7.10.2021

[film] Supernova (2020)

 7月4日、日曜日の午前、日比谷シャンテ(ではないのかもう?)で見ました。
東京ではもうここともう一箇所くらいでしかやっていないの。地味だけど、とってもよい映画なのに。

関係ないけど、日比谷の地下から地上に出たらBuvetteがあったのでびっくりした。外観だけはNYのともパリのともぜんぜんちがう。日本に来るとそうなっちゃうのは諦めているけど、行きたいよう戻りたいよう、の最中だったのであーあ、って。

昨年のLFFで見逃していたやつはこれが最後かも。 冒頭にBBC FilmsとBFIのロゴが出てくるだけで泣きそうになる。 いっぱいの星空が広がって、真ん中あたりに強く瞬くひとつの星があって、すぐ後に消えるのが見える - これがSupernova。

英国の湖水地方の方で、ぼろいキャンピングカーで旅に出ようと車を走らせ始めるSam (Colin Firth)とTusker (Stanley Tucci)のふたりと犬のRubyがいて、Samが運転してTuskerが横でボヤいたり文句を言ったりしている。 SamはTuskerのやや棘のある言葉にイラついて返したりもするが、黙々と運転を続けて、ふたりのやりとりからこの旅はSamが無理やりTuskerを連れ出しているようなのだが、大喧嘩するような元気はどちらにもなさそうな。

途中でデリの脇に車を止めてSamが買い物をして戻ると、Tuskerがいなくなっていて、慌てて車で探しにいくと彼は道の真ん中で途方に暮れて突っ立っていて、そこでのやりとりからTuskerは早期の痴呆症を患っていることがわかる。更に、今回の旅に医師から処方された薬を持ってきていないこと、Samはピアノの演奏家で、Tuskerは作家で、ふたりはずっと恋人であることも。そして、これがふたりにとっての最後の旅になりそうな予感も。

やがて車はSamの姉の家に着いて、姉夫婦とその子供たち、地元の友人たちはふたりを暖かく迎えて、ふたりもSamの子供の頃のベッドに横になったり星をみたり寛いだ時間を過ごすのだが、SamはTuskerのノートと手紙を読んでしまい、その内容についてふたりは話し合う。

Tuskerは、自分で自分のコントロールができなくなる前 - 自分が自分でなくなる前に、どうしても自分であることを止めたいのだ、と言い(Samが読んでしまったノートには文章を書こうとして書けずに線のぐじゃぐじゃになってしまうその痕が痛々しく)、Samは君がなんと言おうとどうあろうと僕にとっての君は君だ、そんなこと言わないでくれ、って泣く。この静かな衝突の、でも互いにぜったい譲れないそれぞれにとってのあなたの像。

こないだ見た“The Father” (2020)の、どんなに症状が進んで自分がどこかに行ってしまおうが、自分が見る自分も他人が見る自分も”The Father”として圧倒的にそこにあるのだ、と言い切ったあの強さと比べると、このふたりが互いに曝け出して覆い被さろうとする弱さは、それぞれにどこまでも弱く、というかやさしくて、でもそれ故に揺るがないものとして迫ってくる。 “Still Alice” (2014)が最後に見せようとしたそれに近い、というか。いや、でもそんなのわかんないか - これはやっぱり彼らの、彼らだけのSupernovaのお話で、でもその光と闇は周囲の我々のところにも届くの。

Colin Firthのきりっと真一文字に結ばれた口元が少し歪んでから一挙に崩壊する瞬間が昔から好きで、Stanley Tucciの穏やかな笑顔がそのまま夢を見るそれに溶けていく瞬間が昔から好きで、そんなふたりの極上の演技を思いっきり浴びることができる至福。 最初はSamの役をTucciが、Tusker役をFirthがやる予定だった、というのはちょっと信じ難いけど。

音楽は最初にDonovanの“Catch The Wind”が軽快に流れ、Karen Daitonの“Little Bit of Rain”もよいかんじで、でも最後にColin Firthが(最初のほうは本当に)演奏するElgarの“Salut d'Amour”が沁みる。 昔から“Supernova”といったらLiz Phairさまの同名曲なのだが、やっぱり流れなかったわ..    


