もう前後はどうでもいいや。
23日の月曜日の晩、PicturehouseでQ&AつきのPreviewがあって、そこで見ました。
最初にプロデューサーのJonathan Cavendishさん(Bridget Jonesものとか、Elizabeth: The Golden Age (2007)とか)の挨拶がある。
この映画は実話を元にしていますが、単にそれだけではなく登場人物が話している言葉は彼らが実際に、本当に話していたことをそのまま使ったりしています。 なぜそんなことを言えるかというと、この話は私の家族を描いたものだからです、と。
ひええー。
1959年のナイロビで、Robin Cavendish (Andrew Garfield)は妻のDiana (Claire Foy)と幸せな新婚生活を送っていたのだが、ある晩突然高熱がでて、全身が麻痺して喉に穴を空けて管を呼吸器に繋いだ状態になって英国に戻る。 ポリオと診断されてこの状態だともって3ヶ月、と診断されて、練習してどうにか喋れる状態にはなったもののもう生きていたくない、ばかり言うようになって、でも息子のJonathan(プロデューサーの人ね)を産んだばかりのDianaはぜったいにそんなことさせない、あたしがあんたを守ってみせる、と宣言して、Robinにどうしたい? と聞くことこの暗い病室から外に出たい、という。
そこでDianaはOxfordにいた発明家のTeddy Hallを呼んで、呼吸器を搭載した車椅子を開発させて、病室から自宅に戻す作戦を決行してしまう。 病院の堅い医者からはそんなことしたら2ヶ月で死にますよ、と言われるのだが、ふん、ぜったい負けるもんですかと返して、自宅での療養が始まって、最初のうちは赤ん坊に電源切られて死にそうになったりいろいろあるのだが、だんだん快適になっていって、外を車で走ったりピクニックしたり飛行機でスペインに行ったり(山道で呼吸器の電源が吹っとんで大慌て、とか)できるようになって、Robinはだんだんに生きる力を取り戻して、そうすると、これをもっと世の中に広げてもいいんじゃないか、と車椅子生産のスポンサーを求めて動いたり、ドイツの療養所 - 患者たちを完全に隔離して穴に埋め込んで集中管理している - とかに紹介に行ったりして、活動が広まっていく。
でも長年管を肺に通していたところが頻繁に炎症を起こすようになって、やがて...
最後はぼろかすに泣いてしまうけど、最初にJonathanも言っていたように、とにかくJoyfulで生きる歓びに満ち溢れたフィルムだとおもった。
俳優さんは、Andrew Garfieldさんがじゅうぶん巧いのはわかっていたが、それに加えてDiana役のClaire Foyさんの力強さが見事でかっこいいことときたら。
これが初監督となるAndy Serkis(猿の惑星のシーザー、指輪のGollum、それにIan Dury、ね)さんは、もともと監督志望だったそうで、奇異なところを狙わず無理なくゆったり堂々としたドラマに仕上げている。
上映後のQ&Aには、Jonathan、Andy Serkis、Andrew Garfieldが並んだ。
Jonathanに家族の反応は、って聞くと、母(Diana)はめったに泣かないひとだが、映画のなかの父の表情や喋り方があまりにそっくりなので最初はありえない信じられないって泣いて、もう4〜5回は見ているって。 よかったねえ。
欧州ポリオ協会(?)のようなところの人も来て感謝の意を表していたが、こういう患者や身障者を隠したり見えないようにしたりすることが大好きなにっぽんの医療福祉関係者、並びに彼らにそういうことを強いたり、電車にベビーカーが乗ってくるだけで「ちっ」とかやったりしている市井の「健常者」のみなさんに是非見てもらいたいもんだわ。(どうせ「感動しました!」とか言うのよね)
10.30.2017
[music] Tom Robinson
26日、木曜日の晩、The 100 Clubで見ました、
前に書いたように、水曜の晩に熱をだしたのでこの日は会社を休んで日中ほぼぐったり死んでて、晩に起きあがって、前座はとばして21時くらいを目指して出かけた。 スタンディングなのでだいじょうぶかしら、だったがそんなに長時間やらないだろうし、やばくなったら帰ればいいし。
Tom RobinsonがTom Robinson Band (TRB)の1st - “Power in the Darkness” (1978)のリリース40周年記念でアルバム全曲再演をするライブ。 最初に発売された2日分はあっという間に売り切れて、この日は追加の最終日の。
子供の頃、TRBを聴いたのが先だったのかPunkに出会ったのが先だったのかあまり定かではないのだが、当時来日していたTom Robinsonのインタビュー記事を読んで英国のRock Against Racismやゲイ・ムーヴメントのこと、音楽には社会を変える力があること、自分が正しいと思ったら社会と断固戦うべきであること、などを教えてもらった。自分がいまだに英国とか、Punkとかを起源とする音楽を聴き続けていることの発端にはこの時の彼の発言が大きく影響していることは確かなので、いつかお礼を言いたいと思っていたし、そのためにこのライブはちょうどよい機会なのではないかしらと。
会場は自分と同年代かそれ以上かくらいのじじばばばっかしで、着いた21時頃にはみなさん酔っぱらって結構できあがっていた。
21:10過ぎにバンドが登場する。ギターとドラムスは若者で、キーボードとベースのTomはお年めで、Tomは悠然と上着を脱いで腕まくりをして会場を見渡して、この辺なんか会社の会議に現れたエグゼクティブのひとみたいに見える - 会社にはこんなかっこいい人いないけどね。
こうして1曲目の”Up Against the Wall”から、LPの曲順にがんがん流していく。みんなわーわー歌う。10曲のアルバムなので流すとすぐ終わってしまうから曲間にいろんな話しをしてくれるのだが、話しをするときはフロアをじっと見渡すのでみんなでシーシー言って静かになるの。 それでも喋ってうるさい奴には「これから話しをするんだからちゃんと聞くように」ってTom自身が説教する。
“Power in the Darkness”が当時ライブで散々やっていたヒット曲を入れなかった理由は”Never Mind the Bollocks, Here's the Sex Pistols”の存在があった。あれが既発シングルの寄せ集めの、チャート狙いのものであることが明らかだったので、俺たちは全部新曲で勝負してやらあ、と全部新しいのでやった、そんなお話とかいろいろ。 歳をとってよかったことは3つ、①メガネなしで字が読めるようになった ②なんでもかんでもすぐ忘れてしまう ③(Johnny ThundersとかJoe Strummerとかの名前を挙げながら)Alternativesがみんないなくなってしまったこと - と言って"You Gotta Survive" を始めたり。 当時は難しくてライブでベースを弾けなかった曲も、40年練習する時間ができたので今はできる、とか。
アンコールはステージから去らずに、まずみんなで"Martin”を大合唱して、これがリリースされた当時(78年)のソドミー法のありようと現在のLGBTに言及してから”Glad to Be Gay”をやって、そして、TRBのオリジナルのギタリストのDanny Kustowさんをステージにあげて、ぶっといレスポールの音と共に”2-4-6-8 Motorway"を。 みんなはねるはねる。 これが終わってもみんなもっともっとだったので、うまくできるかどうかわかんないけど.. Danny憶えてる? って聞いてから "Don't Take No for an Answer"をやった。 みんな拳を振りあげるあげる。
"Right On Sister"も聴きたかったなー。
22:20くらいに終わって、あと30分続いたら立っていられなくなったかも、だったのでそのままよろよろと帰った。
でもほんとうに行ってよかった。
翌日の金曜日、無理して会社行ったけどまったく使いもんになりませんでしたわ。
前に書いたように、水曜の晩に熱をだしたのでこの日は会社を休んで日中ほぼぐったり死んでて、晩に起きあがって、前座はとばして21時くらいを目指して出かけた。 スタンディングなのでだいじょうぶかしら、だったがそんなに長時間やらないだろうし、やばくなったら帰ればいいし。
Tom RobinsonがTom Robinson Band (TRB)の1st - “Power in the Darkness” (1978)のリリース40周年記念でアルバム全曲再演をするライブ。 最初に発売された2日分はあっという間に売り切れて、この日は追加の最終日の。
子供の頃、TRBを聴いたのが先だったのかPunkに出会ったのが先だったのかあまり定かではないのだが、当時来日していたTom Robinsonのインタビュー記事を読んで英国のRock Against Racismやゲイ・ムーヴメントのこと、音楽には社会を変える力があること、自分が正しいと思ったら社会と断固戦うべきであること、などを教えてもらった。自分がいまだに英国とか、Punkとかを起源とする音楽を聴き続けていることの発端にはこの時の彼の発言が大きく影響していることは確かなので、いつかお礼を言いたいと思っていたし、そのためにこのライブはちょうどよい機会なのではないかしらと。
会場は自分と同年代かそれ以上かくらいのじじばばばっかしで、着いた21時頃にはみなさん酔っぱらって結構できあがっていた。
21:10過ぎにバンドが登場する。ギターとドラムスは若者で、キーボードとベースのTomはお年めで、Tomは悠然と上着を脱いで腕まくりをして会場を見渡して、この辺なんか会社の会議に現れたエグゼクティブのひとみたいに見える - 会社にはこんなかっこいい人いないけどね。
こうして1曲目の”Up Against the Wall”から、LPの曲順にがんがん流していく。みんなわーわー歌う。10曲のアルバムなので流すとすぐ終わってしまうから曲間にいろんな話しをしてくれるのだが、話しをするときはフロアをじっと見渡すのでみんなでシーシー言って静かになるの。 それでも喋ってうるさい奴には「これから話しをするんだからちゃんと聞くように」ってTom自身が説教する。
“Power in the Darkness”が当時ライブで散々やっていたヒット曲を入れなかった理由は”Never Mind the Bollocks, Here's the Sex Pistols”の存在があった。あれが既発シングルの寄せ集めの、チャート狙いのものであることが明らかだったので、俺たちは全部新曲で勝負してやらあ、と全部新しいのでやった、そんなお話とかいろいろ。 歳をとってよかったことは3つ、①メガネなしで字が読めるようになった ②なんでもかんでもすぐ忘れてしまう ③(Johnny ThundersとかJoe Strummerとかの名前を挙げながら)Alternativesがみんないなくなってしまったこと - と言って"You Gotta Survive" を始めたり。 当時は難しくてライブでベースを弾けなかった曲も、40年練習する時間ができたので今はできる、とか。
アンコールはステージから去らずに、まずみんなで"Martin”を大合唱して、これがリリースされた当時(78年)のソドミー法のありようと現在のLGBTに言及してから”Glad to Be Gay”をやって、そして、TRBのオリジナルのギタリストのDanny Kustowさんをステージにあげて、ぶっといレスポールの音と共に”2-4-6-8 Motorway"を。 みんなはねるはねる。 これが終わってもみんなもっともっとだったので、うまくできるかどうかわかんないけど.. Danny憶えてる? って聞いてから "Don't Take No for an Answer"をやった。 みんな拳を振りあげるあげる。
"Right On Sister"も聴きたかったなー。
22:20くらいに終わって、あと30分続いたら立っていられなくなったかも、だったのでそのままよろよろと帰った。
でもほんとうに行ってよかった。
翌日の金曜日、無理して会社行ったけどまったく使いもんになりませんでしたわ。
10.27.2017
[film] Thor: Ragnarok (2017)
25日、水曜日の21:00から、BFIのIMAXで見ました。
予告を見て、7月にこの監督Taika Waititiの旧作”Boy”(2010)を見て、こいつはやってくれるにちがいない、と思ったらその期待通りだった。
でも、Avengersの地球を救うヒーローたち、の文脈で見てしまうと踏み外してたらいに頭ぶるけるかもだから、気をつけてね。 邦題、相変わらずガキ向けすぎてどうしようもねえ。
冒頭でThor (Chris Hemsworth)はでっかい火の魔神みたいのと戦ってて、そいつはRagnarokが来るのじゃとか言って角取られて消えて、そこからThorはAsgardに戻ってLoki(Tom Hiddleston)とかと会って、そこからマンハッタンのBleecker St経由で父親Odin (Anthony Hopkins)がいる北欧の崖に飛んでお別れをして、それからどっかから出てきたらしいThorの姉 - 死の神Hela (Cate Blanchett)と会ったらThorのハンマーは瞬時に簡単に粉々にされて、Lokiと共にゴミの星Sakaarに逃げる。
そこはGrandmaster (Jeff Goldblum)がお気楽に支配してて、捕えられたThorは髪の毛トラ刈りにされて格闘場で戦うことになるのだが、その相手として現れたのがHulk (Mark Ruffalo)で、友達じゃん、とか言うのだがあんま通じなくてぼこぼこ殴り合いして、でもとにかくAsgardがHelaによって滅ぼされてしまうかもしれないので、そこを抜けだして行かなきゃ、ということでみんな – Valkyrie (Tessa Thompson)とHulkとLokiとThorはそっちに向かおうとして、果たしてAsgardの運命は。
Ragnarok - 北欧神話のうんたらでいろんな神さんがうじゃうじゃ出てきてやりあう妖怪大戦争みたいなやつで、ここに神話だの伝説だの父の死だのを絡ませたらうざくなること500%なのだが、そういうのではなくて、なんかやたら強いのが出てきたので一旦逃げるけどAsgardがやばいのでやっぱり戦おうか、ていうそれだけのことを、すごくいいかげんな確信と選択とスピードでやっつける、向かってくるのは敵で、そうじゃないのは味方で、とにかく突撃するから、ていう。 そこになんの根拠も責任も計算もないの。 たぶん。
Thorは”Mighty Thor”でとにかく無敵の神様でヒーローなんだから、みたいに思いこんでいるとなんじゃこりゃ、になるのかもしれないけど、こいつにしてもLokiにしても碌なもんじゃない、ってことをよいこのみんなは押さえておいたほうがいいかも。 いつも得意にぶらぶらさせてた万能のハンマー(男根)を女鹿(Hela)に砕かれてからはおろおろしてばかりで、最後には脳裏のパパにすがるしかないファザコン野郎だって、そう思っておけばこのB級疾走感は割としっくりくるかも。
IMDbには監督のTaika Waititiが70-80年代のSFファンタジーにはまっていたと – 特にJohn Carpenter師の“Big Trouble in Little China” (1986) – 邦題だいっきらいなので書かない - の名前があって、であるとしたらほんとに素敵 – これ公開時何回も見たし、そうしてみると、いろんなしょうもないキャラが次々と湧いて出るのもわかるし、ここでのThorって、まるであの映画のKurt Russellのてきとーなノリにとっても近いやつなのではないか、とか。
あとは画面のぺらぺらごちゃごちゃ半端なB級感 - 至近距離の接近戦で互いの息とか嗚咽が耳元でぜーはー言うような、リアルにうっとおしいのじゃなくて、遠くからの電撃で一網打尽にしちゃってざまあーの痛快さ。
ノリとしては”Guardians of the Galaxy”に結構近いと思うのだが、彼らはGuardiansじゃない、神なのじゃ、と言ったところで特大のハリセンをかましてやって構わない。
ろくでなしばかりがやってくる、とこも最後はやっぱり父ちゃんがさー、のあたりも”Boy”にも通じるところがある。
しょうもねえなクソガキ共、って言ってやってぜんぜんよいの。
音楽は正しく(この使い方よね、と)Led Zepplinの"Immigrant Song"がサーフ・ミュージックのようにがんがん鳴って、Mark Mothersbaughのエレクトロがひたすら気持ちよく全体をドライブしてくれる。 Hans Zimmerのとぐろを巻いて居座って風景まで作っちゃうようなのとは別の風を吹かせている。
あと、Cate Blanchettさんはさすがだった。姉としてまた出てきてくれそうな気がする。
予告を見て、7月にこの監督Taika Waititiの旧作”Boy”(2010)を見て、こいつはやってくれるにちがいない、と思ったらその期待通りだった。
でも、Avengersの地球を救うヒーローたち、の文脈で見てしまうと踏み外してたらいに頭ぶるけるかもだから、気をつけてね。 邦題、相変わらずガキ向けすぎてどうしようもねえ。
冒頭でThor (Chris Hemsworth)はでっかい火の魔神みたいのと戦ってて、そいつはRagnarokが来るのじゃとか言って角取られて消えて、そこからThorはAsgardに戻ってLoki(Tom Hiddleston)とかと会って、そこからマンハッタンのBleecker St経由で父親Odin (Anthony Hopkins)がいる北欧の崖に飛んでお別れをして、それからどっかから出てきたらしいThorの姉 - 死の神Hela (Cate Blanchett)と会ったらThorのハンマーは瞬時に簡単に粉々にされて、Lokiと共にゴミの星Sakaarに逃げる。
そこはGrandmaster (Jeff Goldblum)がお気楽に支配してて、捕えられたThorは髪の毛トラ刈りにされて格闘場で戦うことになるのだが、その相手として現れたのがHulk (Mark Ruffalo)で、友達じゃん、とか言うのだがあんま通じなくてぼこぼこ殴り合いして、でもとにかくAsgardがHelaによって滅ぼされてしまうかもしれないので、そこを抜けだして行かなきゃ、ということでみんな – Valkyrie (Tessa Thompson)とHulkとLokiとThorはそっちに向かおうとして、果たしてAsgardの運命は。
Ragnarok - 北欧神話のうんたらでいろんな神さんがうじゃうじゃ出てきてやりあう妖怪大戦争みたいなやつで、ここに神話だの伝説だの父の死だのを絡ませたらうざくなること500%なのだが、そういうのではなくて、なんかやたら強いのが出てきたので一旦逃げるけどAsgardがやばいのでやっぱり戦おうか、ていうそれだけのことを、すごくいいかげんな確信と選択とスピードでやっつける、向かってくるのは敵で、そうじゃないのは味方で、とにかく突撃するから、ていう。 そこになんの根拠も責任も計算もないの。 たぶん。
Thorは”Mighty Thor”でとにかく無敵の神様でヒーローなんだから、みたいに思いこんでいるとなんじゃこりゃ、になるのかもしれないけど、こいつにしてもLokiにしても碌なもんじゃない、ってことをよいこのみんなは押さえておいたほうがいいかも。 いつも得意にぶらぶらさせてた万能のハンマー(男根)を女鹿(Hela)に砕かれてからはおろおろしてばかりで、最後には脳裏のパパにすがるしかないファザコン野郎だって、そう思っておけばこのB級疾走感は割としっくりくるかも。
IMDbには監督のTaika Waititiが70-80年代のSFファンタジーにはまっていたと – 特にJohn Carpenter師の“Big Trouble in Little China” (1986) – 邦題だいっきらいなので書かない - の名前があって、であるとしたらほんとに素敵 – これ公開時何回も見たし、そうしてみると、いろんなしょうもないキャラが次々と湧いて出るのもわかるし、ここでのThorって、まるであの映画のKurt Russellのてきとーなノリにとっても近いやつなのではないか、とか。
あとは画面のぺらぺらごちゃごちゃ半端なB級感 - 至近距離の接近戦で互いの息とか嗚咽が耳元でぜーはー言うような、リアルにうっとおしいのじゃなくて、遠くからの電撃で一網打尽にしちゃってざまあーの痛快さ。
ノリとしては”Guardians of the Galaxy”に結構近いと思うのだが、彼らはGuardiansじゃない、神なのじゃ、と言ったところで特大のハリセンをかましてやって構わない。
ろくでなしばかりがやってくる、とこも最後はやっぱり父ちゃんがさー、のあたりも”Boy”にも通じるところがある。
しょうもねえなクソガキ共、って言ってやってぜんぜんよいの。
音楽は正しく(この使い方よね、と)Led Zepplinの"Immigrant Song"がサーフ・ミュージックのようにがんがん鳴って、Mark Mothersbaughのエレクトロがひたすら気持ちよく全体をドライブしてくれる。 Hans Zimmerのとぐろを巻いて居座って風景まで作っちゃうようなのとは別の風を吹かせている。
あと、Cate Blanchettさんはさすがだった。姉としてまた出てきてくれそうな気がする。
[theatre] King Lear
こっちから先に書く。
24日の火曜日の晩、Chichester Festival Theatreていうとこで見ました。
英国に来て最初に演劇でみるシェイクスピア、がこれ。
8月の終わり頃にBFIでSir Ian McKellenのQ&Aと共に彼主演の”Edward II” (1970)を見て、その際に9月から彼は舞台で「リア王」をやります、チケットは完売状態ですが、と言われて、そう言われると無性に見たくてたまらなくなり、暫くの間 - 1ヶ月くらいだろうか - そこのチケットサイトをwatchしていた。 ら、1席空いてたのを見っけて速攻で取った。 取ってからこのシアターってどこにあるのかしら? て調べてみたらあーらびっくりロンドンから電車とバスで2時間以上ですってよ、で、でも開演は19:45てあるから17:00きっかりに出れば大丈夫よ、てそのときは思って当日まで放っておいた。 当日になってあたってみたら行きの電車は17:30くらいにVictoria駅を出るのに乗ればなんとかなりそうで、では帰りは? ってなって、そういえば上演時間てどれくらい? て見たら3時間20分..(そうか「リア王」だった..) その晩のうちにロンドン市内に戻ってくるのは難しいことがわかったので昼過ぎに現地の安そうな宿を取った。 ま、どうせ寝るだけだし、終電乗り過ごしたようなもんよ、始発に乗って戻れば会社はなんとかなるじゃろ、って。
Chichester、ていうのはロンドンの南の西のほうにあって、シアターは駅から歩いて20分くらいの公園(? 暗くてわかんなかった)のなかにあって、なんでこんなところで「リア王」なのかわかんないのだが、ステージは客席が囲んで見下ろす円形で、とても小さい。シアタートラムくらい? 自分の席は前から3列目で、こんな間近でガンダルフの杖が炸裂したら衝撃でみんな吹っ飛んじゃうだろ、て不安になったが落ち着け、これはしおしおの「リア王」だと。
演出はJonathan MunbyさんでこれまでRoyal Shakespeare Companyとかでも演出をしているひと。他のキャストでいうと道化をPhil Danielsさんがやっていて、バンジョー抱えて歌いながら走りまわってくれる。
舞台衣装はすべて現代のそれで、冒頭の王権譲渡の場面はみな近代の軍服の正装姿だし、軍の兵士は今のアーミー服だし、そればかりかケント伯は女性(Sinéad Cusack)が演じているし、コーディリア(Tamara Lawrance)もフランス王もコーンウォール公もアフリカ系の役者さんが演じている。 設定を現代に置いたからにゃ役者の配置も含めてダイバーシファイしないと変でしょこんなの当たり前でしょ、てかんじ。
描写もリアリズムに徹していて3幕の荒野を彷徨って嵐のなか狂っていく場面は天井からステージの狭い円に向けてほんとうに水がばしゃばしゃ、ものすごい量のが容赦なく降り注がれるし、同じく3幕のグロスター伯の目玉をくり抜くシーンは肉塊がぶら下がる肉屋の倉庫(?)で血のだらだらもとても痛そうだし。
ストーリーはいいよね。 3幕目までの陰惨で残酷な政治と権力をめぐるパワーゲーム、その狡猾さ非情さにうんざりぐったりし、休憩を挟んで4幕~5幕でのゲームに負けて放り出された者たちの救いのなさ無常さにどんよりしてどっちにしてもぐったりする。 もうそんなの見たくないからぐったり、ではなく、あまりに今のドラマとして生々しく迫ってくるので釘付けにされて考えこんでしまう、そういうほうのぐったり。
シェイクスピアの世界を、宇宙をまるごと舞台の上にぶちまけるという目論見はこの設定でもはっきりと生きていて、単に盛者必滅・栄枯盛衰みたいなお札貼って終わりではなくて、極めて具体的に、上のほうの連中はどこまでも卑しく浅ましくがんじがらめになって自滅し、真実を見抜いたものは道化、目をくり抜かれて亡者、浮浪者に堕ちて人の世から弾かれて地の果てを彷徨うしかない。
これらがリアルな目の先にある地面と今の時間と繋がっていることを確信させるには俳優の力技が必要で、それにしても出て来たひとたちみんな凄すぎる。エドマンド(Damien Molony)もリーガン(Kirsty Bushell)もエドガー(Jonathan Bailey)もオルバニー公(Dominic Mafham)もグロスター伯(Danny Webb)もうますぎてこわすぎて。
そしてリア王(Ian McKellen)の、かつて自身がすべてを治め、ひとつにしていた土地をばらしてしまったところから始まった世界の崩壊、これを自らの老害・自壊とおなじ線上の出来事としてあっさり体現してしまう、そしてすべてが粉々に散ってしまった後の燃えかすが、どんなふうに見えるものなのか、そんなことまで演技で表現することが可能なんだねえ、としみじみ恐ろしくなるのだった。
あと、どうでもいいことかもだけど、聞こえてくる英語のキレのかっこいいこと。こっちのPoetry Readingとかでも思うけど、多少わかんないとこがあってもオリジナルに触れておく、って必要だなあ、って。
終わったら23時過ぎてて、みなさん駐車場に向かって(そうだよね..)、自分はホテルまで歩いた。 ホテルは場所と値段と名前できめて、名前だけいうと、Tsai Ming-liangの” Goodbye, Dragon Inn”ていう映画を思い出したからだったのだが、たどり着いたそこはパブの裏手に作られた掘立小屋みたいなとこで、まさか相部屋? ではなかったが、ヒーターは付かなくて寒いのですぐに布団にもぐってねた。
翌朝は5:15くらいの始発に乗れば会社にじゅうぶん間に合うはずだったのだが、少し喉が痛くてだるかったのと、あんなすごい演劇見たあとだと、仕事なんてどうでもいいや(よくある)、になってしまい会社やすむことにして、6:30くらいの電車で戻った。
で、いちんちごろごろしてから晩に”Thor: Ragnarok”みて、やっぱこれだよねえ!(←てきとー)て盛りあがったらきちんと発熱して木曜日も会社やすんだ。
24日の火曜日の晩、Chichester Festival Theatreていうとこで見ました。
英国に来て最初に演劇でみるシェイクスピア、がこれ。
8月の終わり頃にBFIでSir Ian McKellenのQ&Aと共に彼主演の”Edward II” (1970)を見て、その際に9月から彼は舞台で「リア王」をやります、チケットは完売状態ですが、と言われて、そう言われると無性に見たくてたまらなくなり、暫くの間 - 1ヶ月くらいだろうか - そこのチケットサイトをwatchしていた。 ら、1席空いてたのを見っけて速攻で取った。 取ってからこのシアターってどこにあるのかしら? て調べてみたらあーらびっくりロンドンから電車とバスで2時間以上ですってよ、で、でも開演は19:45てあるから17:00きっかりに出れば大丈夫よ、てそのときは思って当日まで放っておいた。 当日になってあたってみたら行きの電車は17:30くらいにVictoria駅を出るのに乗ればなんとかなりそうで、では帰りは? ってなって、そういえば上演時間てどれくらい? て見たら3時間20分..(そうか「リア王」だった..) その晩のうちにロンドン市内に戻ってくるのは難しいことがわかったので昼過ぎに現地の安そうな宿を取った。 ま、どうせ寝るだけだし、終電乗り過ごしたようなもんよ、始発に乗って戻れば会社はなんとかなるじゃろ、って。
