3.20.2016

[film] Steve Jobs (2015)

20日の土曜日のごご、”Son of Saul”の後に雨に打たれながら歌舞伎町に行って、見ました。

同じ人物を主人公に置いていながら、Ashton Kutcherの”Jobs” (2013)とは、やはりぜんぜんちがう。

これはもう圧倒的に脚本のAaron Sorkin仕事であって、”The Social Network” (2010)と同じように、ひとりの狂った(なにかに取り憑かれた)男の独白のような語りや呟きが周囲を熱狂させ、がんじがらめにし、敵まみれにしたりしながらも、でっかいITのマーケットを動かし、やがてコミュニケーションや仕事のありようを一変させてしまう。 誰もが簡単に口にする「ITが世界を変える」とかいうおめでたい光景、その狂騒の異様さを、その渦中にいた変人の語りを通して解剖してみせる。

例えば世界的なベストセラーとなった本とか音楽とかアートとか映画とか、そういうのを作った本人が変人だったり変態だったりていうのはまだなんかわかるのだが、このケースは消費財で産業プロダクトで従来からある経済・消費・伝達活動に大きく影響する「道具」の開発で、しかもJobsの場合、自分でコード書いているわけでもデザインや設計をしているわけでもない。 いったいなにをやったのこいつは? ていうのは誰もが思うところではないか。

映画は1984年、1988年、1998年、それぞれアップル社にとって大きな転機となった製品の発表会の直前、その舞台裏でのJobs (Michael Fassbender)とその側近とか周辺の人たちとの会話劇が中心になる。 基本はJobsがまさに発表しようとしているその内容 - これからの方向性に対して、過去に仕事でいろいろあったSteve Wozniak (Seth Rogen)とかJohn Sculley (Jeff Daniels)があれこれ言ってくる、ていうのと、認知するしないも含めてどうしてくれんのよ、の妻と娘Lisaとのやりとりと、それらの間で振り回されてぶち切れそうになっている側近のKate Winsletと。基本のパターンは製品が変わっても年を経てもおなじようで、これがSteve JobsがSteve Jobsである所以なのだ、と。

あんたが偉いし昇り竜なのはわかるけど、誰のおかげでここまでこれたのか忘れて調子こいてんじゃねえぞおら、ていう彼らに対して、Jobsがぶつぶつ言い訳みたいなのも含めてやり返す(決着はもちろん、つかない)。 それだけといえばそれだけ、なのだが。
つまり、ビジネスにおける協業やコラボとは全然ちがうところでこの人はひとりやり抜いてきたのだ、と。

モノトーンでサイボーグのように見えないこともないMichael Fassbenderとぐにゃぐにゃふにゃふにゃ系のSeth RogenとJeff Danielsの対峙 - でも噛み合っているとは思えないやりとり - も絵にしてみるとなんとも言えずおもしろい。

たぶん、アップルウォッチャーの人たちからすれば既知の史実ばかりでつまらん、みたいになるのかも知れないが、この映画はそういうところを狙ったもんではないの。 アップルの知識いらない、そしてJobsの偉人伝とも違う。 いちばん威張ってすごいだろ、て言っているのはAaron Sorkin自身のような気もした。

3.19.2016

[film] Saul fia (2015)

出張する前のトラックに戻る。どこまで書けるかしら。
2月20日、土曜日の昼に新宿でみました。ほんとはこの日が初日の"The Wrecking Crew"を見たかったのだが、売り切れでぜんぜんだめで、でもこっちも見るつもりだったからよいの。

「サウルの息子」。 英語題は”Son of Saul”

1944年のアウシュビッツの強制収容所、ゾンダーコマンド - ナチスの下請けで同胞をガス室に誘導したりその後の死体処理をするのですぐには「処理」されないけど、やがては殺される運命にある - として働くサウル (Géza Röhrig) は、処理後の死体のなかに自分の息子を見つけて - 正確にはガス室を通した後でも息がある、ということで医者が呼ばれて殺処理されて念のため解剖しよう、と言っている様子を目撃して - そんなかたちで亡くなってしまった彼のためにユダヤ教のラビによってきちんと祈祷をした上で埋葬したい、とおもう。

