22日の日曜の夕方、"Attack the Block"のあとに京橋までぷらぷら歩いてって見ました。
冒頭、映画泥棒のCMが流れたので、ものすごく盛りさがる。 京橋でも逃げられないのかー。
この、犯罪的に下品で劣悪なクリップが、こういう特集に喜んでやってくる善良な映画ファンを思いっきり萎えさせて、結果的に映画館から遠ざけることになったって、わかっているのかしら。
更に字幕:T田おばさん、と出てああそういえば、と思うのだった。(全体に、おばさん的にださいの)
この作品は、公開時も見たし、そのあとも2~3回は見ている。
今回のこの特集で、理由はなんでかわからんが、一番、強烈に見たくなった作品。
なんでだろ、去年MOMAでWalter Hillの"Driver"を見たからかしら。
こないだのRyan Goslingの"Drive" (2011)なんかはもろこれの流れだよね。
冒頭に字幕で、どっかの時代のどっかの街、とでるが、あんな音楽は80年代にしかなかったし、あの電車はシカゴだよね。
人気歌手(Diane Lane)がライブしてたら、暴走族みたいな一団が入ってきて歌手をさらって行っちゃうの。食堂のおねえさんが、Tom Cody(Michael Paré)、助けて、って手紙書くとどこからかTomがやってきて彼女を救いだして、悪いやつら(Willem Dafoe - ぴちぴち - など)をやっつけて、また去っていくの。
なんで悪いやつらは彼女をさらっていったのか、Tomはなに考えててなんで突然闘犬になってすたこら去っていったのか、警察はなにしてたのか、謎だらけだけど、でもいいの。
きれいなおねえさんはさらわれるもんだし、強いおとこはしゃべらないもんだし、悪いやつらはつるんでやってくるもんだし、警察は無能なもんなの。 バイクと車と喧嘩と夜の街、そこに音楽ががんがん流れてくるんだから、ぜんぜんいいじゃないか。
たぎる怒りを熱いパッションでもって叩きつけるのではなく、お掃除するみたいにクールに無表情にやっつける。 そういうのがかっこいいとされた時代もあったのよ。
なんかさー、昨晩Dark Knight見てきて、わるくはなかっけど、疲れたのよね...
音楽はいいよねー。 最後のライブシーンのChoreographyなんか、なにひとつすごいことやってないのに、とってもパーフェクトなかんじがする。
そして、Ry Cooder & Jim DickinsonとJim Steinmanがひとつの映画のなかであたりまえのように同居している。 ブエナビスタ前夜、この時期のRy Cooderは素敵だったなあ。
Wardrobeはアルマーニ。Rick Moranisのださいチェックのやつも。
7.28.2012
7.26.2012
[film] Attack the Block (2011)
22日の日曜日、銀座で見ました。 もう終わっちゃいそうだったし。
終わってしまうといえばシネパトスも終わってしまうらしいのだった。 すごく思い入れのある映画館、というほど通ってはいないのだが、あの雰囲気がなくなってしまうのはいやだな。 ただでさえ最近の銀座って、ぜんぜんいかす方に行っていないとおもうし。
ロンドンの南のはずれ(Oval stって見えた)の団地で、そこらをごろついているガキ共が、おねえさんからひったくったりしていると隕石みたいのが落ちてきて、車にぶち当たって穴を開けたので、車もいただき、と中を覗いたら変なのが出てきたので取っ組みあってやっつけたら、相手はエイリアンみたいな見たことない生き物だった。 動かなくなったそいつを団地のたまり場に持ち帰って置いておいたのだが、しばらくしたら更に凶暴な連中が宙からばらばら落ちてきてさあ大変、と。
団地をうろうろしている頭も品も悪そうな連中なので、そんなエイリアンみたいな獣と取っ組み合うなよ、とか、死骸をわざわざ持ち帰るんじゃねえよ、とか思うのだが、ぜんぜん聞こうともしないでぶいぶいいきがっている、そのかんじがよいの。
エイリアンはでっかいゴリラみたいで黒い毛がはえてて、目が見えないようで、鋭い歯が蛍光緑に光って、四つ足で走って追いかけてくる。
エイリアンとか思わずに、凶暴な獣と思えば思えなくもなくて、そうすると、映画の向かう先もエイリアンとのバトル、とか言うよか、凶暴な獣と団地のガキ共の喧嘩、縄張り争い - やられたらやりかえせ - みたいなところに落ちてきて、でもだからといってつまんないかというとそんなことは全然なくて、すごくおもしろかったりする。
エイリアン侵略モノというよりは団地のガキの騒動に毛むくじゃらの獣が絡んできたような。