Chichester、ていうのはロンドンの南の西のほうにあって、シアターは駅から歩いて20分くらいの公園(? 暗くてわかんなかった)のなかにあって、なんでこんなところで「リア王」なのかわかんないのだが、ステージは客席が囲んで見下ろす円形で、とても小さい。シアタートラムくらい? 自分の席は前から3列目で、こんな間近でガンダルフの杖が炸裂したら衝撃でみんな吹っ飛んじゃうだろ、て不安になったが落ち着け、これはしおしおの「リア王」だと。
演出はJonathan MunbyさんでこれまでRoyal Shakespeare Companyとかでも演出をしているひと。他のキャストでいうと道化をPhil Danielsさんがやっていて、バンジョー抱えて歌いながら走りまわってくれる。
舞台衣装はすべて現代のそれで、冒頭の王権譲渡の場面はみな近代の軍服の正装姿だし、軍の兵士は今のアーミー服だし、そればかりかケント伯は女性(Sinéad Cusack)が演じているし、コーディリア(Tamara Lawrance)もフランス王もコーンウォール公もアフリカ系の役者さんが演じている。 設定を現代に置いたからにゃ役者の配置も含めてダイバーシファイしないと変でしょこんなの当たり前でしょ、てかんじ。
描写もリアリズムに徹していて3幕の荒野を彷徨って嵐のなか狂っていく場面は天井からステージの狭い円に向けてほんとうに水がばしゃばしゃ、ものすごい量のが容赦なく降り注がれるし、同じく3幕のグロスター伯の目玉をくり抜くシーンは肉塊がぶら下がる肉屋の倉庫(?)で血のだらだらもとても痛そうだし。
ストーリーはいいよね。 3幕目までの陰惨で残酷な政治と権力をめぐるパワーゲーム、その狡猾さ非情さにうんざりぐったりし、休憩を挟んで4幕~5幕でのゲームに負けて放り出された者たちの救いのなさ無常さにどんよりしてどっちにしてもぐったりする。 もうそんなの見たくないからぐったり、ではなく、あまりに今のドラマとして生々しく迫ってくるので釘付けにされて考えこんでしまう、そういうほうのぐったり。
シェイクスピアの世界を、宇宙をまるごと舞台の上にぶちまけるという目論見はこの設定でもはっきりと生きていて、単に盛者必滅・栄枯盛衰みたいなお札貼って終わりではなくて、極めて具体的に、上のほうの連中はどこまでも卑しく浅ましくがんじがらめになって自滅し、真実を見抜いたものは道化、目をくり抜かれて亡者、浮浪者に堕ちて人の世から弾かれて地の果てを彷徨うしかない。
これらがリアルな目の先にある地面と今の時間と繋がっていることを確信させるには俳優の力技が必要で、それにしても出て来たひとたちみんな凄すぎる。エドマンド(Damien Molony)もリーガン(Kirsty Bushell)もエドガー(Jonathan Bailey)もオルバニー公(Dominic Mafham)もグロスター伯(Danny Webb)もうますぎてこわすぎて。
そしてリア王(Ian McKellen)の、かつて自身がすべてを治め、ひとつにしていた土地をばらしてしまったところから始まった世界の崩壊、これを自らの老害・自壊とおなじ線上の出来事としてあっさり体現してしまう、そしてすべてが粉々に散ってしまった後の燃えかすが、どんなふうに見えるものなのか、そんなことまで演技で表現することが可能なんだねえ、としみじみ恐ろしくなるのだった。
あと、どうでもいいことかもだけど、聞こえてくる英語のキレのかっこいいこと。こっちのPoetry Readingとかでも思うけど、多少わかんないとこがあってもオリジナルに触れておく、って必要だなあ、って。
終わったら23時過ぎてて、みなさん駐車場に向かって(そうだよね..)、自分はホテルまで歩いた。 ホテルは場所と値段と名前できめて、名前だけいうと、Tsai Ming-liangの” Goodbye, Dragon Inn”ていう映画を思い出したからだったのだが、たどり着いたそこはパブの裏手に作られた掘立小屋みたいなとこで、まさか相部屋? ではなかったが、ヒーターは付かなくて寒いのですぐに布団にもぐってねた。
翌朝は5:15くらいの始発に乗れば会社にじゅうぶん間に合うはずだったのだが、少し喉が痛くてだるかったのと、あんなすごい演劇見たあとだと、仕事なんてどうでもいいや(よくある)、になってしまい会社やすむことにして、6:30くらいの電車で戻った。
で、いちんちごろごろしてから晩に”Thor: Ragnarok”みて、やっぱこれだよねえ!(←てきとー)て盛りあがったらきちんと発熱して木曜日も会社やすんだ。
10.26.2017
[film] The Glass Castle (2017)
15日、日曜日の午後にPiccadillyのPicturehouseで見ました。 LFFも終わっちゃってつまんないし、なんかないかなー、くらいで。
2005年に出版されてベストセラーになったNew York Magazineの記者のメモワールを映画化したもの。翻訳本は2007年に『ガラスの城の子どもたち』というタイトルで河出から出ているもよう(未読)。
80年代のNYで働くJeannette Walls (Brie Larson)は結婚も控えて前途も揚々で、でも目の前にきらきらした未来が見えるたびに、彼女の脳裏には小さかった頃の家族との記憶が蘇ってくる。
Jeannetteの父親のRex(Woody Harrelson)は豪快で破天荒なドリーマーで、母親のRose Mary (Naomi Watts)は画家 - プロフェッショナルな画家というよりは日曜画家 - で、のんびりおっとり生活を楽しむタイプで、父はドリーマーの常としてホラみたいなでっかいことはいくらでも言うけどあんま生産的なことはしてくれなくて、旅の途中で廃屋みたいなところを見つけて終の住処とすべくリフォームしながら、でも実際のところはアル中になっていたりぼろぼろで生活は困窮して子供たちは棄ておかれて食べ物も貰えない日々が続いたりして、年を経て子供たちが成長してくると彼のしょうもなさや暴力的なところもより際立ってきて、あーあ、になっていく。
映画は都会に暮らす現代のJeannetteが直面するいろんなこと - ホームレスのようになってしまった父はLower Eastの廃墟となったアパートを占拠したりしている - と幼い頃から成長して父のいろんなことに耐えられなくなって家を出るまでのエピソードを交互に映しだしながら、家族が共に老いていく、変わっていくことの儚さ難しさとか、それでも一番に輝いて見える幼い頃の父の思い出と、それがあったからここまで来れたのかも、とか、どんなに腐ってぼろぼろになったってあたしの家族はあたしの家族なのかも、とか、それらのぐるぐる回る思いがJeannette - Brie Larsonの強い強い眼差しのなかで語られる。
監督は“I Am Not a Hipster” (2012) ~ “Short Term 12” (2013) のDestin Daniel Crettonさんで、暗く重く訴えかける系のにしようと思えばいくらでもそうできそうなテーマを透明な - 過ぎてしまうことは過ぎてしまうことで、次はたぶんくるから - な目線で追っていくので辛くない。 金融関係のばりばりの婚約者をRexに紹介するシーンなんてはらはらどきどきでとてもおもしろいし。
Woody Harrelsonの父とNaomi Wattsの母の組み合わせってなかなかリアルで強烈だと思うのだが、これに正面からぶつかってぜんぜん負けないBrie Larsonさんの芯のぶっとさも改めてすごい。 “Room” (2015)でもそんなかんじだったけど。
これ、駅とかにポスターも割と貼ってあった気がするのだがロンドンではもう殆ど上映されていないの。ぜんぜん悪くないのに。 たぶん、ここにあるようなてんてんと放浪していく家族の像ってイギリスではまったく理解されにくいタイプのやつかもしれない、て少し思った。
2005年に出版されてベストセラーになったNew York Magazineの記者のメモワールを映画化したもの。翻訳本は2007年に『ガラスの城の子どもたち』というタイトルで河出から出ているもよう(未読)。
80年代のNYで働くJeannette Walls (Brie Larson)は結婚も控えて前途も揚々で、でも目の前にきらきらした未来が見えるたびに、彼女の脳裏には小さかった頃の家族との記憶が蘇ってくる。
Jeannetteの父親のRex(Woody Harrelson)は豪快で破天荒なドリーマーで、母親のRose Mary (Naomi Watts)は画家 - プロフェッショナルな画家というよりは日曜画家 - で、のんびりおっとり生活を楽しむタイプで、父はドリーマーの常としてホラみたいなでっかいことはいくらでも言うけどあんま生産的なことはしてくれなくて、旅の途中で廃屋みたいなところを見つけて終の住処とすべくリフォームしながら、でも実際のところはアル中になっていたりぼろぼろで生活は困窮して子供たちは棄ておかれて食べ物も貰えない日々が続いたりして、年を経て子供たちが成長してくると彼のしょうもなさや暴力的なところもより際立ってきて、あーあ、になっていく。
映画は都会に暮らす現代のJeannetteが直面するいろんなこと - ホームレスのようになってしまった父はLower Eastの廃墟となったアパートを占拠したりしている - と幼い頃から成長して父のいろんなことに耐えられなくなって家を出るまでのエピソードを交互に映しだしながら、家族が共に老いていく、変わっていくことの儚さ難しさとか、それでも一番に輝いて見える幼い頃の父の思い出と、それがあったからここまで来れたのかも、とか、どんなに腐ってぼろぼろになったってあたしの家族はあたしの家族なのかも、とか、それらのぐるぐる回る思いがJeannette - Brie Larsonの強い強い眼差しのなかで語られる。
監督は“I Am Not a Hipster” (2012) ~ “Short Term 12” (2013) のDestin Daniel Crettonさんで、暗く重く訴えかける系のにしようと思えばいくらでもそうできそうなテーマを透明な - 過ぎてしまうことは過ぎてしまうことで、次はたぶんくるから - な目線で追っていくので辛くない。 金融関係のばりばりの婚約者をRexに紹介するシーンなんてはらはらどきどきでとてもおもしろいし。
Woody Harrelsonの父とNaomi Wattsの母の組み合わせってなかなかリアルで強烈だと思うのだが、これに正面からぶつかってぜんぜん負けないBrie Larsonさんの芯のぶっとさも改めてすごい。 “Room” (2015)でもそんなかんじだったけど。
これ、駅とかにポスターも割と貼ってあった気がするのだがロンドンではもう殆ど上映されていないの。ぜんぜん悪くないのに。 たぶん、ここにあるようなてんてんと放浪していく家族の像ってイギリスではまったく理解されにくいタイプのやつかもしれない、て少し思った。
[film] On the Beach at Night Alone (2017)
15日、日曜日の昼、Haymarketの映画館でみました。 これがLFFの最後のやつ。
邦題は「ひとり、夜の浜辺で...」 かな。
ホン・サンスの映画というと、いつもシネマート新宿(だっけ?)の上のほうにあるちいさい画面をひとり見上げる、イメージなのだが、穏やかに秋が深まるロンドンのでっかいスクリーンで見てもぜんぜんさまになるの。
あいかわらずおもしろいねえ。 そしてあいかわらず、どこがどうしておもしろいんだかわかんねーんだけど。
2部構成で、最初の舞台はドイツ(?)で、女優らしい主人公(Min-hee Kim)が現地に暮らす友人(女性)のところを訪ねてきていて、彼女は少し疲れているようで、暫くふらふらしたいと言って、公園に行ったり、本屋を訪ねたり、現地の友人夫婦の家を訪ねたりしてて、他方で妻のいる彼が自分を訪ねてくるかもしれない、訪ねてくると言ってたし、待ってみるか、とかいう。
次の部で彼女は韓国(?)に帰国していて、これも同じように複数の友人を訪ねてカフェに行ったり、飲み屋の座敷で飲んで上がったり下がったりして、温泉旅館に行ったりして、そこでの会話は前の部のとそんなに変わらない。 今の自分の状態(しばらく休む)とこれからの展望(希望)と、ほんとはどうしたいのかを少しだけ述べる。 でもそれが具体的な次の行動に繋がることはなくて、結局だらだら歩いてひたすら食べて呑んでおしゃべりしているだけに見える。
繰り返すが、これがなんでおもしろく見えてしまうのかの驚異が、その理由がまだ十分に掴めていない。
映画を見ているときは、あははとか少し笑って、なにかがわかった気になったりするのだが、終わってみると実はなにもわかっていなかった、見えていなかったかもしれないことに戦慄して背筋が寒くなる。(いや、単に忘れてしまっただけなのかもしれない)
よく対比に出されるロメールの映画と比べても、ロメールのがまだわかるの。 恋愛が、或は恋愛に対する想いが主人公たちをどこかなにかに向かわせたり走らせたり。 ホン・サンスの映画の主人公たちも遠くから早送りで見れば同じように見えるのかも知れないが、それよか遥かに不気味で得体がしれない。 なんでそういう行動に出るのか、なにを言いだすのか、なんで突然キスしたりするのか、が映画を追っていくその速度や密度からは読み取れないので、え? なにいまの? なにが起こったの? みたいなのばっかりで、そこでなんだよあいつわけわかんね、と怒ってしまうのか、おもしろいひともいるもんだねえこんなのあるのかもねえ、て感嘆してしまうか、で彼の映画に対する反応は分かれるのではないか。
もういっこあるのは、その数秒先が読めない/光が当たっていないかんじにくっついてやってくる生々しさ、のようなもの。これが構図の据え方によるものなのか、光とか音によるものなのかわからないのだが、生々しいなにかが向こうから飛んでくることは確かなの。 突然キスしたりされたりするときのぬるっとしたかんじとか、浜辺に靴をぬいで直にぴたぴたしたときのかんじとか。
あとは顔のよく見えない、挨拶してきたり担いだり、ただそこにいる得体の知れない男の得体の知れなさとか。その得体の知れないかんじもこの文脈のなかでは、妙にわかってしまう不思議。
で、それで? とか だから? って聞いてくるひとが必ずいて、それが来るとお手上げで登場人物のように向こうにすたすた歩いて逃げちゃうのがいちばんよいの。
あと、これってぐちゃっとこんがらがった恋愛バナをつまりはこういうことなのよねわかるー、って理屈つけて整理して共感しあったりするのが好きな(あくまで個人の感想です)日本のみんなにはちょっと取っつきにくいなんかかも知れない、とか。 そのわけわかんなさが中毒になるのだけどー。
邦題は「ひとり、夜の浜辺で...」 かな。
ホン・サンスの映画というと、いつもシネマート新宿(だっけ?)の上のほうにあるちいさい画面をひとり見上げる、イメージなのだが、穏やかに秋が深まるロンドンのでっかいスクリーンで見てもぜんぜんさまになるの。
あいかわらずおもしろいねえ。 そしてあいかわらず、どこがどうしておもしろいんだかわかんねーんだけど。
2部構成で、最初の舞台はドイツ(?)で、女優らしい主人公(Min-hee Kim)が現地に暮らす友人(女性)のところを訪ねてきていて、彼女は少し疲れているようで、暫くふらふらしたいと言って、公園に行ったり、本屋を訪ねたり、現地の友人夫婦の家を訪ねたりしてて、他方で妻のいる彼が自分を訪ねてくるかもしれない、訪ねてくると言ってたし、待ってみるか、とかいう。
次の部で彼女は韓国(?)に帰国していて、これも同じように複数の友人を訪ねてカフェに行ったり、飲み屋の座敷で飲んで上がったり下がったりして、温泉旅館に行ったりして、そこでの会話は前の部のとそんなに変わらない。 今の自分の状態(しばらく休む)とこれからの展望(希望)と、ほんとはどうしたいのかを少しだけ述べる。 でもそれが具体的な次の行動に繋がることはなくて、結局だらだら歩いてひたすら食べて呑んでおしゃべりしているだけに見える。
繰り返すが、これがなんでおもしろく見えてしまうのかの驚異が、その理由がまだ十分に掴めていない。
映画を見ているときは、あははとか少し笑って、なにかがわかった気になったりするのだが、終わってみると実はなにもわかっていなかった、見えていなかったかもしれないことに戦慄して背筋が寒くなる。(いや、単に忘れてしまっただけなのかもしれない)
よく対比に出されるロメールの映画と比べても、ロメールのがまだわかるの。 恋愛が、或は恋愛に対する想いが主人公たちをどこかなにかに向かわせたり走らせたり。 ホン・サンスの映画の主人公たちも遠くから早送りで見れば同じように見えるのかも知れないが、それよか遥かに不気味で得体がしれない。 なんでそういう行動に出るのか、なにを言いだすのか、なんで突然キスしたりするのか、が映画を追っていくその速度や密度からは読み取れないので、え? なにいまの? なにが起こったの? みたいなのばっかりで、そこでなんだよあいつわけわかんね、と怒ってしまうのか、おもしろいひともいるもんだねえこんなのあるのかもねえ、て感嘆してしまうか、で彼の映画に対する反応は分かれるのではないか。
もういっこあるのは、その数秒先が読めない/光が当たっていないかんじにくっついてやってくる生々しさ、のようなもの。これが構図の据え方によるものなのか、光とか音によるものなのかわからないのだが、生々しいなにかが向こうから飛んでくることは確かなの。 突然キスしたりされたりするときのぬるっとしたかんじとか、浜辺に靴をぬいで直にぴたぴたしたときのかんじとか。
あとは顔のよく見えない、挨拶してきたり担いだり、ただそこにいる得体の知れない男の得体の知れなさとか。その得体の知れないかんじもこの文脈のなかでは、妙にわかってしまう不思議。
で、それで? とか だから? って聞いてくるひとが必ずいて、それが来るとお手上げで登場人物のように向こうにすたすた歩いて逃げちゃうのがいちばんよいの。
あと、これってぐちゃっとこんがらがった恋愛バナをつまりはこういうことなのよねわかるー、って理屈つけて整理して共感しあったりするのが好きな(あくまで個人の感想です)日本のみんなにはちょっと取っつきにくいなんかかも知れない、とか。 そのわけわかんなさが中毒になるのだけどー。
10.23.2017
[film] The Inertia Variations (2017)
こっちから先に書く。
20日の金曜日、テヘランからヒースローに着いたのが正午くらいで、一旦荷物置いて夏服を替えてから会社に行って、5時過ぎに飛びだして(座席指定じゃなかったので)ICAの列に並んだ。
18日のRoyal Albert Hall (Elgar Room) でのトークは涙を飲んだけど、こっちはなんとしても、だったの。
The The - Matt Johnson - のドキュメンタリーのLondonプレミア。
でもどんなものかはぜんぜん知らないで行ったの。「ものぐさ変奏曲」?
冒頭に監督のJohanna St Michaelsさんが挨拶に立って、この作品は詩人のJohn Tottenhamの同名の詩のシリーズにインスパイアされてできたものです、と言って客席にいるJohn Tottenhamさんを紹介する。
映画は最初、Radio Cineolaの電波塔(?)を建てるところから入って、一見アートプロジェクトの進行過程を追っていくのかと思いきや、基本はMatt Johnsonのなかなか音楽制作に向かうことができないゆるゆるの日々を綴っていく。 The Theの動きが見られなかった00年代真ん中くらいから最近まで、彼はいったいなにをしていたのか? 別に欝で苦しんでいるふうではなくて、自宅兼スタジオで自身のラジオ番組 - Radio Cineola - にゲストを呼んでThe Theのスタンダードを演奏させたり(何人かはびっくりするくらいよいの)、慌ただしく働いているようなのだが、曲を書けないし歌う気にもなれないしもう12年くらい歌っていない - 世界は目まぐるしく変わっているしやることは沢山あるし - そんな理屈あんなコメントをいろんな場面でつぶやきながら、映画は彼の家族や89年の弟Eugeneの死のことなどにも触れていく。
あなたにとって音楽は失敗できない妥協を許さない絶対の領域であるのに対し、ラジオは失敗したってそんなに痛くない、今のあなたがラジオとかに入れこんでしまうのはそのせい? て監督に突っこまれてもごもごしてしまったりしている。
後半に入って唐突に彼の兄Andy Johnson - The Theの初期のジャケットアートを手掛けていた画家 - が亡くなり、ここから少し様子が変わって、Andyの遺した彼のアートを見つめなおしていく過程でMattは楽器を少しづつ触り始める。F#のコードを転がしていくと - ブランケットに包まれるという言い方をする - 何かが生まれてくることがある、と(過去の曲のいくつかのフレーズをぴらぴら流してくれて)。
やがてこうして、フィルムの最後には彼の十数年ぶりとなる“We Can't Stop What's Coming”がRadio Cineolaのスタジオで演奏されることになる(ここにはまだJohnny Marrはいない)。 「やってくるものを止めることはできない」と。Mattは普通に歌っているだけなのにそれはとてもとても感動的なシーンで、客席には声を殺して泣いている人たちが何人もいた(わかるから)。
上映後のQ&Aには監督、Matt Johnson、John Tottenhamの3人が並んで、映画となっていったいきさつとかいろいろ。最初は2003年頃に、Johnの”Inertia Variations”てあなたのことよね、と監督と話しながらなんとなくカメラを回すようになって、最初は共同作業 - アートプロジェクトのような - を進めていく記録のつもりだったのが、だんだん視点がMattの日々の生活のほうに移っていって、その流れがAndyの死で更に大きく変わっていったと。
おもしろかったのが、Johnの詩の"A Long Hard Lazy Apprenticeship"をまずMattが朗読して、それに続けてJohnが自作を読んだところ。
Mattの朗読は、それはそれはブリリアントで揺るぎなくて、そのまま歌に入ってくれないか、くらいにかっこよいのだが、Johnのは酔っ払いが酒場でくだを巻いているようにしか聞こえない。 そういう幅、受け口をもった詩なんだねえ。(この違いについてはJG Thirlwell - FoetusさんもBoxsetのブックレットで書いている)
質問でよかったのが、"Infected"が86年にリリースされたとき僕は13歳で、このアルバムは目の前に広がる大きな世界を示してくれて人生を変えてくれて(うんうんいう人多数)、でも今の時代の音楽にそれだけの力はあるのでしょうか? というやつ。同様に"Infected"(後述)の上映前のイントロで、今これと同じような映像化プロジェクトをやったらどうなるか? と問われて、どちらの問いに対しても状況が当時とは全く違ってしまっているので難しいかもね、と。 その辺の答えを探し求める旅がMattにとっての”Inertia Variations”だったのではないだろうか。
ライブに向けて新しい曲も書き始めていて、新バンドのメンツも決まって、やるから、と力強く言ってた。
終わって、ロビーの物販のところでRadio Cineola Trilogy Boxsetのアナログのほうを買って次の上映のために並んだのだが、Mattが物販のとこでサイン会を始めてしまったので列から離れてサインもらった。なのでサイン貰ってシアターに入ったときには席はほとんど埋まってた(ひとりで行くとこれだからさー)。
前にも書いた、Boxsetについているブックレットの序文をJG Thirlwell (Foetus)さんが書いていて、これがおもしろいの。
JGは78年から83年までロンドンで暮していて、The Scalaっていう50年代B級SFとかを上映する映画館に昼から夜まで入り浸っていた。そこでJohn Tottenhamさんと会って、ふたりでJoy Division, Pop Group, Essential Logic, This Heatなんかのライブに通いまくって仲良くなった、と。
The Theのライブを見たのもそういう中で、Wireの前座で、Mattと最初に会ったのは当時Mick Harveyとシェアしていたアパートのソファで、パーティ明け(The Theの前座がThe Birthday Partyだったって..)に彼が寝転がっているのを発見したときだって。
やがてJGはNYに居を移して、Mattもそのうちやってきて交流は続いたのだが、二人ともどんどん次のアルバムへのリリース間隔が延びていって、なんだろうね? というときにJohn Tottenhamの件の詩に出会っ、これおもしろいよ、ってMattに渡した、と。
これだけでも十分映画になりそうな。
The The: Infected (1987)
続いて"Infected"の映像版上映、ということでイントロでMatt Johnsonと映像作家のTim Pope(彼は”Inertia Variations”にも出てくる)が登場した。
"Infected"の制作は27人のミュージシャンを使いものすごいお金と時間が掛かった大プロジェクトだったので、レコード会社側はプロモーションをやれ人前に出てトークをしろ、とうるさくて、面倒だったのでこういうのを作ったのだ、って。(それでさっくり作っちゃう方もどうか、だけど)
4人の監督がいるなかで、Matt自身がすごいと思ったのは"The Mercy Beat"のPeter Christophersonと、"Out of the Blue"の Tim Popeのふたりだったと。 前者は南米のジャングルで、後者はNYのHarlemで、どっちも現場は相当やばかったらしいのだが、ふたりともへらへら笑っているのだった。(足下にでっかいネズミが寄ってきてさ、そこでそのまま腹向けて死んじゃったんだよ... とか)
この上映のために Tim Popeさんは改めて全部を見直してみたらしいのだが、ぜんぜんいけるじゃん、と思ったと。
久々に見た。 全部を通してきちんと見たのは初めてだったかも。 あっというま。
当時、Peter Barakan師が当時の彼(ら)を「英国から現れた素晴らしい才能」と絶賛していたので正座して見たことを思い出す。
一見するとポストコロニアルの時代、911以降の今の時代にどうか、みたいな映像もないことはないが、見るべきはそういうところではないの。 "Tweeted"でも"Liked"もで"Shared"でもない、"Infected" - 「感染する/させられる」ようなかたちで現れてくる世界の像と、では感染していない状態とはなんなのか、とか、世界をまるごとひっつかんで(変えて)やろうという意思が漲っていて、それはこの後更に"Mind Bomb"として炸裂する。 狂信でも盲信でもない、それは呼吸であり生殖であり感染であり浸食であり増殖であり、世界を生き抜くというのはそういうことなのだ、という確信の大風呂敷があって、それがいつからこんなふうになってしまったのやら、と改めて思ってしまうのだった。 遠くなったもんじゃ。
でもこの日、これを作ったひとと会って、彼は再び動きだそうとしている。 そうはっきりと言った。
これだけで十分だったの。
Some Bizzareのロゴ、なんか懐かしかった。
選挙の結果? 絶望しかないわ。 ほんとにあそこの国民やめたい。
20日の金曜日、テヘランからヒースローに着いたのが正午くらいで、一旦荷物置いて夏服を替えてから会社に行って、5時過ぎに飛びだして(座席指定じゃなかったので)ICAの列に並んだ。
18日のRoyal Albert Hall (Elgar Room) でのトークは涙を飲んだけど、こっちはなんとしても、だったの。
The The - Matt Johnson - のドキュメンタリーのLondonプレミア。
でもどんなものかはぜんぜん知らないで行ったの。「ものぐさ変奏曲」?