息子の遺体を見つけて焼かれてしまう前に確保すること、どこかでラビを見つけて(殺されないように)確保して息子のところに連れてくること、これらをゾンダーコマンドの日々の仕事をこなしつつ、かつ彼らの間で極秘裏に進行していた集団蜂起作戦に備えつつ、もちろん誰にも気づかれないように実行しなければならない。

映画は、絶望と諦念を乗り越えてこれらの困難に立ち向かうサウルの情念のドラマ、はらはらのサスペンスになるかというとそうでもなくて、カメラは感情を露わにぜず、むっつり淡々と、しかし慌ただしく動き回るサウルの後ろ頭にぴったりと密着して、サウルだけでなく彼の肩越しに見ることのできる収容所の地獄と惨状を記録しようとしている。 

まわっているカメラも動き続けるサウルも「いま」「ここ」にはなんの神も救いもないことを、なにをどうすることもできないことを、自分たちは既に死んでいて亡霊のようなものでしかないことを知っている。 では、でも、なぜ、サウルは息子の遺体を探して(まわりは遺体だらけなのに)ラビを探して(見つけてもすぐ殺されたりするのに)、カメラは記録することを止めなかったのか。 - ここにこそこの映画のテーマはあって、それをイメージ人類学の側から掘っていったのがパンフでも言及されているジョルジュ・ディディ=ユベルマンの『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』で、「それでもなお」「すべてに抗して」想像しろ! と言う。
強く強く言う。

サウルを演じたGéza Röhrigの何かを諦めているようで、でも最後まで硬く解けない表情がすばらしく、彼の表情はおそらく未だに解けてはいなくて、彼はまだ憑かれたように息子の遺体とラビを探し続けているのだとおもう。

歴史をある立場から「検証」すればそれで何かが済んでしまう、なかったことにできると思っている幼稚な歴史修正主義のバカ共にも見てほしい。

[music] Origin Of The Dreams

風邪なのか花粉なのか不明なまま微熱の虚脱の、魂を抜かれたような状態が続いていて、こんな状態で例えばアピチャッポンでも見ようもんなら冥界に連れていかれてしまうこと確実で、こんなときは音楽しかない、と思って、たまたまやっていたこれに潜りました。 17日の木曜日、渋谷で。

'Origin Of The Dreams' 渡邊琢磨 × 牧野貴 Live Concert

牧野貴の映像と音の世界は吉祥寺の爆音で2回くらい経験していて、気持ちいいとか悪いとかアガルとかオチルとかそういう「効果」とは別に、なんだろうこれはとじっと凝視したまま固まってしまう状態が何度も続いていて、この、表現世界とそれを受容するわれわれも含めたまるごとのアトモスフィアの謎、みたいのを解析したい、ていうのはあった。
渡邊琢磨さんの音でいうと、たしか、COMBOPIANOは昔どっかで見て聴いた、記憶が。

で、これまで見た映像に付いていた音は、割と牧野さん自身とかバンドでの電気・電子系の演奏もしくは音付けによるものが多くて、今回は渡邊琢磨さんの曲による弦楽のライブ - 13台の弦楽器 - 52本の弦の束束束が絡み合う - 付き、しかもPAはzAk、ていう、見なくたって背筋が凍る世界が展開されるに決まっていたの。

最初のパートは、渡邊さんのソロピアノで2曲、チェロとピアノのデュオで1曲、弦が4名になって、この構成(映像なし)で約1時間。 曲順はその場で指示していたようだったが、これだけでじゅうぶん、卒倒しそうになるくらい気持ちよくて、皮膜を剥がしながら眠りの奥底に潜っていく「夢の起源」の序章として圧倒的で、線の連なり、線の絡まり、パラフィン紙のようなわら半紙のような面の重なりに擦れあいに、音楽ってこういうのよね、て、ここんとこ変なノイズばかり鳴っていたので余計にそうおもった。
むかしむかし、Soft VerdictとかWim Mertensとか、聴いていたなあ。

