7.06.2016

[film] Les nuits de la pleine lune (1984)

6月4日の土曜日の午後、有楽町のロメール特集でみました。

『満月の夜』。 “Full Moon in Paris”

シネ・ヴィヴァンで見て以来。 懐かしすぎて手足をばたばたさせたところで30年は…
『六つの教訓話』シリーズはへらへら見て「ばかじゃのう」で済んでしまうけど、この作品に関しては俯いて溜息をつくしかない。
満月の夜に満月を見ると、「満月の夜」だあ、て思ってつい東京タワーを探してしまい、岡崎京子の漫画を思い浮かべる、という連鎖から一生逃れることはできないのか。それはそれでじゅうぶんばっかじゃねえの、とか思うが。

パリ郊外のアパートに恋人と同棲しているルイーズ(Pascale Ogier)の、主に夜にぐるぐる回りながら人間くっついたり離れたりあれこれのー。  決定的な出会いも別れも、誰かが死んだり殺されたり自殺したり発狂したり、もなく、ただ背景に流れていく人々と時間と。

孤独であることと誰かと一緒につるんでいること、あるいは、完全に孤独でありたいと思うことと誰かと一緒にいたいと強く思うこととは、相反するものではなくて、するする服を着替えるようなもので、誰も完全にひとりにはなれないし、完全にわかりあえるひととは出会えないし、でもひとりでありたいし、出会いたいと強くおもう。 
だからひとはひとところには留まらずに夜のあいだもずっと人魂のように彷徨っていて、それが常態化してみんな暗くなると誘蛾灯のまわりをふらふらしていた、ていうのがあの時代のパリだろうが東京だろうがのありようで、その空気感がきれいに捕まえられていることに改めてびっくりした。

インテリアデザイナーをやっているルイーズ、恋人と同棲しているのに別の部屋を借りようとするルイーズ、恋人と同棲しているのに他の男を探してしまうルイーズ、朝の白々した郊外のアパートにひとりですたすた帰るルイーズ、彼女のあんな服こんな服、しかめっ面、むくれ顔、いきがり顔、焦燥、目の強さ。  彼女とはどこかですれ違っている。 彼女はわたしだ、と思うひとが1000人くらいはいる/いたはずだ。

ほんとうに不思議なのはそこで、なにをもって自分はこれを自分の時代であり時間だと、自分の領土だと断言することができるのか、ていうこと。 遠くに行ってしまった犬が自分ちに帰っていけるような何か(犬のほうに? 家のほうに?)があるのかもしれない。

ロメール + Néstor Almendrosが印象派的なアバウトさで風景(連作)のなかに切り取った男女の心象はここにはなくて、あるのはRenato Bertaが写真のような緻密さで切り取った夜の風景 - 灯りの周りに群がる蛾の粒粒とその周囲に広がる闇とそのコントラスト - で、夢を再現したみたいだ、と思った。 夢の世界では自分が絶対の王なのね。

ロメールの作品、というよりこれはPascale OgierをRenato Bertaが撮った作品、としてしまってよいのかも。
上に書いたようにここでのPascale Ogierは女優だなんだ以前に、圧倒的にそこにいる。彼女自身が満月のようにひとり輝いてある。

ただ、音楽だけがー。 ディスコでかかっているやつ、あんまりにも、いじわるか、ていうくらいださすぎる。  でもひょっとしたら、あんなもんだったのかも、と思ってしぼんだり、とにかくいろいろ心乱されること半端なかった。

7.05.2016

[film] Vingt et une nuits avec Pattie (2015)

『パティーとの二十一夜』。  英語題は“21 Nights with Pattie”

ラリユー兄弟特集、『描くべきか愛を交わすべきか』に続けてみました。
ものすごくおもしろくてびっくりした。 これがなんでふつうに公開されないのか、ちっとも理解できない。

夏の真っ盛り、フランスの山奥の村にキャロリーヌ(Isabelle Carré)がやってくる。 疎遠だった母が急死したので葬儀のために母の住んでいたお屋敷「秘泉荘」に滞在して、母と親しかった村人とも会うのだが、母の友人だったパティ―(Karin Viard)は会うなりべらべら猥談(自分がやったりやられたりしたすごいはなし)を始めて、夫も子供もいる、でも最近不感症になっているキャロリーヌには目が点で、へんな村、へんな人たち、と思って宿に戻るとあったはずの母の遺体が消えている。