冒頭に監督のJohanna St Michaelsさんが挨拶に立って、この作品は詩人のJohn Tottenhamの同名の詩のシリーズにインスパイアされてできたものです、と言って客席にいるJohn Tottenhamさんを紹介する。
映画は最初、Radio Cineolaの電波塔(?)を建てるところから入って、一見アートプロジェクトの進行過程を追っていくのかと思いきや、基本はMatt Johnsonのなかなか音楽制作に向かうことができないゆるゆるの日々を綴っていく。 The Theの動きが見られなかった00年代真ん中くらいから最近まで、彼はいったいなにをしていたのか? 別に欝で苦しんでいるふうではなくて、自宅兼スタジオで自身のラジオ番組 - Radio Cineola - にゲストを呼んでThe Theのスタンダードを演奏させたり(何人かはびっくりするくらいよいの)、慌ただしく働いているようなのだが、曲を書けないし歌う気にもなれないしもう12年くらい歌っていない - 世界は目まぐるしく変わっているしやることは沢山あるし - そんな理屈あんなコメントをいろんな場面でつぶやきながら、映画は彼の家族や89年の弟Eugeneの死のことなどにも触れていく。
あなたにとって音楽は失敗できない妥協を許さない絶対の領域であるのに対し、ラジオは失敗したってそんなに痛くない、今のあなたがラジオとかに入れこんでしまうのはそのせい? て監督に突っこまれてもごもごしてしまったりしている。
後半に入って唐突に彼の兄Andy Johnson - The Theの初期のジャケットアートを手掛けていた画家 - が亡くなり、ここから少し様子が変わって、Andyの遺した彼のアートを見つめなおしていく過程でMattは楽器を少しづつ触り始める。F#のコードを転がしていくと - ブランケットに包まれるという言い方をする - 何かが生まれてくることがある、と(過去の曲のいくつかのフレーズをぴらぴら流してくれて)。
やがてこうして、フィルムの最後には彼の十数年ぶりとなる“We Can't Stop What's Coming”がRadio Cineolaのスタジオで演奏されることになる(ここにはまだJohnny Marrはいない)。 「やってくるものを止めることはできない」と。Mattは普通に歌っているだけなのにそれはとてもとても感動的なシーンで、客席には声を殺して泣いている人たちが何人もいた(わかるから)。
上映後のQ&Aには監督、Matt Johnson、John Tottenhamの3人が並んで、映画となっていったいきさつとかいろいろ。最初は2003年頃に、Johnの”Inertia Variations”てあなたのことよね、と監督と話しながらなんとなくカメラを回すようになって、最初は共同作業 - アートプロジェクトのような - を進めていく記録のつもりだったのが、だんだん視点がMattの日々の生活のほうに移っていって、その流れがAndyの死で更に大きく変わっていったと。
おもしろかったのが、Johnの詩の"A Long Hard Lazy Apprenticeship"をまずMattが朗読して、それに続けてJohnが自作を読んだところ。
Mattの朗読は、それはそれはブリリアントで揺るぎなくて、そのまま歌に入ってくれないか、くらいにかっこよいのだが、Johnのは酔っ払いが酒場でくだを巻いているようにしか聞こえない。 そういう幅、受け口をもった詩なんだねえ。(この違いについてはJG Thirlwell - FoetusさんもBoxsetのブックレットで書いている)
質問でよかったのが、"Infected"が86年にリリースされたとき僕は13歳で、このアルバムは目の前に広がる大きな世界を示してくれて人生を変えてくれて(うんうんいう人多数)、でも今の時代の音楽にそれだけの力はあるのでしょうか? というやつ。同様に"Infected"(後述)の上映前のイントロで、今これと同じような映像化プロジェクトをやったらどうなるか? と問われて、どちらの問いに対しても状況が当時とは全く違ってしまっているので難しいかもね、と。 その辺の答えを探し求める旅がMattにとっての”Inertia Variations”だったのではないだろうか。
ライブに向けて新しい曲も書き始めていて、新バンドのメンツも決まって、やるから、と力強く言ってた。
終わって、ロビーの物販のところでRadio Cineola Trilogy Boxsetのアナログのほうを買って次の上映のために並んだのだが、Mattが物販のとこでサイン会を始めてしまったので列から離れてサインもらった。なのでサイン貰ってシアターに入ったときには席はほとんど埋まってた(ひとりで行くとこれだからさー)。
前にも書いた、Boxsetについているブックレットの序文をJG Thirlwell (Foetus)さんが書いていて、これがおもしろいの。
JGは78年から83年までロンドンで暮していて、The Scalaっていう50年代B級SFとかを上映する映画館に昼から夜まで入り浸っていた。そこでJohn Tottenhamさんと会って、ふたりでJoy Division, Pop Group, Essential Logic, This Heatなんかのライブに通いまくって仲良くなった、と。
The Theのライブを見たのもそういう中で、Wireの前座で、Mattと最初に会ったのは当時Mick Harveyとシェアしていたアパートのソファで、パーティ明け(The Theの前座がThe Birthday Partyだったって..)に彼が寝転がっているのを発見したときだって。
やがてJGはNYに居を移して、Mattもそのうちやってきて交流は続いたのだが、二人ともどんどん次のアルバムへのリリース間隔が延びていって、なんだろうね? というときにJohn Tottenhamの件の詩に出会っ、これおもしろいよ、ってMattに渡した、と。
これだけでも十分映画になりそうな。
The The: Infected (1987)
続いて"Infected"の映像版上映、ということでイントロでMatt Johnsonと映像作家のTim Pope(彼は”Inertia Variations”にも出てくる)が登場した。
"Infected"の制作は27人のミュージシャンを使いものすごいお金と時間が掛かった大プロジェクトだったので、レコード会社側はプロモーションをやれ人前に出てトークをしろ、とうるさくて、面倒だったのでこういうのを作ったのだ、って。(それでさっくり作っちゃう方もどうか、だけど)
4人の監督がいるなかで、Matt自身がすごいと思ったのは"The Mercy Beat"のPeter Christophersonと、"Out of the Blue"の Tim Popeのふたりだったと。 前者は南米のジャングルで、後者はNYのHarlemで、どっちも現場は相当やばかったらしいのだが、ふたりともへらへら笑っているのだった。(足下にでっかいネズミが寄ってきてさ、そこでそのまま腹向けて死んじゃったんだよ... とか)
この上映のために Tim Popeさんは改めて全部を見直してみたらしいのだが、ぜんぜんいけるじゃん、と思ったと。
久々に見た。 全部を通してきちんと見たのは初めてだったかも。 あっというま。
当時、Peter Barakan師が当時の彼(ら)を「英国から現れた素晴らしい才能」と絶賛していたので正座して見たことを思い出す。
一見するとポストコロニアルの時代、911以降の今の時代にどうか、みたいな映像もないことはないが、見るべきはそういうところではないの。 "Tweeted"でも"Liked"もで"Shared"でもない、"Infected" - 「感染する/させられる」ようなかたちで現れてくる世界の像と、では感染していない状態とはなんなのか、とか、世界をまるごとひっつかんで(変えて)やろうという意思が漲っていて、それはこの後更に"Mind Bomb"として炸裂する。 狂信でも盲信でもない、それは呼吸であり生殖であり感染であり浸食であり増殖であり、世界を生き抜くというのはそういうことなのだ、という確信の大風呂敷があって、それがいつからこんなふうになってしまったのやら、と改めて思ってしまうのだった。 遠くなったもんじゃ。
でもこの日、これを作ったひとと会って、彼は再び動きだそうとしている。 そうはっきりと言った。
これだけで十分だったの。
Some Bizzareのロゴ、なんか懐かしかった。
選挙の結果? 絶望しかないわ。 ほんとにあそこの国民やめたい。
10.21.2017
[film] Here to be Heard: The Story of The Slits (2017)
14日の晩の9時からBFIで見ました。LFFで、当然のように売り切れていた。
“The Meyerowitz Stories (New and Selected)”の次に見たかったやつ。
会場内はやはり女性が圧倒的に多くて、しかもみなさんどなたも闘士の顔をしていてかっこよいったら。あとは老いて擦りきれた出がらしパンクスもいっぱい。 パンクのドキュメンタリーとしてはこないだ見た” The Public Image is Rotten”が自分のなかでは相当上位にきたのだが、これ見てこっちの方にひっくり返った。
映画は、"In the Beginning There Was Rhythm"の絶叫から始まって(そうよねー)、Tessaが家に残していたスクラップブックを軸に新旧メンバーと、関係者証言と、いろんなフッテージを繋いで、「世界で最初のAll Girlsパンクバンド」の歴史を追っていく。いろいろ纏めるのに4年くらいかかったって。関係者として出てくるのはGina Birch, Vivien Goldman, Neneh Cherry, Budgie, Don Letts, Dennis Bovell, Adrien Sherwood, などなど。
Tessaが語るパンク最初期の話がまずはおもしろくて、RoxyでGeneration Xがやるときの前説を振られたとか、最初のギグはClash / Buzzcocks / Subway Sectsの前だったとか、やはり最初はあんま考えてなかったので演奏とかはめちゃくちゃで、でもJoe Strummerがいろいろ守ってくれたとか、最初に新聞記事になったときはバンド名は(バンド名故に)プリントされなかった、とか。
ふつうのパンクで言われがちなヴィジュアルが決まってるとか、かっこいいとか、そういうのとは無縁でとにかく破天荒でめちゃくちゃだったのね、というのが細切れのライブ映像とかスナップから伝わってきて、Ari UpもVivもTessaもPalmoliveもどっから来たんだこいつら?の無頼はぐれ者感がとてつもないし、特にAri Up – デビュー当時14歳 – のノラ猫っぷりときたらすごくて、単に映像見ているだけでほえーってなって、とにかく興奮する。
他の映像としてはJoe StrummerとじゃれてるAri Upとか、Keith Leveneと一緒のとことか、Chrissie Hyndeにギター教わっているとことか、いったいどこから見つけてきたのだろうか。
パンクのありようとしては、ジェンダーの壁をとっぱらった、ていうのと人種差別の壁もとっぱらった、ていうのと、音のアタックの強さ、エコーのえぐるかんじと、絶叫がすべてをふっとばして、でもお構いなしにどこまでもどこどこ鳴り続けていて、なにもかも痛快としか言いようがない。女の子がバンドをやる、パンクをやる、その意義と理由の全てが彼女たち - 割れ目とか裂け目とか - から噴火噴出していて、それは彼女たちだけのものではなくて女の子みんなの手元足下にある。
聴いたことないのなら、まずは聴いてみること。パンクやりたいなら、とっととやれ、って。
上映後のQ&Aは監督とかスタッフに加えて客席にいたPalmoliveとTessaが登場したのだが、答える側より聞く側が相当めちゃくちゃで、質問しなくて言葉につまって泣いちゃう奴とか、とにかくお礼をいいたいのだとかそんなのばっか。かと思えば客席にいた派手なじじいパンクスがマイクを取ってPalmoliveは俺らのバンドの最初の頃叩いてくれたし、それだけじゃなくてBansheesだって最初は彼女が叩いてたんだよ、と言って拝んで敬礼してて、それを見た隣に座っていたすごく上品そうなおばさんが「あらSpizz(Spizzenergiの)じゃないの、まだ生きてたのねあいつ」と吐き捨てるように言ったり。 同様にすごく物静かそうできれいな英語を喋る老婆が、わたしは100 Clubの、あれが起こった最初の頃にずっとあそこにいたものですが、あなたたちは少し遅れてきた人たちだと思っていました、でもこの映画を見てすばらしいと思いましたわ、とか。やはり客席にいたDennis Bovellさんがあの声でコメント入れてきたり。
こんなふうにパンクスって生き延びていくものなのかしら? 生きてていいのかしら?
最後の質問 - 「あなたたちのようなGirls bandがSurviveできたのはなぜでしょうか?」に対するPalmoliveさんの答えがよくて。「女性であること、女性としてなにかやることに許可や同意(permission)を求めてはいけない。自分たちは一切容赦しなかった。女性だからといってPermissionを求めるようなことはしなかった」と。 いまPalmoliveさんが学校で子供たちを教えているそうなので、先生の言葉としてもとっても素敵で痺れた。
それにしても、Ari Upがこれ見たらどう思ったかしら? 笑いながらふざけてんじゃねえよ、って向こうに行っちゃうとか。
“The Meyerowitz Stories (New and Selected)”の次に見たかったやつ。
会場内はやはり女性が圧倒的に多くて、しかもみなさんどなたも闘士の顔をしていてかっこよいったら。あとは老いて擦りきれた出がらしパンクスもいっぱい。 パンクのドキュメンタリーとしてはこないだ見た” The Public Image is Rotten”が自分のなかでは相当上位にきたのだが、これ見てこっちの方にひっくり返った。
映画は、"In the Beginning There Was Rhythm"の絶叫から始まって(そうよねー)、Tessaが家に残していたスクラップブックを軸に新旧メンバーと、関係者証言と、いろんなフッテージを繋いで、「世界で最初のAll Girlsパンクバンド」の歴史を追っていく。いろいろ纏めるのに4年くらいかかったって。関係者として出てくるのはGina Birch, Vivien Goldman, Neneh Cherry, Budgie, Don Letts, Dennis Bovell, Adrien Sherwood, などなど。
Tessaが語るパンク最初期の話がまずはおもしろくて、RoxyでGeneration Xがやるときの前説を振られたとか、最初のギグはClash / Buzzcocks / Subway Sectsの前だったとか、やはり最初はあんま考えてなかったので演奏とかはめちゃくちゃで、でもJoe Strummerがいろいろ守ってくれたとか、最初に新聞記事になったときはバンド名は(バンド名故に)プリントされなかった、とか。
ふつうのパンクで言われがちなヴィジュアルが決まってるとか、かっこいいとか、そういうのとは無縁でとにかく破天荒でめちゃくちゃだったのね、というのが細切れのライブ映像とかスナップから伝わってきて、Ari UpもVivもTessaもPalmoliveもどっから来たんだこいつら?の無頼はぐれ者感がとてつもないし、特にAri Up – デビュー当時14歳 – のノラ猫っぷりときたらすごくて、単に映像見ているだけでほえーってなって、とにかく興奮する。
他の映像としてはJoe StrummerとじゃれてるAri Upとか、Keith Leveneと一緒のとことか、Chrissie Hyndeにギター教わっているとことか、いったいどこから見つけてきたのだろうか。
パンクのありようとしては、ジェンダーの壁をとっぱらった、ていうのと人種差別の壁もとっぱらった、ていうのと、音のアタックの強さ、エコーのえぐるかんじと、絶叫がすべてをふっとばして、でもお構いなしにどこまでもどこどこ鳴り続けていて、なにもかも痛快としか言いようがない。女の子がバンドをやる、パンクをやる、その意義と理由の全てが彼女たち - 割れ目とか裂け目とか - から噴火噴出していて、それは彼女たちだけのものではなくて女の子みんなの手元足下にある。
聴いたことないのなら、まずは聴いてみること。パンクやりたいなら、とっととやれ、って。
上映後のQ&Aは監督とかスタッフに加えて客席にいたPalmoliveとTessaが登場したのだが、答える側より聞く側が相当めちゃくちゃで、質問しなくて言葉につまって泣いちゃう奴とか、とにかくお礼をいいたいのだとかそんなのばっか。かと思えば客席にいた派手なじじいパンクスがマイクを取ってPalmoliveは俺らのバンドの最初の頃叩いてくれたし、それだけじゃなくてBansheesだって最初は彼女が叩いてたんだよ、と言って拝んで敬礼してて、それを見た隣に座っていたすごく上品そうなおばさんが「あらSpizz(Spizzenergiの)じゃないの、まだ生きてたのねあいつ」と吐き捨てるように言ったり。 同様にすごく物静かそうできれいな英語を喋る老婆が、わたしは100 Clubの、あれが起こった最初の頃にずっとあそこにいたものですが、あなたたちは少し遅れてきた人たちだと思っていました、でもこの映画を見てすばらしいと思いましたわ、とか。やはり客席にいたDennis Bovellさんがあの声でコメント入れてきたり。
こんなふうにパンクスって生き延びていくものなのかしら? 生きてていいのかしら?
最後の質問 - 「あなたたちのようなGirls bandがSurviveできたのはなぜでしょうか?」に対するPalmoliveさんの答えがよくて。「女性であること、女性としてなにかやることに許可や同意(permission)を求めてはいけない。自分たちは一切容赦しなかった。女性だからといってPermissionを求めるようなことはしなかった」と。 いまPalmoliveさんが学校で子供たちを教えているそうなので、先生の言葉としてもとっても素敵で痺れた。
それにしても、Ari Upがこれ見たらどう思ったかしら? 笑いながらふざけてんじゃねえよ、って向こうに行っちゃうとか。
10.20.2017
[film] Downsizing (2017)
14日の土曜日のごご、“Let the Sunshine In“のあとに少し歩いて移動して、Licester Odeonていう一番でっかいLFFのメイン会場で見ました。今回ここで見た唯一の一本。Alexander Payneの新作。
冒頭、ノルウェイのベルゲンの生化学研究所みたいなとこで、ネズミを使ったなんかの実験がうまくいったらしく、研究者はおおおってなって、次のシーンは5年後で、どこかの学会で人口爆発による食糧難を解決するかもしれない画期的な研究成果を発表します、と檀上の箱を開けると十数センチの人がにこやかに手を振っている。更に数十人、同様にダウンサイジングされた研究仲間の人々や家族が別の箱から手品のように現れて、彼らが1年間で排出したゴミはたったこれだけなんです、とか、サイズが小さくなれば消費する資源の量も排出されるゴミの量も抑制されるので地球にはとってもやさしいのです、という成果が強調されて観客はおおおおってなる。
アメリカに暮らして食肉工場で整体師をしているPaul (Matt Damon)は妻のAudrey (Kristen Wiig)と二人で住む家を探しているのだが住宅ローンが下りなかったりで苦労してて、そんなとき小さい人々の居住コミュニティ(ある地域の一画をすべて縮んでいった人達向けの計画都市 - ニュータウンみたいな - として作って売りだしている)を見学して、ここなら今の予算でも十分賄えそうだし移住してみようか、てなって、家族や友人達ともお別れして、ダウンサイジングすることにする。
ふたり揃って誓約して、まずはPaulが縮小する工程(なかなかおもしろい)を通って小さくなってみるとAudreyは準備段階の髪と片方の眉毛を剃ったところで怖くなってやめて逃げちゃったと。ひとりだけ小さくなって意気消沈して暮らすPaulだったが同じアパートで陽気に暮らすChristoph WaltzとかUdo Kierとかと知り合い、更に掃除婦として現れたベトナム人の元アクティヴィスト - Ngoc Lan Tran(Hong Chau)と出会ってばしばしこき使われたりしているうちに少しづつ変わっていってやがて。
設定はSF、しかも結構リアリティのあるSFで、うまくやれば“Elysium“ (2013) とか“High-Rise“ (2015)のような倒錯した変てこユートピア/ディストピア劇にできたかもしれないのだが、そこはAlexander Payneなので、基本は傷ついて立ち直れないかんじになりつつあった男がある出会いをきっかけに立ち止まったり踏みとどまったりして自分の場所を再発見する、そういうドラマになってしまう。 別にぜんぜん良いのだけど、そういうドラマなら別に縮まなくてもできるんじゃねえの? とか少しだけ。
もういっこ難をいうと、Matt Damonてさあ、“Interstellar“ (2014)でも“The Martian“ (2015)でもひとりぼっちでもしぶとく生きていけるとこ見ちゃっているから、あんま説得力ないのよね。
もっと小さくなったときにほんとに小さくて吹けば飛んじゃうようではらはらかわいそうに見えるひとを主役に置いたほうがよかったかも。別にぜんぜん良いのだけど、ほんの少しだけ。
あと、自分だったらどうするか、を考える楽しみもあるねえ。 少し考えてみたけど、本とレコードが同じように縮んでくれないのだったらやなこった、て思ったの。あそこには古本屋も中古レコ屋もないだろうしな。
冒頭、ノルウェイのベルゲンの生化学研究所みたいなとこで、ネズミを使ったなんかの実験がうまくいったらしく、研究者はおおおってなって、次のシーンは5年後で、どこかの学会で人口爆発による食糧難を解決するかもしれない画期的な研究成果を発表します、と檀上の箱を開けると十数センチの人がにこやかに手を振っている。更に数十人、同様にダウンサイジングされた研究仲間の人々や家族が別の箱から手品のように現れて、彼らが1年間で排出したゴミはたったこれだけなんです、とか、サイズが小さくなれば消費する資源の量も排出されるゴミの量も抑制されるので地球にはとってもやさしいのです、という成果が強調されて観客はおおおおってなる。
アメリカに暮らして食肉工場で整体師をしているPaul (Matt Damon)は妻のAudrey (Kristen Wiig)と二人で住む家を探しているのだが住宅ローンが下りなかったりで苦労してて、そんなとき小さい人々の居住コミュニティ(ある地域の一画をすべて縮んでいった人達向けの計画都市 - ニュータウンみたいな - として作って売りだしている)を見学して、ここなら今の予算でも十分賄えそうだし移住してみようか、てなって、家族や友人達ともお別れして、ダウンサイジングすることにする。
ふたり揃って誓約して、まずはPaulが縮小する工程(なかなかおもしろい)を通って小さくなってみるとAudreyは準備段階の髪と片方の眉毛を剃ったところで怖くなってやめて逃げちゃったと。ひとりだけ小さくなって意気消沈して暮らすPaulだったが同じアパートで陽気に暮らすChristoph WaltzとかUdo Kierとかと知り合い、更に掃除婦として現れたベトナム人の元アクティヴィスト - Ngoc Lan Tran(Hong Chau)と出会ってばしばしこき使われたりしているうちに少しづつ変わっていってやがて。
設定はSF、しかも結構リアリティのあるSFで、うまくやれば“Elysium“ (2013) とか“High-Rise“ (2015)のような倒錯した変てこユートピア/ディストピア劇にできたかもしれないのだが、そこはAlexander Payneなので、基本は傷ついて立ち直れないかんじになりつつあった男がある出会いをきっかけに立ち止まったり踏みとどまったりして自分の場所を再発見する、そういうドラマになってしまう。 別にぜんぜん良いのだけど、そういうドラマなら別に縮まなくてもできるんじゃねえの? とか少しだけ。
もういっこ難をいうと、Matt Damonてさあ、“Interstellar“ (2014)でも“The Martian“ (2015)でもひとりぼっちでもしぶとく生きていけるとこ見ちゃっているから、あんま説得力ないのよね。
もっと小さくなったときにほんとに小さくて吹けば飛んじゃうようではらはらかわいそうに見えるひとを主役に置いたほうがよかったかも。別にぜんぜん良いのだけど、ほんの少しだけ。
あと、自分だったらどうするか、を考える楽しみもあるねえ。 少し考えてみたけど、本とレコードが同じように縮んでくれないのだったらやなこった、て思ったの。あそこには古本屋も中古レコ屋もないだろうしな。
[film] Un beau soleil intérieur (2017)
14日の土曜日の昼、SOHOのCurzonで見ました。LFFに出たClaire Denisの最新作で、英語題は”Let the Sunshine In”。
これがロラン・バルトの『恋愛のディスクール』のadaptationだというのは見てだいぶ経ってから知った。ふええー。35年くらい昔に読んだけどいろんな意味でちんぷんかんぷんだったことを思いだす。憶えているのはそれくらい。
でも映画はおもしろかったよう。
Isabelle (Juliette Binoche)は美術家で、かつては結婚していて娘もいるのだが今はひとりで暮していて、冒頭からデブの銀行家のおやじとねっちり絡みあってて、でも考え方も含めてすれ違いが多いので彼は未練たらたら寄ってくるのだがきっぱり捨てて、人気の中年舞台俳優ともそういう仲になるのだがうまくいかなくて別れて、どっかの田舎のバーですれ違ってダンスした男とも彼こそは、というかんじになるのだがやっぱり難しくて、とにかくどの男も口喧嘩をした挙句にいいかげんにしろよおめえは、というかんじの捨て台詞残して背中を向けて去っていく。 今どきのドラマの紹介文ふうに書くと、永遠の愛を求めて彷徨い続けるめんどくさい中年女性、ということになってしまうのだろうが、そこに騙しみたいのがあって、ここに漂う「めんどくささ」を解して分解していくと、結局のところ恋愛のディスクールなんてどれもそんなもので、永遠に成就することなく表面を滑っていくばかりなのだから永遠に転がしながら彷徨っていればいいのだ、みたいなふうになる。恋愛なんてそもそも、とにかく厄介なもんなんだから近寄らないにこしたことはない、とか。でも恋愛、したいんだよね? とか。
最後に誰あんた? というかんじで突然でてくるGérard Depardieuのうさんくさい占い師のディスクール – Isabelleを生き返らせて瞳に星を灯してしまう - がまさにそのありようを正しく指し示していて、でもこれの前のシーンでは、それと同じ類のディスクールが別の女性 (Valeria Bruni Tedeschi)をおいおい泣かせてしまっていたりする。この絶妙のだめだめでしょうもないかんじがたまんない。 金井美恵子をとっても読みたくなる。
映画のかんじとしてはロメールの恋愛劇をより散文調にぶった切って、でもねちっこく臭気たっぷりにしたかんじで、教訓とか格言とか練りこんでもよさそうだけど、そっちには踏み込まないでこれはディスクールなのだと。このへんのクールな語りっぷりがClaire Denisなんだねえ。
これがIsabelle Huppertさんの“Elle“とかになると、ディスクール? うっせえんだよ、て言って、だっきん。
これがロラン・バルトの『恋愛のディスクール』のadaptationだというのは見てだいぶ経ってから知った。ふええー。35年くらい昔に読んだけどいろんな意味でちんぷんかんぷんだったことを思いだす。憶えているのはそれくらい。
でも映画はおもしろかったよう。
Isabelle (Juliette Binoche)は美術家で、かつては結婚していて娘もいるのだが今はひとりで暮していて、冒頭からデブの銀行家のおやじとねっちり絡みあってて、でも考え方も含めてすれ違いが多いので彼は未練たらたら寄ってくるのだがきっぱり捨てて、人気の中年舞台俳優ともそういう仲になるのだがうまくいかなくて別れて、どっかの田舎のバーですれ違ってダンスした男とも彼こそは、というかんじになるのだがやっぱり難しくて、とにかくどの男も口喧嘩をした挙句にいいかげんにしろよおめえは、というかんじの捨て台詞残して背中を向けて去っていく。 今どきのドラマの紹介文ふうに書くと、永遠の愛を求めて彷徨い続けるめんどくさい中年女性、ということになってしまうのだろうが、そこに騙しみたいのがあって、ここに漂う「めんどくささ」を解して分解していくと、結局のところ恋愛のディスクールなんてどれもそんなもので、永遠に成就することなく表面を滑っていくばかりなのだから永遠に転がしながら彷徨っていればいいのだ、みたいなふうになる。恋愛なんてそもそも、とにかく厄介なもんなんだから近寄らないにこしたことはない、とか。でも恋愛、したいんだよね? とか。
最後に誰あんた? というかんじで突然でてくるGérard Depardieuのうさんくさい占い師のディスクール – Isabelleを生き返らせて瞳に星を灯してしまう - がまさにそのありようを正しく指し示していて、でもこれの前のシーンでは、それと同じ類のディスクールが別の女性 (Valeria Bruni Tedeschi)をおいおい泣かせてしまっていたりする。この絶妙のだめだめでしょうもないかんじがたまんない。 金井美恵子をとっても読みたくなる。
映画のかんじとしてはロメールの恋愛劇をより散文調にぶった切って、でもねちっこく臭気たっぷりにしたかんじで、教訓とか格言とか練りこんでもよさそうだけど、そっちには踏み込まないでこれはディスクールなのだと。このへんのクールな語りっぷりがClaire Denisなんだねえ。
これがIsabelle Huppertさんの“Elle“とかになると、ディスクール? うっせえんだよ、て言って、だっきん。
[film] La Vérité (1960)
13日の金曜日の晩、BFIで見ました。 LFFの1本で、これは旧作。英語題は”The Truth”。
昔の(と言ってもせいぜい10年くらい前だけど)映画祭って、新作を見るというより旧作の特集を纏めてみるために行っていたのよね、って思いだした。
本編の前にBrigitte Bardot 繋がりでJacques Rozierの短編”Paparazzi” (1964)の4Kリストア版が上映された。昔イメージフォーラムで見たのと比べると画質が笑っちゃうくらい綺麗にクリアになっているのだが、この作品に関しては隠し撮りしているかんじたっぷりのもやもや安そうな画面がよかった気もして、どうかしら、と。
上映前にリストアを担当したSony Picturesの人の挨拶があって、リストアは2016年からずっとやってて、ようやく出来あがって来週(もう今週?)フランスでリバイバル公開される予定。素晴らしいものになったので見てね、と。
Dominique Marceau (Brigitte Bardot)は刑務所にいて恋人のGilbert(Sami Frey)を殺した容疑で裁判にかけられている。映画は彼女がやったと審議する側全員(やらしい男ばっか)が確信している中、まるで魔女狩りのようなかんじで進行していく裁判の様子と、実際に何が起こっていったのか - DominiqueとGilbertの出会いから事件まで - を往ったり来たりしつつ描いていく。
クラシックの指揮を勉強しているGilbertは初めはDominiqueの姉のAnneの恋人で、それをDominiqueが誘って落として(落っこちて)からGilbertは彼女にめろめろになって一緒に暮らすようになるのだが、できる限り彼女を自分の傍に置いて好きなようにコントロールしたい(ほら、指揮者志望だから)Gilbertと、まだ若いんだから勝手に好きに遊びたいし、のDominiqueの間に溝ができて、その溝を見ないふりして追っかけて縛りにくるGilbertと溝を拡げて逃げまわりたいDominiqueとの亀裂は決定的で、一旦は別れるのだが、やっぱりなんか寂しくて死にたくなって死のうと思ったDominiqueがGilbertのとこに行ったらありえないような罵倒の言葉を浴びせられてそれで…
この手の色恋にまつわる惨事とか暴力沙汰とかは今でもそこらじゅうに犬の糞みたいに落ちているので珍しくもなくて、それどころか50年以上前の話とはとても思えない生々しい臭気に溢れているので見るのがきつくて、それにしても、それ以上にすごいのは彼女を裁く陪審の男たちのミソジニーぷんぷんの気色悪さで – でもこれもまた既視感たっぷりでさあ。 なかでもPaul Meurisseなんか、Melvilleの“Le Deuxieme Souffle“ (1966) - 『ギャング』でもLino Venturaをねちねち追い詰める嫌なかんじの奴だったけど、ほんとに怖いったら。”The Truth”を暴きだす法廷ドラマ、というより彼女ひとりを寄ってたかって追い詰めて男共にとっての”The Truth”を練りあげてしまう奇怪な心理サスペンスとしか言いようがなくて、この辺がHenri-Georges Clouzotなのかしら。
上映前にBrigitte Bardot主演もので最高傑作のひとつ、と紹介されていたが確かにあの狂いっぷりはすごくて、Femme fataleとは異なる、真逆のカテゴリーなのだが強烈に残る。
日本でも上映されてほしいなー。日本だからこそ。
昔の(と言ってもせいぜい10年くらい前だけど)映画祭って、新作を見るというより旧作の特集を纏めてみるために行っていたのよね、って思いだした。
本編の前にBrigitte Bardot 繋がりでJacques Rozierの短編”Paparazzi” (1964)の4Kリストア版が上映された。昔イメージフォーラムで見たのと比べると画質が笑っちゃうくらい綺麗にクリアになっているのだが、この作品に関しては隠し撮りしているかんじたっぷりのもやもや安そうな画面がよかった気もして、どうかしら、と。
上映前にリストアを担当したSony Picturesの人の挨拶があって、リストアは2016年からずっとやってて、ようやく出来あがって来週(もう今週?)フランスでリバイバル公開される予定。素晴らしいものになったので見てね、と。
Dominique Marceau (Brigitte Bardot)は刑務所にいて恋人のGilbert(Sami Frey)を殺した容疑で裁判にかけられている。映画は彼女がやったと審議する側全員(やらしい男ばっか)が確信している中、まるで魔女狩りのようなかんじで進行していく裁判の様子と、実際に何が起こっていったのか - DominiqueとGilbertの出会いから事件まで - を往ったり来たりしつつ描いていく。
