7月24日、土曜日の晩、英国のMUBIで見ました。
監督Pedro Almodóvar - 新作が今年のNYFFのクロージングに選ばれた - 主演Tilda Swintonによる30分の短編で、2020年のLFFで公開されて翌年1月にシアター公開される予定だったのだがロックダウンにより見れないままになっていた作品。30分という短い作品なのでシアターではPedro AlmodóvarとTilda Swintonの対話を収めたフィルムもおまけで上映されるはずだったのだが、それは今回見ていない。
原作はJean Cocteauの戯曲”La Voix humaine” (1930)を”Freely”に翻案したもの、同原作からはプーランクが一幕のモノオペラにしている(1959年初演)。
タイトルやスタッフ・キャストの人名表示は工具や金具がぎろーんと並んで、Carcassの”Surgical Steel”のジャケットみたいなかんじ。
冒頭、赤いドレスを着たTildaさんが撮影用ステージのようなところにいて、別の衣装に着替えて、そういうモデルや女優のようなお仕事なのか、と思う。続いてペットの犬を連れて荒物屋に行ってナタを一本買い、家(?)に戻る。そこに並べてあるDVD – “Kill Bill” (2003)とか”Jackie” (2016)とか”Phantom Thread” (2017)とかDouglas Sirkの”All That Heaven Allows” (1955) – どれも男性監督による女性映画 - とか本 - フィッツジェラルド、カポーティ、リチャード・スターン、ルシア・ベルリン、アリス・マンロー等が映されて、どういう人かなんとなくわかるのと、クローゼットの大量の服とか室内で履いている靴とか、コスメ棚にはNatura Bisséとか自然系(高め)のがいっぱい並んでいたり、経済的に成功していて余裕があるひとであることもわかる。(あと、この家は冒頭に出てきた撮影用ステージの中に作られたセットであることも俯瞰ショットでわかる)
部屋の隅にはスーツケースがふたつ – これから旅立つのかどこかから到着したのか、ベッドの上には男性のスーツが広げてある。彼女は買ってきたナタでスーツをずたずたにして、錠剤(13錠)をがぶ飲みして横になる。やがて犬がぺろぺろして目が覚めて、iPhoneに着信が来ていることに気付いてううぅってなると、暫くしてかかってきた次のCallで彼との対話が始まる。
その内容については映画を見てほしいのだが、彼とは4年間一緒にいて、この3日間でこの場所に荷物を引き取りに来ると言っていたから待っていたのに来ないっていったいどういうことか? 犬はあなたのものだしどうするんだ、とかいうもので、電話の向こうの声は聞こえないので、向こうがどういうトーンとモードであるのかは最後までわからない。
コクトーの戯曲は1930年の時点で電話でのやりとりをテーマにしていて、対面でも手紙でもない、今であればビデオの対話もできるはずだがそれはせず、一方の声のやりとりだけで関係の途絶と別れが起こる瞬間を捕まえようとする。関係そのものがどうなる、ということよりもそうやって捕捉されながらも電話線の向こうで声の痕跡だけを残して消えてしまうあなた – そしてそれを受けとめる自分 - について描いているのではないか、と思った。
プーランクのオペラが悲劇で終わるのに対して、こっちはそうでもなくて、Tilda Swinton!としか言いようのないかっこよさと共に閉まるので見てほしい。音楽はAlberto Iglesiasによるクラシカルなやつだが、Bowieの”Low”のA面あたりがいちばんしっくりくると思った。
