2.28.2021

[film] めし (1951)

2月4日、木曜日の夕方、Criterion Channelで見ました。英語題は”Repast”。原作は林芙美子の未完の遺作。

Netflixで成瀬巳喜男の5本が配信されると聞いて、そういえばCriterion Channelで見たのを書いていなかった、って。 成瀬のはBFI Playerでも3本配信されていて、CriterionではNetflixでかかるのに加えて他にもいっぱい見ることができる。これまでも『生さぬ仲』 (1932) - “No Blood Relation”とか、『妻』 (1953) - “Wife”とか、『晩菊』(1954) - “Late Chrysanthemums”とかを見た。日本にいた頃から見てきたものでも、何度見てもおもしろいわ。

戦後間もない頃の大阪の南の方に結婚して5年になる岡本初之輔(上原謙)と三千代(原節子)の夫婦と猫のゆーり(尻尾が短くて最初に屋根の上にいるのは別の猫よね?)が暮らしていて、ふたりは大阪に来て3年になるのだが三千代は既に疲れきっていてうんざりで、冒頭の独り言ではこんなふうに;

With a life restricted to the kitchen and the family room, must every woman grow old and die feeling empty..

なのに夫は顔を見れば「おなかがすいた」「めしまだか?」ばかりで、株屋なのに株をやっていない真面目さくらいが取り柄らしい。 そんなふたりの家に東京から初之輔の姪の里子(島崎雪子)二十歳が家出してきて、つまんない・結婚したい・したくないとか好き放題に撒き散らして、近所の遊び人(大泉滉)や向かいの二号さん(音羽久米子)と遊んだり、初之輔に大阪のバスツアーに連れてって貰ってべたべたして鼻血をだしたりする。里子の滞在はそれなりに手間もお金もかかるので、三千代はおもしろくない。

三千代は同窓会に出て昔の友人と会って毎日なにしてるの? って聞かれても猫かってる、くらいなのに、幸せそうとか言われてなんかすっきりしなくて、里子のことであれこれむしゃくしゃして「疲れちゃったんですわ」と、彼女を東京に帰すついでに自分も実家に帰ることにしてお金を借りてくる。で、実家に帰る、って言っても特に反対しないし見送りにも来ない初之輔に改めてがっかりする。

実家(矢向ってとこ)に帰った三千代はずっとごろごろ寝たり職安に行ってみたり友達(中北千枝子)と会ったり、これまでとは別の世界をゆったり楽しむのだが、母親からも父親からもそんなつもりないのに「帰れば」ばかり言われて「不幸な奥さん」とか言われるとそれはそれで頭にきたり、手紙を書くけど出さなかったりいろいろあるのだが、嵐が過ぎたある日に初之輔が現れて帰ろうっていうので、帰るの。たぶん猫のために。 ふたりで一緒に帰るときに、三千代の独り言で『わたしのそばに夫がいる - ひとりの男 - わたしの本当の幸福とはそんなものではないだろうか?』 とか言うのだが、そんなものではないと思うよ、って思った。

夫婦の修羅場のような場面も喧嘩の暴力もなく、日々のいろんな繰り返しや会話の積み上げがイライラを重ねていったり、反対にちょっとしたお出かけやチンドン屋や嵐やお祭りがそういう鬱憤を少しはらってくれたり、そんな潮の満ち引きとか月の満ち欠けみたいな描写がスリリングで、何度見てもあれはそういうことだったのか、のような発見があったりする。

「めし」っていうのは男性が女性に対して食卓でのご飯を要求するときに使う言葉で、女性が男性に「めし」いかがなさいます?とか「めし」できたよ、とかは言わない(たぶん)。そんなふうにサーブされて当然のものとして男性から女性に強いてくるあれこれの総体が(この頃の)結婚生活というもので、だから結婚の幸せ(するしないも含めて)問題がテーブルの上にあがるのは常に女性の側 - この映画でも上原謙はどこまでも無表情を貫く - なのだが、そういうことでよいのか? 「めし」って使うの禁止にするくらいじゃないとこの問題は解消していかないのではないか、とか。あとこれとセットになっている気がする「嫁」っていう呼び方とかも。