久々に陽の光を浴びたせいか、すごく眠い。ので寝る。

7.09.2021

[film] 結婚のすべて (1958)

7月3日、土曜日の午後、シネマヴェーラの新珠三千代特集で見ました。
誰もが知っている岡本喜八の監督デビュー作で、評判がよいのは知っていたけど見たことはなかった。

学生の康子(雪村いづみ)が主人公で劇団をやったりモデルをしたり活動的なのだが、冒頭でものすごく平凡普通のお見合い結婚をする兄(堺左千夫)の式を見て、帰るときに姉の啓子(新珠三千代)と大学で哲学を教えている堅物の三郎(上原謙)のかちかちに地味な夫婦生活を横から見て、もっと結婚は自由な恋愛に基づくものであるべきだわ、って、まずは三郎の教え子でバーテンダーをやっている浩(山田真二)に近寄っていく。

一人娘もいて家事と家計のやりくりに追われている啓子は、康子に連れていってもらった先端の喫茶店で知り合った雑誌編集者の俊二(三橋達也)と会ったり、三郎のところに結婚の立会人の依頼をしにきたカップルが玄関先でキスしているのを見てあたしのとこは… になって、啓子を「ホームボディ」 - あんなのほんとにあったの? - として記事にしたいという俊二に誘われるままに結婚相談所に行ったり、ダンスホールに行ったり、塩沢ときと契約結婚をしているという俊二の話を聞いたり、現代の結婚と恋愛のあれこれを知ってくらくら揺れる。

結局、俊二と会っていたことを隠す啓子の嘘が簡単にバレているのに怒らない三郎を啓子は惚れ直して、真面目に見えた浩の下宿に行ったら世話をする女性がいたのであんな奴やめだになった康子はそんなふたりを見直していいなー、ってなって、父の会社の仲代達矢とお見合いしましょ、と町に出ていくの。そりゃ仲代達矢だったらな。

世間がどれだけエロにまみれて扇情的になっていっても愛と結婚のありようは愛し合うふたりのために、ていうのがメッセージといえばメッセージぽいところで、その反対側に「結婚のすべて」ってでっかいタイトルを掲げて、世界はあなたのものお好きなようにどうぞ、って構えて揺るがない(結婚「が」すべて、ではない、とまでは言い切れないところはまだしょうがないのか)。 それを支えるのか裏切るのか、2分台のキャッチーで威勢のいい楽曲をちゃきちゃきテンポよく切り替えながら突っ走る84分。新人バンドのデビュー盤だったらいきなり★五つ貰えそう。(冒頭の「ウェディングロック」を歌っている女性はだれ?)

まだジェンダーの議論もフェミニズムもなかった時代、いろんなオトコの姿が描かれてどいつを選ぶかはあなた次第、になっているようで各オトコのありように対する批判的な目線は見事にない。女性側に選ぶ自由がでてきた(!)だけマシじゃないですか皆さん(?) 程度。 それにしても上原謙に三橋達也に仲代達矢に三船敏郎に小林桂樹(声)に、オールスターだねえ。

この辺から結婚相談所にマッチングサイトに花嫁エステに、幸福の押し売り洗脳ブライダル産業ができあがっていったのかー、というのもわかる。

そして、しょうもない夫に猿ぐつわされた哀れな新珠三千代に痺れて言い寄ってくる自由な(これはこれでやばそうな)男 - 三橋達也という構図はそのまま『愛のうず潮』(1962)でもきれいに変奏される。ラストにふりだしに戻っていくところも含めて。