休憩を挟んでパート2で、ここから弦13台による"Origin of the Dreams"。
この作品は、昨年10月に同志社大学で、世界初上映/上演されたらしいのだが、このときの構成は6名で、それと今回のが音楽として映像としてどれくらい違うのかはわからないのだが、人数倍だしね、たぶんすさまじいに違いないと。

チケット切りのところで、プルフリッヒ・エフェクト用のフィルム切れと使用説明を貰ったのだが、あんま使わなかった。 そんなのいらないくらいすごかった。

映像は、まず水が下から上にさらさら流れていく(ような)イメージが淡く浮かびあがって、それがやがて大火事になりパセリの大群に変貌して大爆発して海に潜って、ていうような具合なのだが、もんだいはそれらがどんなふうに見えるのか、ということよりも、いま自分が見ているのはスクリーンの表面で点滅磨滅している光や黒点のだんだらなのか、或はそれらのごにょごにょを裏側で組成して動かしている(かに見える)力(のようなもの)なのか、とか。あるいはあるいは、これらが起こっているのは網膜なのか脳なのか、とか(いつもの)。 こういった視点というか聴点というかの移動や思考に火をつけて深みに誘導するところに牧野作品のおもしろさと豊かさがあって、何度でも見たくなる。

比べちゃいけないけど、プロジェクションマッピングなんてほんとガキの遊びだとおもうわ。

これの後で、ソロピアノのみで”KONTRAST”という15分の小品。こっちは深みに降りるというより表面での攻防がおもしろくて、そこにピアノの白鍵黒鍵がダブされる。昔の実験サイレントに音を付けているようでもあった。

こういう上映/上演てもっとあればいいのに。ライブハウスになっちゃうのかねえ。

3.18.2016

[film] Trumbo (2015)

NYからの帰りの機内で見ました。 夕方発の便だったのでぜったい寝ちゃうわ、と思ったが日本でも公開するみたいだから寝ちゃってもいいや、って。 ポスターだけ見たらあんま見たいとは思わなかった(”Breaking Bad”のひとだし)が、Jay Roachなので、なかなかおもしろかった。

実録もので、40年代後半、ハリウッドでばりばりの脚本家だったDalton Trumbo(Bryan Cranston)が吹き荒れた赤狩りの嵐のなかで仕事を奪われ、隅っこに追いやられ、それでもヤミで影でゴーストで書き続けてがんばって、結果ざまーみろ、みたいなお話し。

赤狩りの時代を描く、というとき、たぶんいろんなレイヤーのいろんなお話しがあるに違いなくて、有名なとこだと映画監督たちの - Cecil B. DeMilleとJoseph L. Mankiewicz との確執とか、そこにJohn Fordがかっこよく登場、とか伝説は聞いているのだが、ここで描かれるのはTrumboの仕事仲間とか家族とかその周辺のみんなで、いろいろ苦労してがんばって大変だった、みたいなことなの。 全体としてはえらい土砂降りがきたけど筋を曲げないでがんばってよかったねえ、みたいなええ話系のホームドラマになっている。

出てくるゆーめー人としては;

Edward G. Robinson (あんま似てない)、John Wayne (あんま似てない)、極右のHedda Hopper (Helen Mirren、とっても楽しそう)、Kirk Douglas (この時期はまだいいやつ)、Otto Preminger (ううむ)、Frank King (John Goodman!!)といったかんじ。

書くのが好きで、自分の書くものに自信があって、自分の信じることも間違っているとは思えなくて、だから干されたってへっちゃらで偽名で仮名でどんな仕事でも受けて、Frank Kingのとこにやってくる低予算C級ジャンクのお直し仕事みたいのだってこなして、そんななかから「ローマの休日」も「黒い牡牛」も生まれてきたって、なんかすごいなー。

