7日の土曜日、イメージ・フォーラムのGuerínの特集から2本、続けて見ました。
En Construcción (2001) - 『工事中』
バルセロナのいかがわしい地区を取り壊して立て直す工事の現場とその周りを追ったドキュメンタリー。
まだ人が住んでいるアパートのすぐ隣で取り壊したり積みあげたりが繰り返される。
工事のまわりで住人が追い立てられたり困ったり問題が出たり、といった社会問題にフォーカスしたものというよりは、工事現場と工事中、ある特定の時間と空間に居合わせたいろんな人たちの姿を追ったもの。
子供もいれば老人もいるし、出稼ぎで来たひとも、親子で働いているひとも、そこで暮らしているカップルもいる。
15世紀だか紀元前だか(人によって全部いうことが違う)の人骨だってでてくる。
進行していく工事の横でいろんな人間関係もまた同じく工事中、というか足場を作ったり外したりがあって、そのコントラストと切り取りかたが素敵なの。 街の修復とか歴史の刷新とか、そんなでっかいイベントのすぐ横で、それでも人は右に左に動きまわっていて、ここだって間違いなく『シルビアのいる街』になりうるのだ、と。 それは作為として、そういうきれいな撮り方をして、撮れる場所を探したから、ということではなく、シルビアを探せ、と、そういうことなのではないか。
例えば、Frederick Wisemanのドキュメンタリーにあるような全ての要素を風呂敷の上に並べ、ひとつひとつの動きを丹念に追ってそれらをひとつの絵巻物として練りあげていく手法とは異なり、どの人物も情景も、すべては最初から狙っていったもの、時制と場所も整合していないように見える。
Guerínにとって、ドキュメンタリーであるべきかどうか、というのは割とどうでもよくて、我々の目はシルビアを追うレンズとなって、いろんな「工事中」の只中を彷徨う。
ラスト、娼婦とごろつきのカップルがおんぶしながらゆっくり歩いてくるとことか、いいよねえ。
Los Motivos de Berta (1984) - 『ベルタのモチーフ』
Guerínのデビュー作。
ベルタを追っかける、というよりは、ベルタ、というひとりの少女を原っぱのまんなかに置いてみたときにどんな映像が、映画が、目の前に広がってくるだろうか、というスケッチ、のような。
白いページの上に、Guerínはこんなふうに描き始めたのだ、と。
ベルタは母親と二人で暮らしていて、母は少し病んでいて、兄は軍隊に行って不在で、隣には男の子(ルイジト)とその父の二人親子が住んでいて、交流があるのはこの家族だけ。 彼女は学校にもいかず手伝いをしたりふらふらしながら日々を過ごしている。 ある日、ナポレオンの帽子を被った変なおじさんが近くに越してきて、いろいろあったらしいことを語っていた男は突然拳銃で自殺してしまう。男が死んだあとにいろんな人たちがやってくる。 どこからか映画の撮影隊がやってきてわからない言葉(英語)でなにやらやっている、などなどなど。
原っぱや森での遊び、カエル、焼けただれて置いてある車、壊されてしまう秘密基地、遠くの街からやってくる車、郵便、こちらの世界、原っぱの向こう側の世界、などなどなど。
いろんなスタイルで作っていったデモテープを丹念に繋いでみた、そんなかんじもする。
ベルタの内面には注意深く立ち寄らず、彼女と世界との間に出来始めた隔たりとそれが原っぱのなかでたてる小さな音を拾いあげようとする。
「モチーフ」の切り取り方に例えば、フォード、エリセが大好きな50代男性、の判りやすすぎる嗜好・傾向を見ることは簡単だが、それのどこが悪いのか。 映画はこういうところからしか始まらないのだねえ、と改めて思うのだった。
7.15.2012
7.14.2012
[film] Essential Killing (2010)
6日、金曜日の夕方にさっと抜けて、ぜいぜい言いながら逃げまくって吉祥寺に行って、見ました。
イメージ・フォーラムでの公開時には見逃してて、でもどうせこれは爆音でやるじゃろ、と思ってたらほんとにやってくれた。
すごくおもしろい。
2010年の末にLincoln Centerで『早春』(1970)の上映があったとき、監督が来て挨拶して、"Essential Killing" が今のとこ自分のベストだ、『早春』はセカンドベストだ、って言ってて、それがよくわかる。
男が必死になって逃げているだけの映画。
なんで彼が逃げているのか、なんで彼は追われているのか、バックグラウンドはなにもわからないし、男はほとんどしゃべらない。
ただ、そのしゃべらない、ということと必死の形相から状況はやばくて、そこにヘリがばりばり飛んでくるともう、相当これはひどいんだろう、って。
たまに男の故郷なのか、夢のなかなのか、桃源郷みたいなシーンが出てくる。
でも今はそうじゃないんだ、と。
あの場所には還れないのだ、ということか、あの場所を目指せ、ということか。
崖つきの砂漠で軍みたいなとこに捕まって、施設に収容されて、移送中に事故があったのでその隙に抜けだして、今度は雪原で、飢えと寒さで死にそうになったとこで、一瞬匿われて、そこから再び外に出ていく。
「逃亡」と「殺し」とその裏側にある「生きる」ということ、それらひとつひとつのアクションの、究極の型、のようなものが抽象的な、超越的な目線を一切排したかたちで映しだされている。
過激でも残酷でも陰惨でもない。
ずっと過酷でぎちぎちしていたトーンが屋根のあるところに匿われ、傷と血を拭われたことで少しだけ弛んで、流れが少しだけ変わる。
「xxから逃げる」だったのが「xxへ向かう」ようなトーンに、男の表情も含めて微妙に、わずかに。
