15日の日曜日は京橋でした。
NFCがこんなのやるんだー、と誰もがへええーになった特集 『ロードショーとスクリーン ブームを呼んだ外国映画』。
まあ行くよね。 TSUTAYAに行けば借りられるのかもしれないが、最近の名画座はこんな半端なやつなかなかやってくれないし。
MOTの特撮のと同じく元気をなくしている中年たちを回顧モードで更に後退させようという国家機関の策略なのだろうが、おもしろけりゃなんだっていいわ(← というくらいに後ろ向き)。
例えば、時代の偏差はあるにせよ、A級/B級ていう区分でいうとこれらの映画の殆どは当時A級のほうだったはずだ。 はずだったのに、ラインナップ全体を見渡した時にかんじる、このなんとも言えないB級感はなんなのだろうか。
でもねえ、これらの「洋画」は間違いなく「世界」- それがどんな世界だったにせよ - への入り口として、その風味を教えてくれるものとして機能したのである。 はじまりは78年の『Star Wars』とか『未知との遭遇』あたりだったと思うが、とにかく一日中映画館の暗闇にどっぷり浸かって浸って、マッシュポテトってなに? とか想像して遊ぶことができたの。 座席指定、各回入替が普通の時代の子供達はかわいそうだよねえ。
雑誌でいうと、わたしは断固「スクリーン」派でした。 「ロードショー」はメジャーでガキむけなかんじだったし、スクリーンにはたまにポルノとか載ってたのよね。
あと、これと同系の網羅的な特集としてはFilm Forumでやってるこれをなんといっても見たい。
http://www.filmforum.org/movies/more/universal_100
前置きが長くなりましたが、"Conboy"。
こないだの"The Longest Yard"(1974)と続けてみれば、りっぱな反体制活動家(でもがさつでだらしない)になれる。
楽しく一緒に街道を走っていたらねちねちした警察野郎(追悼:Ernest Borgnine)にいじめられたので頭きてちょっかい出したら大騒動になっちゃった系の。
大義とか正義とかはあまり関係なくて、暴走族がつるんで暴れるのとも違って、こちとら仕事してんだから邪魔すんじゃねーよ、というのと、困っているんならみんなで助け合おうじゃねえか、えいえいえおー、程度の軽いかんじの。 そんなふうに背景は結構軽いし適当なのだが、とにかく道路をトラックが埋め尽くしてしまうその様だけがひたすら圧巻ですごい、連中を怒らせたらこんなんなっちゃうんだから、それだけ見ておけ、ていうの。
これはこの時代の"Unstoppable"でもあって、隊列を組んでいようが列から離れようが、とにかく彼らは止まらない。 誰ひとり、権力と調和することも権力に回収されることもなく、道路と車があったら走るしかないんだぜ! ていうそういうやつ。
エコとか環境がうるさくなった今の時代には作れなくなってしまった作品でもある。
でも、権力に抗うときの基本的な態度、みたいなのはしっかり教えてくれる。
Kris Kristofferson、ひとりだけかっこよすぎだけど。
音楽はベースがぶんぶんすごいのでやっぱし爆音で見たいねえ。
7.21.2012
7.19.2012
[film] La Frontière de l'Aube (2008)
14日の土曜日、"Guest"が終わってイメージフォーラムの階段を駆けあがり、そのまま上の階の部屋で見ました。
『愛の残像』。 英語題は"Frontier of the Dawn"。
ストーリーはシンプルで、カメラマンのFrançois (Louis Garrel)が撮影で女優のCarole(Laura Smet)と出会ってふたりは恋に落ちて親密になるのだが、彼女には滅多にやってこない夫がいて、そういうのが嫌になって彼は彼女から離れてしまい、彼女は辛くなって精神病院に入って、退院するのだがそこで服毒自殺してしまう。 彼は彼女から別れたあと、別の女性と付き合いはじめて、子供ができたので結婚することにしたのだが、鏡の向こうにCaroleが出てくるようになって、こっちに来て、という。 ずっと一緒にいるっていったじゃん、と。
出てきたのはCaroleの幽霊なのか、罪悪感を感じているFrançoisの無意識なのか、それは割とどうでもよいことで、映画は生前よりも遥かに生々しく、力強く鏡の向こうに現れるCaroleの姿を描き、やがて結婚式の朝、Caroleのところに旅立ったFrançoisを描いて終わる。
そこには不思議も謎も狂気も呪いもなにもない。 何かを隔てて向こう側とこちら側に置かれた恋人たちが再び一緒になる、それだけの。
それは、闇と光がせめぎあう夜明けの時間、その突端でいつも起こっていること。
Garrelの映画では、(たとえ永遠に失われたものであっても)いつもふたりが一緒にいる、一緒につるんで画面のなかに映りこんでいることが大きな意味を持っていて、このふたりだけの白と黒の時間を創りだすことが、彼にとっての映画であり、そうやって創りだされた時間はCaroleの言うようにずっと「あなたの夢に隠れている」ことになるの。