連中が根城にしている団地、というのもポイントで、四角四面でどのフロアもどの部屋も等しく同じで、でも老人も子供もいろんな人たちが暮らしていて、彼らもそんな家族の一部として暮らす、というのと同時に、そのなかに暮らすワル組織の一部である、という、緩くて半生な関係のなかに縛られた、でも一応ごろつきなんである、と。
で、そういう連中であるから、すごく強かったり、団結して小賢しかったりすることもなく、びくびくして逃げ回るか、強がって攻めるか、押しと引きのやりとりがおもしろい。 そしてそこに、冒頭でひったくりにあった看護師のおねえさんが不機嫌に巻込まれて挟まっているの。 分別ある大人なんてただのひとりも出てこない。
この設定でゾンビ、という線もあったのかもしれないが、そうはしなかった。
ゾンビだと入ってくるに違いない「感染」ていうちょっとウェットな要素を、エイリアンものだと一応蹴散らすことができて(勝手に落ちてくるんじゃねーよ)、結果少しだけ軽くできる。 この作品に関してはその軽さがよい方向に効いている。 この辺のセンスのよさはちょっと英国、かも。
最近の団地もの、おもしろいかも。 インドネシアの"The Raid"もそうだし、日本の『孤独な惑星』もそうだし。
アメリカの団地はあまりに草ぼうぼうで殺伐としすぎてて絵にならないかんじだけど、英国とかアジアの団地はなんかいい。 あんま住みたくはないけど。
Nick Frostさんは、ここんとこゾンビとか宇宙から来たやつとか、そんなのしか相手にしていないねえ。
終わってしまうといえばシネパトスも終わってしまうらしいのだった。 すごく思い入れのある映画館、というほど通ってはいないのだが、あの雰囲気がなくなってしまうのはいやだな。 ただでさえ最近の銀座って、ぜんぜんいかす方に行っていないとおもうし。
ロンドンの南のはずれ(Oval stって見えた)の団地で、そこらをごろついているガキ共が、おねえさんからひったくったりしていると隕石みたいのが落ちてきて、車にぶち当たって穴を開けたので、車もいただき、と中を覗いたら変なのが出てきたので取っ組みあってやっつけたら、相手はエイリアンみたいな見たことない生き物だった。 動かなくなったそいつを団地のたまり場に持ち帰って置いておいたのだが、しばらくしたら更に凶暴な連中が宙からばらばら落ちてきてさあ大変、と。
団地をうろうろしている頭も品も悪そうな連中なので、そんなエイリアンみたいな獣と取っ組み合うなよ、とか、死骸をわざわざ持ち帰るんじゃねえよ、とか思うのだが、ぜんぜん聞こうともしないでぶいぶいいきがっている、そのかんじがよいの。
エイリアンはでっかいゴリラみたいで黒い毛がはえてて、目が見えないようで、鋭い歯が蛍光緑に光って、四つ足で走って追いかけてくる。
エイリアンとか思わずに、凶暴な獣と思えば思えなくもなくて、そうすると、映画の向かう先もエイリアンとのバトル、とか言うよか、凶暴な獣と団地のガキ共の喧嘩、縄張り争い - やられたらやりかえせ - みたいなところに落ちてきて、でもだからといってつまんないかというとそんなことは全然なくて、すごくおもしろかったりする。
エイリアン侵略モノというよりは団地のガキの騒動に毛むくじゃらの獣が絡んできたような。
連中が根城にしている団地、というのもポイントで、四角四面でどのフロアもどの部屋も等しく同じで、でも老人も子供もいろんな人たちが暮らしていて、彼らもそんな家族の一部として暮らす、というのと同時に、そのなかに暮らすワル組織の一部である、という、緩くて半生な関係のなかに縛られた、でも一応ごろつきなんである、と。
で、そういう連中であるから、すごく強かったり、団結して小賢しかったりすることもなく、びくびくして逃げ回るか、強がって攻めるか、押しと引きのやりとりがおもしろい。 そしてそこに、冒頭でひったくりにあった看護師のおねえさんが不機嫌に巻込まれて挟まっているの。 分別ある大人なんてただのひとりも出てこない。
この設定でゾンビ、という線もあったのかもしれないが、そうはしなかった。
ゾンビだと入ってくるに違いない「感染」ていうちょっとウェットな要素を、エイリアンものだと一応蹴散らすことができて(勝手に落ちてくるんじゃねーよ)、結果少しだけ軽くできる。 この作品に関してはその軽さがよい方向に効いている。 この辺のセンスのよさはちょっと英国、かも。
最近の団地もの、おもしろいかも。 インドネシアの"The Raid"もそうだし、日本の『孤独な惑星』もそうだし。
アメリカの団地はあまりに草ぼうぼうで殺伐としすぎてて絵にならないかんじだけど、英国とかアジアの団地はなんかいい。 あんま住みたくはないけど。
Nick Frostさんは、ここんとこゾンビとか宇宙から来たやつとか、そんなのしか相手にしていないねえ。
7.25.2012
