12.31.2014

[log] 年のおわりに

まだ書いていない映画とかいくつか(あと8くらい..)あるのだが、一年の最後の日になってしまったので、なんか年の瀬ぽいことでも書いてみよう。

30日は、2013年の暮れにやらなきゃと思って2014年の初めに実行する予定のまま1ヶ月が過ぎ2ヶ月が過ぎとうとうここまで来てしまったやつについに着手した。着手することをこの1年ずっと夢みていたんだからね、と、これだけは言っておく。 俗にいうところの大掃除、ていうやつね。

どうやって攻めるのか、とか、なにから始めるのか、の計画から入るとぜったい頭がしろくなったり眠くなったりして頓挫するので、まずは手を動かすこと目標で。 あと、中身を確認するのはよいが読みはじめたらぜったいだめよルール、もつくった。 
ごご12時半くらいから、Wilcoの”Alpha Mike Foxtrot” - CD4枚分をiPodに落としたやつをBGMに、やろうどもやっちまえー(... 反応なし)、てはじめた。

結果: CD4枚ぜんぶ終っても終んなかったので、4時くらいにいったん撤収。
(31日も夕方2時間くらいやった。焼け石で部屋があったまったくらいよ)

約3時間半の工程はだいたい以下のようなかんじだった;

①捨てるものを一箇所に固める → ②まとめるものを一箇所に固める → ③一箇所に固めたやつの山が増えていく → ④置き場所(作業のためのバッファ空間)がなくなる → ⑤置き場所をつくるために既存の山を崩す → ⑥更に場所がなくなる → ⑦しょうがないのでいくつかの山をマージする → ⑧山が不安定になって崩れる → ④に戻る → しばらくすると、④から⑧が散発的にループするようになって、片付けっていうのはええとあれか場所をつくることなのか山をつくることなのか、そもそもこれ、ぜんぜんお掃除になっていないんじゃないか、とかいろんな意見が噴出して収拾つかなくなったの。

あと、山が崩れてマージして積み直して、を繰り返しているとだんだんに同じサイズの雑誌とか同じ種類の本とかが寄って集まってくることがわかって、この現象になにか名前を付けてみたいのだが、どうか。

"Before"の写真はInstagramに載っけました - ただし、いちばんクリーンな界隈のみ。

ここまでで全体の半分くらいか。山の奥のほうとか深いところは来年かなあ。たぶん。

そもそもこれらの山の起源は諸説いろいろで、いちばん古くてわけわかんないのが、92年に渡米したときに運ばれた荷物が開封されないまま98年に日本に戻ってきて、その箱がなぜか再び2001年の渡米荷物に紛れこんで、同様に未開封のまま2006年に日本に戻ってきて、2011年のお引っ越しで遂に正式に箱から出された、そして積まれた、てやつ。
自分が箱のなかの本の精(or 虫か)だったらこんな持ち主ぜったい許せねえ呪ってやろうとおもう、はず。

こういうわけで、89年12月のStudio200のスケジュールとかスパイラルでのdumb typeの公演チラシみたいな、どこから湧いてでたのかわかんないのとか、入手経路はぜんぜん謎だけど、78年のMelody Maker誌とか、New York Magazineは93年頃のが出てきたりとか。
メカスの映画日記はなんで2冊もあるの? とか。

でもお片づけ、ていうのはそういう(再)発見をする機会とかイベントではないのよ。たぶん。

そもそも床に積まれてしまうやつ、ていうのは本来あるべき棚に収まりきれずに溢れたもので、そんなに沢山の本を生きている間に全て読むことができるのでせうか? (読みきれない本は処分しましょう)とか保健所の役人みたいなことをいう奴がいるけど、中指10本立ててけつまくってやれ。  死んだら読めなくなるなんて、誰が決めたんだよ? ぼくは読むもん。 (←びょうにん)

あと、でも、こんなつまんないこと書くヒマがあるのなら、塵のひとつでも拾って、埃の欠片でもぬぐうべき、ていうのは正論だとおもう。


ところで、こないだの10月で、このサイトも5年目に入り、更新の数も1000を超えたようです。
当初、顔と名前を知っている10人くらいの方々に向けたメモ、程度で始めたやつも、カウンターの数をみると、ものすごい数(自分にとっては)のいろんな方々にも見ていただいているようで、ありがたいというかごめんなさいもうしわけないというか (なぜひらがなになるのか)。