そんな苦しい時代に耐えていっしょにがんばる家族は妻がDiane Laneで娘がElle Fanningで、これならがんばれるかもって思うし、でも彼女たちはいっぱい泣かされて引き摺られて、仕事のたびに風呂場を長時間占拠されて、そうとうアクの強いめんどくさいおやじだったんだろうなー。
こういうのって、朝の連ドラだなー、て見てた。

とにかくJohn Goodmanがさいこーにかっこよくて、あそこだけでも見るじゅうぶん価値あるとおもう。

でもさー、なんで公開が7月なの? ばっかじゃないの? て思った。 ひょっとして選挙前だから? 言論統制のこわさが拡がっちゃったらやばいから?  

この他には、またEP7とか見たり(結局いっぱい見てるじゃん)。 あとはずっとうとうと寝てた。

3.16.2016

[log] NYそのた -- March 2016

NYの美術館以外のあれこれ。たべものとか本とかレコとか。あんまないけど。

4日の夕方、Neue Galarieで行列であたま真っ暗になって、Metroporitan見終わって階段から落ちて、このふたつでこの先まっ暗だわって泣きながら地下鉄に乗って、Union Squareのほうにでる。 今回、Brooklynは無理だから近場の接近戦できちきちいくしかない。

まずはAcademyの12thで、数日前にここのインスタにThem(バンドね)のDecca盤、MONOていうのが載って、ほしいかも、て思って行ったのだが、高いところに飾ってあったそれはやはりとってもそれなりの値段だったのであきらめる。

12inchいちまいと7inchにまい、かった。 そこからMAST Booksまで下りて、うんうん悩んで、古本一冊(Melville on Melville )だけかって、そのまま横に流れて、Other Music - お嬢さんの手作りのBowie追悼お飾りがすてき - で、12inchをなん枚か。 “La Jetée” (1962)のサントラとか、なにを血迷ったかPrima Materiaの箱とか。

そこから下におりて、McNally Jacksonで - いっぱい買いそうになったけど雑誌だけ - Chantal Akerman表紙のcinema scope誌とか、Lena Dunham vs Jane Fonda対談が載っているPaper Magazineとか。店内では例のBowieの100冊をものすごくきちんと並べてフェアをやっていた。
あと、買っておいてもらったJonas Mekas先生の”Scrapbook of the Sixties: Writings 1954 - 2010”のサイン本(ありがとうー)。

で、仕上げにUnion Market行っておやつ系の食べものとか買いこんで、9:30に奇跡的に予約がとれたPruneに。
最近のレストランはOpen Tableの予約がほとんどで、人気のところは金曜日なんてぜんぜん取れないのだが、ここはいまだに電話予約のみで、もちろん金曜の晩なんてぱんぱんに混んでいるのだが。

(いつもいっつも書いているけど)相変わらずばかみたいにおいしい。
どうせなに食べたっておいしいんだから、と、まわりのテーブルでみんなが食べてるのを見渡して食べたいのを決めるのもよくて、今回、テーブルが空くまで待っているあいだ、Branzino(スズキね。Peter ParkerがGwenの家デートで食べてたやつ)の一匹皿がいっぱい出ているのが見えた(2時間くらいの間で7~8匹飛ぶように)のでこれは頼むよね、てなって、でもお肉だってほしいし、とGrilled Ribeye も取って、野菜もないといけないし、などなどで結局お腹ぱんぱんになる。
それにしてもBranzinoの塩焼き(ほんとは塩蒸しなんだろうが)のあの甘さはなんなのだろう。お醤油もご飯もいらない、塩とオリーブオイルだけでじゅうぶん完成されてて、狂った猫になるかんじ。

デザートもすごくてねえ。”Cold Candied Orange with Salted Butter Shortbread”ていうのだが、金柑のシロップ煮の金柑のかわりをオレンジにして、皮ごとくたくたになったのをひんやり。そのみっちりした汁の横に粉固形感が絶妙のShortbreadが。