[film] Man on a Ledge (2012)
21日の土曜日、『影の列車』に続けて六本木で見ました。 『崖っぷちの男』。しゃれにならないー。
すんごく見たい1本、てわけでもなかったのだが、主人公の男が上映時間中、ほとんどずっと立っている窓台は、Roosevelt Hotelで、実際そこで撮られたのだと。
あのホテルは、泊まったことはないけど、あの前の通り(45th st)だったら、2000回以上は行ったりきたりしているはずなので、そりゃ見てあげないと、と。
無実なのに入れられちゃったぽい男がシンシン刑務所に入っていて、父親の葬儀のため監視つきで外に出たとこで騒ぎ起こして逃走してどこかの小屋で支度して(つまり準備していた、と)、次にホテルのロビーに現れて21階の部屋にチェックインする。
お食事をしてお祈りをしてから男は窓をあけて(あんなふうに開くのかなあ)、窓枠に立って、そうすると下の通りにいた人々が気づいて(あんなふうに気づくかなあ)、大騒ぎになって、警察が来るの。 警察は交渉人(Elizabeth Banksさん)を立てて、裏で男が何者で、一体なにをしようとしているのかを探りはじめる。 それと同時に隣のビルでなんかの動きがあって、それと男の動きや彼の起こした騒ぎが連係していることがだんだんわかってくる。
すごいどんでん返しがあるわけではなくて、時間の経過と会話の進行と共に全貌が見えてくるやつなので筋を書くのは難しいが、よく練られていて面白かったです。
二番館とか飛行機とかでみて、おおあたり、ぱちん、て指を鳴らすようなやつね。
閉じた人間関係・環境のなかでじりじり進んでいく、というよりは21階から見下ろした下界とそこに集まってきた野次馬、ひとつのホテルと隣のビル、警察内のあれこれ - 狭いような広いような縦横天地 - を巻込んで行ったり来たり転がっていくストーリーが楽しい。
更には、シンシンからMidtownのホテル、更にはWall Stへと繋がっていく世界、とか。
ものすごく強いひと、ものすごく悪賢いひとは出てこない、みんななにかしら裏に傷みたいのを抱えているか、ぼんくらのどっちかで、「計画」もそんなかっちりしているわけではなくて、窓の縁を小走りするようなすれすれで進行していく。 いろんな意味で「崖っぷち」なのは彼ひとりではないの。(彼が眼下の群集に喝采されるシーンがあるし)
Roosevelt Hotelの45thを挟んで南側のビルの1階には、Paul StewartとJ.Crew(出張が延びたときにシャツとかを買うとこ)があるのだが、上から見た構図のなかには入っていないように見えた。修正とかされていたのかしら。
俳優さんは地味だけどみんなよかった。
Avatar(Sam Worthington)の弟がTintin(Jamie Bell)なんだよ。
あと、Edward Burnsさんが久々に見れて嬉しかった。
すんごく見たい1本、てわけでもなかったのだが、主人公の男が上映時間中、ほとんどずっと立っている窓台は、Roosevelt Hotelで、実際そこで撮られたのだと。
あのホテルは、泊まったことはないけど、あの前の通り(45th st)だったら、2000回以上は行ったりきたりしているはずなので、そりゃ見てあげないと、と。
無実なのに入れられちゃったぽい男がシンシン刑務所に入っていて、父親の葬儀のため監視つきで外に出たとこで騒ぎ起こして逃走してどこかの小屋で支度して(つまり準備していた、と)、次にホテルのロビーに現れて21階の部屋にチェックインする。
お食事をしてお祈りをしてから男は窓をあけて(あんなふうに開くのかなあ)、窓枠に立って、そうすると下の通りにいた人々が気づいて(あんなふうに気づくかなあ)、大騒ぎになって、警察が来るの。 警察は交渉人(Elizabeth Banksさん)を立てて、裏で男が何者で、一体なにをしようとしているのかを探りはじめる。 それと同時に隣のビルでなんかの動きがあって、それと男の動きや彼の起こした騒ぎが連係していることがだんだんわかってくる。
すごいどんでん返しがあるわけではなくて、時間の経過と会話の進行と共に全貌が見えてくるやつなので筋を書くのは難しいが、よく練られていて面白かったです。
二番館とか飛行機とかでみて、おおあたり、ぱちん、て指を鳴らすようなやつね。
閉じた人間関係・環境のなかでじりじり進んでいく、というよりは21階から見下ろした下界とそこに集まってきた野次馬、ひとつのホテルと隣のビル、警察内のあれこれ - 狭いような広いような縦横天地 - を巻込んで行ったり来たり転がっていくストーリーが楽しい。
更には、シンシンからMidtownのホテル、更にはWall Stへと繋がっていく世界、とか。