クラシックの指揮を勉強しているGilbertは初めはDominiqueの姉のAnneの恋人で、それをDominiqueが誘って落として(落っこちて)からGilbertは彼女にめろめろになって一緒に暮らすようになるのだが、できる限り彼女を自分の傍に置いて好きなようにコントロールしたい(ほら、指揮者志望だから)Gilbertと、まだ若いんだから勝手に好きに遊びたいし、のDominiqueの間に溝ができて、その溝を見ないふりして追っかけて縛りにくるGilbertと溝を拡げて逃げまわりたいDominiqueとの亀裂は決定的で、一旦は別れるのだが、やっぱりなんか寂しくて死にたくなって死のうと思ったDominiqueがGilbertのとこに行ったらありえないような罵倒の言葉を浴びせられてそれで…
この手の色恋にまつわる惨事とか暴力沙汰とかは今でもそこらじゅうに犬の糞みたいに落ちているので珍しくもなくて、それどころか50年以上前の話とはとても思えない生々しい臭気に溢れているので見るのがきつくて、それにしても、それ以上にすごいのは彼女を裁く陪審の男たちのミソジニーぷんぷんの気色悪さで – でもこれもまた既視感たっぷりでさあ。 なかでもPaul Meurisseなんか、Melvilleの“Le Deuxieme Souffle“ (1966) - 『ギャング』でもLino Venturaをねちねち追い詰める嫌なかんじの奴だったけど、ほんとに怖いったら。”The Truth”を暴きだす法廷ドラマ、というより彼女ひとりを寄ってたかって追い詰めて男共にとっての”The Truth”を練りあげてしまう奇怪な心理サスペンスとしか言いようがなくて、この辺がHenri-Georges Clouzotなのかしら。
上映前にBrigitte Bardot主演もので最高傑作のひとつ、と紹介されていたが確かにあの狂いっぷりはすごくて、Femme fataleとは異なる、真逆のカテゴリーなのだが強烈に残る。
日本でも上映されてほしいなー。日本だからこそ。
[film] Ex Libris: New York Public Library (2017)
11日の水曜日の19時からBFIで見ました。LFFの1本。
チケット発売時点で、この11日は出張が入っていたので泣く泣く諦めていて、でも後になってこいつが一週間後ろに倒れたので歓喜で絶叫しながら取った。 売り切れている心配があったのだが、上映場所がBFIの小さいスクリーンから大きいスクリーンに変わっていて、そのせいか座席が無指定の早いもの勝ちになっていた。
早いもの勝ちせねば、ということでこの日は念のため午後半休を取って少しだけお昼寝して、万全の体調でもって臨んだ。 Frederick Wisemanで、このテーマで、197分。没入しすぎて帰ってこれなくなったって構わん、くらいの勢いで向かっていって丁度よいの。
上映前、まさか来ているとは思わなかったWiseman先生が登場して、これは150時間分の素材を12ヶ月かけて編集した作品なので見てね、とさらりと言う。おお見るとも。
New York Public Libraryは、ライオンさんが鎮座している5th Aveのあそこにあるだけじゃなくて、スタテン島にもブロンクスにもハーレムにも、いろんな分所があって、それぞれの場所でそこのコミュニティの住民に向けたいろんなイベントや催しをやっている。
フィルムはそれぞれの活動とそれに関わるLibraryのスタッフの闘いを追う。本を探しに来た市民とのやりとり、市からの予算の獲得、現場のスタッフの声を聞くこと、活動に対する住民たちの反応、それらのために延々続く会議、これらは終わりのない「闘い」としか言いようのない粘り強い観察と洞察と議論と試行の連続で、なんでこういった自分の普段の生活とはぜんぜん関係なさそうな彼らの仕事に惹きこまれてしまうのか – これは地域コミュニティの取組みを追った前作”In Jackson Heights” (2015)でもそうだったし、Wisemanが扱う対象はどれもそうなのだが – いつもながら驚嘆するしかない。
これとは別に、ここで描かれた営為の結果として浮かびあがってくるのはコミュニティにおける図書館の使命とか意義とかそういうもの、それを今の時代にどう再定義するか、ということで、これはこの映画のなかの話というよりは、この野蛮な「やっちまえ」の時代にひとりひとりがいま考えるべきことで、その意味でも必見なの。
図書館は単なる本の置場、倉庫ではない。 デジタル化してアクセスできるようにしとけばいいというものではない、と。デジタル化の波は避けられないのでそれはやっていくにしても、誰もが平等にそこにアクセスできるようにするにはどうすべきか、とか、紙の本は紙の本で、親子でひとつの本をめくって読んだりするために絶対必要だし、遺産として維持されるべき昔の本を電子化するにも限界があるし、こういった際限のない問答を通して、図書館というのはそこの住民に電気や水道と同じようなインフラとして等しく知を提供する機関であり場所なのだ、という強いメッセージが浮かびあがってくる。なぜそれが必要なのか? 正しい知識や歴史認識の欠如が 偏見に基づく過去の差別、犯罪や虐殺や戦争を生んできたから。そういったことを二度と引き起こさないようにするためにも、”Public” Libraryはすべての住民のための蔵書票(Ex Libris)をPublicの名において管理し、その向こうに広がる知の海へのアクセスを人種、性別、年齢、職業を問わず保証していかなければいけないのだ、と。
考えてみればあたりまえの話なのだが、感動するよね。「コンテンツ」なんて全てデジタル化して「オペレーション」はどっかの本屋にアウトソースして「サービス化」すればコスト削減できるだろとか、文庫本は置かないでほしい、とどっかの出版社が注文したりとか、そんな話ばかりが聞こえてくる日本の図書館事情があって、ここに図書館にも本屋にも行ったことがなさそうなクズ政治家の言動を併せてみると、日本の権力機構は知への経路を可能な限り制御統制して国民が言いなりのバカになってくれることを望んでいるとしか思えない。(そうなりつつあるねえ。恥を知れ)
Public Libraryがやっていることって勿論簡単なことではないの。デジタルと紙をどれくらいのバランスで維持していくべきかなんて、未踏の領域なので誰にも答えは出せない、けど予算には直結することなのでとにかく決めて結果を詰めていかないといけない。 でも自分たちがそれをやるのだ、という強い意志がずっと響いてくるし、保育所や病院や学校と同じように地域の図書館は絶対に必要な施設なのだ、と改めて思う。 負けないでほしい。
と、こんなふうに固いことばかり説いているわけではなくて、イベントにはElvis Costello(彼が”Unfaithful Music & Disappearing Ink”を出したときのトークで、Greil Marcusの論評に対する彼の回答は必見)もPatti Smithも来るし、とにかく、頻繁に出てくる懸命に本を読んでいる人の姿は美しいと思う。全てがデジタルになって人が図書館に来る必要がなくなっても、本を読む人の美しさ、その像はこんなふうに残していきたいなー、とか。
上映後の監督とのQ&Aも面白かった。(撮影のJohn Davey氏も来ていた。素敵なひとだねえ)
なんでNew York Public Libraryを? については簡単で、図書館のことを撮りたいと思ってあそこに問い合わせてみたら簡単に許可が出てあっという間に全ての場所にアクセスできるようになったから、って。
12ヶ月の編集と並んで、8ヶ月くらいのKeyとなるテーマを探す期間があった。撮ったものを延々見続けてそれらが浮かびあがってくるのを待った、という。フィルムでは7~8分に縮められている会議でも実際の素材は90分あったりするので、それを全部見てコアとなるテーマ、エッセンスとなる流れを見つけて必要な箇所を切り取っていくのは楽ではなかったけど、そうやって重ねていった、と。
政治的な内容のもの、ポジティブな内容のものになるように撮っているつもりはない。撮って編集したもの/人々がたまたまそうだっただけ。今の政治情勢のなかで彼らの考えや言動の方向がそう見える方に行ってしまった、ということはあるのかもしれないが、って。 ”National Gallery” (2014)では悪徳にまみれた人達とか描いた血なまぐさい惨劇を描いた絵画が沢山出てくるけど、だからといってフィルムがどろどろに暗くなっているわけではないよね、と。
日本でも公開されますように。 5000円でも見るよ。学ぶところだらけの、ものすごい価値のある映画だよ。
あと、こないだの“Goodbye Christopher Robin”に出てきたWinnie the Pooh のぬいぐるみのオリジナルはNew York Public Libraryにあるんだよ。 これだけで行かなきゃ、になるよね。
チケット発売時点で、この11日は出張が入っていたので泣く泣く諦めていて、でも後になってこいつが一週間後ろに倒れたので歓喜で絶叫しながら取った。 売り切れている心配があったのだが、上映場所がBFIの小さいスクリーンから大きいスクリーンに変わっていて、そのせいか座席が無指定の早いもの勝ちになっていた。
早いもの勝ちせねば、ということでこの日は念のため午後半休を取って少しだけお昼寝して、万全の体調でもって臨んだ。 Frederick Wisemanで、このテーマで、197分。没入しすぎて帰ってこれなくなったって構わん、くらいの勢いで向かっていって丁度よいの。
上映前、まさか来ているとは思わなかったWiseman先生が登場して、これは150時間分の素材を12ヶ月かけて編集した作品なので見てね、とさらりと言う。おお見るとも。
New York Public Libraryは、ライオンさんが鎮座している5th Aveのあそこにあるだけじゃなくて、スタテン島にもブロンクスにもハーレムにも、いろんな分所があって、それぞれの場所でそこのコミュニティの住民に向けたいろんなイベントや催しをやっている。
フィルムはそれぞれの活動とそれに関わるLibraryのスタッフの闘いを追う。本を探しに来た市民とのやりとり、市からの予算の獲得、現場のスタッフの声を聞くこと、活動に対する住民たちの反応、それらのために延々続く会議、これらは終わりのない「闘い」としか言いようのない粘り強い観察と洞察と議論と試行の連続で、なんでこういった自分の普段の生活とはぜんぜん関係なさそうな彼らの仕事に惹きこまれてしまうのか – これは地域コミュニティの取組みを追った前作”In Jackson Heights” (2015)でもそうだったし、Wisemanが扱う対象はどれもそうなのだが – いつもながら驚嘆するしかない。
これとは別に、ここで描かれた営為の結果として浮かびあがってくるのはコミュニティにおける図書館の使命とか意義とかそういうもの、それを今の時代にどう再定義するか、ということで、これはこの映画のなかの話というよりは、この野蛮な「やっちまえ」の時代にひとりひとりがいま考えるべきことで、その意味でも必見なの。
図書館は単なる本の置場、倉庫ではない。 デジタル化してアクセスできるようにしとけばいいというものではない、と。デジタル化の波は避けられないのでそれはやっていくにしても、誰もが平等にそこにアクセスできるようにするにはどうすべきか、とか、紙の本は紙の本で、親子でひとつの本をめくって読んだりするために絶対必要だし、遺産として維持されるべき昔の本を電子化するにも限界があるし、こういった際限のない問答を通して、図書館というのはそこの住民に電気や水道と同じようなインフラとして等しく知を提供する機関であり場所なのだ、という強いメッセージが浮かびあがってくる。なぜそれが必要なのか? 正しい知識や歴史認識の欠如が 偏見に基づく過去の差別、犯罪や虐殺や戦争を生んできたから。そういったことを二度と引き起こさないようにするためにも、”Public” Libraryはすべての住民のための蔵書票(Ex Libris)をPublicの名において管理し、その向こうに広がる知の海へのアクセスを人種、性別、年齢、職業を問わず保証していかなければいけないのだ、と。
考えてみればあたりまえの話なのだが、感動するよね。「コンテンツ」なんて全てデジタル化して「オペレーション」はどっかの本屋にアウトソースして「サービス化」すればコスト削減できるだろとか、文庫本は置かないでほしい、とどっかの出版社が注文したりとか、そんな話ばかりが聞こえてくる日本の図書館事情があって、ここに図書館にも本屋にも行ったことがなさそうなクズ政治家の言動を併せてみると、日本の権力機構は知への経路を可能な限り制御統制して国民が言いなりのバカになってくれることを望んでいるとしか思えない。(そうなりつつあるねえ。恥を知れ)
Public Libraryがやっていることって勿論簡単なことではないの。デジタルと紙をどれくらいのバランスで維持していくべきかなんて、未踏の領域なので誰にも答えは出せない、けど予算には直結することなのでとにかく決めて結果を詰めていかないといけない。 でも自分たちがそれをやるのだ、という強い意志がずっと響いてくるし、保育所や病院や学校と同じように地域の図書館は絶対に必要な施設なのだ、と改めて思う。 負けないでほしい。
と、こんなふうに固いことばかり説いているわけではなくて、イベントにはElvis Costello(彼が”Unfaithful Music & Disappearing Ink”を出したときのトークで、Greil Marcusの論評に対する彼の回答は必見)もPatti Smithも来るし、とにかく、頻繁に出てくる懸命に本を読んでいる人の姿は美しいと思う。全てがデジタルになって人が図書館に来る必要がなくなっても、本を読む人の美しさ、その像はこんなふうに残していきたいなー、とか。
上映後の監督とのQ&Aも面白かった。(撮影のJohn Davey氏も来ていた。素敵なひとだねえ)
なんでNew York Public Libraryを? については簡単で、図書館のことを撮りたいと思ってあそこに問い合わせてみたら簡単に許可が出てあっという間に全ての場所にアクセスできるようになったから、って。
12ヶ月の編集と並んで、8ヶ月くらいのKeyとなるテーマを探す期間があった。撮ったものを延々見続けてそれらが浮かびあがってくるのを待った、という。フィルムでは7~8分に縮められている会議でも実際の素材は90分あったりするので、それを全部見てコアとなるテーマ、エッセンスとなる流れを見つけて必要な箇所を切り取っていくのは楽ではなかったけど、そうやって重ねていった、と。
政治的な内容のもの、ポジティブな内容のものになるように撮っているつもりはない。撮って編集したもの/人々がたまたまそうだっただけ。今の政治情勢のなかで彼らの考えや言動の方向がそう見える方に行ってしまった、ということはあるのかもしれないが、って。 ”National Gallery” (2014)では悪徳にまみれた人達とか描いた血なまぐさい惨劇を描いた絵画が沢山出てくるけど、だからといってフィルムがどろどろに暗くなっているわけではないよね、と。
日本でも公開されますように。 5000円でも見るよ。学ぶところだらけの、ものすごい価値のある映画だよ。
あと、こないだの“Goodbye Christopher Robin”に出てきたWinnie the Pooh のぬいぐるみのオリジナルはNew York Public Libraryにあるんだよ。 これだけで行かなきゃ、になるよね。
10.16.2017
[film] Lucky (2017)
10日の火曜日の晩、21:15からLeicester Squareのシネコンで見ました。LFFの1本。
ついこの間、余りに突然の訃報が来たばかりで生々し過ぎてきついよう、だけどこれを見ることでお別れをすることができるのであれば、と。
Harry Dean Stantonの最後の主演作で、彼が、彼にしか演じることのできない役を彼にしかできない演じ方で演じている。 ストーリーとか個々のエピソードとかよりも彼が演じるLuckyがそこにいる/いたという感触とか彼の輪郭、息遣い、そういうのとか、彼がいっちゃった後のがらんとした部屋のかんじばかりかやってくるので切なくて辛くて、隣で見ていた若者はずっとべそをかいてて、それもよくわかるの。
冒頭、砂漠の景色をゆっくり横切る陸亀がいて、そこから亀のように干からびたLucky (Harry Dean Stanton)の首筋と髭を剃る姿と身支度をして帽子をかぶって外に出る様子と、日課と思われるカフェでのクロスワードをしたり、場所を変えてバーでそこの常連 - David Lynchとか - や店員とだべったり、合間にずっとタバコを吸ったり、突然なんか言ったり、(スペイン語で)歌いだしたり、そういう姿が繰り返されるだけなの。 カフェで隣あった客 - Tom Skerritt! - との会話でかつてNavyにいたらしいことがわかり、結婚したことがないこと、子供も身寄りもないこと - もわかって、そういうのをずっと心配している近所の人が来てくれたりもするのだが、そんなことされてもどうしろというのか、と心配する方もされる方も困って顔を見合わせるしかない。
なにか事件や問題が起こったりすることもなく、Luckyの日常を定点観測しているだけ、のような内容なので、ドキュメンタリーでもおかしくもない気もするのだが、やはりこれは映画で、映画のなかで様々な人生を演じてきた男の生の、映画的に映しだしてみるしかないその終わり(本人がそれを一番よくわかっている)のありようなのだと思った。
テーマをよく言われ易い「老い」のようなところに置くとぼやけてしまう気がする。若者だろうが子供だろうが今ここにある魂の状態について、その扱いかたについて、明確に伝えようとしている。
それをここには書かないけれど、とにかく映画を見てほしい。 Harry Dean Stantonという俳優のことを、彼の映画のことをよく知らなくても、彼のあの大きな目がなにを語ろうとしたのかはわかり易すぎるくらいわかって、この後で彼が旅立ってしまったことをあわせてみると、これを遺してくれてありがとうとしか出てこない。
上映後に脚本のLogan Sparks氏のQ&Aがあった。 氏は自分の結婚式のBest ManをHarryにしてもらって、自分の息子にStantonと名付け、Harryに会う前と後で自分の人生ははっきり変わった、と言い切っている人で、そういう人がHarry Dean Stantonのことを書いた映画で、彼にとってもまだ映画を見るのは辛いそうなのだが、とても誠実にいろんな質問に答えていた。ここに出てきたエピソードとかLuckyの挙動はほとんどが彼が生前やっていたようなことなんだって。
日本でも公開されますように。(Harry Dean Stantonの特集上映と一緒に)
あ、俳優としてのDavid Lynchさんはほとんど出来上がっていた。Twin Peaks的ないみで、ね。
今日(15日)でLFFが終わりました。 まだ書いていないのはあるのだが、明日から仕事で中東のほうに行くので一週間くらい更新は止まります。 これのおかげで水曜日のMatt JohnsonがFilm Scoreを語る会は行けなくなっちゃったよう …
ではまた。
ついこの間、余りに突然の訃報が来たばかりで生々し過ぎてきついよう、だけどこれを見ることでお別れをすることができるのであれば、と。
Harry Dean Stantonの最後の主演作で、彼が、彼にしか演じることのできない役を彼にしかできない演じ方で演じている。 ストーリーとか個々のエピソードとかよりも彼が演じるLuckyがそこにいる/いたという感触とか彼の輪郭、息遣い、そういうのとか、彼がいっちゃった後のがらんとした部屋のかんじばかりかやってくるので切なくて辛くて、隣で見ていた若者はずっとべそをかいてて、それもよくわかるの。
冒頭、砂漠の景色をゆっくり横切る陸亀がいて、そこから亀のように干からびたLucky (Harry Dean Stanton)の首筋と髭を剃る姿と身支度をして帽子をかぶって外に出る様子と、日課と思われるカフェでのクロスワードをしたり、場所を変えてバーでそこの常連 - David Lynchとか - や店員とだべったり、合間にずっとタバコを吸ったり、突然なんか言ったり、(スペイン語で)歌いだしたり、そういう姿が繰り返されるだけなの。 カフェで隣あった客 - Tom Skerritt! - との会話でかつてNavyにいたらしいことがわかり、結婚したことがないこと、子供も身寄りもないこと - もわかって、そういうのをずっと心配している近所の人が来てくれたりもするのだが、そんなことされてもどうしろというのか、と心配する方もされる方も困って顔を見合わせるしかない。
なにか事件や問題が起こったりすることもなく、Luckyの日常を定点観測しているだけ、のような内容なので、ドキュメンタリーでもおかしくもない気もするのだが、やはりこれは映画で、映画のなかで様々な人生を演じてきた男の生の、映画的に映しだしてみるしかないその終わり(本人がそれを一番よくわかっている)のありようなのだと思った。
テーマをよく言われ易い「老い」のようなところに置くとぼやけてしまう気がする。若者だろうが子供だろうが今ここにある魂の状態について、その扱いかたについて、明確に伝えようとしている。
それをここには書かないけれど、とにかく映画を見てほしい。 Harry Dean Stantonという俳優のことを、彼の映画のことをよく知らなくても、彼のあの大きな目がなにを語ろうとしたのかはわかり易すぎるくらいわかって、この後で彼が旅立ってしまったことをあわせてみると、これを遺してくれてありがとうとしか出てこない。
上映後に脚本のLogan Sparks氏のQ&Aがあった。 氏は自分の結婚式のBest ManをHarryにしてもらって、自分の息子にStantonと名付け、Harryに会う前と後で自分の人生ははっきり変わった、と言い切っている人で、そういう人がHarry Dean Stantonのことを書いた映画で、彼にとってもまだ映画を見るのは辛いそうなのだが、とても誠実にいろんな質問に答えていた。ここに出てきたエピソードとかLuckyの挙動はほとんどが彼が生前やっていたようなことなんだって。
日本でも公開されますように。(Harry Dean Stantonの特集上映と一緒に)
あ、俳優としてのDavid Lynchさんはほとんど出来上がっていた。Twin Peaks的ないみで、ね。
今日(15日)でLFFが終わりました。 まだ書いていないのはあるのだが、明日から仕事で中東のほうに行くので一週間くらい更新は止まります。 これのおかげで水曜日のMatt JohnsonがFilm Scoreを語る会は行けなくなっちゃったよう …
ではまた。
10.14.2017
[film] My Generation (2017)
8日の日曜日のLFF。 この日1本目に見るはずだった"Wonderstruck”は前に書いたように地下鉄が動かなくなって大慌てで駆けこんだ先のOvergroundの電車が目的の駅に止まってくれなかったので諦めた。
ぜんぜん聞いたことも見たこともない駅に来てしまい、しかも3時間くらい空きができてしまったので、Rough Tradeに行ってレコード漁ろうかとバスに乗ったら途中にGeffrye Museumがあったので降りて寄ってみた。 英国のふつうの暮らし - 家、部屋、建付けとかも含めて展示しているところで、前から行ってみたかったの。庭園もとても素敵なかんじだったし。
展示内容をみてわかったのだが、今自分の借りているところは昔の住居でいうと屋根裏部屋に位置づけられるらしい。
なるほどなー。 ← そんなのわかっとけ。
Rough TradeではThe Wedding Presentの本- “SOMETIMES THESE WORDS JUST DON’T HAVE TO BE SAID"が置いてあったので買った。 すごくよい本だよ。
映画は、3時過ぎにCurzonのChelseaで見ました。
ここはKings Road沿いの映画館(シネコンではない)で、Kings Roadはブティックとかカフェとかガーデニングの店とかいっぱいあって、平日は見るからにお金持ちなマダムが犬ころを散歩させたりしてて、古くからの貴族とかもうじゃうじゃ暮らしている界隈で、そういう老人たちにとってのアイコンであるところのMicheal Caineが出てくるドキュメンタリーで、本人も来るというので、ぱんぱんの場内は着飾った老人たちの枯れた香水の湯気でむんむんで、みーんなシャンパンのグラスとか傾けてやがるの。映画館で。
Michael Caineのドキュメンタリーではなくて、60年代のLondonがなぜ特別なのか、特別だったのかをMichael Caine自身の語りとインタビューの抜粋、当時のフッテージの切り貼りといろんな関係者の語りで浮かびあがらせる。出てくるのはDavid Bailey, Joan Collins, Roger Daltrey, Marianne Faithfull, Lulu, Paul McCartney, Terry O'Neill, David Puttnam, Mary Quant, Vidal Sassoon, Sandie Shaw, Penelope Tree, Twiggyなどなど。
冒頭に流れるのがThe Kinksの"Dead End Street"で、それがそのまま"Waterloo Sunset"に変わり、これだけで泣きそうになるのだが、60年代のロンドンの街中を、当時のばりばりのMicheal Caineが歩いたり車に乗ったりの映像 - "Alfee"とか"Gambit"とか - と、それと同じ動作を反復する現在のMichael Caineの姿が交互に切り替わって、それを見ている老人たちの溜息、吐息が渦を巻いてすごい。
50年代の停滞を経て、60年代のLondonはWorking Classの若者にも等しく機会を与える、そういう方向に大きく転換したのだ、というのがポイントで、そうやって開かれた扉を通して音楽でもファッションでもすごい才能がいっぱい現れて、それは国内に留まらずBritish Invasionという形で世界に知れ渡って、続いてやってきたドラッグカルチャーの到来と共に一挙に萎んだ、というわかりやすいお話し。
これまで余りきちんと考える機会も材料もなく、なんとなくぎんぎんしていてすごいと(みんなが言うから)思っていた60年代のSwinging Londonのありように初めてきちんと、その時代の典型的な像 - 彼自身がWorking Classから出てスターになった - Michael Caineをガイドに迎えて知ることができた気がした。
(ちなみに彼は最初Michael Whiteていう名前で活動していて、スタジオに電話してその日の出番があるか聞いていたら丁度いい役があるけど同じMichael Whiteがいるから名前変えろって言われて、たまたまその電話ボックスの外の映画館でかかっていた"The Caine Mutiny"の看板を見て"Caine"にしたんだって。別の映画がかかっていたら別の名前だったかも、って)
ただもちろん、彼のあの容姿や振る舞いでもって当時のGenerationを表象させてしまうことがどこまで正しいことなのか、という当たり前の問いは残る。それって日本の50-60年代の青春を石原兄弟とか日活映画のイメージで語ってしまうことの危うさと果たして同じなのか違うのか、そこはわかんないかー。 でもそれにしたってほんとにみんなかっこいい(よく見えてしまう)のはなんで? ていうのはあるよね。
映画が終わってやんやの大喝采の中、Q&AでMichael Caine氏が登場する。(Madnessの"Michael Caine"と共に、はただの夢でした)
もうさー、足を組んで座っただけで映画のMichael Caineとおなじなのよ。
いろんな質問が出て割とさばさば答えていたが、俳優を志しているという若者がひとつアドバイスをください、というのに「どんなアクセントでも喋れるようになりなさい」と即座に返したのにはおぉー、てみんな唸っていた。 あと「対面で演技をするとき、片方の目で相手をじっと見て、もう片方の目でカメラを見る、これをできるようになりなさい」って。
あと、Londonの町が変わったと感じたのはどんなときでした? に「イタリア料理店ができたこと」ていう答えとか。
あと、ドラッグがなんでだめだったか - はいうまでもないか。
ぜんぜん聞いたことも見たこともない駅に来てしまい、しかも3時間くらい空きができてしまったので、Rough Tradeに行ってレコード漁ろうかとバスに乗ったら途中にGeffrye Museumがあったので降りて寄ってみた。 英国のふつうの暮らし - 家、部屋、建付けとかも含めて展示しているところで、前から行ってみたかったの。庭園もとても素敵なかんじだったし。
展示内容をみてわかったのだが、今自分の借りているところは昔の住居でいうと屋根裏部屋に位置づけられるらしい。
なるほどなー。 ← そんなのわかっとけ。
Rough TradeではThe Wedding Presentの本- “SOMETIMES THESE WORDS JUST DON’T HAVE TO BE SAID"が置いてあったので買った。 すごくよい本だよ。
映画は、3時過ぎにCurzonのChelseaで見ました。
ここはKings Road沿いの映画館(シネコンではない)で、Kings Roadはブティックとかカフェとかガーデニングの店とかいっぱいあって、平日は見るからにお金持ちなマダムが犬ころを散歩させたりしてて、古くからの貴族とかもうじゃうじゃ暮らしている界隈で、そういう老人たちにとってのアイコンであるところのMicheal Caineが出てくるドキュメンタリーで、本人も来るというので、ぱんぱんの場内は着飾った老人たちの枯れた香水の湯気でむんむんで、みーんなシャンパンのグラスとか傾けてやがるの。映画館で。
Michael Caineのドキュメンタリーではなくて、60年代のLondonがなぜ特別なのか、特別だったのかをMichael Caine自身の語りとインタビューの抜粋、当時のフッテージの切り貼りといろんな関係者の語りで浮かびあがらせる。出てくるのはDavid Bailey, Joan Collins, Roger Daltrey, Marianne Faithfull, Lulu, Paul McCartney, Terry O'Neill, David Puttnam, Mary Quant, Vidal Sassoon, Sandie Shaw, Penelope Tree, Twiggyなどなど。
冒頭に流れるのがThe Kinksの"Dead End Street"で、それがそのまま"Waterloo Sunset"に変わり、これだけで泣きそうになるのだが、60年代のロンドンの街中を、当時のばりばりのMicheal Caineが歩いたり車に乗ったりの映像 - "Alfee"とか"Gambit"とか - と、それと同じ動作を反復する現在のMichael Caineの姿が交互に切り替わって、それを見ている老人たちの溜息、吐息が渦を巻いてすごい。
50年代の停滞を経て、60年代のLondonはWorking Classの若者にも等しく機会を与える、そういう方向に大きく転換したのだ、というのがポイントで、そうやって開かれた扉を通して音楽でもファッションでもすごい才能がいっぱい現れて、それは国内に留まらずBritish Invasionという形で世界に知れ渡って、続いてやってきたドラッグカルチャーの到来と共に一挙に萎んだ、というわかりやすいお話し。
これまで余りきちんと考える機会も材料もなく、なんとなくぎんぎんしていてすごいと(みんなが言うから)思っていた60年代のSwinging Londonのありように初めてきちんと、その時代の典型的な像 - 彼自身がWorking Classから出てスターになった - Michael Caineをガイドに迎えて知ることができた気がした。
(ちなみに彼は最初Michael Whiteていう名前で活動していて、スタジオに電話してその日の出番があるか聞いていたら丁度いい役があるけど同じMichael Whiteがいるから名前変えろって言われて、たまたまその電話ボックスの外の映画館でかかっていた"The Caine Mutiny"の看板を見て"Caine"にしたんだって。別の映画がかかっていたら別の名前だったかも、って)
ただもちろん、彼のあの容姿や振る舞いでもって当時のGenerationを表象させてしまうことがどこまで正しいことなのか、という当たり前の問いは残る。それって日本の50-60年代の青春を石原兄弟とか日活映画のイメージで語ってしまうことの危うさと果たして同じなのか違うのか、そこはわかんないかー。 でもそれにしたってほんとにみんなかっこいい(よく見えてしまう)のはなんで? ていうのはあるよね。
映画が終わってやんやの大喝采の中、Q&AでMichael Caine氏が登場する。(Madnessの"Michael Caine"と共に、はただの夢でした)
もうさー、足を組んで座っただけで映画のMichael Caineとおなじなのよ。
いろんな質問が出て割とさばさば答えていたが、俳優を志しているという若者がひとつアドバイスをください、というのに「どんなアクセントでも喋れるようになりなさい」と即座に返したのにはおぉー、てみんな唸っていた。 あと「対面で演技をするとき、片方の目で相手をじっと見て、もう片方の目でカメラを見る、これをできるようになりなさい」って。
あと、Londonの町が変わったと感じたのはどんなときでした? に「イタリア料理店ができたこと」ていう答えとか。
あと、ドラッグがなんでだめだったか - はいうまでもないか。
10.13.2017
[music] Kid Creole and the Coconuts, Arto Lindsay
7日の晩、Barbicanで見ました。
前に映画のとこで書いた80年代New YorkのDowntownシーン振り返り特集のひとつ、のようなかたちで行われたライブ。
おなじシリーズでもういっこあったのは、"Jim Jarmusch Revisited"ていう Jim Jarmuschの映画音楽を演奏するライブで、鍵盤はSteve Nieveさんだったりしたのだが、Jim Jarmusch本人が来てなんかやるのならともかく、 そうではないようだったのでパスしたの。
でもこっちの、Arto LindsayとKid Creole and the Coconutsは悩ましくて、特にKid Creoleはライブ見たことないしなー、もう相当老人だろうし動けるのかしら? とか思って、7月頃にチケット取った(ら、前から3列目だった..)