コメディじゃなくなっちゃうかもだけど、上原謙は『めし』(1951)の上原謙のやなかんじの方が違和感ない気がする。どうせ同じような形でよりを戻すのでしょうし。


ついにカンヌで”The Souvenir Part II”が公開された。 どうせ死ぬならこれを見てから、の1本がようやく。

7.08.2021

[film] 丼池 (1963)

7月2日、金曜日の昼、シネマヴェーラの新珠三千代特集で見ました。平日だがこの日のこの回がこの特集での最後なのでしょうがなくて(なにが?)。 すごくおもしろかった。

「どんぶりいけ」だと思っていたら「どぶいけ」だった。中央区の船場地区に位置し、戦後繊維の問屋街として発展した一帯、ということだが大阪をほぼ知らないので、なんとなくニューオーリンズあたりを思い浮かべたり、"The Ladykillers"のイギリスを思い浮かべたり。

冒頭、繊維問屋の安本商店が差し押さえられて店主が頭を抱えるなか債権者が商品に群がって奪いあう地獄が展開されて、その背後にいるのが新手の高利貸室井商事の女社長カツミ(司葉子)で、彼女に運営資金を貸しているボスっぽい平松子(三益愛子)がいて、自分のお店を出したいのでお金貸して、って彼女たちの周りをうろうろするマサ(森光子)がいて、地道に行商をしているタダエ(浪花千栄子)がいる。

問屋の老舗「園忠」の園田忠兵衛(中村鴈治郎)は昔気質の大旦那で「俺の目の黒いうちはぁ」とか偉そうなくせに裏では番頭の定彦(佐田啓二)経由でカツミを紹介して貰ったり、実はその前に松子が大金を貸していたり、更には昔からの馴染みで料亭「たこ梅」を経営するウメ子(新珠三千代)に泣きついていたり、大阪の金貸しがどんなふうに旧来型の商人に集って食い荒らしてぼろぼろにしていくのか、というああ無情の話に、大学出の冷酷ばりばりだけど、元婚約者の定彦とか自身の過去の間で思いきることができずに悩むカツミとか、ブルドーザーのような松子とか、じつはいちばん冷酷非道な女狐のウメ子とか、金のあるほうに節操なくなびくマサとか、本筋の横で騙しあいどつきあう女性たちのドラマが十分な迫力説得力で描かれていて目を離すことができない。最後まで朗らかで一番強そうなのは浪花千栄子だったり。

ここに出てくる5人の女性の設定はそのままに、"Ocean’s Five”みたいなのを作ってくれたらぜったい見たい。

なんとか「園忠」を救うべく新たな集金モデル(宝投資)を編みだしたカツミを松子が横で揺さぶり、その斜め上からウメ子がごっそり持っていく情け容赦ないパワーゲーム(金利とか空売りとか、そういう仕組みはさっぱりわからなくても勝ち負けはなんとなくわかる)はなんか痛快だねえ、って思うし、でもいったいなにがそこまで彼女たちを、とも思うし、借金はしたらいけないねえ、と思うし、こういう描き方をするからいつまでたっても弱者は救われないんだわ、とかも。

これって戦争・抗争映画に近いやつかも、って思うと同時に、彼女たちは間違いなくあそこに生きている、という生々しさもある。 そして彼女たちはなぜ丼池という土地に集まってきたのか。

中村鴈治郎と新珠三千代が出ているので『小早川家の秋』(1961)を、高利貸しの女ということでは『晩菊』 (1954)のことを思ったりもする。みんなそれなりにしぶとく、強い。なんでこんなに強いんだろう、こんなに強くないと生きていけなかったのだろうか。 あと、中村鴈治郎て、乗り越えられるべき遺物、みたいな描かれ方だよね。いいなー。

あの後、カツミと定彦は幸せになれたのだろうか? なんか、あのラストだけ、幸せになったらつまんないな、ってなるくらい清々しく浮いている。あんたさえいなければあたしは天辺に行けたんじゃぼけー、ってぐさーっ、ってやっちゃうとか。