ものすごく強いひと、ものすごく悪賢いひとは出てこない、みんななにかしら裏に傷みたいのを抱えているか、ぼんくらのどっちかで、「計画」もそんなかっちりしているわけではなくて、窓の縁を小走りするようなすれすれで進行していく。 いろんな意味で「崖っぷち」なのは彼ひとりではないの。(彼が眼下の群集に喝采されるシーンがあるし)
Roosevelt Hotelの45thを挟んで南側のビルの1階には、Paul StewartとJ.Crew(出張が延びたときにシャツとかを買うとこ)があるのだが、上から見た構図のなかには入っていないように見えた。修正とかされていたのかしら。
俳優さんは地味だけどみんなよかった。
Avatar(Sam Worthington)の弟がTintin(Jamie Bell)なんだよ。
あと、Edward Burnsさんが久々に見れて嬉しかった。
7.24.2012
[film] Tren de Sombras (1997)
21日の土曜日、髪切ってから見ました。 とにかく天気がひどすぎる、って何回書けば。
José Luis Guerín映画祭の、最後の(まだ見てないの残ってるけど。ああイニスフリー)、この期間内では最後の1本。 『影の列車』。
20~30年代に実在し、突然消えてしまった映画作家の家に残されていたフィルムを発見し、それを修復した、という説明が冒頭字幕で入って、以降、ナレーションも説明字幕も一切入らない。
最初は、この修復されたと思われる16mmフィルムそのものが流されていく。 田舎の風景、そこに暮らす映画作家とその家族のポートレート、など。 湖、ボート、ブランコ、女の子、男の子ふたり、自転車、そして列車。
その後でフィルムに映し出された田舎の現代の姿、車がびゅんびゅん走り、線路は草で覆われて、羊がいて、などが出てきて、カメラは今も遺されている映画作家の家に入っていく。 そこで作家が見たであろう窓からの光、夜の光景、雨、嵐、それらの音、などなどが映し出され、そうしていくと突然、作家が知覚したであろう光景がこっちのフィルム上に転移・侵入してくる(ように見える)。 フィルムの修復工事(工事中)を通して、過去の作家が見ようとした風景を現代の作家が見い出そうとするそのプロセスの只中で、(再び)見出される時、ふたりの焦点が合って、衝突しあうノイズが消えたその瞬間に起こることが起こるの。
映画を見るときに頭のなかに起こることって、こういうことだよね、というのをおいしい食べ物をゆっくりと咀嚼するみたいに見せてくれる。
自分の知覚域、自分の時間にはない別の時間と世界がなだれこんでくる、その瞬間の官能とその持続と。
『ベルタのモチーフ』もこの『影の列車』も、どこか遠くの隠れ里みたいなところで、魔法のようにそれは起こった。
『シルビアのいる街で』は、そういうのって都市の雑踏のなかでも起こるのだろうか? という問いかけだった。
あるいは、『ベルタのモチーフ』にあった3つの世界 - 子供の世界 - 大人の世界 - 映画の世界 - がここにもあるとか、ドキュメンタリーとフィクションのサンドイッチ構造について云々することもできるのかもしれないが、どれも割とどうでもいい。 とにかくうっとり陶然となって涎たらしてた。
ホラーでよく使われる手口のを、ホラーとは全く逆の甘美で緩やかな時間のなかにドラマチックに描こうとした。 いや、それは見方によっては十分ホラーかもしれなくて、実際幽霊みたいのも見えてしまうのだが、それでも美しいんだし、「彼ら」が蘇ることになんの問題があるだろうか。
朽ちていく16mmフィルム、そういうのに対する思い入れ、というのは確かにあって、それってなんだろう、と。
記憶の修復、思ひ出のあれこれを撚り集めて、あれってあんなだったかも、というひとかたまりの記憶とかイメージを作っていく作業って、フィルムの修復と似ているのか違うのか。 例えば今の子供たちが50年後にデジタル素材のなかに見るであろう自分達の家族の記憶、その色や明るさと自分達のはどれくらい違うのか。 腐食なんかとは無縁のデジタル素材は、我々の記憶のありようにどういう影響を与えるのかしら。
とりあえず、自分には関係ないからデジタルいらない、としていいや。
なんとなく、Jonathan Carrollの『死者の書』を思い出した。 他にもあるだろうけど。
あそこでも、列車は重要なイメージとしてあったよねえ。
あとは、音楽がとてつもなくすばらしくて、ずっと鳥肌がたってた。
シェーンベルクの『浄められた夜』があんなにもかっこよく、荘厳に鳴る映画があっただろうか。
ぜんぜん関係ないけど、ピランデッロの『カオス・シチリア物語』の翻訳が、なんで今頃でてるわけ?