このテンプレートにも飽きてきたのでそろそろ変えたいかも、なのだが時間ないしIT疎いし。

今年は年初から仕事がすこし変わってばっかみたいに慌ただしくなってしまったので、書くペースを落とさないと、と抑えめにしていたのだが、そうしているとどんどん鬱憤が溜まってますますやってらんなくなるばかりだったので少し戻した。 どこかなんかまちがっている気がするが、他の解消策がみつからないのでしょうがない。 いやだなあこういうの、てずっと思いながら書いている1年でした。


ここまで読んでいただいた/いただいているみなさま、ありがとうございました。
よいお年をお迎えください。
来る年に少しでもよいことが起こりますようにー

12.30.2014

[film] Przypadek (1981)

20日の夕方、「現代娼婦考 制服の下のうずき」のあと、ポーランド映画祭に移動して見ました。
クシシュトフ・キェシロフスキによる「偶然」。英語題は“Blind Chance”。
やっぱり立ち見になってた。 ニッポンのひと、キェシロフスキ好きね。

81年に製作されたものの、当局の検閲にあって正式公開されたのは87年で、上映された版の途中にも「この箇所は検閲にやられて永遠に失われてしまいました」とかいう注記が出てきたりする。

主人公のヴィテク(Boguslaw Linda)が、ワルシャワに向かう列車に走って飛び乗ろうとして、①乗りこむことができた ②無理するなと駅員に制止されてつかまった ③諦めた の結果によって分岐する3通りの運命とか人間関係とか。
①では共産党員となって前途洋洋だったが、密告者として利用されて恋人を失ってあーあ、になって、②では地下出版の道に入ってキリスト教に入信するも手入れにあって周囲に疑われて居場所を失い、③では政治とは無縁の医学の道に進んで、これはうまくいきそうなかんじで飛行機で国外に飛び立つのだが、まさかこんなことになっちゃったりしてな… と思った通りのことが起こっちゃうのでびっくらして気まずい沈黙が。

3つの分岐の前、父の希望に沿って医者になることを目指してきたヴィテクは死期が近づいた父から好きにしていい、と言われて方向を見失っていて、分岐後、父のような存在による指導方向付けがなされて、後ろ盾となる組織ができて、親密で素敵な彼女もできて、でもそれらは彼の最初の選択、さらに遡ると出生みたいな地点から左右されていて、その後の行動も個人と組織/政治の間の相互干渉のなかで形作られていて、そういうのの総体として語られる「運命」のありよう、その不可思議さ微妙さが示される。

でもさー、あのときああしていればああなったかも、ていうのは後からいくらでも言うことができるし、その角度から眺めたその時の決断や選択が特殊な光を放つのはわかるけど、個人と状況が相互に影響しあうのはあたりまえのことだし、自分で決めて進む、ていうのも、運命に翻弄される、ていうのも、同じようなことの「言いよう」でしかないのだから、「運命」とか「ドラマ」における因果をそこまで強調するのってどうなのかしら、ておもった。 そういうことを思うのはポーランドの当時の「状況」の過酷さや圧力を知らないからだ、と言われればごめんなさい、なのだが。

そういうところもあってか、この作品でもっとも輝いてみえるのは、③に出てきた世界最強のお手玉使いのふたりなの。 彼らの生はいまここでどう動くべきか、のなかにしか、その瞬間にしかない。占いも総括も必要ない速度で生きること。 でもあれ、ほんとにびっくりした。すごい。

キェシロフスキ作品としては後の「トリコロール」のドライブの強さも「ふたりのベロニカ」- これがいちばんすき - の魔法もない、のだけど、彼の映画のもつ心地よい冷たさみたいのがストレートに伝わってきて、よかった。

とにかく駆け込み乗車には注意しないといけないの。

12.29.2014

[film] 現代娼婦考 制服の下のうずき (1974)