怪談でもなく、光に溢れているわけでもないのだが、夏の映画だった。
明るい話ではないのに、何故かとても力強い。
Louis Garrelが見事なのはいつものこと(いつもPhilippe Garrelの分身とか言われててかわいそうかもしれないが、でもあれほどのどよーんとした分身感を出せるひともいない)だが、この作品についてはLaura Smetがなんといってもとんでもない。
彼女が板の間にごろんと転がって「会いたいー」とか悶々しているところのぬめーっとしたかんじとか。 Femme Fataleとかいうよりも、彼女のなまえのついた動物のようなかんじ。
William Lubtchanskyのカメラがすばらしいのと、その画面を切り裂くように鳴り渡るDidier Lockwoodのヴァイオリンもまた。
『愛の残像』。 英語題は"Frontier of the Dawn"。
ストーリーはシンプルで、カメラマンのFrançois (Louis Garrel)が撮影で女優のCarole(Laura Smet)と出会ってふたりは恋に落ちて親密になるのだが、彼女には滅多にやってこない夫がいて、そういうのが嫌になって彼は彼女から離れてしまい、彼女は辛くなって精神病院に入って、退院するのだがそこで服毒自殺してしまう。 彼は彼女から別れたあと、別の女性と付き合いはじめて、子供ができたので結婚することにしたのだが、鏡の向こうにCaroleが出てくるようになって、こっちに来て、という。 ずっと一緒にいるっていったじゃん、と。
出てきたのはCaroleの幽霊なのか、罪悪感を感じているFrançoisの無意識なのか、それは割とどうでもよいことで、映画は生前よりも遥かに生々しく、力強く鏡の向こうに現れるCaroleの姿を描き、やがて結婚式の朝、Caroleのところに旅立ったFrançoisを描いて終わる。
そこには不思議も謎も狂気も呪いもなにもない。 何かを隔てて向こう側とこちら側に置かれた恋人たちが再び一緒になる、それだけの。
それは、闇と光がせめぎあう夜明けの時間、その突端でいつも起こっていること。
Garrelの映画では、(たとえ永遠に失われたものであっても)いつもふたりが一緒にいる、一緒につるんで画面のなかに映りこんでいることが大きな意味を持っていて、このふたりだけの白と黒の時間を創りだすことが、彼にとっての映画であり、そうやって創りだされた時間はCaroleの言うようにずっと「あなたの夢に隠れている」ことになるの。
怪談でもなく、光に溢れているわけでもないのだが、夏の映画だった。
明るい話ではないのに、何故かとても力強い。
Louis Garrelが見事なのはいつものこと(いつもPhilippe Garrelの分身とか言われててかわいそうかもしれないが、でもあれほどのどよーんとした分身感を出せるひともいない)だが、この作品についてはLaura Smetがなんといってもとんでもない。
彼女が板の間にごろんと転がって「会いたいー」とか悶々しているところのぬめーっとしたかんじとか。 Femme Fataleとかいうよりも、彼女のなまえのついた動物のようなかんじ。
William Lubtchanskyのカメラがすばらしいのと、その画面を切り裂くように鳴り渡るDidier Lockwoodのヴァイオリンもまた。
7.18.2012
[film] Guest (2010)
連休の初日の土曜日に見ました。 José Luis Guerín特集の1本。
『シルビアのいる街で』をいろんな国の映画祭に持っていった際にモノクロのデジタルカメラで撮った旅日記であり、「ドキュメンタリー」である。
今回、自身がカメラとなるGuerínは映画祭のGuestであると同時に、その国のそこに暮らす人たちにとってのGuestでもあって、それってそこで映画を撮ろうとする映画作家にとってどういうことなんだろうか、という内省が常につきまとう。
2007年のヴェネツィアから始まって2008年のヴェネツィアまで。
その間、渡りの足場としてのNew Yorkに行って、南米はコロンビア(ボゴタ、カリ)、チリ(サンチャゴ)、ブラジル(サンパウロ)、キューバ(ハバナ)、ペルー(リマ)、アジアではマカオと香港、最後にイスラエル。
ナレーションも地名の記載もない。 区切りのようなかたちで日付が入るが、ほんとうにその日に撮られた映像なのかは、わかりようがないし、わからなくても構わない。
New Yorkではメトロポリタン美術館の映像にWilliam Dieterleの『ジェニーの肖像』(1948)の冒頭のナレーションが被さる。
ものすんごくベタなんですけど、絶対これ、ずっと狙っててやってみたかったんだろうなー。
(この時点でもうぜんぜんドキュメンタリーのかんじじゃない)
Jonas Mekasとの対話のとこはカメラが緊張しているようで微笑ましい。 お話しのあと、ふたりが別れた地点は1st Aveの2nd stのとこ。メカス先生はそのまま職場(Anthology Film Archives)に向かったのではないかと。