キリストの受難の旅みたいなかんじもする。白い馬だし。 ガレルの『内なる傷痕』(1970)をちょっとだけ思い出したりもする。
で、最後までいくと、Essentialな殺し、って彼が実行するものなのか、彼に対してなされるものなのか、とかね。
それにしても、あの母乳のシーンはすごいよねえ。
どんな「殺し」よりも、こっちのが強烈だったりする。
イメージ・フォーラムでの公開時には見逃してて、でもどうせこれは爆音でやるじゃろ、と思ってたらほんとにやってくれた。
すごくおもしろい。
2010年の末にLincoln Centerで『早春』(1970)の上映があったとき、監督が来て挨拶して、"Essential Killing" が今のとこ自分のベストだ、『早春』はセカンドベストだ、って言ってて、それがよくわかる。
男が必死になって逃げているだけの映画。
なんで彼が逃げているのか、なんで彼は追われているのか、バックグラウンドはなにもわからないし、男はほとんどしゃべらない。
ただ、そのしゃべらない、ということと必死の形相から状況はやばくて、そこにヘリがばりばり飛んでくるともう、相当これはひどいんだろう、って。
たまに男の故郷なのか、夢のなかなのか、桃源郷みたいなシーンが出てくる。
でも今はそうじゃないんだ、と。
あの場所には還れないのだ、ということか、あの場所を目指せ、ということか。
崖つきの砂漠で軍みたいなとこに捕まって、施設に収容されて、移送中に事故があったのでその隙に抜けだして、今度は雪原で、飢えと寒さで死にそうになったとこで、一瞬匿われて、そこから再び外に出ていく。
「逃亡」と「殺し」とその裏側にある「生きる」ということ、それらひとつひとつのアクションの、究極の型、のようなものが抽象的な、超越的な目線を一切排したかたちで映しだされている。
過激でも残酷でも陰惨でもない。
ずっと過酷でぎちぎちしていたトーンが屋根のあるところに匿われ、傷と血を拭われたことで少しだけ弛んで、流れが少しだけ変わる。
「xxから逃げる」だったのが「xxへ向かう」ようなトーンに、男の表情も含めて微妙に、わずかに。
キリストの受難の旅みたいなかんじもする。白い馬だし。 ガレルの『内なる傷痕』(1970)をちょっとだけ思い出したりもする。
で、最後までいくと、Essentialな殺し、って彼が実行するものなのか、彼に対してなされるものなのか、とかね。
それにしても、あの母乳のシーンはすごいよねえ。
どんな「殺し」よりも、こっちのが強烈だったりする。
[film] Dans la Ville de Sylvia (2007)
会社を半分休んだ翌日の4日、もう体が動かなかったので一日まるごと休んだ。 独立記念日だし。
ほぼずーっと丸まって寝ていたのだが、午後になってなんか動かないともったいない気がしてきたので起きあがって1本だけ見てきた。
元気だったら爆音の『精神の声』(328分)とかも考えたのだが、こんな体力ない状態でみたらはっきりと向こう岸に行ってしまいそうだったので諦める。
イメージフォーラムで始まっていたJosé Luis Guerín特集から『シルビアのいる街で』。
Guerínの作品は、TIFFでやったメカスとの往復書簡のしか見ていないので、この機会にできるだけ見ておきたい。
のだが、いまの時点で『シルビアのいる街の写真』と『イニスフリー』はもう見れないことに気づいた。 ちぇーっ。
ストラスブールの街で6年前に会った女性(シルビア)の面影を探してうろうろする若者の3夜。
たったそれだけなのに、このおもしろさ、ぞくぞくくるかんじはなんなのか。
あーこの作品すごい好きなやつかも、と思いながら画面を見ていた。
たぶんこれから先、何回でも見ることになるであろう作品リストに追加される。
6年前に出会ったとき、彼女はここの演劇学校に通っている、と言っていた。
それだけでそこのカフェに座って、周りの女性をスケッチしたりしながらじーっと目で追っかけている。
設定としてはなかなか気持ちわるいのだが、彼の風貌がべたべたしていないのでよいのかも。
2日目に彼女だ! ていうのを見つけて街中を延々追っかけていく。 この追っかけっこがとにかくすばらしくて、街中の路地とかお店、アパート、いろんな人たちとか、の間をすたすた歩いていく彼女、同様にひょろひょろ追っていく彼、ぴーんと張られたふたりの間の糸(彼女の背中と彼女の肩越しにある目)に空気と光が纏わりついて風になびく髪のようにそこらじゅうに散らす。
そうするともう、そこらじゅうの女性がみんなシルビアに見えてくるの。
それこそフィクションでもドキュメンタリーでもない、自然現象みたいにそういうのが起こる瞬間をカメラは捉えている。
彼はようやく彼女に追いついて、会話することができるのだが、彼女はシルビアなんてしらない、彼の知っている彼女とはちがう、きもちわるいわね、という。 それはほんとうかもしれないし、彼女はうそついているのかもしれない。
そうかー。 やっぱしー。 そういうもんかー。 しょうがないねー。
で、その晩、なんとなくバーで拾った女性と寝ちゃうのね。 このすけべやろうは。
で、そんなことしたもんだから、翌日は更にそこらじゅうでシルビアがまわりだしてしまうの。
この彼は、この後もずっと懲りずにシルビアを探し求めて世界を彷徨っていくに違いなくて、それはおそらく、Guerínが映画を撮り続けていくことの態度表明でもあるの。 すごくべたなロマンチストみたいだが、画面の美しさと力強さは丁寧に冷静に考え抜かれて切り取られたものだとおもう。