25年おそいんじゃねえか。
José Luis Guerín映画祭の、最後の(まだ見てないの残ってるけど。ああイニスフリー)、この期間内では最後の1本。 『影の列車』。
20~30年代に実在し、突然消えてしまった映画作家の家に残されていたフィルムを発見し、それを修復した、という説明が冒頭字幕で入って、以降、ナレーションも説明字幕も一切入らない。
最初は、この修復されたと思われる16mmフィルムそのものが流されていく。 田舎の風景、そこに暮らす映画作家とその家族のポートレート、など。 湖、ボート、ブランコ、女の子、男の子ふたり、自転車、そして列車。
その後でフィルムに映し出された田舎の現代の姿、車がびゅんびゅん走り、線路は草で覆われて、羊がいて、などが出てきて、カメラは今も遺されている映画作家の家に入っていく。 そこで作家が見たであろう窓からの光、夜の光景、雨、嵐、それらの音、などなどが映し出され、そうしていくと突然、作家が知覚したであろう光景がこっちのフィルム上に転移・侵入してくる(ように見える)。 フィルムの修復工事(工事中)を通して、過去の作家が見ようとした風景を現代の作家が見い出そうとするそのプロセスの只中で、(再び)見出される時、ふたりの焦点が合って、衝突しあうノイズが消えたその瞬間に起こることが起こるの。
映画を見るときに頭のなかに起こることって、こういうことだよね、というのをおいしい食べ物をゆっくりと咀嚼するみたいに見せてくれる。
自分の知覚域、自分の時間にはない別の時間と世界がなだれこんでくる、その瞬間の官能とその持続と。
『ベルタのモチーフ』もこの『影の列車』も、どこか遠くの隠れ里みたいなところで、魔法のようにそれは起こった。
『シルビアのいる街で』は、そういうのって都市の雑踏のなかでも起こるのだろうか? という問いかけだった。
あるいは、『ベルタのモチーフ』にあった3つの世界 - 子供の世界 - 大人の世界 - 映画の世界 - がここにもあるとか、ドキュメンタリーとフィクションのサンドイッチ構造について云々することもできるのかもしれないが、どれも割とどうでもいい。 とにかくうっとり陶然となって涎たらしてた。
ホラーでよく使われる手口のを、ホラーとは全く逆の甘美で緩やかな時間のなかにドラマチックに描こうとした。 いや、それは見方によっては十分ホラーかもしれなくて、実際幽霊みたいのも見えてしまうのだが、それでも美しいんだし、「彼ら」が蘇ることになんの問題があるだろうか。
朽ちていく16mmフィルム、そういうのに対する思い入れ、というのは確かにあって、それってなんだろう、と。
記憶の修復、思ひ出のあれこれを撚り集めて、あれってあんなだったかも、というひとかたまりの記憶とかイメージを作っていく作業って、フィルムの修復と似ているのか違うのか。 例えば今の子供たちが50年後にデジタル素材のなかに見るであろう自分達の家族の記憶、その色や明るさと自分達のはどれくらい違うのか。 腐食なんかとは無縁のデジタル素材は、我々の記憶のありようにどういう影響を与えるのかしら。
とりあえず、自分には関係ないからデジタルいらない、としていいや。
なんとなく、Jonathan Carrollの『死者の書』を思い出した。 他にもあるだろうけど。
あそこでも、列車は重要なイメージとしてあったよねえ。
あとは、音楽がとてつもなくすばらしくて、ずっと鳥肌がたってた。
シェーンベルクの『浄められた夜』があんなにもかっこよく、荘厳に鳴る映画があっただろうか。
ぜんぜん関係ないけど、ピランデッロの『カオス・シチリア物語』の翻訳が、なんで今頃でてるわけ?
