2.25.2020

[theatre] Endgame + Rough for Theatre II

21日、金曜日の晩、The Old Vicで見ました。

Alan CummingとDaniel Radcliffeによるベケットの2人芝居の2本立て。演出はRichard Jones、Set & CostumeはStewart Laing。
ベケット演劇をライブで見るのは初めて。最初に30分くらいの”Rough for Theatre II”、休憩を挟んで80分くらいの”Endgame”。

“Rough for Theatre II“は50年代後半にフランス語で書かれたもの。大きな窓がひとつある部屋の左右に向かい合うかたちで机が置かれていて、大きな窓のところに背中を向け片手を頭に置いた男が立ったまま固まっていて(この舞台ではでっかい人形。たぶん)、そこから飛び降りようとしているように見える。そこに官僚のA (Daniel Radcliffe) とB (Alan Cumming)が現れて彼の調書と思われるファイルを見たり彼の表情を確認したりしつつ、彼の生とか死についてあれこれ議論するの。Bはひょうきんでアトラクティブで、Aはクールで断定的で、ふたりの会話や動きは彼の飛び降り(自殺)という行為とそれがもたらすであろう結果の周りをぐるぐるするだけ(他に突然点いたり消えたりするランプとか鳥の声とか)。こんなふうに第三者が死とか生の価値や意味について裁定や評価をすることの不条理、というか胡散臭さが浮かんでくる。それは今でもふつうにあるけど、あっていいの? そういうもんなの? ふたりが天の声のように上空から議論することについては、”It’s a Wonderful Life” (1946)の冒頭が参照されていて、ああそうかも、って。

この作品は2000年のBeckett on FilmでA (Jim Norton) & B (Timothy Spall)で映像化されている。見たい。

Endgame (1957) -  『勝負の終わり』- チェスの「詰んだ」状態のこと

上の方に小さな窓がふたつある部屋にやや猫背で足を引きずる汚れた召使のClov (Daniel Radcliffe)がいて、中央の椅子に座って動かないやつの布をめくるとそれが主人のHam (Alan Cumming)でつるっぱげで目は見えなくて足は痩せこけて動けない(彼の足、棒みたいに細いと思ってよく見たら本当に棒 – つくりものだった)。Hamは喧しくて傲慢で王様で、用事があるときはホイッスルでClovを呼びつけるとClovは嫌々な様子ですっとんでくる。どうも逆らえないらしい。 他に舞台の左手にあるゴミ缶ふたつの中にはHamの両親 - Nell (Jane Horrocks)とNagg (Karl Johnson) - がいて、たまに顔を出して食べものを貰ったりする。

最初にClovが”Finished, it’s finished, nearly finished, it must be nearly finished…”って呪文のように唱えるところからも、もうこれは終わっている、終わりが見えている、どん詰まりの世界のことなので、そういうものとして眺めてみれば、そうだよね、しかない。

屈辱的で出口なしの主従関係があって逃げられず、親はゴミ箱に捨てられ、食べ物も痛み止め薬もなくなり、その先は↑の“Rough for Theatre II“みたいに窓からジャンプするしかなさそう、そんな世界でどうやって生きるの? - いやもうこれ終わっているやつだから、っていうループが繰り返されて、どんな問いも企てもこの循環(ゲーム)に飲みこまれていく、そういう世界像にどう立ち向かったらよいのか? -  いやなんも。 なのだが、最後のところは少しだけ、おや? ってなったりする。ゲームという関係性の放棄なのか、ゲームを成立させている世界そのものからの離脱なのか。 

どちらの劇もふたりの会話の切り返しがドライブしていくコメディで、部分だけ切り取るとコンビの漫談のようにも見えて、たまに生じる「…」の間に無間の闇とかがぽっかり、のような。そういう紙一重の宇宙を軽妙に綱渡りするAlan Cummingが芸達者なのはわかっていたが、Daniel Radcliffeのしなやかな鈍重さ、みたいな狙いすました演技もすばらしかった。リズムが見事なハシゴ芸とか股ぐらに粉を撒くところとかのおもしろさ。

シンプルであればあるほど今の我々の世界に近づいてくるように見える遠近法の魔法、なんて難しいこと言わなくても、ここで展開されたふたつの世界はあまりにも近くて眩暈がした。ベケットおもしろい。もっと見たい。

[music] Otoboke Beaver

23日、日曜の晩、Scalaで見ました。昨年5月初に見たライブと同じ場所で、でも会社をYametattaしたので失うものなんてなにもないぜ、ってよりかっこよく戻ってきたかんじ。