アジアでも、南米のどこの都市に行っても、広場でキリストの支配(ヘロデ、サマリア、箱舟、などなど)を熱烈に説く人々がいる。
他にもいろんな忌わしい過去(大抵が植民地やテロリストによる支配)の話をする人たちに出会うのだが、このキリストの人たちはどこでも必ず現れて、大声で怒鳴りまくっている。
で、これが旅の最後のほうでイスラエルに到達して、ああそういうことね、とわかるのだが、じゃあ、と肝心のそのキリスト現場みたいなとこに行ってみても、そこにいるのは言葉の通じないガキだけだった、と。 (ここは笑ってあげてよい箇所だとおもう)
映画祭でのQ&Aセッションのシーンも少しだけ出てきて、そこでは必ず「ドキュメンタリーとフィクションの境界は?」みたいな質問が飛んでいる。 それにGuerínがどういう答えを返したのかは巧妙にオミットされていて、こいつー、てかんじなのだが、最後のヴェネツィアで登場するおばさん - Chantal Akerman - が、大声で「そんなのどっちだっていいのよ」なんて言ってざーっと流してしまう….
Chantal Akerman、こんなひとだったのかー。
例えば、この手のドキュメンタリーに求められがちの、対象にぐいぐい迫って何かを引き出してくるような押しの強さは感じられなくて、こっそり聞き出したお話しを後からこちょこちょ繋いで練りあげる"Guest"の慎ましやかな態度が印象に残る。
で、それでもそこにはモノクロ画面の構図の見事な美しさと、そこに映しだされる人々の強さ - 『工事中』もそうだったけど、そういうのを拾いあげてくる眼の確かさみたいのがあるの。
コロンビアのカリの、ほんとは110歳なのに100歳だと言い張るお婆さんにしても、ハバナの集合住宅のおじさんおばさん達にしても、マカオのおじいさんにしても、みんなほんとに素敵な佇まいで、これならキリスト来なくてもいいよ、とか思ってしまうのだった。
そういえば、ここで撮られた土地って、みんな『工事中』の範疇に入ると言ってもおかしくないのだな、ということに気付いて、更に、ここで撮られた素材はそれ自体が工事中のなにかとなって次の『メカス×ゲリン 往復書簡』 - ここでの対話はもはやGuestではありえない - に転がっていくの。
南米に行かなくなって10年以上になるのだが、もういっかい行きたいなー。
あと、『ジェニーの肖像』も、久しぶりに見たい。
『シルビアのいる街で』をいろんな国の映画祭に持っていった際にモノクロのデジタルカメラで撮った旅日記であり、「ドキュメンタリー」である。
今回、自身がカメラとなるGuerínは映画祭のGuestであると同時に、その国のそこに暮らす人たちにとってのGuestでもあって、それってそこで映画を撮ろうとする映画作家にとってどういうことなんだろうか、という内省が常につきまとう。
2007年のヴェネツィアから始まって2008年のヴェネツィアまで。
その間、渡りの足場としてのNew Yorkに行って、南米はコロンビア(ボゴタ、カリ)、チリ(サンチャゴ)、ブラジル(サンパウロ)、キューバ(ハバナ)、ペルー(リマ)、アジアではマカオと香港、最後にイスラエル。
ナレーションも地名の記載もない。 区切りのようなかたちで日付が入るが、ほんとうにその日に撮られた映像なのかは、わかりようがないし、わからなくても構わない。
New Yorkではメトロポリタン美術館の映像にWilliam Dieterleの『ジェニーの肖像』(1948)の冒頭のナレーションが被さる。
ものすんごくベタなんですけど、絶対これ、ずっと狙っててやってみたかったんだろうなー。
(この時点でもうぜんぜんドキュメンタリーのかんじじゃない)
Jonas Mekasとの対話のとこはカメラが緊張しているようで微笑ましい。 お話しのあと、ふたりが別れた地点は1st Aveの2nd stのとこ。メカス先生はそのまま職場(Anthology Film Archives)に向かったのではないかと。
アジアでも、南米のどこの都市に行っても、広場でキリストの支配(ヘロデ、サマリア、箱舟、などなど)を熱烈に説く人々がいる。
他にもいろんな忌わしい過去(大抵が植民地やテロリストによる支配)の話をする人たちに出会うのだが、このキリストの人たちはどこでも必ず現れて、大声で怒鳴りまくっている。
で、これが旅の最後のほうでイスラエルに到達して、ああそういうことね、とわかるのだが、じゃあ、と肝心のそのキリスト現場みたいなとこに行ってみても、そこにいるのは言葉の通じないガキだけだった、と。 (ここは笑ってあげてよい箇所だとおもう)
映画祭でのQ&Aセッションのシーンも少しだけ出てきて、そこでは必ず「ドキュメンタリーとフィクションの境界は?」みたいな質問が飛んでいる。 それにGuerínがどういう答えを返したのかは巧妙にオミットされていて、こいつー、てかんじなのだが、最後のヴェネツィアで登場するおばさん - Chantal Akerman - が、大声で「そんなのどっちだっていいのよ」なんて言ってざーっと流してしまう….