もう終ってしまったシネマヴェーラの曽根中生追悼特集より、日にちは別で見た2本を。

現代娼婦考 制服の下のうずき (1974)
21日の日曜日の昼間に見ました。

田端のほうのアパートで一緒に暮らすいとこのふたり - 真理(潤ますみ)と洋子(安田のぞみ) - 共に大学生 - がいて、真理のほうは「複雑」な育ちの娘で、母親は娼婦で孤児院から祖父のところに引き取られて、小さい頃に人を殺したこともあるという。  実家での序列 - 主従関係でいうと洋子のほうが上で、婚約者はいるわ車は持っているわ取り巻きもいるわで、反対に真理は常に蔑まれて疎まれて束縛されて、そういうなかで娼婦みたいなことをしたりされたり、真理の居場所はどこに? ていうのと、洋子のいる「場所」とはなにがどう違うんだ? ていうのと。 んで、洋子が真理を明日から自由に暮らしていいよ、て伝えた途端、真理は洋子を殺してしまうの。

こういうのを、ニッポンの血族における縛り抑圧、地方と都会、これらの境目で荒れ狂う魂や情念のドラマ(原作は荒木一郎、挿入歌は寺山修司作詞の『裏町巡礼歌』)としてべったり重厚に描くのではなく、ぽつんと建っているアパート、工場跡の廃墟、壊れたマネキン、クスリ、行きがかり手当たり次第のセックス、等々を散りばめた、二人の女子の対照図としてドライにデザインしてみせる。

ほぼ無表情 - 怒りの噴出も修羅場も居直りもない、なんの声も出せない(喘ぎ声に快楽や歓喜はない)、聞こえない状態 - 聞こえてくるのは廃墟に響くヘリの音、マネキンを引っ叩く音、飛び出しナイフの音 - ラストの殺しの音ですら洗車場の音にかき消されてしまう。
(俳優の演技力に期待できなかったのでそうせざるを得なかった、と監督の自伝本にはあったが)

で、そうして静かに進行してなにかを侵していく青春期の危うさと、性そのものが孕む主従や自由/束縛の不可視なバランスを見事にクロスさせた傑作だと思いましたわ。


性盗ねずみ小僧 (1972)
23日の昼間にシネマヴェーラで見ました。 併映の「性談 牡丹燈籠」は前に見たことがあったのでパス。

ポルノ時代劇で、脚本は長谷川和彦、セットは他作品のを転用しているので時代劇としてもちゃんとしているし、サイレントや臨時ニュースの挿入とかおもしろいところもある。「性盗」は「怪盗」にも「正統」にもひっかけてあるの。

次郎吉がおみつとやっていると御用御用の提灯が入ってきて、彼はしょっぴかれて牢獄に入れられて、そこからの回想になるの。 呉服屋の丁稚の次郎吉はからかわれて嘲笑われてばかりで、頭きておかみと娘を犯してそこを飛びだし刺青を彫って、そこからはお金持ちのおうちに押し入って寝ている女(達)を犯して黙っていてほしければ金よこせ、て脅してその金を弱者に与えるので義賊て言われる。

刺青屋で知り合ったのが金四郎で、彼は後の遠山の金さんになるのだが、こいつが実は権力の犬で、凋落していた幕府の評判を上げるために次郎吉をしょっぴいてやろう、とおみつを彼に近づけるのだが、おみつは実は次郎吉の生き別れになった妹だった、と。

虐待にレイプに強盗、肩書詐称などなど、悪行まみれなのにストーリーに暗さはなくて軽いかんじ、その展開よりもいろんなカットや仕掛けのほうがおもしろくて、自伝本のインタビューのこの映画を語る箇所で、カンディンスキー著作集の西田秀穂教授に学んだ、とあるのを読んでふうん、だった。 

もういっこ、同じく自伝本でパロディについて、安倍晋三のそっくりさんでポルノを作ればいい、て語っているところがあって、そうだよねえ、と思った。 「この道しかない!」とか「とりもろす!」とか「女性活用!」とか言って女性議員とやりまくるのに嫉妬したNHK会長が盗撮したビデオを国営放送で流しちゃうようなやつ。 ネタの宝庫なのにな。 “The Interview”は無理にしてもこれくらいのも作れないくらいみんな萎えちゃっているのかしら。

12.27.2014

[film] 女に強くなる工夫の数々 (1963)

