4.02.2023

[film] Irma Vep (1996)

3月26日、日曜日の午後、”Les vampires”の上映の合間に日仏学院で見ました。
作・監督は後に2022年のHBOの同名ドラマシリーズを手掛けることになるOlivier Assayas。

大学で19世紀末の連続大衆小説作家のGustave Le Rouge (1867-1938) - Paul Verlaineとも親交があった - について論文を書いたAssayas がその同時代に映画を撮っていたLouis Feuillade (1873-1925) に関心を持つのは当然の流れだったと思うのだが、”Les vampires”のオリジナルのストーリー展開や設定をそのままなぞるのではなく、舞台を現代に置いて、どちらかというとサブキャラに近いIrma Vepをフロントにして、更にその映画制作の現場を - バックステージものとして撮ることには、ものすごく一貫した意味と倫理(のようなもの)があるはず。 (その辺の話を聞けたかもしれない31日のAssayasのオンライン講義を聞けなかったのが悔しいよう)

まず時代設定は現代に置かないと意味がない - オリジナルはあの時代の世相や街のありようをダイレクトに映し出すことでLes vampiresという組織の出現と暗躍を生々しく活写しようとした、これをガイ・リッチーがシャーロック・ホームズでやったような荒唐無稽な時代劇パッケージにしてしまうことだけは避けなければならない。

他方で、ギャング団やその抗争、事件を巡る捕物などにしてしまうことも同様の理由でそんなに意味がなさそう、となった時に唯一、フロントに立って磁場となり惹きつけてかき混ぜてくれそうなのが”vampire”のアナグラムとして生成加工された”Irma Vep”なのではないか、と。

そしてその舞台は、普通の会社組織でも裏社会でも社交界でもないようなところでなんかないか? って見回してみたら足下にあった。映画制作の創作現場が首をつっこまざるを得ない表と裏の社会の割れ目の諸相あれこれ、縛りとストレスとプレッシャーまみれの「現場」こそ、現代のIrma Vepが - 配役でもリアルでも - 出現してもおかしくなさそうな坩堝、と言えるのではないか。

最後にあるのが、連続ドラマがその本質として持ちうるスピード感とか追い立てられ感のところ。これを実現するには予算とか規模とか簡単ではなさそうなので、まずは1本ものでデモのようなラフスケッチのようなのをさらっと描いてみたのが96年版、そこから26年後に本来あるべき姿だった連続活劇巨篇として完成させた。

というコースで考えてみることもできるし、実はそんなのはぜんぶはったりで、Maggie Cheungの魅力にやられてしまった悪の首領Assayasが、彼女に近づいて捕えるために張り巡らせた罠 - スクリーンテストとぜんぶ後付けの口実 - だった説も根強い。(うーん、後者かな)

こうして、香港映画のアクションスターとして”Irma Vep”を演ずるべく監督のJean-Pierre Léaudに呼ばれて、フランス語がまったくできない状態で、先が見えていない撮影現場に放り出されたMaggie(役名もMaggie Cheung)の格闘の日々 - 呼んでくれた監督の期待に応えるべくあのコスチュームで動き回ってみると、その扮装が彼女にIrma Vepを憑依させて、実際にホテルで盗みを働いてしまったり。

現場の方は、かつてカルト的な人気を誇り慕う人も多かった監督があまりに好き勝手にやり過ぎて現場をコントロールできないことが露わになり、その結果逃げたのか外されたのか、新たな監督 - Lou Castelに変わって、その彼は主演女優がアジア系であることが納得できないらしい。(1910年代のヴァンピールがどんな人種・階層構成だったのか、それが90年代にどうなっていてもおかしくないのか、は考察に値するテーマではないか?)

Jean-Pierre Léaudはヴァンピールのサタナス(の映し絵)で、彼が自死したあとに別の首領に替わって組織は壊滅する - 本作の上映タイミングがそのエピソード7-8と9-10の間に置かれたのは偶然なのかヴァンピールの策謀なのか。

Louis Feuillade的な世界(観)をどうやったら現代社会(pre 911)で映像化できるだろうか、というとりあえずやって見る系のデモセッションなのでどうしても座りがよくなくて、あんなざらざらノイズまみれの画で撮られた、というのと - それでもその向こうに立ち上がるMaggie Cheungの姿がそれとわかればOK、なのかも。Sonic Youthの”Tunic (Song for Karen)”が鳴り出すところ - この時期のSonic Youthはよいねえ - と、Jean-Pierre Léaudが失踪前に遺していったアイビームの落書きのとこだけで十分、実際あれで1/4世紀は持ちこたえたのだった。 2022年版も、時間をおかずに再見せねば。



RIP  八重洲ブックセンター;
わたしは学生の頃にここでバイトしていた。まだ人文書コーナーが2階にあった頃の2階にいて、とても楽しかったのだが、新刊が入るとつい取り置きしてしまうので月の手取りが5千円くらいにしかならなくて、これはだめだろう、って自分からやめた。本が好きなら本屋やれば? ってたまに思っても自分で打ち消してしまうのはここでの経験があったからなの。その呪いが解かれた、と解釈してよいのか?


RIP  Ryuichi Sakamoto;
音楽はなぜそんなふうに鳴って聴こえて、その粒や束がどんなふうに耳の奥を伝わってきて、美しいとか哀しいといった不思議ななにかを我々のなかに呼びさましたり訴えてきたりするのか、を常に考えてわかりやすい言葉と音楽で教えてくれる - その思考の最中に引き入れてくれる人であり音楽だった。 その意味での「教授」で、でも決して権威にはなることなく、常に思索者、実践者として導いてくれた。
ありがとうございました。


こちとら安らかどころじゃないってのにさ..

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