイツ移民でイギリスに暮らしていたJoe (Stanley Baker)はずっと昔に死んだと思っていた父が亡くなった、というドイツからの知らせを受け、首を傾げつつ現地に向かうと、どこか胡散臭そうなvon Brecht博士(Peter Cushing)や 父と結婚していたというLisa (Mai Zetterling)が現れて、でも彼らに父の最期の様子を尋ねても普通の病死だった、としか言わないし、警察は煙たがるようにとっととイギリスに帰れ、とそればっかりだし、怪しげな保険屋は現れるし、カトリックなのにプロテスタントで葬儀が行われているとか、葬儀にLisaらが参列していなかったことまでわかると、父はまだ死んでいないか何かの事件に巻き込まれたのではないか、と疑い始めて止まらなくなっていく。
どことなくMorrisseyを思わせる風貌のStanley Bakerのエネルギッシュな動きと固い表情がすべてで、とにかく諦めないで父の墓まで掘り返してしまう強さと頑迷さが、戦後のドイツとイギリスのそれぞれのありようまで示しているような。
最後はあんなところまで転がっていくとは思わなかった。戦争で生き残ってしまった人々は、自分はどこでどうやって死ぬ・消えるべきなのか - “Finally Died” - までを常に考えていたということなのか、というのと、敵国だった国に戦後移民として渡っていった人々、自国に留まった人々それぞれの思いとか。
5.25.2025
[theatre] The Brightening Air
5月16日、金曜日の晩、Old Vicで見ました。
作・演出はConor McPherson、タイトルはW. B. Yeatsの詩、”The Song of Wandering Aengus”から取られたもの。その一節は 〜
“Who called me by my name and run
And faded through the brightening air”
Chris O’Dowdと昨年このシアターでの”Machinal”ですばらしい演技を見せてくれたRosie Sheehyの共演を見れるのであれば、と。
1981年(という設定の意味は不明)、アイルランドの北西のスライゴの田舎 - カーテンと光を使って農家のリビングの奥行きをうまく表現している - にStephen (Brian Gleeson)とBillie (Rosie Sheehy)が静かに慎ましく暮らしていて、他に元聖職者で盲目の彼らの叔父 Father Pierre (Seán McGinley) と家政婦のElizabeth (Derbhle Crotty)、あとLydia (Hannah Morrish)が入ってきて、ここに離れて暮らしていた能天気で調子良さそうな長兄のDermot (Chris O’Dowd)が若いFreya (Aisling Kearns)を連れてやってくる - というか彼のちょっとやかましい登場がそこに集まっている一家のいろんな事情や関係を明らかにしていく - 例えばLydiaはDermotの別居中の妻だったり、ElizabethとStephenは関係を持っているとか、Billieは隣家の若い農場主 Brendan (Eimhin Fitzgerald Doherty) に気があるとか。
全員がリビングに集まった状態、というより、入れ替わり立ち替わり数人単位でのセッションのような形での個々の会話が家族間で重ねられていく中で、いつまでこの家を、誰がどうやって維持していくのか〜誰が継ぐのか、適切な人がいないのであれば売るしかないのでは? みたいに余り楽しくない相続の話になっていく。 それを仕向けているのは金まわりがよくて家を出たもののなにかやばいことになって戻ってきたらしいDermotで、薄っすらやらなきゃ、と感じてはいたもののまともに向き合ってこなかった面々は、それぞれの形でこれからの人生に向き合って不機嫌になったり、怪しげな聖水にすがったり、てんでばらばらな反応を示して、でもどちらにしても明るくなる兆しのようなものはどこにもない。