これが小津における「秋刀魚」や「お茶漬け」と同じ位置にあるものなのかそうでないのかは、たぶんとっくにどこかで誰かが論じているのだと思うが、基本はなめんなよ、っていうことに尽きるのではないか。 小津の映画の場合、日々緩やかに積み重なっていくなにか、ってだいたい画面の外で起こっていることで、それらは決定事項のようなかたちで会話のあいだに突然噴出してきたりする、そういう別の種類の面白さ。

「うなぎ」まむしの看板が字幕では”EELS - Pit Viper”ってなってた(わかるのかしら?)。「くいだおれ」は”Eat till you drop” だって。 今の大阪は世界でいちばん行きたくない土地だけど、この頃の大阪はおもしろそうだな。東京もおなじかー。

これは猫映画だけど、『晩菊』は犬映画だよね。
 

東京でやっていたGuy Gilles特集、見たかったよう。

2.27.2021

[film] La folie Almayer (2011)

2月21日、日曜日の昼、MUBIで見ました。
Chantal Akermanのフィクション映画の最後となった作品で、原作はJoseph Conradのデビュー作 ”Almayer's Folly” (1895) - 『オルメイヤーの阿房宮』(未読だった)。英語題も”Almayer's Folly”。

冒頭、アジアのどこかのバーのステージ上で男Daïn (Zac Andianas)が歌っていて、そこにフロアから男が寄っていって歌っている男を刺したらバックダンサーとかみんな逃げるのだが、ひとりだけ残って歌って踊り続ける女性 – Nina (Aurora Marion)がいて、彼女に誰かが「Daïnは死んだよ」っていうと彼女は少しだけ微笑む(気がした)。

そこから時間を遡って、Capitaine Lingard (Marc Barbé)が子供の頃のNinaをジャングルの奥地で暮らすAlmayer (Stanislas Merhar) – Ninaは彼と現地人の妻の間の娘らしい - の住処から寄宿学校に入れてきちんとした教育を受けさせるから、って無理やり連れ出すところが描かれる。

そこからまた時間が過ぎて、Capitaine Lingardが亡くなり、そのまま自動で寄宿学校から追い出されたNinaはAlmayerのところに戻ってくる。彼女は「混血」である自分は寄宿学校には馴染めないし、このままヨーロッパに連れていって貰っても真っ当には生きていけないことを充分自覚していて、それでも「外」に出ていこうとする彼女を不良のDaïnが背後でたぶらかしている。

そういうことをわかっているのかそれどころではないのか、Almayerは湿地帯の繁みや廃屋の奥や夜の河に向きあって止まない虫の音に囲まれて灰色〜真っ白になって宙を睨んで佇んでいるばかり、そんなに喋るわけではないから彼がなにをどう思っているのか、正気なのか狂ってしまったのかもよくわからない。彼は熱帯の湿地にいる生き物とは明らかに別のモードとトーンで、でもはっきりとそこに生きていることは確か。

ふつうに考えればそこにほぼひとりで暮らしていたってどうなるものでもないので、諦めて故郷のヨーロッパに帰ったほうが、なのだが、すでに十分ふつうでなくなっているようだし、明確に帰る理由があるわけでもないし、Ninaのこともあるし – でも最後にNinaとDaïnが出て行ってしまうと…  

Chantal Akerman作品で、同じStanislas Merharが主演した“La Captive” (2000) - プルーストの『失われた時を求めて』の『囚われの女』の翻案 -  でガールフレンドのAriane (Sylvie Testud) =アルベルチーヌ - を自意識の内外で「囚われ」にして悶々としていたのと同じ彼が、少し老けてカンボジアに現れたのではないか。原作がコンラッドなので『闇の奥』の方かと思ったけど、どちらかというとプルースト的な粘着と諦念が螺旋を描いて結局なんにもならない・どこにもいけないドラマが。

もういっこはChantal Akermanが後期のドキュメンタリー作品 - “D'Est” (1993), “South” (1999), “Là-bas” (2006), “No Home Movie” (2015) あたり - で追っていった見知らぬ異国の土地を前にして、なんで自分はここにいるのか、なぜここに留まってカメラをまわしているのか、その反対側で、こことあそこではなにが違うのか、自分にとってのホームとは? などなどの問いでがんじがらめに縛られて立ちすくんでいる姿と同じなにかが現れているような。 ここではないどこか、が現れるとしたらそれはどんな場所であり時間なのか、それぞれの場所で圧倒的に生きている人々の隅の方に、(彼女の像が)幽霊のように映りこんでいる - 彼女のドキュメンタリーのもつ強さってなんなのか。

