14日の月曜の晩、日比谷でみました。 『われらが背きし者』
原作はル・カレので、彼の原作のは基本読んでから見るようにしているのだが、ぜんぜん時間なくて、映画はここでしかやってないみたいだししょうがないか、と見てしまった。
スパイものではなくて、ロシアマフィア、ギャングのおはなし。
大学で詩を教えているPerry(Ewan McGregor)は妻との壊れた関係を修復するのにやってきたモロッコで、怪しげで豪放そうなロシア人Dima(Stellan Skarsgård)と出会って仲良くなり、彼の娘の誕生パーティで陰に呼ばれたところでUSBを渡され、ここにマフィアと癒着している英国の政治家のリストと口座番号があるのでMI6に持っていってほしい、と言われる。
もちろん簡単に信用できるわけない渡された英国側とぜんぶ渡したら組織に即刻消されてしまうので最後のピースを渡すのは自分の家族の安全が確保されてからだ、と動じないDima側と彼らの動きを察知して潰しにかかるマフィア側の駆け引きが国を跨いで山を越えてじりじりと進んで狭められていって。
最初は見えなかった細かな、微細な関係の糸、企ての全貌が物語の展開と共にゆっくりと顕わになっていって、並行してその蜘蛛の糸のぷちぷちがちょっとした感情の揺れや弱さによって脆く簡単に崩れさって落下する、そのありさまを淡々と描く、ていうのがル・カレのドラマの中心にある魅力だと思うのだが、今回のはその辺がちょっと弱かったかも。
たぶん、例えばスパイの世界だと行動の様式や振る舞いや掟がその世界のなかである程度均質化されていて(だから、その上での裏切りとか寝返りとかができる)のだが、今度のはマフィアの世界と情報機関の世界と一般人の世界、これらのばらけた、別個の論理で動く世界を強引に物語のうえで融和させようとしたとこに難しさがあったのではないか、あるいはその見えないかんじと難しさのなかにこそ今の時代の「取り引き」とか「駆け引き」はあるのだ、ということを示したかったのかもしれない。 けど、そういう難しさって別にふつーにそこらにあるもんよね、ていう見方だって。
いや、原作はそのへんも含めて十分に深くしっとり網羅されているのだ、ということかもしれないけど。
たしかにDimaのキャラクターとか小説のなかでは相当に深く趣き深く描きこまれているんだろうなー、とか想像できる、ていうかこの映画のStellan Skarsgårdの得体の知れなさわけわかんなさがすばらしくよくて、そう思ってしまったの。
あとさーでもさー、Ewan McGregorが大学で詩を教えているひとには見えないのよねー。
11.28.2016
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