10月25日、日曜日の昼、ル・シネマ渋谷宮下の9Fで見ました。
システムのメンテナンスでずっとオンラインでチケットが取れないので窓口で買った。
カナダのSophy Romvariの作・監督長編デビュー作で、ハンガリー・カナダ共同制作。監督がヨーク大学の修士修了で作った短編ドキュメンタリー”Still Processing” (2020) – 未見- が元になっているそう。
90年代半ばのバンクーバー島で、道路脇の一軒家に車に乗った一家が越してくる。母(Iringó Réti)と父(Ádám Tompa)と小学生低学年くらいのSasha (Eylul Guven)と二人の兄弟と、他の子達より少し年長のティーンで父親がちがうJeremy (Edik Beddoes) の6人で、父は会社には行かずに家のPCでプログラミングのようなことをしていて、全体としてはとても静かな家族。両親は、子供たちの前では英語、彼らに聞かれたくない内容の時はハンガリー語で会話をする。
そのうち、家族がとても静かに見える背景には、ひょろっとしてメガネをかけてたまに薄笑いを浮かべる程度で殆ど喋らないJeremyの何をしでかすかわからない厄介な挙動、存在があることがわかってきて、万引きで捕まって手錠をかけられて帰宅したり、壁をどすどすやっていたり屋根に登っていたり、ずっとどこかに消えてしまったり。その度に父と母は口論になるので家族は静まり、医者や外部からやってきたソーシャルワーカーがいろいろ言うけど - どっかに移す“voluntary placement”とか - 原因も対策も的を得たなにかのようには思えない。
他方で、家族みんなで博物館に行ったり、暗室で写真を現像したり、水遊びをしたり、やはり静かではあるが楽しい思い出もいくつか描かれるので、どこにでもある家族の斑な思い出、不安定でも途切れず続いていく、いこうとする何かはみんなの中にある。
映画はそのトーンを変えることなく、気がつけば現代に飛んで続いていて、映像作家であるらしい女性がオンラインで療養士や専門家の意見交換を聞いたり、アーカイブの箱を開けてみたり、そのうちその中心にいるのが成長したSasha (Amy Zimmer)であることがわかる。彼女はJeremyがどうしてあんなふうだったのか、なにが彼をあんなふうにしたのか、あの時、家族はどうすればよかったのか、自分にできることはなかったのか、をいまだに踏みしめるように追っていて、そのうち彼がもうこの世にはいないことも明らかになるのだが、でもそれでも… という静かな思いに彼女とカメラは引っ張られているよう。
家族みんなで博物館に行ったときに聞いたBlue Heron(アオサギ)の大きくなるとどこかに飛んでいっちゃいます後はどうなることやら、という、その生態、何を考えているのかまったくわからない顔(サギ類って本当にそう)がJeremyに重ねられて、どうしたものか、どうすることができようか、が改めて浮かぶ。アオサギ、京都にいくとよく見るけど、あんたいっつもそんなふうで、なに考えてんの? しかないよね。
小さい頃の不安定だった家族との思い出を撮る、成長してから振り返る、というと”Aftersun” (2022)を思いだしたりもするが、あそこまでエモや情愛に溢れていないし、Paul Mescal(的な人物)が引っ張ったりするわけでもない。淡々と振り返って、あれこれ重ねていくだけ、だけなのに/だけだから、助けてあげられなくてごめんね、また会いたいよ、がじんわり迫る。でもアオサギはどこかに飛んでいっちゃった。
JeremyはPearl Jamの曲から取ったのかしら? って少しだけ。
11.01.2026
[film] Blue Heron (2025)
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