おそらく誰もが親族での集まりがあったりした時などに経験しそうな面倒でとっ散らかった光景で、年齢とか長男長女とか子供がいるいない、などによる序列的なあれ - にもよるのだろうが、一族を引き裂くような修羅場とかお先真っ暗な未来、まではいかない、声の大きい奴が大きい声で何かを言って、他の人はまた始まった、って思って、こんなの退散するに限る、って、翌日には忘れる/忘れたいやつ。そういう時にテーブルに並んでいたものとかそこに射している光とか。
フーテンの寅みたいに愛想と調子はよくて、でも絶対責任とらない詐欺師みたいに軽いDermotの演技が絶妙で、チェーホフ的な一族の没落、どん詰まりからうまく逃れている反面、突然目が見えるようになって活力を取り戻してしまう叔父以外は、それぞれに先を見いだしたり思い直したり、その程度で何ひとつ一件落着には向かわないので、これでよいのかな? って少しだけ。始まりと終わりにBillieがガンジスの流れが〜 とか言いだすのもへ? って、なんかよくわかんないし。
リビングにはピアノが一台置いてあって、2幕目の終わりにはBillie = Rosie SheehyがRichard & Linda Thompsonの”A Heart Needs a Home”をぽろぽろ弾き語りして、それがすごくよかった。彼女、Yes (バンド)のTシャツを着ているのだが。
次回のOld Vicは、2017年のリバイバルでConor McPhersonの”Girl from the North Country”がかかるの。楽しみ。
Personal Values
5月14日、水曜日の晩、Hampstead theatreの地下の小さい方のシアターで見ました。
Chloë Lawrence-Taylorの劇作デビューで、演出はLucy Morrison、スタッフも含めてほぼ女性の二人芝居 - 終わりの方で男性が1名 - 約1時間の1幕もの。
客席とステージはほぼ同じ高さで、舞台となるフラットにはよく組み上げた、と思うくらいに本に雑誌、レコードの山とか箱、棚なのか階段なのか不明な段差、どこでも衣類や布切れがあって寝床にも椅子にもテーブルにもなりそうな山とか谷とか。誰かの部屋とか舞台セットとは思えない皮膚に近い親しみが湧いてくるほぼゴミ屋敷のようなところに、そこに暮らすBea (Rosie Cavaliero)と姉のVeda (Holly Atkins)が父の葬儀を終えてどしゃ降りのなか帰ってくる。
ふたりが会うのは久しぶりらしく、いろんな思い出話をして喧嘩腰になったり寝転がったりしながら、なんであなたはこんなゴミの中で暮らしているの? みたいな話になっていって、そして最後に…
あーそうだったのかー、になって、そのぽつんと寂しいかんじは悪くなかったかも。
5.24.2025
[film] The Accountant 2 (2025)
5月12日、月曜日の晩、CurzonのVictoriaで見ました。
前作では、会計士なのに「コンサルタント」って、屈辱としか言いようがない邦題を付けられてしまった2作目も同じタイトルでいくのだろうか? 誰も気にしていない? そんなわけないだろ、主人公のキャラクターは会計士だからこその - 常に緻密に計算して先を読んで最後に帳尻を合わせる – に沿ったもので、(最近の傾向として顕著な)有象無象なんでもありのコンサルとは職種としてぜんぜん違うんだから。
などと言っても前作”The Accountant” (2016)がどんなだったか殆ど憶えていなくて、それでもぜんぜんだいじょうぶなやつだった。 自閉症の会計士が凄腕の殺し屋なの。
原作Bill Dubuque、監督Gavin O'Connorは変わらず、撮影Seamus McGarveyも同じ。音楽はMark IshamからBryce Dessnerに変わっている。今年のSXSWでプレミアされた。132分、ちょっと長いかも。
冒頭でFinCEN(米国金融犯罪取締局?)の局長のRaymond King (J. K. Simmons)が殺し屋ぽいAnaïs(Daniella Pineda)と接触して写真に写っている家族を探すよう頼んだ後、待ち伏せしていた組織に撃たれて亡くなって、彼の腕に「Accountantを探せ」って書いてあったのを見た部下のMedina (Cynthia Addai-Robinson)が”Accountant”であるChristian Wolff (Ben Affleck)にコンタクトして、写真の家族がエルサルバドルからLAに来て、その背後に魚屋を頂点とした大規模な人身売買組織があるらしいことが見えてくると、こいつはやばいかも、と思ったのでさすらいの殺し屋をやっていた弟のBraxton (Jon Bernthal)を呼び寄せて、Anaïsは何者か、みたいな謎解きも少しはあるものの、後半はほぼ血も涙もないドンパチがどんどこ。