シルビア(じゃなかったけど、たぶん。)を演じた彼女(Pilar López de Ayala)は、Oliveiraの"O Estranho Caso de Angélica" (2010) でとってもきれいな死体のAngélicaを演じたひとだった。
どっちにしてもDream Girlなのね。
ほぼずーっと丸まって寝ていたのだが、午後になってなんか動かないともったいない気がしてきたので起きあがって1本だけ見てきた。
元気だったら爆音の『精神の声』(328分)とかも考えたのだが、こんな体力ない状態でみたらはっきりと向こう岸に行ってしまいそうだったので諦める。
イメージフォーラムで始まっていたJosé Luis Guerín特集から『シルビアのいる街で』。
Guerínの作品は、TIFFでやったメカスとの往復書簡のしか見ていないので、この機会にできるだけ見ておきたい。
のだが、いまの時点で『シルビアのいる街の写真』と『イニスフリー』はもう見れないことに気づいた。 ちぇーっ。
ストラスブールの街で6年前に会った女性(シルビア)の面影を探してうろうろする若者の3夜。
たったそれだけなのに、このおもしろさ、ぞくぞくくるかんじはなんなのか。
あーこの作品すごい好きなやつかも、と思いながら画面を見ていた。
たぶんこれから先、何回でも見ることになるであろう作品リストに追加される。
6年前に出会ったとき、彼女はここの演劇学校に通っている、と言っていた。
それだけでそこのカフェに座って、周りの女性をスケッチしたりしながらじーっと目で追っかけている。
設定としてはなかなか気持ちわるいのだが、彼の風貌がべたべたしていないのでよいのかも。
2日目に彼女だ! ていうのを見つけて街中を延々追っかけていく。 この追っかけっこがとにかくすばらしくて、街中の路地とかお店、アパート、いろんな人たちとか、の間をすたすた歩いていく彼女、同様にひょろひょろ追っていく彼、ぴーんと張られたふたりの間の糸(彼女の背中と彼女の肩越しにある目)に空気と光が纏わりついて風になびく髪のようにそこらじゅうに散らす。
そうするともう、そこらじゅうの女性がみんなシルビアに見えてくるの。
それこそフィクションでもドキュメンタリーでもない、自然現象みたいにそういうのが起こる瞬間をカメラは捉えている。
彼はようやく彼女に追いついて、会話することができるのだが、彼女はシルビアなんてしらない、彼の知っている彼女とはちがう、きもちわるいわね、という。 それはほんとうかもしれないし、彼女はうそついているのかもしれない。
そうかー。 やっぱしー。 そういうもんかー。 しょうがないねー。
で、その晩、なんとなくバーで拾った女性と寝ちゃうのね。 このすけべやろうは。
で、そんなことしたもんだから、翌日は更にそこらじゅうでシルビアがまわりだしてしまうの。
この彼は、この後もずっと懲りずにシルビアを探し求めて世界を彷徨っていくに違いなくて、それはおそらく、Guerínが映画を撮り続けていくことの態度表明でもあるの。 すごくべたなロマンチストみたいだが、画面の美しさと力強さは丁寧に冷静に考え抜かれて切り取られたものだとおもう。
シルビア(じゃなかったけど、たぶん。)を演じた彼女(Pilar López de Ayala)は、Oliveiraの"O Estranho Caso de Angélica" (2010) でとってもきれいな死体のAngélicaを演じたひとだった。
どっちにしてもDream Girlなのね。
7.12.2012
[film] Don Hertzfeldt 2006-2012
『孤独な惑星』に続けてみました。
これもUS、Junk、カートゥーン版の「孤独な惑星」なのかもしれない。
『きっとすべて大丈夫』3部作の本邦初上映。
3部作っていうのは、"Everything will be OK"(2006), "I am so proud of you"(2008), "It's such a beautiful day" (2012)で、こないだのイメージ・フォーラムの特集上映のは、最初のふたつまでだった。 このときは当然爆音ではない。
ぜんぜん"Everything will be OK"とは思えない病んだビルとそのまわりの人々とか家族とか。
前のイメージ・フォーラムでの特集は、彼の他のナンセンスな小品と一緒だったこともあり、印象が結構異なる。
たぶんこの3部作だけ纏めてみるとダイレクトに迫ってくるものがあるのできついひとにはきついかもしれない。
そして、3部作の最後の"It's such a beautiful day"も、内容は前の2つからも簡単に予想できるように、ぜんぜんbeautiful dayではない、でも絶望からも遠いものだった。 かといって安寧な、悟りの境地に到達してしまうようなものでもない。
それは向こうからやってくるような。 つまり、
"Everything will be OK"とか "I am so proud of you"とか "It's such a beautiful day"とかそういうのをビルに向かって語りかけているのは誰で、どこからなのか、ということなの。
体も頭もなにもかも、全ての自由とコントロールを失い、感覚と感情のみとなったビルの永劫回帰の旅。
ローファイ版のニーチェなのかもしれないし、東西の古典から、他にいくらでも参照項は出てくるだろう。 個人的には『八月に生まれる子供』かもとか思ったが、そういうのを思い出さなくても、ビルが爆音と共に通り抜けて辿りついた場所は、たぶんあの震える線と滲んだ色と光がなければ現れることがないものだったとおもう。