25年おそいんじゃねえか。
7.23.2012
[film] This Must Be the Place (2011)
20日、金曜日の晩、ううう首相官邸前...とか思いつつこの体調で人混みのなかに行ったらしぬ気がしたので、「きっとここが...」とか後ろめたく思いつつ、銀座で見ました。
『きっとここが帰る場所』。
引退してアイルランドのお屋敷でよぼよぼと隠遁しているロックスターのCheyenneは、いまだに長髪でメイクで革ジャンで、つまり輝きを失って壊れたロックスターそのままの生活 - 街のみんなが彼が彼であることを知っているが、笑いの対象にしかならない - を送っている。 そんな彼が父親危篤の報を受けてNew Yorkに(船で。なんで船?)戻ってみると父親は既に亡くなっていて、彼は父がその最期まで自分に辱めを与えたナチスの戦犯を追っていたことを知る。 で、Cheyenneはいくつかの手がかりと戦犯追跡のプロのおじいさんの力を借りて、既に亡くなっているかもしれない旧戦犯を追って西に向かう。
15歳のときに家を飛びだして以来、一切関わりを持たなかった父親への償いに彼の仇をうつ、というのが最初の動機としてあったのかもしれない。 だから途中でものすごく痛い思いをするでっかい銃を買ったりする。
でも、旅の過程で各地に点在する旧戦犯の家族と会ったり、旧戦犯本人と会ったりして彼のなかで変わってくるものがある。
彼の父親が生涯かけて追いかけていった(でも、やろうと思えばできたであろうに殺さなかった)相手と、追いかけていったその理由を(父親の声が至るところで被さってくる)、旧戦犯が過去から逃げ去るように置き去りにしてきた家族を、彼らにとっての"Home"を知ることで。
ものすごく紋切型の、どこにでもありそうなロードムーヴィーだし、わかりやすい自分発見の旅だし、画面も色も音もわざとらしくきんきん作りこんであるし、ぜんぜん好きになれないタイプの映画のはずなのに、ぎりぎりで嫌いになれないのはなぜなのだろう、と。
おそらく、Cheyenneのキャラクターがきちんと描かれているからだ。
いやいや、彼のキャラクターこそ、わざとらしい作りこみの、紋切型の極致ではないか、と言うかもしれない。 でも、ああいう「ロックスター」はまちがいなくその辺にいる、作りあげられたイメージから逃れられず、体は老いて顔はしわしわなのにピュアなロックスピリット(恥)に拘り続けて、未だに自分の親とまともな会話のひとつもできないままの「子供」はいっぱいいるのではないか。
そして映画は、そういう彼らに対する救いも導きも啓示ももたらすことなく、Cheyenneとその父親(達)の物語を、ナチズムからロックンロールへと至る"Home"をめぐる迫害と逃走の旅として敷延してみせる。 彼らのいう"Home"は我々にとっても普遍的な"Home"足りうるのか、というのはとりあえず置いておくとして。 少なくとも世界には"This Must Be the Place"と呼びうる場所が - それを「帰る場所」と呼んでよいのかどうかは別だとおもうが - あるのだ、ということを忘れないように、と。
で、その旅のサウンドトラックとして流れているのがバンド"Pieces Of Shit"の音であるという -
ラストはたぶんもういっこ考えられて、それはリードギターが勝手に走っていかないタイトなロックバンドの復活 - もうメイク不要のロックシンガーの帰還、になったはずだ。 でもそれだとわかり易すぎてつまんないか。
あとね、『ものすごくうるさくて...』の映画版は、ほんとはこんなふうに撮られるべきだったのではないか、と思う。
David ByrneとWill OldhamによるThe Pieces Of Shitな音楽は文句なしに素晴らしいのだが、ラストに降り注ぐGavin Fridayの"Lord I'm Coming"が泣きたくなるくらいによい。
Cheyenneの外見のモデルは誰なのか、Robert Smithあたりかなあ、とか思ったが本人が聞いたら怒るかしら。
それにしても、ライブに行けていないので全身が干上がってしにそうだわ。
今日のMark Kozelekも行けなかった...
