6月16日の木曜日、アテネ・フランセの『「ポンピドゥー・センター傑作展」(東京都美術館)関連企画 フランス映画傑作展』 - ながいね - ていうののオープニングで見ました。
日本橋で仕事を抜けた(から逃げた)のが18:00で、そこから地下鉄潜って乗り換えて新御茶ノ水のくそ長いエスカレーターを駆け上って、小雨のなか走って、建物についたらそうだ4階だったとさらに階段のぼって、これぜったい死ぬかもと這うように18:30丁度に着いたら、まだ並んでチケット売ってた...
18:30はきつすぎる。 でもそこまでしても見たかったし、講演ききたかったし。
『リュミエールの惑星(リュミエール28作品による世界旅行)』
1895年、リュミエール兄弟は世界中にカメラマン/オペレーターを派遣して、各地のいろんな映像を撮った。それを1995年、映画生誕100周年記念で再構成したもの。短い映像が28パート、25分で世界一周する。
リヨン - パリ - パリ - そこからヨーロッパに出て、ロンドンとかベルリンとか、さらにアフリカに行ってアジアに行って、最後は日本までくる。 200年前のいろんな国のそれぞれの風景とか人とか。
どのパートも最初が静止画で、古い写真で、それが突然動きだす瞬間がたまらない。ドラムスが入って音楽が、世界がわんわん鳴りだす瞬間というか。
「地球」ではなくて「惑星」。 回転する傘の上でころころ転がっていく球体。
続いて19時過ぎから、ドミニク・パイーニ先生による講義:
『リュミエール兄弟とフランスの芸術:印象派と映画の発明』 あっというまの1.5時間。
リュミエール兄弟が撮った映像のクオリティの高さ - なんで彼らの作品、審美眼はあんなにちゃんとしているのか? を裕福だったリュミエール家の、画家だった兄弟の父がごく普通に範としていた古典的な作家 - ウィリアム・アドルフ・ブグロー(William-Adolphe Bouguereau 1825 - 1905)の紹介から入って、でも彼らが映画として切り取った日常/非日常のありようは、ブグローの世界のそれというよりは同時代の印象派のそれに近い。
だがそれは、印象派の画家たちと登場のタイミングが近いから、印象派と同じような題材を扱っているからというだけの話ではないのだと。
長くなりそうなのでうーんと要約してしまうと;
19世紀前半に出てきた写真と、産業化・工業化の進展と、それによって可能となった大量複製、再現可能なものに対する期待や要請、などなどがアートの対象や目線を神や神話的世界、自身の属していた(上流)社会といった普遍(&不変)の世界からの変容(グローバリゼーションの初っ端)を促した。
時間的には切り取られた時間、移ろいゆく時間へ - 更にはそれらが引き起こす儚さ・メランコリアへと、空間的には切り取られたフレームの中と外、運動の中断、などなどの緊張関係がもたらすサスペンスへと。 印象派の絵画が表象したものとリュミエール兄弟の映画が表象したものはこんなふうにその起源を同じくしているのである、と。
これらを説明するのに紹介・引用されたのは;
・ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme 1824 - 1904)
“Painting Breathes Life into Sculpture” 1893
- ブグローの絵画の系譜にありながらも題材が現代のそれになってきた例として。
1850年代、自然に惹かれていった画家たちの代表例として -
・カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot 1796-1875)
・テオドール・ルソー (Théodore Rousseau 1812-1867)
・ピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌ (Pierre-Henri de Valenciennes 1750-1819)
上の風景画家の祖として、上下逆さにしてもたいして変わんないような抽象絵画の祖としても。
ここで取りあげたような印象派絵画の特徴がぱんぱんに詰まった2枚として:
・エドゥアール・マネ「鉄道」(1873)
・ギュスターヴ・カイユボット 「パリの通り、雨」 (1877)
更に都市風景や工場などをテーマにした黎明期の写真家として;
・シャルル・マルヴィル(Charles Marville 1813 - 1879)
あと、画像としては出なかったけど、リュミエールの映像との対比で紹介された
・鏑木清方「墨田河舟遊」(1914)
これ、金曜の晩に竹橋で見てきたのですが、ほんとうに素晴らしいよ。
隣に並んでいる土田麦僊の「湯女(ゆな)」(1918)とあわせると、涼しい風がさらさら来る。
最後に紹介された2本の動画、”Washerwomen on the River” (1897)と馬のながーい列が奥に連なって行くやつ(見つからないや)は、ふつうに見ればごくふつうにおもしろいのだが、先生が説明すると魔法のように戦慄の動画に豹変してしまうので、映画よりもそっちのほうにびっくらした。
ていうような流れとは別に、こないだようやく読み終わったトーマス・ベルンハルトの『消去』の怒濤のラストにあった『写真の映像が 〜 世界規模の白痴化を作動させたのだが、そのプロセスは写真映像が動きはじめた瞬間、人類にとって致命的な速度に達した』みたいなところ、堕落と転落が加速していったほうも見ていかなくては、て思うのだった。
6.18.2016
6.15.2016
[film] Gold (2013)
14日の午後、アテネ・フランセのアルスラン特集、"In the Shadows"に続けて見ました。
犯罪もののあとは西部劇。 ふつうにイメージする西部劇とは結構違っていて、ロードがなかった時代のロードムービー、のように見ることもできる。
19世紀末の夏、カナダの田舎の駅にエミリー(Nina Hoss)が降りたって、出発しようとしていた金鉱掘りのグループに加わり、掘ればじゃんじゃか出ると噂の北部の金鉱に向けて出発する。 その隊を率いている案内役のおやじは、行けば絶対に当たるから儲かるから、て意気揚々で、でも全財産をはたいてここまで来たらしいエミリーにとっては最後の賭けで、意志は固いけど明るく盛りあがることなんてできない。
タイトルは『黄金』で、でも黄金に憑かれたり狂ったりした人たちのお話しではないし、黄金が運命を操ったり何かをもたらしたりするわけでもない。 黄金はなんというか、おてんとさまみたいなもん?