警察はあてにならないというので憲兵隊に連絡して、ネクロフィリアかもしれない、とか言われてぞっとして、しかたなく滞在予定を延ばすことにしたら母と親しかったという老人ジャン(André Dussollier)が現れて、母の遺体はどこかに消えてしまいました、ていうと激昂したりして謎で、でも後で母の書斎の本を調べてみたら、ひょっとしてこのひとは作家のクレジオかもしれなくて、更に母と知り合った年からすると自分の父親なのかもしれない、とか思ってうっとりしたり、パティ―の息子の青年は自分に気があるに違いない、と思ったり、気がありそうなのは、変な木こりのドゥニ・ラヴァンとか、憲兵隊のおやじもそうだし、なんか急にモテるようになったのかも、とか、パティーのいっていた狂おしいスッポンタケの林とか、そもそもママはどこに行っちゃったのよ! とか、なんだかとっても気忙しく、落ち着かない。

いなくなった母も含めて、あんたらみんななんなのよ! で妄想も含めてあたまのなかがぱんぱんに膨れて、半ばやけくそで村祭りの盆踊り(あのバンドすてき)に出かけ、暗闇のなかの雷雨・豪雨もきて、彼女は。そして母は。

突然向こう側に行ってしまい、更には遺体ごと消えてしまった母を経由したのか彼女が仕組んだのか、キャロリーヌのなかの何かが開かれ、吊るされた鹿の皮がばりばりめくられてしまうように、何かが見えるようになって、やっぱし愛は交わすべきか、みたいになる。

おとなの国のアリス、おっかなくない幽霊話、怪奇譚、あんまやらしくない猥談、などなど、すべてがあけっぴろげで大らかで、みんなずっと酔っぱらってばかりで、いいなあー、だった。 
しかもあの村はほんとうにあって、パティ―もドゥニも実在のモデルがいるんだって。

ブニュエルみたいな、ラテン系の大らかさ(ほとんど「ばんばん!」しか言わないドゥニ ... )がたまんない、なにがたまんないのかというと、真夏の夜の眠れない狂おしさが伝染してきそうな、むずむずしたかんじがやってくるから。

もうひとつ、夏の夜のどんちゃん騒ぎに対比される主人を失った「秘泉荘」の暗さと静けさ、揺らぐカーテンとか。 そこにゆらーりと浮かんで舞う ...

監督ふたりのトークもおもしろかった。 なんともいえないうさん臭さとやらしさ(ほめてます)を湛えていて、Blonde Redheadのあの兄弟みたいな。
兄弟監督でいうとタヴィアーニ兄弟の「カオス・シチリア」を思いだした。たんにいま見たいだけかも知れないけど。

あと、2本通してSabine AzémaとAndré Dussollierを久々に見てやっぱしうまいよねえ、て思った。
(アラン・レネも見たくなった)


ああそれにしても。 朝目覚めて大切なひとがいなくなってしまったことを知って寝床から起きあがれなくなるという日々をなんとかしてほしい。 今年はあまりにきつすぎる。
お願いだからいかないで。

7.04.2016

[film] Peindre ou faire l'amour (2005)

2日の土曜日の午後、アンスティチュの特集のなかのラリユー兄弟の3本、のうちの1本。
『運命のつくりかた』は2012年の特集 -「映画とシャンソン」で見ていて、大好きやなつだった。
そして今度のもすてきすぎ。

『描くべきか愛を交わすべきか』。 英語題は“To Paint or Make Love”。

長年連れ添ったウィリアム (Daniel Auteuil)とマドレーヌ (Sabine Azéma)の夫婦は終の住処、というほどではないが引退後に定住する場所を探していて、山のなかの原っぱに囲まれた大きな山荘/農家を見つけてよいかも、て思う。 画家のマドレーヌがそこで風景画を描いていると原っぱの向こうからアダム (Sergi López)がやってくる。盲目の彼は、この村の村長で若く美しいエヴァ (Amira Casar)とふたりで近所に住んでいて、こんど一緒に食事でも、となって4人で仲良くなっていくのだが、ある晩、火事でアダムの家が全焼して焼け出され、ウィリアムの家に身を寄せて一緒に暮らすことになって、更にいろんな親密さが湧いて、少しの軋轢もでてきたので、ふたりは南太平洋のフツナ(だっけ?)に行ってしまう。