FRFも3日めだけでいいのにチケットなんかどこにもありゃしない。
『きっとここが帰る場所』。
引退してアイルランドのお屋敷でよぼよぼと隠遁しているロックスターのCheyenneは、いまだに長髪でメイクで革ジャンで、つまり輝きを失って壊れたロックスターそのままの生活 - 街のみんなが彼が彼であることを知っているが、笑いの対象にしかならない - を送っている。 そんな彼が父親危篤の報を受けてNew Yorkに(船で。なんで船?)戻ってみると父親は既に亡くなっていて、彼は父がその最期まで自分に辱めを与えたナチスの戦犯を追っていたことを知る。 で、Cheyenneはいくつかの手がかりと戦犯追跡のプロのおじいさんの力を借りて、既に亡くなっているかもしれない旧戦犯を追って西に向かう。
15歳のときに家を飛びだして以来、一切関わりを持たなかった父親への償いに彼の仇をうつ、というのが最初の動機としてあったのかもしれない。 だから途中でものすごく痛い思いをするでっかい銃を買ったりする。
でも、旅の過程で各地に点在する旧戦犯の家族と会ったり、旧戦犯本人と会ったりして彼のなかで変わってくるものがある。
彼の父親が生涯かけて追いかけていった(でも、やろうと思えばできたであろうに殺さなかった)相手と、追いかけていったその理由を(父親の声が至るところで被さってくる)、旧戦犯が過去から逃げ去るように置き去りにしてきた家族を、彼らにとっての"Home"を知ることで。
ものすごく紋切型の、どこにでもありそうなロードムーヴィーだし、わかりやすい自分発見の旅だし、画面も色も音もわざとらしくきんきん作りこんであるし、ぜんぜん好きになれないタイプの映画のはずなのに、ぎりぎりで嫌いになれないのはなぜなのだろう、と。
おそらく、Cheyenneのキャラクターがきちんと描かれているからだ。
いやいや、彼のキャラクターこそ、わざとらしい作りこみの、紋切型の極致ではないか、と言うかもしれない。 でも、ああいう「ロックスター」はまちがいなくその辺にいる、作りあげられたイメージから逃れられず、体は老いて顔はしわしわなのにピュアなロックスピリット(恥)に拘り続けて、未だに自分の親とまともな会話のひとつもできないままの「子供」はいっぱいいるのではないか。
そして映画は、そういう彼らに対する救いも導きも啓示ももたらすことなく、Cheyenneとその父親(達)の物語を、ナチズムからロックンロールへと至る"Home"をめぐる迫害と逃走の旅として敷延してみせる。 彼らのいう"Home"は我々にとっても普遍的な"Home"足りうるのか、というのはとりあえず置いておくとして。 少なくとも世界には"This Must Be the Place"と呼びうる場所が - それを「帰る場所」と呼んでよいのかどうかは別だとおもうが - あるのだ、ということを忘れないように、と。
で、その旅のサウンドトラックとして流れているのがバンド"Pieces Of Shit"の音であるという -
ラストはたぶんもういっこ考えられて、それはリードギターが勝手に走っていかないタイトなロックバンドの復活 - もうメイク不要のロックシンガーの帰還、になったはずだ。 でもそれだとわかり易すぎてつまんないか。
あとね、『ものすごくうるさくて...』の映画版は、ほんとはこんなふうに撮られるべきだったのではないか、と思う。
David ByrneとWill OldhamによるThe Pieces Of Shitな音楽は文句なしに素晴らしいのだが、ラストに降り注ぐGavin Fridayの"Lord I'm Coming"が泣きたくなるくらいによい。
Cheyenneの外見のモデルは誰なのか、Robert Smithあたりかなあ、とか思ったが本人が聞いたら怒るかしら。
それにしても、ライブに行けていないので全身が干上がってしにそうだわ。
今日のMark Kozelekも行けなかった...
FRFも3日めだけでいいのにチケットなんかどこにもありゃしない。
7.22.2012
[film] Hearts and Crafts (2011)
三連休ずっと映画ばっかりというのもさすがにいいかげんにすれば、なかんじがしてきて、でも他にはなんもやるきおこんない(天気のせいさ)ので、月曜日は渋谷でこれ1本だけ見ました。 42分だし、800円だし。
エルメスというブランドのPV。 でも大層なブランドイメージをあれこれして人を小馬鹿にするようなやつではなくて、そこで働く職人さん達の仕事と彼らの声を地味に紹介していく。
馬具、スカーフの下書き、色作り、色付け、皮を読む人、皮を切るひと、クリスタル、などなど、素材も道具もぜんぶ違うのだがそこに携わる職人さんの眼差し、職人さんを目指すひとの眼差しは皆おなじように誇りをもって静かに燃えていて、ああなんて素敵なのかしら、とおもった。
いろんな人たちがいて、政治亡命してきたひとも、声が出ないひとも、アジアの少数民族のひとも、50過ぎて転職したひともいる。 そうするとね、これだけいろんな人たちがいるのだったら、その裏でうまくいっていなくてどんよりの人たちも相当数いるんだろうなー、ってつい心配してしまう。