Chantal Akerman、こんなひとだったのかー。
例えば、この手のドキュメンタリーに求められがちの、対象にぐいぐい迫って何かを引き出してくるような押しの強さは感じられなくて、こっそり聞き出したお話しを後からこちょこちょ繋いで練りあげる"Guest"の慎ましやかな態度が印象に残る。
で、それでもそこにはモノクロ画面の構図の見事な美しさと、そこに映しだされる人々の強さ - 『工事中』もそうだったけど、そういうのを拾いあげてくる眼の確かさみたいのがあるの。
コロンビアのカリの、ほんとは110歳なのに100歳だと言い張るお婆さんにしても、ハバナの集合住宅のおじさんおばさん達にしても、マカオのおじいさんにしても、みんなほんとに素敵な佇まいで、これならキリスト来なくてもいいよ、とか思ってしまうのだった。
そういえば、ここで撮られた土地って、みんな『工事中』の範疇に入ると言ってもおかしくないのだな、ということに気付いて、更に、ここで撮られた素材はそれ自体が工事中のなにかとなって次の『メカス×ゲリン 往復書簡』 - ここでの対話はもはやGuestではありえない - に転がっていくの。
南米に行かなくなって10年以上になるのだが、もういっかい行きたいなー。
あと、『ジェニーの肖像』も、久しぶりに見たい。
7.17.2012
[film] Awesome; I Fuckin' Shot That! (2006)
金曜日の晩、眩暈と吐き気で死にそうだったのだが、とにかく吉祥寺に出て見ました。
爆音映画祭のラスト(後夜祭の手前)、シークレット上映作品『ビースティー・ボーイズ 撮られっぱなし天国』。
Adam Yauchさんが亡くなってもう2ヶ月、我々はちゃんと彼のことを追悼できていない。
みんなそれぞれ忙しいし戦っているし、彼はそんなのやるなって言うに決まっているから、誰もなんもやらないのだとおもうが、でも、追悼とは言わないまでも、彼から貰ったいろんなものに対してありがとうを言うくらいの場とか機会はほしい、と思っていたら爆音がやってくれた。
Beastie Boys、彼のいた3MCsのライブ映像を、彼が企画して、彼(Nathaniel Hörnblowér)が監督して、彼の作った会社(Oscilloscope Laboratories)がリリースした作品。
湿気がうっとおしくてしょうもない金曜の晩の90分、90分だけ、この映画をがんがんに鳴らして、体を揺らす、たった一回だけでもそういう機会を作ってくれた爆音の人たちに本当に感謝したい。
映画の話はいいよね。 ファン50人にHi8 Cameraを持たせて会場に散らして、好きなのを好きなように撮ってよし、けどカメラの電源だけは切るなよ、といって集まってきた映像をこまこま編集した60000カット(主催者発表)。
わたしは2004年10月9日、このライブの場にいた。 まんなかより後ろのステージ向かってやや右。だからどっかに後ろ頭くらい映っているかも、と今回もじーっと見てみたのだが、映ってはいないようだった。
それから、2006年3月28日、この映画の完成披露、NYプレミアの会場にもいた。(IMDBのこの映画のページに貼ってある写真はそのときのもの)
Adamさんの姿 - ばりばりのスーツだったけど - を見たのはこれが最後となってしまったのだなあ。
ライブ映像については、こんなもんかー、と。
客席に持ちこまれた50台のカメラがもたらしたのは、ものすごく革新的なアングルとか、インタラクティブうんたらな可能性とか、そんなのとは程遠い、男子便所からの実況とか、そんなようなもんでしかなかった。 しかし、それこそがBeastie Boysのライブのコアであるところの百姓一揆にも似た絞まりのなさ落着きのなさに直結するなにか、なのである。 これこそがU2とかColdplayとか、ライブ設備にばかみたいな投資をする代理店連中とはぜんぜんちがう、でも画期的ななんかなのである。 たぶん。
(このかんじを今週NYでプレミアされるLCD Soundsystemのラストライブの映像がどうかもっていますように...)
