11.20.2016

[film] Too Late for Tears (1949)

元のトラックに戻りま。 どこまで挽回できるかな。

10月29日の昼間、京橋の特集「UCLA映画テレビアーカイブ 復元映画コレクション 」で見ました。

『遅すぎた涙』。

TIFFの本編のほうは誰がいくもんか、だったのだがフィルムセンターでのこの特集はそういう訳にはいかねえ。 NYの定期上映館では珍しめのクラシックがかかるとき、UCLA Film & Television Archiveが修復したバージョンです、ていうだけでひゅう、って唸るおじいさんとかいっぱいいるんだよ。

LAに暮らすJane(Lizabeth Scott)とAlan(Arthur Kennedy)の夫婦は気乗りのしないパーティに車で向かう途中、車に鞄を投げ込まれて、鞄の中には札束が入っててびっくりするのだが車が追っかけてきたのでとりあえず逃げて撒いて、その札束 - 6万ドルあった- を警察に届けようというAlanとちょっと待って様子を見ようというJaneで意見は別れて、やがてほうら来た、というかんじで探偵だという怪しげなDanny(Dan Duryea)が現れて緩やかに彼女をゆすり始め、やはり警察に行こうというAlanとの溝は深まって、いったん鞄は駅の荷物預かりのところに行くのだが暴走を始めた彼女の妄執は留まることなくやがてひとり死んでふたり死んで…

突然手にした、手にすることができるかもしれない大金で狂っていく女 - 根っからの悪女という訳でも誰かに唆された訳でもなく、彼女の内面は一切明かされないまま、お金を諦めようとしない彼女の周りでいろんなことが起こって、それらは誰のせいでもない、ということも誰かみんなのせい、ということもできる、どっちにしても誰も助けてくれない、そういう冷たさが貼りついた作品で、その冷たさ暗さをノワールといったのね。

プロットだけだととても地味なようでいて、最後はメキシコまで行ってしまう驚くべき広がりをもった作品で、それはフィルム・ノワールの底なしにも通じるそれなのだった。


これの後にUCLAアーカイブのJan-Christopher Horakさんによる講演会をきく。
『デジタル時代の映画保存』- “Film Preservation in the age of Digitality”

フィルム保存の歴史を概観し、その方法がデジタルの時代になってどう変わってきたのか、変わらざるを得なくなってきたのか、そこにUCLAのArchiveはどう関わってきたのか。

フィルムは、なんもしないと劣化して見れなくなる→ デジタルで保存できるよ → デジタルで保存するためには元素材をきちんと修復しないとだめ → 修復はお金かかる & デジタルの仕様はどんどん変わる → ちゃんとしたアナログのマスターがないとお話しにならない → やっぱりオリジナルから修復しないと(し続けないと)だめじゃん、結局お金かかるじゃん  → アナログでいいんじゃね?

デジタル化への移行って軽くなる/軽くできる/メリットいっぱいのようで結局ものすごい継続的な投資が必要で、結局これって文化の話ではなくて、産業(構造)とかインフラを巡るくだんないパワーゲームの話に向かわざるを得ない。 このへん、言いたいこといっぱいあるのだが、とにかく。

デジタルアセットの急激な進化がアナログへの回帰を促している、という指摘は映画フィルムの話に限った話ではなくて、音楽もそうだよねえ。
デジタル仕様の変更に伴うオリジナルマスターの修復や調整もやがてはAIさんがやるようになるのだろうが、そんなのあまり考えたくないので、自分にとってのアナログ決定版を脳に刻んだり手元に置いたりしておくようにしよう、っと。

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