やはり、Covid-19での動けない、どこにも行けない、出会いも別れもままならぬ状態を背景にして作られたものなのだろうか。
そして2020年3月、英国のロックダウンが始まる直前まで(というかロックダウンによって中断された)BFIで行われていたTilda Swintonの回顧上映で毎日のようにシアターに来て自身のいろんな作品についていろんなことを語り、質問に答えてくれていた彼女のことを思い出すと改めて感謝の思いでいっぱいになる。 こういう見方をするのが正しいとは思えないが、あの時の彼女の颯爽としたイメージとこの映画のラストは繋がってしまう。
これから今年のカンヌで公開されたJoanna Hoggとの、Wes Andersonとの、Apichatpong Weerasethakulとの新作を見ていくのが本当に楽しみ。
それにしてもあれこれしんどい。史上最悪の8月になるのかも。
8.04.2021
[film] The Human Voice (2020)
7.30.2021
[film] 明治一代女 (1955)
7月25日、日曜日の昼、シネマヴェーラの成澤昌茂特集で見ました。
原作は川口松太郎(こてこて)、脚本は成澤昌茂と伊藤大輔、監督は伊藤大輔、音楽は伊福部昭(すばらし)。
明治という時代のエートスなんてよくわからないし、そこで「一代女」などと言われてもどうしたものか、なのだがとりあえず見てみよう。
柳橋芸者のお梅(木暮実千代)は若手歌舞伎役者の沢村仙枝(北上弥太朗)とずっと恋仲で、もうじきの彼の三代自仙之助襲名披露公演を前に自分の力でなんとかしてやりたいと思っているのだがお金がなくて、女将お秀(杉村春子)は娘の小吉(藤木の実)の婚姻込みで襲名披露のスポンサーになろうとしているのでとっても歯がゆい。
そんなお梅の様子を横で見ていた箱丁 - 芸者さんの荷物持ち - の巳之吉(田崎潤)は、故郷にある先祖伝来の塩田を売ったりしてお金を工面するのでこの世界から抜けて一緒に堅気になりましょう – 実はずっとお慕いしておりました、って。その申し出をお梅は受けて、純な巳之吉は張り切ってお金を作って戻ってくるのだが、他方でお秀や仙枝らに対する意地もあるし、仙枝からはこの程度の金額ではねえ.. って言われてがーん、てなる。
こうしていつまでもはっきりした態度を示さないお梅に巳之吉はうその呼び出しをかけて、嵐のなかふたりで向かい合うのだが、お梅はお願いだからもう少しだけ、とかいうので「なんでだよう?」って揉み合いになって、巳之吉が懐に持っていた出刃包丁が..
誰がどうして巳之吉をやったのかは明白だった(出刃はお梅のうちにあったやつだし)のでかわら版まで出てしまうのだが、お梅は姿をくらまして、やがて襲名披露の日がやってくる。
叶わぬ恋に引き摺られてかわいそうなお梅(と巳之吉)- せめてずっと愛してきた男の襲名披露を見届けるまでは.. というあたりが「一代女」の矜持なのだろうが、襲名イベントではしゃぎまくって頭からっぽになってお梅のことなんてどうでもよくなっている仙枝とか、同様に彼に夢中ではしゃぎまくるお秀と小吉を見ているとばからしくなったりしないのお梅? って少し思った。 そんな男に惚れちまったバカなあたし(もまた悪くないだろ)、っていうのは昔からのよくあるテーマだとしても、お縄直前までの弟の動きとかお縄の後のお梅の姿があったとしても、なんか弱い気が。 この弱さはお梅と巳之吉の関係についても言えて、あのままだと巳之吉がたんにうまく使われたストーカーのように見えてしまったりしないか(そうかもだけど)。それがこの時代のこの世界の悲しい脆さなのだ、と言われたらそれまでだけど。
