4.08.2021

[film] Les sorcières de l'Orient (2021)

4月2日、金曜日の晩、MoMAのVirtualで見ました。
ここでやっていたDoc Fortnight 2021というドキュメンタリー映画祭の中で上映された1本。

テニス選手ジョン・マッケンローのドキュメンタリー - ”L'empire de la perfection” (2018) – “John McEnroe: In the Realm of Perfection”を撮ったフラン人映画監督Julien Farautの最新作。
英語題は”The Witches of the Orient”、邦題は『東洋の魔女』(しかないよね)。

ジョン・マッケンローのドキュメンタリーはすごく面白くて、アーカイブに遺されていた彼の試合の映像のみを使い、本人へのインタビュー映像も関係者コメントもなしに、なんでマッケンローはあんなに強かったのか、彼のテニスは他とどう違うのかを分析する - これを通してスポーツを見ることの愉しみにまで到達していたような。

この作品も国立スポーツ体育研究所(INSEP)に遺されていた映像を監督が見つけたところから掘り下げていったのだという。ただ今回のは日本にまで飛んで、存命している彼女たちと会って、その日常を撮ったり当時を振り返ってコメントを貰ったりもしているので、前作とはややアプローチが異なる。

1962年のワールドカップと1964年の東京オリンピックを制覇して、「東洋の魔女」と呼ばれた日紡貝塚のバレーボールチームがなんであんなに強かったのか? を当時の記録フィルムと現在の彼女たちからのコメンタリーと共に振り返る。

冒頭、古いアニメーション - 『塙團右衛門化け物退治の巻』 (1935) by 片岡芳太郎 (←たぶんこれだと思う)が流れて、東洋のエキゾチックななにかと、なんで「東洋の魔女」になったのか。最初はソ連に行くまでに消えてしまうだろうから「東洋の台風」って呼ばれていたのが、ソ連を破ったので「魔女」になってしまった、とか。

そこから当時の日紡貝塚の選手の一日、のような記録フィルムから選手たちの一日が夕方から深夜まで延々続く練習漬けと大松監督の指導ぶりと、1962年のワールドカップでの誰も予想していなかった勝利とそれに続く1964年のオリンピック、そこには敗戦の底から立ちあがって高度成長に向かう日本国民の期待と希望がたっぷり込められていて負けるなんて許されるものではなかった。

当時の記録フィルムと並行して使われるのが『アタックNo.1』のアニメーションの抜粋で、試合の場面では実況席の解説はこのアニメになっていたり、試合の実写場面でもピカピカ光る効果が加えられたり。回転レシーブも当然あるし、監督の厳しいしごきの場面ではアニメの中で選手同士がかばいあうシーンがそのまま使われていたり。初めのうちは冗談でしょ、って見ているのだが、そのうち両者がなんの違和感もなく繋がっていくので これはなんだろう? になっていく。 東洋の魔女たちの動きがアニメーションのそれと同期していくかのような…  

映画.comにあった監督のインタビューを読むと、当時のチームのありえない練習量や選手の監督に対する信頼の置きかたに素朴に感銘を受けているようなのだが、そういう傾向や風景を散々見てきて日本の教育風土を覆ってきた体育会的なあれこれから全力で遠ざかろうとしてきた者からすると、ああやっぱりな、しかない。

並の努力ではだめ、人一倍練習して全員が一丸になってがんばれば必ず努力は報われる - だから歯を食いしばってやるのだーやればできるのだーイズムがもたらしたかつての繁栄と栄光と、当時の成功体験ゆえの脳内の縛りから一歩も抜け出せない硬直した老人たちがもたらした現代の歪みと没落。 そこを直視したくない人たちはまだ努力が足らないこの国はまだやれるしか思っていない - その辺のことを改めてようくわからせてくれる映画だった。本来のテーマとはぜんぜん違うところでー。

当時の選手たちはそんなこと思っていなかったのだろうし彼女たちには賞賛しかないのだが、特訓とか呼ばれたあれらの指導はやっぱりハラスメントだとしか言いようがないし、ああいう結果になったのだからよかった、でもぜんぜんない。むしろこれと同じことを求められて潰されたり報われなかった大勢の人たちや、ここに乗っかって子供たちをコントロール下に置こうとするしょうもない大人のことを思うし、これって戦前からなんも変わっていない懲りない風土病のようななにかだよね。