(同じように世界のいろんな土地に向かうAgnès Vardaのドキュメンタリーとの比較もいつかやってみたい。彼女の場合、”Faces Places”で、まず顔とか貌が来て、それら(彼ら)と一緒に動いていく。Chantal Akermanの土地は - 彼女の世界は建物も道も夜の川辺も彼女の「部屋」の延長としてあって、その部屋から出るか篭るか壁を壊すかを考えながら撮っているような)

それかあるいは、”Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles” (1975)で描かれた果てのない家庭内労働の反復から遠く離れたところで、どうしようもない無産者の男はこんなふうにみっともなく朽ちていくのだ、とか。 さらには”Saute ma ville” (1968)で自分のアパートを爆破しようとしてひとりじたばたもがいていたChantal Akermanそのひととの距離とか、あそこから40年後とか..

ぜんぜん動きのない一見地味な作品なのだが、ものすごくおもしろかったの。

2.26.2021

[film] I Care A Lot (2020)

2月20日、土曜日の晩、Amazon Primeで見ました。
英国ではAmazonでAmazon Originalと出るのだが、米国ではNetflixで見れるそうで、どっちなのかしらん。

Marla (Rosamund Pike)が介護施設に入れられた自分の母親と面会できない、と文句を言っている男と法廷で対決するシーンが冒頭。歳を取ってすごく衰弱しているわけではないが、認知症の兆候が見られる老人を病院が指名して、裁判所がそれを受けて法定後見人をアサインすると、それ以降は老人は後見人の許可なしには、家族であっても面会することすらできない。このケースでは後見人がちゃんと面倒を見ているから問題ないはず、とその息子は退けられる。

Marlaはそんな後見人を抱える会社のエージェントで、オフィスの壁には彼女が「後見」している老人の写真が並べて貼ってある。彼女は病院の医師と介護施設とつるんで、ターゲットになりそうな老人 - 経済的に裕福で、独り暮らしで家族や身寄りが余りいない – をピックアップすると医師に診断書を書いてもらって裁判所に持っていって、ターゲットを自分の保護下にするCourt Orderを出してもらって施設に収容する(携帯も家の鍵も全部没収)と、空いた家に入っていって財産を横流しする、そういうビジネスをやっていて、これだけで震撼する。リスクは被後見人が高齢なので亡くなってしまうこととか。

彼女が新たなターゲットとして見つけたのがJennifer Peterson (Dianne Wiest)で、金融機関に勤めていた独身の女性で一軒家に暮らして身寄りもないらしい。早速医師が痴呆の兆候が見られる、って嘘.. とも言い切れない診断書を用意して、Marlaと相棒のFran (Eiza González)が彼女の家を訪ねて、半信半疑の彼女を半ば強引に施設に連れて行って一丁あがり。没収した鍵でその家を捜索すると絵画 – トレチャコフ美術館の『忘れえぬ女』がオークションに..   - や宝石類がじゃらじゃらで、更に銀行の貸金庫に行ってみたらダイヤモンドの粒粒が..  

他方で、毎週Jenniferのところに高級車に乗ってマカロンを携えて面会にきていた男 - Roman Lunyov (Peter Dinklage)が彼女の不在と異変に気付いて、最初に弁護士 (Chris Messina)をMarlaのところに送って彼女をリリースしないと大変なことになるぞ、って脅迫して、それでも彼女たちが動かないと今度は介護施設に数人送りこんで強引に連れ出そうとして銃撃戦になる。

さすがにこれは..  ってなったMarlaはJenniferをより厳重な施設に移した上であれこれ調べてみるとRomanはアンタッチャブルなロシアマフィアの黒幕で、Jenniferは彼の母で、とうの昔に亡くなっている米国市民になりすましていた相当やばい母と息子であることがわかって、怒りに震えるRoman一家は当然MarlaとFranのところに押し寄せてくる。