この晩はこれの真裏でThese New Puritansが16ピースのアンサンブルを率いてライブ(@ barbican)、ていうのもあったのだが、先にこっちのチケットを買っていたし、でもこの日は午前から”Portrait of A Lady on Fire”を見て、Royal Academy of ArtsでLéon Spilliaert展を見て、BFIで”Lourdes” (2009)を見て、とどめに”8½” (1963)を見てじゅうぶんへろへろで、そもそもだいたいなんでここ数週間、週末になると(必ず週末.)嵐が来て気圧とかぐしゃぐしゃになるのか、地下鉄はてきとーに動いたり動かなかったりしているのか、やつあたりの憤懣やるかたなく(← 家で寝てればいいだけ)21時少し前にScalaに着いたら階段も昇れないくらいにくたくたで、でも扉を開けてなかに入る。

湯気もうもうのなか前座で演奏していたのはDrinking Boys and Girls Choir(DBGC)っていう韓国の3ピースパンクで、外見は見るからにただの子供じゃん、てかんじなのだが音はキレてて爽やかでなんかいいの。日本にいたら業界ロックおやじとかがよってたかって餌食にして汚してしまいそうなやつだけど、このままで行ってほしい。

21:30丁度におとぼけが。前回はセッティングから全部自分たちでやっていたが、今回はスタッフがやってくれるようだし、フロアは始まる前から(明日から月曜日なのに)おお盛りあがりで、自分の周りにはぜんぜん日本人見えないし日本語聞こえてこないし、始まってからも大騒ぎ、曲が終わるたびになんだこれーって大笑いしつつ喜んでいる。喜ばしいこと。

“Yametatta”ツアーなので、真ん中くらいに会社を辞めたのでサポートしてねお金ちょうだいね、という発言があり、そのまま「週6はきつい」にはいる。自分も2度ほど会社をYametattaことがある(ふほんいながら会社員は続けている)ので、がんばってほしい。この「週6」も続けての「親族に紹介して」も、リズムの組み立てと展開がとてもユニークなのと、これは全般そうだけど日本語のフレーズの運びとか切り方とか、おもしろい。想像することがたやすい(気がする)日本語音韻ラップの組み立てとは別にハードコア/メタルに乗っかりぶつかる日本語の建てつけとして - 歴史を知らずに書いているけど - なんかシンプルなのに画期的ではないか。いまは何を言っているのかわかんなくても北欧メタルとかデスメタルと同じような発語/声の奇抜さ素っ頓狂さで十分ウケてしまっているのだろうが、どういうことを訴えているのか、電飾字幕で流せばいいのにな、とか。 引っ掻くギター傷にどんな毒が擦り込まれているのかを知らしめるためにも。

音のつっ走ったりつんのめったり振りほどいたりの緩急とか、いちいち噛みついたら離さないしつこさ獰猛さは昨年より強く自在になっている気がして、ああ1年経たないのにバンドってこんなにも.. ってみんな思い知ったとおもう。BABYMETALよりPurfumeより(どちらもよく知らんが)、しかるべきメッセージを吐きまくるにっぽんのハードコア女子グループとして世界に認知されてほしい。

昨年に続いてフロアから呑んで呑んで~コールが湧いて、メンバーから何度もやめて、って中指立てられていた。あれ、彼らは無邪気にやっているけど明確にハラスメントを煽るやつなのでまじでやめてほしいし、あんなのを教えた日本のやつらみんなしんでほしいし。

フロアは幸せそうに荒れて揺れてモッシュしまくりだったので写真なんか撮れる状態ではなくて、ああいうの久々だった。だいたい50分。 1分に満たない短いアンコールを2回やり、ギターをフロアに放り投げて、前座も含めた記念写真をとって終わる。

この勢いを止めないためにもこの地に腰を据えてしばらく定期上演方式でやってみてはどうか。どうせやめたったのだし。

2.24.2020

[film] Queen & Slim (2019)

20日、木曜日の晩、BFIで見ました。新作のアメリカ映画。

オハイオのぱっとしないダイナーでQueen (Jodie Turner-Smith)とSlim (Daniel Kaluuya) - ところでQueenもSlimも最後までこの名前で呼ばれる/呼びあうことはないの - が最初のデートをして、会話も弾まなくて互いにこりゃ失敗だわ.. って気まずいかんじで車で送っていく途中、後ろからポリスの車に止められ、明らかに差別的・侮蔑的な意図と目線でSlimを尋問して車のトランクをチェックしたりするので、弁護士のQueenが抗議して電話で通報しようとしたらポリスは銃を抜いてQueenの足を撃ち、そこをなんとかしようともみあったSlimは誤ってポリスを射殺してしまう。