前作の“John McEnroe: In the Realm of Perfection”ではSerge Daneyの言葉を引用して語られたパーフェクトなショットへの希求が、ここでは60年代アニメーションの単純化された動きや線に重ねされていく。おもしろいけど、あんまし笑えないのも確かだった。 テニスの後はバレーボールって、コートのなかで延々続く切り返し、っていうシンプリシティにこそスポーツの醍醐味はある、と見ているのかしら。 次は卓球かなあ、とか。

前作ではSonic Youthの”The Sprawl”が効果的に使われていたが、今回はPortisheadの”Machine Gun”が炸裂する。 そしてエンドロールでは、みんなが知っている『アタックNo.1』の主題歌がフルでがんがん流れるの。

64年の東京オリンピックは敗戦からの復興を象徴する輝かしいものになったが、いまだに本当にやるつもりらしい今度のオリンピックは、すでにこの国の劣化と没落を象徴するじゅうぶん腐れたものに仕上がってきている。伝説を作りたくてしょうがない勢力の稚拙な手口の裏には代理店しかいない。やめちゃえ。

『アタックNo.1』のほかにより生々しい『サインはV』というのもあった、って監督に教えてあげて。

4.07.2021

[film] The Fountain (2006)

3月30日、火曜日の晩、MUBIで見ました。なんとなく。

当初Brad PittとCate Blanchettを主演に据えて$70 mil.で開始されたプロジェクトが頓挫して予算が半分になって主演ふたりも入れ替えて制作されたDarren Aronofsky監督作品。公開後の評価も賛否ばらばらで、歴史的な失敗作と位置付けられていることは知っている。(でもMUBIの”Perfect Failure”フラグは付いていなかった)

わたしは彼のその前の“Pi” (1998)も”Requiem for a Dream” (2000)も見ていなくて(なんか90年代ふうの怖さだったし)、この後の”The Wrestler” (2008) – “Black Swan” (2010) – “Noah” (2014) – “Mother!” (2017) は見てて、やっぱりどこかしら怖いと思っているのだが、とにかく見てみる。 邦題は『ファウンテン 永遠につづく愛』。(ファウンテンなら永遠に溢れる愛、だよね..)

コンキスタドールのTomás Verde (Hugh Jackman)が国を失ったQueen Isabella (Rachel Weisz)からの命を受けて「生命の樹」を探すべくマヤのピラミッドに突撃していく話と、現代の外科医のTom Creo (Hugh Jackman)が脳腫瘍で失いつつある妻のIzzi (Rachel Weisz)のためにグアテマラで見つけてきた木の抽出物を使って猿の実験をしていく話と、宇宙船に乗ってバイオドームで樹を育てているTommy (Hugh Jackman)が超新星に突っこんでいく話と、3つの全然違う時間軸空間軸のお話し(であることがわかるのはHugh Jackmanの髪が長髪~ふつう~つるはげとそれぞれ違うから)が無造作に(←そう見える)切り替わっていくのではじめのうちはなんだかわけがわからない。

やがて最初のコンキスタドールの話は、Izziが亡くなる直前まで書いていた本 – “The Fountain”のストーリーだということがわかって、現代のTomとIzziの話は現代のそれとしか言いようがなくて、でもIzziはTomに最後の章はあなたが書いてほしい、と言い遺して亡くなってしまって、それを受けたTomが書き継いだのが宇宙船のはげTomのお話しなのではないか、と(がんばって宇宙飛行士になった説もあるけど)。

つまりTomはIzziの書いたお話をわたしに永遠の命を授けてほしい/それを見つけてきて、というメッセージとして受けとめて、現代の科学の前線でそれに応えられなかったTomは、宇宙船に乗ってIzziと一緒に見あげた星空の超新星にそれを求めてたったひとり旅立つ、そういう物語で返したのだ、というファンタスティックなお話で、でも最後にはまだひょっとしたら.. というのも残されているような。

愛する人の死を受けいれることの難しさ、それを受けいれられないのは生と死の世界が隔たって行き来できないからで、それがひとつになっていれば、とか、そもそも死ななきゃいいんだからって不死の薬の研究をしたりとか、宗教にしても医学にしてもすべての知恵の泉は太古からそこに根差しているのだし宇宙の果てにはその解がきっとあるのだ文句あるか? って言われたら勿論もんくない。がんばってね、しかない。