冒頭、マッチングアプリのアルゴリズムを解析したChristianがお見合い大会の現場に参加してえらい目にあったり、IDの特定とか敵の動きを探るのにニューハンプシャーの施設にいる自閉症の子達のハッキング集団(ややX-MENぽい)がリモートで兄弟を助けたり、前作よりは厚めで少しコミカルな色付けがされて、Ben Affleckも楽しそうに演じているようだし、ふたりだけで組織をぶっ潰していくところの派手めの突撃ムーブは昔の大風呂敷アクションもののようにも見える。なんでもかんでも端から虫のように殺していくJohn Wickの荒唐無稽さとはちょっと違う。
ただここまで武闘シーンがほとんどを占めてしまうと、彼がそもそも会計士である意味ってなんなの? になってくるかも。世を忍ぶ仮の姿、とか言ったってどっちにしても忍んでいるのだし。
“3”はAnna Kendrickが復帰するのであれば、やはり見たいかも。
Ocean with David Attenborough (2025)
5月13日、火曜日の晩、CurzonのMayfairで見ました。
Curzonの映画館チェーンの起点、この古くて大きな映画館もついに閉鎖が発表されてしまった。貴族の観覧席があったり、モダンクラシックな内装が素敵で大好きな映画館だったのにー。 観客が自分ひとりのことが過去3回くらいあったのでやはり客が来ないとしょうがないのかー。
Sir David Attenboroughの大自然ドキュメンタリーのシリーズはBBCでしょっちゅう見れるし、見ているのだが、これは彼の99歳の誕生日と6月の国連のWorld Oceans Dayに向けて、海での乱獲をやめよう、を明確に訴えていて、海も魚も好きだけど、乱獲はやめるべきだと思うのでー。
という太く強いメッセージはあるのだが、まだ明らかになっていないところの方が断然多い「海」として覆われている/覆っている世界の驚異と不思議が沢山切り取られていて、それを見ていく前半部分だけでも盛りあがるのと、後半では産業による乱獲で荒らされても守ったり人が手を引けばきちんと戻ってくる、っていう別の驚異が描かれる。楽観できるものではないし、その根拠も乏しいと思うけど、いまのままだと先がない。温暖化もそうだけど。
いま乱獲万歳をやっている企業の偉い人たちは今の業績&自分の先は短いからどうでもいい、のだろうが、最近は本当にそういうのが、そういうのに同意を求められるような空気も含めて嫌になっていて、サスティナブルとか、企業貢献の枠でしか見ようとしない企業人とか団体とか、みんな海の藻屑にだってお断りだから消えてなくなっちまえ、って。
この映画のDavid Attenboroughの柔らかいけど厳しい表情と迫力はなかなか迫ってくるものがあって、見習いたい。がんばってね。
5.23.2025
[music] Daryl Hall + Glenn Tilbrook
5月19日、月曜日の晩、Royal Albert Hallで見ました。
客層はやはり老人ばかり。H2Oを最後に見たのは前世紀 – 88年の東京ドームでずいぶん長いこと見ていなかったし、たまにYouTubeで流れてくる”Live from Daryl's House”のクリップも悪くなかったし、なんといっても今回はGlenn Tilbrookを一緒に見れるのなら、ということで。 このふたりの間にはElvis Costelloという人もいたりするのだが、さすがに彼は現れなかった。
19:30にまずGlenn Tilbrookが出てきて、バックに6人もついたのでなんか豪華だな、と思ったらDalyl Hallのバックバンドそのまま、なのだった - アメリカからずっとツアーで一緒だったのは知らなかった。
