19日の晩、9時半くらい、シアトルのホテルの裏のシネコン - いつも通っているところ - でみました。
今回の旅でなんとしても見たかったのは2本あって、でも2本ともシアトルではまだ上映していないのだった。がーん。
で、他に見たいのはあんまないし、これはどっちみち2~3回は見ることになりそうだし、と。
上映開始より少し遅れて入ったら中には誰もいなくて、独り占めで喜んでいたら、少し遅れて子供を連れた家族連れが入ってきて、ここのガキがわーわーぎゃーぎゃー泣いて喚いてやかましくて、これはこれでPeanutsなかんじかもしれない、とか思った。
本編の前座で短編が流れて、主人公は”Ice Age”のどんぐり命のリスみたいなあいつで、たぶん誰もがそうだと思うのだが、あいつ、とても他人事とは思えなくて涙なしには見れないの。 どこまで行ったら、いつになったら幸せのどんぐりを掴むことができるのかしら、って。
さて、スヌーピーとチャーリー・ブラウンをなんでアニメーションに、しかも3Dなんかにする必要があるねん? ていうのは誰もが思って危惧したり嘆いたりしたことだと思うが、でも結果としては、ぜんぜんわるくないのだった。
こないだの”Paddington”もそうだったけど、こういうのを映画にしたいと思うひとは、やっぱしキャラクターとかそこに描かれた世界に愛とか想いをそれなりに抱いて生きてきたひとに違いなくて、だから自分も含めてそんなことをしたら世界がどう思うかについても真面目に真剣に考えていて、だから基本あんまひどいものにはならないのではないか。 この映画について、そういう溢れる愛はなんとなく感じていて、しかも、さらに、ProducerにPaul Feigがいる、と聞いた時点でああだいじょうぶかも、と思ったの。
でも例えば、ドラえもんの映画には、そういうのはかんじない。 あそこには小学館とTV朝日の営業の匂いしかない。
ある冬のはじめから夏休みのはじめまでの、チャーリー・ブラウンと仲間たちのおはなし。
チャーリー・ブラウンのおうちの反対側に赤毛の女の子が越してきて、学校も同じクラスになって、チャーリー・ブラウンは彼女の気をひこうと、ダンスを練習したり、「戦争と平和」の読書感想文を書いたりしてがんばるの。 でも当然のようにうまくいくわきゃなくて、じたばたする。
タイムトラベルも宇宙旅行もジャングルも大都会もないけど、チャーリー・ブラウンとスヌーピーが住んでいる世界は、とにかく落ちつきなくじたばたする、それもひとりじゃなくて、みんなを巻き込んで、みんなは巻き込まれてじたばたする、ていうのが基本で、みんなが - ウッドストックも含めて束になって「わぁぁーーあああー」てなってじたばたあたふた右往左往して、そこにシュローダーの軽快なピアノ - “Linus And Lucy”とか - が被さってくればそれで十分でご機嫌で幸せで、それができているんだからなーんの文句があろうか。 表情のアップになると微妙な線とかは3Dじゃなくて、2Dの線画になるし、じゃあなんで3Dなのかというと、たぶん飛行機の空中戦とかあるから... 程度かなあ。
とにかく、Charles M. Schulzが長い長い時間をかけて作りあげた紙の上の素敵な世界を、なんとかぴょんぴょん動く世界、弾む音楽の世界に持ってこようとして、うまくいっている。 とっても楽しくて大好きなバンド - 楽隊のおはなしなの。音を鳴らしてセッションをしているのを見ているだけで幸せがやってくる。
だから(さっき日本語版の予告みたけど)吹き替えはぜんぜん違って、彼らのしゃべる英語のリズムがこの音楽/映画には必要なんだよ。
ラストのショットはなんだかじーんとして、ずっと焼き付いている。
でもそれはずっと何十年も焼き付いたまんまのファミリーアルバムのなんだよね。
11.20.2015
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