太平洋から一瞬戻ってきたアダムとエヴァと話した彼らも、その島に惹かれるようになって、うちも移住しようか、と今の家を売る決意を固めるのだが、売りに出した家を見にきた若いカップルとまた親密なことになって、なんかやっぱり売るのやめようかな、と。

文章で書くと変なかんじだけど、映像はフランスの山間の美しい風景、そのゆったりとした夕暮れ時から夕闇、闇夜の濃さと、老いと死(による別離)が見えてきた初老の夫婦の手探りの不安、それがアダムのガイドによって和らいで、闇夜の野道を歩く感覚を身につけて、だんだんに増していく親密さ/酩酊/エロスへの希求を大らかに、絵を描くように(→ゴーギャンとか)浮かびあがらせていて、すばらしいとおもった。

常に闇の世界にいるアダム、新たな家で闇の暗さ/黒さを意識するようになった夫婦、無垢で豊潤なエヴァ、光がゆっくりと消えていこうとするとき、ひとはどこに向かってなにをしようと思うのか? 食べる、飲む、踊る、歌う、絵を描く、愛を交わす、などなど。

戸惑い、失望、ためらい、どきどき、やっちゃった、あーあ、などを互いに解りあった夫婦間の呼吸みたいなところに落とさずに、別のカップルとの出会いとか森の闇の深さから逆照射して浮かびあがらせて彼ら自身に再発見させるような描きかたをしようとしていて、それが少しもわざとらしくなくうまくいっている。 そういう演技ができる俳優さんたち(Daniel AuteuilとSabine Azémaの繊細さときたら)であるが故、なのだが。

あの森の夜闇とアペリティフと柔らかな灯が、老夫婦を錯乱させて狂い咲きさせてしまった、それだけの映画なのかもしれないが、それにしてもすばらしく豊かで官能的な表現があって、”Nature Boy"の切なさもあって。 「描く」- 自分でなにか表現する - か「愛を交わす」 - 野性に身を委ねる - か、どっちもやってしまえばいいのよ、って。

[film] Torneranno i prati (2014)

5月29日(まだ5月)の日曜日の昼、神保町でみました。

「緑はよみがえる」英語題は”Greenery Will Bloom Again”。
でも緑色なんて出てこない。 カラーのはずだがモノクロの墨絵のように暗い光景がずうっと続く。

1917年の冬、第一次大戦中、北イタリアの雪山のなかでイタリアとオーストリアが塹壕を組んで対峙して睨みあっていて、互いにまったく動けない。でもこの膠着状態が続く限りにおいてこの一帯の安泰は保たれていて、イタリア軍兵士が歌いあげる民謡が月夜に響いて両サイドから喝采が起こったり、家族に手紙を書いたり読んだり、ベッドの端にやってくるねずみくんにご飯をあげたりしている。

ある日雪山を越えてイタリアの本部からの使いが二人現れて、ここの無線は傍受されているようだから新たな無線局をこの辺に作るように、と言う。この辺て言われた辺りは地図上はまっさらで正気か? 暇つぶしか? としか思えないのだが、命令だし、命令ということはここから外に出ろということですよね?  と軽く一歩踏みだしてみた兵士はあっというまに一発で…(この間合いときたら冗談みたいにすごい)。

で、その辺から突然爆撃が始まって、戻ることも進むことも留まることもできない地獄絵が広がっていく。戦争の悲惨とか狂気とか不条理、というよりも描き方としてはとてつもない雪崩が起きて半分以上の兵士が為す術もなく巻きこまれて亡くなり、半分が雪原に放り出された、という状態に近い。一方的にやられるしかない、とてつもない無力感だけがやってくる。 雪崩と違うのは、これをやっているのがついこの間、きれいな月夜の晩、同じ唄に聞き惚れて喝采してくれた反対側の兵士だった、ということだけだ。 それだけなんだ。

もうじき85歳になるオルミ監督が自身の父に捧げた76分。
『木靴の樹』で撮られた19世紀末の貧しい農村の風景と、この映画で撮られた20世紀初の戦場の風景と。
どちらも同じ国の、みな同じような家族がいる情景になるはず。 だった。

兵士が手紙に綴る「人が人を赦せないのなら人間とは何なのか」という言葉、更には、この凍てついた救われない雪山になんで「緑はよみがえる」というタイトルを付けることができるのか。