そうやって旅にでた移民を中心とした7人とお馬数頭だが、道行きはとっても過酷で、地図なんてないも同然で方角わかんないし、原住民に教わってもあまりあてにならないし、リーダーも嘘つきだった(ので追い払った)し、いろんなことが起こってひとりまたひとりと死んだり狂ったり脱落していって、最後はエミリーと寡黙な馬世話係のふたりだけになる。
馬世話係の男はNYで人を殺めて追われている、といい(実際に仇討ちで追ってくる)、エミリーもドイツのブレーメンからシカゴ経由でNYに渡って小間使いとかをしながらここまで来た、かつて結婚していたらしい、ようなことがわかるのだがその程度で、確かなのはあまり先が見えないことと、金鉱にたどり着けたとしてもその後がバラ色になるとはぜんぜん思えないの。 ある土地にいられない or いたくないから土地を移動する、渡る、という点で移民の動きそのもので、移民の生活というのは起点と終点ではなく、そのしんどい渡りのまんなかにあるのだ、というのがわかって、その中で彼女のなにがなんでも向こう岸に行くのだ、という意志ばかりがむき出しになっていく。
人物の撮り方とか置き方は"In the Shadows"と同じようにとても遠くて静かで、撮ろうと思えばいくらでも撮れたにちがいない雄大な景色との対比もそんなにはなくて、例えば"The Revenant"の主人公にびったり張りついて一緒に這ったりのたうち回ったりのようなカメラの動きは皆無で - 熊も襲ってこないし - 開拓時代の果てのない旅を描いたものとしてはぜんぜんちがう。
"The Revenant"をドライブしていたのがHugh Glassの「復讐」だったとすると、こっちはなんだったのだろう - 「諦念」?
的外れかもしれないが、かんじとしては"Wild" (2014) - ひとりで1100マイル歩くやつ - を更に後ろ向きにした19世紀版、のようにも。
音楽はEarthのDylan Carlson。 砂を噛むようなギターの音色がなんとも言えなくよいの。
“In the Shadows”と”Gold”でアルスランという作家がわかったかというと、そんなわけあるかー、だったので、次の回顧上映まで待ちたい。 それまでにのたれ死にしないようにしなきゃ。
犯罪もののあとは西部劇。 ふつうにイメージする西部劇とは結構違っていて、ロードがなかった時代のロードムービー、のように見ることもできる。
19世紀末の夏、カナダの田舎の駅にエミリー(Nina Hoss)が降りたって、出発しようとしていた金鉱掘りのグループに加わり、掘ればじゃんじゃか出ると噂の北部の金鉱に向けて出発する。 その隊を率いている案内役のおやじは、行けば絶対に当たるから儲かるから、て意気揚々で、でも全財産をはたいてここまで来たらしいエミリーにとっては最後の賭けで、意志は固いけど明るく盛りあがることなんてできない。
タイトルは『黄金』で、でも黄金に憑かれたり狂ったりした人たちのお話しではないし、黄金が運命を操ったり何かをもたらしたりするわけでもない。 黄金はなんというか、おてんとさまみたいなもん?
そうやって旅にでた移民を中心とした7人とお馬数頭だが、道行きはとっても過酷で、地図なんてないも同然で方角わかんないし、原住民に教わってもあまりあてにならないし、リーダーも嘘つきだった(ので追い払った)し、いろんなことが起こってひとりまたひとりと死んだり狂ったり脱落していって、最後はエミリーと寡黙な馬世話係のふたりだけになる。
馬世話係の男はNYで人を殺めて追われている、といい(実際に仇討ちで追ってくる)、エミリーもドイツのブレーメンからシカゴ経由でNYに渡って小間使いとかをしながらここまで来た、かつて結婚していたらしい、ようなことがわかるのだがその程度で、確かなのはあまり先が見えないことと、金鉱にたどり着けたとしてもその後がバラ色になるとはぜんぜん思えないの。 ある土地にいられない or いたくないから土地を移動する、渡る、という点で移民の動きそのもので、移民の生活というのは起点と終点ではなく、そのしんどい渡りのまんなかにあるのだ、というのがわかって、その中で彼女のなにがなんでも向こう岸に行くのだ、という意志ばかりがむき出しになっていく。
人物の撮り方とか置き方は"In the Shadows"と同じようにとても遠くて静かで、撮ろうと思えばいくらでも撮れたにちがいない雄大な景色との対比もそんなにはなくて、例えば"The Revenant"の主人公にびったり張りついて一緒に這ったりのたうち回ったりのようなカメラの動きは皆無で - 熊も襲ってこないし - 開拓時代の果てのない旅を描いたものとしてはぜんぜんちがう。
"The Revenant"をドライブしていたのがHugh Glassの「復讐」だったとすると、こっちはなんだったのだろう - 「諦念」?