でも、そこをそんなに掘らなければ嵐のなかのお梅と巳之吉のもつれ合い - 殺してやるー、というよりもういつ死んだっていいんだ、ってぐだぐだになる - 取っ組みあいの凄惨さ – そこに被ってくる伊福部昭の音楽 – はすごいし、お梅の家の母(浦辺粂子)と弟(井上大助)のやりとりや彼らの家の造りとか、一瞬の嵐が吹き荒れたあの時代の断面は生々しく切り取られていると思った。
こういうドラマでの木暮実千代の悲劇のヒロインとしての輪郭の強さ、杉村春子の棘、浦辺粂子の柔、そしてがちがちに堅く切ない田崎潤とか、それぞれの俳優も映画のなかにたまらなく生きている。
アストラゼネカが認可されて、早くもあんなのやだ、が巻きおこっているようだが、だーかーらー自治体が決めて接種日時込みで市民ひとりひとりに割り振っていっちゃえばよかったのに。もう悠長にワクチン選んでいられるような状況ではないのに。
しかし日本の頭痛薬はなんでちっとも効かないのか。
7.29.2021
[film] 花札渡世 (1967)
7月22日、木曜日の昼、シネマヴェーラの成澤昌茂特集で見ました。
花札のことなんてこれぽっちもわからないのだが、なんとなくどこかに渡って行きたいかんじがずっとあり。いまはどこにでも行けそうでちっとも行けやしないし。
監督・脚本は成澤昌茂。最初のタイトルは『花札賭博』だったらしい。ものすごくよかった。
昭和の初め頃、花札の賭博をやっているところで、北川(梅宮辰夫)が向かいに座る素めくらの石(伴淳三郎)とすぐ横にきた石の相方の梅子(鰐淵晴子)のいかさまを見抜いて警察を入れた捕り物になる。
北川は四谷のあたりの親分 - 春日井(遠藤辰雄)のところに仕えていて、春日井の養女の久江(小林千登勢)も彼に気があるのだが、実際には春日井 – 鬼畜野郎 - にべたべたされていたり子分の木村(安部徹)に一緒になろうって言い寄られていたりいろいろ悪賢く立ち回ろうとしている。
やがて組の業績をあげるため & その他の思惑で素めくらの石を客分に迎えいれることになり、それを機に北川と梅子はなんとなく一緒にいるようになっていく – はじめ石と梅子は夫婦だと思っていたのがそうでなかった - のだがそれがおもしろくない春日井は梅子の体を賭けて北川と石を勝負させて、ここはなんとか石が勝つのだがわりいな、ってそのまま石を殺してしまう。ここまででいい加減あたまきた北川は、春日井をぶった斬ったあと梅子とホテルで一晩を過ごして出所した5年後に会おう、って約束をして別れて刑務所に。
で、出所した北川を待っていたのは…
憲兵がのしてきて世の中が息苦しくなってくる少し前の頃のおはなし。1967年。
タイトルが「花札渡世」なので、花札でこの世を渡っていく、というのはわかるのだが、ふだんこの人たちはみんな何をしているのかしら? 花札だけで食べていけるのであればいいけど.. 食べていけてるんだろうな、それで殺されちゃったりするわけだし、トランプでギャングは殺し合いをしたりするわけだから、そういう世界なのだろうけど、なんか骰子とかと比べると花札の「ぺしっ」、みたいな質感ってなんか軽いかんじがして、それらに翻弄される、ほどではないけど、巻き込まれてしまってややしんどい青春もの、のような。
そのちっちゃな札とその絵柄の出た張ったで命とか運命がころころ変わっていく、その儚くてやってらんねーの空虚さが北川と梅子の仏頂面にはよく現れていて、これら抗いようのない非情さと理不尽さ(ついてねえや.. )ってノワールとしか言いようがない。特にラストの梅子の態度なんて北川から見れば惨いかもだけどあんなもんよね。やはりああこなくちゃ。