彼ら最近は何か活動しているのかしら、と思ったらCulture ClubとかABCのサポート・アクトもやっているのだった。
NYでライブ告知とか見たことなかったのは80年代に活動拠点をヨーロッパに移したからなのね。
(ライブのMCでは米国に「いられなくなった(笑)」て言ってた.. )
事前のタイムテーブルではどちらの割当も1時間15分だったので、前座というより対バンなのね、というArto Lindsay氏のバックはパーカッション、ドラムス、鍵盤、ベースの4人 - 6月に来日したときのと同じ? メンツで、ばしゃばしゃ羽音のレンジが広くてやかましい太鼓の砂利道にMelvin Gibbsのぶっとくうねる荒縄が筋をつくって、そこに鍵盤が薄いカーテンをふんわり、と思ったらアヒルのくちばしギターががしゃがしゃと切り裂いて、ふん! みたいなそういう音で、これとか、Cyro Baptista氏がJohn ZohnやMark Ribotらと一緒にやるときの音 - 90年代の旧Knitting Factory 〜 Tonicあたりで鳴っていた音が自分にとってのNYアンダーグラウンドの、一番涎だらだらになる音だなあ、と思って、なにをどう聴いてもどうしようもなく気持ちよいばかりなので、ああしょうもないと思った。
Arto Lindsayさんはゆらゆらふらふら変幻自在で、仙人みたいになっていた。あひるポーズも仙人の余裕で何度か決めてた。
休憩のあとでKid Creole and the Coconuts。 最初に遠くから「でーを!」のバナナボートがアカペラで聞こえてきて、ドラムス、鍵盤、ベース、ホーン3人、ギターのバックにCoconutsの女性3名 - 当時からのメンバーだったらすごいよね - だったがそれはなくて、みなさんぱりぱりの、英国から1名とオランダから2名 - が入ってきて、ギターの若者(後で、August Darnellの息子さんであることがわかる)が威勢よく煽って、いつものあの恰好のAugust Darnellが滑るように入ってきて、Coconutsの3人と絡みまくる。
あーこういう楽しい系のやつ、久しぶりかも、と思ったら3曲めくらいまでにあげてあげてBarbicanのお行儀よい年寄り(&孫)だらけの客席を総立ちにさせてしまうのだった。
かんじとして一番わかりやすいのは、映画"The Blues Brothers"(1980)で、Cab Callowayが待ちでざわざわし始めた観客を瞬間湯沸かしさせてしまった、あの場面。 あれとほとんど同じよ。あの長いコートになんか仕込んであるとしか思えない。
わたしはくたびれていたので座ったが、立っているひとはずーっと立ってそれぞれに楽しそうにスイングしてて、いいなー、だった。
1時間強の本編のあと、20分くらい続く1回めのアンコールがあって、さすがにもうへとへとじゃろ、と思ったらバンドはステージの端にまだ待機してて、当然な顔して2回めに入って更に軽快に吹きはじめて、それがまったく終わる気配を見せないので、かつて3時間を超えてもぜんぜん終わる気配を見せなかったGeorge Clintonの恐怖 - あんときはほんとしぬかとおもった - が立ちあがってきたのだったが、さすがにあそこまではいかなかった。
終わったあとホールのロビーがダンスフロアになってて、NYから来たDJさんが午前1時までお皿廻すらしかったが、こちらもごめんなさいして帰った。
後になって冷静に考えてみて、このええじゃないか音頭を、当時のDowntownシーンにどう位置付けるべきか、改めてわかんなくなったかも。 「なんでもありだったからさ」のバケツにつっこんでしまってよいのだろうか?
前に映画のとこで書いた80年代New YorkのDowntownシーン振り返り特集のひとつ、のようなかたちで行われたライブ。
おなじシリーズでもういっこあったのは、"Jim Jarmusch Revisited"ていう Jim Jarmuschの映画音楽を演奏するライブで、鍵盤はSteve Nieveさんだったりしたのだが、Jim Jarmusch本人が来てなんかやるのならともかく、 そうではないようだったのでパスしたの。
でもこっちの、Arto LindsayとKid Creole and the Coconutsは悩ましくて、特にKid Creoleはライブ見たことないしなー、もう相当老人だろうし動けるのかしら? とか思って、7月頃にチケット取った(ら、前から3列目だった..)
彼ら最近は何か活動しているのかしら、と思ったらCulture ClubとかABCのサポート・アクトもやっているのだった。
NYでライブ告知とか見たことなかったのは80年代に活動拠点をヨーロッパに移したからなのね。
(ライブのMCでは米国に「いられなくなった(笑)」て言ってた.. )
事前のタイムテーブルではどちらの割当も1時間15分だったので、前座というより対バンなのね、というArto Lindsay氏のバックはパーカッション、ドラムス、鍵盤、ベースの4人 - 6月に来日したときのと同じ? メンツで、ばしゃばしゃ羽音のレンジが広くてやかましい太鼓の砂利道にMelvin Gibbsのぶっとくうねる荒縄が筋をつくって、そこに鍵盤が薄いカーテンをふんわり、と思ったらアヒルのくちばしギターががしゃがしゃと切り裂いて、ふん! みたいなそういう音で、これとか、Cyro Baptista氏がJohn ZohnやMark Ribotらと一緒にやるときの音 - 90年代の旧Knitting Factory 〜 Tonicあたりで鳴っていた音が自分にとってのNYアンダーグラウンドの、一番涎だらだらになる音だなあ、と思って、なにをどう聴いてもどうしようもなく気持ちよいばかりなので、ああしょうもないと思った。
Arto Lindsayさんはゆらゆらふらふら変幻自在で、仙人みたいになっていた。あひるポーズも仙人の余裕で何度か決めてた。
休憩のあとでKid Creole and the Coconuts。 最初に遠くから「でーを!」のバナナボートがアカペラで聞こえてきて、ドラムス、鍵盤、ベース、ホーン3人、ギターのバックにCoconutsの女性3名 - 当時からのメンバーだったらすごいよね - だったがそれはなくて、みなさんぱりぱりの、英国から1名とオランダから2名 - が入ってきて、ギターの若者(後で、August Darnellの息子さんであることがわかる)が威勢よく煽って、いつものあの恰好のAugust Darnellが滑るように入ってきて、Coconutsの3人と絡みまくる。
あーこういう楽しい系のやつ、久しぶりかも、と思ったら3曲めくらいまでにあげてあげてBarbicanのお行儀よい年寄り(&孫)だらけの客席を総立ちにさせてしまうのだった。
かんじとして一番わかりやすいのは、映画"The Blues Brothers"(1980)で、Cab Callowayが待ちでざわざわし始めた観客を瞬間湯沸かしさせてしまった、あの場面。 あれとほとんど同じよ。あの長いコートになんか仕込んであるとしか思えない。
わたしはくたびれていたので座ったが、立っているひとはずーっと立ってそれぞれに楽しそうにスイングしてて、いいなー、だった。
1時間強の本編のあと、20分くらい続く1回めのアンコールがあって、さすがにもうへとへとじゃろ、と思ったらバンドはステージの端にまだ待機してて、当然な顔して2回めに入って更に軽快に吹きはじめて、それがまったく終わる気配を見せないので、かつて3時間を超えてもぜんぜん終わる気配を見せなかったGeorge Clintonの恐怖 - あんときはほんとしぬかとおもった - が立ちあがってきたのだったが、さすがにあそこまではいかなかった。
終わったあとホールのロビーがダンスフロアになってて、NYから来たDJさんが午前1時までお皿廻すらしかったが、こちらもごめんなさいして帰った。
後になって冷静に考えてみて、このええじゃないか音頭を、当時のDowntownシーンにどう位置付けるべきか、改めてわかんなくなったかも。 「なんでもありだったからさ」のバケツにつっこんでしまってよいのだろうか?
[film] Columbus (2017)
7日の午後、"The Meyerowitz Stories (New and Selected)”を見た後に、Prince Charles Cinemaに移動してみました。
これもLFFで、これも父親がコーマになってしまうお話だった..
Indiana州のColumbusで、建築家の男性が雨のなか倒れて、その後に彼の息子Jin (John Cho)がやってきて滞在を始めるのだが回復するのかもわからないまま、ただ待つしかなくて、そこで地元の女性Casey (Haley Lu Richardson)と知り合う。 彼女は建築を勉強していて、できれば建築家になりたいという夢があって、そのためにここを離れて他の大学で、という話もあるのだが、療養中で不安定ででも工場で遅くまで働いている母親の面倒を見るためにここにいる必要があるのだという。
それぞれの親の事情でColumbusに留まらざるを得なくなっているふたりの、特にすることもないのでタバコを吸いながらColumbusの建築を眺めてあーだこーだ言ったり、ぼーっとしたりする無為な日々を描いた、ほとんどそれだけの映画なのだが、びっくりするくらい、ものすごくよいの。
画面はほぼ固定で、人物の像は遠くから背中をむけた状態でとらえられたものが多くて、その向こうには建物がでっかくあって、その状態で静かに会話してばかりなので建築の紹介番組みたいに見えなくもないのだが、森や緑の間からぬうって抜き出て建っている建築物たちを見ていると、これらってそもそもなんでここに建っているの、とか、なんでこんなものの前で立ちつくして魅せられてしまうのか、という疑問はふつうに湧いてきて、彼らもそれに近い会話をしたりしながらそういえばそうかも、とか発見したりしている。 肉親が倒れたり病気だったり、自分らの将来も含めて不安定な宙吊り状態にある彼らからすると、でっかい建築の揺るぎない確かさとか不変さって、素朴な違和、異物としても現れてきて、なんなのだろう - 変なの、というのが見ているこちらの感覚としてもよくわかるし伝わってくる。
それが伝わるように画面とか光の具合とか音とかを柔らかく繊細に掴まえようとしているようで、他の土地だったら河だったり湖だったり岩だったり森だったりするかもしれないそれらが、この映画では建築物であることがとてもよくわかって、それがわかってくる頃に近づいていくとは思えなかったふたり - Jinのそばには父のアシスタントだったEleanor (Parker Posey)がいる - の距離も。
John Choの抑えまくった異邦人としての演技は溜息もののよさなのだが、それを静かに受けとめるHaley Lu Richardsonさんがすばらしくよくて、Ellen Pageさんが出てきた頃のようなかんじ。 いつも口はへの字に結ばれていて、じゅうぶんわかっているのに互いに踏みこめなくて、浮き沈みを繰り返しているけど悟られたくはなくて、結果あーあ、って俯いてしまう - またしても。 その連続。
Columbusは行ったことないのだが、こういう映画で見る建築の数々はとても素敵だったので、機会があったら行ってみたいかも、て思った。
https://columbus.in.us/guide-to-the-architecture/
これもLFFで、これも父親がコーマになってしまうお話だった..
Indiana州のColumbusで、建築家の男性が雨のなか倒れて、その後に彼の息子Jin (John Cho)がやってきて滞在を始めるのだが回復するのかもわからないまま、ただ待つしかなくて、そこで地元の女性Casey (Haley Lu Richardson)と知り合う。 彼女は建築を勉強していて、できれば建築家になりたいという夢があって、そのためにここを離れて他の大学で、という話もあるのだが、療養中で不安定ででも工場で遅くまで働いている母親の面倒を見るためにここにいる必要があるのだという。
それぞれの親の事情でColumbusに留まらざるを得なくなっているふたりの、特にすることもないのでタバコを吸いながらColumbusの建築を眺めてあーだこーだ言ったり、ぼーっとしたりする無為な日々を描いた、ほとんどそれだけの映画なのだが、びっくりするくらい、ものすごくよいの。
画面はほぼ固定で、人物の像は遠くから背中をむけた状態でとらえられたものが多くて、その向こうには建物がでっかくあって、その状態で静かに会話してばかりなので建築の紹介番組みたいに見えなくもないのだが、森や緑の間からぬうって抜き出て建っている建築物たちを見ていると、これらってそもそもなんでここに建っているの、とか、なんでこんなものの前で立ちつくして魅せられてしまうのか、という疑問はふつうに湧いてきて、彼らもそれに近い会話をしたりしながらそういえばそうかも、とか発見したりしている。 肉親が倒れたり病気だったり、自分らの将来も含めて不安定な宙吊り状態にある彼らからすると、でっかい建築の揺るぎない確かさとか不変さって、素朴な違和、異物としても現れてきて、なんなのだろう - 変なの、というのが見ているこちらの感覚としてもよくわかるし伝わってくる。
それが伝わるように画面とか光の具合とか音とかを柔らかく繊細に掴まえようとしているようで、他の土地だったら河だったり湖だったり岩だったり森だったりするかもしれないそれらが、この映画では建築物であることがとてもよくわかって、それがわかってくる頃に近づいていくとは思えなかったふたり - Jinのそばには父のアシスタントだったEleanor (Parker Posey)がいる - の距離も。
John Choの抑えまくった異邦人としての演技は溜息もののよさなのだが、それを静かに受けとめるHaley Lu Richardsonさんがすばらしくよくて、Ellen Pageさんが出てきた頃のようなかんじ。 いつも口はへの字に結ばれていて、じゅうぶんわかっているのに互いに踏みこめなくて、浮き沈みを繰り返しているけど悟られたくはなくて、結果あーあ、って俯いてしまう - またしても。 その連続。
Columbusは行ったことないのだが、こういう映画で見る建築の数々はとても素敵だったので、機会があったら行ってみたいかも、て思った。
https://columbus.in.us/guide-to-the-architecture/
10.10.2017
[film] The Meyerowitz Stories (New and Selected) (2017)
7日の土曜日の昼間、LFFの(自分にとって)2日目、Embankment Garden Cinemaていうとこで見ました。
こんなとこに映画館あったのかしら? と思ったら駅の横の公園に特設テントみたいのができてて、そこが映画館になっているのだった。 スクリーンのでっかさも音も申し分なかった。
今回のLFFで一番見たくて、真っ先に取ったのがこれ(ほんとは、"Lady Bird"に来てほしかったのだが..)で、見れたのであとは割とどうでもよく.. はないかやっぱり。
いまはWes Andersonの新作よりもRichard Linklater の新作よりもPTAの新作よりも、Noah Baumbachの新作が見たかったの。
ものすごく、身体が震えるほどおもしろかった、画面が切り替わる(たまに途中でぶち切れたり)ごとに、暗転するごとに、ああ、ってページをめくりたくなって、でも読み進めるのも勿体なくて、という読書の壺にはまったときの感覚がやってくる。 映画を見ていてこういうのはなかなか来ない。
全体でチャプターが4つくらいあって、最初が"Danny"、次のが"Matthew"。 ちょうど「フラニー」と「ゾーイ」みたいに。
冒頭、Danny Meyerowitz (Adam Sandler)が娘のEliza (Grace Van Patten)とダウンタウンの路上で駐車スペースを探していて、この探しかたで彼の性格がだいたいわかって(ま、通常のAdam Sandler)、彼は彫刻家の父Harold Meyerowitz (Dustin Hoffman)のアトリエ兼アパートを訪ねて、そこには義母のMaureen (Emma Thompson)と妹のJean (Elizabeth Marvel)がいる。 Maureenの料理はひどいみたいだけど誰も文句いわない。
Dannyは定職を持たずにだらだら暮らしているようだが、かつては音楽を志したこともあったらしい、というのがElizaとのピアノのデュオでわかったり、父の友人 - L.J. Shapiro(Judd Hirsch)の個展がMOMAであるというのでDannyは父にくっついていくが、父はそれなりに名前は知られているもののもはやシーンの端っこにいることがわかったり。
Dannyの弟で、でも母親が違うMatthew (Ben Stiller)は西海岸で不動産を切った貼ったでいつも電話ばっかりで慌ただしくて、でも成功しているらしいことは身なりとか話しかたでわかって、なにもかもDannyとは違ってぱりっとしている。 父がまず気に掛けて無意識に口にするのはMatthewのほうで、その辺もDannyには気に食わないから、ふたりは犬も食わないような小競り合いばかりしている。
他にもいつも忘れられるJeanのこと、元妻のJulia (Candice Bergen)のこと、自主製作で変てこジャンクポルノみたいなのを作っているElizaのこと、L.J.の娘のLoretta (Rebecca Miller - "Maggie's Plan"の監督だよ)のこと、みんないちいち紹介していったらきりがない(でもおもしろくてさ)のだが、そんな一族がHaroldが脳内出血で倒れて昏睡状態になると更にがたがたの最悪になっていって、さてどうなるのかしら? と。
こないだの"The Big Sick"だとコーマになった彼女のまわりで一途な恋が小爆発するが、こっちの方は家族の中心にあったHaroldの不在が更なる混乱とか不和をまき散らして、やがて驚くべきことに(驚かなくてもいいけど)、なんとなく風邪が治るみたいによくなったりもする。 それが家族なのだとは間違っても言えるようなもんじゃないのだが、家族ってずっと誰かが風邪をひいているような、そういう集団のことさ、くらいの言いっぷり。 このかんじは例えば"The Squid and the Whale" (2005)の家族像にも確かにあった。
ここのとこ、"Greenberg" (2010) - "Frances Ha" (2012) - "While We're Young" (2014) - "Mistress America" (2015) と、何があったんだか知らないがちょっと脇道にいってしまった変なヒトたちを描いてきたNoah Baumbachがもう一回家族を描いて、そこではこれらの変なヒトたちのいろんな断片がぐるぐる弧を描いて踊っているので、なんかすごい。 でも、それでも正論を吐くような奴はこれっぽっちも出てこない、という線は守られていて、誰もがみんなとても愛おしい。
とにかく、Dustin Hoffmanを真ん中に、その子供、腹違いの兄弟にAdam SandlerとBen Stillerを置く、それだけでもう、ありがとうしか出てこないよ。 このふたりのそれぞれの映画でかっこよくないじたばたの取っ組みあいを何十回も見てきた気がするが、ここの兄弟の取っ組みあいなんて、あまりにそれがそのまま出ているので感動して言葉を失う。
これは"(New and Selected)"なので"(Old and Selected)"でも"(New and Revised)"でもなんでもいいから続いていってほしい。
とりあえず次は、Haroldの3人の元妻たち、とか。それかElizaの冒険とか。
音楽は、ついにRandy Newman先生ですよ。 エンドロールの歌声に感動した。
でもそれ以上にちらっと聴こえてくるPrefab Sproutの"Wild Horses"に泣きそうになったわ。
こんなとこに映画館あったのかしら? と思ったら駅の横の公園に特設テントみたいのができてて、そこが映画館になっているのだった。 スクリーンのでっかさも音も申し分なかった。
今回のLFFで一番見たくて、真っ先に取ったのがこれ(ほんとは、"Lady Bird"に来てほしかったのだが..)で、見れたのであとは割とどうでもよく.. はないかやっぱり。
いまはWes Andersonの新作よりもRichard Linklater の新作よりもPTAの新作よりも、Noah Baumbachの新作が見たかったの。
ものすごく、身体が震えるほどおもしろかった、画面が切り替わる(たまに途中でぶち切れたり)ごとに、暗転するごとに、ああ、ってページをめくりたくなって、でも読み進めるのも勿体なくて、という読書の壺にはまったときの感覚がやってくる。 映画を見ていてこういうのはなかなか来ない。
全体でチャプターが4つくらいあって、最初が"Danny"、次のが"Matthew"。 ちょうど「フラニー」と「ゾーイ」みたいに。
冒頭、Danny Meyerowitz (Adam Sandler)が娘のEliza (Grace Van Patten)とダウンタウンの路上で駐車スペースを探していて、この探しかたで彼の性格がだいたいわかって(ま、通常のAdam Sandler)、彼は彫刻家の父Harold Meyerowitz (Dustin Hoffman)のアトリエ兼アパートを訪ねて、そこには義母のMaureen (Emma Thompson)と妹のJean (Elizabeth Marvel)がいる。 Maureenの料理はひどいみたいだけど誰も文句いわない。
Dannyは定職を持たずにだらだら暮らしているようだが、かつては音楽を志したこともあったらしい、というのがElizaとのピアノのデュオでわかったり、父の友人 - L.J. Shapiro(Judd Hirsch)の個展がMOMAであるというのでDannyは父にくっついていくが、父はそれなりに名前は知られているもののもはやシーンの端っこにいることがわかったり。
Dannyの弟で、でも母親が違うMatthew (Ben Stiller)は西海岸で不動産を切った貼ったでいつも電話ばっかりで慌ただしくて、でも成功しているらしいことは身なりとか話しかたでわかって、なにもかもDannyとは違ってぱりっとしている。 父がまず気に掛けて無意識に口にするのはMatthewのほうで、その辺もDannyには気に食わないから、ふたりは犬も食わないような小競り合いばかりしている。
他にもいつも忘れられるJeanのこと、元妻のJulia (Candice Bergen)のこと、自主製作で変てこジャンクポルノみたいなのを作っているElizaのこと、L.J.の娘のLoretta (Rebecca Miller - "Maggie's Plan"の監督だよ)のこと、みんないちいち紹介していったらきりがない(でもおもしろくてさ)のだが、そんな一族がHaroldが脳内出血で倒れて昏睡状態になると更にがたがたの最悪になっていって、さてどうなるのかしら? と。
こないだの"The Big Sick"だとコーマになった彼女のまわりで一途な恋が小爆発するが、こっちの方は家族の中心にあったHaroldの不在が更なる混乱とか不和をまき散らして、やがて驚くべきことに(驚かなくてもいいけど)、なんとなく風邪が治るみたいによくなったりもする。 それが家族なのだとは間違っても言えるようなもんじゃないのだが、家族ってずっと誰かが風邪をひいているような、そういう集団のことさ、くらいの言いっぷり。 このかんじは例えば"The Squid and the Whale" (2005)の家族像にも確かにあった。
ここのとこ、"Greenberg" (2010) - "Frances Ha" (2012) - "While We're Young" (2014) - "Mistress America" (2015) と、何があったんだか知らないがちょっと脇道にいってしまった変なヒトたちを描いてきたNoah Baumbachがもう一回家族を描いて、そこではこれらの変なヒトたちのいろんな断片がぐるぐる弧を描いて踊っているので、なんかすごい。 でも、それでも正論を吐くような奴はこれっぽっちも出てこない、という線は守られていて、誰もがみんなとても愛おしい。
とにかく、Dustin Hoffmanを真ん中に、その子供、腹違いの兄弟にAdam SandlerとBen Stillerを置く、それだけでもう、ありがとうしか出てこないよ。 このふたりのそれぞれの映画でかっこよくないじたばたの取っ組みあいを何十回も見てきた気がするが、ここの兄弟の取っ組みあいなんて、あまりにそれがそのまま出ているので感動して言葉を失う。
これは"(New and Selected)"なので"(Old and Selected)"でも"(New and Revised)"でもなんでもいいから続いていってほしい。
とりあえず次は、Haroldの3人の元妻たち、とか。それかElizaの冒険とか。
音楽は、ついにRandy Newman先生ですよ。 エンドロールの歌声に感動した。
でもそれ以上にちらっと聴こえてくるPrefab Sproutの"Wild Horses"に泣きそうになったわ。
10.09.2017
[film] How to Talk to Girls at Parties (2017)
6日の晩、"Manifesto"をBFIで見たあとにPrince Charlesに移動してこれ見ました。
金曜日だし、いいの。
待望のJohn Cameron Mitchellの新作。 "Baby Driver"と並ぶ今年のパンク炸裂映画。
原作はNeil Gaimanの2006年の短編で、2007年のヒューゴー賞にノミネートされて、ローカス賞の最優秀短篇を受賞している(未読)。
この回はこの日の2回目の上映で、ひとつ前の回がUKプレミアだったと。
で、John Cameron Mitchellが元気たっぷりに登場して、上映前だけど質問あるひと〜?