翌朝、食欲が回復することなんてありえないと思ったのだが、どうせ食べるんだし走り回るんだし時間ないんだし、ということで朝ご飯を食べにでる。

チェルシーのMaritime HotelにはLa Bottegaていう深夜までやってて使い勝手のよいだらだらがらんとしたイタリアンがあって悪くなかったのだが、ここがなくなって、かわりにMario BataliとJoe Bastianich ていうイタリアン濃獣組が La Sirenaていうのをオープンしたの。
インテリアはLa Bottegaと比べたらとってもモダンになって漂白されてしまったかんじ。

朝から生ハムサラミ盛りプレートとかも頼めるのだが、Amaretti Mascarpone Pancakesにする。
たぶん、”How to Be Single”が影響したのだとおもう。
最近の日本のふわふわ系パンケーキはぜんぜん違うと思っていて、これを食べてそうだよねこっちだよね、て確信した。 イタリアンだろうがアメリカンだろうがどうでもいい、これをパンケーキの基準軸にしたい、ていうくらいきめ細かな豊かさが層になって襲ってきて、パンケーキが重なりあってあることの意味もきちんと教えてくれる。 基本よ基本。

またぜったいくる。

こんなもんかしら。 あとは帰りの機内映画くらい。

3.15.2016

[art] Coney Island: Visions of an American Dreamland, 1861–2008

5日の土曜日、Neue Galerieのあとで地下鉄の86thの駅まで走って④でBrooklyn Museumにむかった。
12月に遊びにきたとき、地下鉄の広告で見かけて、これは見たいわ、と思ったやつ。
この美術館に最後に来たのは2011年くらい、そのとき、エントランスはまだ改装工事中だったねえ。

コニーアイランドは、砂浜があってボードウオークがあって遊園地があって、タイトルにある通り "American Dreamland"として150年くらいあの場所にあって、マンハッタンからも地下鉄で1時間かからないくらいなので夏になるとよく行った。 なんであんなに惹かれるのかよくわからないのだが、ひとによってはディズニーランドだったり浅草だったりするかもしれない場所が自分にとってはコニーアイランドなの。

で、昔からいろんな画家、写真家、映画作家、興行主、大道芸人、などなどを呼び寄せてきたこの場所をアート観点でまるごと地引き網してみるとどんなものが引っ掛かってくるのか、ていう展示。  なにもなかった浜辺の時代から遊園地ができて都市の近場の観光/デートスポットとしてひとが集まりだして、そこ目がけていろんな「パラダイス」がわらわら現出した。 なんでだろ? ていうその不思議さ以上に、展示を見ていくと古今のアートとしてぐしゃぐしゃにミックスされた「コニーアイランド」と呼ばれるランドスケープのでっかさ不可思議さに圧倒されてしまう。

例えば、同じような”Dreamland”としてのLas Vegasと比べてみたらどうだろう。
ぜんぜん違うなにかが出てくるかんじがする。

遊園地とか見世物小屋とかの看板とか垂れ幕(タコ男!)とか回転木馬とかひとつ目鬼とか、絵葉書とか、剣を呑みこむ芸人のX線写真とか、ふつーのアートっぽい絵 - George Bellows, Joseph Stella, Frank Stella, 国吉康雄, Red Groomsとか、写真 - Walker Evans, Diane Arbus, Weegee, Bruce Davidson, Robert Frankとか、断片がリピート上映されている映画とかスチールとかもいっぱい。こないだシネマヴェーラで見た”Speedy” (1928), “Freaks” (1932), “Little Fugitive” (1953), “Imitation of Life” (1959), “The Warriors” (1979),  “Requiem For a Dream” (2000), あたりまで。(最近のだと”Brooklyn”はぜったい入る)