血しぶきが飛んできそうなぎんぎんした東映のやくざもの - 高倉健とか鶴田浩二とかの – って苦手で見てこなかったのだが、ここでの梅宮辰夫の無力で透明でどっちに行くのかあまり見渡せない無表情ってすばらしいと思うし、どこまでも寄り添うことを拒否して目を合わせようとしない鰐淵晴子の意固地なふうとか。それらが淡いモノクロのコントラストに溶けていくようでたまんなかった。
たまにニュースをつけてみれば絶望しかない。
オリンピックと感染状況の関連なんてあるに決まっているけど、ぜったいに連中は認めないだろう。
それよりもロックダウンしてお金を配ること、接種を各自の予約じゃなくて強制日時指定にすること、どうしてそっちの方に議論が向かないのか、まったく理解できない。 「お願い」が効かないのに「共感」なんて方に向かうわけねーだろ、生活かかってるんだから。小学生でもわかるわボケ。
7.28.2021
[film] 噂の女(1954)
7月18日、日曜日の昼、シネマヴェーラの成澤昌茂特集で見ました。
監督は溝口健二、脚本は依田義賢と成澤昌茂の共同、撮影は宮川一夫。54年の溝口作品のなかでは『山椒大夫』と『近松物語』の間にあって、地味だけどなんか好きで何度も見ている。 これが『噂の娘』だと成瀬で、金井美恵子になるの。
京都のお茶屋兼置屋の井筒屋をひとりで背負ってきた初子(田中絹代)がいて、そこに東京でピアノの勉強をしていた一人娘の雪子(久我美子)が戻ってくる。彼女は恋人から婚約直前に縁談を破棄されて自殺をはかって、破棄の理由は家の商売が置屋だから、というものだったので彼女は自分ちの商売を汚らわしい、って母に対しても周囲の芸者たちにも心を閉ざしている。
そこにいつもやってくる若い医師の的場(大谷友右衛門)が現れる。初子は彼にずっとべったり貢いで彼を繋ぎとめるために医院を開くための資金提供までちらつかせるのだが、彼は彼でそこを駆け引きの材料にしたりずる賢くて、雪子の様子を見たりしながら話し合っていくうちにふたりは意気投合するようになる。
そのうち井筒屋の太夫の一人薄雲(橘公子)が病で倒れて、はじめはよくある胃痙攣だと思っていたら実はずっと悪くてあっという間に亡くなってしまい、雪子は彼女の看病をしているうちに他の太夫たちのケアもするようになり、更に的場とも親しくなっていくので母は見境がなく取り乱して、彼女にべったり言い寄ってくるお金持ちの原田(進藤英太郎)に頼んで病院開設の資金を用立てしてもらって…
みんなで能の舞台を見にきた時、雪子と的場がふたりだけいなくなり、ロビーに探しにいった初子がふたりの会話を聞いて衝撃を受けるシーンの構図とか表情がおもしろいのと、初子がいて太夫や娼妓たちがいて、酒や料理を用意する人たちもいて、お客が得意先を連れてきたり、酔っ払いが這うようにやってきたり、それらに絡んだ諍いがあったり、そういういろんな人々が往来のように絶えず行き来する井筒屋のセットがすばらしいの。西部劇に出てくるサルーンとかパリのムーラン・ルージュとか、人生のあらゆる吉凶ごとが行き来する場のような。
おそらく江戸の時代からずっとそんなふうにやってきたそんな場所 - 置屋(英語だとどう訳すの? - brothel?)にショートカットのシンプルな洋装で現れた雪子はひとりだけ異質な噂の女としか言いようがないのだが、置屋はそんな彼女も取り込んで、薄雲の妹も受け容れてまったく揺るがない。そして、田中絹代演じる初子は、自分の仕事に揺るぎない誇りと自信をもって、日々戦い続けているという..
