5.26.2014

[film] 大佛さまと子供たち (1952)

渡米前のあれこれ、全部は無理だろうが書けるやつから書いていきたい。
NFCのアンコール特集で10日の土曜日に見ました。

「蜂の巣映画」三部作の3本目、ということだが前2作は見ていない。

奈良・東大寺で、観光案内でお金を稼ぎながらたくましく生きている戦災孤児たちの姿を描く。
毎日街角でラジオの尋ね人放送を聞いている豊太を中心に、お寺観光豆知識を教えてくれる寺の子とか、新しく仲間に加わる子とか、寺に居候している売れない画家とか、東京から来たお金持ちのおねえさんとか、寺の内外いろんな人たちとの交流を、決して「子供だから」とか「子供なのに」とかいう目線ぬきで日記風に重ねていくのと、そこに広がっている奈良の、大佛さまを中心としたでっかいランドスケープがすばらしい。

実際に大佛さまはでっかいし、その他の仏像とかもでっかくて見事で、そういうのの御加護のもとに、という描きかたは特にしていないのに子供たちや仏閣の撮り方、スクリーンの納まりかた、そういうのの帰結として、子供たちが互いに寄り添って、大佛さまにも寄り添って生活している、タフにハードにではなく、やわらかくゆったり生きている、そういう光景がたまらなくよいの。

最近都会では仏像様を美術鑑賞の対象として眺めたりしているらしいが、違うんだな、みたいな台詞が出てくるが、本当にそうなの。この作品を見ると、お寺や仏像の周りに生活があること、おなじ屋根の下や扉のすぐむこうに仏様がいること、信心とは、信仰とはどういうのをいうのか、みたいのを考えさせられるし、仏像とか大仏とかって、そもそもそういうのを考えたり振りかえったり気配を感じたりするために作られたもんだよね、ていうのがわかるの。 仏教徒でもなんでもない自分にだって。

そして、この作品はそんな大佛さまと子供たちのゆるい繋がりを描くことで、信仰のあるべき姿、みたいのが奇跡的に現れてしまっている。 (ここに出てくる大人たちは誰もみななんかふわふわしていて、リアルな「大人」はいない)

映画は、東京に出ていくことを決意した豊太と友達が大佛さまの掌に気持ちよさそうに寝転がっているところで終わって、毎日親の消息を固唾をのんで聞きいっていた彼の辛さを思うとたまらなくなる。 すばらしいエンディングだとおもった。

併映された記録映画 「奈良には古き佛たち」は、「大佛さま...」と一部同じマテリアルを使いつつ、メッセージとして伝わってくるものは変わらない。

4Kの超細密画像なんて使わなくたって、仏像のもつアウラとその価値は、情報としての精度や確度で決められたり伝わったりするわけではなく、それが置かれた場所に差してくる光とか影だまりとか空気とか湿度とか、そういうのが風や波のようにこちらに渡ってくる、そういうものなのではないか、というのがわかる。 たとえ壊れて隅に立てかけてあるような像でも、そこには必然と因果とがあって、そういうのですらひとを救うのではないか、とか。

自分にとって、キリスト教映画のベストは「神の道化師、フランチェスコ」(1950) で、仏教映画のベストはこれ、ということになった。

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