悪いことをやっている連中が更に輪をかけて悪い連中を引っかけてしまって大変なことになる、という犯罪劇なのだが、彼らの悪さ以上に最初の方で明らかになるケア産業の構造のどす黒さに凍りついて以降の印象がやや薄まってしまったのが残念かも。

Steven Soderberghの”Unsane” (2018)とかもそうだったけど、いったんああいう施設に収容されちゃったら、あとは連中の思いのままで、騒げば騒ぐほど監視下に置かれてどうとでもされ放題で逃げられなくなる。”Unsane”は精神病(ではないケース)で病院側もおかしかったのだが、これは介護・ヘルスケア周辺で、一見だれもどこもおかしくない - 幸せになるんだから、ケアしてあげるんだから - ように見えてしまうところがこわい。 ビジネスとしても成功モデルだからこれからも伸びるよ、って。

I Care A Lot - because you have enough money and I want your money.  
という標語の元で形成されていく社会格差のありようとか。
 
これって”Parasite” (2019)がやっているのと同じようなことを企業体が高齢化社会に向かってやっているのだと思った。 し、邪魔になった老親をこんなふうに体裁よく施設に捨てる話はじゅうぶん現実になっていると思うし。 今だと、不謹慎だけど、コロナ陽性を理由に施設に入れてしまうとか。
 
Rosamund Pikeの絶対めげない、つーんとした硬質の悪っぷりは - “Gone Girl” (2014)以来かしら? - 見事でかっこいいのだが、あのラストはどうなのかなあ。なんか中途半端だよねえ。
あと、ふだんはふんわりしたお婆さん役が多い気がするDianne Wiestが一瞬凄まじい殺気を見せるのだが、できれば彼女とRosamund Pikeの直接対決が見たかったかも。


スウエーデンの女性画家 - Hilma af Klint (1862-1944)のCatalogue Raisonnéの7冊本のうちの一冊 - The Blue Books (1906-1915) が届いてぱらぱら見ている。素敵ったらないわ。

2.25.2021

[film] Mildred Pierce (2011)

2月16日から20日まで、Amazon Primeで全5話(5時間36分)を1日1話ずつ見ていった。

James M. Cainによる1941年原作の翻訳が出ると聞いて、そういえば2011年のHBOで放映されたこのドラマは見ていなかった、と。
邦題は『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』.. 代償がどう、っていう話ではないんだけどぶつぶつ…  全部を見終わった後にMichael Curtiz監督による”Mildred Pierce” (1945) - 『ミルドレッド・ピアース 深夜の銃声』 - も再見したのでそこも含めて書く。

監督はTodd Haynesで、撮影はEd Lachmanで、この後の“Carol” (2015)で完成される1930 - 50年代アメリカの色味への探求が始まったというか – どちらもArriflexの16mmで撮っていて、この後の“Wonderstruck” (2017)では35mmに戻るので、これと”Carol”は女性映画のセットとして見てもよいのかも。

カリフォルニアのグレンデールに暮らす主婦のMildred Pierce (Kate Winslet)がパイを作っているところが冒頭で、横でふたりの娘 - Veda (Morgan Turner)とRay (Quinn McColgan) - が遊んでいて、そこに夫の Bert (Brían F. O'Byrne)が帰ってきて、もう嫌になったって付きあっていた女のところに出て行ってしまう。友人のLucy (Melissa Leo)に相談したり夫の仕事仲間だったWally (James Le Gros)に助けてもらったり(寝ちゃったりも)しつつ、生活のために職探しを始めるのだが大恐慌の時代に入っていて、彼女のプライドが許さないような仕事ばかりで悔しくて泣いて、でもやむにやまれずダイナーでウェイトレスを始める – のだがウェイトレスの仕事を見下しているVedaとの衝突もあったり。

それをやっているうちにチキンとワッフルの定食メニューと自分の得意なパイをサーブするレストランのアイデアを思いつき、客として知り合った遊び人の小金持ちMonty Beragon (Guy Pearce)やWallyの助けを借りて自分のレストランをオープンする計画を立てて着々と実行していくのだが、計画が軌道に乗り始めた頃にMontyと海辺でデートをしていて、夜に戻ってきたらRayが突然高熱を出して亡くなってしまう。この件でこの後もずっと「どこにいたのよ」とVedaからは責められ続ける。