おもては的場を追い払って母娘安泰円満のコメディのように見えるけど、実はものすごく残酷で過酷な溝口得意の逃れようのない格子模様を描いているのではないか。『赤線地帯』(1956) にもそういうかんじはあるけど。男子には見えにくいかもだけど。ラストで俯瞰される井筒屋なんて、まるで牢獄のようではないか。
今年のカンヌで田中絹代の監督作品が上映されたそうで、これってMark Cousinsの14時間のドキュメンタリー作品”Women Make Film” (2018)で紹介された成果だったのではないか、と思っている。この作品のなかで彼女の監督作品は全編通して10回も参照・紹介されていて、すごく見たくなった。どこかでやってくれないかしらー。
お片付けはだいたいつまんないのだが、たまにおもしろいこともあって、奥の方から巻いたままのポスターが発掘された。 1995年にセントラルパークでPatti Smithがポエトリーリーディングした時の(サイン入り)とか、agnès b. がJLGを取りあげたとき(『右側に気をつけろ』の頃?)のとか、Lunaが2005年にFarewellしたときのとか、Mission of Burmaとか、Neutral Milk Hotelが復活したときのとか、リトのきれいなのも多いのでちゃんと額装したいな、と思ったのだが、それやっても飾る壁がないのなー。
それにしても都知事とか首相とか、ひどいねえ。 もちろんわかっていたけど。
7.26.2021
[music] 叛五輪音楽祭・東京五輪獣
コロナ禍で亡くなっている人も苦しんでる人も絶望している人も大勢いるのに、いることがわかっているのに、ニュース速報で日本人がメダルを獲っためでたい! って浮かれて騒いで番組表の8割を五輪の日本人がんばれで埋めてしまう異常と狂気 - これもわかっていたこと、だけどだからこそ開催すべきではなかったし今からでも中断して人命救助を優先すべき。イチオクソウハクチカ。くそったれ。
7月23日金曜日の夕方、何年ぶりだかの下北沢に行ってシャングリラで見て聴いた。いまは映画の感想ばかり書いているしクラシックやジャズも聴くようになったけど、自分のエピタフはずっとすれっからしのパンクだと思っているので、こういうライブには行く。ほんとはデモにだって行きたいのだがずっと体調がよくないのでこういう形にのに行くしかない。ライブハウスでのライブは久しぶりで、昨年3月にKentish Townで見たMarika Hackman以来のー。
太陽肛門スパパーンのことは知らなかった。バンド名から原爆オナニーズとかほぶらきんとかと同系のかと思っていたらずいぶん違っていたかも..
開場17:00、開始は17:30で、入ったらOMDの”If You Leave”とか流れていて、まず花咲さんがライブの主旨 - いちおう、太陽肛門スパパーン二枚組LPレコード「円谷幸吉と人間」発売記念ライブ第一弾 - と、宣言のようなものを読みあげて、PANTA + 澤竜次のデュオ。PANTAさんを見るのは軽く30年ぶりくらいだと思うが、クリスタルナハトからの3曲も「7月のムスターファ」も「さようなら世界夫人よ」も変わらずすばらしいねえ。
続いて自分にとってはデリダの人である鵜飼哲さんとRIO周辺の人である竹田賢一さんのトーク。今回のがいろいろどうしようもないのは、そりゃ今回の発案が筋金入りレイシストの石原慎太郎だったから、というのと、そもそものクーベルタンからしてどうしようもない輩だし、というのと。ほんとにいったい「アスリート」ってなんなんだ? という疑念は日増しに高まっていく。いいかっこしい/いったもんがちの無能な政治家とたいして変わらない挙動に待遇に。それに群がるスポーツ・ジャーナリズムの愚鈍ぶりも込みで。人がばたばた死んでいるその傍でよくお祭り騒ぎして「感動」とかやってられるよな、ていうほんとうにシンプルな疑念。恥知らず。