あたまに来ていることは何度でも書く。初めはオリンピックだろうが茨城のフェスだろうが、蓮實先生のいうように、そんなのやりたい奴がやってれば、と思っていた。でも近づくにつれてこちらに「協力を要請」したり「感動を届け」たりちっとも欲しくないものを求めてきて更には緊急事態宣言まで加わって自助だ自粛だとかいうので、それは明らかに違う、いらない、と言う。ものすごくシンプルで、でも切実なことだ。 だって明らかに巻き込まれるリスクがあるし、そのリスクは目に見えて増大しているのだし、巻き込まれたら最悪人が亡くなる。それは自分かもしれないし家族かもしれないし大切な人かもしれない。感染だけじゃない。医療や介護の過負荷やケアレスも起こる。だから嫌だ、巻き込まないで、と言う。 決まったことだから準備進んでいるから、じゃない。 自分らの生死がかかっているのだから最後まで、始まってからでも抵抗する。 安全だ安心だとお題目のように繰り返すのならその根拠を示してほしい。あんなスパコンのカスデータじゃないやつを。 もうメディアにも「ロックミュージシャン」にも呆れ果てた。ひとりでえんえん文句言い続けるから。


7.07.2021

[film] The Ladykillers (1955)

いろいろあってしんでた。

6月30日、水曜日の晩、Criterion Channelで見ました。
2020年の10月に4Kでリストアされた際、英国での劇場公開は見ることができず、こないだまでNYのFilm Forumでシアターリリースされて、でもバーチャルではやってくれないので泣いていたら、Criterionの6月末でいなくなるリストに入っていた、ので。

Alexander Mackendrick監督、Michael Balcon制作による英国Ealing Studioの最後の作品。
邦題は『マダムと泥棒』。Coen兄弟による2004年の同名リメイク版は見ていない。

Mrs Wilberforce (Katie Johnson)はKings Crossの駅の近くのトンネルの上にオウムと一緒に慎ましく暮らしていて、よくいる世話好き世間好きでお節介で警察に入り浸ったりしつつ半過去の世界に生きるマダムなのだが、そこに下宿を求めてProfessor Marcus (Alec Guinness)がやってくる。見るからに怪しげなのだが、教授はさらに弦楽五重奏を練習する楽団として怪しげな4人を招き入れて、ひとりひとりが強面でやばいかんじで、練習しているふりをしながら連中は現金強奪を計画して実行して、なんとかうまくいった。

と思ったら、強奪した現金のところになにも考えていないMrs Wilberforceがにこにこ絡んできて紙幣が散らばってしまう面倒なぐだぐだが立ちあがり、これはもう悪いけどマダムを殺すしかないな、っていうところまで行くのだが、気がつけば強盗団のなかでそれぞれが勝手に暴走して殺し合いを始めてしまい、そして...

Kings Crossの時計台が見える通りの突き当り、機関車のトンネルの真上に建つMrs Wilberforceの家、という設定からして何が起こってもおかしくない時間が止まった隠れ里ふうで、終盤は実際に惨劇が繰り広げられるものの、誰かが突然発狂したとか、そういう話ではなくて、ただ誰がみても原因よくわからず - 全員自分の役割期待通りの動きをしているのに - の異様さ不気味さがつきまとう。結果としては実に何も変わらずに冒頭の風景に戻ってしまい、あれって何だったのか、になる。このありようってイギリスそのものではないか、と。世間的にはブラックコメディと言われているが、Ari Asterあたりが映画化したっておかしくないホラーにもなりうるやつかも。

監督のAlexander Mackendrickも脚本のWilliam Roseもアメリカ生まれ(Mackendrickはグラスゴーからの移民の子)で、イギリスに渡って、イギリスの映画を作った彼らのイギリス的なものに対する畏れ(&. ミソジニー少々)とか、Mackendrick自身が本作を沈滞したイギリスのパロディ、と語っているように、イギリスに対する「なんなのこれ?」が驚きや諦めとともに並べられているようで、あれこれ考えさせられる。同様の畏怖は"The Man in the White Suit" (1951)でも感じられて、Alec Guinnessやっぱりすごいわ、というのもある。 