ふつうの心配だけどね、ぜんぜんひとごとじゃないんだけどね。
構図も含めて極めてクールにまとめられたその映像は、その端正さ故にいろんなことを(極めて自然に)語ってくれる。声が映像とは別のオーバーダブのが多くて、だからほんとに彼らの正しい「声」なのか疑わしい、それでも、映像だけだったとしても見えてくるものはあって、これはこれでドキュメンタリーのよいかたちなのかも。
どうでもよいけど、スカーフのグラフィックを作っているのってAppleではなくてHPのPCだったねえ。
エルメスというブランドのPV。 でも大層なブランドイメージをあれこれして人を小馬鹿にするようなやつではなくて、そこで働く職人さん達の仕事と彼らの声を地味に紹介していく。
馬具、スカーフの下書き、色作り、色付け、皮を読む人、皮を切るひと、クリスタル、などなど、素材も道具もぜんぶ違うのだがそこに携わる職人さんの眼差し、職人さんを目指すひとの眼差しは皆おなじように誇りをもって静かに燃えていて、ああなんて素敵なのかしら、とおもった。
いろんな人たちがいて、政治亡命してきたひとも、声が出ないひとも、アジアの少数民族のひとも、50過ぎて転職したひともいる。 そうするとね、これだけいろんな人たちがいるのだったら、その裏でうまくいっていなくてどんよりの人たちも相当数いるんだろうなー、ってつい心配してしまう。
ふつうの心配だけどね、ぜんぜんひとごとじゃないんだけどね。
構図も含めて極めてクールにまとめられたその映像は、その端正さ故にいろんなことを(極めて自然に)語ってくれる。声が映像とは別のオーバーダブのが多くて、だからほんとに彼らの正しい「声」なのか疑わしい、それでも、映像だけだったとしても見えてくるものはあって、これはこれでドキュメンタリーのよいかたちなのかも。
どうでもよいけど、スカーフのグラフィックを作っているのってAppleではなくてHPのPCだったねえ。
[film] A計劃 (1984)
15日の日曜日、"Convoy"に続けて見ました。 『プロジェクトA』。
こういうのは2本続けて見るのがふつうなんだよ。
公開時にはもちろん見てるし、名画座の二本立ての併映によく入ったりしていたので、結構見ているほうかも。
筋とかはいいよね。海上警察のジャッキーが海賊と戦うんだよ。サモ・ハンもユン・ピョウもいるよ。 まだみんなぴちぴちでばりばりだよ。 昔のジャッキーはこんなにすごかったんだよ。
(自分らだってな…)
前半の酒場での乱闘とか路地での自転車追っかけとかは、無条件に楽しいし、すごいと思う。
今でもがんばればできないことないのではと思うけど、だれもなかなか真似できてない。
ジャッキーが若い、とかそういうことよりも、有名な時計塔からの落っこちも含めて、ここには奇跡とか魔法とか、そうとしか言いようのないものすごい瞬間、今のアクション映画では滅多に見れなくなったような奇跡的な瞬間が沢山詰めこまれている。
でも肝心のA計画のとこはそんなでもないの。 計画通りにいかない、というか計画なんて最初からどうでもいいのよね。 合言葉のやりとりとかが面白いとかその程度で、最後なんて3人がかりでよってたかって簀巻きにして爆弾でこっぱみじんて、あんましではないか、とか。
やっぱしねえ、ジャッキーとサモ・ハンが並んでぎーってするとことか、血が騒ぐよね。
最近のジャッキーみて、あうーってなるのとは逆に。
でもこれを見て唸りまくっていた当時、25年後の彼らがどうなるかなんて、想像つかなかったよねえ。
(自分らだってな…)
こういうのは2本続けて見るのがふつうなんだよ。
公開時にはもちろん見てるし、名画座の二本立ての併映によく入ったりしていたので、結構見ているほうかも。
筋とかはいいよね。海上警察のジャッキーが海賊と戦うんだよ。サモ・ハンもユン・ピョウもいるよ。 まだみんなぴちぴちでばりばりだよ。 昔のジャッキーはこんなにすごかったんだよ。
(自分らだってな…)
前半の酒場での乱闘とか路地での自転車追っかけとかは、無条件に楽しいし、すごいと思う。
今でもがんばればできないことないのではと思うけど、だれもなかなか真似できてない。
ジャッキーが若い、とかそういうことよりも、有名な時計塔からの落っこちも含めて、ここには奇跡とか魔法とか、そうとしか言いようのないものすごい瞬間、今のアクション映画では滅多に見れなくなったような奇跡的な瞬間が沢山詰めこまれている。
でも肝心のA計画のとこはそんなでもないの。 計画通りにいかない、というか計画なんて最初からどうでもいいのよね。 合言葉のやりとりとかが面白いとかその程度で、最後なんて3人がかりでよってたかって簀巻きにして爆弾でこっぱみじんて、あんましではないか、とか。
やっぱしねえ、ジャッキーとサモ・ハンが並んでぎーってするとことか、血が騒ぐよね。
最近のジャッキーみて、あうーってなるのとは逆に。
でもこれを見て唸りまくっていた当時、25年後の彼らがどうなるかなんて、想像つかなかったよねえ。
(自分らだってな…)
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