「生命の樹」を求めて、っていうのもあるけど、宇宙人におねがい、っていう”Cocoon” (1985)みたいのもある。わたしはこっちの方がすき。すききらいだから気にしないで。

雪が降ったよ!一緒に見ようよ! って無邪気に誘いにきたIzziを忙しいって断ってしまったことを延々後悔していたり、研究室で指輪を無くしてパニックしたり、TomがどんなにかIzziを愛していたのか彼女の死を世界の終わりのように嘆き悲しんでいるのかはようくわかるのだが、あそこまでいくとラブストーリーというよりは妄執の域にあるマッドサイエンティストの挙動で、そうやって3層重ねてそのチャネルを切り替え操作しているのは一体だれ? とか、そこに$70 mil.つかうか? とかは少しだけ思った。97分だからまだよいのかも。

Darren Aronofskyの場合、そういう思いの強さが自身の肉体を傷つけたり変容させてしまう、というのもある気がして、ここだとペンで指に指輪の跡を刻んだりする。痛みの強さや傷の深さ=思いの強さ=しっぺ返しもあるよ、みたいなのって体育会みたいでなんかいやだ。苦しむのは好きにすれば、だけど傷をびろびろ見せによってこないで。

あとは、こういうのを強く思ってそこに一生を捧げるようなのって、最近のTerrence Malickにもそういうとこあるけど、男性のが得意だよね。女性の方は逆光でこちらを振り返ったり物憂げに見つめてきたりするの。男性はそれでなんか燃えてしまうらしい。一生捧げられていいよね、とか、勝手に燃えて灰になってろ、とか。


あまりにつまんないのでM1のMacBookを買って、でも届いてしまうと面倒になって箱のまま置いておいたのをようやく開けてインストールした。移行に1週間くらいかけるつもりでいたのにあっという間に終わってしまって(ほんと便利になったのね)、これはこれでつまんないったらー。

4.06.2021

[film] Un dimanche à la campagne (1984)

3月28日、日曜日の午後、Criterion Channelで見ました。

この3日前に亡くなったBertrand Tavernierの追悼特集が組まれていたので見よう、ていうのと、ちょうど日曜日だったのと。 英語題は”A Sunday in the Country”、邦題は『田舎の日曜日』。 同年のカンヌで最優秀監督賞を受賞(この年のPalme d'Orは”Paris, Texas”だった)していて、セザール賞も3つ受賞している。これまで見たことなかった。

原作はPierre Bost - トリュフォーがカイエの批評『フランス映画のある種の傾向』で攻撃した「伝統的な」作家 - の没後に発表された小説 - “Monsieur Ladmiral va bientôt mourir” 「ラドミラル氏はもうすぐ死ぬ」。

1912年の秋、パリ近郊の田舎の一軒家でLadmiral氏 (Louis Ducreux) が家政婦Mercédès (Monique Chaumette)と話したりしながら出かける支度をしている。毎週やってくる息子一家を駅まで迎えにいくようで、歩いて10分とか言っていたのだがこちらに向かって歩いてくる息子Gonzague (Michel Aumont)の一家とぶつかったのでおかしいな - 歩くのが遅くなったのかな - とか。 息子一家は他にGonzagueの妻のMarie-Therese (Genevieve Mnich)と、元気一杯の男児ふたりと少し体の弱い女の子がひとりの5人。

彼らが家のなかや庭を走り回ったり、みんなでMercédèsの用意する昼食(おいしそう)やお茶を囲んだりしているうちにLadmiral氏が画家で、それなりに成功していてまだ静物を描いたりしていること、長男が画家を継がずに結果的にこの家も継がないことになってしまった過去のあれこれがほんのり見えてきたりするのだが、それらはもう昔のことで、いまは孫たちの日曜日の遊び場になっていて、それでもいいか、って。

やがて長女のIrene (Sabine Azema)が犬のキャビアと一緒に(当時はまだ珍しかった)自動車に乗って現れるといきなりばたばた慌ただしくやかましくなって、パリでブティックを経営していて羽振りのよい彼女は屋根裏の化粧箱の古いレースを漁ったり、Ladmiral氏が描いていた静物画のセットを片付けちゃったり、長男とは別の騒がしさをもたらして日曜の午後を揺らすのだが、何度かパリの方に電話をかけて、相手が出ないことに苛立ったりしている。彼女が村のビストロに父とふたりで出かけて、修行時代の父の話を聞いたりしてふたりでダンスをするシーンはしんみりしてよいの。