BrexitもCovid19対応における英国政府の対応と国民の反応とかを見ていても、なんか決まってしまったことに対する無垢で一徹な動かしようのなさ、っていう点では似たものを感じて、あんたたちなんでそんなに変わろうとしないの - なんでそれを許して置いておくの、とか。 少なくともあんなふうに死にたくないなー、とか。

でもやっぱりおもしろい。現在進行形のなにかを感じさせて、でもクラシックな絵画みたいな落ち着きもあって、ずっと見ていられる。


緊急事態宣言下で、なんでオリンピックを開催できるのか、これっぽっちもわからない、というのもわかるけど、そもそもあんなゆるゆる効果ゼロの緊急事態宣言でなにをどうしたいのか不明。ほんとに沢山の人たちが亡くなったり苦しんだりしているんだよ? もう軽く一年以上。 この状態で「感動を」とか言っているのは真性のバカか詐欺師だと思う。

7.04.2021

[film] 愛のうず潮 (1962)

6月27日、日曜日の午後、シネマヴェーラの新珠三千代特集で見ました。 

ル・シネマのロメール特集で、50-60年代初の嫌な男連作(としかいいようがない)短編を3つ見たあとで、にっぽんのものすごく嫌な男が立ちあがる。 フィルムは退色してほぼまっかっかだったが、おもしろかった。

百合ヶ丘団地(おそらく当時の先端住宅)に暮らす主婦 - 綾子(新珠三千代)は結婚して5年、生活は安定しているし大きな不満があるわけではないものの、近所の友人からがんばって妊娠して落ち着いた安心したとかいう話を聞くと、仕事が忙しくて夜も遅いのであまり相手をしてもらえない夫武彦(平田昭彦)のことを思って、でもやはり子供が欲しいので医師の指導を受けることにした、と夫に告げて協力してもらうことにする。けど、夫は仕事から帰っても疲れたってすぐに布団に入って寝てしまう。

丸の内の商社 - 日の丸物産に勤める武彦は専務(中村伸郎)ににぎにぎ取り入って、さらにNY支店長の座を狙って専務の秘書で社長の姪である浅見夏江(草笛光子)と関係を持っていた。夜に家に帰ってこないのはそのせいで、夏江は武彦と昼間からべったりしているので、社内でも噂になったりしている。

近所でろうけつ染めを習う主婦サークルに入っている綾子は、講師(上原謙)の紹介でアトリエに撮影にきた写真家の香川(三橋達也)に声を掛けられて、戸惑いながらも夫への当てつけもあって、誘われるままに会うようになる。それは武彦と夏江が会う裏側の時間で、そのうち武彦のNY行きが決まるのだが、その結果社内での噂は否定できないものになって綾子の耳にも届いて、でも開き直った武彦に逆ギレされて、もうやってらんない、って京都の兄のところに行くのだが兄からは夫のところに戻れ、って追い払われ、やっぱり帰りたくないので旅館をやっている友人(園佳也子)のところに身を寄せると、そこに香川が現れる。

もう夫のところには戻りたくない、という綾子に香川は一緒になろう、って返すのだが、その反対側の東京では妻と別れようとしない武彦にブチ切れた夏江の車が暴走事故を起こし、同乗していた武彦が足を切断するしないの大怪我になっていて、その報を聞いた綾子は…

仕事はいかにもできそうだが冷酷無比な商社マンの平田昭彦によるハラスメントの畳み掛けがすごくて、ネグレクト連打はもちろん、突然部下3人 - 児玉清がいる - を自宅に連れてきて延々飲み会(居座っていつまでも帰らない)をしたり、でもそんなの当然でしょどこが悪いの、のザマにあきれて、その鞭でどこまでも打たれ続ける新珠三千代ときたらサークのメロドラマの主人公のよう - 泣き崩れてもどこか冷静 - なのだが、でもあの結末はさあー。結局日本の歌謡曲演歌の世界 - 松尾和子が主題歌を歌ってくれる - になっちゃうのね。