そして、同様の問いを示し続けたエリ・ヴィーゼルが亡くなった。
まだいろんなことを教えてほしかった。ご冥福をお祈りします。

7.03.2016

[film] La collectionneuse (1967)

5月28日の土曜日、有楽町で「モード家の一夜」に続けてみました。

『コレクションする女』。  “The Collector”

ロメールの最初のカラー映画(こんどはカラーのNéstor Almendros)で、『六つの教訓話』のよっつめ。

冒頭、ビーチでビキニ姿のHaydéeの肌をカメラがべったり追うのだが、身体のでっぱり窪みや皮膚の毛穴までものすごく鮮やかで鮮明で、これがコレクションする女。 食虫植物もの。

続いて缶カラに剃刀の刃をつけたりしてる三文アーティストのDanielがいて、更には野外のテーブルを囲んで恋人は顔か頭か性格かみたいな議論をしている男女のグループがあって、そこにいたのがAdrienとその彼女で、彼女のほうは彼の誘いをふってロンドンに発ってしまい、画商との商談のためAdrienがDanielの海辺の別荘にいくと、そこにいたのがHaydéeで、なにが本業なんだかわからない彼女はしじゅういろんな男を連れこんでだらだらごろごろしている(いいなー)。

最初はあんな女(蔑)、だったのだが自分にはなんだかつれないし、他方でDanielとも寝たりしているのでだんだん苛々気になってきて彼女を追いかけ始めて、でも結局は。

ファム・ファタールものではなくて、自分はそこそこいけているいけるはずと思いこんで育った鼻もちならない系の男が「は? なんであんたが/あんたに?」みたいにごく自然に振り回されてかき乱されてしょんぼり消えるようなやつ。 やっぱし女にはかなわないや、と男はいうのだがあんたそもそも圏外だから。
かんちがいすんなよ、ていうあたりが教訓?

すばらしい浜辺の陽光があって、神々しい女の子の肢体と微笑みがあって、それだけのものが充満している -  カメラはそれらを絵画のように再現する -  のに満たされないのは、なかなかいけない到達できないのは、男共の性欲ばかりでかわいそうにー、なのだがそれを見る我々はちーっともかわいそうだとは思わない、というやり口。 そういうのこそが美に対する、愛にたいする慎ましい態度を育ててくれるのだから黙ってろぼけ、とかいうの。
(反対に緑の光線とか青の時間にはしみじみよかったねえ、と思うのはなぜか?)

「モード家の一夜」を見てこれを見ると、夏も近いしロメールのレッスン(ほら、教訓いっぱいだし)に通っておかないとね、ていう感じになって、それもまたなんか懐かしいのだった。

7.02.2016

[film] 10 Cloverfield Lane (2016)

6月26日の日曜日の晩、新宿でみました。

たぶんネタバレすると思うのだが、でも「ネタ」ってなんだよ? といっつも思う。

おそらく、結末とか決着とかそういうことだと思うのだが、そんなの知ったところでどうなるのかしら? 食材を並べたところでおいしいかどうかなんて、誰にわかるっていうのかしら? (おれにはわかるんだよ、ていうひとが沢山いるのね)

JJAの映画はそういう意味では「ネタ」オンリーでできていて、ネタとして出てこないものは一切視界の外にあってわからないし、関知しないし、映画の画面に出てきたこと、そこで起こったことが全て、という作りになっている気がする。

“Cloverfield” (2008)ていうのがまさにそれで、なんでもビデオに録っておきたがるバカが経験したこと、あのビデオに映ったものがほぼ全てで、そこから先の、「あれ」がなんだったのか、どっから来たのか、名前はなんなのか、なんでいろいろ壊したり襲ってきたりするのか、なにひとつ明らかにされないまま、でもそんなの知ったこっちゃない状態であれらはわらわらやってきて、追ってくるからとにかく逃げるしかない、そういう世界のお話し、という点では繋がっているのかしら。 ← なんかばらしてる?