基本はLadmiral氏の目線で、傍にMercédèsがいるとはいえ、このままひとりで亡くなってこの家も人手に渡って朽ちてなくなり、自分の絵画もそこそこの評価のままで終わってしまうであろう遠くない将来のことを静かに見つめる - その諦めと少しの後悔 - 若い頃、意地を張らずに印象派の波に乗っていれば.. とか、長男には車はないけどよい家族がいるし長女には家族はないけど車があるのだからいいじゃないかもう - などがさざなみのように寄せては返すある日曜日の終わり。 こんなのが毎週繰り返されたらちょっと嫌かも、とか。

もうひとつ、庭で遊んでいる白い服を着たふたりの少女の姿とか、Ladmiral氏の亡妻と思われる女性がソファにいる姿も映しだされる。これは彼にしか見えない遠い日の幽霊なのかも知れないが、彼らの存在が特に強調されることはなくて普段の日曜日に決まって現れるなにかなのかも、程度で、あとひとつ、嫌味のように繰り返されるもろ印象派だねえ、みたいな情景も引っかかる何かとして残ったりする。

あたりが暗くなる頃には彼はひとりに戻って、独り言を呟くわけでもなく、描きかけの静物画をどけて新しいカンバスを置いて、そこに彼はなにを、どんなふうに描くのだろうか、って。

ネットでは小津との比較とかを目にするのだが、ぜんぜん違うよねえ。小津の過酷さ残酷さなんてちっともない、これはこれでじゅうぶんに幸せでゆるゆるで素敵な老後ではないのか。 だれも死なないし。

それにしても、これが1984年。Jean-Luc Godardが”Passion” (1982)とか”Prénom Carmen” (1983)を出していた頃の1984年にこういうのを出してしまう、ってなんかすごいかも。
 

4.05.2021

[film] Golden Gate Girls (2013)

3月28日、日曜日の晩、Queer Visions Virtualからの配信で見ました。
中国系アメリカ女性として初の女性監督 - Esther Eng (1914-1970)の足跡を追ったドキュメンタリー。

女性監督の作品と彼女たちの作品が映画史のなかでどう扱われてきたのか、については00年代にAlice Guy-Blachéの作品を知ってからなんとなく追っかけてきていて、Alice Guy-Blachéのドキュメンタリーについては”Be Natural: The Untold Story of Alice Guy-Blaché” (2018)ができて、女性監督映画史については大作 - ”Women Make Film: A New Road Movie Through Cinema" (2018)ができて、これらを見ると女性監督による映画ってまだまだ知られていないので知られないと、と思っている(理由を述べていると長くなるけど、これくらいわかってほしい。わかんないかな?)。

で、Esther Engの名前は”Women Make Film”のなかにもその名前は出てきていなくて、そうするともっと知りたくなる。

Esther Engの名前が書いてある沢山の写真の入った箱が(おそらく近辺の倉庫から)SF空港近くのゴミ箱に捨てられていて、それを小道具商が見つけて、それを香港のフィルムアーカイブに持って行って取引をしようとした。アーカイブ側は取引を持ちかけられてもお金ないので困っていたあたりで、この作品の監督のLouisa Weiさんが手にすることができた、と。

映画は主にアメリカで中国語の映画を作っていったEster Engの軌跡を追いつつ、同時代のアメリカの映画人であるAnna May WongやDorothy Arznerとの対比と、戦前〜戦後のSFのチャイナタウンの歴史や、アメリカの中国系移民の歴史も押さえられている。

1897年に中国から渡ってきた移民の10人兄弟の4番目として生まれて、広東オペラをやっていたマンダリンシアターで1000本の映画を見てアートの世界に浸かり、パール・バックの「大地」の評価やアメリカの中国人コミュニティの興隆にも後押しされて最初の映画 - “Heartaches” (1935) - をプロデュースして、その後香港に渡って戦争で戻ってきて、ハリウッドで映画を作っていくようになる。ドキュメンタリーのタイトルになっている”Golden Gate Girl” (1941) - ブルースリーの映画デビュー作でもある、とか、36人のキャスト全てが女性だという”It’s a Women’s World” (1939) - これの7ヶ月後に、George Cukorの”The Women”がリリースされる - とか、かの”Back Street”のリメイクである1948年の作品とか、いろいろ見てみたくなるのがいっぱい。

