11.29.2015

[film] Francesco, giullare di Dio (1950)

10月25日、日曜日、シネマヴェーラの特集『映画は旅である ロード・ムーヴィーの世界』ていうので見ました。
『神の道化師、フランチェスコ』。 英語題は”The Flowers of St. Francis”。

おおむかし、千石に三百人劇場(ていうのがあったのよ)で見てから、これは世界で一番好きな宗教映画で、キリスト教映画で、神様映画で、何回見ても飽きがこなくて、NYに赴任したときも海賊版みたいなVHSを買ったし、紀伊国屋からDVDが出たときもすぐに買ったし。

フランチェスコとその弟子の修行僧たちが固まって大雨のなかを旅しているところから始まって、粗末な掘っ建て小屋を修行寺みたいにして、布教とか修行のなかで起こるいろんなことをエピソード形式でおもしろおかしく、でも大真面目に神の子たちの姿を追っている。

なにが面白いのかというと、フランチェスコは勿論、その弟子たちもほんとうに、心の底から神様に全てを捧げていてどんなひどいことが起こっても神が与えた試練とか自分がまだ未熟だからだとか言ってて、それはそうなんだろうけどさ、と思うものの、その盲目の、無償の愛の度合いが強烈にすごくて、ばかみたいー、というよりも、なんでそこまで… (神様の愛を信じることができるの?) というところに胸をうたれてしまう。 身も心も捧げる、ていうのはこういうことなんだな、と。 

フランチェスコに拾われたジョバンニていう浮浪者みたいなおじいさんが生ネギをそのままばりばり齧っていたり、煮ているスープに蒔を突っこんだり、訪問してきたキアラ尼にでれでれになったり、 若い小僧のジネプロが暴君ニコライオの餌食になりそうになるのにニコライオは彼のつぶらな瞳にやられちゃったり、みんなあまりに直線でまじめで結果変なかんじにはみ出していて、神様はそんなようなところに現れるんだろうなー、とかはらはら感動していると、みんなそれぞれ地の果てに旅立って行ってしまう。 

もちろん映画に描かれたようなほのぼのしたエピソードばかりではなかったろうけど、でも彼らは神の道化師として超然と我々を笑かして、すうっと画面の向こうに消えていく。 消えていったのだろうなー。

リスペクト、とかありがたやありがたや、とか、心を洗われたり洗いたくなったり、というのとは別の次元で人が信仰に向かうその根源みたいのが生々しく、わかりやすく描かれていて、画面の向こうに消えた彼らの痕跡がいつまでも残る。 ひとがいろんな絵とかアートとかに向かう理由のひとつがここにあるのだと思う。

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