客「なんでCroydonが舞台なんだ?」、監督「いいとこ突くね〜。あそこなんもないのにねー」 などなど。
77年の英国のCroydon。
Enn (Alex Sharp)は朝起きあがってレコードプレーヤーまわすと、The Damnedの"New Rose"ががんがんで、これだけでもうしぬほど好きになる。
彼はパンク関係のイラストを描いてはチラシとかステッカーを貼ってまわったり、友人のVicとJohnと3人で自転車乗り回してレコ屋いったりパンクの小屋行ったり毎日ふらふら遊んでて(いいなー)、そんなある日、いつものたまり場(そこの女王がNicole Kidman)に寄って帰る途中の夜、住んでいないはずの建物が変に光ってて音楽が聞こえてくるので入ってみると変な人たちがうじゃうじゃいて、3人それぞれにゆらゆら幻惑されて、要するに彼らは宇宙からコロニーごとにツアーにやってきた宇宙人で、EnnはZan (Elle Fanning) と知りあって仲良くなりたくなって、いろいろお話しして、「パンクってなに?」とか聞かれる。
77年の英国で、Elle Fanningみたいな宇宙人からパンクってなに? と聞かれたらどう答えるべきか?
その答えはともかく、そういう映画なの。 とにかく最高としか言いようがないの。
EnnがZanに最初にキスしようとして唇が触れそうになったとこでげろしちゃうとことか、たまんないったら。
で、その晩、EnnはZanを自分ちに連れて帰って母と会わせて、翌日はNicoleのとこのパンクの集まりに連れていって、これが地球のパンクだおらーみたいな盛りあがりがあって、ずっといればいいのにな、になるのだが、Zanはこのツアーが終わると長老に食べられてしまうのだという。
そんなことさせてなるものか! ってEnnと仲間たちは..
最後までパンクでぶっ通すかと思ったらそうでもなくて、ラストは1992年に飛んで、とっても切なくしんみり終わって、でも文句ない。
全体の筋構成はSFで、そこにBoy Meets Girlと、ロンドンの外れにやってきた宇宙人との遭遇と、3人のすれっからしパンクが大人になる話と、更に親になる(とはどういうことか)話まで入ってきて、要するに、優れたSFが常にそうであるように、我々が学ぶべき大切なことがぜーんぶ入っている。
言うまでもなくそれは、「パーティで女の子に話しかけるには?」ていう世紀の、喫緊の、永遠の難問・難関ともまっすぐに繋がって刺さってくるんだよ。
上映後のQ&A、監督のスマホ経由でNeil Gaimanさんが挨拶してくれた。 (彼とAmandaの赤ん坊の声が聞こえたよ)
Q&Aに同席していた脚本のPhilippa Goslettさんによると、オリジナルの短編を映画に書き直すのって、原作はパーティが終わるところから始まっているし、短篇なんだけどすごくいろんな要素がぜんぶ入っているしで、ものすごく難しかった。 そもそもテーマはタイトルとはあんま関係なくて、"Parenthood"みたいなとこだし、と。
音楽は冒頭のThe Damned以外は最近の人たち - The New PornographersのA. C. Newmanとか - に当時のパンクのテイストでもって作って貰ったと(サントラもでるって)。 あと、3人が自転車で走り回る冒頭のぺらぺらした70年代のTV画面みたいな画像は、デジタル圧縮されたのを引き伸ばしたり、Martin Scorseseのそういう類のデジタル処理をしてくれるラボに委託したりしたのだと。
なんでNicoleは(こんな安っぽい映画に)出てくれるんですか? という問いには、彼女は"Rabbit Hole"(2010) - よい映画じゃった - 以降ぼくの奴隷だからさ、って(やや得意げに)。
あと、Elle Fanningさんはアドリブの天才だったって。 そんなかんじよね。
この舞台がNYだったら... て少し思って、そういえば昔に"The Brother from Another Planet" (1984)ていうのがあったねえ。 恋の話ではなかったと思うが。
正式公開されたらまた見よう。
金曜日だし、いいの。
待望のJohn Cameron Mitchellの新作。 "Baby Driver"と並ぶ今年のパンク炸裂映画。
原作はNeil Gaimanの2006年の短編で、2007年のヒューゴー賞にノミネートされて、ローカス賞の最優秀短篇を受賞している(未読)。
この回はこの日の2回目の上映で、ひとつ前の回がUKプレミアだったと。
で、John Cameron Mitchellが元気たっぷりに登場して、上映前だけど質問あるひと〜?
客「なんでCroydonが舞台なんだ?」、監督「いいとこ突くね〜。あそこなんもないのにねー」 などなど。
77年の英国のCroydon。
Enn (Alex Sharp)は朝起きあがってレコードプレーヤーまわすと、The Damnedの"New Rose"ががんがんで、これだけでもうしぬほど好きになる。
彼はパンク関係のイラストを描いてはチラシとかステッカーを貼ってまわったり、友人のVicとJohnと3人で自転車乗り回してレコ屋いったりパンクの小屋行ったり毎日ふらふら遊んでて(いいなー)、そんなある日、いつものたまり場(そこの女王がNicole Kidman)に寄って帰る途中の夜、住んでいないはずの建物が変に光ってて音楽が聞こえてくるので入ってみると変な人たちがうじゃうじゃいて、3人それぞれにゆらゆら幻惑されて、要するに彼らは宇宙からコロニーごとにツアーにやってきた宇宙人で、EnnはZan (Elle Fanning) と知りあって仲良くなりたくなって、いろいろお話しして、「パンクってなに?」とか聞かれる。
77年の英国で、Elle Fanningみたいな宇宙人からパンクってなに? と聞かれたらどう答えるべきか?
その答えはともかく、そういう映画なの。 とにかく最高としか言いようがないの。
EnnがZanに最初にキスしようとして唇が触れそうになったとこでげろしちゃうとことか、たまんないったら。
で、その晩、EnnはZanを自分ちに連れて帰って母と会わせて、翌日はNicoleのとこのパンクの集まりに連れていって、これが地球のパンクだおらーみたいな盛りあがりがあって、ずっといればいいのにな、になるのだが、Zanはこのツアーが終わると長老に食べられてしまうのだという。
そんなことさせてなるものか! ってEnnと仲間たちは..
最後までパンクでぶっ通すかと思ったらそうでもなくて、ラストは1992年に飛んで、とっても切なくしんみり終わって、でも文句ない。
全体の筋構成はSFで、そこにBoy Meets Girlと、ロンドンの外れにやってきた宇宙人との遭遇と、3人のすれっからしパンクが大人になる話と、更に親になる(とはどういうことか)話まで入ってきて、要するに、優れたSFが常にそうであるように、我々が学ぶべき大切なことがぜーんぶ入っている。
言うまでもなくそれは、「パーティで女の子に話しかけるには?」ていう世紀の、喫緊の、永遠の難問・難関ともまっすぐに繋がって刺さってくるんだよ。
上映後のQ&A、監督のスマホ経由でNeil Gaimanさんが挨拶してくれた。 (彼とAmandaの赤ん坊の声が聞こえたよ)
Q&Aに同席していた脚本のPhilippa Goslettさんによると、オリジナルの短編を映画に書き直すのって、原作はパーティが終わるところから始まっているし、短篇なんだけどすごくいろんな要素がぜんぶ入っているしで、ものすごく難しかった。 そもそもテーマはタイトルとはあんま関係なくて、"Parenthood"みたいなとこだし、と。
音楽は冒頭のThe Damned以外は最近の人たち - The New PornographersのA. C. Newmanとか - に当時のパンクのテイストでもって作って貰ったと(サントラもでるって)。 あと、3人が自転車で走り回る冒頭のぺらぺらした70年代のTV画面みたいな画像は、デジタル圧縮されたのを引き伸ばしたり、Martin Scorseseのそういう類のデジタル処理をしてくれるラボに委託したりしたのだと。
なんでNicoleは(こんな安っぽい映画に)出てくれるんですか? という問いには、彼女は"Rabbit Hole"(2010) - よい映画じゃった - 以降ぼくの奴隷だからさ、って(やや得意げに)。
あと、Elle Fanningさんはアドリブの天才だったって。 そんなかんじよね。
この舞台がNYだったら... て少し思って、そういえば昔に"The Brother from Another Planet" (1984)ていうのがあったねえ。 恋の話ではなかったと思うが。
正式公開されたらまた見よう。
[film] Manifesto (2015)
London Film Festival (LFF)が4日から始まっていて、6日の晩のこれが自分の最初ので、BFI Southbankで見ました。
LFFは初めてでどんなものかわからないし、平日昼間なんて当然仕事だし、前売り時点では出張の予定もあったし、本数もVenueの数もNYFFと比べるとなんかやたら多いので、BFIメンバー向けのチケット発売日には結構ブレーキかけて、明らかにそのうち公開されそうなのはやめる、とか、チケットの値段が高いの(ゲストが豪華)はやめるとか、時間がぶつかっているのも結構あって、結果として12枚とった。(すでに1本、地下鉄が動かなかった&慌てて走って飛びこんだら別の電車だった、で見れなかったのがでた(涙)。今後の教訓とする)
ここまでのとこ、やっぱしNYFFがいちばん好きかも。 東京のよかぜんぜんよいけど。
2015年リリースのオーストラリア - ドイツ映画で、監督は映画というよりは"Film Installation"だと言っていた。
古今東西のいろんなマニフェスト - 主にアート系の - を13のシチュエーションで13のキャラクターに扮したCate Blanchettさんが読みあげたり、ヴォイスオーバーで被せたり、そこで生まれるギャップやくすくすや「お呼びでない」感を紙芝居のように淡々と見せていく。監督が冒頭に言っていたようにこの作品が製作されてから2年が過ぎて、ポピュリズムの嵐が吹き荒れるなか、「宣言」の持つ重みとか軽みとかを改めて考えてみるよい機会かも、と。
どんな格好とか場面が出てくるかというと、廃墟のようなところのゴミ袋さげた浮浪者だったり、為替だか株だかの取引のオフィスだったり、ゴミ処理施設だったり、コンサバなお宅のマダムだったり、金持ちの豪邸でパーティしてたり、お葬式だったり、パンクバンドの楽屋だったり、人形使い(Suse Wächterのすばらしい人形たち)だったり、ショーの集団振付をやっていたり、放送局のキャスターとお天気レポーター(どっちも彼女がやってる)だったり、小学校の教室で先生やってたり、てんでばらばらで、その振れ幅とCateの適応ぶりっこがあまりに激しいので、SNLのコントかなんかかと思う。
で、それらで朗読されるManifestoは例えば、Marx / Engels『共産党宣言』、Tristan Tzara『ダダ宣言』、Lucio Fontana、Alexander Rodchenko、Guy Debord『シチュアシオニスト宣言』、Bruno Taut、Barnett Newman、Wyndham Lewis、Malevich、Picabia、
Wassily Kandinsky / Franz Marc 『青騎士』の序文、Paul Éluard、Louis Aragon、André Breton 『シュルレアリスム宣言』、Claes Oldenburg "I am for an Art... "、George Maciunas 『フルクサス宣言』、Sol LeWitt、Stan Brakhage、Jim Jarmusch "Golden Rules of Filmmaking" (2004)、Lars von Trier "Gogma 95"、Werner Herzog "Minnesota Declaration"、などなど(の断片)が、なんの字幕も説明もなく、ひとつのセグメント内で割と勝手に自在に接合されている(らしい - きちんとチェックしたわけではないから)。
これらの宣言は主に、世界や社会と芸術のありようが乖離分離を始めた近代以降、「反芸術」とか「脱芸術」のような視点も含めて社会と芸術のありようを再び見つめ直したり切り結んだり戻したりするために - 簡単にいうと「芸術は社会に何ができるのか?」とか「芸術は社会を変えることができるのか?」といった問いにしっかり応えるべく用意されたものだと思っている。
いまのポストモダン(なの?)を生きる我々からすると、もはや「マニフェスト」のような言説のありようからしてぜんぜん信じらんない、どうでもよいものになっていて(→その反動としてのポピュリズム)、そこを流れていくテキストたちは「宣言」というよりもはや「詩」のように聞こえたりもして(この上映では加えて外国語 - 英語のしんどさもある)、それはそれで素敵かも、ていうのと、もしそれが「詩」であるとしたら、それ故のパワーは持ちうるのかも、ていうのと、そうなったときに映画の、映像の力は看過できないものなのかもしれない - 最後のセグメントで小学校の教室で子供たちに聞かせるのが映画作家のテキスト(ただしてんでばらばらだけどね)であることを重ねあわせてみると。
そういったことよりもやはり(よいことなのかわるいことなのか)、ポイントはCate Blanchettの13面相・擬態の楽しさに向かってしまう、のはしょうがないのかしら。 彼女、もはや芸達者とかそういう域を超えている気がした。
上映後のQ&AではCateさまが登場して、撮影はとても楽しかったわ〜とかひらひら優雅にのたまわれ、いくつか質問もされたけどぜんぶ女王様のように答えてて、それでもまったく問題なくて、とにかく素敵でしたの。
LFFは初めてでどんなものかわからないし、平日昼間なんて当然仕事だし、前売り時点では出張の予定もあったし、本数もVenueの数もNYFFと比べるとなんかやたら多いので、BFIメンバー向けのチケット発売日には結構ブレーキかけて、明らかにそのうち公開されそうなのはやめる、とか、チケットの値段が高いの(ゲストが豪華)はやめるとか、時間がぶつかっているのも結構あって、結果として12枚とった。(すでに1本、地下鉄が動かなかった&慌てて走って飛びこんだら別の電車だった、で見れなかったのがでた(涙)。今後の教訓とする)
ここまでのとこ、やっぱしNYFFがいちばん好きかも。 東京のよかぜんぜんよいけど。
2015年リリースのオーストラリア - ドイツ映画で、監督は映画というよりは"Film Installation"だと言っていた。
古今東西のいろんなマニフェスト - 主にアート系の - を13のシチュエーションで13のキャラクターに扮したCate Blanchettさんが読みあげたり、ヴォイスオーバーで被せたり、そこで生まれるギャップやくすくすや「お呼びでない」感を紙芝居のように淡々と見せていく。監督が冒頭に言っていたようにこの作品が製作されてから2年が過ぎて、ポピュリズムの嵐が吹き荒れるなか、「宣言」の持つ重みとか軽みとかを改めて考えてみるよい機会かも、と。
どんな格好とか場面が出てくるかというと、廃墟のようなところのゴミ袋さげた浮浪者だったり、為替だか株だかの取引のオフィスだったり、ゴミ処理施設だったり、コンサバなお宅のマダムだったり、金持ちの豪邸でパーティしてたり、お葬式だったり、パンクバンドの楽屋だったり、人形使い(Suse Wächterのすばらしい人形たち)だったり、ショーの集団振付をやっていたり、放送局のキャスターとお天気レポーター(どっちも彼女がやってる)だったり、小学校の教室で先生やってたり、てんでばらばらで、その振れ幅とCateの適応ぶりっこがあまりに激しいので、SNLのコントかなんかかと思う。
で、それらで朗読されるManifestoは例えば、Marx / Engels『共産党宣言』、Tristan Tzara『ダダ宣言』、Lucio Fontana、Alexander Rodchenko、Guy Debord『シチュアシオニスト宣言』、Bruno Taut、Barnett Newman、Wyndham Lewis、Malevich、Picabia、
Wassily Kandinsky / Franz Marc 『青騎士』の序文、Paul Éluard、Louis Aragon、André Breton 『シュルレアリスム宣言』、Claes Oldenburg "I am for an Art... "、George Maciunas 『フルクサス宣言』、Sol LeWitt、Stan Brakhage、Jim Jarmusch "Golden Rules of Filmmaking" (2004)、Lars von Trier "Gogma 95"、Werner Herzog "Minnesota Declaration"、などなど(の断片)が、なんの字幕も説明もなく、ひとつのセグメント内で割と勝手に自在に接合されている(らしい - きちんとチェックしたわけではないから)。
これらの宣言は主に、世界や社会と芸術のありようが乖離分離を始めた近代以降、「反芸術」とか「脱芸術」のような視点も含めて社会と芸術のありようを再び見つめ直したり切り結んだり戻したりするために - 簡単にいうと「芸術は社会に何ができるのか?」とか「芸術は社会を変えることができるのか?」といった問いにしっかり応えるべく用意されたものだと思っている。
いまのポストモダン(なの?)を生きる我々からすると、もはや「マニフェスト」のような言説のありようからしてぜんぜん信じらんない、どうでもよいものになっていて(→その反動としてのポピュリズム)、そこを流れていくテキストたちは「宣言」というよりもはや「詩」のように聞こえたりもして(この上映では加えて外国語 - 英語のしんどさもある)、それはそれで素敵かも、ていうのと、もしそれが「詩」であるとしたら、それ故のパワーは持ちうるのかも、ていうのと、そうなったときに映画の、映像の力は看過できないものなのかもしれない - 最後のセグメントで小学校の教室で子供たちに聞かせるのが映画作家のテキスト(ただしてんでばらばらだけどね)であることを重ねあわせてみると。
そういったことよりもやはり(よいことなのかわるいことなのか)、ポイントはCate Blanchettの13面相・擬態の楽しさに向かってしまう、のはしょうがないのかしら。 彼女、もはや芸達者とかそういう域を超えている気がした。
上映後のQ&AではCateさまが登場して、撮影はとても楽しかったわ〜とかひらひら優雅にのたまわれ、いくつか質問もされたけどぜんぶ女王様のように答えてて、それでもまったく問題なくて、とにかく素敵でしたの。
10.08.2017
[film] Mother! (2017)
5日の晩にVictoriaのCurzonで見ました。
London Film Festivalが始まると普通の公開作品は遠くなってしまうのでとっとと片付けておかなきゃ、と。
“Mother”のおわりに”!”が付いている、ここがポイントなのかしら?
たぶんネタバレしていると思うのだが、別にいいよね。
草原の真ん中に絵に描いたような一軒家あって、そこに夫婦と思われる男女が暮らしている。 男(Javier Bardem)は詩人で作家らしく、部屋に籠ってなにか書こうとしているが難儀しているみたい。女(Jennifer Lawrence)は食事の支度をしたりまだ新しいらしい家の壁を塗ったり主婦仕事全般をしているようで、ふたりは互いに思いやって気遣っていて仲が悪いようには見えない。
ある日彼女の知らない初老の男(Ed Harris)がドアを叩いて、しばらく夫と話したあとでディナーを一緒にして泊めてあげることになるのだがずっと咳してて具合悪そうだし、知らない人になんでそんなことをするのかと夫に聞くと、自分の読者だしもう長くないようだから、と言われる。 暫くすると今度は男の妻らしい女(Michelle Pfeiffer)が入ってきて一緒に暮らし始めるが、この人は作家に対する態度とは違って妻の方には敵意を剥き出しにしてくるのでなんなのこいつ、て思う。
さらにさらに、闖入夫婦の息子と思われる若者2名が猛り狂って現れて家族内小競り合いを始めて、殴りあいの末、兄弟のひとりが頭から血を流して動かなくなって病院に連れていくのだが死んじゃった、と。 で、そいつのお葬式をこの家でやることになって、親族友人一揃いがやってくるのだがこいつらは家の中で好き勝手やるのでいい加減ブチ切れてみんな出ていって! って絶叫するとみんないなくなって、気まずくなったふたりが最悪の状態でセックスをすると翌朝彼女は妊娠したわ、といい、彼のほうは書ける!書けるぞ!!って執筆を始めて、やがて本ができあがる。
本ができあがると興奮した読者だかファンだかが家の周りに集まるようになって、作家は感激してそれに応えたりしているのだが、どんどん数が増えていって家のなかに入ってきて、それを整理する人たちがきて、カルトができて、メディアがきて、警察がきて、軍隊がきて、戦争みたいなことになって、他方で妻のお腹はあっという間に膨れあがって子供が生まれて、すべてがこんなふうで、妻からすると、いったいどうなってるのよこれ?! なことばかりで、夫に訴えても彼女のことは守ってくれるけど、それ以上はいいじゃないか、とか、どうすることもできないんだ、とかいう。
途中でそういうことか、というのはわかるのだが、だからなんだってんだよ、ということで以下感想。
作品を生みだそう作りだそうとしているアーティストが地獄を抱えて苦しむのはわかるしそういう地獄があることもわかるし、それがエンドレスだというのもわかるけど、その地獄は詩人だけのもんじゃない。ギャングにだってパン屋にだって魚屋にだってプログラマーにだって動物園の白熊にだってたぶん等しくあって、でもそんなのわかりあってどうなるもんでもないのだから犬にでも喰わせろ、ていうか、みんなに幸せが訪れますように、て祈るくらいしかないもんではないか。ぜんぜん興味ない世界。60年代じゃあるまいし。
あと、“Black Swan” (2010) でも気になったのだがこのひとのジェンダー観はなんかおかしなところがある気がして(はいはい、たんなる嗜好のようなもんですよ)なんで男はみんな偉そーに苦悩して女は生贄みたいな受け入れ袋みたいな”Home”みたいな存在になってしまうのか、いえいえそういった今の世界のありようをそのまま描こうとしているのです、とかいうのであればラストでJavier Bardemは”The Hunger Games”のDonald Sutherlandのように八つ裂きにされてしかるべきではないか。
それがないのでたんなるアート至上男根主義クソ野郎の自己満作品だと思った。相当こまこま作りこんであるのでマニア受けはするし「クリエイター」の共感は呼ぶのだろうが。
邦題は「おかあちゃーん!」でいいんじゃねえの。
Kristen Wiig、ふっとばされるためだけに出てきたの?
London Film Festivalが始まると普通の公開作品は遠くなってしまうのでとっとと片付けておかなきゃ、と。
“Mother”のおわりに”!”が付いている、ここがポイントなのかしら?
たぶんネタバレしていると思うのだが、別にいいよね。
草原の真ん中に絵に描いたような一軒家あって、そこに夫婦と思われる男女が暮らしている。 男(Javier Bardem)は詩人で作家らしく、部屋に籠ってなにか書こうとしているが難儀しているみたい。女(Jennifer Lawrence)は食事の支度をしたりまだ新しいらしい家の壁を塗ったり主婦仕事全般をしているようで、ふたりは互いに思いやって気遣っていて仲が悪いようには見えない。
ある日彼女の知らない初老の男(Ed Harris)がドアを叩いて、しばらく夫と話したあとでディナーを一緒にして泊めてあげることになるのだがずっと咳してて具合悪そうだし、知らない人になんでそんなことをするのかと夫に聞くと、自分の読者だしもう長くないようだから、と言われる。 暫くすると今度は男の妻らしい女(Michelle Pfeiffer)が入ってきて一緒に暮らし始めるが、この人は作家に対する態度とは違って妻の方には敵意を剥き出しにしてくるのでなんなのこいつ、て思う。
さらにさらに、闖入夫婦の息子と思われる若者2名が猛り狂って現れて家族内小競り合いを始めて、殴りあいの末、兄弟のひとりが頭から血を流して動かなくなって病院に連れていくのだが死んじゃった、と。 で、そいつのお葬式をこの家でやることになって、親族友人一揃いがやってくるのだがこいつらは家の中で好き勝手やるのでいい加減ブチ切れてみんな出ていって! って絶叫するとみんないなくなって、気まずくなったふたりが最悪の状態でセックスをすると翌朝彼女は妊娠したわ、といい、彼のほうは書ける!書けるぞ!!って執筆を始めて、やがて本ができあがる。
本ができあがると興奮した読者だかファンだかが家の周りに集まるようになって、作家は感激してそれに応えたりしているのだが、どんどん数が増えていって家のなかに入ってきて、それを整理する人たちがきて、カルトができて、メディアがきて、警察がきて、軍隊がきて、戦争みたいなことになって、他方で妻のお腹はあっという間に膨れあがって子供が生まれて、すべてがこんなふうで、妻からすると、いったいどうなってるのよこれ?! なことばかりで、夫に訴えても彼女のことは守ってくれるけど、それ以上はいいじゃないか、とか、どうすることもできないんだ、とかいう。
途中でそういうことか、というのはわかるのだが、だからなんだってんだよ、ということで以下感想。
作品を生みだそう作りだそうとしているアーティストが地獄を抱えて苦しむのはわかるしそういう地獄があることもわかるし、それがエンドレスだというのもわかるけど、その地獄は詩人だけのもんじゃない。ギャングにだってパン屋にだって魚屋にだってプログラマーにだって動物園の白熊にだってたぶん等しくあって、でもそんなのわかりあってどうなるもんでもないのだから犬にでも喰わせろ、ていうか、みんなに幸せが訪れますように、て祈るくらいしかないもんではないか。ぜんぜん興味ない世界。60年代じゃあるまいし。
あと、“Black Swan” (2010) でも気になったのだがこのひとのジェンダー観はなんかおかしなところがある気がして(はいはい、たんなる嗜好のようなもんですよ)なんで男はみんな偉そーに苦悩して女は生贄みたいな受け入れ袋みたいな”Home”みたいな存在になってしまうのか、いえいえそういった今の世界のありようをそのまま描こうとしているのです、とかいうのであればラストでJavier Bardemは”The Hunger Games”のDonald Sutherlandのように八つ裂きにされてしかるべきではないか。
それがないのでたんなるアート至上男根主義クソ野郎の自己満作品だと思った。相当こまこま作りこんであるのでマニア受けはするし「クリエイター」の共感は呼ぶのだろうが。
邦題は「おかあちゃーん!」でいいんじゃねえの。
Kristen Wiig、ふっとばされるためだけに出てきたの?