館内ツアーをしているおばさんがある写真の前で「ここに写っているのはわたしのおじいさんなのよ!」とか言っていたり、ご当地感もたっぷりでおもしろいの。

遊園地もスリル満点なんだよ。木製ジェットコースターのCycloneなんてガタガタほんとやばくて何年かに一度は死人だしてるのに今だにばりばりだし、あんな唐突に恐怖にさらされる観覧車はないし、ぐるぐる回るやつは終ったあとにみんなげーげー吐いたりしてるし、また行きたいなー。

関係ないけど、”Speedy”(1928)の大乱闘シーンにHip Hopを乗っけてとっても楽しいやつ。
https://tribecafilm.com/stories/z-trip-speedy-live-performance-interview


This Place

コニーアイランドの展示の後、フロアをふたつ降りてみました。

2009年から2012年にかけて、12人の写真家 - Frederic Brenner, Wendy Ewald, Martin Kollar, Josef Koudelka, Jungjin Lee, Gilles Peress, Fazal Sheikh, Stephen Shore, Rosalind Fox Solomon, Thomas Struth, Jeff Wall, Nick Waplington - がイスラエル - ヨルダン川西岸地区に滞在してそれぞれの視点/視線で撮影するというアートプロジェクト - そこから約600枚の写真を展示している。

12名の写真家による写真が明らかにする"This Place" - "That Place"ではなく、「この場所」/「ここ」。
メディア報道やニュース映像でしか伝えられてこなかったあの場所のありよう - より鮮明な、陽の光だったり土の色だったり壁の色だったり地形だったり、どんな人が、彼や彼女が、子供たちが、家族がそこにいて、どんな表情を浮かべているのか、どんな暮らしをしているのか、などなど。

世界のどこにでも、誰にとっても"This Place"はあるのだし、それはあそこではなくてここにある、ていうのは当たり前の認識で結論で、そうだとすると、では、でも、だからなぜ、ここだけこんなふうに”This Place”にされてしまったのだろう? ていう問いはどの写真からも強く響いてくる。 例えばStephen Shoreのカラカラの光景を渡って吹いてきそうな風、とか、いつもの楽しくぶっこわれた家族写真のNick Waplingtonのコーナーにごろんと置かれた浄水用の缶とか。
こないだのアケルマン特集で見た『東から』や『向こう側から』と同じ眼差しを感じる。

世界中がInstagramやSNSのいろんな写真や画像で溢れかえり、どいつもこいつも偉そうに可視化可視化いう世の中になって、こういう異境辺境の事情や状況がきちんと見えるようになっているか、というと実は逆で、情報量が増えれば増えるほど、メディアも含めてひとは自分が見たいもの、自分に都合のよいものしか見ようとしなくなるのではないかと(自戒をこめて)思っていて - この点で日本の政治家やメディアは最低最悪だとおもう - そういうなか、やっぱりこういう展示は貴重だし、もっと見ないとねえ、とおもった。

同じ「場所」がテーマであるのに、コニーアイランドからの落差もすこし考える。

3.14.2016

[art] Munch and Expressionism 

時系列で書いていくと、4日の金曜日の夕方に地下鉄に飛び乗って86thのNeue Galerieに行ったら金曜晩のFree Viewingのとてつもない行列に驚愕し、Freeじゃなくていい、お金払うから中にいれて、て懇願したけど冷たくされて、しょうがないので泣きながらMetropolitanに走っていって、まずはこれ見ました。

Vigée Le Brun: Woman Artist in Revolutionary France

肖像画家 - Elisabeth Louise Vigée Le Brun (1755-1842)の展示で、ルイ王朝の人々とかマリーの家族とか王室お抱えでいっぱい描いていて、ふつうこういう肖像画って美術館を流しているときはあまり立ち止まることもないのだが、立ち止まって纏めて見てみるとなかなか興味深い。

似たような角度で同じように照明が当たっている同じようなつるつる貴族顔の人たち(女性が圧倒的に多い。 男性は1/6だって)なのだが、髪型もドレスの色味や意匠もこまこまぜんぶ違うし、ヌードの背中の肉の造型も男性画家が描くそれとはどことなく違って、その辺は言ったら怒られてしまうかもしれないけど、女性画家、てことなのだろうか。