年末休みなのに風邪ひいた。

20日土曜日の昼間、京橋の千葉泰樹特集で2本続けて見ました。
ネオ・フェミニズム勃発の2014年、改めて胸に刻んでおくべき昭和ニッポンのサブリミナル男根映画。 いや、映画としてはとってもおもしろいんだけど、ね。

女給 (1955)

真面目な会社員の順子(杉葉子)は恋人との結婚を控えてお金を貯めなきゃいけないのだが、なかなか貯まんないし、一緒に暮らしている母(旧華族の栄華に埋もれてなんもしない)の面倒もみなきゃいけないので、銀座のバー「クエール」(... うずら?)で夜のバイトを始める。 始めはただのバイトだから、て割り切れると思っていたし、割り切ろうとするのだが、根がまじめでがんばりやさんなのでついはまりこんで抜けられなくなっていくわかりやすい転落の件と、同じバーで、夫に先立たれ、ぼろアパートで一人息子を育てながら美容学校に通ってがんばっている先輩ホステス(越路吹雪)の淡い恋のおはなしと。

順子はまじめな役人を落とすために上から枕営業(溝口の「祇園囃子」とおなじような)を強要され処女を失って人工妊娠中絶、婚約は破棄となって全てがおじゃん、そこまでしたのに相手が逮捕されて稼いだお金も没収、結局なんだったのよ!!(怒)、になり、越路吹雪は亡夫の戦友だった上原謙(妻子あり)と再会してよいかんじに盛りあがるのだが、こちらもお金絡みですべて立ち消えて、最後はみんなで大喧嘩してこんな店しね! て飛びだすのだが、結局別のお店で働いていくことになるラスト。

「女給なのに」涙を拭ってたくましく生きる女性たち、を描きたかったのかもしれないし、ドラマとしてよくできているとは思うものの、やっぱしこんなのを基層に置いて「できあがっている」世界 - 21世紀になってもぜんぜん変わっていないよね - には中指を突き立ててやるべきなんだ。 

女に強くなる工夫の数々 (1963)

七光電器の宣伝部に勤める宝田明とそこの専属モデルの司葉子は恋人同士で、そこの部長が加東大介で、彼らがスポンサーになったTV番組「男性飼育コンテスト」ていうのの一回目。 エントリーした夫婦のうち夫の方が料理、洗濯、アイロンがけを時間内で並行してどこまでできるか、の出来映えを競うゲームで、結果だめだめだった男性陣 - 高島忠夫(こいつが優勝)、フランキー堺、有島一郎、加東大介(欠員が出て強制参加) - が慰労会をやっているとどこからか突然植木等が現れて、各自の夫としての、男性としての問題点を神のようにてきぱき叱って指導して、ついでに置いてあったお酒もぜんぶ戴いてすーだらすちゃらか消えて一同唖然、だったのだが、そこで指導されたことを家庭で実践してみるとあーら不思議、いろんなことが当たっていたり改善されたりびっくりで、そういうのを横で見ていた宝田くんは今後のことを考えてしまうのだった。

んでも結局、無責任やろう植木等の提言は有効だったように見えて、そんなでもなかった - つまりは妻のがいちまい上手だったり、愛っていうのはどっちかの上に立つことで成り立つようなもんではないことに気づいたり(そこに巧みに誘導したのは女性のほう)、だったりするの。

ほのぼの平穏に終っているように見えるけど、これにしたって、男は女より強くなければならないのにそうなれないのは何故じゃ? ていうオトコの鬱憤憤懣から始まっているのは問題で、やっぱしこんなのを基層に置いてできあがっている世界には(... 以下同)。

それにしても植木等が圧倒的にすごい。 ここだけでもじゅうぶん見る価値あるわ。

12.26.2014

[film] 自由が丘で (2014)

19日の金曜日、新宿で見ました。 あそこの、いつもホン・サンスをやる小さいスクリーンではなくて、公開直後だったからかでっかいスクリーンだったの。

スクリーンがでっかいと、なにかしらとんでもないものが現れるかと思いきや、まっ黄色のバックに水色のハングルがすいすい踊って、気がつくといつものホン・サンスの荒野が広がっているばかりだった。

