11.24.2016

[film] Francofonia (2015)

11月13日、日曜日の昼、渋谷でみました。
『フランコフォニア ルーヴルの記憶』原題は「フランス語圏」。 
「フランコフォビア」、だとちょっと違う意味になるねえ。

かつてソクーロフがエルミタージュでやったようなひとつの美術館内のめくるめく全方位体験、とは違う、不動の、世界に誇れるルーブル美術館の成り立ちとかありようをナポレオンの時代から現代まで俯瞰し、ある/複数の美術品がある特定国/地域の美術館に収蔵され、展示され、享受されることの意味・意義を問う。

エピソードは3つあって、中心にあるのが第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがパリに侵攻してきて、ルーヴル美術館長ジャック・ジョジャールがナチスの将校メッテルニヒと対峙するのだが、ジャジョールは既に重要な美術品のパリ郊外への移転を進めていて、本来であればナチスはふざけんな、て強制収監 → ドイツに移送 or 徹底破壊となってもおかしくないのに、メッテルニヒはそれをしないでパリの生活を楽しんだりしていた。ふたりとも芸術に対する理解と愛があったのでは、と。

もうひとつはルーブルの館内をひっそり徘徊するナポレオン一世といろんな収蔵絵画に描かれている自由の象徴であるマリアンヌの亡霊。 あたしたちが世界中からルーブルの美術品を集めて(略奪して)、その反対側で自国の自由と正義の共和制を敷いて、ルーブルの礎を築いたんだから、偉いんだから、ていうのだが、なんか彼らは憔悴しきっている。亡霊だからか。

最後のは現代で、悪天候のなか美術貨物を積んで船出しようとしている船員と映画作家とのSkypeでのやりとりで、会話はぶちぶち、画像はぼろぼろでたびたび途切れ、嵐で船も貨物もどうなっちゃったのかわからないようなありさまが延々続き、なんでそんなもののために命賭けてるの? みたいな。

これらを時系列で追ってみると、まず力と勢いで周辺各国から美術品を略奪し放題だったナポレオンの時代があって、他国との緊張関係のなか、おとなしく、神妙にならざるを得なかった時代があって、国というよりはお金の力でいくらでも国境を越えていく/いける - 或はテロによる無差別破壊や天災で理不尽に消滅してしまうようになった - 時代が今で、「フランス語圏」(だけではないが)の変遷としてみると、それなりに納得できる流れだねえ、ておもった。

ていうのと、直接のテーマではないのかもしれないけど、この流れのなかで「美」は一体どこにあるのか、ありえたのか、ていうとこ。 例えばナポレオンが略奪してきた美術品・肖像画に描かれた顔、その表情が湛えるものに美的な意味はあった(だからナポレオンは持っていった)と思うのだが、いま、ルーブルに長々と塩漬けにされている美術品からどんな美的経験が可能になるのだろうか。 これってもちろんルーブルだけの話ではなくて、「何百年に一度」とか「数十年ぶりの」とか「これを逃したら最後」とかいう宣伝文句に踊らされて美術館まで来て、ぜんっぜん意味わかんない有名人とやらの音声ガイドを聞かされて(やったことないけど)、律儀に行列に並んで作品の前に立つ5分間のうち3分は他人の後ろ頭を眺めざるを得ない、そういう高いコストと苦行を通してしか美術品に接することができない哀れな我々の前に「美」は現れてくれるのだろうか、と。

ほんとにくそったれでくだんないけど、それでも好きだから絵は見にいくわけだけど、なんともめんどくさい時代であることよ、ねー。 って肖像画のなかの顔に話しかけてみたりする。 

最近そういうことをやって楽しかったのはなんといっても「クラーナハ展」の面の皮たちでしたわ。

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