50年代にNYに渡って、チャイナタウンにレストラン(最初に一軒、続いてもう一軒)を開いて映画界からは距離を置いてしまうようなのだが、中国からのオペラ座の人たちとの交流とかコミュニティの社交家としての活動はあれこれやっていたとか。(彼女がやっていたお店がチャイナタウンのどの辺にあったのかを調べてみたり、彼女がミッドタウンに開いていたお店が自分が昔住んでいたとこの向かいだったことがわかったり)

1930年代のアメリカの映画界で、チャイナタウンのコミュニティで、明らかにレズビアンとわかるショートカットとパンツ姿(Dorothy Arznerも同様だったという)で生きて、そうやって映画を作っていくことがどれくらい大変だったのか知る由もないのだが、ドキュメンタリーからうかがうことができるのは、なにがあってもどこに渡っても人の面倒をみたりみられたりしながら自由に飄々と生きていく、そういう姿で、それは歴史の表から突然姿を消してしまったかに見えるAnna May Wongとは対照的なように思えた。もちろん、本当のところどうだったのかは彼女の名前が広がって更に深く研究が進んでいくことを祈るしかない。

ただ、こういうのって彼女の作った映画を見てみないことには、なのでなんとか探して見てみよう。坂根田鶴子のもいつかできれば。 あと、こないだ見た”Center Stage” (1991)で描かれた阮玲玉 - Ruan Lingyuとの接点とかなかったのかしら? とか。

SFのチャイナタウンの入り組んで底のないかんじは本当に好きで、NYのとも違っていて、そこいくとロンドンのはなんかつまんないのよね。また行きたいなー、あのぐちゃぐちゃごった返した日曜朝の飲茶とか、なんでもありそうな魚屋とか。

あと、直接の関係はないけど、アメリカのアジア系の人たちに対するヘイトクライムのことはずっと頭にあって、やりきれない。

史上最低さいあくにつまんないイースター四連休もあと1日。あーあー。

4.04.2021

[film] Godzilla vs. Kong (2021)

4月1日、木曜日の晩、SkyのPremium (TV)で見ました。
本来であれば劇場で大音量に震えて浴びるように見たい作品なのだが、ロンドンでは映画館はまだオープンしていない。だからと言ってそれまで待つかというと、そんなの我慢できるわけもない。

ロックダウンでいちばんつまんなくて腐りきっていた時期に登場したこれの予告編はそれだけで万歳〜のやつで、何度も何度も見た。 彼らのバトルはパンデミックを彼方に吹っ飛ばしてくれるように思えた。もちろん吹っ飛んでくれないので、マスクはしよう。

以下、いろいろてきとーに書いていきますが、知りたくない人は読まないほうがよいと思います。

映画としてはGareth Edwardsの”Godzilla” (2014)とその続き - Michael Doughertyの”Godzilla: King of the Monsters” (2018)と、Jordan Vogt-Robertsの”Kong: Skull Island” (2017)から繋がるもので、”Godzilla: King of the Monsters”が1965年の東宝作品とはまったく関係なかったように、今度のも1962年の東宝作品とは関係ない。

Skull IslandでDr. Ilene Andrews (Rebecca Hall)や耳の聞こえない少女Jia (Kaylee Hottle)と静かに平和に暮らしているかに見えるコングだったが、彼のいるところは人工のドームで覆われたジュラシックパークのようなところで、なぜそうしているのかというとゴジラが寄ってきて喧嘩を売りにくるからだという。

アメリカにあるApex Cybernetics社がゴジラの襲撃を受けて、それってゴジラの行動としてはおかしいし、とその会社の謎を追っていた陰謀論にはまっているえせジャーナリストのBernie (Brian Tyree Henry)と前作からのMadison (Millie Bobby Brown)と彼女の友人ナードのJosh (Julian Dennison)がなにかあるぞ、って破壊された同社の跡地に潜入して調べ始める。

Apex社から依頼を受けた地質学者のNathan (Alexander Skarsgård)は、一度諦めていた計画 - 南極の地下にあるHollow Earthに眠る巨大なエネルギーを探るべく、コングを船に縛りつけて南極に向かう(IleneとJiaも一緒)のだが、それを嗅ぎつけたゴジラが現れて最初のバトルがあって、でもその後の地底探検でHollow Earthとエネルギーは見つけることができる。

