30日の金曜日の晩、Film Forumで見ました。 Film Forumで見ました。 Film Forumで.. (わーんうれしー)
ロビーに入った途端、あのポップコーンの匂いに囲まれて泣きたくなる。映画を見る場所としては世界で5本指に入るくらい真剣に好きで、映画を見ながら死んでいい、て言われたらここのキャロットケーキとポップコーンを食べながら死にたい。
それにしてもここのポップコーンの香りはなんであんなに素敵なのか謎。 ここのと比べたら日本のシネコンのはケミカルの匂いしかしない。
さて、Laurie Andersonさんの映画、というよりフィルムコラージュのようなパラパラアニメのようなサウンドコラージュのような映像詩というかなんというか。
彼女独特の柔らかな親密な語りと共にいろんな映像、いろんな音楽、いろんなテキストの引用、それらの断片が繋げられていく。
最初に2001年の911の、突然沢山の人々が街から消えてしまった日のPenn Station(おそらく)の映像、長年連れ添って亡くなったラットテリアのLolabelleの話になって、晩年目が見えなくなったけど演奏する犬として活躍した姿を愛おしそうに語っていくあたりで、これは死についての、向こう側に行ってしまった親しい人とか犬とかへの/或は自分自身への問いかけなのだな、とわかる。 他にはGordon Matta-Clark(家の半切りアート)の死とか、自分の幼年期にプールの飛び込み台から落ちて死にそうになったときの回想とか。 生と死との境界を巡るいろんな考察とか思いとか。
いなくなってしまった人たちを嘆き悲むようなトーンではなく、淡々と彼らはどこに行ってしまったんだろうね? ていうトーンで、例えばチベットの死者の書ではBardo(中陰)ていう中間地帯に49日留まるって言ってる、とか、Goyaの"The Dog" - だいすき - に描かれた犬は何を見つめているんだろう、とか、誰それはあんなことを、とか、誰の場合はこんなふう、とか、とりとめもなく、なにかの隙間や沈黙を埋めるかのようにどこかに向かって掘り進んでいくような。
どんなに叫んでも喚いても死の世界、向こう側のことはわからない、知りえない、それが故に、だったら、ひょっとしたら、いやいやでも、みたいに彷徨いを止めない思考。 彼らも向こう側ではそんなふうにしているかもしれない、とか。
引用されるDavid Foster Wallaceの“Every Love Story is a Ghost Story”。
“Every Ghost Story is a Love Story” .. ではなく “Every Love Story is a Ghost Story” という転倒。
とりとめのない独り語りのようでいて、彼女はかつてマルチメディア・アーティストと呼ばれた自身の技術(アート)を駆使して向こう側のひとにコンタクトを、或いは、向こう側のひとを通してぽつんとある自分自身にコンタクトを試みようとしている、かに見える。 そこに甘さや感傷は一切なくて、まずはアートとしてこちらの胸をうつ。
なんで胸をうつのかというと、彼女は最後まで繰り返し繰り返しひとつのことしか言っていないから。
もういっかい会いたいよう、どうしたら会えるんだろうか、と。 アートってそういうもの。
そして、やはり最後に、Lou Reedの“Turning Time Around”が流れるなか、Lolabelleと幸せそうに微笑んで横になっている彼の写真が大写しになる。 この映画は彼に捧げられていて、彼へのラブレターで、すべてわかっていたとはいえ言葉を失う。
いっぱいだった客席からは当然のように拍手が、控えめだけどごくごく自然に。
11.06.2015
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