15日、日曜日の昼、Haymarketの映画館でみました。 これがLFFの最後のやつ。
邦題は「ひとり、夜の浜辺で...」 かな。
ホン・サンスの映画というと、いつもシネマート新宿(だっけ?)の上のほうにあるちいさい画面をひとり見上げる、イメージなのだが、穏やかに秋が深まるロンドンのでっかいスクリーンで見てもぜんぜんさまになるの。
あいかわらずおもしろいねえ。 そしてあいかわらず、どこがどうしておもしろいんだかわかんねーんだけど。
2部構成で、最初の舞台はドイツ(?)で、女優らしい主人公(Min-hee Kim)が現地に暮らす友人(女性)のところを訪ねてきていて、彼女は少し疲れているようで、暫くふらふらしたいと言って、公園に行ったり、本屋を訪ねたり、現地の友人夫婦の家を訪ねたりしてて、他方で妻のいる彼が自分を訪ねてくるかもしれない、訪ねてくると言ってたし、待ってみるか、とかいう。
次の部で彼女は韓国(?)に帰国していて、これも同じように複数の友人を訪ねてカフェに行ったり、飲み屋の座敷で飲んで上がったり下がったりして、温泉旅館に行ったりして、そこでの会話は前の部のとそんなに変わらない。 今の自分の状態(しばらく休む)とこれからの展望(希望)と、ほんとはどうしたいのかを少しだけ述べる。 でもそれが具体的な次の行動に繋がることはなくて、結局だらだら歩いてひたすら食べて呑んでおしゃべりしているだけに見える。
繰り返すが、これがなんでおもしろく見えてしまうのかの驚異が、その理由がまだ十分に掴めていない。
映画を見ているときは、あははとか少し笑って、なにかがわかった気になったりするのだが、終わってみると実はなにもわかっていなかった、見えていなかったかもしれないことに戦慄して背筋が寒くなる。(いや、単に忘れてしまっただけなのかもしれない)
よく対比に出されるロメールの映画と比べても、ロメールのがまだわかるの。 恋愛が、或は恋愛に対する想いが主人公たちをどこかなにかに向かわせたり走らせたり。 ホン・サンスの映画の主人公たちも遠くから早送りで見れば同じように見えるのかも知れないが、それよか遥かに不気味で得体がしれない。 なんでそういう行動に出るのか、なにを言いだすのか、なんで突然キスしたりするのか、が映画を追っていくその速度や密度からは読み取れないので、え? なにいまの? なにが起こったの? みたいなのばっかりで、そこでなんだよあいつわけわかんね、と怒ってしまうのか、おもしろいひともいるもんだねえこんなのあるのかもねえ、て感嘆してしまうか、で彼の映画に対する反応は分かれるのではないか。
もういっこあるのは、その数秒先が読めない/光が当たっていないかんじにくっついてやってくる生々しさ、のようなもの。これが構図の据え方によるものなのか、光とか音によるものなのかわからないのだが、生々しいなにかが向こうから飛んでくることは確かなの。 突然キスしたりされたりするときのぬるっとしたかんじとか、浜辺に靴をぬいで直にぴたぴたしたときのかんじとか。
あとは顔のよく見えない、挨拶してきたり担いだり、ただそこにいる得体の知れない男の得体の知れなさとか。その得体の知れないかんじもこの文脈のなかでは、妙にわかってしまう不思議。
で、それで? とか だから? って聞いてくるひとが必ずいて、それが来るとお手上げで登場人物のように向こうにすたすた歩いて逃げちゃうのがいちばんよいの。
あと、これってぐちゃっとこんがらがった恋愛バナをつまりはこういうことなのよねわかるー、って理屈つけて整理して共感しあったりするのが好きな(あくまで個人の感想です)日本のみんなにはちょっと取っつきにくいなんかかも知れない、とか。 そのわけわかんなさが中毒になるのだけどー。
10.26.2017
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