破壊されたApex社の地下からは怪しげな荷物がいっぱい運び出されていて、それはどこに行くのかしら?ってBernieとMadisonとJoshが出発寸前の乗り物に飛び乗ると、トロンみたいなトンネルをびゅんびゅん抜けて香港のApex社にダイレクトで行ってしまい、そこでテスト中のメガゴジラ(メカゴジラじゃないの。ロボゴジラ? いや.. これは「メガ」ゴジラだ! ってださい)を見てびっくりするのだが、こいつはパワーが切れてすぐ止まってしまうので、膨大なエネルギーが必要だ、って足の下の南極をみると、なんとかエネルギーの採取に成功したNathanたちがHollow Earthの穴経由で送ってくれて、更にはApexを追って香港に現れたゴジラがその穴に向かって放射能を噴いてコングを煽るので、コングとNathanとIleneとJiaは穴を抜けて香港にやってくる。

こうして香港に来ても懲りない戦いを繰り広げるゴジラとコングなのだが、その脇でApex社はメガゴジラを本格的に起動させて、それはPacific Rimみたいなロボットではなくて、”Godzilla: King of the Monsters”の最後にサルベージされたキングギドラの首とも繋がっていて…    

というわけで、コングの住処はJurassic Parkだし、メガゴジラはTransformersのようだし、青く光る杖はMCUのTesseractだし、Madisonのチームはまるで”Stranger Things”だし、手話でコングと会話をするJiaはディズニーのキャラクターのようだし、ぜんたいとしては地底探検なども含めて、これまでのB級SF映画のいろんなのを寄せ集めて、そのなかで怪獣たちをどかすか戦わせている(だけの)ような。 子供は喜ぶ.. かも。

2014年のGareth Edwards版がそのダークな雰囲気も含めてとっても大好きで、前作の”Godzilla: King of the Monsters”は人間が怪獣をコントロールするというテーマをそれなりに掘り下げていたのは悪くなかったと思うのだが、今度のは思いっきり噛みつき引っ掻き殴り合うバトルの方に振り切っていて、香港の街のセットとか、メガゴジラの登場シーンとか、子供の頃にいっぱい見てきた怪獣特撮もののあの感覚にとても近い(意識的に寄せてる?)。それでおお!ってなる大人も多いかもしれないが、いいのだろうか…  この辺は日本公開後にその筋の方々にうかがいたいところ。

あと、Apex社が、その名が思い起こさせるあの会社のことも含めてあまりにバカっぽくてださくて。いまの時代ならメガじゃなくてせめてギガとかテラだろ、とか、そこのCTOだという小栗旬は”Big Trouble in Little China” (1986)の電撃の人みたいになっちゃうし、他にはパスワードロックされて絶体絶命になったら水をかける、とか… 小栗旬の役名が芹沢なので、前作の彼となにか関係あるかと思ったけどなんの言及もないし。

人間にとって怪獣とはなんであるのか、というのを考えさせるのがよい怪獣映画だと思うのだが、怪獣を複数登場させること(だってひとりじゃないだろ)で、どうしても動物としての種の間の闘争 - バトルみたいなところに向かってしまうのがきつい。このコースはもう見てきているので、間に合っているんだけどー。そのエコシステムを破壊しているのは人間である、って何千回言えば気が済むのか。

あと、香港の街があれだけ破壊されて数千数万の規模で死傷者が出ていると思われるのに中国国軍は一切登場しない。ここはわざとそうしているのだとしても、やはりあんまし笑えない。

あと、”Godzilla: King of the Monsters”の悪漢Charles Dance はどこにいった? とか、香港なのになんで、Dr. Ling (Zhang Ziyi)は出てこないんだよう、とかも。

4.03.2021

[film] Donnie Darko (2001)

3月28日、土曜日の昼、MatrographのVirtualでやっていたので、なんとなく久々に見たくなった。
(そういえばMetrographの映画館のフロアには等身大のウサギのFrankが置いてあったなあ)
2001年の公開時のNYは911でそれどころではなくて、見たのは2004年に公開されたDirector’s Cutの方だった。その後もTV等で放映された時に見たりしていたのだが、たぶん10年ぶりくらい。