3作目はいちばんカラフルでサイケで、目の裏側にそのまま繋がる夢の映像に近いもの - Wendersの"Until the End of The World" - 『夢の涯てまでも』が捕まえようとした夢とか、そんなことを思ったりもした - 機械に繋がれながらも最大限の自由を手にすること、更にその彼方に向かおうとする意志と。
ものすごく抽象的な詩みたいな側面もあって、くるひとにはくるしこないひとには... とかそういう乱暴なことを言ってはいけないのだが、いろんなひとに見てほしい作品であることはたしか。
爆音が本当に適正なのかどうか。 もっとでっかい音でもいいように思えたし、それかうんと高解像度のディスプレイでヘッドホンで微音を拾うように没入するのもよいかも。
これの後は、爆音実験映画+ライブで、前売りも買ってあったのだが、あたまとからだがぜんぜんすべて大丈夫ではなくなってきたのでよれよれと帰ったのだった。
これもUS、Junk、カートゥーン版の「孤独な惑星」なのかもしれない。
『きっとすべて大丈夫』3部作の本邦初上映。
3部作っていうのは、"Everything will be OK"(2006), "I am so proud of you"(2008), "It's such a beautiful day" (2012)で、こないだのイメージ・フォーラムの特集上映のは、最初のふたつまでだった。 このときは当然爆音ではない。
ぜんぜん"Everything will be OK"とは思えない病んだビルとそのまわりの人々とか家族とか。
前のイメージ・フォーラムでの特集は、彼の他のナンセンスな小品と一緒だったこともあり、印象が結構異なる。
たぶんこの3部作だけ纏めてみるとダイレクトに迫ってくるものがあるのできついひとにはきついかもしれない。
そして、3部作の最後の"It's such a beautiful day"も、内容は前の2つからも簡単に予想できるように、ぜんぜんbeautiful dayではない、でも絶望からも遠いものだった。 かといって安寧な、悟りの境地に到達してしまうようなものでもない。
それは向こうからやってくるような。 つまり、
"Everything will be OK"とか "I am so proud of you"とか "It's such a beautiful day"とかそういうのをビルに向かって語りかけているのは誰で、どこからなのか、ということなの。
体も頭もなにもかも、全ての自由とコントロールを失い、感覚と感情のみとなったビルの永劫回帰の旅。
ローファイ版のニーチェなのかもしれないし、東西の古典から、他にいくらでも参照項は出てくるだろう。 個人的には『八月に生まれる子供』かもとか思ったが、そういうのを思い出さなくても、ビルが爆音と共に通り抜けて辿りついた場所は、たぶんあの震える線と滲んだ色と光がなければ現れることがないものだったとおもう。
3作目はいちばんカラフルでサイケで、目の裏側にそのまま繋がる夢の映像に近いもの - Wendersの"Until the End of The World" - 『夢の涯てまでも』が捕まえようとした夢とか、そんなことを思ったりもした - 機械に繋がれながらも最大限の自由を手にすること、更にその彼方に向かおうとする意志と。
ものすごく抽象的な詩みたいな側面もあって、くるひとにはくるしこないひとには... とかそういう乱暴なことを言ってはいけないのだが、いろんなひとに見てほしい作品であることはたしか。
爆音が本当に適正なのかどうか。 もっとでっかい音でもいいように思えたし、それかうんと高解像度のディスプレイでヘッドホンで微音を拾うように没入するのもよいかも。
これの後は、爆音実験映画+ライブで、前売りも買ってあったのだが、あたまとからだがぜんぜんすべて大丈夫ではなくなってきたのでよれよれと帰ったのだった。
[film] 孤独な惑星 (2011)
清澄なんとかからがんばって吉祥寺に移動したのだが、あんまりの気圧と湿気でなにもかもいやになる。
これが今年の爆音映画祭の最初となった。
ユーロスペースで見逃していたやつをなんとなく、だったのだがすごい沢山の人がいたので驚いた。
人気があるひとが出ているの? どうなの? (誰に聞いてよいのかわからず)
マンションで一人暮らしの女のひとがいて、彼女の隣の部屋にカップルが住んでて、そのカップルがすごい喧嘩して男のほうが追い出されて、隣の住人の部屋のベランダにテントはってそこで暮らし始めるの(いろんな不干渉、非接触ルールを作ったうえで)。
男はそこから元カノにわかんないようにバイトに出てって夜はそうっとテントに戻る、そんな生活ありえない、ことはわかっていても、あってもおかしくないかも、と思わせる程度のリアルさで彼はやつれたり疲れたりしている。
孤独な惑星のかんじが出ていて、なかなかよかった。
どうせ孤独なんだから、と開き直ることもなく、さみしいようーとべたべた寄ってくるわけでもなく、四角四面の壁やドアや窓で仕切られた空間のなかをそれぞれに横切っていくいろんな惑星たちの昼と夜と。
惑星の軌道は地球上にあるようだが、太陽さんはいったいどこにあるのか、だれもわかっていない。わかったら楽になるかもなのに。
惑星はどこか遠くに旅に出ることも、衝突してクラッシュしたりして惑星をやめることもできない。 黙ってぐるりといろんな境界の上を渡っていくことしかできない。