全体にプレーンでキッチュで、ポップで、香ばしいお花畑を歩いているかんじ満載で、でもそんな絵のなかの人々はこのあとみんなギロチンに行っちゃったんだなあ、って。 (でも描いたひとは革命直前に国外に出ていて無事で、86まで長生きした)

MET、ご存知のようにロゴが新しくなって、みんな言っているけどやっぱしなんかバランス悪いよね。
て、外壁に下がっている幟を見ながら歩いていたら階段から落ちて足を思いっきり挫いてとっても泣きたくなった。


Munch and Expressionism 
で、翌5日の土曜日の午前中、リベンジで改めてNeue Galerieに行った。
ここの開始は11:00で、でも前日の長蛇列の恐怖が頭をよぎったので朝のパンケーキ食べてからやや前のめりで10:30に行ってみたら、2~3人がいる程度だった。

前回の展示、”Berlin Metropolis: 1918-1933”もすばらしくよくて、ここんとこ絶好調のNeue Galerie、なにがえらいって、これだけの特集展示をそんなに広いと思えない3階のワンフロアだけできっちり完結させてしまうことだ。(2階にはあの映画で世界的に有名になってしまったAdele Bloch-Bauerさんが神々しく輝いていらっしゃる)

ムンクは、2006年の2月~3月にMOMAでなかなか重厚な展示 - ”The Modern Life of the Soul”があって、それから「装飾性」に着目した2007年~8年の国立西洋美術館のもあった(これはあんまし)。

今回のは「ムンクと表現主義」  ← そのまんまじゃん、とか言わないこと。
より正確にはドイツ表現主義のDie Brücke - ドレスデンのグループとの関わりにフォーカスしている(主に)。 (Neue Galerie,「青騎士」の方は既に特集しているし)

一緒に並べられているのはErnst Ludwig Kirchner、Max Beckmann、Emil Noldeとか、オーストリアだけどEgon Schiele、Oskar Kokoschkaとか。 あくまで参照、のようなかたちで並べられている程度なのだが、同時代性のようなものを感じないわけにはいかない - 前回の”Berlin Metropolis”の展示と同様の切り口でその時代の空気感を重層的に伝えている、ここがまず素敵。

では、これら表現主義の絵画で言われがちな存在の不安とか恐怖とか彷徨いとか孤絶とかの嵐とか闇とかでどんよりしてしまうかというと、そんなでもないの。ムンクについては乗り越えるとか力強いとかそういうのとは別に、常になにかが流れたり動いているかんじがあって、「絶望」といってもそこに向かって堕ちていく、というよりはその周辺での動きとか兆し、のようなゆるやかなものが描かれていて、なんとかなるかも感があるの。 Edward Hopperにもあるなにか、のような。
“The Kiss”とか”Vampire”とかのふたつの塊がひとつになった絵とか、”Morning”を見るといっつも思う。

今回の展示のなかでは”Model by the Wicker Chair” (1919-1921) がやっぱりすごい。
色彩がばらけて構図としても散らかっているのにこのまんなか辺りでゆるりと渦を巻いている力(のようなもの)はなんなのか、なんでそこに籐椅子があるんだ? とか。
あとはKirchnerの、あそこにあんな色を置いてしまうか - ていう凄みを再確認した。

小さな室内に展示されていた「叫び」は個人蔵のパステル画で、これは確か前のMOMA展にも出ていたやつで、ここでは狭い部屋のなかにEgon Schieleの「叫び」とかいろんな画家の「叫び」がみっしり、呻きみたいのも含めて充満していて素敵だった。

カタログは当然買う。例によって展示規模とぜんぜん見合わない厚さ(ハードカバーのみ)なのだが、黒の装丁で、本としてもかっこよいし見ごたえ読みごたえたっぷりなの。