1.20.2016

[film] Creed (2015)

11日、日曜日の午後、”.. Malala"に続けて見ました。

わたしは"Rocky"の3部作だか4部作だか何部作あるのかしらんが - を見ていない。 TVで流れているのを横目で見たことがある、くらい。 殴り合いもスポーツもトレーニングも(だいっ)きらいだし、公開当時、階段を上りきったところで両手をあげてくるくるするバカとか、片腕で腕立て伏せをしようとして顔面をぶつけてるバカとか、周囲にはうじゃうじゃいたのでそういうので十分だったんだ。

これはホラー映画も同じことだが、それなりの耐性がついた(きらいなやつにもバカにも)ので見るようになったけど、やっぱし得意ではないなー。

Rockyの宿敵だったApolloの息子が成長してボクサーになって、老いたRockyがそのコーチについて、ていう大筋の説明はいらないよね。

子供の頃のAdonis Johnsonは問題児で少年院に入れられても暴力沙汰ばかり起こしていて、彼を引き取りにご婦人が現れる。 そのApolloの未亡人によって西海岸の裕福な環境で育てられたAdonis(Michael B. Jordan)はちゃんとした会社に就職して真面目に働いているのだが、週末になるとメキシコに渡って闇ボクシングみたいなので稼いでいて、ある日、やっぱし会社やめるわ、といってフィラデルフィアにひょいと旅立ってしまう。 
やっぱり血なんだわ、とそっと見送る育ての母。

で、その血が求めた場所がフィラデルフィアの地であり、その筋肉が求めたのが、かつて父と対峙したRocky(Sylvester Stallone)であった、と。
ボクシングなんて関係なく地元で地味にレストランをやっていた彼に頼みこんでコーチをしてもらって、Rockyとかつて一緒にやっていたコーチのボクシングジムの一番星を叩き潰したあたりで、メディアにAdonisの出自が明らかになって、こいつは金になるぜ、とふんだ連中からこんどはムショ帰りの凶暴な英国野郎との対戦がセットされてしまう。

実力でいうと向こうのほうが断然上、お育ちは向こうのほうが数段お悪くて、対戦は完全にアウェイの英国で、Rockyは病に倒れていて死にそう、ていう最悪の状態で試合になるのだが、自分はCreedなんだ、て覚醒して、ママからはApolloとおなじトランクスが送られてきたりするものだから、こんなの盛りあがらないわけがあろうか。

育ち(Johnson)じゃねえんだ、血(Creed)なんだよ、みたいなおらおら成り上がり話にしてしまえば漫画みたいにおもしろくなるのだろうが、それだけではないナイーブなところもあって、そこがよいの。 "Straight Outta Compton"もそういうところがあったけど。

歌手のBianca(Tessa Thompson)とのやりとりのところが個人的にはいちばんよかったなー。
“Rocky”の頃の恋人たちの姿とは違うよねえ。

あと、フィラデルフィアの町とか路地の風景の擦り切れたかんじもたまんないの。
主人公の脇をバイクが走り抜けるとことか。

あと、EP7もそうだったけど、なんかオリジナル(1976)と相似形を描いているような気がしてならなくて、なんだろうねえ、とか。  次はDolph Lundgrenの息子が出てくるんでしょ?

1.19.2016

[film] He named me Malala (2015)

11日の月曜日、連休最終日の昼間、新宿で見ました。 「わたしはマララ」

冒頭、アニメーションでパシュトゥーン人の女の子英雄であるマイワンドのマラライ(Malalai of Maiwand) - 民を奮い立たせて侵略に立ち向かって亡くなった - の話しが出てきて、そういう目線で彼女を美化するような映画だったら嫌かも、と思ったがそういうのではなかった。  もちろん、人によってはいやいやそれでもとんでもねえよあんな描き方、なのかもしれないけど、印象としてはとってもプレーンなかんじの。

父親は娘 - Malala Yousafzai - を(あるいは子供たちを)性別に関係なく均等に学びの機会を与えて育てるべきだと思って、そうした。 娘はそれに応えるかたちで成長して学んで自分の言葉でいろいろ言うようになった。 そういう傾向を間違っていると思う人たち・勢力があって、彼らはそれを暴力で抹殺しようとして、実行した。 彼女は致命傷を負ったけど一命をとりとめて回復し、学ぶことも書くことも言い続けることも止めなかった。