主人公の女性(竹厚綾)がすごくよくて、彼女の祈るような寝顔(どことなく「果てなき路」のヴェルマに似ている)と、「お祈りしているんだ」とか言いながら世界地図(白地図)にピンを刺したり抜いたりしているのを見ていると、なんだかたまらなくなる。
音は実に豊かにいろんなのが聴こえてきて、転がっていく惑星がたてるとしたらこんなの、だろうな。
たったひとりがたてる音、窓の向こうのベランダの音、ベランダとの間のどこかで鳴る携帯の音、ベランダの彼方からの音、壁の向こう側の音、これだけの音に囲まれていてもなお/いるが故に、それでも惑星は孤独であるという -
これが今年の爆音映画祭の最初となった。
ユーロスペースで見逃していたやつをなんとなく、だったのだがすごい沢山の人がいたので驚いた。
人気があるひとが出ているの? どうなの? (誰に聞いてよいのかわからず)
マンションで一人暮らしの女のひとがいて、彼女の隣の部屋にカップルが住んでて、そのカップルがすごい喧嘩して男のほうが追い出されて、隣の住人の部屋のベランダにテントはってそこで暮らし始めるの(いろんな不干渉、非接触ルールを作ったうえで)。
男はそこから元カノにわかんないようにバイトに出てって夜はそうっとテントに戻る、そんな生活ありえない、ことはわかっていても、あってもおかしくないかも、と思わせる程度のリアルさで彼はやつれたり疲れたりしている。
孤独な惑星のかんじが出ていて、なかなかよかった。
どうせ孤独なんだから、と開き直ることもなく、さみしいようーとべたべた寄ってくるわけでもなく、四角四面の壁やドアや窓で仕切られた空間のなかをそれぞれに横切っていくいろんな惑星たちの昼と夜と。
惑星の軌道は地球上にあるようだが、太陽さんはいったいどこにあるのか、だれもわかっていない。わかったら楽になるかもなのに。
惑星はどこか遠くに旅に出ることも、衝突してクラッシュしたりして惑星をやめることもできない。 黙ってぐるりといろんな境界の上を渡っていくことしかできない。
主人公の女性(竹厚綾)がすごくよくて、彼女の祈るような寝顔(どことなく「果てなき路」のヴェルマに似ている)と、「お祈りしているんだ」とか言いながら世界地図(白地図)にピンを刺したり抜いたりしているのを見ていると、なんだかたまらなくなる。
音は実に豊かにいろんなのが聴こえてきて、転がっていく惑星がたてるとしたらこんなの、だろうな。
たったひとりがたてる音、窓の向こうのベランダの音、ベランダとの間のどこかで鳴る携帯の音、ベランダの彼方からの音、壁の向こう側の音、これだけの音に囲まれていてもなお/いるが故に、それでも惑星は孤独であるという -
7.11.2012
[art] Thomas Demand
戻ってきた翌日の3日、ありえない虚脱感に襲われた、ということになり、午後会社を休んでみました。
この展示はじきに終っちゃいそうだったし、爆音の前売り買っていたのがこの日のだったことがわかって、抜けないわけにはいかなかったの。
清澄なんとかの駅でおりたのはすんごい久しぶり。
いろんな「現場」を模型とかで工作して、それを実物大の「写真」として写してみて、そうしてできる「現場写真」。
現場の生々しさを伝えるはずの「現場写真」は、撮られた時点で「事後」であることから生々しさからは遠く、だからといって、決して単なる情景を撮ったものにはならない。 与えられた情報をもとに我々のあたまのなかで再構成される「現場」のありよう、その微妙な、第三者的な立ち位置をフィクション(つくりもの)の側から逆照射してみよう、と。
コトが起こったその場所に実際に行ってそこに立ってみえるものと、彼の実物大の写真の前に立ってみえるものとの間にどんな違いがあるのか? たいして違わないんじゃないのか? 当事者でも幽霊でもない限り、わかんないんじゃないのか、と。
そういう「事件」と「第三者」の関係は、そのまま作者であるThomas Demandとそれを鑑賞する我々の関係(作者が提示しようとした何か=再構成しようとした現実世界 - と我々の目にうつる何かは同じものとして見えているのか?)にも置換しうる可能性があって、要は、みてくれは素朴でぺらっとした写真なのに、裏にはものすごくいろんなテーマが網の目のように張られている、そういうおもしろさがある。
あとは、階下でやってたアーティストトークのビデオ見ててわかった、それでもなんとか本物らしく見せるためにやってるものすごいこまこましたいろんな努力ね。 あれを見てしまうと映画製作にも近いなにかを感じてえらいなー、とか。
写真と動画とでいうと、動画のが圧倒的におもしろくて、"Pacific Sun"なんかは不謹慎だとわかっていてもおおーっ、となるし、"エスカレーター"の裏の映写の、ループし続ける35mmフィルムには感銘を受ける。
えんえんループし続ける、再生を繰り返していくなにか、そのエンジンはなんなのか、というのもテーマとしてはあるよね。
下のフロアでは次の展示の特撮のセットを準備してて大変そうだったが、特撮とも違うねえ、とか。
特撮は技術であるが、これはそのもうちょっとだけ手前の、もっとやわらかいもにゃもにゃしたなにか。
しかし、こっちの(特撮の)展示は、混みそうだねえ。
この展示はじきに終っちゃいそうだったし、爆音の前売り買っていたのがこの日のだったことがわかって、抜けないわけにはいかなかったの。
清澄なんとかの駅でおりたのはすんごい久しぶり。
いろんな「現場」を模型とかで工作して、それを実物大の「写真」として写してみて、そうしてできる「現場写真」。