しばしの沈黙の後、ふたりでどうする? 自首しようか?とSlimはいうのだが、事情を知るQueenはそれをしても裁判では100%負けるし一生シャバには戻れなくなるよ、と言うのでふたりで逃げることにしてその場その場で車を奪ったり換えたり、知り合いを頼りつつキューバに高飛びできるかもしれないマイアミを目指すことにする。

警察の車のカメラで撮られていた事件の顛末は報道され、ふたりは銃を持った凶悪犯として逃走中、って捜査線が引かれてしまったので、そこらのガキに食べ物を買ってきてって頼んでも、あ、顔しってるよ、とか言われてどうしようもない。 そこで貸しがあるというQueenのおじ(Bokeem Woodbine)の家にしばらく匿ってもらい、そこでQueenはドレッドをばっさり切ってタイトなトラ縞ドレスに、Slimも頭を丸めてちんぴら風になり、車も替えて見送られて旅立つの。

そこから先の逃避行はクライムムービーからアメリカを東に横断していくロードムービーとなって、いろんな局面で助けてくれる人くれない人いじわるな人など(肌の色関係なし)がいて、彼らの逃走に連なるBlack Lives Matterの抗議行動が描かれ、他方でダンスホールでのやりとりなんか溶ろけて素敵で、これらを通して当初はつんつん喧嘩ばかりしていたふたりの距離が縮まっていくところがよいの。でも、それでもそもそもなにも悪いことをしていないのになんでこんなところまで来ちゃったんだろう..  っていう辛さとか哀しさはくるし、あとは怒りだよね。断ち切りたいのに向こうがふっかけてくる憎悪を一体どうしたらよいのだろう、っていう絶望。

史上に残る名作『夜の人々』(1948)のふたりと比べるのはおこがましいかもだけど、あの映画が痛切なメロドラマを通して当時のアメリカの風景おおよそを見せてくれたのと同じように、この映画も突然糸を切られてしまった主人公たちの彷徨いを通して今のアメリカの荒んだの美しいのいろんな景色を見せてくれる。 美しいのは美しいから、見ていてとってもつらくなる。

監督のMelina Matsoukasさんはこれが監督デビューで、ファーガソンの件とか一連の事件を見て脚本のLena Waitheさん - “Ready Player One” (2018)のAechのひと – と一緒に一挙に書きあげて撮ってしまったという、そういう勢いはとってもある。

途上のサバナでふたりを匿ってくれるおうちにChloë SevignyとFleaの夫婦がいて、やや変なかんじだった。よい意味で。

2.21.2020

[film] Baby Doll (1956)

19日、水曜日の晩、BFIのElia Kazan特集で見ました。

脚本はTennessee Williamsが彼の一幕もの“27 Wagons Full ofCotton” (1955)と“The Unsatisfactory Supper“ (1946) をひとつに束ねてこの映画用に書き直したもの。擦れて白っちゃけた35mmプリントがたまんなくて、同じTennessee Williamsものの“A Streetcar Named Desire“(1951)より映画的にはおもしろかったかも。

ミシシッピのデルタ地帯で綿工場をやっている中年のArchie Lee Meighan (Karl Malden)がいて、ぼろぼろの邸宅にメイドの老婆と若妻のBaby Doll (Carroll Baker)と暮らしている。

Baby Dollは彼女の亡くなった父とArchie Leeとの昔の契約だか約束だかで結婚した(させられた)のだが彼女が成人して20歳になるまでは手を出してはいけないことになっているそうで、冒頭からArchie Leeが指をしゃぶって寝ている彼女を覗こうとしているのがばれて喧嘩、みたいなことをやっている。そういう事情があるからかなんなのか、ふたりは子供みたいに小競り合いとか喧嘩ばかりしていて、でもBaby Dollはあと数日で誕生日を迎えて20歳になる、そうなると...   そんなのあるかよ、ってこの設定をのめるかのめないかで、この先どう見るかは変わってくるのかも。

支払いが滞って家の家具をぜんぶ持っていかれてふたりで大騒ぎの大ゲンカをした後、Archie LeeのライバルのSilva Vacarro (Eli Wallach) – シシリアンだそう – の綿工場が夜中に火事を起こして、なんか怪しいんじゃねえかってSilvaがArchie Leeの家を訪ねてきて、あーめんどくせ、になったArche LeeがBaby Dollに客の相手をさせて自分はどっかに行く、とその辺から成り行きがおかしくなって、突然boy meets girlものに。ふたりがぼろぼろの家屋でレモネードを作りながらかくれんぼしたり踊ったりするところは、犬に鶏に豚まで出てきて別の映画のようになるのだが、素敵ったらないの。

そしてこのふたりの輝きが、外から戻ってきたArchie Leeの登場で更に変なふうに捩れてこんがらがって..