映画は誰もが知っているであろうこの事実関係をなぞって進行していくだけ。
わたしは彼女の父親がたてた方針はごくあたりまえだし、それに応えて大きくなったMalalaもおかしくないとおもう。 でも、そうした彼女(とそのそばにいた女の子)に銃弾を放って黙らせようとした連中ははっきりとおかしいとおもう。 そして、そうやって傷ついても決して口を閉ざさなかった、おばさんのように執拗に言い続けたMalalaはえらいとおもう。

まだ若い女の子なのに、とか、ああいう地域・境遇に生まれたのに、とか、ひどい目にあったのに、という美談ぽいところから離れて、このひとは淡々と揺るがずぶれず、にこにこしているけど火の玉みたいに燃えていて湿り気ゼロなのがかっこよいの。 還るべき国や故郷を失ってしまった女の子とは思えない。 にこにこ穏やかだけど、フェリオサみたいな娘。

映画のタイトルは"He named me Malala"だけど、 "He named me Malala after Malalai of Maiwand, therefore ..."ではなくて、"He named me Malala after Malalai of Maiwand, but ..." なのだとおもう。 父はこう名付けた、けどわたしはわたしなんだ、ていうことなのではないか。

映画は彼女の笑顔や揺るがない言葉と共に淡々と朗らかに進んでいく分、やはり、それ故に、こんな女の子に銃を向けた連中の異様さ、気持ちわるさがはっきりと際立つ。 闇とか不寛容とか言うのは簡単だけど、その暴力 - ひとを痛めて傷つけて引き裂く力(物理的なのだけじゃないよ。言葉とかもだよ) - は確かに存在して、いまだに、ここだけじゃなくて世界中で沢山のひとを殺したり突き落したりしているのだということ。 それは彼女の背後だけじゃなくて、自分の家族とか恋人とか近所のおじさんおばさんとかの周りにもしっかりと根をおろしてしまっているのが現代なのだ、ということ。

それをわかっておけ、そして、そいつらをぜんぶ無力化してしまえ。
て、彼女の笑っている顔を見ていると思うのだった。 負けるもんか。
 

1.18.2016

[film] Nostalgia de la Luz (2010)

10日の日曜日の夕方、Uplinkで見ました。
「光のノスタルジア」。 英語題は”Nostalgia for the Light”。
ずっと見たいよう見なきゃと思っていて、「真珠のボタン」の方を見る目処が立っていないのだが、とりあえずこれだけでも。

冒頭、天文台かなんかの機械が重々しく動いていって、チリの北部の砂漠のまんなかにあるらしいその施設がどんなすごいことをしようとしているのか、の説明がその解き明かされる対象である宇宙や星の、その兆しであり表象である「光」の特性と共に語られる。

光は我々の目に届いた時点で既に過去のものである(現在形の光なんてない)、云々。

それから、その砂漠のどこかに点在しているらしい古代遺跡からの発掘物の話とか、そして週末になるとシャベルを持って砂漠になにかを掘りにくる老婦人たちの話になる。 彼女たちは70年代、ピノチェト政権下で行われた粛清-虐殺の犠牲として行方不明になったままの自分の家族の遺骨や遺物を探しに来ているのだという。
収容所がこの砂漠にあったことは確かで、自分の息子や夫たちはここに連れてこられた可能性が高くて、でも未だに何の情報も公開されないので自分たちで探しているのだと。 もう40年以上も。 だって会いたいんだもの。

砂漠の砂の山や海から小さな骨の欠片を探そうとする行為と宇宙から採取される大量のデータの海から星の、生命の起源を探ろうとする試みと、単にそれらを並べて場所や行為の符合を示すのではなく、これっていったいどういうことよ? と考えさせるところまで持っていく。 フィルムは監督Patricio Guzmánの思考の道筋を明確に示して、我々になにかを促す。