現場の生々しさを伝えるはずの「現場写真」は、撮られた時点で「事後」であることから生々しさからは遠く、だからといって、決して単なる情景を撮ったものにはならない。 与えられた情報をもとに我々のあたまのなかで再構成される「現場」のありよう、その微妙な、第三者的な立ち位置をフィクション(つくりもの)の側から逆照射してみよう、と。
コトが起こったその場所に実際に行ってそこに立ってみえるものと、彼の実物大の写真の前に立ってみえるものとの間にどんな違いがあるのか? たいして違わないんじゃないのか? 当事者でも幽霊でもない限り、わかんないんじゃないのか、と。
そういう「事件」と「第三者」の関係は、そのまま作者であるThomas Demandとそれを鑑賞する我々の関係(作者が提示しようとした何か=再構成しようとした現実世界 - と我々の目にうつる何かは同じものとして見えているのか?)にも置換しうる可能性があって、要は、みてくれは素朴でぺらっとした写真なのに、裏にはものすごくいろんなテーマが網の目のように張られている、そういうおもしろさがある。
あとは、階下でやってたアーティストトークのビデオ見ててわかった、それでもなんとか本物らしく見せるためにやってるものすごいこまこましたいろんな努力ね。 あれを見てしまうと映画製作にも近いなにかを感じてえらいなー、とか。
写真と動画とでいうと、動画のが圧倒的におもしろくて、"Pacific Sun"なんかは不謹慎だとわかっていてもおおーっ、となるし、"エスカレーター"の裏の映写の、ループし続ける35mmフィルムには感銘を受ける。
えんえんループし続ける、再生を繰り返していくなにか、そのエンジンはなんなのか、というのもテーマとしてはあるよね。
下のフロアでは次の展示の特撮のセットを準備してて大変そうだったが、特撮とも違うねえ、とか。
特撮は技術であるが、これはそのもうちょっとだけ手前の、もっとやわらかいもにゃもにゃしたなにか。
しかし、こっちの(特撮の)展示は、混みそうだねえ。
7.10.2012
[log] NYそのた - July 2012
NY、残りのあれこれ。
今回は映画もライブもあんまなかったので、28日(木)の晩、お食事に行った。
折角なので新しいところ、ということで、トライベッカのateraというとこ。
最近はやりのオープンキッチンで、日替わりおまかせ$150のコースのみ。
シェフのMatthew Lightnerは、PortlandのCastagnaにいたひとで、デンマークのNormaにいて、スペインのMugaritzでAndoni Adurizに師事したという。
New York Magazineのレビューが結構よかったのだが、ここの評価はたまに外していることあるし、この手のModern Eclectic Cuisineって、WD-50の例もあるように、なかなか定着してこない。
ただ他方で、老舗の大御所(Bouley, Daniel, Jean Georgesなど)が伸び悩んでいる背景には、こういう新勢力の台頭もあったりするのかなあ、とか。
結局はおいしいもん食わせろ、なんだけどね。
通りに面したとこには店の名前の看板がなくて怪しげ。 カウンターはぐるりと15席、あとは6人掛けのテーブルがひとつ。
まんなかの調理台でシェフを含めて4人くらいがスポイトだのなんだのいろんな器具を使ってよってたかって作業(調理、ってかんじはしない)、しててそのまわりを、工程管理するおねえさんとか、火入れとかパンとかデザート担当とかが囲む。全部で10人くらいか。
最初に「スナック」ていうのが10品。 スナックなので籠とか箱とかに入ってて、はい、って出されたもんを手でつまんで口に運ぶ。
これがなんともいえずおもしろくてたのしい。 食材の風味と外見、食感に触感(さわってぶにゅ、とか)、料理名を聞いて、目で見て、鼻で嗅いで、手で摘まんで、口に入れて、もぐもぐして、飲みこむ、これらの各工程でインとアウトのイメージが全て微妙にずれまくるので全体としてはこれなに? の吹き出しが脳内で乱立していく。
例えばフォアグラ落花生、ていうのがあるの。
茶色の殻つき落花生の形で、ちょっとだけぬめっとしてて、でも後味はしっかりフォアグラがくる。
こんなのばっかしで、メレンゲでできたロブスターロールとか、うずらの卵とか。
おいしいおいしくないでいうと、おいしい、けど、それは各自のおいしさの定義とか許容範囲の更新を要求してくるような押しの強さがあって、今にして思えば、これらのスナックは、メインの前座として、各自における「おいしい」を一旦宙吊りにするような機能を持っていたのではないかしら。
問答無用においしいー! ていうのもあるが、一瞬考えて、おいしいー、って言っていいのかしらこれ? と周りを見回してしまうようなやつもある。
そこいくと同じようなスタイル(カウンター対面、てづくり - てつまみ)でも、(例えば)お寿司のシンプルなことったら。
あんな、試験管とかスポイトなんかで実験しながら作ってるような料理なんて食えるかい! 黙ってうまいもん持ってこんかー! みたいなひとは来ないほうがよいかも。
スナックの後のメインは9皿。 メインの食材+付けあわせのはっぱ、とかの組合せになってて、スナックほどアヴァンギャルドではなく、なにが料理されているのかはわかるし、一応ナイフとフォークもある。
なかにはラーメンやってみました、とか言って失敗してたのもあったが、全体としてはすばらし。
トリュフです、と言ってでてきた外側真っ黒のビーツのローストがおいしかったねえ。
この流れでどうやって締めるのかとおもったら、最後の方はどまんなかを狙ってVeal ~ 和牛のリブアイへと。 特に和牛は赤身のまっかっかなレアで、付けあわせの酢漬けのMarrowの刃物のような鋭さと共に震えがきた。