そういえば今日からイースターの4連休に入ったが昨年の今頃には丁度”Southland Tales” (2006)を見ている。

1988年10月2日、バージニアのミドルセックスの高校生Donnie Darko (Jake Gyllenhaal)がどこかの山道で自転車の横で目覚めて、そこで世界の終わりが近い -  今から28日6時間42分12秒後に世界が終わるってお告げを受けて、そこから10/6, 10/10, 10/18, 10/24, 10/26, 10/29, 10/30と刻々と終わりに向かっていく時間のなかで、Donnieが見た世界、経験した世界あれこれ。 あらすじなんて追ってもしょうもない。

Donnieは世界はいつか(もうじき)終わる、っていうのと人はひとりで死ぬ、とかいろんな考えにとりつかれたり幻影を見たりしていて、そのおおもとには教師のKaren (Drew Barrymore)が授業で使ったグレアム・グリーンの『破壊者』とか、タイムトラベルのこととか、体育教師やいんちき自己啓発野郎のJim Cunningham (Patrick Swayze)とか近所の謎めいた老婆 - Grandma Death (Patience Cleveland)とか転校してきたGretchen Ross (Jena Malone)とか、気がつけば横にいるでっかいウサギのFrankとか、いろんなのがいて、でも両親がDonnieにつけた精神科医 Dr. Thurman (Katharine Ross)によると彼の幻影は妄想性統合失調症によるものらしいので、なにがどこでどう繋がっているのやら。

同様に飛行機のエンジン(エンジンだけ)が自宅に落ちてきたり、学校が洪水になったり、銅像の頭に斧が刺さっていたり、壁の落書きには”They made me do it”ってあったりするので、総合すると、やがては終わる運命にある世界が、そこにおいてひとりで死んでしまう自分や周囲の人に対していろんなことを強いていて、その行方や軌跡は定められたものとしてポータルを通して幻視することができるのだ、って。 で?

こうして「世界の終わり」があることを「自分はいつか必ず死ぬ」ことを知ってしまうと、しかもそれを強烈に知って意識してしまうと、世界に溢れる知とか悪とか政治とか愛とかそれらを統御している時間とかがはっきりとある力を伴って自分を縛りにくることが見えてくる。それってストーリーにしようとするとなんでもありの荒唐無稽なSFになってしまうのかもしれないし、ただのひとりよがりな思春期ウィルスを散らしただけのものになってしまうのかもしれない。

のだが、ここでのDonnie Darkoの思い込みはとてつもなく強固でそれ故に切実なので(その理由は最後に)、そのストーリーとイメージの絡みかたも含めて自分がかつて見た夢のように、彼の軌跡を - 生への執着を追ってしまう - そういう強さで迫ってくるという点で、これはとてもピュアな青春映画、と言ってよいのだと思う。
世界が終わってしまうもんなら、こんなてきとーに生きさせるじゃねえよくそったれ、って。(& Drew Barrymoreの絶叫)

そして、”Southland Tales”ではこのなんでもありのストーリーテリングをできあがった(腐れた)大人の、政治の世界に敷衍し、より具体的にどうしようもなく迫ってきた世界の終わりと、死ぬだけではない、「生き残ること」についても真剣に語ろうとしているような。 でもこちらはやはり”Tales”であって、ここの、”Donnie Darko”その人の生の物語とは違うなにかではないか。

ひとついつも気になってて余り掘ったことがないのは、これってとっても男子の世界の側で起こりそうなお話だよな、って。それが滅びる話なので別にいいんだけど、このお話の熱狂的なファン層 - 世界中にいろんなフォーラムとかある - の男女比とか、どうなっているのか少しだけ知りたい。

あとは狙ったとしか思えないサウンドトラック。"The Killing Moon”も"Head over Heels”も"Under the Milky Way”も、当時あれらの曲を真剣に聴いていたひとなら、ああいう場面で鳴るはず、というのをイメージした、ほぼその通りにイントロが鳴り響いたりする。 これだけでこの映画のDonnieのように運命的ななにかを感じてしまうに違いない。 エンディングは"Mad World”だしね。 そしてこれらの楽曲が英国のだったのはたぶん偶然ではないの。

4.02.2021

[film] Felkészülés meghatározatlan ideig tartó együttlétre (2020)

3月27日、土曜日の昼にCurzon Home Cinemaで見ました。

ハンガリーのLili Horvátが作/監督したハンガリー映画で、本選のノミネーションからは外れてしまったがハンガリーから今年のオスカーにエントリーされた作品。  英語題は“Preparations to Be Together for an Unknown Period of Time”。