この映画が撮影された当時のことを、若い人たちには説明しといたほうがよいのかもしれない。
ブッシュの最初の4年 - 911を始めとして、とにかく最悪だった4年間が終わろうとしていて、大統領選の直前で、しかし彼の再選を阻止することは難しい、ケリーでは勝てないことが既に多くのひとには判っていた、そういう、どんよりと暗い時期にこのライブは撮られたの。
ラストの"Sabotage"があんなふうな、ライブハウスみたいな狭さを感じさせる突進モードで撮られているのはそういうわけだ。ブッシュ再選断固阻止、だったの。
みんなほんとにやけくそになって叫びまくっていた。 それしかできなかった。 叫びすぎて酸欠で視野が狭くなって、MSGがO-Nestくらいにかんじられた。
爆音でそこらへんのかんじが少しでも伝わってくれたらなーと思ってみてた。
そして、この上映が反原発のデモと同じ金曜日に実行された、というのも決して偶然ではないのだと。
でも、あたりまえだけど、やっぱしライブにはかなわないもんよね。
Mix Master Mikeのプレートが地殻にどすんてぶちささるように重いターンテーブルの音は、あれはライブでないと。
しかし、ステージでひょこひょこ踊ったり歌ったり、バックステージでにっこりしているAdamを見ているとまだ彼がいなくなったことが信じられなくて、なんとも言えなくなる。
もういっこのBBみたいに、結成50年とかで"Body Movin'"とかをよれよれ演ってくれると思っていたのにさー。
そして、彼のチベットをはじめとする世界への非暴力への希求が、今ふたたび、Intergalacticに飛んでいきますように。
爆音映画祭のラスト(後夜祭の手前)、シークレット上映作品『ビースティー・ボーイズ 撮られっぱなし天国』。
Adam Yauchさんが亡くなってもう2ヶ月、我々はちゃんと彼のことを追悼できていない。
みんなそれぞれ忙しいし戦っているし、彼はそんなのやるなって言うに決まっているから、誰もなんもやらないのだとおもうが、でも、追悼とは言わないまでも、彼から貰ったいろんなものに対してありがとうを言うくらいの場とか機会はほしい、と思っていたら爆音がやってくれた。
Beastie Boys、彼のいた3MCsのライブ映像を、彼が企画して、彼(Nathaniel Hörnblowér)が監督して、彼の作った会社(Oscilloscope Laboratories)がリリースした作品。
湿気がうっとおしくてしょうもない金曜の晩の90分、90分だけ、この映画をがんがんに鳴らして、体を揺らす、たった一回だけでもそういう機会を作ってくれた爆音の人たちに本当に感謝したい。
映画の話はいいよね。 ファン50人にHi8 Cameraを持たせて会場に散らして、好きなのを好きなように撮ってよし、けどカメラの電源だけは切るなよ、といって集まってきた映像をこまこま編集した60000カット(主催者発表)。
わたしは2004年10月9日、このライブの場にいた。 まんなかより後ろのステージ向かってやや右。だからどっかに後ろ頭くらい映っているかも、と今回もじーっと見てみたのだが、映ってはいないようだった。
それから、2006年3月28日、この映画の完成披露、NYプレミアの会場にもいた。(IMDBのこの映画のページに貼ってある写真はそのときのもの)
Adamさんの姿 - ばりばりのスーツだったけど - を見たのはこれが最後となってしまったのだなあ。
ライブ映像については、こんなもんかー、と。
客席に持ちこまれた50台のカメラがもたらしたのは、ものすごく革新的なアングルとか、インタラクティブうんたらな可能性とか、そんなのとは程遠い、男子便所からの実況とか、そんなようなもんでしかなかった。 しかし、それこそがBeastie Boysのライブのコアであるところの百姓一揆にも似た絞まりのなさ落着きのなさに直結するなにか、なのである。 これこそがU2とかColdplayとか、ライブ設備にばかみたいな投資をする代理店連中とはぜんぜんちがう、でも画期的ななんかなのである。 たぶん。
(このかんじを今週NYでプレミアされるLCD Soundsystemのラストライブの映像がどうかもっていますように...)