武彦のあの末路は当然じゃん、だったとしても、綾子があの人にはやはりあたしが必要なんです、になっちゃうのがわかんない。うず潮は起こっても結局渦の中心に回収されちゃうのか、って。あの事故が起こらなかったらみんなそれぞれ幸せだったかもなのに、とか、東京に戻って武彦の介護をすることになった綾子の静かな復讐が始まる、とか、そっちの方を夢想しておこう。

ロメールの63年の2本の女性ふたり - パン屋の娘とシュザンヌはすたすた向こうに歩いて行ってしまうのだが、62年の綾子ははっきりと嫌な男の元に戻っていくの。 それはなぜ? をきちんと(エモではなく)言語化してこなかったツケが、女性活躍って口先だけで男性中心のいまにぜったい繋がっているのだと思った。


ずっと伝説だった名画座かんぺを手に入れることができた。うれしい。

過半数以下はよかったけど、やはり投票率に絶望する。ここが動かない限り将来はないわ。

7.02.2021

[film] La Boulangère de Monceau (1963) + 2

6月27日、日曜日の午前、ル・シネマで見ました。
Éric Rohmerの「六つの教訓話」デジタル・リマスター版上映は、ほぼ見たことあるやつばかりだったし別にいいかな、だったのだが、昨年からのおこもりの期間中、ストリーミングであれこれ散々再見も含めて見ることができて、彼の映画が見せてくれる「教訓」や「格言」や「四季」にはいろんなことを考えさえられたしお世話になったのでスクリーンで振り返って見ておいてもよいかな、って。

Bérénice (1954)

原作はEdgar Allan Poeの1835年に発表された短編。撮影はJacques Rivette、撮影場所はAndré Bazinの家、主演はÉric Rohmerの15分の作品。原作は創元推理文庫のポオ小説全集にも入っていて、この作品の翻訳は大岡昇平、仏訳はCharles Baudelaireで、Baudelaireはポオが初出後に削除した箇所も訳出していると文庫の解説にはあるのだが、RohmerがベースにしたのはBaudelaireの訳本なのかしら?

ずっと病弱のままお屋敷に暮らすAegeus (Éric Rohmer)と同じ屋敷で育ってきた従妹のBérénice (Teresa Gratia)がいて、Aegeusは神経質で憂鬱で屋内に籠ってばかりで、Aegeusはいつも屋外で快活で笑顔が素敵なのだが癲癇の発作に襲われて倒れて、彼は彼女の歯に魅せられて求婚してふたりは結婚して、そうしたらBéréniceは突然亡くなってしまう。彼女の歯に取り憑かれた彼は..

すでにRohmerの女性の身体のパーツに対する妄執と「幸せ」についてのひねくれて歪んだ感覚が見てとれるのだが、冒頭のカツカツカツカツ ギャー、っていう叫び声と、ラストの血まみれのRohmerの長く細い指(その曲がり具合とか)と、もちろん、なんといっても机に散らばるBéréniceの歯! が怖くてたまらない。
あんなふうに散らばった歯が紙束の間に挟まっていたり… (だから片付けをしよう)


La Boulangère de Monceau (1963)

『モンソーのパン屋の女の子』 - 「六つの教訓話」シリーズの第一作。23分。
主人公の男(Barbet Schroeder - 声はBertrand Tavernier)が友人と歩いているときに道端でいつもすれ違う女性Sylvie (Michèle Girardon)が気になって、ようやく声をかけることができたのだが、「また今度ね」になり、彼女との出会いを待つ間に立ち寄るパン屋 - いつもサブレとかタルトとかを買う - の女の子Jacqueline (Claudine Soubrier)と仲良くなって、でもSylvieが戻ってくると(捻挫で動けなかったって)、またそっちの方に行って、気がついたらJacquelineは跡形もなくどこかに消えてしまっていた、と。