南部の廃屋みたいなお屋敷、そこに人質のようになって暮らす女の子、変質者に見えないこともない中年男、老メイドもどこか壊れてしまっていて、そこらを工場で働く労働者がうろうろ、そんなアメリカ南部のホラー映画設定のところに、ややまともに見える(ちょっとぎらぎらした)Silvaが現れて、なにがどう転ぶのか、先がぜんぜん見えないの。これが70年代のアメリカだったらふたりでArchie Leeを殺して旅に出るのかもしれないし、昭和のにっぽんにもこんなのあった気がする設定 - あったよねこんなの? - なのだが、Tennessee Williamsなので..

Karl Maldenは、“A Streetcar Named Desire“でもBlancheに一方的に思いを寄せておいて裏切られたって勝手にぶちキレるしょうもない中年男を演じていたが、今回のもそれに近い、自分より弱めの娘の上に立って父親気どりで快楽を貪る哀れな中年の挙動が炸裂していて、Baby Dollの輝きと見事な対照をみせる。 今リメイクするのだったらこの役はJohn C. Reilly以外に考えられない。

これがデビュー作となるEli Wallachのちんぴらっぽいやばみもよくて、彼はこれでBAFTAの"Most Promising Newcomer"を貰っている。

でも全体としてはやはりCarroll Bakerのすばらしさに尽きる。米国だけでなく世界中でカトリック系を中心に上映禁止をくらったことがそれを証明しているし、冒頭彼女が着ている寝間着なんてもろCourtney Loveの(もちろんCourtneyがマネしてるのね)だし、Holeの1stに"Babydoll"っていう曲もあるし、”Doll Parts"ていうのもあったし。

全体にどいつもこいつもみんな薄汚れてて、そういうなかから這いだそうとする、ってもろグランジのあれかも。

2.20.2020

[music] Max Richter "Voices"

18日、火曜日の晩、Barbicanで見て聴いた。
発売になったのがずいぶん昔で、チケット買ったのをすっかり忘れていて、Barbicanからの開演時間連絡メールで数日前に気付いた。あぶなかった。

演目はふたつで、最初に”Infra” (2008)、休憩を挟んで”Voices” (2020) – Barbicanからの委託を受けて製作された新作で、これがワールドプレミア(正確には2日間公演の初日である前日 - 17日か)となる。 つい7日前に出来あがったばかりだそう。

“Infra”は、2018年のこの場所で演奏された際にも聴いていて2度目。  2008年、Royal Balletで振付Wayne McGregor、ヴィジュアルJulian Opieで披露されたバレエ用のピース。でもそもそもは2005年のロンドン地下鉄の爆破テロをきっかけに作られたtravelling – commuting musicで、音楽的にはシューベルトが濃く入っていると演奏前に語っていた。演奏は弦が5名にRichterのKey。今回の演奏者はプレミアの時、レコーディングの時のメンバーなので最強、とのこと。

シューベルト。 と言われてもはぁ..  しかないので音楽のところはあまり語れないのだが、Max Richterは911の頃から始まってこれまでずっと政治的なトピックやテーマに取り組んでいて、それって、世界はどんどんひどく悲惨になっていないか、という問いの周辺を回っている。自分が映画館で見る新作映画の音楽がMax Richterのだった、ことが多いのは偶然ではない気がする。

そして今回初演となる”Voices”。オーケストラの構成はヴァイオリン8、ヴィオラ6、チェロ24、ダブルベース12、ハープ 1、フロントにソロのヴァイオリン、ソロのソプラノ、ナレーター、後ろに12名のコーラス、そしてMax Richter自身によるKey。

題材として彼が取りあげたのは国連のDeclaration of Human Rights - 『世界人権宣言』で、これについて彼は次のように語る(デジタルパンフより)

"It’s easy these days to feel hopeless or angry, as people on all sides do, and though the Declaration isn’t a perfect document, it holds out the possibility of a better world. A wish fulfilment of what can be, and of what we, in some imperfect way, have had."

