10月5日、水曜日の晩、ユーロスペースの『第4回映画批評月間 〜フランス映画の現在をめぐって〜』で見ました。
邦題は『恋するアナイス』、英語題は”Anaïs in Love”。
冒頭、ものすごい勢いでじたばた街角を駆け抜けていくAnaïs (Anaïs Demoustier)がいて、自分の部屋で家主と会ってずっと滞納している家賃の文句をやんわり言われてもAnaïsにはちっとも応えてなくて、そのまま外に出て自転車で友人宅のパーティに向かうのだが、閉所恐怖症でエレベーターには乗れなくて、通りがかった中年編集者のDaniel (Denis Podalydès)に助けてもらい、でもやっぱりエレベーターは無理だから、と階段で駆けあがることにしたり、万事がこの調子で数秒後には背中を見せてひとりで遠くに走り去ってしまう。これがAnaïs。
この調子で付き合ってきたらしい彼にはあなたの子供ができたけど中絶するから、って告げてあっさり去ろうとするので、だからな・ん・で・い・つ・も・君は! って呆れられてそれきりになり、そのうちDanielのアパートに通うようになってなんとなく彼と付き合い始めるのだが、彼の妻で作家のEmilie (Valeria Bruni Tedeschi)はいつ聞いてもどこかに行っていて不在で、壁に貼ってあるEmilieの後ろ姿のポートレートがなんとなく気になったりしている。
映画の真ん中くらいまで、後先考えずに落ち着きなく動きまわって、ずっとそんなでもなにをどうとも思わない、自分がいいんだからいいのよ、の彼女のせわしないことをとにかくこんななんです、って描いて、そこにはよいこわるいこの区分もなくて、彼女はずっとそれでやってきたのだから、ってべつに反省もしないしバチも当たっていないし当たってもひっかぶるのは自分、博論 – 17世紀における情熱、だって - をやらなきゃいけないのはわかっている、恋愛もお金もなんとかしなきゃなのもわかっている、それがなにか? 程度。
そんなある日、実家の母のガンが7年ぶりに再発したことを知って、母は気丈なのだがAnaïsにはショックで辛くて、なぜなら母が亡くなってしまうとAnaïsのなかにいた彼女も止まって消えてしまうような気がするから、それってどうにも耐えられない。
それと同じようにDanielのアパートで断片のように見えてくるEmilie - 彼女の口紅、香水、ドレス、もちろん彼女の書いた小説、などなどがはっきりした理由もわからない見えないまま彼女の傍に留まって迫ってくるので、とうとう我慢できなくなったのか院の教授から仰せつかっていたでっかいセミナーのアレンジ仕事をすっぽかして、Emilieのいる作家のワークショップの方に飛んでいってしまう(彼女の通常動作として)。
こうして、Durasの初版本とか、Cassavetesの“Opening Night” (1977)上映とか、”Bette Davis Eyes” (1981)で一緒にダンスしてうっとりしたりしながら、AnaïsはEmilieと出会って、ああこれだ、ってなり、それはDanielや元カレと一緒にいた時間や場所とはぜんぜん異なる、背を向けて突っ走らなくてよい、スローモーションで動いていく、官能的としか言いようのない時間のなかに共にある感覚と経験 – まさに「恋するアナイス」が生きる時間で、Anaïsはずっとそこにいよう/いたいと思うのだが、Emilieは..
やはりなんとなく、ノルウェー産の”The Worst Person in the World” (2021)を思い起こして、あそこでも走っていく時間とすべてが止まる瞬間があり、亡くなって後ろに遠ざかっていく大切な人のことがあり、恋によって燃えあがるいろんなことが描かれる点では似ている気もするのだが、こっちはあの映画のJulieのお話しではなく、なんとしてもAnaïsとEmilieのふたりの場所と時間に持っていこうとする – だってこれは恋のお話しだから、というのがとても強くある気がした。
あと、『満月の夜』(1984)は少しあっただろうか? こっちは夜ではなくて昼間の、浜辺の映画だけど。
ラスト、さんざん引っ搔きまわしておいて、閉所に囚われることから逃げ続けたAnaïsがエレベーターの箱にゆっくりと入っていく。その瞬間の素敵なことったらない。
Valeria Bruni Tedeschi、素敵ったらない。あのやわらかいかんじ。
Anaïsの兄はなんでキツネザルを飼っているのか?
10.17.2022
[film] Les amours d'Anaïs (2021)
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