的外れかもしれないが、かんじとしては"Wild" (2014) - ひとりで1100マイル歩くやつ - を更に後ろ向きにした19世紀版、のようにも。
音楽はEarthのDylan Carlson。 砂を噛むようなギターの音色がなんとも言えなくよいの。
“In the Shadows”と”Gold”でアルスランという作家がわかったかというと、そんなわけあるかー、だったので、次の回顧上映まで待ちたい。 それまでにのたれ死にしないようにしなきゃ。
6.14.2016
[film] Im Schatten (2010)
5月14日の土曜日の昼、アテネ・フランセの『トーマス・アルスラン監督特集 - Thomas Arslan Retrospektive 2016 』で見ました。 久々のアテネだったが入場が整理番号順になってて感動した。
日本語題も英語題も”In the Shadows” 。
アルスランの映画は初めてだし、現代ドイツ映画もわかんないし、現代ドイツ映画におけるアルスランの位置、もわかんないし、じゃあなんで興味をもったのか、も実はあまりわかっていない。 いや、そもそもわかんないから見ようと思ったんですけど。
現代のベルリンの街なかで、刑務所から出てきたばかりのトロヤン(Misel Maticevic)は自分がぶちこまれた件の分け前報酬を貰いにかつての親分のところにいくのだが、すんなり渡してくれないので無理やり奪って、それを元手にひとりで現金輸送車襲撃を企んでかつての仲間に声を掛ける。 他方で旧組織のほうはトロヤンを追い始めて、更に地場の性悪な刑事もねちねち絡んできて。
85分と時間は短いのにヤマの襲撃を含めてものすごくいろんなことが起こるので息もつかせない。
トロヤンの過去になにがあって、なにを抱えているのかとかどんな性格なのかとか、そういう説明は一切ないのと、出てくるのは悪いひとばかり、しかもほぼ昔から知っている連中だったりするので、会話も含めて互いに説明する必要がなくて、つまりは阿吽の動きでさくさく進んでいって、更にカメラはだいたい思いっきり遠くから草原の動物を撮るように撮っているので全体を横線で俯瞰できて、あんま揺れないし走らないし、つまり、現れて - 奪って - 奪って - 殺して - 殺して - 消える、そんなもんで犯罪ていうのは描写できるものだし、実際そんなふうにあっという間に起こって、結果は ...
なーんの特徴もないのっぺりしたベルリンの街のカフェとか、安ホテルとか、車と、最後に出てくる郊外の一軒屋とか、それくらいを背後に置いて、そのランドスケープの一部として描かれる犯罪と犯罪者と。 これらはかつてファスビンダーが印象的な貌と共に描いたぜんまい仕掛けみたいな小悪党たちと違うのかしら同じなのかしら、ていうのを少し思った。 どちらも現代のドイツ、ていうところ以上に、背景とか動機とかをすっとばして、ただただそこらに普通にたむろして動いている悪い奴らの顔とか挙動が、それのみがぼーっと浮かんでくるような。
彼らは外見に異常なところはなくて、ものすごく悪いひとにも見えず、割と普通のひとのようで、じゃあどれくらい普通て言えるのか? ベルリンの天使とおなじくらい?
… “In the Shadows” - それはなんの影の ?
日本語題も英語題も”In the Shadows” 。
アルスランの映画は初めてだし、現代ドイツ映画もわかんないし、現代ドイツ映画におけるアルスランの位置、もわかんないし、じゃあなんで興味をもったのか、も実はあまりわかっていない。 いや、そもそもわかんないから見ようと思ったんですけど。
現代のベルリンの街なかで、刑務所から出てきたばかりのトロヤン(Misel Maticevic)は自分がぶちこまれた件の分け前報酬を貰いにかつての親分のところにいくのだが、すんなり渡してくれないので無理やり奪って、それを元手にひとりで現金輸送車襲撃を企んでかつての仲間に声を掛ける。 他方で旧組織のほうはトロヤンを追い始めて、更に地場の性悪な刑事もねちねち絡んできて。
85分と時間は短いのにヤマの襲撃を含めてものすごくいろんなことが起こるので息もつかせない。
トロヤンの過去になにがあって、なにを抱えているのかとかどんな性格なのかとか、そういう説明は一切ないのと、出てくるのは悪いひとばかり、しかもほぼ昔から知っている連中だったりするので、会話も含めて互いに説明する必要がなくて、つまりは阿吽の動きでさくさく進んでいって、更にカメラはだいたい思いっきり遠くから草原の動物を撮るように撮っているので全体を横線で俯瞰できて、あんま揺れないし走らないし、つまり、現れて - 奪って - 奪って - 殺して - 殺して - 消える、そんなもんで犯罪ていうのは描写できるものだし、実際そんなふうにあっという間に起こって、結果は ...
なーんの特徴もないのっぺりしたベルリンの街のカフェとか、安ホテルとか、車と、最後に出てくる郊外の一軒屋とか、それくらいを背後に置いて、そのランドスケープの一部として描かれる犯罪と犯罪者と。 これらはかつてファスビンダーが印象的な貌と共に描いたぜんまい仕掛けみたいな小悪党たちと違うのかしら同じなのかしら、ていうのを少し思った。 どちらも現代のドイツ、ていうところ以上に、背景とか動機とかをすっとばして、ただただそこらに普通にたむろして動いている悪い奴らの顔とか挙動が、それのみがぼーっと浮かんでくるような。
彼らは外見に異常なところはなくて、ものすごく悪いひとにも見えず、割と普通のひとのようで、じゃあどれくらい普通て言えるのか? ベルリンの天使とおなじくらい?
