11日のごご、「アジェンデ」の後に数ブロック歩いたとこで見ました。
瑞希(深津絵里)が疲れて帰ってきて白玉を作って置いておいたら3年間失踪していた夫の優介(浅野忠信)が突然現れて、自分は死んだのだ、ていう。瑞希は特にびっくりしたり嘆き悲しんだりすることもなく、靴脱いでよ、とか言って、翌朝、いなくなっちゃったかな夢だったのかしら、と思っていると彼はふたたび現れて旅にでよう、と彼女を誘う。
で、幽霊(たぶん)と生人(たぶん)が一緒に旅をして、失踪していた夫が生前世話になったところを訪ねて泊めてもらったりする。 夫が再会するひとのなかには同じく幽霊になっているひともいて(その違いは瑞希にはわからない)、こう書いていくとふたりで死 - 消滅に向かう旅路のように思えてしまうのだが、そういう重さからは遠くて、瞬く蛍の光点があちらこちらを楽しげに/哀しげに漂っているようなかんじ、その距離の取り方はひとによって異なる。そういう自由さもある。
ここでいう岸辺、の岸はおそらく彼岸と此岸で、その境界は常に揺れてこちらに来たりむこうに返したりしていて、こちらの人、むこうの人、それぞれ見えているものは異なる。でもそこに流れている時間はひとつで一緒で、それが旅というもので、そんなふうに端から考えていくと、これは幽霊譚でなくても十分に成立するわれわれの日々移ろっていく旅の話し - 当然生死も織りこまれた - であるのかも知れないね、とか。
でも、この幽霊はただそこに一緒にいるだけではなくて、宇宙についてみんなに講義してくれたりするの。 まるであちら側で見てきて知っているかのような説得力で。
なんかね、あのぐだぐだとっちらかったTerrence Malickの”The Tree of Life” (2011) を日本的にわかりやすく整理するとこんなふうになるのかもしれない、とか。 ”The Tree of Life”、決して嫌いではないのだけど。
最初に優介が出てくるとき、カメラがちょっと左に行ってそこにある闇を凝視するかんじになるところがとても好き。学校の講堂で灯りが奥からだんだんについていくところも。 瞳孔にそのままくるような光と闇のかんじ - それが幽霊に触れるということなのだろうね。
見るひとによって、ほんとうにいろんな印象 - 印象というよりもう少し強い痕跡 - 霊的体験みたいなのをもたらす作品で、まだずっと一緒に旅を続けていくようなかんじが残っている。
11.14.2015
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