続いての灰野敬二さんは若者の3ピースをバックにして彼がヴォーカルをとる - ギターを抱えていない彼を見るのは初めてで、でもハードコアであることは変わらない。”My Generation”や"(I Can't Get No) Satisfaction"といったスタンダードが抱えていたであろう熱や葛藤をがきがきの硬度と強度で再構築した耳にくるブルーズ。一曲がもう少し短くても、と少しだけ思ったけどこれはハードコアだからいいのか。ラストは”I Shot the Sheriff”で、”I Shot Mee..” という叫びで終わる。
トリの太陽肛門スパパーンは、まずステージびっちりの人数規模に圧倒される。弦を持った人は盛装してるし、白割烹着の女性たちもいるし、でもフロントに立つホーンの男性たちはだいたい白ブリーフいっちょうで目のやり場をどうするか。あとで調べるとずっとそういうスタイルでやっているらしいのですごいな、って。
ビッグバンドゆえの座布団の膨らみと広がりはすばらしく、飛び道具の鋭利さはないぶん、ばすんて叩かれれば後からじんわり来るやつで、フォークでも歌謡でもヒップホップでも気持ちよすぎでこれなら3時間でも聴いていられたかも。 でも具合がよくなくなったので21時くらいに抜けて家に戻り、床にのびた状態でなんだこれ?の開会式を眺めていたら寝てしまい、気がついたら終わっていた。
今回の辞任・解任騒動について90年代の自虐、露悪、(サブ)カルチャーと結びつけて云々、を見かけたけどそれはあまりに雑な括りだし文化の特定の領域(だけ)を貶めて終わり - に繋がりかねないので、時間をかけてきちんとやるべき、と思って、いまここのポイントはこれら彼らを(今に生きる)誰がどんな事情と経緯で表に出そうとしたのか、その背後にある責任と金と権力のありようだと思う。これも歴史があって根の深い日本のやっちまえ文化の流れにある、誰もがよく知るあれら、なのかもしれないけど、ここで誰がどうしてをきちんと総括しておかないと、ずっとアンクールジャパンのままになるよ。もう十分なっているしどうでもよいけど。
ということ以上に、まず、目の前のめちゃくちゃな茶番とか混乱をどうすべきなのか、どうしたら目の前の人の命の危機を救えるのか、という方が。いまの状態って、ほんとにこれでよいと思っている? そう思わないとしたら誰が何をすべきで、その優先順位は? などを、始まっちゃったから(←ほんとひどい言い草よね)とか利害関係とか(とにかく金に落としたがりすぎ)一切抜きにして、正義とか善とか「悪」とか、そういう観点から真剣に議論してほしいし間に合わないのであれば総括してほしい。いまの組織委員会とか今のと前の総理とか自治体の政治家とか、はっきりと然るべき場で裁かれるべき連中ではないのか。なんの実効性も伴わない「宣言」のみでなんもしない無策無能のまま基準やルールをころころ変えて市民の安全を危険に晒している、という点で。
オリンピックの意義とか意味は言うまでもない。あんなの今後一切やめてしまえばよい。ただのいろんな広告塔(候補)でしかない「アスリート」とか、それを仕切る「代理店」の再定義とかあんた誰? を含めて。なにもかも空っぽで有害でしかないことがよくわかったし。日本がメダルをいくつ取ろうがごまかされてはいけない。夢も感動も関係なし。失敗は失敗だって。
(連中は別のお花畑しか見ていないからなー、ほんとしょうもない)
というのとは別に、とにかくあなたはお片付けをしろ。紙に埋もれてしぬぞ。
7.24.2021
[film] Deux (2019)
7月17日、土曜日の晩、BFI Playerで見ました。邦画のクラシックもよいけど、たまに英語の映画を見て英語に触れていないとなまってしまうしな。と思ったらフランス映画だったり。
英語題は”Two of Us”、監督、共同脚本はこれが長編デビューとなるFilippo Meneghetti、今年のGolden Globeの外国語映画賞にフランスからエントリーされた作品。
フランスで同じアパートの同じ階の向いの部屋に暮らすNina (Barbara Sukowa) とMadeleine (Martine Chevallier)は、若い頃からずっと恋人同士で、でも結婚して子供もできたMadeleineは、ふたりのことを家族にはずっと内緒にしてきた。
