11.04.2026

[film] ゴジラ -0.0 (2026)

11月3日、文化の日の晩、109シネマズの二子玉川のIMAXで見ました。
(なんかむかむかしているので先に書いて片付ける)

英語題は”Godzilla Minus Zero”。『ゴジラ-1.0』(2023)から2年後の世界を描いた直接の続編で、監督・脚本・VFXは前作と同じく山崎貴。
NYFFでプレミアされて、英Sight and Sound誌の最新号の表紙にもなっていたり海外での注目度も高そう。 以下、ネタばれしていま。

前作は終戦によりすべてを失って「ゼロ」になった日本がゴジラの登場により「マイナス1」になって、大戦の特攻で死ねなかったりした「マイナス1」の連中が掛け算で最後どうにか「1」にもっていく... そういう話だった。では今回の「マイナス0」とはなんなのか? ただの「ゼロ」とはなにがどう違うのか、など。

最初に宇宙から落ちてきた隕石が周囲の生き物をぱくぱく取りこんで一首の竜の「ギドラ」が生まれて暴れだし、災害対策を担当する機関の野田(吉岡秀隆)のところに話が持ちこまれ、管轄の米軍GHQは人は出さないけど機材は出すよ、って借りた戦闘機で爆撃したけどギドラには効かず、新参の気象学者の青山(長澤まさみ)の「プランB」で雷を落としてみたら黄金の三つ首のキングギドラに変態してどうしましょう… 更にゴジラまで蘇ってあらあら… というのが前半。

ギドラの正体を探る生物学者の村上(田中泯)は原爆で家族を失った苦しみと痛みを抱えながら、ギドラに対抗できるのはゴジラしかいない、ゴジラをギドラのところに持っていくには、ってパイロットの敷島(神木隆之介)とゴジラの細胞と共鳴できる妻の典子(浜辺美波)を使うしかないのだ、って(ボディホラーの方に振れたらおもしろくなったであろうに)。

制御不能に思える強大な力、それによる破壊に対し、人間がいかにして立ち向かい、コントロールできるところまで持っていくのか、という問いに対して、過去のシリーズが怪獣同士の本能とか生存競争、の辺りに任せていたところを人間が、日本人がどうにかするのだ、というのをコントロールできなかった原爆でマイナス1になった村上が考えて実行しようとする。

敷島はギドラの対応の最初から関わっていて、でも典子と娘の明子との生活を優先したいので、本当にこれを最後にしたい、これで数千人の子供たちを救うことができるのなら、とおいおい泣きながら作戦に同意するのだが、この辺からものすごく気持ち悪くなって自分はのれなかった。止めようのない何かがあって、でも身近な家族を守る、救うために立ちあがろう、って戦争や軍拡に向かう時に国が使ったロジックやスローガンといったい何が違うのか。 そしてあのラスト、米軍が追ってくるなか、やっぱり家族3人一緒でいよう、とかも今の与党の家族の方針とか徴兵の考え方に寄り添うものとしか思えない。

こーんな気持ち悪いことになってしまうので、断固軍縮で反核で! ならわかるけど、今回のはそっちの方にいかない。 海に消えたゴジラを冷戦に向けた最終兵器として保全・活用する決断をした米軍と、その方針に日本政府は従って足並みを揃えていくしかない。その流れで次作はあるのか… ヒットしたから絶対あるよね..

ドラマの筋、情念の流れとして、最後は村上がゴジラやアメリカと刺し違えるのかと思ったらそうはならないし。途中からこれは”Digger” (2026)みたいにぜんぶ田中泯の舞台でした.. だったらおもしろいのに、と思ったのだがそれもなかったし。

あと、どうでもよいけど、エキストラで逃げたりしている日本人みんな結構太っているよね、孤児施設の子供たちの肉付きも割とよいし、銀座和光の屋上でがんばる政府の人たち – あれで吹き飛ばされないのも不思議だけど、いつの間にかみんな包帯したり絆創膏していたりとか、あのオレンジの革ジャンはなに? とかそういうあたりでシラけてしまった。あと芝居 - 台詞のやり取りが全般にぜんぶださいし。

怪獣同士が戦うシーンは、IMAXで増幅された迫力はあるけど、流れがないというか。とにかく前作も今作もゴジラが不格好で不細工すぎて、そこにちょこちょこ人間たちが挟まってくるのがつらい。 怪獣たちの絵としてはアメリカのMonsterverseの”Godzilla” (2014 film)と”Godzilla: King of the Monsters” (2019)あたりのが断然好きだったかも。

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