この映画が撮影された当時のことを、若い人たちには説明しといたほうがよいのかもしれない。
ブッシュの最初の4年 - 911を始めとして、とにかく最悪だった4年間が終わろうとしていて、大統領選の直前で、しかし彼の再選を阻止することは難しい、ケリーでは勝てないことが既に多くのひとには判っていた、そういう、どんよりと暗い時期にこのライブは撮られたの。
ラストの"Sabotage"があんなふうな、ライブハウスみたいな狭さを感じさせる突進モードで撮られているのはそういうわけだ。ブッシュ再選断固阻止、だったの。
みんなほんとにやけくそになって叫びまくっていた。 それしかできなかった。 叫びすぎて酸欠で視野が狭くなって、MSGがO-Nestくらいにかんじられた。
爆音でそこらへんのかんじが少しでも伝わってくれたらなーと思ってみてた。
そして、この上映が反原発のデモと同じ金曜日に実行された、というのも決して偶然ではないのだと。
でも、あたりまえだけど、やっぱしライブにはかなわないもんよね。
Mix Master Mikeのプレートが地殻にどすんてぶちささるように重いターンテーブルの音は、あれはライブでないと。
しかし、ステージでひょこひょこ踊ったり歌ったり、バックステージでにっこりしているAdamを見ているとまだ彼がいなくなったことが信じられなくて、なんとも言えなくなる。
もういっこのBBみたいに、結成50年とかで"Body Movin'"とかをよれよれ演ってくれると思っていたのにさー。
そして、彼のチベットをはじめとする世界への非暴力への希求が、今ふたたび、Intergalacticに飛んでいきますように。
[film] One Day (2011)
9日、月曜日の晩にひっかけて見ました。
Anne Hathawayさんだし、もともと見たかったんだけどね。
あんま深く追ってなくて、軽いラブコメみたいのかと思って行ったら違ったのでなかなかびっくりした。
こんなお話しだったのかー。
88年の7月15日、Emma(Anne Hathaway)とDexter(Jim Sturgess)が大学の卒業式の帰りに出会って彼女の部屋に泊まっていって(でも寝てない)、そこから始まるふたりの恋人までいかないだらだらしたつきあいその他を毎年のOne Day - 7/15というカットで追っていく。
ある年の7/15は一緒に楽しく過ごすし、ある年の7/15はすれ違って終わる、ある年の7/15は泣きながら電話したりする。
この間、彼はTVの深夜番組でセレブになって結婚して子供をつくって離婚してぼろぼろになるし、彼女はメキシコ料理屋で働きながら作家を夢見て、でもブレークできずに、もやもやしたりしている。
この日がものすごく特別な意味のある記念日でもなく、ふたりが特別な関係にあるわけでもない限り、この日はただ、たまたまそうであっただけの日、として過ぎていって、どっかに行ってしまう。
でもそうじゃないことがあったとき、その地点から巻き戻してみたりするよね? たぶん、そういうのをやりたかったのだと思うのだが。
ふたりの関係は2006年の7月15日に突然おわってしまう。
邦題にある『23年のラブストーリー』というのはおかしいし、わけがわからない。
最初からラブストーリーとしてはじまったお話しではないし。
おそらく、ほんとうであれば、ふたりのそれぞれの19年間を7/15という定点で観測していったときに、どっかの地点から恋が始まる、その始まりを、双方に明かりが点いたその瞬間をはっきりと刻んで、そのどこかの"One Day"が天上に燦然と輝くはず、だった。
そういうのすらきちんと描けていないので、ラブストーリーとしてもカップル大河ドラマとしても、中途半端で、どう見たらよいのかわからないの。 かわいそうねー、で、それだけでいいのか。
これなら事故で88年以降の記憶を一切失っちゃって、また最初からぜんぶやりなおし、のほうがまだわかりやすかったかも。
それぞれのOne Dayで、その年の1曲が背景として流れてくる。
88年がTracy Chapmanの"Talkin' 'Bout a Revolution"、89年がTFFの"Sowing The Seeds Of Love"とか、その後もJames, Black Grape, Primal Scream, Fatboy Slim, Trickyとか、選曲はわるくない。 BlとかOaとかが入ってこないのはよかった。
で、締めはElvis Costelloさんの"Sparkling Day"ていうの。
でもなー。
Anne Hathawayさんだし、もともと見たかったんだけどね。
あんま深く追ってなくて、軽いラブコメみたいのかと思って行ったら違ったのでなかなかびっくりした。
こんなお話しだったのかー。