とっても人生が嫌になったらしいミシェル(Mary Elizabeth Winstead)が家を飛びだして車で道をえんえん走っていたら夫(Bradley Cooper - 声だけ)が電話をしてきて、ちょっと気を取られたその瞬間、車がひっくり返って暗転して、気がついたらどこかわからない部屋に鎖で繋がれていて、現れたのはハワード(John Goodman)ていうむさいでぶの巨人で、ここは自分ちのシェルターで外界は汚染されているから外に出たら死ぬぞ、て言われる。

とうぜん怪しいし信じられないので散々逃げるべく暴れるのだが、どうもハワードの言っていることは間違っていないようだし、食べ物はくれるし怪我も直してくれるし、大抵のものは揃っているし。 同じようにそこに逃げてきたエメット(John Gallagher Jr.)と3人で暮らそうとするのだが、やっぱり疑念が湧いてきてしまい、そしたらぼろぼろいろいろやばいのが出てくるのでやっぱし逃げるべし、になって、出てみたらなにこれ? な世界が待っていた。

巻き込まれ型サスペンスから監禁ホラーになって脱出モノになってからエイリアンだか宇宙戦争みたいになる。 ミシェルさんはとってもついてなくてかわいそうとしか言いようがないのだが、なんでこんなことになったのか理由は一切明らかにされない。そこには謎みたいなのがまったく、殆どないの。

何かが起こって外界と大気が汚染されて、それを予見していたハワードはシェルターを準備していてそこにミシェルとかエメットを匿われて、以前そこにいた女の子になにかあったらしいが一緒の暮らしに耐えられなくなっただけかもしれないし、ハワードがパラノイアみたいになっているのは、まあそういうひとはそこらにいるもんだし、それが嫌になったミシェルが外に出るのは自然だし勝手だし、そこで変なのが襲ってくるのも、地球外のなら、そういうもんでしょ。

だから、おっかないようー、にはあんまならなくて、ご愁傷様ねえ、なの。

あとは、”Super 8” (2011)にもあった(失われた or 失われてはならない)家族のおはなし。
ハワードが”Pretty in Pink”を見ているシーンがあるのだが、そのへん。

6.30.2016

[film] A Royal Night Out (2015)

もう時系列なんてどうでもいいわ。好きに書いていくわ。
6月12日 - エリザベス90歳祝賀の日の午後、お祝いついでに新宿でみました。

『ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出』

長く続いた戦争の終わり、1945年5月8日、ヨーロッパの戦勝記念日の日、国をあげてのどんちゃん騒ぎに突入しようとしていたその晩、19歳のエリザベス(Sarah Gadon)と妹のマーガレット(Bel Powley)はひと晩だけ外出をパパ(キング)とママ(クイーン)に許してもらってロンドンの街に飛びだしていく。

ふたりにはもちろん護衛ががっちりついているのだが、みんなのお約束でこいつらはぼんくらにできているので、はっちゃけたマーガレットが見事にぶっちぎって街中にきゃーきゃー消えていってしまったのでエリザベスも彼女を追ってトラファルガー広場に行ったりSOHOに行ったりCurzon Clubに行ったり、不思議の国(自分が王女なんだけどな)のアリス状態になる。 その晩から朝帰りした翌日までのあれこれ。

ひとり放り出されたエリザベスが困って途方に暮れていると軍人のジャック(Jack Reynor)と出会って、彼は無骨で不愛想でぶつぶつ言うけどバス代払ってくれたり案内してくれたり守ってくれたりして、でも彼とは恋仲にならないことはみんなようくわかっている(ま、そういうかんじなのよ)のでなんか切なかったり。

「ローマの休日」(1953) ていうよりも"The Princess Diaries” (2001)(だいすき〜)のほうに近いかんじもした。
あとは一瞬だけ「水戸黄門」とか。

辛かった戦争が終わった歓び、戦場での苦しみ、戦後にやってくるであろう苦み、いろんな人たちの思いが渦を巻いて盛大にぶちまけられた乱痴気場をジャックとふたりでばたばた通って抜けていくエリザベスにも人々の歓喜だけじゃない思いはゆっくり浸透していって、王女さまもなにかを学んで成長したにちがいない、ていうのと、その反対側で薬まできめていかれてとことん能天気なマーガレットの姿もよくて、作り話なんだろうけど当時のエリザベスがあそこにいてもおかしくなかったかも、と思わせてしまうようなところがあって、英国のこういうのが好きなひとにはたまんないと思う。
うん、おもしろかったよ。

あと、かるーくビンタのショックを受けてしまうのが、Emily Watsonが女王でRupert Everettが王様、ていうことで、これはBrexitとおなじく、もうそういう時代なんだわ(こんなはずでは … 嘆)、としか言いようがないのだった。

そしてもう一年の半分が終ってしまうのね。