7月17日、土曜日の昼、シネマヴェーラの成澤昌茂特集で見ました。
監督は久松静児、脚本が成澤昌茂、原作は川端康成 - でも講談社文芸文庫から出ている同名のルポルタージュ(ふう)小説とは別で(浅草紅団が出てくるわけではないし)、原作にしているのは1950年に出版された単行本『浅草物語』(1950) 所収のどれからしい(大映からは同じ成澤昌茂脚本 - 島耕二監督 - 山本富士子主演で『浅草物語』(1953)というのも制作されているし、いろいろあるみたい)。
浅草の女剣劇団のスタア - 紅龍子(京マチ子)がいて、浅草一帯を仕切っているやくざの中根(岡譲司)に囲われているのだが、ある日島吉(根上淳)が戻ってきたらしいぞ、と聞いて全員がざわざわする。中根が一家総出で後を追っているらしい島吉は、浅草のカジノ・フォーリーのスタア踊り子マキ(乙羽信子)の恋人で、マキが中根から借りたお金を巡るごたごたで中根の子分を刺してからそのまま行方をくらましていたらしい。 はじめは中根の使いっ走りとして都会に出てきた田舎娘のナリで島吉に接近する龍子だったが、再会したマキと島吉の姿を見てふたりのために一肌脱ぐことにして、一座の仲間や警察の須山(河村黎吉)も巻き込んで奔走するの。
その過程でマキと龍子は同じお守りを持つ義姉妹であることがわかったり、ストーリー全体が舞台でかかる任侠劇そのもののような艶をおびて光ってきて、(クラシックとモダン、それぞれの)バックステージものがそのまま犯罪活劇へと繋がっていく、それをドライブするのが遠い昔に見えない糸で結ばれた義理の姉妹、っていうのがよいの。 島吉ははじめはカッコつけているふうなのだがそんなに強いわけではなくて、一番強いのは龍子とマキだし。
冒頭とエンディングに映し出される浅草の大通りにはゲイリー・クーパーの『真昼の決闘』の幟が立ってて、チャンバラ剣劇の一座もあれば、フォーリーズの踊り子一座もあって、地下鉄が通って都会から来たひとも田舎から来たひともいっぱいでざわざわしていて、池は埋め立てられたり大きく変わろうとしている。そういう街のなかをやくざに囲われている女、囲われようとしている女、その構図に抵抗しようとする若やくざ、最後までほぼなにもしないでそこにいるだけの警察、等が入り乱れて明日に向かって突っ走ろうとするの。 お芝居を見るように手に汗握ってしまったわ。
最後、龍子の舞台の本番手前のところの捕り物で、舞台の表と裏と客席を上手く使ってどんでんとかやったらもっとおもしろくなっただろうなー、とか、ふたりのシスターフッド(紅団)にもう少し寄っていっても、とか思ったけど、そこまでの冒険はしなかったか。でも彼らが逃走を続ける浅草の路地や家屋の暗がりに劇場の入り口出口、どれも素敵だった。セット、そんなに使っていない気がした。天然色だったらなあー。
そして京マチ子は紅のお龍としか言いようのない不動のかっこよさで、その反対側で別のかたちでひとり立ちあがろうとする乙羽信子もすばらしい。そして出てくる男はどいつも「おぼえていやがれ」しか言わないろくでなしばかり。 川端康成の『浅草紅団』を読むと、実際にはもっと暗く猥雑で過酷なかんじ(語り手の暗さか)なのだが、映画はこれでよいのではないかとおもった。
TVをつけると既ににっぽんのTVお得意の感動の押し売り大会が始まっているので、すぐ切る。一連の辞任/解任劇を引き起こした主因がこの線上にあるって、それがどれだけ外の人たちから見て滑稽で異様に見えるか(今回の騒動の後には尚のこと)、ちゃんと振り返ってみた方がいいよ。
7.22.2021
[film] 浅草紅団 (1952)
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