失意のなかオープンしたレストランは繁盛して、そのやりくりで多忙すぎて構っていられないうちにVedaはハリウッドの金持ちの息子を偽装妊娠で脅迫しようとしたり手がつけられないモンスターと化していて、Montyが彼女にピアノの教師を紹介しても焼け石なので頭がいたい。

数年が過ぎて、彼女のレストランは店舗も増やして順調なのだが、家を飛び出したきりのVeda (Evan Rachel Wood)のことがずっと気掛かりで、でもある日オペラ歌手として活動していることを知ってびっくり、再会を喜んで彼女の活動を支えていくことにして、Montyとも結婚して彼の旧邸をリフォームして、すべては順調に見えたのだがこれらが彼女の店の経営を圧迫していることがわかって、そうやって頭を抱えていたらVedaとMontyが…

突然夫に去られてしまった女性が子供を養うために、プライドをずたずたにされながらも独りで生きていけるようになるまでのお話しと、その裏側でモンスターになってしまった娘への愛を貫こうとするお話しと。彼女は母として娘のためになんでもやろうとしたし、なんでもやれるようになるためにがむしゃらに働いたのだし、でもその回転数をあげればあげるほど娘は手の届かないところに行ってしまった、という悲劇。ただそれはピュアな正直者がバカを、というのとも違って、彼女は彼女で男性を巡っていろいろあったりする(いけないこと、として描いていないが、それが結果的にVedaとの溝を深くしてしまう)。

1945年版の”Mildred Pierce”は冒頭で深夜の殺人が起こって、その家から出てきたMildred (Joan Crawford)に当然スポットがあたって、我々は彼女の告白や記憶を「この女が..」という目で見ていくことになるし、ストーリー展開はその謎を紐解いていくノワール仕様だったわけだが、2011年版は30年代に若くして結婚してすぐに妊娠したひとりの女性/母親が、あの時代を生きる・生き抜くというのはどういうことだったのか、をなんのノワールもなしにストレートに描いているように思った。 Ida Lupinoの“Not Wanted” (1949)ほど過酷ではないが、男たちの都合で翻弄されていく女性たち - そこにはMildredもVedaもLucyもいる - の歩み。

そういうのとは別に、Mildredがレストランのオープン準備で買い物をしたりチキンを捌いたりパイを捏ねたり作ったりのシーンは見ていて楽しい。”Carol”でTherese (Rooney Mara)が写真を始めたときと同じようなかんじの、手仕事の歓び。

あのラストで、Mildredから吐かれる呪いの言葉、この呪いは未だにずっと続いているのだと思った。そしてこのエンディングは1945年版の夜が明けていくイメージとは全く異なる。

Kate Winsletってこういうクラシックなメロドラマのなかで、本当にすごい。”Revolutionary Road” (2008)とかも。1945年版のJoan Crawfordの娘のために自らモンスターになろうとする強さとは別の、ぐだぐだに崩れつつどうにか立ちあがろうとするかんじとか。

Carter Burwellのウッドベースで始まる音楽も素敵。

役名で、2011年版はMonty Beragonで1945年版はMonte Beragonだったのはなんか理由があるのかしら?

2.24.2021

[film] 重慶森林 (1994)

2月13日、土曜日の晩、BFI Playerで見ました。
4KリストアされたWong Kar-Waiを見ていくシリーズ。『花様年華』の次にくるのはやはりこれではないか、と。 英語題は“Chungking Express”、 邦題は『恋する惑星』。

香港の九龍、雑居ビルの重慶大厦を舞台に描かれる2つの恋にならない恋のエピソード。

手痛い失恋(どんなのだかはわからない)をして期限切れ間近のパイナップルの缶詰を集めて食いまくったり留守電のメッセージを置いたり聞いたり雨の中を走り回ったり青春している警官223(金城武)がいて、そこらのおっさん達を組織してドラッグの密輸を淡々と進めていたブロンド鬘の女(Brigitte Lin)がいて、空港のカウンター手前で裏切られた彼女は逃走(&どんぱち)の途中で警官223とぶつかって、ホテルの部屋で一緒に過ごすことになる。でも彼女はずっとがーがー寝ていて朝になったら出ていってそれきりなの。

