11.04.2026

[film] The Ozu Diaries (2025)

10月29日、木曜日の晩、ル・シネマの7階で見ました。

昨年のヴェネツィアでプレミアされ、同年のTIFFでも公開された小津安二郎の評伝ドキュメンタリー。
脚本・監督・編集はアメリカのDaniel Raim。 139分。

本作の上映に併せて、小津の作品も日替わりで上映されていたのだが、昼間なのでほぼ見れていない。
この秋はTIFFで溝口を見れて、ここで小津も見れて、それだけで十分なはずなのに、なんだか落ち着かないねえ。(落ち着け)

小津の映画(のどんなやつでも)を最初に見た時の「なんか変なものを見ちゃったかも…」のモヤモヤした違和感のようなやつ、その後にやってくる(こともある)「感動」(カッコ付き)のあれらって、なんなのか? って「日本人」にも湧くやつなので、「外国人」には余計わけわかんないかもしれないよね、という辺りをその「外国人」がものすごくきちんと振り分けて並べてインタビューやコメントも取り付けたり、この辺かも、と提示してくれるので、とても勉強になる。 日本人だと面倒だったりかえって畏れ多くてできないようなことなのかも。 こんなのNHKがやれよ、はちょっと思うのだが。

もはや見ることが叶わないものだらけのサイレント期から、召集されて中国に渡った戦時のことから、帰還して再び映画を撮り始めて巨匠となっていくまでを彼の日記や現存する資料、関係者インタビューなどを通して明らかにしていく(被さってくる小津や野田高梧の声は大堀光威、田中絹代の声は中井貴惠、等)。 インタビューコメントは映画監督として黒沢清、Wim Wenders、Luc Dardenne、Tsai Ming-liangなど。 俳優として香川京子、子役として『麥秋』に出ていた城澤勇夫など - 子役の話はおもしろいねえ。

わりとスムーズにエモを直撃してくるのでわかりやすい(と自分が思う)溝口とか成瀬以上に、画面(の隅とか奥とか)に映っているもの、目線の高い低い、それらが時間の長さ配分も含めてどう、どんなふうに映っていて、それらがなんであんなにいつまでも頭の隅に残って、場合によっては感動してしまったり、その不思議に迫っていくなかで、小津自身の言葉よりも彼の描いた絵(かなりびっちり)とか、野田高梧と蓼科の山荘に籠って一升瓶を延々あけ続けたとか – ものすごく時間を掛けて描いたり書いたりしていた、という辺りがおおー(やっぱり)って。 映画がアート、芸術と呼べる何かなのだとしたら、それはこれこれこういう要素で成り立っているから、が説明できている気がする。

あと、女性に対する扱いの酷さについて、溝口や成瀬だとストーリーの真ん中に女性の過酷な運命や道行きを置いたりするけど、小津だと『風の中の牝雞』 (1948)はすごい(ひどい)けど、それ以外はものすごく巧妙に画面デザインや会話のなかに溶かしこんで配置しているイメージがあって、その辺を女性の目線で掘り下げたものをみたい。それがどうしてどうなって(主に男性の、じじいの)「感動」に繋がったりするのか、も含めて(もうあるのかな?)。 小津研究 - 小津を掘ってすごいぞ、って語るのって男性ばっかりのイメージがある。


非常線の女 (1933)


10月18日、日曜日の午後、ル・シネマの7階で見ました。
サイレントで、ピアノ伴奏は天池穂高。原案は「ゼームス槇」名義で小津安二郎。

昼間は都会の大手の会社でタイピストとして働いて、その会社の御曹司の専務と金目当てで付きあったりするモダンな時子(田中絹代)は、夜/裏ではやくざの襄二(岡譲二)と暮らしてて、そのグループに加わった青年宏(三井秀夫)の姉 - 和子(水久保澄子)と出会った襄二が、彼女のふつうの佇まいにが惹かれていくのに頭きて和子のとこにいったら、あらよい人じゃないの、ってあっさり自分も足を洗うことにするのだが…

タイトルからしてギャング、ノワールっぽいし、スチールもこちらに向かって銃を構えた田中絹代だし、画面構成のモダンな意匠もそこに沿ったものだと思うのだが、結末以外は、なんだかrom-comじゃないの、と思って見てしまう。 昼夜の二重生活 – 夜はかっこつけてもぜんぜんギャングに見えずにかわいくなってしまう - とか、やきもちから始まって堅気になろうと簡単に思って走りだしたりとか。 正式タイトルは「わたしのなかの非常線」あたりではないか、とか。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。