太古からの天空と人とのいろんな関わり、国家の政変の犠牲者を束ねて破棄して見えなくしてしまうことと、見えない形で提示される宇宙の謎を見えるようにするために組まれる国家プロジェクトと、それぞれを地表に這いつくばって実行する人たちひとりひとりの言葉と。 こんなふうに考古学者と現代史学者と天文学者を等しく呼び寄せてしまう過去時間の磁場としてのチリの砂漠。 こんなの、地球の反対側のお話し、であってよいはずがあろうか。

探しているのはカルシウムかー、とか言うことではなくて、どちらも時の権力者が指揮して主導した/している、一方は隠して、他方は広める話、一方は過去を、他方は未来を向いているかに見えて、実はどちらも過去の時間に縛られた、閉ざされた世界のことなのだ - であるとしたらこのふたつをドライブするもの、隔てているものって何なのだろう。
最後のほう、砂漠で遺骨を探す女性たちが望遠鏡から空を見るシーンの何とも言えないかんじ。そこに希望なんてないのだが、あえて言うならChris Markerの笑い猫、とか。

そして虐殺の歴史、残された者たちにとっての不条理な時間のありようについては、王兵の『鳳鳴 中国の記憶』(2007)とか、『無言歌』(2010)もあわせて考えたい。 星は結局なかったんじゃないか、風と砂しかなかったんじゃないか、とか。

「真珠のボタン」を見たい。 それと「チリの戦い」も。

1.17.2016

[film] 婦系図 (1962)

9日の土曜日、「失われた時」のあとで京橋に移動して見ました。「三隅研次」特集。
この日の京橋は「白子屋駒子」(1960)から見るべきだったかも、だけど、いいの。

原作は言うまでもない泉鏡花 - ずいぶん昔に読んだが見事におぼえてない、マキノ雅弘版は見てない。
びーびー初泣き。 すばらしい女性映画でした。

子供の頃、スリをしていてドイツ文学の酒井教授(千田是也)に拾われた主税(市川雷蔵)はそこの娘の妙子(三条魔子)と兄妹のように育てられて、大きくなってからは酒井教授を師としてドイツ語方面で出世が見こまれている、のだが実生活では芸者のお蔦(万里昌代)と恋仲になって独立を機に一緒に暮らし始める。

妙子のほうには静岡の実力者で医者一族のいけすかねえぼんぼん - 河野が母子で縁談を画策してきて、酒井教授はいいじゃないか、というのだが主税は気にくわないのでしらっと妨害していたら仕返しにスリだった過去を暴かれ、更に教授にお蔦のことで責められて、俺を棄てるか女を棄てるかどっちかにしろ、て迫られてお蔦に別れてくれ、ていうの。
(教授もクソだけどそんなこというクソじじいをなんで蹴っ飛ばさないのかこのボケなすは)
(『切れるの別れるのって、そんなことは芸者の時に云うものよ。私にゃ死ねと云って下さい』)

あともうひとつ、妙子を生んだ実の母はお蔦のとこのおかみの小芳(木暮実千代)なんだから教授だってさあ、ていうのとそんな妙子にうちは名家でございますから、ていう河野家だって裏ではいろいろ後ろめたいのがあって、お蔦と切り離された主税は静岡に単身乗りこんで河野家にねちねち復讐していくの。

でもそんなしょうもない小競り合いしているうちにお蔦は病に倒れて…

主税とお蔦の別れとか、小芳と妙子の再会とか、髪結いをしてがんばるお蔦とか、妙子がお蔦を訪ねてくるとことか、お蔦が亡くなるとことか、とにかく泣ける台詞とか泣けるシーンの波がすごくて今思いだしただけでもきついの。 脚本は依田義賢で、そういえばこのひとの溝口健二(が描く女性)を見るたびに泣いてばかりになるのだからそもそも要注意なのだった。

ていうのと、とにかくもうほんとに(女性の反対側にいる)男共ときたら主税も含めて壊滅的にしょうもないしバカだしクズだし(除.めの惣)、こんなバカ連中が偉そうににっぽんの近代をデザインして担ったんだから今がこんな惨状なのは無理もないことなのね、て思った。

カラーの瑞々しさも日本家屋の奥行きのかんじも日本美術、としか言いようのない美しさ。そういう四角四面格子のなかで泣き崩れたり倒れたり震えながら立ち上がる日本女性たち。
これが日本の … うんたらとは全く別のところでそうっと、でもしっかりと留めておきたい。

