3月30日、木曜日の晩、ユーロスペースで見ました。
邦題は『書かれた顔 4Kレストア版』、英語題は“The Written Face”。チラシには『黄昏の夢、あるいは夢の黄昏』とある。
監督はDaniel Schmid、撮影はRenato Berta。 ユーロスペースで過去何度か行われた気がするDaniel Schmid特集で昔も見ている。
坂東玉三郎、女優の杉村春子、日本舞踊家の武原はん、舞踏家の大野一雄、日本最高齢の芸者-蔦清小松朝じへのインタビューや彼らの過去&現在の活動(映像)を織り交ぜつつ紹介するドキュメンタリーのパートと、フィクション(であろうがなかろうが)パートの『黄昏芸者情話(The Twilight Geisha Story)』からなるのだが、Daniel Schmid自身の言葉として、これはドキュメンタリーではなくフィクション - 黄昏についての物語で、黄昏とは映画のことなので、これは映画についての映画なのだと語っていて、Daniel Schmidは自身の作品 -『人生の幻影』(1983)でも『トスカの接吻』(1984) でも、黄昏を撮り続けてきたひとであるから納得する。なので、これは海外からやって来た映画監督が日本の伝統芸能を取りあげてよくできましたー(日本すごい)などというものではまったく、ぜったいないの。
黄昏とは、終わっていく、消えていく運命にあるものがそれを受け容れつつその最後の光のもとでなにかを浮かびあがらせようとする最後の振る舞いとかひと息とか試みとか – そのなにかには自身も他者も世界のすべてが包摂されて、やがては暗闇がやってくる(のがわかっている)。 ここにおいて和だの洋だの、いったいどんな意味があろうか?
ここで前日の『音の映画 Our Sounds』(2022)のトークにあった、芸能におけるコスモロジーの回復 – 闇を手繰って音(光)を獲得していくような話と、この映画の黄昏において光が減衰していく話が重なる気がして、それにしてもここで見ることができる坂東玉三郎の舞い「鷺娘」「大蛇」「積恋雪関扉」のとても美しい、とは一言で言えない異様な艶やかさや動態、埠頭の水の上に浮いているような大野一雄の立ち姿、杉村春子の『晩菊』のはしゃぐシーン、三味線を手にする蔦清小松朝じのテンション、すべてが来たるべき闇に向けて、そこにある音や葉や羽を落としていくような、それでも次に継がれていく芸能のありようについて考える。
もうひとつ、フィクションパートの『黄昏芸者情話』のほうは、古い屋形船の上で若い二人の男たちが芸者に扮した坂東玉三郎を陰で取りあうさまを、サイレント映画の画面設計で見せて妙に生々しい。この「情話」は玉三郎がソロで見せる3つの舞いのバリエーションなのか、更に化粧と衣装を落とした彼が90年代の街中を車で行ったりホテルにいたりする現代のシーンもあって、これらを総合するとやはりぜんぶフィクションなのだ、というのが一番しっくりくるのかも。
あと、「描かれた」ではなく「書かれた」顔である、ということ。彼らの顔は、自由に受け取ったり解釈できたりするイメージとして描かれているのではなく、大昔からテキストとして書き継がれて読むことのできる人が読んで咀嚼し、写しとったり上書きしたり推敲したりしながら舞台の上などで実行してきたものである。そういう厳しさ(今の世だったら許されないような嫌なこと - 差別や迫害も含め)が表出したものなのだ、というのの反対側で、それが書かれたものであるならば(翻訳が必要かもしれないが)我々はそれを読むこと、演じることができる、という開かれたありようもある - 男が書いた女の貌を男が舞う、演じる、というアート/芸能。
そして、この書かれた顔はどのようなドラマ(これも書かれたもの)の台本にのって、どのような役割を演じて、歌って、舞ってきたのか/演じていくことになるのか、など。芸能の世界の底なしの広がりの交点にいる玉三郎と老いた者たちはなんでそんなふうにいるの? あることができてきたの? など。とてつもなく男性中心社会、というのも、あることはある。
あと、パンフレットの終りに掲載されているプロデューサーの堀越さんとアソシエイト・プロデューサーの松本さんの対談 - 『80年代シネクラブの総決算としての『書かれた顔』- にある撮影の舞台裏がめちゃくちゃで、総決算としか言いようのないおもしろさ。いろんな意味で奇跡のような作品だったのだな、って。
4.05.2023
[film] Das geschriebene Gesicht (1995)
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