これのどこが、なんでモラル(これの訳は「教訓」でいいの?)なのかについて「すべては語り手の頭の中で起こっているから」というようなことを言っているのだが、確かにここでのSchroederもTavernierも鼻持ちならねえくそ野郎、としか言いようがないくらい無神経に超然としてて、こりゃたまんねーな、なの。


La Carrière de Suzanne (1963)

『シュザンヌの生き方』- 英語題は”Suzanne's Career”。

『モンソーのパン屋.. 』と同じようにガールフレンドを求めてやまない大学生のGuillaume (Christian Charrière)とBertrand (Philippe Beuzen)の男子ふたり組がいて、カフェでSuzanne (Catherine Sée)をナンパする。Suzanneは働きながら勉強していて、そのお金目当てでGuillaumeは彼女と付きあってから飽きてポイして、Bertrandはそのあとを受けて彼女と付きあったり都合よく利用したり、でもそのうちどこまでもついてくる彼女がだんだんいやになってパーティで出会ったSophie (Diane Wilkinson)の方に寄っていく。

基本はBertrandの目線と語りなので、『モンソー.. 』と同様に鼻持ちならない – 特にGuillaumeの野郎はひどい – 男たちの「モラル」に付きあわされてうんざりなのだが、それでもタイトルだけはSuzanneの方に(前作ではJacquelineの方に)あって、勝手にどこまでも悶々してろバカ男どもさよなら、っていうの。


週末の選挙は、帰国後転入して日が浅くて投票させてもらえないことがわかって、憮然としている。海外行く前からずっとここに住んでて、同じところに戻ってきたのに投票できない。海外の在外選挙のもそうだけど、こんな手続きばかり大変で面倒で、どこまでも選挙に行かせないようにする仕組みを作っているとしか思えない。そもそも、あんなわーわー騒がないと(騒いだって)投票行かないのって相当だよね。あーあ。

しかも梅雨だし。関係ないけど。

[dance] Israel Galván

6月18日、金曜日の晩に神奈川芸術劇場で、『春の祭典』- “Le Sacre du Printem”を、6月29日、火曜日の晩に横浜市役所アトリウムで、『SOLO』を見ました。

リモートで仕事をしているときに、こういうの(ライブとか夕方早めので、かつ会場が遠いやつ)があるとなかなか便利だということに気づいた。(もちろん本来あるべきはー)

ダンスのライブ公演。ロックダウンが始まって以来、音楽のライブストリーミングも演劇のそれも見てきたけど、ダンスのだけは見なかった。Royal BalletもABTもボリショイも、よいプログラムのストリーミングをいっぱいリリースしてくれて、ぼけてて見逃してしまったのも沢山あるのだが、見ることでサポートしなきゃと思いつつも積極的に見にいく気にならなかったのは、この床板ぶちならしを生耳で感じたかったからなんだわ。 最後に見たライブ公演は、2020年2月、Tanztheater Wuppertal Pina Bauschの『青髭』だった。

Israel Galvánその人については、あまり知らなかった。ロンドンのSadler's Wells(ダンス専門のシアター)で公演があったのは知っていたもののそこまでのその程度で、でもチラシとかを見ると巨匠だというし、それにしてもこんな時期にわざわざこの国にやってくるなんてよほど変な人なんだろうな、と興味がわいた。 過去の動画とかは一切見ないで、床の打突音にかける。

『春の祭典』はこれまでMartha Graham (Dance Company)のとPina Bauscheのは生の舞台で見た。ベジャールのはビデオでみた。おおもとのバレエ・リュス = ニジンスキーのは見ていない(みとけ)。
今回の『春の祭典』はオーケストラではなく2台のピアノバージョンで、そもそものピアノバージョンでの実現を企画検討した音楽家とピアノ奏者 - Sylvie CourvoisierとCory Smythe - がコロナ禍で来日が不可となり、新たに日本側で2人のピアノ奏者が起用された、という。