好感をもてたのは、泡とか液体窒素攻撃がなくて食材真向勝負をしようとしているとこ。
ほとんど東海岸のローカルで自分達で見つけてきたものでやりくりしようとしている。 野草やハーブの使い方は相当ちゃんとしていた。
メインのあと、オプションでチーズも取って(すごくおいしかったのだが、どこのだったかメモとるのわすれた)、デザートは4皿でた。
デザートは、どんな変なのが出てくるかどきどきしたのだが、シャーベット → ピーチ → Churro → アイスクリームサンドと、これも見事な直球で、直球であるが故の切ない甘さとやさしさにやられる。 さっきまであんな変態だったくせに、別れ際になったら… とかそんなかんじ。
というわけで、すごくおもしろくておいしくておなかいっぱいになったのだが、好き嫌いの多いひととか、アレルギーのいっぱいあるひととか、そういうひとはちょっと難しいかも。
(予約の際に結構聞かれます)
http://ateranyc.com/
今回、本はあんま買わなかったかも。 雑誌はあれこれ買ったけど。
"Canyon of Dreams : The Magic and the Music of Laurel Canyon"
http://www.sterlingpublishing.com/catalog?isbn=9781402765896
これのソフトカバー版が出ていたので買った。 西海岸音楽の包括的なガイド。写真いっぱい。
あと、33 1/3シリーズの、Talking Heads "Fear of Music" by Jonathan Lethem。
これ、どこの本屋にも山積みされてた。
VFILES x Gallagher’sはateraに行く前に立ち寄ったのだが、East Villageにあったころの1/3くらいしかなかったかも。
90年代初のPaperとか、少しだけ買いましたが、古雑誌の値段のあがったこと(つりあげてるでしょ → V)。
レコードは、ぜんぜんで、少し買った程度。
Dirty Projectorsの8x8 inchていうのを買った。 塩化ビニール板からそのまま切り出したみたいなぶあつい四角の板。溝は片面だけ。
BAMに行ったら、Next Wave Festivalの30th seasonのパンフが置いてあった。
もう30thかあ。行き始めた頃は15thとかだったもんなー。
アイスランドのVesturport TheaterがゲーテのFaustをやって、その音楽をNick CaveとWarren Ellisがやるのとか、音楽だとJohn CaleがNicoへのTributeをやるのとか。
行き帰りの飛行機では、新しい映画はぜんぜん見ないで落ちてた。
行きは、"We Bought a Zoo"と"The Vow"をふたたび。
"The Vow"、記憶を失ったの男のほうだったら、どうだっただろうか、とか思った。 彼女は割とあっさり諦めてしまうのではないか、とか。
帰りは、7月に入って番組が変わってて、まず"21 Jump Street"を。
やっぱしこれおもしろいわ。 なんだか意味不明だがどかどか盛りあがるエンドロールも素敵。
それから"The Hunger Games"もふたたび。 国家とかメディアのありようをきちんと俯瞰できて、それは現代とも地続きで、そういう点で近未来の荒唐無稽SFなんかではない、そうとうきちんと作られた映画なのだな、というのが改めてわかった。
続編には、Jena Maloneさんが出ると。 これはなんかすごくなるかも。
あと、「レンタネコ」ていうのを見てみたのだが、猫がぜんぜんまんなかに出てこないのでつまんなくなって切った。
あとほかになんかあったか。
今回は映画もライブもあんまなかったので、28日(木)の晩、お食事に行った。
折角なので新しいところ、ということで、トライベッカのateraというとこ。
最近はやりのオープンキッチンで、日替わりおまかせ$150のコースのみ。
シェフのMatthew Lightnerは、PortlandのCastagnaにいたひとで、デンマークのNormaにいて、スペインのMugaritzでAndoni Adurizに師事したという。
New York Magazineのレビューが結構よかったのだが、ここの評価はたまに外していることあるし、この手のModern Eclectic Cuisineって、WD-50の例もあるように、なかなか定着してこない。
ただ他方で、老舗の大御所(Bouley, Daniel, Jean Georgesなど)が伸び悩んでいる背景には、こういう新勢力の台頭もあったりするのかなあ、とか。
結局はおいしいもん食わせろ、なんだけどね。
通りに面したとこには店の名前の看板がなくて怪しげ。 カウンターはぐるりと15席、あとは6人掛けのテーブルがひとつ。
まんなかの調理台でシェフを含めて4人くらいがスポイトだのなんだのいろんな器具を使ってよってたかって作業(調理、ってかんじはしない)、しててそのまわりを、工程管理するおねえさんとか、火入れとかパンとかデザート担当とかが囲む。全部で10人くらいか。
最初に「スナック」ていうのが10品。 スナックなので籠とか箱とかに入ってて、はい、って出されたもんを手でつまんで口に運ぶ。
これがなんともいえずおもしろくてたのしい。 食材の風味と外見、食感に触感(さわってぶにゅ、とか)、料理名を聞いて、目で見て、鼻で嗅いで、手で摘まんで、口に入れて、もぐもぐして、飲みこむ、これらの各工程でインとアウトのイメージが全て微妙にずれまくるので全体としてはこれなに? の吹き出しが脳内で乱立していく。
