4.28.2023

[film] The Sheltering Sky (1990)

4月16日、日曜日の午前、新宿に新しくできた109シネマズ Premiumとかで見ました。

“Ryuichi Sakamoto Premium Collection”としてセレクトされて5月まで上映されている作品のなかの1本。見たいから見に行ったのだが35mmでもない普通の2Dで4000円はねえ.. ポップコーンも飲み物も別にいらないし、映画泥棒のCMがついてきたのにはうんざりした(あれ、ほんとになんの効果があるの?)。 階下の食堂のぐじゃぐじゃも、別に好きにやってればいいけどあれをかっこいいとか思うのって相当だよね。(いつまで「ブレードランナーの世界」、とかはしゃいでいるんだろ)

この作品、2016年に恵比寿ガーデンシネマで、やはり坂本龍一お墨付きのスピーカーシステムでもって上映されたことがあって、それに行った。

原作は隅っこで出演もしているPaul Bowlesの同名小説(1949)、監督はBernardo Bertolucci、製作はJeremy Thomas、撮影はVittorio Storaro、音楽は坂本龍一 .. もう半分以上のひとが亡くなってしまったねえ。

何度見ても冒頭に切り取られている戦後(設定だと1947年)のマンハッタンの描写がすごく好きで、大画面でこれを見たくて映画館にいく。ここを出た船がフランス領・アルジェリアの港に向かい、3人のアメリカ人 - 作家のKit (Debra Winger)と作曲家のPort (John Malkovich)の夫婦と彼らの若い友人George (Campbell Scott) – が降りたち、ホテルの手前の雑踏に紛れて酔って、それぞれの思いや興味で少し浮かれていて、それをバーの隅にいるPaul Bowlesが眺めていたり(彼はナレーションも)、イギリス人旅行者の変な母子 - Mrs. Lyle (Jill Bennett)とEric Lyle (Timothy Spall)が近寄ってきたりする。

最初の数晩でPortは町外れの娼婦のところに行って騒動にあったり、KitとGeorgeの仲を疑ったり、Kitは疑われることにうんざりしたり、Georgeはずっと無邪気にはしゃいでいるばかり。そのわかりやすい人系のごちゃごちゃを吹っ切るかのように3人は砂漠の奥のほう、人がいない方、いても言葉が通じない方に向かって、大量のハエだのにも襲われながらゆっくりと正気を失っていくの。

単に都会の暮らしに飽きたブルジョワがリフレッシュよりもう少し深く(touristではなくtravelerとして)未開とか野生とかに憧れて旅に踏みだしていったら深みに嵌って.. というヒッピーの時代にドラッグも絡めていくらでも語られた物語、のようで、でもそれよりはもう少し真摯に正直に戻れなくなってしまった生のありようとその分岐点について語ろうとしている。それは最後にナレーターであるBowles自身の声で、すべての出来事は回数が決まっている – あと何回満月を見ることができるだろうか?(おそらくあと20回)って。

KitとPortがすべてを見晴らせる崖の上でセックスをしながらこの終わり(そして覆いかぶさってくる空)を見て感じて、それからしばらくしてPortは穴に落ちるように疫病で亡くなり、Kitはその少し先で自分の意思なのか流されたのか戻れないところまで自分を押していったか、空の覆いを被ってしまったのか、かつてのKitではなくなっている。でもそれについて語れる人はもうどこにもいない。

今であれば終わりの方のKitの姿は幸せといえるのかどうかとか、自己責任がどうのとか、どうでもいいことばかり言われそうだけど、そんなのうるせえ、って戻ってきた町の壁に貼ってあるJean Grémillonの”Remorques” (1941) -『曳き船』のポスターが力強くいうのだった。


Ryuichi Sakamoto; Playing the Piano 2022+ (2022)

4月22日、土曜日の午後、同じシアターで見ました。昨年の12月?に配信されたライブ映像に1曲プラスした決定版を坂本龍一自身がここで、と指名したシアターで見る。昨年末の配信は見れないままで、亡くなられてから見ることになってしまったのは残念だったが。

画面も音も(?) モノクロの、NHKの響きがよいというスタジオでのライブ。音響はZAK。
広い空間にピアノが一台、それに彼がひとりで向き合い、弾いていく姿をカメラ数台でとらえただけの。

世代的にはYMOもろ、のはずなのだがポストパンクを追っていたのでこのバンドと全く接点はなくて、初めて見たライブはつくば万博のジャンボトロンでの(1985)で、最後に見たのは(たぶん)NYのJoe’s PubでのMorelenbaum2/Sakamotoので、どちらもここで聴かれる骨を叩いているようなシンプルなのではない、でもそれでも、鳴りはじめる音は森のように豊かに広がって風を起こして、こちらを包み込む。東風でも映画音楽 – 上の“The Sheltering Sky” – も、もっとシンプルに静かに鳴らすこともできたのかもしれないけど、そうはならなくて、鍵盤を押す音、ペダルが踏まれる音、弦の鳴る音、それぞれがオーケストレートされるべく勝手に枝を伸ばして捩れていく。彼の、老いて少しおとなしくなった魔法使いのような貌の、自分と音楽の両方に魔法をかけてきょとんとしているかのような姿を見つめるしかない、そういう磁場が。

彼の姿を一番多く見かけたのは演奏の場ではなく、NYのSOHOにあった(今はない)本むら庵と、(これも今はない)精進料理の嘉日だったかも。どちらも普段使いできるようなところではなくて、それでもあれだけ見かけることがあったのだから相当に通っていたのだと思う。そこでの寛いで楽しそうだった彼の姿ばかりが浮かんできてしまった。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。