冒頭にSylvia Plathの”Mad Girl's Love Song”の最後の一節がまるごと引用されている。

わたしはかわりに雷鳥を愛するべきだった。
少なくとも春になれば彼らは轟音とともに戻ってきてくれる。
わたしが目を閉じれば世界はみんな死んでしまう。
(わたしは頭のなかできみを作ったのだとおもう)

優秀な神経外科医のMárta (Natasa Stork)が20年ぶりにアメリカからブダペストに戻ってくる。 理由はニュージャージーの医学のコンベンションで出会った同じハンガリー人のJános (Viktor Bodó)と恋におちて、彼と1ヶ月後の夕刻にブダペストのリバティ橋で再会する約束をしたから/したはず、なのに、彼は現れてくれなくて、大学にいる彼を捕まえると、あなたとはお会いしたことはないけど..  と言われる – ので彼女は卒倒する。

カメラはMártaに密着し、彼女の目線でふたりのニュージャージーでの出会いを何度も再生していくのだが、それは会って食事したり話し込んだりキスしたりした、という像ではなく、彼女が彼の姿をずっと見つめていた(彼とは目があったかも)、というくらいのそれなので、これは彼女の思い込みがドライブしているなにかなのではないかと思い、彼女自身も思い違いだったのかも、ってアメリカに帰国しようとするのだが、空港まで行って荷物チェックをくぐった直後に彼女に何かが走って、そのまま街に戻り、アパートを借りて、Jánosの勤務する大学病院に職を得て(彼女ほどのキャリアの人がなんでうちに?と言われる)、彼のことを追っかけ始める。(コメディになってもおかしくないのだが、そっちには向かわない)

大学病院側では突然アメリカから現れた女医によい顔をしないのだが、彼女は淡々とクールでそんなことに構っている場合ではなくて、むしろ職場のあちこちに現れるJánosにどきどきしたり、手術をした患者の息子で医学生のAlex (Benett Vilmányi)に求愛されたりいろいろ大変で、とにかく彼女はJánosに近づくこと、彼と親密になることしか考えていなくて、自分が正気ではなくなっていることも十分認識している。

途中から彼女が精神分析を受けているシーンも入ってくるので、彼女はなにかをやらかしてしまったのか、と思うのだが、簡単にその地点には飛ばずに、彼女の強い思いがそう見せているのか、Jánosの何かが彼女にそう見せているのかを明確に示さず、恋と呼んでいいものかもわからない錯乱した状態にある彼女にとって、このめくるめく世界がどんなふうに見えて推移していくのかを丁寧に追っていく – それはまさに”Preparations to Be Together for an Unknown Period of Time” – まだ見えていない時間に向かって一緒になるための準備 - としかいいようのない思考、というか挙動の総体で、それは神経外科医の彼女であっても解きほぐすことができないようなものらしい。

やがてMártaの手術しているところに突然助手としてJánosが現れたり、同僚としてMártaに話しかけてきたり、作家でもある彼の本の出版記念パーティに行って話したり、彼を追って家まで行ったら娘が出てきたり、そうなってもそれが本当に起こっていることなのか疑わしい、カメラはどこまでもそういう夢のなかの出来事を追っているような動きを見せるし、彼女の表情はどこまでいっても硬いままだし。

これが延々続いた果てに、ああそこにいくのかー、ってなるラストがすごくいいので見てほしい。
恋ってこういうもんだし、っていうのと、映画っていうのはやっぱりこういう恋を描くものだったんだな、って。

昨年の1月に少しだけ滞在したブダペストの街がとても懐かしかった。アパートメントホテルもあんなかんじだったし、街灯の少し暗いかんじとかも。ロックダウンの前の旅の思い出はぜんぶ甘くてすてきだ。


月が替わったので書きますけど、5月に帰国することになりました。
ここ数ヶ月間、なにもかも嫌になっておちこんで、会社をやめる家をでる崖にむかう、そんなことばかり考えていたのだが(そういう時間だけはいっぱいある)、もういいや、って引っ越しの準備 - つまり持って帰るものをやけくそで買い漁るモードに切り替えた。 英国からだとスーツとか靴とか食器とかが多いらしいのだが、そんなの一切無視で、古い本とか新しい本とかでっかい本とか、そういうのばかり。オンラインは便利だなーちくしょうめ。 というわけなのでしばらく更新はちょこちょこ滞ることでしょう。