10.07.2017
[film] Teströl és lélekröl (2017)
3日の晩に、BloomsburyのCurzonで見ました。 英語題は、”On Body and Soul”。
なんとなく気になっていて、終わっちゃいそうだったので慌てて。
今年のベルリンの金熊を受賞しているハンガリー映画。 監督は女性のIldikó Enyediさん。
イメージ写真が森のなかの鹿なので鹿の話かと思ってたらちがった... けどすばらしくよくてびっくり。
オープニングはやはり2頭の鹿で、牡鹿と牝鹿で雪に覆われた深い森のなかで互いに顔を近づけあったりしている。 以降、森のなかの鹿たちは何度も出てくる。
屠殺食肉工場で財務部長をやっている初老のEndre (Géza Morcsányi )がいて、片手がマヒしていて、でも穏やかなひとなのでみんなに慕われていて、ある日、彼の職場に新たに品質検査官のMária (Alexandra Borbély)が派遣されてくる。
服装は地味で表情は氷のようで、何を聞かれても機械のようにしか答えないので職場での評判は散々で、家に帰ってもその日のやりとりをすらすら反復して遊んだりしている。(後で、彼女は起こったことをその時間も含めてなにからなにまで全部記憶できてしまう特殊な能力の人だということがわかる)
職場で起こったちょっとした事件のために警察が来て、その犯人を捜すために女性の心理学者が来て社員ひとりひとり個別に面談をすることになって、事件とぜんぜん関係のなさそうな質問をしてくるのでイラつくのだが、昨晩見た夢は? の質問にEndreが答えた夢の内容とMáriaが答えたそれが同じだったのでなにこれ? になる。 それは変な形の池がある森の中でEndreは牡鹿になってて、もう一匹は牝鹿で、Máriaは牝鹿になっていて、もう一匹は角が立派な牡鹿で、二匹は鼻を寄せあったり近づいたりはしているもののつがいではないらしい、と。
それまでは職場で冷たい通り一遍のやりとりしかしていなかったEndreとMáriaはそれを知らされて(知らせちゃっていいの?)驚き、動揺するのだが、もともと静かな人たちなので落ち着いて、しばらくの間、前の夜に見た夢の内容とか光景とか寝ていた時間とかを互いに確認したりするようになって、そうするとどう考えてもふたりは夜の間、同じ夢の世界にいるらしいこと - ただし鹿になって - がわかる。
これをどう受けとめるべきか、それまで恋をしたことがなかったらしいMáriaは少し慌ててセラピストに相談したりしてみて、これが恋というものであればそれをしてみてもよいのではないかということになり、携帯を買ってみたり、人の肌に触れることができるようになるために仕事場にいる牛に触ってみたりマッシュポテトに指を埋めてみたり、ポルノを見てみたり、CD屋にいってデスメタルからなにから恋の音楽をいちにち延々試聴して、決めきれなくて店員のひとに決めて貰ったり - 店員が勧めてくるのがLaura Marlingの"What He Wrote”なの - あれこれやってみるのだがそう簡単には転がってくれなくて、この二頭の鹿はどうなってしまうのか。
始めのほうはリアルな屠殺のシーン(やっぱり苦手)もいっぱい出てくるし、荒っぽい若者が入社してきて粗暴な振る舞いをしたりしているので、殺戮とか猟奇なほうにいっちゃうのか、いつそっちのほうにくるりと反転するのかはらはら気が気じゃないのだが、地獄みたいなところにはいかないので安心して。 むしろどんどん透明になっていって、途中でよじれて天を仰いでしまったりもするのだが、見たあとのかんじはすごくよくて、うわああー、ってなるから。
そして、”On Body and Soul”ていうタイトルもわかるの。
ああ、鹿になりてえ。
なんとなく気になっていて、終わっちゃいそうだったので慌てて。
今年のベルリンの金熊を受賞しているハンガリー映画。 監督は女性のIldikó Enyediさん。
イメージ写真が森のなかの鹿なので鹿の話かと思ってたらちがった... けどすばらしくよくてびっくり。
オープニングはやはり2頭の鹿で、牡鹿と牝鹿で雪に覆われた深い森のなかで互いに顔を近づけあったりしている。 以降、森のなかの鹿たちは何度も出てくる。
屠殺食肉工場で財務部長をやっている初老のEndre (Géza Morcsányi )がいて、片手がマヒしていて、でも穏やかなひとなのでみんなに慕われていて、ある日、彼の職場に新たに品質検査官のMária (Alexandra Borbély)が派遣されてくる。
服装は地味で表情は氷のようで、何を聞かれても機械のようにしか答えないので職場での評判は散々で、家に帰ってもその日のやりとりをすらすら反復して遊んだりしている。(後で、彼女は起こったことをその時間も含めてなにからなにまで全部記憶できてしまう特殊な能力の人だということがわかる)
職場で起こったちょっとした事件のために警察が来て、その犯人を捜すために女性の心理学者が来て社員ひとりひとり個別に面談をすることになって、事件とぜんぜん関係のなさそうな質問をしてくるのでイラつくのだが、昨晩見た夢は? の質問にEndreが答えた夢の内容とMáriaが答えたそれが同じだったのでなにこれ? になる。 それは変な形の池がある森の中でEndreは牡鹿になってて、もう一匹は牝鹿で、Máriaは牝鹿になっていて、もう一匹は角が立派な牡鹿で、二匹は鼻を寄せあったり近づいたりはしているもののつがいではないらしい、と。
それまでは職場で冷たい通り一遍のやりとりしかしていなかったEndreとMáriaはそれを知らされて(知らせちゃっていいの?)驚き、動揺するのだが、もともと静かな人たちなので落ち着いて、しばらくの間、前の夜に見た夢の内容とか光景とか寝ていた時間とかを互いに確認したりするようになって、そうするとどう考えてもふたりは夜の間、同じ夢の世界にいるらしいこと - ただし鹿になって - がわかる。
これをどう受けとめるべきか、それまで恋をしたことがなかったらしいMáriaは少し慌ててセラピストに相談したりしてみて、これが恋というものであればそれをしてみてもよいのではないかということになり、携帯を買ってみたり、人の肌に触れることができるようになるために仕事場にいる牛に触ってみたりマッシュポテトに指を埋めてみたり、ポルノを見てみたり、CD屋にいってデスメタルからなにから恋の音楽をいちにち延々試聴して、決めきれなくて店員のひとに決めて貰ったり - 店員が勧めてくるのがLaura Marlingの"What He Wrote”なの - あれこれやってみるのだがそう簡単には転がってくれなくて、この二頭の鹿はどうなってしまうのか。
始めのほうはリアルな屠殺のシーン(やっぱり苦手)もいっぱい出てくるし、荒っぽい若者が入社してきて粗暴な振る舞いをしたりしているので、殺戮とか猟奇なほうにいっちゃうのか、いつそっちのほうにくるりと反転するのかはらはら気が気じゃないのだが、地獄みたいなところにはいかないので安心して。 むしろどんどん透明になっていって、途中でよじれて天を仰いでしまったりもするのだが、見たあとのかんじはすごくよくて、うわああー、ってなるから。
そして、”On Body and Soul”ていうタイトルもわかるの。
ああ、鹿になりてえ。
[film] Variety (1983)
2日の月曜日の晩、Barbicanの映画館で見ました。
ここで始まったBasquiatの回顧展に合わせてかつてのNYのアンダーグラウンドを描いた映画の特集 - "The Grime and the Glamour NYC 1976-90"があって、どれも見たいのばかりだったのにぜんぜん行けなかった。 そんななか、これだけはかろうじて。
この特集で例えばどんなのがかかったかというと、"Permanent Vacation" (1980), "Wild Style" (1983), Susan Seidelman の"Smithereens" (1982)に"Desperately Seeking Susan"-『マドンナのスーザンを探して』 (1985), Chantal Akerman の"News from Home" (1977), Raul Ruiz の"The Golden Boat" (1990)、などなど。 個人的に70年代末〜80年代初のNYダウンタウンシーンのあれこれを追っかけるのはライフワークみたいなもんになりつつあるので、どれもとっても見たかったのにさ。
この映画は監督のBette Gordonの原作をもとにKathy Ackerがスクリプトを書いて、音楽はJohn Lurieで、撮影はTom di Cilloで、Nan Goldinが端役で出ていて、Special ThanksにはSara Driverの名前があって、探せばまだ他にもあるかもしれないが、要するに80年代初のNYダウンタウンで映画を撮ったりしていた連中がごっそりそのまま共謀して共犯しながら作っていった匂いがぷんぷんする。
Christine (Sandy McLeod)は雑誌に記事とか書いていて夢もいろいろあるけど、とにかくお金がなくて困っていて、ジムで友人のNan (Nan Goldin)に相談したらTimes Squareにある"Variety"ていうポルノ映画館のチケット売り場の仕事を紹介されたので行ってみる。
そこはひとりしか入れない窮屈なチケットブースで、客は当然男、しかも変な奴ばっかしで、仕事仲間にはLuis Guzman - まだ若くてぴちぴち、でもちんぴら - とかがいて、恋人のMark (Will Patton - "Desperately Seeking Susan"の悪漢ね)には変な顔されるしあんまぱっとしなくて、休憩とってロビーに出てみれば喘ぎ声とかいっぱいで、そんなある日、お金持ちそうなお客のLouieに誘われてNJのAsbury Parkのほうに行ってみたり、彼女のなかで少しづつなにかが変わっていく - 変わっていっているようにこちらには映る。
仕事なんてどれもおなじお金のためよ、と割り切って始めた映画館での仕事、その視野 - チケットブースからの光景、そこを通過する手から先だけの男たちとその声、ロビーの音、扉の向こうでずっとかかっているポルノ映画、が彼女の普段の生活 - ジムのプール、バーやカフェでのおしゃべり、母親との電話、などにどんなふうに影響を与えていくのかを多分にフェミニズムの観点から追っていく。 「多分に」というのは最後まで彼女の行動はとりとめなくて予測がつかないから。 予測がつかない、けれどとても親密でそこに生々しくあって動いて変わっていくように見える - というのはこの時期のNan Goldinの写真から受ける人々の質感、存在感にも近いなあ、とか。
女性監督が撮ったポルノ映画館で働く女性の物語 - というと昨年(だっけ?)アンスティチュで見た『シモーヌ・バルべス、あるいは淑徳』 - "Simone Barbès ou la vertu" (1980)を思い出したのだが、時間的にも近いし、なんか影響関係とかあったりしたのかしら?
監督のex.夫って、James Benningなの.. ?
ここで始まったBasquiatの回顧展に合わせてかつてのNYのアンダーグラウンドを描いた映画の特集 - "The Grime and the Glamour NYC 1976-90"があって、どれも見たいのばかりだったのにぜんぜん行けなかった。 そんななか、これだけはかろうじて。
この特集で例えばどんなのがかかったかというと、"Permanent Vacation" (1980), "Wild Style" (1983), Susan Seidelman の"Smithereens" (1982)に"Desperately Seeking Susan"-『マドンナのスーザンを探して』 (1985), Chantal Akerman の"News from Home" (1977), Raul Ruiz の"The Golden Boat" (1990)、などなど。 個人的に70年代末〜80年代初のNYダウンタウンシーンのあれこれを追っかけるのはライフワークみたいなもんになりつつあるので、どれもとっても見たかったのにさ。
この映画は監督のBette Gordonの原作をもとにKathy Ackerがスクリプトを書いて、音楽はJohn Lurieで、撮影はTom di Cilloで、Nan Goldinが端役で出ていて、Special ThanksにはSara Driverの名前があって、探せばまだ他にもあるかもしれないが、要するに80年代初のNYダウンタウンで映画を撮ったりしていた連中がごっそりそのまま共謀して共犯しながら作っていった匂いがぷんぷんする。
Christine (Sandy McLeod)は雑誌に記事とか書いていて夢もいろいろあるけど、とにかくお金がなくて困っていて、ジムで友人のNan (Nan Goldin)に相談したらTimes Squareにある"Variety"ていうポルノ映画館のチケット売り場の仕事を紹介されたので行ってみる。
そこはひとりしか入れない窮屈なチケットブースで、客は当然男、しかも変な奴ばっかしで、仕事仲間にはLuis Guzman - まだ若くてぴちぴち、でもちんぴら - とかがいて、恋人のMark (Will Patton - "Desperately Seeking Susan"の悪漢ね)には変な顔されるしあんまぱっとしなくて、休憩とってロビーに出てみれば喘ぎ声とかいっぱいで、そんなある日、お金持ちそうなお客のLouieに誘われてNJのAsbury Parkのほうに行ってみたり、彼女のなかで少しづつなにかが変わっていく - 変わっていっているようにこちらには映る。
仕事なんてどれもおなじお金のためよ、と割り切って始めた映画館での仕事、その視野 - チケットブースからの光景、そこを通過する手から先だけの男たちとその声、ロビーの音、扉の向こうでずっとかかっているポルノ映画、が彼女の普段の生活 - ジムのプール、バーやカフェでのおしゃべり、母親との電話、などにどんなふうに影響を与えていくのかを多分にフェミニズムの観点から追っていく。 「多分に」というのは最後まで彼女の行動はとりとめなくて予測がつかないから。 予測がつかない、けれどとても親密でそこに生々しくあって動いて変わっていくように見える - というのはこの時期のNan Goldinの写真から受ける人々の質感、存在感にも近いなあ、とか。
女性監督が撮ったポルノ映画館で働く女性の物語 - というと昨年(だっけ?)アンスティチュで見た『シモーヌ・バルべス、あるいは淑徳』 - "Simone Barbès ou la vertu" (1980)を思い出したのだが、時間的にも近いし、なんか影響関係とかあったりしたのかしら?
監督のex.夫って、James Benningなの.. ?
10.06.2017
[film] Goodbye Christopher Robin (2017)
1日、日曜日の午後、Piccadillyのシネコンでみました。
これもなかなか悩ましい1本で、だって予告を見るとなんか暗くて悲しそうな実話で、でも大好きなWinnie-the-Poohで誰もそんな辛い思いしたくないじゃん? もちろん、そもそものPoohの顔をみれば底抜けに明るい話じゃないことはわかっているけど、わかっているから、更にかなしいやつとか、だれも見たくないよね?
でもわるくなかった。 ものすごく難しかったと思うけど、とてもよい父と子の物語になっているとおもった。
A. A. Milneは第一次大戦に英国軍の兵士として従軍して、帰ってきた1920年に息子のChristopher Robinが生まれて、でも彼はPTSDに悩まされていて、大きい音とかスポットライトとか蜂の羽音でもガタガタ崩れてしまうので、自身の作家業に専念するためにも都会から離れてサセックスのほうに越してみる。 でも妻のDaphne(Margot Robbie)は静かな田舎暮らしがつまんなくて出ていっちゃうし、まだ子供のChristopher RobinはNannyのOlive (Kelly Macdonald)にべったりの甘えん坊さんで、自分の筆も進まないのでついきつくあたっては怖がられて逃げられてが続くので、これではいけない、とふたりで森のなかの散歩の時間を持つようになる。
そうしていくなかでChristopher Robinがいつもぶらさげているぬいぐるみの熊の話しになって、彼の名前とか習性とか仲間とか、とりとめなく話していくうちにこれをお話しにできるのではないか、と友人の画家に来てもらってふたりのいろんな絵を描いてもらい、こうして"Winnie-the-Pooh"の本ができあがって、そしたら本は戸惑うくらいの大人気になり、父と子はいろんなところに引っ張りだされたりいきなり声かけられたりで疲れ始めて、また森でのんびり過ごしたいよう、になるの。
この辺から辛くなって、それを子供の成長に伴う親と子の痛み、とか広げて言ってしまうことは簡単だけど、有名になりすぎてしまったことで失われてしまった親密さ、取り返すことのできないその時間を求めて互いに傷つけあって、もうWinnie-the-Poohのお話しは書かないことにするのだが、溝は埋まらないままChristopher Robinは寄宿学校に行って、そこでいじめにあって、戻ってきた彼は二次大戦に従軍すると言ってきかなくて、それで - -
父と子が離れていくのとそれを更に分断しそうな戦争が来るのと2段階できつくて、だって誰も、なんも悪くないし互いに愛しく思っているのに、PoohはただのPoohなのに、なんでよ? って。 たぶんいま同じような年頃の父と子を生きているひとにとってはもっとくる、のかもしれない。
でも、(A. A. Milneを知っているひとは知っていると思うけど)実際にはそんなにひどいことにはならなくて、映画はそこをうまく描いていてよいの。 とにかくPoohが永遠で絶対であることは間違いなくて、そこはだいじょうぶだから。
A. A. Milneを演じたDomhnall Gleesonは、これまでStar Warsの悪役とか、どよんとしたイメージしかなかったのだが、やはり相当うまいひとなんだなー、て思った。 微妙な辛さとか痛みを繊細に伝えることができるの。(これが悪役になったときに活きるのね)
次の熊はPaddingtonかー。 London Zooにも早く行かなきゃ。
そうそう、12月になるとV&Aで展覧会があるのよ。
https://www.vam.ac.uk/exhibitions/winnie-the-pooh-exploring-a-classic
これもなかなか悩ましい1本で、だって予告を見るとなんか暗くて悲しそうな実話で、でも大好きなWinnie-the-Poohで誰もそんな辛い思いしたくないじゃん? もちろん、そもそものPoohの顔をみれば底抜けに明るい話じゃないことはわかっているけど、わかっているから、更にかなしいやつとか、だれも見たくないよね?
でもわるくなかった。 ものすごく難しかったと思うけど、とてもよい父と子の物語になっているとおもった。
A. A. Milneは第一次大戦に英国軍の兵士として従軍して、帰ってきた1920年に息子のChristopher Robinが生まれて、でも彼はPTSDに悩まされていて、大きい音とかスポットライトとか蜂の羽音でもガタガタ崩れてしまうので、自身の作家業に専念するためにも都会から離れてサセックスのほうに越してみる。 でも妻のDaphne(Margot Robbie)は静かな田舎暮らしがつまんなくて出ていっちゃうし、まだ子供のChristopher RobinはNannyのOlive (Kelly Macdonald)にべったりの甘えん坊さんで、自分の筆も進まないのでついきつくあたっては怖がられて逃げられてが続くので、これではいけない、とふたりで森のなかの散歩の時間を持つようになる。
そうしていくなかでChristopher Robinがいつもぶらさげているぬいぐるみの熊の話しになって、彼の名前とか習性とか仲間とか、とりとめなく話していくうちにこれをお話しにできるのではないか、と友人の画家に来てもらってふたりのいろんな絵を描いてもらい、こうして"Winnie-the-Pooh"の本ができあがって、そしたら本は戸惑うくらいの大人気になり、父と子はいろんなところに引っ張りだされたりいきなり声かけられたりで疲れ始めて、また森でのんびり過ごしたいよう、になるの。
この辺から辛くなって、それを子供の成長に伴う親と子の痛み、とか広げて言ってしまうことは簡単だけど、有名になりすぎてしまったことで失われてしまった親密さ、取り返すことのできないその時間を求めて互いに傷つけあって、もうWinnie-the-Poohのお話しは書かないことにするのだが、溝は埋まらないままChristopher Robinは寄宿学校に行って、そこでいじめにあって、戻ってきた彼は二次大戦に従軍すると言ってきかなくて、それで - -
父と子が離れていくのとそれを更に分断しそうな戦争が来るのと2段階できつくて、だって誰も、なんも悪くないし互いに愛しく思っているのに、PoohはただのPoohなのに、なんでよ? って。 たぶんいま同じような年頃の父と子を生きているひとにとってはもっとくる、のかもしれない。
でも、(A. A. Milneを知っているひとは知っていると思うけど)実際にはそんなにひどいことにはならなくて、映画はそこをうまく描いていてよいの。 とにかくPoohが永遠で絶対であることは間違いなくて、そこはだいじょうぶだから。
A. A. Milneを演じたDomhnall Gleesonは、これまでStar Warsの悪役とか、どよんとしたイメージしかなかったのだが、やはり相当うまいひとなんだなー、て思った。 微妙な辛さとか痛みを繊細に伝えることができるの。(これが悪役になったときに活きるのね)
次の熊はPaddingtonかー。 London Zooにも早く行かなきゃ。
そうそう、12月になるとV&Aで展覧会があるのよ。
https://www.vam.ac.uk/exhibitions/winnie-the-pooh-exploring-a-classic
10.05.2017
[film] The Public Image is Rotten (2017)
1日の日曜日の11:00から、Licester Squareのシネコンでみました。
ここで、9月の中旬からRaindance Film Festivalていうドキュメンタリーを中心とした映画祭(?ごめん、よく知らない。25thとあったのでそれなりの歴史はあるのでしょう)が開かれていて、この日が最終日で、この1本だけ見ました。
前の晩(30日)がUKプレミアで、Q&Aには監督のTabbert Fiiller氏とJohn Lydon氏も登場したらしいのだが、Nick Caveのライブがあったのでそれは無理だったの。
晩の回は当然Sold outしていたが、この朝の回は割と空いてて、上映前に監督の簡単な挨拶だけあった。
John Lydonへのインタビュー、過去のメンバー・関係者へのインタビューを中心とした、PILの歴史まるごとを振り返るドキュメンタリーだったのだが、いやあおもしろかった。 30年くらい抱えてきたいろんな疑問が結構解けた気がした。
冒頭が初来日(83年)時の日本で行われたインタビュー(日本語の字幕がついてる)で、「いつまで生きていたいですか?」に「またその質問かよ」とか返すの。
振り返りは76年のSex Pistolsの頃からで、それを解散して78年に"Public Image: First Issue"をリリースした時、シングルの"Public Image"が当時どれだけ衝撃的だったかを熱く語るのはThurston Moore氏とAdam Horovitz氏、その熱狂は"Metal Box"(1979) にもそのまま引き継がれてふたりに加えてFleaも加わって、人生を変えた一枚、とまで言う。 そこにまったく異存はない。 "Albatross"のイントロのベース、それに続くドラムス、ギターに完膚なきまでに叩きのめされていまに至っているの。 そういう人は、絶対これを見たほうがいいよ。 この頃のライブ映像もあるし。
Firstの後にドラムスのJim Walkerが抜けて、Martin Atkinsが入り、"Metal Box"の後にJah Wobbleが抜けて、最初から抜けるメンバーは留めずに放っておく、で運営していて、それでもじゅうぶんにすごかった"The Flowers of Romance" (1981)がでて、これを見るとあのドラムサウンドは、エンジニアのNick Launayが作り出したものだった、というのがわかったりする。
この後でバンドはNYに渡って数々の狼藉をおこしたりドラッグにはまったりして、来日公演直前にKeith Leveneが抜けてしまう。
Keith Leveneが抜けた.. と聞いたときの途方もない脱力感と、その後のやたらきらきらした「ショー」になってしまった来日公演への失望感も、ここにきてようやく謎が解けた気がした。 大げさな... じゃないのよぜんぜん。
ただこの辺の錯綜、混沌、放任というのは、このバンド - ではなく会社 - Companyなのだ、と初期のインタビューでKeith Leveneは言っている - 本来のものなのだな、というのがこの後の放埓ぶりあれこれでようくわかって、映画のタイトルも改めて納得がいくの。
自分も来日公演以降はあんまし、で、”This Is What You Want... This Is What You Get" (1984)も"Album" (1986)も殆どまともに聴かないままに終わって、"World Destruction" (1984)もふうん、くらいで、でも"Happy?"の来日のときは行った。 どちらかというとJohn McGeochとBruce Smithが見たくてで、わるくなかったけど、バンドとしての活動はぼんやりしていて、すっかり太ってしまったJohn LydonがTVであんなことを、のようなネタがたまに届くばかりで、もう終わっちゃったのかなあ、とか。
あああのときにああしていれば(or していなければ)このバンドは.. という瞬間がしぬほどでてくるのだが、今のメンバーでの音も含めた落ち着きぶりを見ているととりあえずよかったのではないか、と思う。 今のメンバー編成がこれまでのPILの歴史のなかでは最長不倒だというし。
でもJah Wobbleが抜けた後、Fleaが入る話があったとか、興味深いねえ。(結局ぎりぎりでFleaはRCHPを取ったと)
エンドロールでJohn Waters先生がでてきて、Ian MacKaye氏がでてきて、Special ThanksにはEddie Vedderの名前があって、な、だからすごいって言ってるじゃんか! て勝手に胸をはったり。
R.I.P.はAri Up さんと John McGeochさんに。
唯一、まだなんか隠してるだろ? と思わせたのが、Jeannette Leeさんが一切出てこないところかな。
Vivien Goldmanさんは出てくるけど。 だからどう、というものでもないけど。
ここで、9月の中旬からRaindance Film Festivalていうドキュメンタリーを中心とした映画祭(?ごめん、よく知らない。25thとあったのでそれなりの歴史はあるのでしょう)が開かれていて、この日が最終日で、この1本だけ見ました。
前の晩(30日)がUKプレミアで、Q&Aには監督のTabbert Fiiller氏とJohn Lydon氏も登場したらしいのだが、Nick Caveのライブがあったのでそれは無理だったの。
晩の回は当然Sold outしていたが、この朝の回は割と空いてて、上映前に監督の簡単な挨拶だけあった。
John Lydonへのインタビュー、過去のメンバー・関係者へのインタビューを中心とした、PILの歴史まるごとを振り返るドキュメンタリーだったのだが、いやあおもしろかった。 30年くらい抱えてきたいろんな疑問が結構解けた気がした。
冒頭が初来日(83年)時の日本で行われたインタビュー(日本語の字幕がついてる)で、「いつまで生きていたいですか?」に「またその質問かよ」とか返すの。
振り返りは76年のSex Pistolsの頃からで、それを解散して78年に"Public Image: First Issue"をリリースした時、シングルの"Public Image"が当時どれだけ衝撃的だったかを熱く語るのはThurston Moore氏とAdam Horovitz氏、その熱狂は"Metal Box"(1979) にもそのまま引き継がれてふたりに加えてFleaも加わって、人生を変えた一枚、とまで言う。 そこにまったく異存はない。 "Albatross"のイントロのベース、それに続くドラムス、ギターに完膚なきまでに叩きのめされていまに至っているの。 そういう人は、絶対これを見たほうがいいよ。 この頃のライブ映像もあるし。
Firstの後にドラムスのJim Walkerが抜けて、Martin Atkinsが入り、"Metal Box"の後にJah Wobbleが抜けて、最初から抜けるメンバーは留めずに放っておく、で運営していて、それでもじゅうぶんにすごかった"The Flowers of Romance" (1981)がでて、これを見るとあのドラムサウンドは、エンジニアのNick Launayが作り出したものだった、というのがわかったりする。
この後でバンドはNYに渡って数々の狼藉をおこしたりドラッグにはまったりして、来日公演直前にKeith Leveneが抜けてしまう。
Keith Leveneが抜けた.. と聞いたときの途方もない脱力感と、その後のやたらきらきらした「ショー」になってしまった来日公演への失望感も、ここにきてようやく謎が解けた気がした。 大げさな... じゃないのよぜんぜん。
ただこの辺の錯綜、混沌、放任というのは、このバンド - ではなく会社 - Companyなのだ、と初期のインタビューでKeith Leveneは言っている - 本来のものなのだな、というのがこの後の放埓ぶりあれこれでようくわかって、映画のタイトルも改めて納得がいくの。
自分も来日公演以降はあんまし、で、”This Is What You Want... This Is What You Get" (1984)も"Album" (1986)も殆どまともに聴かないままに終わって、"World Destruction" (1984)もふうん、くらいで、でも"Happy?"の来日のときは行った。 どちらかというとJohn McGeochとBruce Smithが見たくてで、わるくなかったけど、バンドとしての活動はぼんやりしていて、すっかり太ってしまったJohn LydonがTVであんなことを、のようなネタがたまに届くばかりで、もう終わっちゃったのかなあ、とか。
あああのときにああしていれば(or していなければ)このバンドは.. という瞬間がしぬほどでてくるのだが、今のメンバーでの音も含めた落ち着きぶりを見ているととりあえずよかったのではないか、と思う。 今のメンバー編成がこれまでのPILの歴史のなかでは最長不倒だというし。
でもJah Wobbleが抜けた後、Fleaが入る話があったとか、興味深いねえ。(結局ぎりぎりでFleaはRCHPを取ったと)
エンドロールでJohn Waters先生がでてきて、Ian MacKaye氏がでてきて、Special ThanksにはEddie Vedderの名前があって、な、だからすごいって言ってるじゃんか! て勝手に胸をはったり。
R.I.P.はAri Up さんと John McGeochさんに。
唯一、まだなんか隠してるだろ? と思わせたのが、Jeannette Leeさんが一切出てこないところかな。
Vivien Goldmanさんは出てくるけど。 だからどう、というものでもないけど。
10.04.2017
[film] It (2017)
30日、土曜日の午後、Licester Squareのシネコンでみました。
いまのとこ最新のStephen Kingもの(あ、"Dark Tower"見ないうちに終わっちゃった..)、大ベストセラーだし(でも読んでない)、しばらくチャートの1位にいてヒットしてるし、当然見なきゃ、だったのだが、なかなか足が向かなかったの。
売れてるものにはあんま興味ない、ていういつものもあるのだが、売れているっていうことは子供も大人も幅広く見られているってことで、じゃあそんな怖くないのか? っていうのが気になって、怖いのは嫌がるのに怖くなさそうだとためらう、ただの子供か。
結論からいうと確かにそんなに怖くはなくて、とてもよいドラマだった。ぜんぜん暗くないし。
"Stand By Me"(1986) (← 見てない←殴) もこんなかんじなの?