1.15.2016

[film] The Lost Moment (1947)

9日土曜日のお昼、シネマヴェーラの「映画史上の名作14」で見ました。
「失われた時」。 原作はヘンリー・ジェイムズの「アスパンの恋文」 - The Aspern Papers (1888) で、翻訳は岩波文庫から出ているのだがもう絶版。未読。

原作は英国詩人シェリーが恋人メアリーに宛てた恋文に想起されて書かれていて、映画のなかで出てくる詩人のポートレートもシェリーにそっくりなの。

NYの編集者のLewis (Robert Cummings,)は19世紀に行方不明になった詩人- Jeffrey Ashton の失われた恋文集を探していて(出版すれば絶対に売れるから)、驚くべきことに彼が手紙を綴った恋人のJulianaは105歳でまだ生きている、と聞いて、その恋人のヴェニスにあるおうちに身分を隠して滞在してこっそり探りはじめる。

その屋敷にはすごく冷血そうな又姪のTina (Susan Hayward)と頑固で意地悪そうな家政婦とその娘家政婦(やさしい)と猫(かわいい)がいて、女性ばかりの館では当主Julianaのケアにものすごく気を配っている他方で、Lewisのような来訪者にはつんけんして厳しい。

でもやがて105歳のJuliana (Agnes Moorehead) - ずっと椅子にうずくまっていて殆ど顔も見せない - と面会することができて、彼女がお金に困っていることがわかったり、夜中に屋敷のどこかからピアノの音が聞こえてきたのでなんだろう、と探していたら猫が案内してくれたり、そもそもJeffrey Ashtonはどこに消えてしまったのか、とか、いろんな事情を知っているらしい怪しい僧侶とか、Lewisの正体を知る強欲な奴とか、ゴスでミステリーの要素もいろいろあっておもしろかった。

届いたのか届かなかったのかどこかに仕舞いこまれた手紙の束と、肉体と共に朽ちて滅びていくなにか、或いは別の肉体に転移して生きようとするなにか、などなどが不滅の愛をめぐって最後に燃えあがって、それだけだと19世紀のお話しなんだけど、少しだけ不純で胡散臭いなにかも入ってきて、そのだんだら模様もおもしろいの。
そして、彼らの生を生として繋ぎ留め、操っているのは死で、その死をもたらしたのは不滅の愛で、ていうぐるぐる回る怪談でもある。 

お屋敷をめぐるゴシックホラーとしてリメイクもできるねえ。 あんまこわくないやつ。

[film] うるさい妹たち (1961)

8日の金曜日の午後の2本目、阿佐ヶ谷の特集「東京映画地図」のなかで見ました。 邦画はじめ。

冒頭、夜中に運転している男がうとうと眠そうになったところで車の前に立ちはだかる女の子がいて、おじさん車乗せてくれない? と聞いてきて、いいよ、ていうと後ろの暗がりから男女のグループがわらわら現れて車に乗りこみ、おじさんは休みたいという彼らの求めに応じてホテルに入り、最初の女性(純子18歳 - 仲宗根美樹)はおじさんと二人部屋になってちょっと怪しいかんじになるのだが、おじさんが突然欲情して襲いかかってしまったので雰囲気がぶち壊れておじさんは帰ってしまう。

おじさん(山村 - 永井智雄)は丸一物産ていう会社の副社長で、自分の秘書にアプローチしつつ、病気でいなくなりそうな社長の次を狙いつつ、自分の娘(尚子 - 江波杏子)には自分の会社の大株主の御曹司との縁談を進める、というマルチでいろいろ強欲なことをやっている。おじさんたら。

純子の恋人は売れてないけど自分には絶対才能があると信じているこれまた傲慢な若者(健二 - 川口浩)で、健二は御曹司とのお見合いがつまんなくてぼんぼんへの当て付けで六本木のナイトクラブにやってきた尚子と出会って恋(この上玉を自分のものに)におちて、彼女に絵のモデルをやってくれないかと頼む。

副社長に言い寄られている秘書の里子には同じ会社につきあっている真面目な彼がいるのだが、こいつは貧乏で先がなさそうだしどうしようかと思っていて、里子の妹は不良の純子で、姉妹であまりぱっとしない暮らしをしている。