彼のソロがほとんど、相変わらずギターは巧くて、Squeezeの曲は"Black Coffee in Bed"と"Tempted"と"Hourglass"くらい、でもDifford & Tilbrook (1984)から"Love's Crashing Waves"をやってくれたのはうれしかった(12inchシングルもってる)。
休憩のあとに、さっきのバンドと一緒にDaryl Hallが登場する - 帽子を深くかぶって、サングラスで顔はほぼ見えず、2曲目に”Maneater”、3曲目に”Dreamtime”をやった後に右手のグランドピアノに移動してずっと座ったまま歌う。 本来であれば客を掴んであげるパートのはずの”Kiss on My List”~”Private Eyes”~”Rich Girl”あたりは、全然声が出ていなくて、バックバンドのコーラスにどうにか絡めていく程度。ところどころで金ラメ金長髪の幽霊みたいなCharles DeChantが背後からゆらーって現れて見事なサックスのソロを聞かせる。 それくらいなので当然野次も飛ぶし、帰っちゃう人も結構いるのだが、「言いたいことはわかるよ」くらいに返してて、おそらく本人も/本人が一番よくわかっているのだろう。
全盛期のH2Oのなりふり構わずの懸命なパフォーマンス– 当時の若者たちのアティチュードからすれば滑稽なくらいの勢いで80’sのプラスティックなポップスや60’s-70’sのスタンダード・ソウルに正面からぶつかって汗まみれになっていくところが彼らの、Daryl Hallの魅力だったのに、だからこそ”You Make My Dreams”はあんなに跳ねまわれたのだし、"She’s Gone"も"Wait for Me"も”Everytime You Go Away”もあんなに切実に痛切に響いたのに、今回のあれじゃ場末のバーでじじいが泣きぬれているだけにしか見えない。
ここはオレの家(Daryl’s House)なんだから入ってきた以上は黙って聴け、なのだろうし、H2Oの話題を避けるかのように寄り添おうとするフィラデルフィア・ソウルも、滑らかなシーツとか真綿で優しく包んでおきつつ実は締めあげて束縛する、DV臭のするものが多い(気がする)のでそういう偏り(?)に沿ったものではあるのだろう。 John Oatsとの件も、詳細はわからないが彼のどういう気質が招いた事態なのか、これを見ると察することはできる。
アンコールでGlenn Tilbrookが出てきて、一緒に”Pulling Mussels (From the Shell)”などをやる。改めて思ったのは、この曲はChris Diffordのあの低い声が裏にいないとだめなんだわ、って。
最後は”You Make My Dreams”だったのだが、いまの彼にそれを言われても、おじいちゃんよかったね.. にしかならないのが虚しかった。
自分も含めたいろんな老朽化に伴い、こういうライブも今後は出てくるのだろう。あーあ(老害)残念、で終わらせるのではなく、(向こうもこちらも)なんでこんなことに、をきちんと振りかえる機会としたい。だってそれなりに時間をかけて真面目に大切に聴いてきたのだからー。
そういえば、Squeezeが昨年前座を務めたThe Whoのドラムスの件、あれはZakがわるいのでもPeteがわるいのでもなく、いまのThe Whoにきちんとしたベースプレイヤーがいないのが原因だと思うの。
5.21.2025
[film] Desperate Moment (1953)
5月15日、木曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
5月はここで、”Passion and All That Goes With It: The Films of Mai Zetterling”という特集があって、スウェーデン生まれで最初は女優として戦後のイギリス映画でも活躍し、60年代以降は映画監督として女性映画を中心にいろいろ作っていったMai Zetterling (1925-1994)の生誕100周年を記念した回顧特集が組まれている。自分にとってTom Cruise特集よりは見たいやつなので、がんばって追っているのだが、なかなかの数があって大変(どれもおもしろいけど)。
これは彼女が女優時代に出演したイギリス映画で、監督はCompton Bennett、原作はMartha Albrandによる同名小説(1951)。 BFI Archiveにある35mmプリントでの上映。