88年の10月、大雨の日にBill (Jaeden Lieberher)は弟のGeorgieに紙のボートを作ってあげて、Georgieはそれを持ってひとり表に出ていって、道脇の溝にできた雨水の流れにボートを走らせていると、それは大きな側溝に吸い込まれてしまって、Georgieが奥を覗いてみるとピエロが現れる (ここは予告にあったよね)。
89年の夏、夏休みを前にBillはまだGeorgieが生きていることを信じて行方を探していて、いつも遊んでいる仲間3人がいて、町の歴史を調べている太っちょのBenがいて、ちょっと変わった女の子のBeverly (Sophia Lillis)がいて、屠殺場で下働きしているMikeがいて、これらLoserである7人の子供たちと、その反対側に年長で凶暴な虐めっこのグループがいて、彼らの友人や家族との間で揺れたりなびいたりしているいろんな思いと、その先々にちらちら現れてくる”It” - ピエロ - Pennywise (Bill Skarsgård)の痕跡と恐怖と、その源流・交接点に位置している廃屋(見るからに)を彼らは見つけだして、それぞれが悩んだ末にみんなで対決することを選ぶ。
表には子供たちひとりひとりのひと夏の出会いとか成長とか葛藤があり、その底には血塗られた歴史とともに形作られたDerryの町の恐怖の水脈があり、子供たちは大人の世界の暴力に晒されながら、なにかに気づいて、それを克服しようと決意する。
まずあたりまえの話しとして、子供たちをきちんと描けていないとだめなのだが、この映画の子たちはみんなよくて、特にBillとBeverlyのふたりはすごく素敵で、うまい。 Beverlyが父親に虐められた後、泣きながら髪を切っていくシーン、父親と対決するシーン、どれも鳥肌もんのすばらしさ。
(ここに出てくる子供たちのスピンオフで"The Breakfast Club"(1985) をリメイクしてもいいと思う)
ピエロはあんなもんかしら。 もっともっと怖くできたはず。 喋りすぎじゃないか(特にGeorgieとのシーン)、とか、口が裏返って広がるって月並み、とかいろいろあるけど、今後はもうちょっとがんばって震えあがらせてほしい。
恐怖を餌に成長する魔物と子供たちの対決、というとHarry Potterかもしれなくて、舞台をアメリカの空洞化してしまった田舎に置いて、魔法はなしにして、血がどばどば飛ぶようにするとこれになる、というのはあるかも。 家族の喪失が起点になっているところとかも。
音楽は80年代の終わりなのでThe CultとかAnvilとかそれなりに流れてくるが、The Cureの"Six Different Ways"があって、XTCの"Dear God"がある、これだけで、これとあとBeverlyの顔だけで、とにかくなんでも許すわ、になった。
あと、オリジナルスコアのBenjamin Wallfischさんのも、よいの。
音はでっかければでっかいほどよいのは当然。
いまのとこ最新のStephen Kingもの(あ、"Dark Tower"見ないうちに終わっちゃった..)、大ベストセラーだし(でも読んでない)、しばらくチャートの1位にいてヒットしてるし、当然見なきゃ、だったのだが、なかなか足が向かなかったの。
売れてるものにはあんま興味ない、ていういつものもあるのだが、売れているっていうことは子供も大人も幅広く見られているってことで、じゃあそんな怖くないのか? っていうのが気になって、怖いのは嫌がるのに怖くなさそうだとためらう、ただの子供か。
結論からいうと確かにそんなに怖くはなくて、とてもよいドラマだった。ぜんぜん暗くないし。
"Stand By Me"(1986) (← 見てない←殴) もこんなかんじなの?
88年の10月、大雨の日にBill (Jaeden Lieberher)は弟のGeorgieに紙のボートを作ってあげて、Georgieはそれを持ってひとり表に出ていって、道脇の溝にできた雨水の流れにボートを走らせていると、それは大きな側溝に吸い込まれてしまって、Georgieが奥を覗いてみるとピエロが現れる (ここは予告にあったよね)。
89年の夏、夏休みを前にBillはまだGeorgieが生きていることを信じて行方を探していて、いつも遊んでいる仲間3人がいて、町の歴史を調べている太っちょのBenがいて、ちょっと変わった女の子のBeverly (Sophia Lillis)がいて、屠殺場で下働きしているMikeがいて、これらLoserである7人の子供たちと、その反対側に年長で凶暴な虐めっこのグループがいて、彼らの友人や家族との間で揺れたりなびいたりしているいろんな思いと、その先々にちらちら現れてくる”It” - ピエロ - Pennywise (Bill Skarsgård)の痕跡と恐怖と、その源流・交接点に位置している廃屋(見るからに)を彼らは見つけだして、それぞれが悩んだ末にみんなで対決することを選ぶ。
表には子供たちひとりひとりのひと夏の出会いとか成長とか葛藤があり、その底には血塗られた歴史とともに形作られたDerryの町の恐怖の水脈があり、子供たちは大人の世界の暴力に晒されながら、なにかに気づいて、それを克服しようと決意する。
まずあたりまえの話しとして、子供たちをきちんと描けていないとだめなのだが、この映画の子たちはみんなよくて、特にBillとBeverlyのふたりはすごく素敵で、うまい。 Beverlyが父親に虐められた後、泣きながら髪を切っていくシーン、父親と対決するシーン、どれも鳥肌もんのすばらしさ。
(ここに出てくる子供たちのスピンオフで"The Breakfast Club"(1985) をリメイクしてもいいと思う)
ピエロはあんなもんかしら。 もっともっと怖くできたはず。 喋りすぎじゃないか(特にGeorgieとのシーン)、とか、口が裏返って広がるって月並み、とかいろいろあるけど、今後はもうちょっとがんばって震えあがらせてほしい。
恐怖を餌に成長する魔物と子供たちの対決、というとHarry Potterかもしれなくて、舞台をアメリカの空洞化してしまった田舎に置いて、魔法はなしにして、血がどばどば飛ぶようにするとこれになる、というのはあるかも。 家族の喪失が起点になっているところとかも。
音楽は80年代の終わりなのでThe CultとかAnvilとかそれなりに流れてくるが、The Cureの"Six Different Ways"があって、XTCの"Dear God"がある、これだけで、これとあとBeverlyの顔だけで、とにかくなんでも許すわ、になった。
あと、オリジナルスコアのBenjamin Wallfischさんのも、よいの。
音はでっかければでっかいほどよいのは当然。
[film] The Mist (2007)
9月21日、木曜日の晩、BFIのStephen King特集(もうぜーんぜん見れないままで終わりそう)でみました。 1980年の原作小説は未読。
監督の"preferred version"であるB&W版での上映のみ。見るのは初めてなのでカラーとの比較についてはなんも言えないけど、モノクロでぜんぜんよかった。 カラーなんて想像したくないくらいに。
映画ポスターとかの画家をしているDavid (Thomas Jane)がいて、夜中のものすごい嵐で樹が倒れたり飛んできたりで家の一部が壊れてしまったので、息子と隣人と一緒に町のスーパーに買い出しに出かける。家を出るときに重そうな霧が向こうからやってくるのが見えて、すれ違いで軍の車とかが大勢走っていくのでなんだろうと思ったが、とりあえず買い物をして、気がつけば外は霧に覆われていて、血だらけになった男が霧のなかになんかいる! 外には出るな! と駆けこんでくる。
あとはスーパーに閉じ込められた人々のドラマで、こんなのだいじょうぶだろ、と言って外に出たり覗いてみたりした奴はみんなやられて悲惨なことになって(定石)、その極限状態の上でバランス取って落ち着かせようと奮闘するDavidとかAmandaとか一部の店員と、これはやっぱし神のなんとかだ、生贄が必要じゃ、とカルトなほうに人々を扇動しようとするおばさん(Marcia Gay Harden)とかいろいろ出てきて、そんなのお構いなしに霧の向こうのなんかが襲ってくるのは時間の問題になってきて、要するに、どこかのタイミングでは外に出ていかないとどっちみちやられて死んじゃうだろうが、となる。
霧とかその向こうにいる連中がなんなのかは、軍が出たりしていることから自然現象ではないことがわかって、ただ、その物理的にでっかくてヒトに危害を加えてくるそいつらが自身の自然のもとで動いていて意思の疎通ができる連中ではないこともわかっていて、つまり理不尽な状態で突然ジャングルに裸で放り出されたようなものだと思うのだが、でもヒトは可能な限り理知的にいちばん悲惨なことを回避するにはどうすべきかを考えて、それを実行する(やられてしまうまえに)。
原作とは違うらしい映画の結末については、悲惨、とか救いがない、とどんより言ってしまうのは簡単なのだが、ここでの「救い」って誰にとっての、どういうものなのだろうかとか、あと少し待ってれば、とかそういう言いようも誰のどんな目線とか視点が言っていることなのか、とか、いろいろ考えさせられるので、そこはよかったのではないか。 そこに「教訓」という言葉をあてるのは少し違っていて、例えば大きい動物が小さい動物を食べたり、宇宙から来たなんかが地球人を食べたり、未知の病原菌が人類を絶滅させたり、そういうのに近いなにかとして見たほうがよくて、その横に我々のよく知るエモーショナルななんかを持ちこんでみたら、全体像はどんなふうに見える/見えてくるのか、そういう試みなのだとおもった。
で、もうすでにそういう取り返しのつかないでっかい流れは既にできていて、Marcia Gay Hardenは既にそこらじゅうにうじゃうじゃいて、あまり目に見えないから気づいていない、それだけなんだと思うよ。 と、白黒の世界を前に更に絶望してみるのもよいのではないかしら、ておもった。
関係ないけど、今日のBBC TwoのJools Holland、Morrisseyやって、Joshua Homme & Dean Fertitaやって、The Nationalやった。
さいこーだった。
監督の"preferred version"であるB&W版での上映のみ。見るのは初めてなのでカラーとの比較についてはなんも言えないけど、モノクロでぜんぜんよかった。 カラーなんて想像したくないくらいに。
映画ポスターとかの画家をしているDavid (Thomas Jane)がいて、夜中のものすごい嵐で樹が倒れたり飛んできたりで家の一部が壊れてしまったので、息子と隣人と一緒に町のスーパーに買い出しに出かける。家を出るときに重そうな霧が向こうからやってくるのが見えて、すれ違いで軍の車とかが大勢走っていくのでなんだろうと思ったが、とりあえず買い物をして、気がつけば外は霧に覆われていて、血だらけになった男が霧のなかになんかいる! 外には出るな! と駆けこんでくる。
あとはスーパーに閉じ込められた人々のドラマで、こんなのだいじょうぶだろ、と言って外に出たり覗いてみたりした奴はみんなやられて悲惨なことになって(定石)、その極限状態の上でバランス取って落ち着かせようと奮闘するDavidとかAmandaとか一部の店員と、これはやっぱし神のなんとかだ、生贄が必要じゃ、とカルトなほうに人々を扇動しようとするおばさん(Marcia Gay Harden)とかいろいろ出てきて、そんなのお構いなしに霧の向こうのなんかが襲ってくるのは時間の問題になってきて、要するに、どこかのタイミングでは外に出ていかないとどっちみちやられて死んじゃうだろうが、となる。
霧とかその向こうにいる連中がなんなのかは、軍が出たりしていることから自然現象ではないことがわかって、ただ、その物理的にでっかくてヒトに危害を加えてくるそいつらが自身の自然のもとで動いていて意思の疎通ができる連中ではないこともわかっていて、つまり理不尽な状態で突然ジャングルに裸で放り出されたようなものだと思うのだが、でもヒトは可能な限り理知的にいちばん悲惨なことを回避するにはどうすべきかを考えて、それを実行する(やられてしまうまえに)。
原作とは違うらしい映画の結末については、悲惨、とか救いがない、とどんより言ってしまうのは簡単なのだが、ここでの「救い」って誰にとっての、どういうものなのだろうかとか、あと少し待ってれば、とかそういう言いようも誰のどんな目線とか視点が言っていることなのか、とか、いろいろ考えさせられるので、そこはよかったのではないか。 そこに「教訓」という言葉をあてるのは少し違っていて、例えば大きい動物が小さい動物を食べたり、宇宙から来たなんかが地球人を食べたり、未知の病原菌が人類を絶滅させたり、そういうのに近いなにかとして見たほうがよくて、その横に我々のよく知るエモーショナルななんかを持ちこんでみたら、全体像はどんなふうに見える/見えてくるのか、そういう試みなのだとおもった。
で、もうすでにそういう取り返しのつかないでっかい流れは既にできていて、Marcia Gay Hardenは既にそこらじゅうにうじゃうじゃいて、あまり目に見えないから気づいていない、それだけなんだと思うよ。 と、白黒の世界を前に更に絶望してみるのもよいのではないかしら、ておもった。
関係ないけど、今日のBBC TwoのJools Holland、Morrisseyやって、Joshua Homme & Dean Fertitaやって、The Nationalやった。
さいこーだった。
10.03.2017
[theatre] After the Rehearsal / Persona
9月の最後の週はばたばたで身動きがとれなくて疲れきってしにそうで、29日、金曜日の夕方にようやく解放されたのでBarbicanで見てきました。
ぐったりの脳に2時間50分のお芝居がなんかの癒しになるとも思えなかったけど、少なくとも、ちっとも眠くはならなかった。
チケットは£40。安いよね。
Barbicanでの公演は4日間のみ、演出はIvo van Hove、劇じるのはToneelgroep Amsterdam。
Ingmar Bergmanの2本の映画 - "After the Rehearsal" (1984) と"Persona" (1966)を休憩を挟んでの2本立て。 前者の俳優は3人、後者は4人で、メインの3人はどっちにも登場する。 映画は大昔に"Persona"は見たけど、"After the Reheasal"は見ていない。
Ivo van Hoveがこの2本をくっつけて上演する - そこに何かないわけがないわ。
After the Rehearsal
常に完璧を目指す鬼演出家のHendrik Vogler (Gijs Scholten van Aschat)が壁に囲まれたリハーサルルームにいて、次回の上演作 - ストリンドベリの"A Dream Play"に向けて準備を重ねているのだが、リハーサルの後で主演のAnna (Gaite Jansen)が忘れ物を取りに戻ってきて、そこであれこれ言い争いが始まって、若くて美しい撥ねっかえりのAnnaとなんでも自分のコントロール下に置かないと気がすまない完璧屋さんのHendrikの緊張が高まったところで、彼のかつてのMuseで恋人で、でも今は疲れてぼろぼろになってしまったRachel (Marieke Heebink) - Annaの母が現れて今のあたしはこんなだけど、て話を始めて、更に火種を拡げていく。
舞台の本番のその時間、そこに向けたリハーサル、その後の時間、これらの時間はひとつで複数で、でも繋がっていて、それらを生きる人も同じ時の経過のなかを生きていて、そこには演劇の終わりに約束されるような統合とかフィナーレとか、そんなのない。
我々は延々と「リハーサルの後」 を生きていかざるを得ない。 その面倒くささ、複雑さと、それでも女性はなんて魅力的なんだろうねえ、と(←男性の視点。 舞台演出家ってなんであんなに男性が多いのかしらん)。
最後にDavid Bowieの"Lady Grinning Soul"が流れる。いいねえ。
Persona
舞台の上で突然声が出なくなり体も硬直して動けなくなって入院しているElisabeth Vogler (Marieke Heebink)に医者は看護婦のAlma (Gaite Jansen)を専任のケア要員にアサインして、ふたりは少し病室で過ごしてから、今度は医者が海辺にもつ別荘で療養することになる - 病室の四方の壁が倒れて海辺の光景が広がる(ここ、気持ちよい)。 ラジオの音楽を聴いたり、突然の嵐をもろにかぶったり、ふたりだけで親密な時間を過ごして、Almaは恋愛のこととか過去の過ちとかとりとめなく一方的に喋りまくって、Elisabethはだんだんそれに反応するようになる。 Almaの記憶が共有されていってあたかもふたりの共有された記憶のようになっていく。 ところで、わたしはなぜあなたではないのか? それを隔てているものはいったいなんなのか?
そして最後にどこかから物理的な、ナマの男 (Gijs Scholten van Aschat)が現れたとき、ふたり(の間)にはなにが起こるのか?
ベルイマンの心理劇がそうであるように、どちらの劇も数十通りの切り口での解釈が可能だし、Ivo van Hoveがこのふたつを組み合せたことについても、そこは同様なのだが、人を縛って身動きできないようにしてしまうもの(例. 演劇)と、同様に頭の奥に潜伏していて突然に人を苦しめたり追い詰めたりする記憶(ここでは過去の堕胎とか)というものの相克、というのはあって、更にいうと、演劇、というのはそんなリアルライフに対する拘束であると同時に仮面による解放としても機能しうる、で、それらがどんなふうに効いたり効かなかったりするのかは、そのひとのジェンダーとか職業とか立場とかその組み合わせによっていろいろで複雑で。
でもそしたらなんでもいいことになっちゃうじゃん! というあたりを、Ivo van Hoveの劇はいつもスマートにかっこよく回避したり整理したりして見せてくれるので、とっても気持ちよいの。 で、あまりに気持ちよすぎるので、そんなのぜんぶうそ、どろどろのげろげろだろ、ていうのもわかるから —
ぐったりの脳に2時間50分のお芝居がなんかの癒しになるとも思えなかったけど、少なくとも、ちっとも眠くはならなかった。
チケットは£40。安いよね。
Barbicanでの公演は4日間のみ、演出はIvo van Hove、劇じるのはToneelgroep Amsterdam。
Ingmar Bergmanの2本の映画 - "After the Rehearsal" (1984) と"Persona" (1966)を休憩を挟んでの2本立て。 前者の俳優は3人、後者は4人で、メインの3人はどっちにも登場する。 映画は大昔に"Persona"は見たけど、"After the Reheasal"は見ていない。
Ivo van Hoveがこの2本をくっつけて上演する - そこに何かないわけがないわ。
After the Rehearsal
常に完璧を目指す鬼演出家のHendrik Vogler (Gijs Scholten van Aschat)が壁に囲まれたリハーサルルームにいて、次回の上演作 - ストリンドベリの"A Dream Play"に向けて準備を重ねているのだが、リハーサルの後で主演のAnna (Gaite Jansen)が忘れ物を取りに戻ってきて、そこであれこれ言い争いが始まって、若くて美しい撥ねっかえりのAnnaとなんでも自分のコントロール下に置かないと気がすまない完璧屋さんのHendrikの緊張が高まったところで、彼のかつてのMuseで恋人で、でも今は疲れてぼろぼろになってしまったRachel (Marieke Heebink) - Annaの母が現れて今のあたしはこんなだけど、て話を始めて、更に火種を拡げていく。
舞台の本番のその時間、そこに向けたリハーサル、その後の時間、これらの時間はひとつで複数で、でも繋がっていて、それらを生きる人も同じ時の経過のなかを生きていて、そこには演劇の終わりに約束されるような統合とかフィナーレとか、そんなのない。
我々は延々と「リハーサルの後」 を生きていかざるを得ない。 その面倒くささ、複雑さと、それでも女性はなんて魅力的なんだろうねえ、と(←男性の視点。 舞台演出家ってなんであんなに男性が多いのかしらん)。
最後にDavid Bowieの"Lady Grinning Soul"が流れる。いいねえ。
Persona
舞台の上で突然声が出なくなり体も硬直して動けなくなって入院しているElisabeth Vogler (Marieke Heebink)に医者は看護婦のAlma (Gaite Jansen)を専任のケア要員にアサインして、ふたりは少し病室で過ごしてから、今度は医者が海辺にもつ別荘で療養することになる - 病室の四方の壁が倒れて海辺の光景が広がる(ここ、気持ちよい)。 ラジオの音楽を聴いたり、突然の嵐をもろにかぶったり、ふたりだけで親密な時間を過ごして、Almaは恋愛のこととか過去の過ちとかとりとめなく一方的に喋りまくって、Elisabethはだんだんそれに反応するようになる。 Almaの記憶が共有されていってあたかもふたりの共有された記憶のようになっていく。 ところで、わたしはなぜあなたではないのか? それを隔てているものはいったいなんなのか?
そして最後にどこかから物理的な、ナマの男 (Gijs Scholten van Aschat)が現れたとき、ふたり(の間)にはなにが起こるのか?
ベルイマンの心理劇がそうであるように、どちらの劇も数十通りの切り口での解釈が可能だし、Ivo van Hoveがこのふたつを組み合せたことについても、そこは同様なのだが、人を縛って身動きできないようにしてしまうもの(例. 演劇)と、同様に頭の奥に潜伏していて突然に人を苦しめたり追い詰めたりする記憶(ここでは過去の堕胎とか)というものの相克、というのはあって、更にいうと、演劇、というのはそんなリアルライフに対する拘束であると同時に仮面による解放としても機能しうる、で、それらがどんなふうに効いたり効かなかったりするのかは、そのひとのジェンダーとか職業とか立場とかその組み合わせによっていろいろで複雑で。
でもそしたらなんでもいいことになっちゃうじゃん! というあたりを、Ivo van Hoveの劇はいつもスマートにかっこよく回避したり整理したりして見せてくれるので、とっても気持ちよいの。 で、あまりに気持ちよすぎるので、そんなのぜんぶうそ、どろどろのげろげろだろ、ていうのもわかるから —
10.02.2017
[music] Nick Cave & The Bad Seeds
9月30日の晩、O2アリーナで見ました。
こっちに来て初めてのアリーナのライブ。 チケットは確か3月頃、発売開始の日に取ったのだが、2時間くらい遅れて入ったらもう立ち見のフロアなんて跡形も残っていなくて、それもだいぶ昔のことだったからライブがあるのを忘れてしまうところだった。
O2の最寄の地下鉄の駅のサービス案内のボードには手書きでNick Cave & The Bad Seedsのファンの皆さんへ、って彼らの曲名がうまく散りばめられたメッセージがあって、とっても愛を感じた。 あれをライブのたびにやっていたら大変だろうに。
アリーナの入口にはセキュリティチェックの長い列ができてて、くぐるまでに軽く20分以上かかった。 Vegasもあんなことになってしまって、これから大規模なライブはどんどんチェックが厳しくなって、列は長く伸びていくのだろうなー。 やれやれ。
サポートアクトはなしで20:15開始とあって、バンドが出てきたのは20:30を軽くまわったあたりだった。
ステージの真ん中にスタンディングの最前列のところに渡れる板が渡してあって、その左右にも客と触れあえる餌場みたいのがあるのだが、左右のほうには渡し板がないので、都度ジャンプしてお濠を超えていて、あぶねえよなおい、と本人も言っていた。
こうして2曲目の"Jesus Alone"からしばしば彼はそのお濠を渡って、手を差し伸べてくるひとりひとりに手を差し伸べて秘跡や抱擁を「悪い種」を蒔いて散らしまくっていくのだったが、これがばかでかいアリーナであることを思うと、なんかすごいよな、て改めて思った。
だってものすごくポピュラーなメガヒットがあるわけではなくて(あるのだったらごめん)、一緒に歌えるようなやつは殆どないし、音は甘味の一切ない、がりがりごりごりのブルーズ、ゴスペルみたいな壁とか岩石みたいに無愛想なやつばっかで、いじわるく言うとやばい目つきのいんちき宣教師とか説教師がおらおらってたぶらかしているように見えないこともなくて、でもこの音で、あの声で、一緒に地獄に堕ちよう、とかいわれるのだったらいいの。 MorrisseyとNick Caveには、そういうことされてもいいんだ。
4曲目くらいの"Higgs Boson Blues" 〜 "From Her to Eternity" 〜 "Tupelo" 〜 "Jubilee Street"が最初のピークで、吹いてくる地獄の業火に焼かれてやられて、もうどうでもいい好きにして、になる。
アリーナの音はすごくよくて、重く、濃く、煮えたぎった音の波が上に下にざーざー押し寄せて脳の奥を引っ掻いてくれるかんじ。 ものすごいどしゃぶりとか暴風雨を浴びて気持ちいい、て思うひとがいるなら、こんなに気持ちよく迫ってくる音はないかも。
でもやっぱり"Into My Arms"はみんな歌うんだねえ。
もういっこのピークは終わり間際の"Red Right Hand" 〜 "The Mercy Seat" 〜 "Distant Sky" 〜 "Skeleton Tree"で、善の神様がもういいかげんにしなさい、って怒髪天になって、地面が割れて地の底が抜けるすさまじい音が鳴って、あらゆる鬼だの魑魅魍魎だのがそこらじゅうに湧きだして、阿鼻叫喚としかいいようがない。 よくもあんなやかましい音を出せるものだねえ、って思った。 特別なノイズマシーンとか使っているわけではなくて、ぜんぶ手動で、それぞれが手元のを叩いたり引っ掻いたりしているだけなのに。
そこまでやって地表を業火で焼き尽くして、それでも最後のひと掬い手元に残るものがあって、それがNick Caveが伝えようとしているなにかなのだ、て思う。
アンコールでは板を渡ってさらに先の客席に降りていってずうっと一緒に歌って抱擁してを繰り返し、更にステージにみんなをあげて挟まれるかたちで一緒に歌い、ラストの"Push the Sky Away"ですべてを遠くに追いやって空の向こうをほんの少しだけ明るくして終わった。 (Bobby Gillespieがいたらしいが、ふーんいたの、て程度)
とにかく、ようやくライブに触れることができてよかった。
R.I.P. Tom Petty.. 7月にライブを見たばかりなのに。
90歳くらいになっても”American Girl”をかしゃかしゃやってくれる絵を思い描いていたのに。
ありがとうございました。おやすみなさい。
こっちに来て初めてのアリーナのライブ。 チケットは確か3月頃、発売開始の日に取ったのだが、2時間くらい遅れて入ったらもう立ち見のフロアなんて跡形も残っていなくて、それもだいぶ昔のことだったからライブがあるのを忘れてしまうところだった。
O2の最寄の地下鉄の駅のサービス案内のボードには手書きでNick Cave & The Bad Seedsのファンの皆さんへ、って彼らの曲名がうまく散りばめられたメッセージがあって、とっても愛を感じた。 あれをライブのたびにやっていたら大変だろうに。
アリーナの入口にはセキュリティチェックの長い列ができてて、くぐるまでに軽く20分以上かかった。 Vegasもあんなことになってしまって、これから大規模なライブはどんどんチェックが厳しくなって、列は長く伸びていくのだろうなー。 やれやれ。
サポートアクトはなしで20:15開始とあって、バンドが出てきたのは20:30を軽くまわったあたりだった。
ステージの真ん中にスタンディングの最前列のところに渡れる板が渡してあって、その左右にも客と触れあえる餌場みたいのがあるのだが、左右のほうには渡し板がないので、都度ジャンプしてお濠を超えていて、あぶねえよなおい、と本人も言っていた。
こうして2曲目の"Jesus Alone"からしばしば彼はそのお濠を渡って、手を差し伸べてくるひとりひとりに手を差し伸べて秘跡や抱擁を「悪い種」を蒔いて散らしまくっていくのだったが、これがばかでかいアリーナであることを思うと、なんかすごいよな、て改めて思った。
だってものすごくポピュラーなメガヒットがあるわけではなくて(あるのだったらごめん)、一緒に歌えるようなやつは殆どないし、音は甘味の一切ない、がりがりごりごりのブルーズ、ゴスペルみたいな壁とか岩石みたいに無愛想なやつばっかで、いじわるく言うとやばい目つきのいんちき宣教師とか説教師がおらおらってたぶらかしているように見えないこともなくて、でもこの音で、あの声で、一緒に地獄に堕ちよう、とかいわれるのだったらいいの。 MorrisseyとNick Caveには、そういうことされてもいいんだ。
4曲目くらいの"Higgs Boson Blues" 〜 "From Her to Eternity" 〜 "Tupelo" 〜 "Jubilee Street"が最初のピークで、吹いてくる地獄の業火に焼かれてやられて、もうどうでもいい好きにして、になる。
アリーナの音はすごくよくて、重く、濃く、煮えたぎった音の波が上に下にざーざー押し寄せて脳の奥を引っ掻いてくれるかんじ。 ものすごいどしゃぶりとか暴風雨を浴びて気持ちいい、て思うひとがいるなら、こんなに気持ちよく迫ってくる音はないかも。
でもやっぱり"Into My Arms"はみんな歌うんだねえ。
もういっこのピークは終わり間際の"Red Right Hand" 〜 "The Mercy Seat" 〜 "Distant Sky" 〜 "Skeleton Tree"で、善の神様がもういいかげんにしなさい、って怒髪天になって、地面が割れて地の底が抜けるすさまじい音が鳴って、あらゆる鬼だの魑魅魍魎だのがそこらじゅうに湧きだして、阿鼻叫喚としかいいようがない。 よくもあんなやかましい音を出せるものだねえ、って思った。 特別なノイズマシーンとか使っているわけではなくて、ぜんぶ手動で、それぞれが手元のを叩いたり引っ掻いたりしているだけなのに。
そこまでやって地表を業火で焼き尽くして、それでも最後のひと掬い手元に残るものがあって、それがNick Caveが伝えようとしているなにかなのだ、て思う。
アンコールでは板を渡ってさらに先の客席に降りていってずうっと一緒に歌って抱擁してを繰り返し、更にステージにみんなをあげて挟まれるかたちで一緒に歌い、ラストの"Push the Sky Away"ですべてを遠くに追いやって空の向こうをほんの少しだけ明るくして終わった。 (Bobby Gillespieがいたらしいが、ふーんいたの、て程度)
とにかく、ようやくライブに触れることができてよかった。
R.I.P. Tom Petty.. 7月にライブを見たばかりなのに。
90歳くらいになっても”American Girl”をかしゃかしゃやってくれる絵を思い描いていたのに。
ありがとうございました。おやすみなさい。
登録:
投稿 (Atom)