88年の7月15日、Emma(Anne Hathaway)とDexter(Jim Sturgess)が大学の卒業式の帰りに出会って彼女の部屋に泊まっていって(でも寝てない)、そこから始まるふたりの恋人までいかないだらだらしたつきあいその他を毎年のOne Day - 7/15というカットで追っていく。
ある年の7/15は一緒に楽しく過ごすし、ある年の7/15はすれ違って終わる、ある年の7/15は泣きながら電話したりする。
この間、彼はTVの深夜番組でセレブになって結婚して子供をつくって離婚してぼろぼろになるし、彼女はメキシコ料理屋で働きながら作家を夢見て、でもブレークできずに、もやもやしたりしている。
この日がものすごく特別な意味のある記念日でもなく、ふたりが特別な関係にあるわけでもない限り、この日はただ、たまたまそうであっただけの日、として過ぎていって、どっかに行ってしまう。
でもそうじゃないことがあったとき、その地点から巻き戻してみたりするよね? たぶん、そういうのをやりたかったのだと思うのだが。
ふたりの関係は2006年の7月15日に突然おわってしまう。
邦題にある『23年のラブストーリー』というのはおかしいし、わけがわからない。
最初からラブストーリーとしてはじまったお話しではないし。
おそらく、ほんとうであれば、ふたりのそれぞれの19年間を7/15という定点で観測していったときに、どっかの地点から恋が始まる、その始まりを、双方に明かりが点いたその瞬間をはっきりと刻んで、そのどこかの"One Day"が天上に燦然と輝くはず、だった。
そういうのすらきちんと描けていないので、ラブストーリーとしてもカップル大河ドラマとしても、中途半端で、どう見たらよいのかわからないの。 かわいそうねー、で、それだけでいいのか。
これなら事故で88年以降の記憶を一切失っちゃって、また最初からぜんぶやりなおし、のほうがまだわかりやすかったかも。
それぞれのOne Dayで、その年の1曲が背景として流れてくる。
88年がTracy Chapmanの"Talkin' 'Bout a Revolution"、89年がTFFの"Sowing The Seeds Of Love"とか、その後もJames, Black Grape, Primal Scream, Fatboy Slim, Trickyとか、選曲はわるくない。 BlとかOaとかが入ってこないのはよかった。
で、締めはElvis Costelloさんの"Sparkling Day"ていうの。
でもなー。
7.16.2012
[film] The Skin I Live In (2011)
8日の日曜日の午後3時、"The Longest Yard"の直後、興奮状態のままに横走りしてって見ました。 もう終っちゃいそうだったし。 『私が、生きる肌』。
おもしろいねえ、Pedro Almodóvar。 あいかわらず。
整形外科医(Antonio Banderas)のすんごい邸宅の一室にぴっちり全身タイツで皮膚を保護された女性が監禁されている。
そのうち、彼女は医師の全身火傷で亡くなった妻に瓜二つになるように「形成」されたらしいことがわかってくるのだが、では「彼女」はそもそもどこから来て、なんでここにいることになったのか。
そーんなにまでして生きていたいのか、生かしておきたいのか、と呆れるほかない強い強いヒトの欲望とそのすぐ裏側に必然として張りついてしまう/張りついている「死」への虞れ。 その相克が謎解きに近いかたちで明らかにされていくのはいつものAlmodóvarなのだが、今回のは復讐や情念のドラマがタイトル通り皮膚の皮一枚隔てたところで愛とか、思ってもいなかったような方角にころっとひっくり返る。
で、そういうのをどろどろべたべたではなく、冷たくてモダンな色彩構成とかディスプレイ越しの映像とかを通してさらっと見せていく。
いや、わかんないけどね。 今回もヌードとかいっぱい出てくるのだが、その出し方がほんとぺろっと即物的で、一見やらしくなさそうで、でも実はすんごくエロでフェティッシュなかんじもする。
それに、よくよく考えると相当残酷なお話なんだけどね。 そうは見えないようなとことか。
なんとなく、モダン・スパニッシュのお皿だねえ、とかいっつも思う。 好きだけど。
あと、久々にボカシというのを見たわ。 まだやってるんだねえそんなのー。
おもしろいねえ、Pedro Almodóvar。 あいかわらず。
整形外科医(Antonio Banderas)のすんごい邸宅の一室にぴっちり全身タイツで皮膚を保護された女性が監禁されている。
そのうち、彼女は医師の全身火傷で亡くなった妻に瓜二つになるように「形成」されたらしいことがわかってくるのだが、では「彼女」はそもそもどこから来て、なんでここにいることになったのか。
そーんなにまでして生きていたいのか、生かしておきたいのか、と呆れるほかない強い強いヒトの欲望とそのすぐ裏側に必然として張りついてしまう/張りついている「死」への虞れ。 その相克が謎解きに近いかたちで明らかにされていくのはいつものAlmodóvarなのだが、今回のは復讐や情念のドラマがタイトル通り皮膚の皮一枚隔てたところで愛とか、思ってもいなかったような方角にころっとひっくり返る。