でもMadeleineの夫が亡くなってもうだいぶ経ったし、彼女の子供達も大きくなったし、このアパートを売ってふたりが出会ったローマに揃って移住してそこで一緒に暮らそうよ、という計画を立てている。しかしNinaに背中を押されて自分で子供達に(アパートを売ることを)言う、と言ったのに子供たち - Anne (Léa Drucker) and Frédéric (Jérôme Varanfrain)と孫と会っても、未だに自分たちの(過去の)扱いや父親への態度に対する不満を口にされて言う機会を逃してしまう。そしてそのことをNinaにもきちんと言い出せなくて固まってしまったMadeleineは、ある晩に台所で倒れて病院に運ばれ、脳卒中だったので半身を動かすことができず、言葉も喋れない状態になってしまう。
こんなことになってしまったのは自分のせいだ、と思ったのはNinaも子供達も同じで、子供達は住み込みのケアラーMuriel (Muriel Bénazéraf)を雇って自分たちも面倒をみなければ、になる。でもNinaは自分の責任もあるし、そこに自分も含まれるふたりの将来の夢のこともある。このままMadeleineを家族のところにやってはいけない、彼女を家族から奪還せねば、と強く思う。
のだが、家族にとってNinaは向いの部屋に住むおばさんに過ぎないので、事あるごとに何かを察知して向いのドアを開けて現れる彼女に不審感を抱くし、Murielの仕事にもちょっかいを出してくるのであなた誰? になっていく。そしてMadeleineは、喋ることができないながらも誰が何を言っているかはわかるし、Ninaの思いはずっと通じているしわかっている - ことがわかる目の演技!
やがてNinaの策謀(彼女はMadeleineの部屋の合鍵も持っている)によりMurielがクビになって、でもMadeleineはどこかの介護施設に連れていかれて、もうだめか、ってNinaは落ちこむのだが、まだ諦めていなくて… でもその先に更にもうひと波あったり…
生涯の愛を誓ったふたりの愛の物語かと思ったら、Madeleineが倒れて以降はアパートのドアの覗き穴やその開閉を使ったサスペンス風のはらはらが出てきて、上がったり下がったりが激しくて、でもふたりの純愛は間違いなさそうだから変なふうにはなるまい、と思っていたらその通りになってしまうので、そこがつまんないといえばつまんないのかも。ふたりの愛を本当に試したいのだったら、NinaがMadeleineを横に座らせて子供達にふたりの過去からの経緯をすべてぶちまけて、あたしが彼女の面倒を見るから心配しないで、と宣言すればいいだけなのではないか、とか。それによってAnneとFrédéricが母への不信をより募らせてしまうのかも知れないけど、母のことをお荷物のようにしか見ていないのは明らかなので、寧ろよい方向に転ぶのでは。
というのよりは、R. W. Fassbinderの”Lola” (1981)のLoraを、”Rosa Luxemburg” (1986)のRosaを、“Hannah Arendt” (2012)のHannahを演じてきたBarbara Sukowa - 本作ではドイツからフランスに逃れてきたドイツ人、という設定 - と、The Comédie-FrançaiseのMartine Chevallierの剛と柔の演技がぶつかりあう見事な俳優の映画で、ふたりが向かい合って頬をすり合わせているシーンを見ているだけでよいの。
