3月28日、火曜日の晩、Tohoシネマズ日本橋で見ました。
英国Royal Opera Houseのライブ配信シリーズで、Royal Balletによる『赤い薔薇ソースの伝説』。
原作は世界的ベストセラーとなったLaura Esquivelの同名小説 - “Como agua para chocolate” (1989)、1992年にはメキシコのAlfonso Arauによって映画化されている(どちらも未読で未見 - 渡米していたからか)ものを3幕からなる新作バレエとして2022年6月に上演したもの。ABTの方でも先月プレミアされている。
バレエはライブで、をずっと信条にしてきたので(床を叩く音とか客席のどよめき- 小さい悲鳴とか、理由はいろいろ)、バレエの配信はこれまで見ないことにしていたのだが、この国でバレエをライブで見ようとすると料金がバカ高くて、興行界の方も観客の方もそこになんの課題も感じていない幸せに腐れた世界のようだからもう配信でいいや、にした。
振付・監督はChristopher Wheeldon、音楽はJoby Talbot、セットデザインはBob Crowley - Luis Barragánに影響を受けた茶褐色。メキシコ音楽に関するコンサルと指揮にAlondra de la Parra、原作者のLaura Esquivelも協力していて、最後の方でメゾソプラノの歌唱も入る。収録されたのは、メインがFranchesca HaywardとMarcelino Sambéの回。
インタビューで関係者も語っていたが、この時代にレパートリーでもモダンでもない完全に新しくまっさらな原作もののプロダクションを一から作る、しかも舞台は手慣れたヨーロッパではなく、原作も古典ではない、マジック・リアリズムがうねりまくるラテンアメリカ小説で、これなら実現までに数年かかった、というのも頷けてしまう。よくこんなの作ったよね、っていう感嘆がまずくる。
冒頭、スクリーンに「末娘は結婚せず母親が死ぬまで面倒を見なければならない」という文言が出たあと、黒衣(反対を向くと白)の13人の花嫁がぞろぞろ現れて後方横一線に並んで不吉に舞台を眺めている。台所で生まれた家の末娘Tita (Francesca Hayward)は料理人のNacha (Christina Arestis)に料理を教わりながら、近所のPedro (Marcelino Sambé)と仲良くなって、このままずっと一緒にね、って思っていたら、TitaのママのMama Elena (Laura Morera)はしきたりだから一緒になることは許さぬ、ってPedroはTitaの姉のRosaura (Mayara Magri)と結婚することにされていて、それでもPedroはTitaの近くにいられるのなら、と結婚を承諾するのだが、結婚式でTitaの料理とケーキを食べた出席者たちはおかしくなってNachaは死んでしまったり、もうひとりの姉のGertrudis (Meaghan Grace Hinkis)はなにかに目覚めたのか革命戦士と機械の馬に乗って駆け落ちしてしまうし、ここから一族全体を覆う呪いと地獄 - 会うも地獄会わざるも地獄 - の情念の日々と世界が繰り広げられていく。
第二幕でMama Elenaによって強引かつ物理的に引き離されたTitaとPedroの苦しみと、それにより精神を病んでしまったTitaを救うジョン医師 – Dr. John (Matthew Ball)の登場とふたりのにじり寄りと接近、Mama Elenaの死と共に明らかになる彼女の悲しい過去、そして亡霊/怨霊としての復活、捩れが戻ったと思ったら今度はPedroが倒れる等、昼メロ並みに大波大嵐のてんこもりで、ただTitaとPedroの愛と絆の深さはふたりの一幕目からのダンス、というより親密かつエロチックな絡みで十分伝わってくるので、そんなに踏み外しているかんじはないの。
でも、二幕までの怒涛の流れ比べると、第三幕はやや蛇足というか、なくてもよいくらいかも。古からのしきたりがパワーを失った – のは別にそんなのなくて当然なので、ママとRosauraの死により消滅、で十分な気もした。
ホット・チョコレートを作る時に牛乳の替わりに水で作る、原題はそのための水(お湯)を指してて、ここから、情熱 - 激情に溢れた状態、更にはオーガズムを指したりもするそうで、それは中盤に向けての水が絡まるようなふたりの舞いを見れば納得できるのだが、邦題だけだとなにがなんだかさっぱりわかんないよね。 映画と翻訳本の日本でのリリースは同時(1993年)のようなので、映画のタイトルに引っ張られたのだと思うけど、なんか勿体ない。少なくともこのバレエは「伝説」を語ろうとしているものではないし。
家の、しきたりの呪縛と恋の挟み討ちで純粋な少女が狂ってしまう、というお話しだと、その狂いようから”Giselle”などを思い浮かべて、”Giselle”は相手の男がくずだったからという違いはあれど、あれも母親と娘が始めにあった、とか、あれは本人が亡霊になったけど、これは母親が亡霊になる、とかいろいろ思ったり。あと、ヨーロッパとラテンアメリカにおける狂気の現れようの違いとか。
これ、日本でもごく普通にありそうな話だねえ、ってMama Elenaが亡霊となって現れるところで「新八犬伝」の玉梓が怨霊みたいだ、と思ったり、でっかい人形劇にしてもおもしろくなりそう、とか。”Like Water for Sticky Rice”か。
でもやはりこれはロープや布といった縛るもの覆うものと生身の女と男の身体がどうやってそれらに絡み絡まれ覆われて、数十年に渡るがんじがらめの隙間や切れ目から互いを見つけてその身をなにがなんでも委ね解き放そうとしたのか、その身悶えに寄り添おうとしたダンス、なのだと思った。テーマだけならAkram Khanあたりがとりあげてもおかしくなさそうな。
真ん中のふたりは本当に素敵で申し分なくて、他の(唐突すぎてわけわかんない)革命軍のパートですら力を抜かない見事な踊りを披露してくれた。
配信で見たバレエはやっぱり、そこはなんで引いて全体を見せない? とか、なんで上半身しか見せない? とか、なんでそこで切ってあっち側に飛ぶか? とかなかなかのストレスが押し寄せてきた。これならいっそFixで全景だけ映してくれていた方がまだ。 やっぱりライブで見たかったなー。
カーテンコールの後はあそこの狭い通路を抜けて地下鉄のCovent Gardenの駅に向かい、混雑のなかエレベーターでホーム階に下りて電車がくるのを待って … を脳内再生してしんみりしたの。
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