こっちから書いておく。 もう5月なのね。
先週からはんぱないぐじゃぐじゃに突入してしまい、今週はさらにひどくなって連休もくそもなくなってしまったので、金曜の晩くらいは、と吉祥寺に向かった。
ドラムス5、ギター3、エレクトロ2、ベース1。
ステージ上はなんかものものしいが、出てきたメンバーはてんでばらばら、年寄り、若者、おねえさん、帽子に長髪に坊主、など、コミュニティでやってるラテンロックのバンド、でもおかしくないふうの11人。
最初に大友さんがメンバー紹介を含めてなんか言う。 ライブの後だと耳が聞こえなくなるから、とか、1時間30分はやりません死ぬから、とか。
で、せーの、で突然の土砂降り豪雨。 果たしてこれをノイズミュージック、と呼んでよいのかわからないのだが、とにかく轟音。ばりばりばたばたぎゃんぎゃんごうごう、大小の音の粒々がありとあらゆる隙間をびっちり埋めていく、そうして埋めていく過程が、鼓膜にミクロの穴を開けていく過程が見える。 でもタライから大水を被るというより、それはやはり土砂降りで、ひとつひとつの粒がどこの太鼓からどこのギターから飛んでくるのか/どいつが飛ばしているのか、はわかる。 大波小波があるわけではない、ただただお仕置きみたいなお経みたいな集中豪雨、その土砂降りが45分だか50分だか続いて、やがて照明が落ちてまっくらになって、ぴたりと雨があがる。
例えば、バウスの30年間、あのシアターで鳴った全ての音を45分に圧縮したらこんなふうになるのかもしれない、或いは、ひとが生まれて最初に聴いた音の断面を分解して増幅して45分間に敷衍したらこんなふうになるのかもしれない。 時間と鼓膜の摩擦、その擦れあったりすれ違ったりする瞬間に現れる像を捕まえようとする。
だからひとはこの音に、ノイズに浸る、というよりはこの轟音のなかにあっても、なにかを聞き取ろうとして、そしてそれは聞こえてくる、かんじがする。 耳がおかしくなっているだけ、なのかもしれないが、それもまたひとつの相互作用と。
わたしにとっての大友さんというのはNYのTonicとThe Stoneで、あそこでやっていたいろんなのも今回のも、ぜんぶ繋がっていて、ひとりでターンテーブルと針でなんかやって出てくる音も、今回のような大編成でも、同じ密度と濃度でやってくる。摩擦が伝搬する、その強さと弱さ、その仕掛けと仕組みも含めてぜんぶ見せてくれる。
アンコールはねえだろ、と思っていたがやったよ。 30秒。
つい笑ってしまうのだったが、そんな笑いが漏れてしまうのもこのひとのライブなの。
そして翌朝、なんでかとっても気持ちよく目覚めることができる。 へんなの。
ラスト・バウス、だそうで、もちろんできるだけ通いたいのだが、あんまし悲しいかんじはない。
爆音の可能性はこんなもんじゃなくて、この場所でなければ、というようなもんではないことを知っているから。 心配なのは樋口さんのほうだよね。
5.03.2014
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