例えばフォアグラ落花生、ていうのがあるの。
茶色の殻つき落花生の形で、ちょっとだけぬめっとしてて、でも後味はしっかりフォアグラがくる。
こんなのばっかしで、メレンゲでできたロブスターロールとか、うずらの卵とか。
おいしいおいしくないでいうと、おいしい、けど、それは各自のおいしさの定義とか許容範囲の更新を要求してくるような押しの強さがあって、今にして思えば、これらのスナックは、メインの前座として、各自における「おいしい」を一旦宙吊りにするような機能を持っていたのではないかしら。
問答無用においしいー! ていうのもあるが、一瞬考えて、おいしいー、って言っていいのかしらこれ? と周りを見回してしまうようなやつもある。
そこいくと同じようなスタイル(カウンター対面、てづくり - てつまみ)でも、(例えば)お寿司のシンプルなことったら。
あんな、試験管とかスポイトなんかで実験しながら作ってるような料理なんて食えるかい! 黙ってうまいもん持ってこんかー! みたいなひとは来ないほうがよいかも。
スナックの後のメインは9皿。 メインの食材+付けあわせのはっぱ、とかの組合せになってて、スナックほどアヴァンギャルドではなく、なにが料理されているのかはわかるし、一応ナイフとフォークもある。
なかにはラーメンやってみました、とか言って失敗してたのもあったが、全体としてはすばらし。
トリュフです、と言ってでてきた外側真っ黒のビーツのローストがおいしかったねえ。
この流れでどうやって締めるのかとおもったら、最後の方はどまんなかを狙ってVeal ~ 和牛のリブアイへと。 特に和牛は赤身のまっかっかなレアで、付けあわせの酢漬けのMarrowの刃物のような鋭さと共に震えがきた。
好感をもてたのは、泡とか液体窒素攻撃がなくて食材真向勝負をしようとしているとこ。
ほとんど東海岸のローカルで自分達で見つけてきたものでやりくりしようとしている。 野草やハーブの使い方は相当ちゃんとしていた。
メインのあと、オプションでチーズも取って(すごくおいしかったのだが、どこのだったかメモとるのわすれた)、デザートは4皿でた。
デザートは、どんな変なのが出てくるかどきどきしたのだが、シャーベット → ピーチ → Churro → アイスクリームサンドと、これも見事な直球で、直球であるが故の切ない甘さとやさしさにやられる。 さっきまであんな変態だったくせに、別れ際になったら… とかそんなかんじ。
というわけで、すごくおもしろくておいしくておなかいっぱいになったのだが、好き嫌いの多いひととか、アレルギーのいっぱいあるひととか、そういうひとはちょっと難しいかも。
(予約の際に結構聞かれます)
http://ateranyc.com/
今回、本はあんま買わなかったかも。 雑誌はあれこれ買ったけど。
"Canyon of Dreams : The Magic and the Music of Laurel Canyon"
http://www.sterlingpublishing.com/catalog?isbn=9781402765896
これのソフトカバー版が出ていたので買った。 西海岸音楽の包括的なガイド。写真いっぱい。
あと、33 1/3シリーズの、Talking Heads "Fear of Music" by Jonathan Lethem。
これ、どこの本屋にも山積みされてた。
VFILES x Gallagher’sはateraに行く前に立ち寄ったのだが、East Villageにあったころの1/3くらいしかなかったかも。
90年代初のPaperとか、少しだけ買いましたが、古雑誌の値段のあがったこと(つりあげてるでしょ → V)。
レコードは、ぜんぜんで、少し買った程度。
Dirty Projectorsの8x8 inchていうのを買った。 塩化ビニール板からそのまま切り出したみたいなぶあつい四角の板。溝は片面だけ。
BAMに行ったら、Next Wave Festivalの30th seasonのパンフが置いてあった。
もう30thかあ。行き始めた頃は15thとかだったもんなー。
アイスランドのVesturport TheaterがゲーテのFaustをやって、その音楽をNick CaveとWarren Ellisがやるのとか、音楽だとJohn CaleがNicoへのTributeをやるのとか。
行き帰りの飛行機では、新しい映画はぜんぜん見ないで落ちてた。
行きは、"We Bought a Zoo"と"The Vow"をふたたび。
"The Vow"、記憶を失ったの男のほうだったら、どうだっただろうか、とか思った。 彼女は割とあっさり諦めてしまうのではないか、とか。
帰りは、7月に入って番組が変わってて、まず"21 Jump Street"を。
やっぱしこれおもしろいわ。 なんだか意味不明だがどかどか盛りあがるエンドロールも素敵。
それから"The Hunger Games"もふたたび。 国家とかメディアのありようをきちんと俯瞰できて、それは現代とも地続きで、そういう点で近未来の荒唐無稽SFなんかではない、そうとうきちんと作られた映画なのだな、というのが改めてわかった。
続編には、Jena Maloneさんが出ると。 これはなんかすごくなるかも。
あと、「レンタネコ」ていうのを見てみたのだが、猫がぜんぜんまんなかに出てこないのでつまんなくなって切った。
あとほかになんかあったか。
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