英語題は“Hill of Freedom” ...
「三軒茶屋で」だと “Three Tea houses”、「二子玉川で」だと”Twin Ball River”になる、はずね?
前作あたりの邦題に倣って「モリーは待ちぼうけ」とかでもよかったのに。

タイトルがこれで、主演が加瀬亮だというので、てっきり自由が丘の餃子屋とかで酔っ払った加瀬亮が、そこらのむっちりしたマダムを落としまくるようなやつだと思っていた。… ちがった。

舞台は韓国で、そこのゲストハウスに日本人のモリ(加瀬亮)が滞在していて、彼は年上の韓国人の恋人に再会しにきて、でも会えないので「会いたいよう」とか「今日はこんなことをしたよ」みたいな手紙を書いては彼女に送りつけていて、「自由が丘」ていうのはモリが通う日本人が経営するカフェの名前で、へちゃむくれた犬がいて、犬は無愛想だけど女主人はひとなつこいの。

手紙を受け取ったexだか現だかわからないその彼女は無言で無表情で手紙を読んでいくのだが、途中で便箋をばらばら落としてしまって手紙の順番がわからなくなって、それに呼応するように映画のなかの話の展開も時間の順番がランダムに前後していって、それでも困惑することがないのは主人公がやけくそでだらだら無為に酔っ払ってばかりの日々を過ごしているからで、しかもその副読本が吉田健一の「時間」だったりするので、ロジックとしては鉄壁なの。 手紙のなかの時間、主人公それぞれが過ごしてきた積み重ねの時間、いま、あの界隈に流れている時間とそれに弄ばれるように抗うように酒に溺れる主人公たち、それらをすべて包括するかたちで語られる必ずしも不可逆とは限らない「時間」 - 傍らに置かれた文庫本。 67分という長さも丁度よい。

そんな待ちぼうけのモリの周辺に現れては消えるどうでもいい酒飲みの皆さん、時間の行き来に見え隠れするように酒宴のまわりを回ってだべってうだうだするばかりでものすごく非生産的で、すてきなの。 そうこなくちゃ、みたいに現れて消えて、なんの後腐れもない。 いいなあ。

ホン・サンスが吉田健一をどの程度まで読んでいるのかどうかは知らないが、なんかとっても親和性が高い両者であることはわかる。散歩、食べもの、お酒に読書、酩酊のサイクルぐるぐる。
それにしても、持っていた文庫の「時間」を「それなんの本?」て聞かれて英語ですらすら説明できてしまうモリ、なかなかのやらしい奴だわとおもった。

あとは、これはいつもだけど恋愛の予感とかざわざわ、みたいのを描くのはうまいねえ。モリがカフェの女主人と寝てしまうくだりなんか、時系列が分断されているなかで割と唐突に起こるくせに、こうなることは始めからわかっていた、みたいな感覚がぞわぞわやってくるのでしょうもない。 酒が出てきたならどうせ酔っぱらうでしょ、ていうのに近いかも。

そして、これもいつもだけど、キスシーンがエロい。 


今年のクリスマスソングは、あんましなかったかも。 これくらい。

http://video.vulture.com/video/Bob-s-Burgers-and-The-National

積ん聴き7inchの箱のなかから開封していないJohn Zornさんの2011年のクリスマスシングルが出てきた。ステッカーには”ADVISORY:  This music may cause extreme happiness, big smiles and feelings of euphoria for extended periods” てある。
A面の”The Christmas Song”、しっとりしたピアノに、それ以上に湿ったMike Pattonさんのヴォーカルが貼りついてきてたまんないやつでしたわ。

12.25.2014

[film] The Hobbit: The Battle of the Five Armies (2014)

14日の日曜日、チューリヒ美術館展のあと、六本木でみました。『ホビット 決戦のゆくえ』
3DのHFR(ハイ・フレーム・レート)ていうデジタルの仕様で、通常のが毎秒24フレームであるのに対してこれは毎秒48フレームであるという。 料金は100円高くなるの。

その効果は、あんましよくわかんなかったかも。やたら鮮明でスムーズで少しだけ疲れなかった気がした程度で、デジタル3Dで、ああいうバトル中心のものになると、どうしてもゲームみたいな仮想現実(既視)感がついてまわってしまうのは(こちらの頭んなかが原因かもだけど)しょうがないことなのか。