トリオ編成のバンドでフロント以外のふたりが変更されて、全体のアンサンブルはどうなるのか。

冒頭、真っ暗な舞台の奥にむき出しになったピアノの弦板みたいのが床から直立で立ててあって、それを仰向けに寝転んだ状態で足(右足が赤い)でぴらぴらつま弾いたり叩いたり。地面から生えてきた何かが上でも横でも、なにか引っ掛かる先を探しているような。

そのあとで2人のピアニスト - 片山柊と増田達斗 - が入ってきて、あの有名な旋律を奏ではじめる。オーケストラ版の小刻みに揺れて震える空間の膨らみ厚みはなくて、4本の腕と脚による鍵盤と弦とペダルが互いの音の軌跡痕跡を消しあうような、強く猛々しい打弦の音を奏でると、その隣でGalvinが床(いろんな床とか桶とか)と脚 & 全身で打ち鳴らすけたたましい音はそれらを不敵に蹴散らすばかり。

春の祭典。照明はどこまでもダークで、衣装は後半のスカートまで覆い隠すようなのが多くで、春の何かが生まれだす明るさ華々しさ - 花吹雪とか - あるいは群舞によるマスの大波の勢いなどは微塵もなく、地の底からなにかが不穏に湧きあがるじゃりじゃりどかすかした生のノイズをGalvánの身体がアンプリファイしてこちらに投げ込んでくる。それを追ってピアノが更に混ぜ散らすカオス。

彼のベースであるフラメンコについては多くを知らないのだが、パンフレットにある彼のインタビューを読むと、フランケンシュタインとかウィルスとか散々言っていて、要は人為的に起動されて他を蝕んでいく強い生とか個体とか?  あるいは、同じパンフレットで彼が影響を受けて研究したというマジンガーZと敵のロボット(機械獣?)たちのことを考える。 普通にイメージしそうな強く躍動する生、とは異なる特異かつ邪悪な何かに繋がることで自身を保とうとする、その怖さと切なさと。

『春の祭典』に続けてふたりの日本人作曲家の作品 - 武満徹の“Piano Distance“と(今回の奏者でもある)増田達斗のBallade”に合わせて踊る。『春の祭典』の「石」のイメージに対してこちらは「水」だという。石とか砂がぶつかり合うようだった前者に対して、でも水の流れに乗ったり打たれたり - ではなく、ここでも強く自分の音を鳴らして正面からぶつけようとする。ジャズのセッションのような感があった。

彼のダンスのやかましさは十分素敵なのだが、2台のピアノ演奏がすばらしくよくて、これだけでも別の機会に聴いてみたくなった。

ここから約10日後、市役所のパブリックスペースで演じられた”SOLO”は、そういう場所での演舞を想定して作られた、伴奏音楽もない、たったひとりの大道芸 or ドラムソロ のような作品。 マイムやタップの要素も入り、客席のひとりひとりを見ながらなにかを呟いたり置いてあるマイクに向かって喋ったり(けど届かない)とか、その中心にあるのは、絶えずフロアをキックしてやかましい音をたてて止まらない打楽器としての彼の身体の不可思議さむず痒さのようなやつで、そう、これはコメディなの。 途中で魚屋(or 肉屋)のエプロンに着替えてポケットからなにかを散らしたり猫耳みたいのを一瞬つけてみたり - とっても変なヒトのかんじが素敵。 ひとりで踊っているときのFred Astaireのイメージもあった。強引に場所を作ってとにかく見せてしまうようなところとか。

もちろんテーマありきなのだろうが、どんな音楽で踊ってほしいだろう? とかつい考えてしまう。
バイーアのバテリアとか(めちゃくちゃやかましいの)。こないだ亡くなられたFrederic Rzewskiとか。

もう7月だってさ。