3.19.2016

[film] Saul fia (2015)

出張する前のトラックに戻る。どこまで書けるかしら。
2月20日、土曜日の昼に新宿でみました。ほんとはこの日が初日の"The Wrecking Crew"を見たかったのだが、売り切れでぜんぜんだめで、でもこっちも見るつもりだったからよいの。

「サウルの息子」。 英語題は”Son of Saul”

1944年のアウシュビッツの強制収容所、ゾンダーコマンド - ナチスの下請けで同胞をガス室に誘導したりその後の死体処理をするのですぐには「処理」されないけど、やがては殺される運命にある - として働くサウル (Géza Röhrig) は、処理後の死体のなかに自分の息子を見つけて - 正確にはガス室を通した後でも息がある、ということで医者が呼ばれて殺処理されて念のため解剖しよう、と言っている様子を目撃して - そんなかたちで亡くなってしまった彼のためにユダヤ教のラビによってきちんと祈祷をした上で埋葬したい、とおもう。

息子の遺体を見つけて焼かれてしまう前に確保すること、どこかでラビを見つけて(殺されないように)確保して息子のところに連れてくること、これらをゾンダーコマンドの日々の仕事をこなしつつ、かつ彼らの間で極秘裏に進行していた集団蜂起作戦に備えつつ、もちろん誰にも気づかれないように実行しなければならない。

映画は、絶望と諦念を乗り越えてこれらの困難に立ち向かうサウルの情念のドラマ、はらはらのサスペンスになるかというとそうでもなくて、カメラは感情を露わにぜず、むっつり淡々と、しかし慌ただしく動き回るサウルの後ろ頭にぴったりと密着して、サウルだけでなく彼の肩越しに見ることのできる収容所の地獄と惨状を記録しようとしている。 

まわっているカメラも動き続けるサウルも「いま」「ここ」にはなんの神も救いもないことを、なにをどうすることもできないことを、自分たちは既に死んでいて亡霊のようなものでしかないことを知っている。 では、でも、なぜ、サウルは息子の遺体を探して(まわりは遺体だらけなのに)ラビを探して(見つけてもすぐ殺されたりするのに)、カメラは記録することを止めなかったのか。 - ここにこそこの映画のテーマはあって、それをイメージ人類学の側から掘っていったのがパンフでも言及されているジョルジュ・ディディ=ユベルマンの『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』で、「それでもなお」「すべてに抗して」想像しろ! と言う。
強く強く言う。

サウルを演じたGéza Röhrigの何かを諦めているようで、でも最後まで硬く解けない表情がすばらしく、彼の表情はおそらく未だに解けてはいなくて、彼はまだ憑かれたように息子の遺体とラビを探し続けているのだとおもう。

歴史をある立場から「検証」すればそれで何かが済んでしまう、なかったことにできると思っている幼稚な歴史修正主義のバカ共にも見てほしい。

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