で、そういうのをどろどろべたべたではなく、冷たくてモダンな色彩構成とかディスプレイ越しの映像とかを通してさらっと見せていく。
いや、わかんないけどね。 今回もヌードとかいっぱい出てくるのだが、その出し方がほんとぺろっと即物的で、一見やらしくなさそうで、でも実はすんごくエロでフェティッシュなかんじもする。
それに、よくよく考えると相当残酷なお話なんだけどね。 そうは見えないようなとことか。
なんとなく、モダン・スパニッシュのお皿だねえ、とかいっつも思う。 好きだけど。
あと、久々にボカシというのを見たわ。 まだやってるんだねえそんなのー。
[film] The Longest Yard (1974)
8日の日曜日、午前10時のなんとか、で午後13時くらいに見ました。
スポーツ映画の、監獄映画の、群像映画の、問答無用のクラシックであることは勿論、正義とはなんなのか、それを貫くとはどういうことか、を極めて具体的に説いた作品でもある。他になにを言うことができるだろう。
フットボールの監獄の職員チームをリーグで勝たせるために組織されたチーム、始めから負けることを要請されたチームを率いることになった元プロのアメフト選手のPaulと、囚人で組織されたそのチームのタッチダウンへと向かう長い長い道行き。 そもそもの実力として勝ち目がないことはPaulには解っていて、かつ土壇場で負けるように改めて念押しされて脅迫されて、それでもなお、何かが彼に火をつけ、その火がゲームの進行と共に拡がっていって、最後の盛りあがりと緊張感ははんぱない。
既にこの手のフォーミュラのスポ根映画も漫画も古今東西いくらでもあるわけだが、この映画はスポーツ万歳とか男の友情とか、そういう、なんかを振興するような振るまいとはちょっとだけ違う気もする。
誇りなんだよ誇り、とか。
囚人のひとりひとりにも、客席でブラスファンクをわいわいやっている変なひとたちにも、冷酷非道だった看守長にも、それはじりじりと伝染していって大きなうねりを作る。 画面割りとか編集とか、そのあげ方のかっこよくてすばらしいことったら。
しかし、所長だけは、このくそじじいだけは、最後まで狂ったように曲げない、曲がらない。
でもさあ、だからねえ、今こそ見られるべき映画なんだよ。原発の体制側の何を信じているんだか知らんがのバカ共とかに向けてさあ。
2005年のAdam Sandler版も見ないとなー。
つい最近掲載された看守長のサディスティックはげ、Ed Lauterさんのインタビュー記事。
http://www.avclub.com/articles/veteran-character-actor-ed-lauter-has-40-years-wor,82312/
スポーツ映画の、監獄映画の、群像映画の、問答無用のクラシックであることは勿論、正義とはなんなのか、それを貫くとはどういうことか、を極めて具体的に説いた作品でもある。他になにを言うことができるだろう。
フットボールの監獄の職員チームをリーグで勝たせるために組織されたチーム、始めから負けることを要請されたチームを率いることになった元プロのアメフト選手のPaulと、囚人で組織されたそのチームのタッチダウンへと向かう長い長い道行き。 そもそもの実力として勝ち目がないことはPaulには解っていて、かつ土壇場で負けるように改めて念押しされて脅迫されて、それでもなお、何かが彼に火をつけ、その火がゲームの進行と共に拡がっていって、最後の盛りあがりと緊張感ははんぱない。
既にこの手のフォーミュラのスポ根映画も漫画も古今東西いくらでもあるわけだが、この映画はスポーツ万歳とか男の友情とか、そういう、なんかを振興するような振るまいとはちょっとだけ違う気もする。
誇りなんだよ誇り、とか。
囚人のひとりひとりにも、客席でブラスファンクをわいわいやっている変なひとたちにも、冷酷非道だった看守長にも、それはじりじりと伝染していって大きなうねりを作る。 画面割りとか編集とか、そのあげ方のかっこよくてすばらしいことったら。
しかし、所長だけは、このくそじじいだけは、最後まで狂ったように曲げない、曲がらない。
でもさあ、だからねえ、今こそ見られるべき映画なんだよ。原発の体制側の何を信じているんだか知らんがのバカ共とかに向けてさあ。
2005年のAdam Sandler版も見ないとなー。
つい最近掲載された看守長のサディスティックはげ、Ed Lauterさんのインタビュー記事。
http://www.avclub.com/articles/veteran-character-actor-ed-lauter-has-40-years-wor,82312/
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