一緒に住んでいたスチュワーデスの彼女(Valerie Chow)にフラれた警官663 (Tony Chiu-Wai Leung)が毎晩通っているファストフード屋(ケバブもバーガーも)のカウンターにいるFaye (Faye Wong)と出会って、Fayeは663のことをだんだん意識するようになって、スチュワーデスが置いていった彼の部屋の鍵を手に入れたFayeは、663が勤務中の昼間に彼の部屋を訪れて勝手に掃除したりするようになって..

最初に恋に破れた警官たちがいて、ひとりは犯罪を犯して逃走中の女に思い込みで恋をして、ひとりはやっぱし犯罪だと思う住居侵入を繰り返している女から思い込みで恋をされて、このふたつの恋は決してハッピーエンディングには向かわない、キスにもいかないし、名前すらもわかっていないし、彼女たちの「犯罪」を摘発することすらできない – 役立たず! で、やがて女性たちはみんな飛行機でどこかに飛んでいってしまうだろう。 それが森林の恋の掟なのか。

何度もかかるThe Mamas and the Papasの“California Dreamin'”やFaye Wongの歌うThe Cranberriesのカバーで繰り返し歌われる”Dream”は決して伝播したり共有されたりすることはないし、バーや屋台のカウンターを介してすれ違いを繰り返してばかりなのだが、時計のクローズアップや、缶詰の賞味期限や、0.01cmの距離だとか、流れてくる“What a Difference a Day Makes”とか、ストップモーションがそれを噴きあげて煽って、ごちゃごちゃしたただの雑居ビルを極彩色のパラダイス(ただし一方通行。それが見えるのであれば)に変えてしまう。

こうしてグランジの泥沼にもいいかげん飽きて、恋に恋をし始めていた若者たち(じゃないかも。中年だったかも)を大量にだまして崖底に落っことしたのではないか。そしてこの実らずにえんえんすれ違わせて炒ったり炙ったりしていくやり口は『花様年華』(2000)まで維持されていくことになる(or もっと先まで?)。べつに愛なんていらないんじゃないか、とか。

この辺の恋愛に対する接し方というか目線て、タランティーノの犯罪に対するそれととても近い気がして、それはつまり生殺しをテーマとした終わりのないゲームであり、そこへの囲い込みであるというー。 ある意味とっても過酷で残酷で「そういうもの」として見ておけばよいやつ。

この映画はたしか劇場では見ていなくて、その頃はまだNYに居て、日本で話題になっているらしい、と確か日系のビデオレンタル屋でVHSを借りたのだった(昔はそういう商売があって、日本の人気TV番組とかドラマを一揃い録画したのをお弁当を売るところで貸し出したりしていたの)。 で、これって渋谷系とかと関係あるの? とか思ったことを思い出す(わたしは渋谷系も知らない。NYに渡ってから渋谷のHMVが.. とか聞いてふーん、て)。 渋谷系とはたぶん関係ないのだろうけど、感触として同じようなカテゴリに入れていた。 インターナショナルにはオルタナの流れのなかに割とはまっていた気がする。 

今回見返してみて、やっぱり綺麗だし素敵だしFaye Wongすばらしいし、いいよね、って。
今の時代にリメイクしたらBrigitte Linは223と一緒に蜂の巣にされてしまうのだろうし、663はFaye Wongにケバブにされちゃうのだと思う。

The Cranberriesいいな、って思ったのもこの映画が最初だったかも。

そして、今の香港ではもちろんこんなの撮ることはできないよね…
 

2.23.2021

[film] Pieces of a Woman (2020)

2月15日、月曜日の晩、Netflixで見ました。

監督は”White God” (2014)のKornél Mundruczó。脚本はこれまでも彼の作品の脚本を担当してきたKata Wéber。ふたりは夫婦で、ここで中心のテーマとなる悲劇はふたりの間に起こったことだという。 邦題は『私というパズル』 ?.. がっかりうんざり。謎解きものでもなんでもないし、タイトルに「女性」を入れなくてどうするのよ。