やがて純子は副社長と秘書 = 自分の姉 - の逢瀬を目撃して、更に自分のものであるはずの健二が尚子と会っているのも見ちゃって、妹はどんどん不機嫌にうるさくやかましくなって暴れはじめる。

いろんな人物が面倒くさく入り乱れるので沢山の矢印や実線点線で人物関係図が描かれてしまうようなドラマの典型。 でも焦点は無軌道で制御不能な若者たちとそれによって掻き回される社会の上の方の人たちとか下の方の人たち、或いは男と女の、女と女の戦い、とかいろいろ、ひとによって受けとめ方は異なるのだろうが、結局のとこ、上の方でも下の方でも強欲でヤンキーなやつはほんとうざいねえ、とか。

こんなふうにテーマは割とどろどろなのだが、カミソリのように研ぎ澄まされた白黒のエッジがすごい江波杏子の佇まいとか、割とするする裸になってしまう女の子たちとか、そういうほうに感心した。

あと、どうでもいいけど、今のオフィスの窓から見える風景とほぼ同じのが映ったので仰天した。
あそこって…

1.14.2016

[film] Comet (2014)

8日の金曜日の昼間、清澄白河から渋谷に移動して見ました。 最終日の最終回だった。

冒頭は、Dell (Justin Long)がいよいよその時が来た、みたいに決意を固めてドアの外で踏みこむか殴りこむか、みたいな状態で、そこからタイムスリップするかのように場面は6年前(おそらく)、ふたりが出会ったLAで天体観測のツアーか何かの列に並んでいて、そのとき彼女 - Kimberly (Emmy Rossum)は当時の彼とデートしていたのだが、Dellは構わず彼女にくらいついて、という場面の後、場面は更に時間を隔てたいくつかのシーン - 友人の披露宴に一緒に出かける直前のバリのホテルとか、Brooklyn(彼)とLA(彼女)の電話とか、久々に再会して電車のなかで、とかに切り替わったり行ったりきたり。

それは一見するとなんでもないふつーの情景で、なにか決定的なことを言ったりやったり起こったりする、というより、後々のなにかどこかに影響を与える予兆のようなことがあるようなないような、で、その行方や結果は明示されないまま次の場面に飛んでいく。

ある男女の6年間とパラレルワールド、のような説明は既にあって、ということはこの男女はうまくいかなかったことは既にわかっていて、ここでのパラレルワールド、ていうのは、ひょっとしたら彼らが幸せにカップルになれていたかもしれないどこか別の時空のお話しなのだな、ということはわかる。 

でも映画はあの時のあれが実は決定的ななんかだった、みたいにこまこま責任追及とか原因解析をするわけではなくて、誰にでもどこにでもありそうな恋愛の風景スケッチに留まっていて、そこはなんかよかったかも。 パラレルワールドとか言ったって、それって、時間空間軸の問題、とかいう以前にひとがふたり、というところで既にじゅうぶんパラレルで、つまりはどうしようもないといえばどうしようもないんじゃねーの、って。

もちろんそんなこと言いだしたら恋愛ドラマなんて成り立たなくなってしまうので、ふたりの間の物理的だったり心理的だったりする距離とか、ふたりのキャラクター - べらべら喋りまくるJustin Longとそれを適当に鷹揚に受け流して時折ブチ切れたりするメガネのEmmy Rossum(すてき)を横並びにして、で、その組合せがなんかよくて、こういうのってどっちかがおしゃべりじゃないとだめよね、とか改めておもった。

で、あのときもし君が君じゃなかったら、みたいなパラレルものの近年の最高峰としては『あの頃エッフェル塔の下で』がまちがいなく聳えていて、あの映画でのMathieu Amalricとこの映画でのJustin Longはどことなく似ている。 自分が一番偉いしモテるしと思っているくせに、実は一番脆弱で、実際すぐにやられてばったり寝こむ、みたいなとこ。

ふたりが出会った晩、帚星(Coment)(だよねあれ? ちがうの?)がふたつ空にあって、つまりそれくらい、何万年に一回くらいのありえないこと、て言っているのだろうが、ありえないからもう地球なんてなくなっちゃえ、くらいのところまで引っ張ればなー。


ああ、Alan Rickmanさんまで ...