… “In the Shadows” - それはなんの影の ?
6.13.2016
[film] Citizenfour (2014)
11日の土曜日の夕方、渋谷で見ました。
貼ってある映画のポスターには『警鐘! これは今起きている現実です - うんたら』とか赤で仰々しく書いてあるけどこの映画の全米公開は2014年だからね、もう十分に遅いし恥ずかしいのよ。
この映画にも出てくるSnowdenの顔と名前が世界中に曝されてから丁度3年、サイバーセキュリティの世界のありようは劇的に、ばっかみたいに変わってしまった。 つまりは、彼の告発が発端となって攻める側も守る側も(さて、どっちがどっちでしょう?)こっそりやろうとしていたいろんなことのギアを踏みこんでしまったとしか思えなくて、ここから振り返ってみると、当時一部ではったりと思われていた彼の発言もウソではなかったのかも、と少しだけ思ったり。
結局、彼やGuardian紙の記者が暴いた「真実」については、否定する側から「やってません」の明確な根拠がなにひとつ提示されないまま(あんな口先のコメント、誰が信じるかしら?)、だーれもその「責任」を問われることがないまま、そのままにされているので、政府さまに情報は盗られ触られっぱなし監視されっぱなしの野放し状態は続いている。
他方でIoTだAIだイノベーションだクラウドだモバイルだ、のバブル(もどき)が産業界では巻きおこっているが、これらはみんな情報や環境の統制をめぐる国策のための巧妙な目眩しでしかない。
2013年の時点ではデータを抜きとる、盗み見する、ような言い方を(しているとは言わずに)していた政府側が次にやろうとしていたことはこれらの作業の自動化、即時化で、IoTもAIもそのためにぜったい必要なインフラなの。 それで産業だって潤うのであればこんなにおいしい話(Win-Winとかいうのよねくそったれ)はないの。
米国政府のサイバー戦略は、911以降、ブッシュからオバマに政権が変わっても「いいからやっちまえ」の精神と路線を基本変えていないし、技術の進化が絡むことだし、現実問題として他国からのアタックは続いているので、この流れが停まるようなことになっているとは思えない。 で、そうしたら米国にやられたくない英国だって他の国だって同じ道を行くに決まっている、ていううんざりの連鎖。
50年代の赤狩りみたいなことが誰にも知られない/記録にも残らない(含.改竄される)かたちですいすい行われて、ある日突然はいさようなら、みたいなことが簡単にできるようになる。 国がBlack Cloudになる。 どこかでもう始まっていてもおかしくない。
では、オーランドのようなテロ(悲しくてやりきれないわ)は、この路線を詰めていったら無くすことはできるのか? そうは思えないの。 技術も法もどんどん変わっていくし、人だって変わるし、そもそもこれって「憎悪」と「恐怖」が発端だから。 そいつらは底なしに根深くて取り憑かれたひとはどんなことだってやろうとするから。
映画のなかでも言われているように、もうインターネットの自由なんてどこにも、どこの世界にもない。それどころかもう盗られている見られている前提で最低限の自由くらいは守らにゃ、と昨年くらいから潮流としてでてきたのがEUを中心とした国による自国内へのデータの囲い込みで、これにしたって各国が勝手に言っているだけ。 法と技術のせめぎ合いでほんとうにいいのか?、のところはまだまだ流動するだろうから、自分のは自分で守る、とか、やっぱし紙か... みたいなところしかー。
べつに国がちゃんと守ってくれる/やってくれるんだからいいじゃん、とか思えるひとはほんとうにおめでたい、とか書くと頭の悪い右翼みたいで嫌なのだが、これは国に関することではないの。 個人の表現活動とか尊厳に関わることなのに、今はだーれもその角度から考えようとしていないみたいな。 法を含めて技術的にできるできないばかりが焦点になっていて、これの怖いのは、技術がReadyになったら即時Go、だから。 究極には人間対AIみたいなところまでいくから。10年後にどうなっていてもしんないからね。
日本は政府の対応も含めて10000歩くらい後ろを向いてて、国民をみんなスマホのゲームとかアニメ漬けの骨抜きにしておけばなんとかなる、程度に思っているのか、国際的に、決定的に、ずれまくっている。
いつものことだけど。これだけじゃないけど。
ま、米国からすれば日本なんてケーブルも含めてどうとでもできるし、そもそも盗る側にとって価値のある宝なんて、欠片もないの、ここの土地には。
この映画、こんなふうな過去からのいろんなのをあたまのなかで整理するにはちょうどよいネタだったかも。
あと、例えば、Snowdenがハゲででぶのさえない中年男だったら、こんなに盛りあがっただろうか? ていうのは失礼だけど少しだけおもった。
音楽はこれ以外には考えられない、というくらいノイズが画面と耳に馴染んで染みこんで心地よいNine Inch Nailsの"Ghosts” (2008) から。
今にして思えば、"Year Zero" (2007)というのは本当にYear Zeroだったのだねえ。
貼ってある映画のポスターには『警鐘! これは今起きている現実です - うんたら』とか赤で仰々しく書いてあるけどこの映画の全米公開は2014年だからね、もう十分に遅いし恥ずかしいのよ。