9月のある日、港湾で働くSean (Shia LaBeouf)の難しそうな仕事の描写に続いて、ベビーシャワーの送別の後に出産一時休暇の荷物を持って職場を出るMartha (Vanessa Kirby)がいる。ふたりが自宅に着いたらすぐに出産が始まって、最初から自宅出産の予定だったので助産婦 - 最初に頼んでいた人が来れなくなったので替わりのEva (Molly Parker) – がやってきて、準備もなにもすぐに生まれそうであることがわかり、途中心音が.. とかいろいろ恐ろしいのだが、なんとか子供は出てきて産声をあげて、その歓びもつかの間、すぐに子供の容態はおかしくなって救急車を呼ぶことになり…

以降、ほぼ一ヶ月ごとに辛い日々のある一日が断面のように描かれていって、彼らの子の死因は結局特定できなかったのだが、Marthaの母のElizabeth (Ellen Burstyn)と妹夫婦は彼女のいとこで法律事務所にいるSuzanne (Sarah Snook)に依頼して助産婦に対する訴訟(懲役と巨額の慰謝料)を起こそうとしている。その横で焦燥しきったMarthaは職場に戻っても幽霊のようで、Seanとの間もお互い歩み寄ろうとするものの徐々に壊れていって(SeanはSuzanneと浮気している)、ふたりの家の中も植木は萎れて荒れたままに放置されている。

亡くなった子の葬儀の準備でも遺体を病院に寄付しようとするMarthaにElizabethたちが反発したり、墓石の字体をMarthaのいないところで勝手に決めたりしていたことで揉めて、Martha vs. Elizabeth, Seanのような構図(ただ、ElizabethはSeanのことをよく思っていない)ができあがっていって、年末にElizabethの家(とても裕福であることがわかる)に家族全員が集まったところで訴訟の件を巡る対立 - もういいかげんにして - が顕在化する。

終盤は助産婦のEvaを被告とする法廷ドラマになるのだが、ここの箇所、法律の技術観点でMarthaが納得していないのに、死因が特定できていないのに法廷に持ち込むことって可能なのか、とか。この映画の論点、というか一番言いたいことは、あなたとあなたの子のためにも法廷で戦わなきゃだめだ、と強く主張するElizabeth(とSean)に対して、これはわたしのBodyのことなのになんで? なにそれ? とぶち切れるMarthaのやりとりに集約されていると思うのだが、この件を通してすべての悲しみと辛さを背負いこんだMarthaがここから(彼女のBody, 彼女のPieceから)どうやって立ち直るのか、ラストのリンゴの木のところまで行けるのか、というストーリーとElizabethやSeanとの関係と法廷の件とがうまく噛みあっていないような気がした。

それくらいに、細かいことに構っていられないくらいの喪失感で消耗していたのだとしても、感情的なしこりのようなものしか残っていないのだとしても、いや、だとしたら余計になんで? とか。 同じ事情で苦しんだ/苦しんでいる夫婦は少なくないのだろうから、時間が掛かってもきちんと丁寧に積みあげるべきだったのではないか。

それに加えて、ハンガリーのユダヤ人としてナチの迫害を生き延びたElizabethの母(Marthaの祖母)のエピソードを掲げて、だからこそあなたにも強くあってほしいのだ、というElizabethの説得とMarthaの対話も噛み合わないであろうことは十分にわかって、だからこそもう少し掘り下げてほしかったかなあ、とか。

あとはこの件における夫Seanとか車のディーラーをしている義弟のChris (Benny Safdie)といった男性 – 彼らはいつの間にか画面から消えているよう - の居場所とか立ち位置ってどういうものなのか。 きちんとした答えなんてあるものではないけど、あんなふうに画面からいなくなったままでそれでいいの? とか。

Vanessa Kirbyさんというと、元気いっぱいだった“Fast & Furious Presents: Hobbs & Shaw” (2019)が記憶に新しいが、こんなふうに崩れていくメロドラマもすばらしいのね。あと、Safdie兄弟のひとりがいかにも、なかんじで出ていたり。


英国のロックダウン緩和のステップと日程が発表になった。いろいろ遅すぎて絶望しかない…  あーあ。 

2.22.2021

[film] Once Upon a Time in America (1984)