最初に宣言を読みあげるEleanor Rooseveltの声 (1948) がテープで流れ、その後はナレーターが - ナレーターへのインストラクションは初めてこの星に降りたったエイリアンのように – 彼が音楽を担当した映画”Arrival” (2016)を思いだす – ゆっくりと淡々に。更にクラウド経由で募った世界中のいろんな言語による朗読の声(日本語のは女性の声だった)が会場のいろんな場所からランダムに放たれ、重ねられていく。

「宣言」のナレーションを聞くとさあ、本当にいいの。当たり前のことしか言っていないんだよ、なのになんでこんなにも離れてしまったのか、って。なにがこんなに隔たって/隔ててしまったのか、って。 憲法変えたいのならこれでいいじゃん。(いまの日本は笑っちゃうくらい見事に、ぜんぶ逆を行っているね)

音楽は彼のこれまでの作品と比べるとメロもテンポもややシンプルで、でも技術的には相当いろんなことを突っこんでかき混ぜて、内側のあらゆるレイヤーで大量の小競り合いとか内紛が重ねられていて出口なし、みたいなかんじで、そこに淡々とした「宣言」が被せられてはっとする、ような。 このぐちゃぐちゃが「構造」に起因するのかどこかからのなにかしらの「力」によるものなのか、なにをどうやったらこの雲みたいのを…  とかいろいろ考えさせられる。

そういうことがあるので、わたしにとっては彼がクラシックだろうが現代音楽作家だろうが映画音楽作家だろうがどうでもよくて、できるだけライブに通って聴くの。

これとおなじことをアバンギャルドメタルの様式でやってもおもしろい、はず。(もうだれかやっていたりして)

[film] A Streetcar Named Desire (1951)

16日、日曜日の晩、Felliniの”Roma”に続けて見ました。Stormの気圧のおかげでへろへろ、もう殺せ、状態だった。

BFIでは、2月~3月の特集、“Elia Kazan: The Actors' Director”が始まっていて、これまであまりきちんと見てこなかった監督だけど、見れる範囲で見てみよう、と。(でもまだ3本しか見れてない)

『欲望という名の電車』- Tennessee Williamsによるピュリッツァー賞受賞の戯曲をBroadway上演時の監督とキャストをほぼ引き継いで – Blanche役のJessica TandyだけLondon公演でBlancheを演じたVivien Leighに替えて – 映画化したのがこの作品。今回の上映にあたり新たにデジタルリマスターされている。

ニューオリンズの駅前にBlanche (Vivien Leigh)が降りたち、”Desire”行きの路面電車でフレンチクォーターにある妹のStella (Kim Hunter)と、その彼Stanley (Marlon Brando)が暮らすおうち(他にも数世帯いるところ)に転がり込む。 Stanleyは肉体労働者で野卑ですぐにブチ切れておっかなくて、彼の子を妊娠しているStellaは怯えたり喧嘩したりしつつも一緒にいて、そういうところに元教師でちゃんとしたお家の娘だったようにつんつん振る舞うBlancheが誰あんた? みたいなふうに入りこむ。

こいつはなんか裏があると思ったStanleyは彼女の過去を探りはじめ、他方で彼の同僚のMitch (Karl Malden)はBlancheの繊細さ(これまで会ったことないタイプ)にやられて彼女を誘うようになって結婚まで妄想して。

ガラスのように壊れやすいなにかを抱えた or 自身がガラスそのものになってしまった女性が酒とタバコとギャンブルでおらおらやることしか考えていない動物 - 男性の間に置かれてしまったときに起こる悲劇を崩れかけた古い家屋と距離の近さが気になる湿気たっぷりの大気のなかに広げてみせる。モノクロのくすんだトーンに建物の明かりとか霧のコントラストが映えてドラマの装置としても申しぶんない。

そこに転がるテーマ - 暴力とか格差とかジェンダーとか教育とか過去とかいろんな観点からラストまでの「あーあ」について言うことができると思うのだが、この映画に関しては俳優全員の演技のものすごさ - アンサンブルというよりそこから必死で逃げ回ろうとする -   その様子を可能な限り生々しく捉えるように画面が作られているところがあって、へたなホラー映画よりもよっぽどこわい。Stanleyがブチ切れてちゃぶ台(じゃない)をひっくり返さないまでも全員がちゃぶ台(テーブル)上に凍りついて動けなくなってしまうとこなんて、見ているこちらまで固まってしまう。 そんな怒んないで、しか出てこない。こわいよう。Blancheかわいそうだよう、ばかり。