この映画にも出てくるSnowdenの顔と名前が世界中に曝されてから丁度3年、サイバーセキュリティの世界のありようは劇的に、ばっかみたいに変わってしまった。 つまりは、彼の告発が発端となって攻める側も守る側も(さて、どっちがどっちでしょう?)こっそりやろうとしていたいろんなことのギアを踏みこんでしまったとしか思えなくて、ここから振り返ってみると、当時一部ではったりと思われていた彼の発言もウソではなかったのかも、と少しだけ思ったり。
結局、彼やGuardian紙の記者が暴いた「真実」については、否定する側から「やってません」の明確な根拠がなにひとつ提示されないまま(あんな口先のコメント、誰が信じるかしら?)、だーれもその「責任」を問われることがないまま、そのままにされているので、政府さまに情報は盗られ触られっぱなし監視されっぱなしの野放し状態は続いている。
他方でIoTだAIだイノベーションだクラウドだモバイルだ、のバブル(もどき)が産業界では巻きおこっているが、これらはみんな情報や環境の統制をめぐる国策のための巧妙な目眩しでしかない。
2013年の時点ではデータを抜きとる、盗み見する、ような言い方を(しているとは言わずに)していた政府側が次にやろうとしていたことはこれらの作業の自動化、即時化で、IoTもAIもそのためにぜったい必要なインフラなの。 それで産業だって潤うのであればこんなにおいしい話(Win-Winとかいうのよねくそったれ)はないの。
米国政府のサイバー戦略は、911以降、ブッシュからオバマに政権が変わっても「いいからやっちまえ」の精神と路線を基本変えていないし、技術の進化が絡むことだし、現実問題として他国からのアタックは続いているので、この流れが停まるようなことになっているとは思えない。 で、そうしたら米国にやられたくない英国だって他の国だって同じ道を行くに決まっている、ていううんざりの連鎖。
50年代の赤狩りみたいなことが誰にも知られない/記録にも残らない(含.改竄される)かたちですいすい行われて、ある日突然はいさようなら、みたいなことが簡単にできるようになる。 国がBlack Cloudになる。 どこかでもう始まっていてもおかしくない。
では、オーランドのようなテロ(悲しくてやりきれないわ)は、この路線を詰めていったら無くすことはできるのか? そうは思えないの。 技術も法もどんどん変わっていくし、人だって変わるし、そもそもこれって「憎悪」と「恐怖」が発端だから。 そいつらは底なしに根深くて取り憑かれたひとはどんなことだってやろうとするから。
映画のなかでも言われているように、もうインターネットの自由なんてどこにも、どこの世界にもない。それどころかもう盗られている見られている前提で最低限の自由くらいは守らにゃ、と昨年くらいから潮流としてでてきたのがEUを中心とした国による自国内へのデータの囲い込みで、これにしたって各国が勝手に言っているだけ。 法と技術のせめぎ合いでほんとうにいいのか?、のところはまだまだ流動するだろうから、自分のは自分で守る、とか、やっぱし紙か... みたいなところしかー。
べつに国がちゃんと守ってくれる/やってくれるんだからいいじゃん、とか思えるひとはほんとうにおめでたい、とか書くと頭の悪い右翼みたいで嫌なのだが、これは国に関することではないの。 個人の表現活動とか尊厳に関わることなのに、今はだーれもその角度から考えようとしていないみたいな。 法を含めて技術的にできるできないばかりが焦点になっていて、これの怖いのは、技術がReadyになったら即時Go、だから。 究極には人間対AIみたいなところまでいくから。10年後にどうなっていてもしんないからね。
日本は政府の対応も含めて10000歩くらい後ろを向いてて、国民をみんなスマホのゲームとかアニメ漬けの骨抜きにしておけばなんとかなる、程度に思っているのか、国際的に、決定的に、ずれまくっている。
いつものことだけど。これだけじゃないけど。
ま、米国からすれば日本なんてケーブルも含めてどうとでもできるし、そもそも盗る側にとって価値のある宝なんて、欠片もないの、ここの土地には。
この映画、こんなふうな過去からのいろんなのをあたまのなかで整理するにはちょうどよいネタだったかも。
あと、例えば、Snowdenがハゲででぶのさえない中年男だったら、こんなに盛りあがっただろうか? ていうのは失礼だけど少しだけおもった。
音楽はこれ以外には考えられない、というくらいノイズが画面と耳に馴染んで染みこんで心地よいNine Inch Nailsの"Ghosts” (2008) から。
今にして思えば、"Year Zero" (2007)というのは本当にYear Zeroだったのだねえ。
[film] 子供の四季 春夏の巻・秋冬の巻 (1939)
5月8日の午前、シネマヴェーラの清水宏特集でみました。
これが今回自分が見た清水宏特集のラスト。
春夏の巻が70分、秋冬の巻が72分、どちらの巻も最終リールがどこかにいってしまったので不完全版のまま。
原作は坪田譲治。
道、道路とならんでもうひとつ清水宏の映画で重要な役割を担っているのが子供たちで、どちらも迷える大人たちを(ちっとも臭いやりかたではなく)正しいほうにガイドしてくれるの。