3部作の完結編で、1作目は見てなくて(こないだの出張のときTVでやっていたのを少しだけ見た)、2作目は見て、でも内容はもうほぼ忘れちゃったし。 復習のためにやってくれたってよいのに、前夜祭のようなオールナイトで1回やってくれた程度だったみたい。

前作のラストで目覚めちゃった極悪竜のSmaugがヒト族の町を襲ってそれをヒト族のバルドが最後の黒い矢を放って射止める、ここまでが導入で、竜の抑止力がなくなっちゃったものだから、その財宝めがけてそれは俺らのだからとりもろせ、っていろんな軍勢力が押し寄せてくるの。

それが原題の”The Battle of the Five Armies”で、5つの軍ていうのは、ドワーフと人間とエルフとどざえもんみたいな風体の邪悪なのがふたつ、の5つ、でよいのか。
その前に閉じ込められていたガンダルフが救出されたり、竜宮に残る邪念にやられて財宝に眩んじゃったドワーフの王子トーリンが面倒なことになっているうち、悪玉たちが闇の穴から大量に湧いてでて善玉軍は絶対絶命になるのだが、王子が漫画みたいに劇的に復活してじゃーん、てなるの。

戦闘シーンは地表をどかどか走って正面衝突が基本で、そのぶっとい迫力はなかなかで、それにちょっと飽きてくると空軍が加わってわーわー、てなって、クライマックスは岩山のてっぺんの氷の表と裏で、そんな動から静への移行もコントラストも悪くなくて、いろいろ考えたんだろうなあ。

でもそれぞれの軍のキャラクターとか戦いっぷりとかよりたまんなかったのは、ものすごくでっかい角のヘラジカとか鎧つけた巨豚とか兎の6羽だて兎車とか、そういう連中だったの。ぜんぶくすぐったいところを正面から突いてきて、あれにはやられた。 大ミミズも見たかったのに。

ダイバーシティ方面でいうとキーリとタウリエルの恋はかなえてあげたかったねえ。

しかしなんといっても、ヒトでいちばんすごかったのは怒りで顔面蒼白になったケイト・ブランシェットだった。 彼女と比べたらどさえもんなんて、“Blue Jasmine”なんて、数光年彼方にふっとばすようなおっかなさだった。

12.23.2014

[art] Masterpieces from the Kunsthaus Zürich

国立新美術館の「チューリヒ美術館展」、曽根中生のあとに乃木坂に移動して見ました。
東京の最終日のいちにち前、16:30くらいに入って約30分間。

見たいのはだいたい決まっていたから早いの。

セガンティーニ(Giovanni Segantini)にホドラー(Ferdinand Hodler)、といったスイス系と、
ムンク(Edvard Munch)の「エレン・ヴァーブルクの肖像」- “Ellen Warburg” (1905)にクレー(Paul Klee)に、なんといってもココシュカ(Oskar Kokoschka)の大きめの絵がいっぱいあったのでうれしかった。

「プットーとウサギのいる静物画」 - “Still Life with Putto and Rabbit” (1914) に
「恋人と猫」 - ”Amorous Couple with a Cat” (1917) に
「モンタナの風景」 - “Montana-Landscape” (1947) ... 「モンタナ...」はよかったねえ。

他にはイッテン(Johannes Itten)の「出会い」- ”The Meeting” (1916)とか、
アウグスト・ジャコメッティ(Augusto Giacometti)- がりがり君ジャコのいとこね - の「色彩のファンタジー」 - ”Chromatic Fantasy” (1914) - サイケ! とかも。

モネのでっかいのはべつにあんましー。
「ナビ派」がヴァロットンとボナールだけっておかしくないか、とか、”Post-Impressionism”が「ポスト印象派」なのはわかるけど、むかしは「後期印象派」って言ってなかったか?(←自分が古いだけでした)、とかブツブツはふつうにあったけど、全体にクールなかんじで悪くなかったかも。

それにしても、東京都美術館の「ウフィツィ美術館展」を逃したのは痛かったねえ。
年内に見ておかないといけないのは、あとどれだけ?