2月6日、土曜日の昼にMUBIで見ました。もう2週間前か..
本当であれば、昨年12月のBFIで予定されていたEnnio Morricone特集で、でっかいスクリーンで見る予定だったやつ(見たかった..)。 監督Sergio Leone、原作はロシア系のアメリカ移民であるHarry Greyの1952年の小説”The Hoods”。 229分のやつ。

冒頭、ギャングに脅されてぼこぼこにされている別のギャングがいて、そこからNYのチャイナタウンのシアターの中にある阿片窟でラリってるNoodles (Robert De Niro)のところに伝令が飛んで、そこから彼が動きだすのと並行して、彼の少年時代のお話がゆったりと起動される。 1918年頃のブルックリンのユダヤ系移民の町で、そこの近隣のガキ共 - Max, Patsy, Cockeye, Dominicとつるんで悪いことしたり地元のボスBugsyとやりあったり、鷹揚な女友達のPeggyとセックスしたり、食堂のFat MoeのとこのDeborah (Jennifer Connelly → Elizabeth McGovern)に憧れたり、そうやってNoodlesを中心とした仲間たちの話が描かれる。

Bugsyに殺されたDominicの復讐でBugsyと警官を殺したNoodlesは刑務所に服役して出てきたのが1930年 - 禁酒法の時代で、かつての連中と一緒に闇商売で稼いで、でもそれも禁酒法解禁とともに終わると、Max (ames Woods)はよりでっかいヤマを狙ってニューヨーク連邦準備銀行襲撃の話を持ちかけるがNoodlesはそれを拒否して、それが運命の別れみちで、こんなふうに話は1968年まで繋がっていく大河ドラマで、ただしお話は時間に沿ってリニアに流れていくわけではなくてラストまで行ったり来たりを繰り返す - それらはほぼNoodlesの頭のなかで起こる。

彼らは基本はニックネームで呼びあって、別の名前を使ったり、別の人物とか別の死体になりすましたりもするのだが、いくらそういうのをやっていっても顔と目を見ればそうとわかる絆の元に生きていて、しくじっても裏切られても裏切っても逃げて隠れても許される/許されない、そういう関係の間柄にあって、それは”The Godfather”みたいに家族の血や系図を巡るドラマでも、Martin ScorseseのギャングものみたいにXXを巡る確執や憎悪や葛藤を前提としたドラマになっているわけでもない。 ドラマというよりは「やったろうぜ」みたいな共通の夢や野望と共にあった仲間たちの成長譚みたいなところ中心にとりとめなく描いた「失われた時を求めて」のちんぴらやくざ版、のようなかんじもする。

息詰まる展開とか思わぬどんでん返しに驚愕とか「あっという間でした」の濃さとは少しちがう、時間軸が伸びたり縮んだり時代があっちに飛んだり戻ったりで慌しくて、気がついたら3時間半が過ぎていた。

Federico Felliniが男 - 女を、都市を舞台に描こうとした終わりのない物語をすべてが若いアメリカ東海岸都市の不屈のガキ共の物語としてゆるく適用してみること、そのタイトルに”America”ってぺたっと貼ってしまうこととか、とてもヨーロッパ的な目線を感じた。 彼らの夢も現実も思い込みもブルックリンのユダヤ系移民の世界とチャイナタウンの阿片窟のなかに収まってしまうような、そんな目線。 開拓精神、みたいのは、なにそれ? になりそうなー。

他方で、これはもちろん西部劇の時代から延々と作られてきた典型的な男たちによる男たちのためのバディ映画であることも確かで、これをPeggyやDeborahやCarol (Tuesday Weld)の目線で再構成させたようなものが見たい。 いまの映画監督でそれができるのはJames GrayかTodd Haynesか。それかあの阿片窟のなかで全てが過ぎ去っていく”Flowers of Shanghai” (1998)みたいなやつ。

他方で、橋のたもとを野郎共になった彼らが行進していくとことか、バカみたいだけど「これが映画だ!」みたいにゴージャスなシーンが満載であることも確かで、この辺は文化財のように見てうわー、って唸っていればよいのかしら。 今後のデジタルがいくらがんばっても無理そうなやつ。