山あいの田舎の村で子供たちがわーわーやりながら通学したりしていると、後から馬に乗った威厳たっぷりのおじいさんがゆっくりついて来たりしていて、やがてそれが子供たちのうち、二人の男の子兄弟の祖父で、自分ちの会社から逃げて牧童のところに駆け落ちした彼らの母を勘当していたことがわかって、そのうち子供たちを介して母と祖父は和解する。
それをおもしろくなく思っているのが婿養子でおじいさんの会社を乗っ取る野望を抱えてダークサイドに落ちてしまった老獪(そういう名前?)で、彼はかつて祖父から娘の牧場に貸された(?)お金を不正だと騒いで、いじわるして、そのあげく、元々病弱だった少年たちの父は亡くなってしまうの。 (亡くなるところはフィルムがないので見れなくて、ここまでが春夏篇のおわり)
後半の秋冬の巻は、ほんとうに秋冬の寒いかんじで、父を失った少年たちは母と一緒に祖父の家に同居していて、でも老獪は彼の妻と一緒に会社乗っ取りの野望を諦めずにいろんなことをねちねちやっていくので、放課後みんなで一緒に遊ぶ子供たちの仲もなんかぎくしゃくして、やがておうちのものは全部差し押さえられてしまって、みんなとってもかわいそうになる。 ああおじいさんの家の、子供たちの運命やいかにー、なの。
田舎の子供たちの夏休みをはさんだ瑞々しい世界に対置されて支配/成り上がり欲だの義理だのにまみれた大人たちの醜い世界、が描かれるのだが、映画のタイトルはあくまで「子供の四季」で、大人が子供の世界を浸食したり刷りこんだり教育したり、或いは子供が大人の世界を覗いてしまってどんよりしたり、といった過酷な状態にはならなくて、しょんぼりしたりべそかいたりするけど、子供は子供のまま、かといってその無邪気な光が大人たちをめでたく改心させるわけではなくて、ただただ両者は同じ家や土間や道の上に犬猫みたいに一緒にいる。
その距離のとりかたがとっても素敵なのだった。 毎度のことながら。
ここの最終リールも残されていないので、結末がどうなったのかわからないのだが、たぶんHappily Ever After になったとおもう。
これが今回自分が見た清水宏特集のラスト。
春夏の巻が70分、秋冬の巻が72分、どちらの巻も最終リールがどこかにいってしまったので不完全版のまま。
原作は坪田譲治。
道、道路とならんでもうひとつ清水宏の映画で重要な役割を担っているのが子供たちで、どちらも迷える大人たちを(ちっとも臭いやりかたではなく)正しいほうにガイドしてくれるの。
山あいの田舎の村で子供たちがわーわーやりながら通学したりしていると、後から馬に乗った威厳たっぷりのおじいさんがゆっくりついて来たりしていて、やがてそれが子供たちのうち、二人の男の子兄弟の祖父で、自分ちの会社から逃げて牧童のところに駆け落ちした彼らの母を勘当していたことがわかって、そのうち子供たちを介して母と祖父は和解する。
それをおもしろくなく思っているのが婿養子でおじいさんの会社を乗っ取る野望を抱えてダークサイドに落ちてしまった老獪(そういう名前?)で、彼はかつて祖父から娘の牧場に貸された(?)お金を不正だと騒いで、いじわるして、そのあげく、元々病弱だった少年たちの父は亡くなってしまうの。 (亡くなるところはフィルムがないので見れなくて、ここまでが春夏篇のおわり)
後半の秋冬の巻は、ほんとうに秋冬の寒いかんじで、父を失った少年たちは母と一緒に祖父の家に同居していて、でも老獪は彼の妻と一緒に会社乗っ取りの野望を諦めずにいろんなことをねちねちやっていくので、放課後みんなで一緒に遊ぶ子供たちの仲もなんかぎくしゃくして、やがておうちのものは全部差し押さえられてしまって、みんなとってもかわいそうになる。 ああおじいさんの家の、子供たちの運命やいかにー、なの。
田舎の子供たちの夏休みをはさんだ瑞々しい世界に対置されて支配/成り上がり欲だの義理だのにまみれた大人たちの醜い世界、が描かれるのだが、映画のタイトルはあくまで「子供の四季」で、大人が子供の世界を浸食したり刷りこんだり教育したり、或いは子供が大人の世界を覗いてしまってどんよりしたり、といった過酷な状態にはならなくて、しょんぼりしたりべそかいたりするけど、子供は子供のまま、かといってその無邪気な光が大人たちをめでたく改心させるわけではなくて、ただただ両者は同じ家や土間や道の上に犬猫みたいに一緒にいる。
その距離のとりかたがとっても素敵なのだった。 毎度のことながら。
ここの最終リールも残されていないので、結末がどうなったのかわからないのだが、たぶんHappily Ever After になったとおもう。
6.12.2016
[film] The Huntsman: Winter's War (2016)
5月29日、日曜日の晩、六本木でみました。
これの前の"Snow White and the Huntsman” (2012) を見ていないのだが、ぜんぜん別のもんとして楽しめるよ。
かんじとしては、Charlize Theron、Emily Blunt、Jessica Chastainのきれいだけど戦闘もできるし怒らせたらすごくおっかなくて命がいくつあっても足らない系の女傑競演 - これの頂点にいるのがCate Blanchettさんなのだがさすがに出てこない - による幻妖戦国絵巻で、昔の東映だったらオールスターお正月映画でどーんと出すようなやつ。 白雪姫外伝とはとても思えない、Kristen Stewartさんが逃げだしたのも無理ない、アナ雪 × ホビットでよくリミックスしたもんだわ、と思うがこれはこれでおもしろい。