ひとはいろんなことを経ていまのその人になっていて –Blancheの場合、夫が同性愛者であることがばれて自殺した過去があり – そういうのをぜんぶ確かめることなんてできないからつい断面の外見や挙動で乱暴に踏みこんでしまうこともあることはあるのだろうけど、でもみんなその点はおなじなんだから最初はふつうにリスペクトなんだよね。男ってほんとやーねー。

今更ながら“Blue Jasmine” (2013)のCate Blanchettってこれだったのかー、って。

いまの日本の与党が実現したがっている家族の理想型って、まちがいなくこういうのだよ。

[film] Roma (1972)

16日、日曜日の午後にBFIのFellini特集で見ました。”Fellini’s Roma”として書かれることもある映画で、昨年末にRomaに行ったというのもあり、ぜったいに見たいな、って。

感触としては”Amarcord” (1973)に近い、あれが自分の幼少時の記憶の断面スライスの上下数メートルを漂ういろんな人々の絵姿を愛をこめて煮出して映しだしたものだとすると、これは古代からずっと続いている都市が垂直だか水平だかの方向に抱えこんできた幽霊とか亡霊も含めたいろんな顔や姿の人たちがその表面(70年代初)をゆらゆら漂っていくさまを描いたやつで、枠組みとしてはわかりやすい。 けど、次々に新旧いろんな人々が現れては去っていくので、なんだったのあれ.. とか、それがどうした..  なかんじは”Amarcord”よりは強く漂うかも。

エピソードはいっぱい、若いFellini (Peter Gonzales)がローマに着いて下宿屋でいろんな人たちに会ったりとか、夏の夜の大通りのみんなで食事とか、ローマに向かう幹線道路の渋滞大雨での移動撮影とか、地下鉄のトンネルを掘っていたら遺跡が出てきた(けど空気に触れたら消えちゃった)とか、芝居小屋のしょうもない見世物(つまんないからって猫の死骸を投げるのはやめよう)とか、ぜったいそんなの着ないだろあんた、な法衣のファッションショーとか、さいごはバイクでぶんぶんぐるぐる街中を回っているだけとか、自身が全力で突っこみ入れつつもローマならあってもおかしくないな、ていう確信に貫かれたやつらで、見ていると、うん、あそこならあってもしょうがないわ、って思わされてしまう。そしてそれらはAvengersとかTerminatorみたいにタイムスリップして湯気たてながら現れたような得体のしれない連中(この映画のなかにも出てくる)が引き起こしているかもしれないので誰にも防ぎようがないし、そんなの防いでどうする/どうなる、だし。

Romaは昨年末に3~4日くらいしかいなかった程度だが、街の中に遺跡がそのままにょきにょき生えていて、そんなのへっちゃらで新旧互いに異物感を放電している様がとっても新鮮だった。ロンドンの街中にもそりゃ遺跡はいっぱいあるけど、あんなに強く、ここにいるからさ、って堂々と居座っているかんじはない気がする。闇に潜む幽霊というより街に裸で繰りだす妖怪とか化け物のかんじで根を張っている。だから夜の川辺とか橋のたもととか扉の影とか素敵でさあ、夜ずっと歩いているとなにかが出てくる/出てきそうなのがとってもわかるし。

おそらくこれと同じような街は世界中に数千とあるのかもしれないが、Romaが他とちがうのは大昔からセレブっていう特殊なタイプの妖怪が巣食っている、というあたり。シーザーもいたし法王もいるし、この映画でもGore Vidalが喋ったりAnna Magnaniが出てきたり。(後で知ったのだがElliott Murphyなんかもいたの?)

40数年前に撮られた風景と、いまのそれがリンクするって絶対かっこいいと思うんだけど。 NYでもLondonでもそれはできるし、昔の映画見ると感じるし。 ほんとうはさー、Tokyoでもこういうのを作れる隙間みたいのがあったと思うんだけど、いまや跡形もないよね。ださい土建屋がぜーんぶ潰しちゃって、ほんと恥ずかしいしバカみたい。

あと、見ていてものすごくパスタが食べたくなって、帰ったらぜったいこういうの作る、って思い描いて帰ったら家のパスタが切れていたときのしょうげきときたら..