第二次大戦終了直後のドイツで、オランダ人でレジスタンスとして活動していたSimon (Dirk Bogarde)はイギリス兵を殺した疑いで終身刑を言い渡されて収監されていたが、亡くなったと思っていた恋人のAnna (Mai Zetterling)が生きていたことを知ると、脱獄して彼女の協力を得ながら自分は殺しに関わっていないことを証明できる戦時中の同僚を探して廃墟となったベルリンを彷徨っていく。
でも証言できる人物は同じ小隊にいた3人に限られていて、Simonが訪ねていくと殺されていたり、既に家庭があるので関わりたくない、って身を引くのもいたり、他方で脱獄囚である彼への包囲網も狭まっていって、追われながら追いかけていく – そして誰にも身の上をわかってもらえない時限サスペンスのスリルが”Desperate Moment”としか言いようのない緊張を生んで転がっていくのと、とにかく事態の進展(というのか後退なのか)と共に険しさと暗さを増してなりふり構わなくなっていくDirk Bogardeの必死さがよいの。
あとは、終戦後のベルリンの廃墟と瓦礫だらけの明暗のなかでの手探りみたいに道を越えたり建物に入っていったりする絵がすばらしい。あんななかで逃げた男を探したり、証人を探したり、たったひとりで逃げまわりつつも恋人と会ったり、想像しただけでぜんぶムリ、になる。
The Haunting (1963)
5月10日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。定期でやっている大きい画面でクラシックを見よう、の枠で。
監督はいまCinémathèque françaiseで特集をやっているRobert Wiseで、大ヒットした“West Side Story” (1961)のふたつ後に、モノクロのこんな地味なのを撮っている。原作はShirley Jacksonの小説 - ”The Haunting of Hill House”(1959)で、Martin Scorseseは彼のホラーのオールタイムのNo.1にこれを挙げていて、1999年にJan de Bontが同じ”The Haunting”のタイトルでリメイクしている。邦題は『たたり』。
はじめにマサチューセッツにあるその屋敷に過去起こった禍々しい出来事 - 娘はずっとひとつの部屋から出ないまま生涯を終えたとか、家を継いだものは次々に首をつったとか – が語られてDr John Markway (Richard Johnson)はこれらの超常現象(としか思えない)の原因を探るべく調査団を組織して、屋敷に乗りこんでいく、という今となっては割とふつうのお化け屋敷設定ホラー。
メンバーには子供の頃にポルターガイストを経験したらしいEleanor (Julie Harris)とか霊能者だというTheodora(Claire Bloom)とか、なんで? って突っこみたくなる人選だったり、そのせいか彼女たちが部屋に入っただけでいろんな音が鳴ったり変なことが起こったり、それは屋敷に起因しているというより、彼女たち個人の問題なのでは、みたいに緩い態度でのらくらしている男性研究者(なの?ぜんぜんそうは見えないけど)に原因があるような。
亡霊や人の影が見えて、それが知っている人だったりしたらやはりそこに留まってしまうのかも、だけど、この作品のようにどこに位置してどういう建付けなのかよくわからない壁に囲われた部屋のなかで起こる超常現象はやかましい音も含めて明らかに「超常」なだけで、その見せ方はちゃんと怖いので夜中にこんなの起こったら泣いて逃げるしかないな、なのだが、それならやっぱり逃げちゃえばいいのに、なんで留まってがんばってしまったのか、その辺がずっと引っかかってしまうのだった。
Theodora - Claire Bloomの衣装はMary Quantので、お化け屋敷でそんなの着ても.. とか。
配送ミスだのなんだのが重なって注文してから3ヶ月くらい経っていた本棚(大)がようやくフラットに届いて、でも床などに積んであったのを並べてみたらあっというまに埋まってしまったので憮然としている。あと1年はどうにか保たせなければ。