白雪姫との戦いの末に鏡の奥に封じ込められた魔女のCharlize Theronには妹のEmily Bluntがいて、ほんとはよいこだったのに姉の罠にかかってFrozenの技を引き出され、自分の国を築いてからはまずいろんなところから攫ってきた子供たちを鍛えて育てて最強の軍団に仕上げていく。
のちにThe HuntsmanとなるChris HemsworthもJessica Chastainも始めはそうやって攫われて武芸を仕込まれた子供たちで、子供らのなかでも最強だったふたりは恋におちたところでそれに嫉妬したEmily Bluntに引き裂かれて放擲されて、そこからChris HemsworthはThe Huntsmanになって白雪姫を助けて、他方でEmily Bluntの王国は勢力を拡大していって。
時は流れて、あの鏡のせいで白雪姫の具合がわるくなった - じゃあそんなの壊しちゃえばいいじゃん、と思うのだがそうはせず、どっかにそれを運び出そうとしたところで、その関係者が互いに殺しあう、ていう事件が起こり、鏡を安全な場所に隠すため(だから、なんでそこで壊さないのさ?)にChris Hemsworthとドワーフたちが登場し、それを狙うのにいろんな魑魅魍魎とEmily Blunt王国がやってきて、死んだと思っていたJessica Chastainも女忍者のように現れ、こんなふうに指輪を鏡に置き換えたスケールやや小さめの”The Hobbit”みたいになっていくの。 人々がぐるぐる追っかけまわして奪い合う鏡の奥にはCharlize Theronがいるものだから、最後にどうなっていくのかは容易に想像がつくというもの。
あとほんの少しだけ鏡、ていうテーマに着目して姉と妹とか善と悪とか掘り下げていったらもっと深くおもしろくなれたかもしれないのに、絵巻を広げすぎちゃったんだろうねー。
なんかEmily BluntとJessica Chastainの役は逆のほうがよかったのでは、とか、The Huntsman - Chris Hemsworthがぜんぜん強そうにみえない、とかいろいろあるけど、いいかー。
続編は、不機嫌が止まらなくなったKristen Stewartが戻ってきてChris HemsworthとJessica Chastainの仲を引き裂きにかかるのだとおもう。
これの前の"Snow White and the Huntsman” (2012) を見ていないのだが、ぜんぜん別のもんとして楽しめるよ。
かんじとしては、Charlize Theron、Emily Blunt、Jessica Chastainのきれいだけど戦闘もできるし怒らせたらすごくおっかなくて命がいくつあっても足らない系の女傑競演 - これの頂点にいるのがCate Blanchettさんなのだがさすがに出てこない - による幻妖戦国絵巻で、昔の東映だったらオールスターお正月映画でどーんと出すようなやつ。 白雪姫外伝とはとても思えない、Kristen Stewartさんが逃げだしたのも無理ない、アナ雪 × ホビットでよくリミックスしたもんだわ、と思うがこれはこれでおもしろい。
白雪姫との戦いの末に鏡の奥に封じ込められた魔女のCharlize Theronには妹のEmily Bluntがいて、ほんとはよいこだったのに姉の罠にかかってFrozenの技を引き出され、自分の国を築いてからはまずいろんなところから攫ってきた子供たちを鍛えて育てて最強の軍団に仕上げていく。
のちにThe HuntsmanとなるChris HemsworthもJessica Chastainも始めはそうやって攫われて武芸を仕込まれた子供たちで、子供らのなかでも最強だったふたりは恋におちたところでそれに嫉妬したEmily Bluntに引き裂かれて放擲されて、そこからChris HemsworthはThe Huntsmanになって白雪姫を助けて、他方でEmily Bluntの王国は勢力を拡大していって。
時は流れて、あの鏡のせいで白雪姫の具合がわるくなった - じゃあそんなの壊しちゃえばいいじゃん、と思うのだがそうはせず、どっかにそれを運び出そうとしたところで、その関係者が互いに殺しあう、ていう事件が起こり、鏡を安全な場所に隠すため(だから、なんでそこで壊さないのさ?)にChris Hemsworthとドワーフたちが登場し、それを狙うのにいろんな魑魅魍魎とEmily Blunt王国がやってきて、死んだと思っていたJessica Chastainも女忍者のように現れ、こんなふうに指輪を鏡に置き換えたスケールやや小さめの”The Hobbit”みたいになっていくの。 人々がぐるぐる追っかけまわして奪い合う鏡の奥にはCharlize Theronがいるものだから、最後にどうなっていくのかは容易に想像がつくというもの。
あとほんの少しだけ鏡、ていうテーマに着目して姉と妹とか善と悪とか掘り下げていったらもっと深くおもしろくなれたかもしれないのに、絵巻を広げすぎちゃったんだろうねー。
なんかEmily BluntとJessica Chastainの役は逆のほうがよかったのでは、とか、The Huntsman - Chris Hemsworthがぜんぜん強そうにみえない、とかいろいろあるけど、いいかー。
続編は、不機嫌が止まらなくなったKristen Stewartが戻ってきてChris HemsworthとJessica Chastainの仲を引き裂きにかかるのだとおもう。