もちろんオリンピックなんて見るもんか、なのだがなんであんなバカみたいな数中継しているの? わかっちゃいたけど、みんなほんとにただのバカなの? とかぼやいている暇はなくて、今日(24日)、英国からの船便が届いた。Brexitとかコンテナ不足とかで3ヶ月かかるかも、と言われていたのより早くなったのはよかったのだが、あんまよくない。 ぜんぶで105箱、うち、本とかレコードが40数箱.. 自分の部屋は既に積まれてびっちり横たわる彼らで奥にすらいけないありさまなので、とりあえずリビングに積んで貰って、これによって床に寝っ転がることができなくなり、たいへんによくない。でもいくつか傷んだ箱を開けて彼らの無事を確認したりするのはうれしいし楽しいし。 しかしほんとにどうするのか。なんも考えてないし暑くて考える気にもならんし。
7.22.2021
[film] 浅草紅団 (1952)
7月17日、土曜日の昼、シネマヴェーラの成澤昌茂特集で見ました。
監督は久松静児、脚本が成澤昌茂、原作は川端康成 - でも講談社文芸文庫から出ている同名のルポルタージュ(ふう)小説とは別で(浅草紅団が出てくるわけではないし)、原作にしているのは1950年に出版された単行本『浅草物語』(1950) 所収のどれからしい(大映からは同じ成澤昌茂脚本 - 島耕二監督 - 山本富士子主演で『浅草物語』(1953)というのも制作されているし、いろいろあるみたい)。
浅草の女剣劇団のスタア - 紅龍子(京マチ子)がいて、浅草一帯を仕切っているやくざの中根(岡譲司)に囲われているのだが、ある日島吉(根上淳)が戻ってきたらしいぞ、と聞いて全員がざわざわする。中根が一家総出で後を追っているらしい島吉は、浅草のカジノ・フォーリーのスタア踊り子マキ(乙羽信子)の恋人で、マキが中根から借りたお金を巡るごたごたで中根の子分を刺してからそのまま行方をくらましていたらしい。 はじめは中根の使いっ走りとして都会に出てきた田舎娘のナリで島吉に接近する龍子だったが、再会したマキと島吉の姿を見てふたりのために一肌脱ぐことにして、一座の仲間や警察の須山(河村黎吉)も巻き込んで奔走するの。
その過程でマキと龍子は同じお守りを持つ義姉妹であることがわかったり、ストーリー全体が舞台でかかる任侠劇そのもののような艶をおびて光ってきて、(クラシックとモダン、それぞれの)バックステージものがそのまま犯罪活劇へと繋がっていく、それをドライブするのが遠い昔に見えない糸で結ばれた義理の姉妹、っていうのがよいの。 島吉ははじめはカッコつけているふうなのだがそんなに強いわけではなくて、一番強いのは龍子とマキだし。
冒頭とエンディングに映し出される浅草の大通りにはゲイリー・クーパーの『真昼の決闘』の幟が立ってて、チャンバラ剣劇の一座もあれば、フォーリーズの踊り子一座もあって、地下鉄が通って都会から来たひとも田舎から来たひともいっぱいでざわざわしていて、池は埋め立てられたり大きく変わろうとしている。そういう街のなかをやくざに囲われている女、囲われようとしている女、その構図に抵抗しようとする若やくざ、最後までほぼなにもしないでそこにいるだけの警察、等が入り乱れて明日に向かって突っ走ろうとするの。 お芝居を見るように手に汗握ってしまったわ。
最後、龍子の舞台の本番手前のところの捕り物で、舞台の表と裏と客席を上手く使ってどんでんとかやったらもっとおもしろくなっただろうなー、とか、ふたりのシスターフッド(紅団)にもう少し寄っていっても、とか思ったけど、そこまでの冒険はしなかったか。でも彼らが逃走を続ける浅草の路地や家屋の暗がりに劇場の入り口出口、どれも素敵だった。セット、そんなに使っていない気がした。天然色だったらなあー。
そして京マチ子は紅のお龍としか言いようのない不動のかっこよさで、その反対側で別のかたちでひとり立ちあがろうとする乙羽信子もすばらしい。そして出てくる男はどいつも「おぼえていやがれ」しか言わないろくでなしばかり。 川端康成の『浅草紅団』を読むと、実際にはもっと暗く猥雑で過酷なかんじ(語り手の暗さか)なのだが、映画はこれでよいのではないかとおもった。
TVをつけると既ににっぽんのTVお得意の感動の押し売り大会が始まっているので、すぐ切る。一連の辞任/解任劇を引き起こした主因がこの線上にあるって、それがどれだけ外の人たちから見て滑稽で異様に見えるか(今回の騒動の後には尚のこと)、ちゃんと振り返ってみた方がいいよ。