6.11.2016
[film] 有りがたうさん (1936)
5月7日の午後、シネマヴェーラの清水宏特集でみました。 英語題は”Mr. Thank You”。
清水宏の映画に出てくる道って、こないだの『女醫の記録』でも『蜂の巣の子供たち』でも『按摩と女』でも、ほんとうに素敵で、その上をひとや乗り物がやってきたり向こうにいったりするだけで、それだけで映画になってしまう気がする。
有名な古典なので筋はみんな知っているかも知れないけど、上原謙が伊豆の路線パスの運転手さんで、彼はバスに乗ってくるひと、降りていくひと、すれ違うひととか生き物とか、みんなにいちいち「ありがたうー、ありがたうー」って機械みたいに延々いい続けているので「有りがたうさん」で、ひょっとしてどっか壊れちゃったひとなのかも、とかいう疑念もあるのだが、彼がどこから来て、どういう家族のもとに生まれ育って、なににそんなに感謝しているのか、したいのか、誰にもわからないし明かされないのだが、なにはともあれみんな幸せになるかんじがするのでよいの。
映画は車にいろんなひとをのっけて山道をえんえん超えて終点まで行って、またそこから戻ってくる - 構成としては"Mad Max: Fury Road"とおなじなのだが、あの映画に渦巻いていたやってくる奴はみんな敵と思え、みたいな悪意は、この映画では隅から隅までまるごと善意、としか言いようがなくて、映画を見ているこっちも、みんなでバスに揺られてたのしいな、になってくる。たぶん。
こういう映画なので、乗ってくる客のキャラもなかなか - 黒襟で謎めいてて車中で煙草やるわ酒やるわのやくざな桑野通子とか、都会にしょんぼり身売りされにいく母娘とか、髭の小やかましい親父とか、それぞれがいろんなのを抱えていそうで、彼ら同士の小競り合いとか庇いあいとか、運転席の奥でだるまさんが転んだ的に勃発するミクロな戦争がいちいちおもしろくて、でも運転手が客を呪い始めるとかぶちきれるとか、客が共謀して誰かを貶めるとか、そういうことにはならなくて、すれちがう程度の時間を過ごして、それぞれ道の奥とか向こうに消えていって、そのあとは誰もしらないの。
やたらかっこよい存在感を放ちつつ微妙に上原謙にアプローチをかけていく桑野通子はこのあとめでたく上原謙と一緒になり、『家庭日記』(1938)にも登場してなかなか素敵かつ危うい夫婦っぷりを。
ブニュエルの『昇天峠』(見直したいなー)みたいだったらもっとおもしろくなったかも、ていう気もしたけど、そんな飛び道具はぜんぜんいらないのだった。 でもメキシコ時代のブニュエルと清水宏ってテーマのとりかたとか似てないこともないかも。洋画と日本画くらいの違いは当然のようにあるとしても。
清水宏の映画に出てくる道って、こないだの『女醫の記録』でも『蜂の巣の子供たち』でも『按摩と女』でも、ほんとうに素敵で、その上をひとや乗り物がやってきたり向こうにいったりするだけで、それだけで映画になってしまう気がする。
有名な古典なので筋はみんな知っているかも知れないけど、上原謙が伊豆の路線パスの運転手さんで、彼はバスに乗ってくるひと、降りていくひと、すれ違うひととか生き物とか、みんなにいちいち「ありがたうー、ありがたうー」って機械みたいに延々いい続けているので「有りがたうさん」で、ひょっとしてどっか壊れちゃったひとなのかも、とかいう疑念もあるのだが、彼がどこから来て、どういう家族のもとに生まれ育って、なににそんなに感謝しているのか、したいのか、誰にもわからないし明かされないのだが、なにはともあれみんな幸せになるかんじがするのでよいの。
映画は車にいろんなひとをのっけて山道をえんえん超えて終点まで行って、またそこから戻ってくる - 構成としては"Mad Max: Fury Road"とおなじなのだが、あの映画に渦巻いていたやってくる奴はみんな敵と思え、みたいな悪意は、この映画では隅から隅までまるごと善意、としか言いようがなくて、映画を見ているこっちも、みんなでバスに揺られてたのしいな、になってくる。たぶん。
こういう映画なので、乗ってくる客のキャラもなかなか - 黒襟で謎めいてて車中で煙草やるわ酒やるわのやくざな桑野通子とか、都会にしょんぼり身売りされにいく母娘とか、髭の小やかましい親父とか、それぞれがいろんなのを抱えていそうで、彼ら同士の小競り合いとか庇いあいとか、運転席の奥でだるまさんが転んだ的に勃発するミクロな戦争がいちいちおもしろくて、でも運転手が客を呪い始めるとかぶちきれるとか、客が共謀して誰かを貶めるとか、そういうことにはならなくて、すれちがう程度の時間を過ごして、それぞれ道の奥とか向こうに消えていって、そのあとは誰もしらないの。
やたらかっこよい存在感を放ちつつ微妙に上原謙にアプローチをかけていく桑野通子はこのあとめでたく上原謙と一緒になり、『家庭日記』(1938)にも登場してなかなか素敵かつ危うい夫婦っぷりを。
ブニュエルの『昇天峠』(見直したいなー)みたいだったらもっとおもしろくなったかも、ていう気もしたけど、そんな飛び道具はぜんぜんいらないのだった。 でもメキシコ時代のブニュエルと清水宏ってテーマのとりかたとか似てないこともないかも。洋画と日本画くらいの違いは当然のようにあるとしても。
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